Menschliches, Allzumenschliches 2. ALBEDO


Timeline: U.R.T.V.s at YURIEV Institute




“俺たちは双児の兄弟として一緒にこの世に生まれた。
だから、後先言わずに手をつなぎ、一緒に行こうぜ”
―――「間違いの喜劇」第五幕/シェイクスピア


 白く高い外壁に覆われ、まるで悪などここには存在しないとでも主張しているかのような、すべてが管理された真っ白な箱庭。その清潔さに逆に恐怖さえ覚えそうな場所――ユーリエフ・インスティテュートでは、何かが壊れようとしていた。

「ルベド、何か言った?」
 黒髪の少年は、他の二人の兄弟が散らかした本を元の場所へと戻しながら、黙々と本を物色していた赤髪の兄に、その穏やかな深緑の瞳を向けた。
 陽光さえ差し込むことがない窓のない白い部屋には、図書館と呼べるほど多くの書物が、整然と並ぶ棚に収められている。その部屋の奥で、こそこそと何やら探している少年達は、頭髪と瞳の色こそ違うものの、姿形は三人ともそっくりだ。
「ニグレド、見ろよコレ!俺、ここのシェイクスピアは全部読んだと思ったけど――喜劇だってさ!ほらほら!」
 ルベドと呼ばれた少年は、青空色の瞳をキラキラと輝かせながら、その空に浮かぶ太陽のような笑顔で手にした本を見せてくる。「相当古いな――A.D.1594以前に書かれたのかぁ」と独り言を呟くその姿に苦笑していると、ふと部屋の角で丸まっている白い頭が見えた。
 ルベドもそれに気づき、今度はその白い塊に駆け寄っていく。
「アルベド!何だよ、また絵本でも読んでるのか?」
 白い頭はビクッと揺れたかと思うと、仁王立ちしたルベドの方へと恐る恐る振り向いた。その紫水晶の瞳は、三人の中でも幼さが際立っている。
「絵本じゃないよ、ルベド!コレ見て。とってもキレイな星なんだ」
何だよ写真集じゃなくて図鑑かえっと英語だな――“The EARTH”
 アルベドが見せてきた古めかしい大型本の表紙には、青く美しい惑星が宇宙に浮かんでいた。後から来たニグレドはその名前に覚えがあった。
「それって“Lost Jerusalem(ロスト・エルサレム)のこと、だよね」
「あっ、やっぱりそーだよな!うわぁ――俺、初めて見たぜ!キレーだなぁ!」
「へえ、これがロスト・エルサレムなんだぁ。ルベド、僕が見つけたんだよ!」
 三人の兄弟はルベドが広げた本を囲んで、失われた美しい星の自然や文化を見ては、あれやこれやと感嘆の声を上げた。

「僕、こんな風に絵や写真がたくさん載ってる本だったら、最後まで読めるよ」
「僕も好きだな」
「じゃあ、昨日読んで聞かせてやった本もつまんなかった?」
「そんなことないよ!」
 ルベドが拗ねたようにボソッと言うと、二人の弟は口を揃えて否定した。
「どんなお話だったかは忘れちゃったけど、本を読んでるときのルベドの声、僕、好きだもの」
「僕はルベドが楽しいなら、それが楽しいよ」
ルベドはそんな二人に「結局、内容はどうでもいいのかよ」と呆れながらも、それなりに楽しんでいるのだとわかれば、それで良いのだった。
 ルベドが次のページを捲ろうとすると、ニグレドが言った。
「ルベド、アルベド。そろそろシミュレーションルームに行かないと」
「もうそんな時間かよ?――あ、そっか!今日は新しい訓練だから時間が違うんだ」
「博士は、“U.M.N.の共時性に対する感受性過敏の病を持った被験者の深層意識へU.M.N.経由ダイブを行って、知覚障害を改善する対U-DO訓練だ”って言ってた」
 ニグレドは前回の訓練後に説明されたミッション内容を復唱した。
「被験者って僕らと同じくらいの女の子なんでしょ?女の子ってどんな子だろう」
 アルベドは、見たことのない“女の子”の頭の中が気になるようだ。
「俺、名前だけ覚えてるよ。サクラ・ミズラヒ――この花みたいな子、なのかな」
 ルベドが開いている黄ばんだページには、黒くしなやかな幹から薄紅色の小さな花弁を吹雪のように咲かせた、美しい大木の写真が載っていた。


 規則正しい“アメイジング・グレース”の旋律が流れる庭園。手入れされた花壇には鮮やかな花が咲き乱れている。けれど、ここに咲く花や緑は、一年を通して不自然なほど何も変わることはなく、虫一匹さえ生息していない。常に管理され快適な環境を保たれた施設には、四季の趣や小さな命の営みに目を向ける必要はなかった。
「サクラ!ユリさん!」
 人形のような動きでピアノを弾く亜麻色の髪の少女に自分の指を合わせていた母親は、指を止めて、扉から飛び出してきた元気な少年に笑いかけた。
「こんにちは、ルベド。ふふ、そんなに急いでどうしたの?」
 ルベドは、ピアノの手を止めて瞬きもせずに楽譜をただ見つめているサクラをちらりと見ると、少し照れながら後ろ手に持っていたものを遠慮がちにユリへと差し出す。
「コレ、練習してるんだけど、やっぱり難しいや。でも、サクラがさっき弾いてた曲ならちょっとできるようになったから――えっと」
 彼の手の中には、銀色に光るハーモニカがあった。それは、ガラス張りの窓から陽の光を受けて一層輝いている。
「前にサクラとも約束したんだ。上手くなったら一緒にやろうって――な、サクラ!」
 相変わらず身じろぎもせず虚ろな目で座るサクラに、ルベドは笑いかけた。
「ありがとう、ルベド。それじゃ、二人で合奏してみましょうか」
 ユリに優しく微笑みかけられたルベドは腕を後ろで組んで、いっそう照れた。
「サクラ、ルベドがあなたのピアノに合わせてハーモニカを吹いてくれるんですって。もう一度、さっきの曲を弾きましょうね」
 娘の柔らかな髪を撫でながらその手を鍵盤に合わせると、ユリは自分が先に曲を弾いてみせる。その愛情あふれる母娘の様子に見入っていたルベドは、少し遅れて同じように指を動かし始めたサクラを見て、慌ててハーモニカを構えた。
 吹きながらルベドは、締め付けられるような胸の痛みを感じた。
 自分ももっと、彼女のために何かできないだろうかと提案してみたものの、サクラの様子を見ていると、結局何も変わらないのだろうかと思ってしまう。自分のことを見ることはない、今だって自分の存在にすら気づいてもいないかもしれないサクラは、ずっとこのままなんじゃないだろうかと。
 サクラの瞼がゆっくりと閉じられたのが見えたが、彼女を見つめるほどに胸が痛かった。
 ルベドの思いを知ることもなく、お世辞にも上手とは言えないその音色は、すらすらと流れるピアノの音色と合わさって、静かなインスティテュートに響き渡っていった。

「いらっしゃい、ルベド。素敵なプレゼントをありがとう――」
 いつものようにダイブして、ルベドはサクラの家へ来た。
 どこまでも続く青い空、吹き抜ける風、それに揺られる緑の草木、たまに見かける真っ青な鳥。この世界にたった一軒しかない家。日陰のポーチには木製のブランコがあって、庭にはたくさんの花が咲いている。玄関のドアを開ければ、透き通った音のベルが鳴る。
 いつものようにサクラはルベドを出迎えた。けれど、いつもと違うことがある。
「――プレゼント?ご、ごめん、サクラ。俺、何も――」
 こちらで渡せるものなどあっただろうかと、ポケットの中を探りながらルベドが申し訳なさそうに言うと、サクラは鈴の音のように笑った。
「ハーモニカ、約束通り吹けるようになったんだね」
 その一言に、ルベドの体は硬直し、その蒼い瞳を見開いた。
「ママに貰った宝石箱のオルゴールを開いたら、いつもと違う音楽が聴こえてきたの。ふふっ、ちょっと間違ったりもしていたけど、とっても素敵なメロディーだったよ」
 返事をすることも忘れて、サクラの顔をじっと見つめる。
 ルベドの胸がドクッと鳴り、早鐘を打つ。
 今朝の合奏が脳裏に浮かんだ。

 ピアノを弾きながら、ゆっくりと瞼を閉じたサクラ。
 聴こえていた――自分の音が、サクラに届いた。
 気づいてくれた。
 外からでも、彼女に近づけた。
 自分がしていることは、無駄じゃないんだ。
 サクラは――サクラは、きっと良くなる!

「サクラっ!」
 嬉しくなったルベドは満面の笑みでサクラを思いきり抱きしめた。
「きゃっ」と驚いた彼女の声で我に返ると、耳まで真っ赤になって飛び退く。
「ごめん――でもサクラ、君に届いたんだな!俺、頑張るよ。きっと君を治してみせる!」
 興奮状態のルベドを見て、サクラはまた笑う。
「ルベド、ありがとう」
 可愛らしいその笑顔が心的世界の外でも見れるかと思うと、ルベドは喜びで胸が躍った。


 ルベドがサクラといる間、黒髪の少年は暖かな中庭で、頭を侵食しようとする“何か”を突き止めようとしていた。けれど、それは認めたくない結論へと行きつき、また振り出しに戻るという不毛な作業を繰り返していた。
 ――何が真実でも、僕の守るべきものは決まっている――
 気づけばいつの間にか、この箱庭の責任者であり父親であるディミトリ・ユーリエフ博士に呼ばれていた時間になり、そろそろ行かねばと重い足取りで研究室へと向かう。
「お久しぶりね、669ニグレド」
 聞き覚えのある抑揚のない声にニグレドは振り向き、にこやかに微笑んだ。
「やあ、シトリン。どうしたの?」
 この間、初めて出会ったNo.668――女性体のU.R.T.V.は、オレンジの髪にエメラルドの瞳で女性特有の柔らかな肢体だが、やはり自分達とよく似ている。沈着冷静で少し気が強いために、兄のルベドとは気が合わないようだったが、弟のニグレドは彼女になぜか自分とは近いものを感じていた。
「覚えていてくれて光栄だわ。今日は私も博士に呼ばれているの」
「え、そうなんだ――」
 不思議そうな顔をしたニグレドを見て、シトリンは一瞬、思案するように視線を逸らすと、彼の反応を窺うように訊ねた。
「ニグレド、自分の本当の任務を理解している?」
 本当の任務――?
 彼女の言葉に、ドクンと心臓が波打つ。
「貴方も、私達と同じなのよ」
「同じ?」
 何も知らない同胞に内心驚きつつも表情には微塵も出さず、シトリンは思った。もしかしたら今日、博士から聞かされるのかもしれない。けれども真面目な彼女は、暢気に監視対象と遊んでばかりいる彼に対し、イラつきと僅かな羨ましさを感じており、続きを言わずにはいられなかった。
「コードネーム・レッドドラゴン――有益だけど、暴走の危険を帯びた危険な生き物。私達の任務はね、そのレッドドラゴンの暴走を防ぎ制圧すること――」
 自分の目を真剣に見つめる彼女に、まるで射殺されたように体が動かない。
「ねぇ、不思議に思わない?なぜ、自分はウ・ドゥ・シミュレーターに反応しないのか」
 ニグレドは、カラカラに乾いた喉から声を搾り出すように、口を開いた。
「あ――まさか――それ――」
 繋がって欲しくなくて今まで断ち切ってきた糸が、繋がろうとしている。心は認めたくなくとも、彼の頭では既に答えは出ていた。シトリンが淡々とその答えを代弁する。
「そう。レッドドラゴン――赤くて――大切なものよ」


 ニグレドとシトリンのいる中庭から奥へと入った裏庭にそびえる一本の老木。裏庭は西側にあるためか日中でも薄暗く、手入れの行き届いた中庭と違いどこか閑散としており、研究者達も滅多に通ることはなかった。葉の生い茂る老木からは歪な太い枝が生え、まるで誰かが苦しみもがいているようにも見える。
 その木の陰で、紫の瞳を真っ赤に充血させた少年が、その白い髪や手が汚れるのも構わずに、一心不乱に土を掘っていた。
「ルベドとニグレドのお墓を作ってるんだ。お墓っていっても、真似事だけどね」
 周囲に人影は見当たらない。少年の表情には狂気めいた影がゆらりと映り、自分自身に語りかけるように、独りで掘った穴を埋め、その上に枝を折ってこしらえた不恰好な墓標を立てる。
「二人が死んでも、泣かないように練習してるんだよ」
 そう語り続ける小さな少年の瞳からは、言葉とは裏腹に、一筋の線を描いて落ちた雫が黒い土を濡らした。少年はそれに気づきもせず、ひたすらにまた墓を掘る。

 二つの小さな墓標が立った後、この場所を囲む塀を見た。塀向こうにある碑の下には、まだ自分の血痕が残っているのだろうか。

『僕だけ――?二人とも、僕を残して死ぬの――?』
 ルベド達は、再生、しないんだ――。
 死んじゃうんだ――僕を置いて、いなくなる?
『嫌だあああっ!一人ぼっちは――ヤダぁっ!』
 二人が死んだら、僕も死ぬ!
 ルベドが死んだら僕も、一緒に、
『ルベドが死んだら、僕も死ぬ!』
 僕も、僕も――置いてかないで!
『ルベド、置いていっちゃ嫌だ――!』

 そういえば、あの時の銃はどこへやっただろう――と、意味のないことを考える。
 妙に、頭の中が静かだった。
 掌をふと見れば、土で汚れた下から赤い三つの数字が覗いた。
 ――誰よりも優しくて、誰よりも残酷な君。
 君の存在が僕を定義し、僕を無意味にする。
 君のその姿を見るたびに、僕とは違うと思い知らされる。
 ――忘れられたら、なかったことにできたら、どんなに楽だろう――
 そうしたら、僕もなくなるのだけれど。



『俺は信じない。君が、死んだなんて――』

『僕は任務を放棄する――貴方の指示になんか、従わない!』

『イヤだよ、ルベド!離さないで!――離さないでッ!!』

 “ネピリムの歌声”が聴こえる。
 ここにはもう、誰もいない。
 血溜まりの中、微かに煌くふたつのアメジストが虚ろに揺れた。