石榴と孔雀 2


Timeline: Before EP1, after moving to Second Miltia City



 ミルチア紛争から約二年の歳月が過ぎ、惑星から逃げのびた人々がようやく落ち着きを取り戻しはじめた新たな首都、第二ミルチア。その日、ルベドとニグレドは第二ミルチアの中心部に位置する市庁舎内のヘルマーの私室に招かれていた。ミルチア自治州代表として日々多忙なヘルマーとの久しい対面に、ルベドは珍しく屈託のない笑顔を見せ、ニグレドもヘルマーとの再会以上に兄のその笑顔に安堵した。施設での療養中は主にケイオスとカナンが二人の面倒を看ることとなり、何かと世話を焼いてくれたものだが、やはりユーリエフ・インスティテュート時代から面識があり、施設内の事情もいくらか承知しているヘルマーには、無意識に閉塞する二人の心身も自然と弛緩した。特に、ネピリムの歌声で重傷を負ったニグレドの身体的外傷は時間とともに癒えたものの、対するルベドの精神的な衰弱が目にあまるほどであったので、ヘルマーが仕事の合間を縫ってサナトリウムに訪問する日など、ケイオスとカナンをせっついてはささやかなパーティーを催しもした。
 年季の入ったデスクの背後にあるガラス張りの壁からは、高層ビルが群立する瀟洒な市街を一望できる。市庁舎の周囲は白亜の建物で統一されているが、森や山岳などこの惑星は緑も豊富で、はるか遠方にはコバルトの海も見えた。ヘルマーの私室へ招かれるたび、ルベドはその水平線を見つめている。
 その日も窓にへばりついていたルベドであったが、ヘルマーからの提言に、窓外の景色を半分映したまま瞳をまたたかせた。
「クーカイ・ファウンデーション?」
「ああ、どうかね。中々良い名だろう」
 来客用のソファに腰かけたヘルマーが頷く。軍人であった頃の名残か、鯨のように鷹揚な振る舞いの中でも眼光だけは猛禽類のように鋭い彼が、珍しく含羞の笑みを浮かべていた。室内を物色する好奇心旺盛な兄とは違い、大人しくヘルマーと対座しているニグレドは、そんなヘルマーの様子に小さな笑いを噛み殺した。何と彼らしいネーミングだろう、と。
「相変わらず渋いね。クーカイって、ええと、ジャパン宗教の開祖の名だろ? おっさん、そういう本とか好きだもんな。いいんじゃねえの、俺は好き」
 好き、と言いながらルベドはニグレドに向かい、おまえはどうだ、と目配せをする。自分の意見の大半は代弁してもらったので、ニグレドは「僕も、それでいいと思います」とだけ答えた。
「だけどさ、〝虚しく往きて実ちて帰る〟だっけ? 人生の苦悩が見事に解明されるほどの出会いなら理解できるけど、実になったものはいつか腐るよな」
 窓辺から離れてニグレドの隣に腰をおろしたルベドは、ソファの上で行儀悪く脚をぶらつかせた。二本の揺れる足を見つめながら、ニグレドはふと気づく。
「ルベド、またヘルマー代表の書斎に無断で入ったね」
 あの父親は、空海について記された書物など所蔵していなかった。虫の餌にもならない分厚い専門書を除けば、古典の詩や戯曲、意外にも童話、ありとあらゆる作家の小説ばかりを収集していた。それらを読み耽ったルベドの読書遍歴には節操がなく、ヘルマーの書斎を発見してからは幾度となく忍び込んでいるのである。
「いいだろ、ちょっとくらい! だって、あの書斎にはアジア系の本がたくさんあるんだぜ。俺、知りたいんだ。文字や記号ってさ、人の広大な記憶をつくる網目の一点みたいだと思わないか? ほら、鑑賞を通して、その時代に生きた人の記憶と、今ここにいる俺たちの記憶とをひとつに結び合わせるんだ。時を越えて人と人をつなぐ結び目っていうの? そんな感じで、あー、だから……」
 狼狽するルベドの語気は次第に弱々しくなり、最後には言葉を濁し口ごもってしまった。両手の五指を無意味に絡めていると、蚊帳の外であったヘルマー本人が「まあまあ、ニグレド」と苦笑しながら弟を宥めたので、ルベドは安堵した様子である。「本も眠っているより読まれたほうが喜ぶだろう。私は最近、読書の時間がとれなくてね。ルベド、私の代わりに彼らをかわいがってやってくれ」
 寛大なヘルマーの容認に、ルベドは「もちろん、任せて」と笑顔で胸を張る。ルベドにとって魅惑的なものは書斎という空間も含めた古書の山であり、そこへ主人公認で入り浸れるようになったのだから、彼の愉悦も当然のことであろう。
 ヘルマーに保護され目覚めてからのルベドは、安静に養生すること―つまり、何もしない、という行動をとにかく嫌い、サナトリウム内部を探検と称しながら徘徊しては、カナンの眉間に余計なしわを増やしていた。事情を知らない周囲から見ればルベドは単に落ち着きのない子供だろうが、ニグレドには兄が自ら罪を犯した過去から逃れたい、失った半身の欠落を何らかの手段で満たしたい、そうした無意識の恐怖と欲求からくる自己防衛だと思えてならなかった。こと古めかしく時を刻んだものばかりに惹かれるのも、時間を止めた己の変遷をそれらで代用しているのではないか。古書を漁っては読み耽り、古式銃の腕を磨き、哀愁の西部劇に傾倒し、絵画の筆跡を指でなぞる―兎にも角にもギャンブルやオークションまで闇雲に手を出し、右胸の空洞を埋めるかのようにルベドは趣味を増やしていった。表面的にまとめてしまえば、金のかかる懐古趣味、といったところだろうか。ルベドが真に知りたいものは、自分自身を赦す方法なのかもしれない。
 その兄とは対照的に、ニグレドは何もしなかった。将来的に必要となるであろう勉学には勤しんだが、それ以外で特にしたいと思うこともなく、ルベドの傍にいられるならばそれで良かった。自分の主体性のなさに愛想も尽きるが、それが自分という型を保持する定義なのかもしれないと受け入れることで、消耗品の充足感を得る日々である。また、あのように衰弱したルベドが自分だけを必要としてくれている姿を誰より間近で証明してもらい、この場にいないもう一人の兄に対して多少なりとも優越感を感じている。そんな自分をニグレドは醜悪だと思った。
 遺伝子レベルより深い双子の結びつきを、誰よりも際でまざまざと見せつけられていた孤独な日々はもう来ない。だが、それ以上のはかり知れない孤独を背負いどこかで生きている兄弟がいるのだということを、自分は忘れてはならないのだ。それを忘れてしまっては、自己の欲望だけを追求していた父親と同類になってしまう。
 気取られぬよう微笑むニグレドの隣で、ヘルマーはルベドに急かされながらデスクのインフラからモニターを立ち上げると、嬉々として二人に説明し始めた。
「クーカイの名は、のちの財団拠点とする無軌道型コロニーの初期設計図を見て浮かんだのだよ。蓮の花、あれは美しい。時間をかけるぶん、重武装艦もコロニーも他とない機能性と造形美を備えたものが完成するだろう。君たちを製作企画に関与させてみて正解だったな」
 ソファに並んで収まった二人を見つめ、ヘルマーは満足そうに微笑んだ。モニター画面には、蓮の花を模した円形コロニーとシャープな体躯の真っ赤な重武装艦の設計図が映しだされている。双方ともに、ヴェクターでも例のない先進的かつ独創的なデザインである。蓮の花弁に劣らずノーブルで優美なコロニーに、ニグレドは思わず嘆息した。一方のルベドは、剣のように犀利で可能な限り無駄を削ぎ落とした船に目を奪われている。
「おっさんのコネがあってこそだよ。さすが、新ミルチア自治政府代表は違うよな。ヴェクターCEOと顔見知りだなんてさ」
 モニターから目を離さず軽口を叩くルベドだが、それからは、すげえ、すげえ、とばかり連呼していた。二人は自由なアイデアを提案する形で大人たちに囲まれ、これらのデザインに多少なりとも関与したのだが、それを実現する予算と技術がなければ構想は単なる子供の落書きでしかない。ヘルマーの頼みであれば協力を惜しまない、という人々も多く、改めて彼の人脈の広さと人望の厚さには驚かされる。
「私はなにもしておらん。周囲の助力によるものだよ」
 地位や才をてらうことなく普段から謙虚な姿勢を忘れないヘルマーをまじまじと見つめると、ルベドは安堵に笑み崩れた。
「ヘルマーのおっさんが代表になってくれて良かった」
 彼がトップに立つ限り、ミルチア自治州は旧ミルチアのように悲惨な最期だけは迎えないはずだ。そんな信頼を滲ませた笑みであった。
「ありがとう。一つ残念なことがあるとすれば、君たちと過ごす時間が減ってしまうことだね」
 ルベドの明朗な笑顔につられ、ヘルマーも顔全体で笑う。二人の間に流れる和やかな空気を裂くことは憚られたが、ニグレドは躊躇いがちに「ですが、よろしいのですか?」とヘルマーに尋ねた。すでに計画は進行中だが、ある懸念を確認する必要があった。「表向きはU‐TIC機関討伐の目的で設立される特殊財団を、僕たちに任せてしまっても。政府の機関なのでしょう?」
 兵器とはいえまだ十四歳の自分たちに、彼は専門の戦闘どころか経験もない財団の管理ごと任せてしまうというのである。勇断と言えば聞こえは良いが、それが正しい決断なのかニグレドにはわからない。なにより、用意された舞台でうまくやれる自信と度胸が今の自分にはない。
 ヘルマーはニグレドの憂いた表情をしばらく見つめると、それまでの柔和な表情を引きしめ、真摯な眼差しを二人に向けた。
「ああ、ゾハルエミュレーターの回収と保管―これは、君たちにしかできない仕事なのだ。開発段階を終えたエミュレーターの活動阻止装置であるアトラクト・インヒビターと、解除キーとなるアルビテル・コードが実用段階に入り次第、財団の代表理事として就任してもらうことになる。まだ子供である君たちにこのような重荷を背負わせてしまうことを、どうか許してくれ」
 そう言うと、ヘルマーはもう軍帽を被ることのなくなった頭を深くさげた。
「頭を上げて下さい、代表」
 ニグレドはソファから立ちあがり、困惑した面持ちでかぶりを振った。顔をあげたヘルマーと視線を絡めてから静かに一礼し、再び腰をおろす。憂いの双眸は決意の色に変わり、意志のこもった光がヘルマーを見つめた。
「ヘルマー代表、僕はあなたに役割を与えていただき、感謝しているんです。それに、僕はもう小さな子供じゃありませんから」
 ニグレドは自分を恥じた。これが自分のすべきことなのだ。自信がなくとも度胸がなくとも、やらねばならないのだ。そんなものはあとから揚々とついてくるのだろうし、ネピリムの歌声のときから自分で決めた道ではないか。行けばわかる。
「そうさ、俺たち二年も休んでたんだぜ。これから死ぬほど働かないと、退屈で脳みそが腐っちまう」
 ヘルマーから渡されたホログラフ資料をテーブルに並べながら、ルベドもあっけらかんと言いのけた。
 第二ミルチアの病院で目覚める以前から、ルベドは一人になることを怖れていた。悪戯をしてはカナンたちに構ってもらい、夜になるとニグレドの傍から離れない。ニグレド自身もルベドと離れることを極力避け、そうした生活がここ二年間ほど続いている。この現状を打破するためにも、これは良い機会なのかもしれない。
 頼もしいな、とヘルマーは目を細めた。「機関は後々、事が収まれば武装を部分的に解除し、一部分を民間企業として独立させるつもりだ。先に伝えた通り、コロニーは不条理なライフリサイクル法案の被害者の受け皿となり、彼ら自身による救済活動及び生活基盤の確立と維持を掲げていくことになる。表立つニグレドには、これを任せることになるのだが―」
「はい」
「肉体的・精神的に負担がかからない程度の範囲で、君の能力を活用することを前提としている」
 ニグレドは無表情を崩さない。サナトリウムでの療養生活において、ニグレドはヒュプノーシス暗示能力を多用していた。ディミトリの器として必要なものだったのか、はたまた処刑人としてルベドを制御するためのものだったのか、今となっては知る術もないが、肉声を媒介に他者の意識へと干渉するこの能力も、毎夜の悪夢にうなされるルベドの苦痛を和らげる用途として非常に役立っている。思考伝播能力である念話と異なり、こちらを使用すれば相応に疲労もあるが、それよりもルベドを欺瞞しているという罪悪感が常に耳元で自分を謗ることに抵抗があった。
「ニグレド、行政には騙し合いも必要なのだよ」
「はい、わかっています。僕のような若輩者が簡単に渡って行けるほど、この世界は甘くありませんよね」
 ヘルマーが気遣うと、ニグレドは苦々しく微笑んだ。従順で優秀すぎる彼にヘルマーがいささか憂慮の面持ちになると、ルベドが強張るニグレドの肩を抱きながら「おっさんが言っても説得力ないよな」と冗談めかした。
「そんなことはないぞ。大人とは皆、裏切られた青年の姿なのだからな」
 場の空気を転換する術に優れたルベドの性質は、人を集めるヘルマーと通ずるものがある。二人とも陽の性質なのだ。自分が陰の性質であると自覚しているニグレドは、抱きこまれた首筋に兄の体温を感じながら、自身との確かな温度差に身震いした。
「ときに、ルベド」弟をからかって戯れる兄を見つめていたヘルマーが、仕切り直しとばかりに咳払いをした。ルベドの青い瞳がぐるりと回転し、彼を見上げる。
「君には財団裏の実働部隊として重武装艦の指揮を執り、U‐TIC機関討伐とエミュレーターの回収に徹してもらいたい」
「ああ、いいよ」
 重苦しいヘルマーの口調とは裏腹に、ルベドは一瞬の逡巡もなく軽い調子で承諾した。むしろ歓迎だとでも言うように不敵な笑みを浮かべている。ヘルマーやニグレドの慎重で賢明な判断力では思いきれない、大胆で見た目にも派手な策をルベドは好む。相手の虚をつき、かつ自らを窮地に追い込むことにより、彼の欠落が一時的に補完されるらしいことをヘルマーは感じとっていたが、どうやら今回の提言もすでにルベドの選択肢に含まれていたらしい―それも、いたしかたない選択ではなく、好条件とする範疇に。
 ヘルマーは多大なる感謝と無償の情愛をもってルベドとニグレドを見つめ、節くれだった無骨な手で二人に握手を求めた。
「二人とも協力ありがとう。そして、クーカイ・ファウンデーション設立に関して、もう一つ決断してもらわねばならんことがある」
 ヘルマーの手を取った二人は、無言のまま揃って頷いた。
「君たちの名だ」
 青と緑の瞳が、僅かながら揺らめいた。こうした同一の反応を見ると、やはり二人はよく似ている。彼らの兄弟を救えなかったことを、ヘルマーは密かに後悔していた。赤と黒の短髪を梳いて慰めたくなるが、そうした扱いも聡い二人には相応しくないだろう。実の息子として接するのは、この子たちの療養が終わるまでと誓ったはずだ。いつまでも傷を舐めてやるばかりではいけない。ヘルマーは、自分の身にもしものことがあった場合の未来も考慮し、ゾハルエミュレーターの回収保管を大義名分とした上で、二人のように特殊な出生で虐げられる人々のため、ひいては愛する二人のためにと、この壮大な財団計画を立案していた。
「姓は財団名に合わせてクーカイとしよう。代表理事となる二人の内、連邦と表立って関わるニグレドは、クーカイ姓を継ぐとして―」
 十四歳であるはずの小さなルベドを見下ろし、ヘルマーは「ルベド」と名を呼びながらも沈黙する。覚悟はしていても、やはり二人の息子を外に出すのは気が引けた。できることならば、安全な場所で平穏に暮らしてほしいと誰より願うはずの自分が、わが子を谷底へ突き落とすような真似をしていることは重々承知であった。
「少なくともニグレドが成人するまでは、君のことは公表しないでおこうと考えている」
 ヘルマーを上目で盗み見てから、ルベドは決まり悪そうに言った。
「おっさん、気づいてるんだろ。俺が成長してないってこと」
「やはり、そうなのか」
 落胆と悲観の色をした嘆息を、ヘルマーは喉元で飲みこんだ。同情など傲慢もはなはだしい、と自分を恥じた。この年頃の子供は体の成長が著しい。ニグレドよりも単に成長が遅れているだけだと信じたかったが、二年前から一インチたりとも変化していないルベドの背丈は、それを許してはくれなかった。
 U.R.T.V.の変異体が各々何らかの特異能力を有していることは存知していたが、不老とは何と皮肉な能力であろうか。双子の弟の能力と併せれば不老不死―こんなものは人間の欲望という意図がなれけば生まれない、偶発と呼ぶにはあまりに忌まわしき力である。
 自分よりも頭半分ほど高い隣のニグレドを見上げ、ルベドは眩しそうに目を細めた。
「もうニグレドと目線の高さも違ってきたもんな。これ以上の差が開けば、他の連中にも隠し通せないだろ。俺、ニグレドだけに厄介な責任を背負わせたくねえし、こいつと同じ場所に立っていたい。そのためなら、大仰な嘘だろうが子供の演技だろうが、何だってする」
 ルベドの真正面には、ニグレドの喉仏があった。目と目を合わせようとすると、どうしても顎を上げなければならず、その角度は二年間で日増しに大きくなっていた。そうしてきっと、自分たちの間には身長差よりも大きな溝渠ができるのだろう。ルベドの眼差しがそう語っているようで、ニグレドは侘しくなった。兄のためになにもできないどころか、兄を一人置いてゆく己の体が疎ましい。
「ならば、成人式まで正式な公表をしないということ前提に、私―もしくは財団と縁の深くなる者と、養子縁組という形を取ってはもらえないだろうか。私が考えるに、それが最も穏便に周囲を納得させる手立てなのだ」
「そうするよ」
 自分のために模索した最良の案なのであろう。ヘルマーの気遣いに、ルベドは快く頷いた。「おっさんの息子なら、待遇も良さそうだしね」などと軽口も忘れない。ヘルマーは柔らかく微笑む。
「ゆっくり考えてくれ。しかし、船の完成までに決定できればありがたい」
「わかりました」
「若い身空で苦労をかけてすまないね」
「いいえ、そんなことありません。ヘルマー代表の理想に協力できるなら、僕は光栄です」
「おっさんなら、ミルチアをより良くできるって。俺、信じてるよ」
 お人好しなのが心配だけどさ、とつけ足して悪戯っぽく笑うルベドに、ニグレドも自分の顔に爽やかな笑顔を貼りつけた。心から笑うことのできない自分を申しわけなく思いながらも、ニグレドはすでにファウンデーションの代表理事として生活する自分たちのあり方について思案していた。
「はは。君たちの期待に応えられるよう、私も日々努力せねばならんな」
 話を終えたヘルマーは、悠然とソファから立ち上がった。それから、しばらく自分の顎をゆるゆると撫で(これは大抵、彼が何かを思いついたときの癖である)、まだソファに座ったままの二人へ、そうそう、と言いながら振り向いた。
「次の公務まで時間がある。久しぶりに食事でもどうかね? 日本食のうまい店があるのだよ」
 にっこりと人懐っこい笑みを浮かべたヘルマーの提案に、ルベドは「やっりい」と指を鳴らした。「俺、寿司がいい、寿司」
 早くも舌なめずりをしているルベドの隣で、ニグレドは窓外のミルチア市街をぼんやりと眺めていた。


 十八歳の成人式は、まるで肌寒い北風のように忙しない日々を駆けぬけ、日常の生温さに油断していたニグレドの身を強張らせる。
 兄とともに公共の場へ出席することは、ニグレドにとって苦痛でしかない。ルベドと少しでも多くの時間を共有できることは単純に嬉しいし、馬鹿な大人たちに優秀な兄を自慢したいというエゴイズムの自覚もある。しかし、ルベド自身の置かれる状況を考えれば、そんなものは芥の塵と化すのであった。
 僕はこれから、その馬鹿な大人たちの肥溜めへ大事な兄を連行しなきゃいけない。
「ごめんね、ルベド」
 締めすぎたタイのような声音で、ニグレドは背後の兄へと呟いた。喉がひりひりと痛いのは、タイのせいだけではないだろう。
「ガイナン」
 少々語気を荒らげたルベドが、ニグレドの言葉を打ち消した。まだ青年と呼ぶには幼い弟を謗るように睥睨するも、肩を落としたうら寂しい背中を見ると、ルベドの眉尻もまたたく間にさがる。
 まったくこの弟ときたら、一歩外に出れば淡々と激務をこなし、その能力と資質を持って大人どもを黙らせるというのに、なぜ自分にはこう受身なのだ。変わらぬ弟の姿に、どこかで安堵している自分もまた情けない。ルベドは大げさに長嘆すると、クローゼットの前でタイばかり気にしているニグレドを見据えて言った。
「おまえが謝ることなんてない。俺は大丈夫だから、気にすんな」
 言いながら、本当は一番に気にしてほしいと思っている。そんな自分が腹立たしい。そんなものは認めない。利己的な独占欲など死に絶えればいい。ルベドの両手はベッドのシーツを握りしめていた。
「それよりさ、やっぱり似合ってる、それ」
 醜い感情を振り落とすように顔をあげたルベドは、今しがた着替え終えたばかりのニグレドを改めて眺め、青い眼を細めた。姿見に映る自分のスーツ姿を見ながら、ニグレドは面映ゆく微笑む。
「それは良かった。まさか君がデザインしてくれるとは思わなかったから、嬉しいよ」
 そう言いながら、自分の左襟の装飾を丁寧に撫でる。それは黄と紫のグラデーションが鳥の翼のように優雅に広がる装飾で、襟の中心とジャケットのボタン、そして靴にも、ニグレドの瞳と同じベリルの石が施されていた。タイはスカーフのように幅広がりのライトグリーン。華美ではない美しさが、主の端正な容姿を際立たせていた。
「おまえには孔雀石が似合うと思って。あ、孔雀ってのはロストエルサレムに生息してた鳥なんだけど、その模様が―っと、この話はもうしたか」
 ベッドから体を浮かせるほど興奮気味に語り出したルベドは、片手で口を塞ぎながらスプリングを軋ませた。反動で何度か体が浮きあがり、ベッドから転げ落ちそうになる。
「そうだね、仕上がったスーツを掲げて力説してくれた」
 くすくす笑いを噛み殺すニグレドを見つめながら、ルベドはせっかく整えていた赤毛を普段の癖でぐしゃぐしゃとかいてしまう。
「年がら年中つまんねえ真っ黒スーツじゃな。おまえ、昔っからそうゆうのに疎いから」
「ルベドこそ、読書に熱中しているときは服どころか食事もしないでしょ。放っておけば、のべつ読んでいるんだから」
 ルベドは妙に凝り性な面があるのだが、古書や銃と同様にこうした装飾品に対してもその質はあった。この私室や執務室の調度品、ファウンデーションの街並みへもそれは飛び火し、趣味が高じてニグレドのスーツまでデザインしてしまうのだから恐れいる。しかし、それにつき合ってファウンデーションを回している自分も、兄のことはとやかく言えないだろう。黒いロングコートの背中に描かれた十字架には、どのような意味が込められているのだろうか、とニグレドは時々そう思う。過去への罪責か、未来への譴責か。どちらにしろ、希望があるとは思えないが。
「だけどさ、スーツの礼だなんて俺にまで律儀なとこも変わんねえのな」
 ルベドは左耳のイヤリングを弾き、「こんな高価なもん、かわいい女の子にやれよ」と苦笑した。シルバーの螺旋柱に真紅の輝石を三つ填めこんだ装飾が、軽やかに揺れる。貴重な天然石である輝石はルベドの髪のように赤々と燃え、耳元をほんのりと照らしていた。
「ルベドには柘榴石。ノアが箱舟の中で灯りの代わりに吊るしたほどの彩色を持つ石だよ。どこへ行こうと君の光となるように」
 僕は深い暗闇だから、とても危険な影だから、闇に呑まれないよう君を守ってほしいんだ。閉ざした心底で呟き、ニグレドはゆったりと微笑んだ。ルベドは目眩のようにくらりと破顔し、「ありがたくいただいとくよ」と青い瞳を伏せる。
「光に呑まれないよう、気をつけねえとな」


 その晩、パーティー会場にて。豪華絢爛な会場に集まった要人たちの値踏みするような視線に晒されながら、少年は威風堂々とした挨拶で周囲の目をさらに釘づけにした。
「夫人にはご機嫌麗しく。今宵、若輩ながらもお招きを賜りました、ガイナン・クーカイ・Jr.でございます。のちほどメヌエットのお相手を、ぜひ」
 先日、ガイナンづてにダンスを誘われた夫人に対して完璧な微笑を見せると、自分の倍はある彼女の手の甲へ優雅にキスを落とす。呆気に取られた夫人の隣でこちらに振り向き、してやったりと片目を閉じて見せた少年のせいで、彼の養父は群がる客人の中、ざまあみろ、と笑いをこらえるのに必死であった。


 あれから何年経ったろうか。十四年前、第二ミルチアの病院で、ルベドであったJr.は隣のベッドで眠る弟が、二度と目覚めないのではないかという恐怖に駆られていた。重い瞼の下にある新緑のように芽ぐむ瞳を捉えたとき、これ以上ないというほどに安堵した。
 頼むから、俺をひとりにしないでくれ。
 感極まったルベドにきつく抱きしめられたニグレドは、
 ルベド、泣かないで。
 と、開口一番に人の心配をした。ここはどこだとも、誰が自分たちを救出したのだとも一切問わず、ニグレドはルベドの背を宥めるように撫でつづけた。
 アルベド、と一言だけ呟いたニグレドの反応を直視するのが怖ろしく、ルベドは彼を抱きしめたまま嗚咽交じりに言った。声は掠れていた。
 あいつは、もういない。俺が殺したから。
 殺したも同然だから。殺したけれど、死んだのは俺のほう。あいつと一緒に俺も死んだ。じゃあ、今こうして生きているものはなんだろう。惨めに泣いてるガキは一体誰なんだ。
 ケイオスが二人の病室に入ってくるまで、二人はそれ以外何も話さなかった。あの日以来、ニグレドがそのことを口にすることは一度もない。
 ネピリムの歌声でニグレドを抱えたまま、血反吐とともに吐いた一節。
〝地に落ちて死なぬ麦は一粒のままである〟―アルベド、おまえのことだ。いいや、本当にそうか?
 あのとき、ルベドはひたすら怖かった。巨大な恐怖でまともな思考が働かぬまま己の力にさえ怯え、あまつさえアルベドを拒絶し、不死身の存在である彼を根本から否定する残酷な一節を選んだ。
 死した神の子のようにすべてを受け入れることが、Jr.にはできない。あの一節は本来、不老である自分のことを意味しているのだ。結局はJr.も地に落ちることのない麦のまま生にしがみつき、落ちて実を結ぶ人々の恩恵だけを吸いあげる。
 嘘でつないだ鎖によって吊りあげられた十字架。その裏に書かれた自分の罪状は今なお増えつづけている。時を経ても変わることのない背に負う罪は、自ら拾い集めたものによって、時計の針が時間を刻むごとに重さを増してゆき、その重みが成長を抑制する。幼いままの腕では抱えきれないそれらを捨てることもできず、だんだんと衰弱してゆく。この悔恨が滑車を回す限り、炎に焼かれて灰になることもなく、吊るされた十字架の杭に葡萄酒の血を流しながら、自らの重みで延々ともがき続けるだろう。
 そうして今もまた、苦痛の重石の一つである存在の傍から離れられずにいる。拒絶されることを怖れ、ひらすら不変を切願している。男の優しさを利用し、その心身を束縛している。このような生き方に、安らかな終わりなどあるはずもない。そもそも始めから終わりなど存在するのだろうか。すべてが終わる日が来たとして、卑しい自分の隣にまだ誰かいてくれるのだろうか。
 影が差したJr.の群青の瞳には、あのスーツに袖を通すガイナンの姿が映っている。執務室の一角にある、磨かれた木製クローゼットの姿見でタイを締めおわったガイナンは、ベッドであぐらをかいたまま身動き一つしないJr.へ静かに向き直った。長身で逞しい男の肉体はJr.にとって喉から手がでるほど欲した未来であったが、今ではそんな願望もゆっくりと朽ち果てるのを待つばかり。虚しさばかりが胸をつく。すでに読了したゾラの『金』を度々引っ張りだしてはページを捲る侘しさにも、我ながら呆れる。
「どうした。会合に出席する気にはなれないか」
 ガイナンが訊ねるが、Jr.はベッドに投げ捨てられたタキシードに見向きもせず、前方を見つめたまま反応がない。先程までガイナンが映っていたその瞳には、鏡を通した自分の姿が映しだされている。昔と変わらぬ見飽きた姿にうんざりした。自ら成長を抑制したつもりはないが、アルベドと対極の能力であればこれが妥当だとJr.は諦観していた。何よりこの姿でいることを、自分自身が心のどこかで無意識に望んでいるのかもしれないという自覚があった。これが罰だというのであれば、自分の犯した罪がこうして形になったぶんだけ救われる。俺は罰を受け、罪を償っているのだと、そう思えるのだから。
「変わらねえな」
 姿どころか、何一つ成長していない。いつの間にか隣に腰かけている男を見上げ、そのスーツの胸元に映える鮮やかな装飾をJr.はやんわりと撫でた。変わらぬ存在を確かめるように愛憎が相半ばする動作の中で、赤い数字が見え隠れする。そうして離した手をガイナンに掴まれ、何だよ、と顎をあげた。
 思わずJr.の手を引きとめたガイナンは、自分でもよくわからない衝動に突き動かされ、小さな掌の赤い刻印を親指の腹で擦っていた。Jr.がくすぐったさに肩を震わせ、ベッドのスプリングが軋む。こんなことで払拭できるはずもなかろうに。子供の体温は妙に熱かった。
 Jr.はくつくつと笑いながら自分よりひと回りほど成長した男の手を軽く握り返し、タキシードを集めてベッドをおりた。
「悪い悪い。すぐに支度する」
 ロングコートもシャツも簡単に脱ぎ捨てると、真新しいシャツに袖を通す。緩慢な動作は鉛の服を試着しているようで、とても意気揚々という様子には見えない。
「すまない、Jr.」
 慣れない手つきでシャツのボタンを止めるJr.の背中に向け、ガイナンは言った。その謝罪は特に深い意味のあるものではなく、もはや彼に対する条件反射のようになっていた。ごめんね、ルベド。兄の顔色が変化する前に、そうして先手を打つ。互いの保身のため、今ではそれが習慣となっていた。
 おまえは何も悪くないのだから、何一つ気に病む必要はない。成長した大人の掌で、兄の目を覆い、耳を塞ぐ。歪んだ愛情なのかもしれない。
『謝んな』
 頭蓋の隙間を反響する声に、ガイナンは瞠目した。視線の先では、全身を姿見に映したJr.が身支度を続けている。小さな背中を見つめるが、タイを締める以外の挙動はない。空耳かと思われたその言葉が、ガイナンの脳髄を抉るように再び届く。
『おまえは何も悪くない。もういいから、謝んな。もう、いいから』
 声にならない声で制したJr.の左耳では、少年にはいささか不似合いな、真紅の輝石が揺れていた。