アイルキスユー


Timeline: After EP3 ending







 青い海があった。
 ファウンデーションにあったプライベートビーチのような、人工の箱庭ではない。微かに湾曲した水平線は果てなく続き、海面はその深さを物語るようにどこまでもただ青く、煌めきながら揺れている。
 クリームのように泡だった白い波が、静かな水音を響かせてJr.の靴を飲み込み、それに彼の足が反応すれば逃げるように引いていった。柔らかな砂浜は、透き通るように白い。
「やっと、辿り着いたのか――約束の地へ」
 Jr.はポツリと呟いた。
 人の母の胎内を思わせる穏やかな空気に包まれているが、この地には生物の影がない。小鳥のさえずりや虫の鳴き声まで聴こえて来てもよさそうだが、それもない。黒いロングコートがハタハタと風に揺れた。
 優しい風と波の音だけが耳に届く、静かな世界――。
 暗い宇宙を薄く映す空を見上げれば、今まで見たどんな人工照明よりも神々しい光を放つ、貴重な恒星が見えた。その眩しさに瞼が自然と閉じてしまい、腕を影にしてもう一度それを仰ぎ見る。
「スゲ、本物の太陽――なんて、綺麗なんだ」
 指の間から、虹色の結晶が瞳を掠った。
 この広大な海も、眩い太陽も、この大地すべてが美しく、宇宙よりも限りないように思える。美し過ぎて、これが現実だとは俄かに信じられない。
 海の反対側を見ると、青い絨毯に侵食された遺跡のような光景が広がっていた。その鮮やかな青はどうやら花のようで、緑に混じって小高い丘一面を覆っている。花畑の間から突き出した、聖火のようなものを持った石の腕が一際目立っていた。
「ロスト・エルサレム――だよ、な」
「そうだね、間違いないよ!」
 不安になってこの地の名を口に出したJr.は、自分の独り言を拾った相手をバッと振り返る。そこには、聞き覚えのあるハイトーンを発した少年が、ニコニコと笑って立っていた。
「ア、アルベ――ド?」
「こうして話すのは久し振りだね、ルベド」
 何も知らなかった昔のように、小さなアルベドは無邪気に笑う。
「凄いじゃない、本当にロスト・エルサレムに来ちゃったよ!」
 固まったままのJr.の両手を握り、幼いアルベドは嬉しそうにくるくると踊り始めた。「ぅわっ、わっ、とっ!」足場の悪い砂浜で2人が回るものだから、すぐにバランスを崩してベチャッと情けなく砂の上に倒れ込む。
「どうしたの、ルベド。ずうっと探しててやっと見つけたのに、嬉しくないの?」
 白い髪や服に砂をくっ付けたまま、アルベドは小首を傾げて仰向けに倒れたままのJr.を覗き込んだ。そのアルベドから顔を背けながら彼は、
「お前がいるってことは、どうせまた夢なんだろ――」
 と、自分の髪をガリガリと掻き毟る。
 ――そうだ、これが現実であるワケがない。
 他の仲間は見当たらないし、ここで目覚める前、自分はエルザのキャビンにいたはずだと、Jr.はエルザでの生活を振り返った。
 少ない情報を頼りに移民船団の足跡(そくせき)を遡ってきてはいるが、ロスト・エルサレム自体の情報は無きに等しく、暗闇を手探りで進むような毎日。その途方の無さに、何度泣き言を並べたくなったことだろうか。
「ちくしょう、こんなところで寝てる場合じゃねぇよ。早く戻って星図の計算しないと」
 むくりと起き上がって、胡坐をかいたまま爽快な空を見上げたはいいが、Jr.には戻る方法もわからなかった。アルベドは自分も空を見上げると、心地良い潮風を受けながらJr.の中にいた自分を思い出す。
「夢じゃないよ、ルベド。僕、覚えてる――さっきまで僕は、君の中で遊んでいたんだ」
「んなの、俺の夢だからだろ」
 軽くあしらうJr.に、アルベドはムキになって彼の右胸をドンと小突いた。
「だったら右胸に手を当ててみなよ。今まで僕は君の夢で悪戯してたけど、それでも君の右胸とリンクしてたんだ。でも、今はいないでしょ?」
 Jr.は言われるまま、面倒臭そうに掌をそこへ当てる。確かに、いつもは聴こえるアルベドの鼓動は聴こえない。「ちょっと見せろ」と今度はアルベドの左胸に手を当てると、自分と同じテンポで刻む鼓動がトクトクと波打っていた。
 頬を膨らませて「信じてよ」とむくれているアルベドを、Jr.はマジマジと見つめる。
 どういうことだ――コイツは本当に俺の中にいたアルベドで、ここは本当にロスト・エルサレムだっていうのか。
 彼がそのまま首を捻っていると、砂浜の真ん中でアルベドはまたはしゃぎ出した。
「ルベド、本物の海だ!ねぇ、覚えてる?昔、一緒に行きたいねって話したこと!」
 返す波に恐る恐る近付いて、逆に寄せれば笑い声を上げて飛び退く。
 Jr.の方はそんなアルベドをボーっと眺めながら、状況を整理しようと頭をフル回転させていた。
 そう言えば、最近は夢もあまり見なくなったように思う。堰を切って泣くことなどもうない代わりに、心から笑った覚えもない。昼夜の区別もつかない船の中で、ただ淡々と過ぎ行く時間に焦り、仲間の時間が終わる時を密かに恐れて暮らす日々だ。
 それが自分の現実――。
 すべきことは明確で、暇と言ってしまえば暇だが、忙しいと言えば忙しい。いつまでも自分自身で創り出した悪夢にうなされていては、それこそ時間の無駄だ。
 ――悪夢を消してくれていたアイツも、今はもういないのだから。
 深いベリルにも見える海を見つめていると、Jr.の脳裏にそれと同じ色の瞳をした男が浮かぶ。
 その男の代わりに、エルザでの自分を支えてくれているのが、波と遊ぶあの弟だ。
「ねぇ、ここって誰もいないけどさ、宇宙を救う“鍵”ってどこにあるんだろうね」
 寄せ返す波に飽きたのか、アルベドはJr.の方へ軽快に走って来た。Jr.はのそりと立ち上がり、息を弾ませて笑う弟へ躊躇いがちに言う。
「――お前さ、何でそんな――何で、俺なんかに対して、昔と同じように笑えるんだ?」
 エルザでのアルベドは、Jr.を弄って遊ぶことに全力を賭していると言っても過言ではない。夢の中では彼を過剰に苦しめ、仲間と会話する彼に横入りしてとにかくからかう。しかし、毎日のように「退屈だ」と愚痴を言いながらも、アルベドは決してJr.を無視することはなく、以前のように消滅を望んでいる風には見えなかった。
 Jr.には、それが不可解でならない。
 ――俺はお前を裏切ったのに。お前を殺したのに。
 お前を、地獄の底まで道連れにしているのに――。
 何故、自分を見捨てないのだろう。
 Jr.は今、アルベドの純粋な目を直視できずにいた。
「ルベド、泣いてるの?」
「え――?」
 オドオドしながらJr.の頬に触れたアルベドに言われ、初めて自分が涙していたことに気付く。
 12歳のあの頃なら、それでも自分は真っ赤になって否定しただろう。数十年の年月の流れは、Jr.の角を削り落とし、今では随分と小さく丸まってしまったように思う。
「――アルベド」
 パチパチと瞬きを繰り返すアルベドの身体を引き寄せ、Jr.はグッと抱き締めた。静かに流れる頬の熱さに、この身体ごと焼かれてしまいたいと思う。
 規則正しいお互いの鼓動が重なり合い、ひとつの心臓であるかのように狂いなく揃った音を刻んでいる。それが酷く心地良く、Jr.は瞼を閉じて、その綺麗な音を拾った。
 彼が湧き出す懺悔の言葉を紡ごうと唇を開いた時、アルベドはゆっくりとJr.を抱き返した。
「ルベド――その先の言葉なら、君の夢の中で何度も聞いたよ。だから僕は、もう何もいらない」
 Jr.が夢から覚める時は、真実の自分を曝け出して懺悔することが多い。醜い自分と向き合って、何らかの答えを見つけるのだ――どうにか明日をやり過ごしていけるような、そんな答えを。
 今まで何度、そうして情けない自分の足を支えてきただろうか。
 ――頼むから、こんな自分に優しくしないでくれ。そうされるほどに、惨めになるんだ。
「俺は狡い――お前等の優しさに甘えて、のうのうと生きてきたんだから。こんな夢を見続けるのも、自業自得だ」
 背中に回した手に力を込めてJr.は自分を呪うように呻く。
 アルベドはその呪いを心に落とし、少し間を置いてから、自分達を包み込むさざ波と同じような声でJr.へと語りかけた。
「君が感じるその罪の意識が、僕等の証だよ――ルベド。僕もニグレドも、サクラも――言ってしまえば、僕等は勝者なんだ。君に無償の愛を与えて、その身を犠牲にすることさえ厭わない。そうして君自身が忘れることを許さず僕等に焦がれることで、君の心には永遠に僕等が残る。他の全部をなくしても、君の中でずっと生き続けられるとしたら、それは生より大きな喜びかもね」
 少し身体を離すと俺の両肩を掴み、アルベドは俺の目をまっすぐに見つめて哀しそうに笑う。
「君は、君が思っているほど悪くない」
 アルベドの紫に歪んだ自分が映る。その自分と向かい合いながら、Jr.は思った。
 ――俺の中には、常に2人の自分がいる。矛と盾の相反する自分だ。
 未来永劫、この罪を許さないでくれと天に叫ぶ自分がいる。その罪を糧に生きていけるから、と。
 もういいだろう、どうか俺を許してくれと地に這う自分もいる。罪の重さに押し潰されて生きていけないから、と。
 アルベドは自分の中で、そんな醜い姿を見続けたはずだ。そうして、彼は上辺か本心か、最後には自分の望む言葉をくれる。
 許すでもなく、憎むでもない、自分自身をすべて受け入れてくれる言葉を――。
 そのアルベドとは逆に、Jr.は彼を憎んでしまいそうだった。愛しすぎて憎いのだ。
「時々、俺は自分以上に、お前を殺したくなる――」
「言っておくけど、僕だってそうだよ。憎くて怖くて苦しくて、それが愛しい――君とおんなじさ」
 抱き締めていたはずのお互いの首に手を掛け合って、2人は同じ顔で見つめ合う。だが、その手に力を入れることがもうないことを、2人はもう十分に分かっていた。
「だから、夢ではたくさん苦しめて遊んでるでしょ?でも、ここは夢じゃないから」
 アルベドは手を離して笑うと、Jr.の身体をぐるりと回転させた。潮風が濡れた彼の頬を乾かす中、視線の先には浜辺に立つ2つの人影がある。
 その人影に、Jr.は自分の目を疑った。
「あ――」
「ね。今までの君の夢なら、あの2人が一緒に笑ってることなんてなかったでしょ?」
 アルベドはニコッと笑い、「ほら」とJr.の手を引っ張ってその二人の傍へと連れて行く。Jr.は足場の悪さによろけながら、砂を鳴らして走った。
 近付くほどに、鼓動はどんどん速くなる。彼の前を走るアルベドのそれも、同調するように速まっているのが、繋いだ手を通してわかった。
 トクントクン、トクットクッ、トットットットッ――。
 Jr.は息を切らせ、美しい海と浜辺を背景に微笑む少年と少女を見つめる。
 アルベドの言った通り、Jr.の夢に出てくる2人はいつも哀しそうな顔をしているか、冷めた目で彼を見下ろしていた。これほど穏やかな夢を、Jr.は今まで見たことがない。
 夢じゃないのか――?いや、もし夢だとしたら、もう少しだけ覚めないでくれ。
 耐えられず、顔が歪む。
 ぼやけ始める視界でも、2人の姿が消えないことが嬉しくて、苦しい。
「――ニグレドッ、シトリン――ッ!!」
 Jr.は精一杯に両手を広げ、並んだ2人をいっぺんに抱き締めた。
「ぅっ――あ、ぁ――ぅぁああッ!」
 喉の奥から、言葉にならない声が溢れ出す。視界は海の底にでもいるかのようだ。
 苦しい、苦しい――今、自分の手の中に、求めてやまなかった愛しい弟妹がいる。
 夢とは思えない、感じられる体温がある。抱き締められる身体がある。温かな呼吸がある。
「あ、いたかった――会いたかったッ――!」
 どれほど、この言葉を言いたかったろう。
 嗚咽が止まらない。体の水分が全部なくなるかもしれない。
「ちょっとルベド、苦しいわ――」
 困ったようなもどかしいようなシトリンの声が、頭から降った。
 自分の感情をセーブできなくて、懐かしいその声も掻き消すほどに、Jr.は泣いた。
 小さな子供のように――いや、子供の頃でも、これほど号泣したことなどなかったと思う。
 心の底に詰め込んで蓋をしていた想いを、呂律の回らない口で搾り出す。
「俺の、っく、俺のせいで――俺、が殺した――ゴ、メン、ゴメン――ニグ、ドッ、シトリ、ごめんなぁ――ッ!!」
 ずっと謝りたかった。
 俺が悪かった、俺のせいだった、俺が殺した。
 だから、大切なものも失った――。
 好きだったのに、大好きだったのに。
 ずっと4人一緒だと、そう信じて疑わなかった俺は、本当にバカだった――。
 Jr.は腕の力が入らなくなるほどに、2人を抱き締め続けた。
「ルベド、そんなことはもういいんだ――僕はまた、君に会えて嬉しいんだから――」
 ニグレドに抱き返されても、ただ泣きじゃくる。鼻水が垂れるどころか、声まで枯れてきた。
 それでも、この温もりが嬉しくて苦しくて、胸がギュウギュウに締め付けられる。ぐるぐると頭が掻き回されたように痛むことも、彼にとってはどうでも良かった。
 噴水のようにだだ漏れる涙と想いが尽きるまで、ただこうしていたかった。
「――うっ、ごめん――ひっく――ぅあ、シトリンッ――ニグレドォォッ!」
 ――お前達を失って、後悔しない日などなかった。
 ここには誰もいないから。兄弟を邪魔するものは、何もないから。
 ――だから今だけ、本当の俺で泣かせてくれ。
 静かな浜辺で、Jr.の叫びは広がる海へと流されて行く。


**


 Jr.の涙が尽き果てた頃、太陽は彼等の頭上を飛び越えて少し傾きかけていた。
 浜辺から少し登った小高い丘へと移動したのはいいが、改めて思い出すと大泣きしていた自分が恥ずかし過ぎて情けない。突き出した石の腕を蹴って、Jr.は真っ青な花が敷き詰められた地面に座り込んだ。
「青い花――ここってキレイなものばかりだね。何だか――」
 花畑を見渡しながら、アルベドは最後の言葉を飲み込むと、代わりにJr.の右隣でころんと寝転ぶ。
 遠くからでは青い花の絨毯にしか見えなかったこの一帯は、ヘパティカ・ノビリスの群生地のようだ。小さな花々が辺り一面を覆い尽し、その間からちらちらと遺跡の角が見え隠れしている。
「落ち着いた?ルベド」
 左隣にニグレド、ニグレドの隣にシトリンが順に腰を下ろす。
 その2人の顔もまともに見られず、火が噴出しそうな顔を覆ってJr.は内心嘆いていた。
「ねぇ、ルベド。そんな服、脱いじゃいなよ」
 アルベドはそんなこともお構いなしに、泣いて目尻が赤く腫れ上がったJr.を見上げ、彼のロングコートに触れる。
 すると、Jr.が青に映えた白い髪を見ている内に、彼の服は触れられた部分からだんだんと変化し始めた。じわじわと見えてきた新たな服は、アルベド達と同じU.R.T.V.の制服だ。あっという間に、4人お揃いの姿で並んでいた。
 現実では起こり得ないその光景に、Jr.の煮詰まった頭は一気に冷める。
「やっぱり夢だろ――」
 制服の裾をひっぱりながら吐き捨てた彼の声は、完全に枯れてガラガラだ。シトリンはこの声を聞き、「あら、お父様の声みたいでセクシーね」と、これ見よがしの嫌味を言った。
 このシトリンも、結局は自分の幻なのか――生意気加減もこんなにリアルなのに。
 弱々しく項垂れるJr.を見て、隣のニグレドはくすりと笑う。
「ルベドはJr.になってから、夢ばかり見ていたもんね」
「あら、ニグレド。ルベドは夢ならその前から見ていたじゃない。“いつか真っ赤な戦艦に乗って、宇宙を冒険するんだ!”――なんて、馬鹿げた夢を語っていたこと、忘れた?」
「シトリン、よく覚えてるじゃない」
「煩かったからよ」
 ニグレドとシトリンは、楽しそうにJr.の話題で盛り上がる。
「でも、これは夢じゃないんだよね?」
 そんな気の合ったニグレドとシトリンの様子を見ていたJr.は、懲りずに言い張るアルベドに呆れた。
「アルベド。お前、まだそんなこと――」
「うん、ここは現実のロスト・エルサレムだよ」
「今更、何を言っているのよ」
 アルベドの意見を否定しようとしていたJr.は、あっさりと肯定してしまった2人の言葉に一度瞬きをすると、次の瞬間にはガラガラの声で「嘘だろッ!?」と思い切り叫んでいた。
 自分達を疑っている兄に、ニグレドとシトリンは二人で顔を見合わせ、仕方がないなとでも言うように肩を竦める。
「ルベド。これが夢なら、僕等はみんな同じ夢を見ていることになるよ」
「私、貴方の夢に出るほど暇じゃないわ」
「だ、だってよ――俺はエルザに――え、マジで?」
 頷きながら笑っているニグレドと、さも馬鹿にしたように自分を横目で見ているシトリンを、Jr.は交互に見ながら混乱していた。ヘパティカの花をバッと散らせて、勢いよく立ち上がる。
「じ、じゃあ“鍵”は!?フェイルセイフによる宇宙の崩壊を止めて、未来を守る術はどこにあるんだ?それに、ケイオスは?アイツ等もここで待ってるって――お前等だけ?あ、いや、お前等に会えただけでスッゲェ嬉しいんだけどさ。やっぱ俺、先にそっちを片付けないと――あっ!シオン達もどっかにいるだろうから――」
 両手をブンブンと振り回しながら、Jr.は焦って説明し始めた。あたふたとする彼を見てニグレドが何か言いかけると、シトリンは片手でそれを制止して冷静に答える。
「“鍵”なら中心部のレンヌ・ル・シャトーに隠されているんじゃないかしら。それと、貴方の仲間だったらここへはまだ辿り着いていないわ。今このロスト・エルサレムにいるのは貴方達2人だけよ」
「レンヌ・ル・シャトーか。よし、だったら俺達だけでも先にそこへ――」
「待って――今の貴方達じゃ無理よ」
 決起したJr.をシトリンはピシャリと止めた。アルベドがきょとんとして彼女に尋ねる。
「どうして?」
「“イデア”に気付いていないから。でも気付かずとも、この“虚無の浜辺(イェーンザイツ)”にいれば平気よ」
「時は海へと流されてしまうからね。外界との時間を気にする必要はないんだ」
 シトリンとニグレドが当然のように話していることの意味が分からず、Jr.とアルベドは腑に落ちない顔のまま、青い地面にもう一度腰を下ろした。
 今度は4人が円形になるように座ると、Jr.は正面のシトリンに問う。
「“イデア”って何だよ。プラトンの概念が関係あるのか?」
「違うわ。けれど、自分で気付けなければ意味がないの」
「ケイオスみたいなまどろっこしい言い方すんなよ」
「言葉の真意も理解できない貴方が間抜けなのよ」
「お前なあ!」
 ケンカになりそうな気配を察し、間に挟まれたニグレドが「まあまあ」と2人を宥める。アルベドはその3人を面白そうに眺めてから、パンと手を合わせて満面の笑みで3人をぐるっと見回した。
「ねぇ!時間が関係ないなら、ルベドの仲間が来るまで遊ぼうよ。僕、あの浜辺で砂のお城を作りたい」
 得意気に笑って目をキラキラとさせるアルベドを、驚いた3人が一斉に凝視する。「いい考えでしょ?」とニコニコしているアルベドに、Jr.は怒鳴った。
「バカ言うな!遊ぶって、そりゃぁ俺だって――いや、でもダメに決まってんだろ!」
 責任感から自分を奮い立たせている彼を見て、アルベドはムッと頬を膨らませて言い返す。
「何でさ。どうせシトリンの言う“イデア”だって、ルベドはわかってないんでしょ?じゃあ、“鍵”だって探しに行けないよ。だったらさ、ちょっとくらい遊んだっていいじゃない。大体、さっきまでルベド、ずーっと泣いてたくせに――むぐぐ」
「わーわーわー!言うな、わかったから!つーか、もう忘れてくれ!」
 大慌てでアルベドの口を塞いでいるが、Jr.が大泣きしたことなど、泣き声を耳元で聞かされたニグレドとシトリンにとっては今更隠そうとしても、まったく無意味な行動だった。
 揉み合っている兄達を見て、ニグレドがそっと自分の目元を擦る。それを見たシトリンも隣で切なそうに笑ってみせた。

 浜辺へ行く前に、4人は花畑に円をかいて寝転がっていた。それぞれの頭が円の内側にあり、赤・白・橙・黒の色とりどりの頭が、青い地面の上で時々揺れる。
 周りの木々から暖かな太陽の木漏れ日が差し込み、彼等の身体に光を落とした。この周辺にもやはり生物の影はなく、物言わぬ植物を揺らす風の音と、どこまでも響き渡る波の音だけが兄弟の肌に届く。
 インスティテュートで遊んだこと、探検したこと、怒られたこと、とたわいない会話は弾んでも、流れた歳月が誰かの口を閉じさせたりもした。それでも兄弟の口からは、今まで秘めていた言葉の欠片がポロポロと零れて止まらない。
「まさかこんな形で、俺達の“いつか本物の海を見に行きたい”って願いが叶うとはな」
「そう言えば、そんなこともあったね」
 Jr.とニグレドは、そう言って同時に笑った。
 青い絨毯に包(くる)まれて眠ってしまったアルベドの頭を撫でながら、Jr.はニグレドとシトリンに静かに語る。
「あの頃、俺は何も知らない子供だったよ――今でも、俺はまだ何も知らない」
「私もよ」
 手元の花をくるくると弄りながら、シトリンはくすりと笑った。オレンジの髪はサラリと揺れ、少女特有のしなやかさが彼女をどこか儚く見せる。
 アルベドの静かな寝息が聞こえる中、Jr.は自嘲気味に続けた。
「“俺を愛するものは一人もいない。俺が死んでも憐れむ者は一人もいないだろう”なんて、主人公気取りでさ――笑えるよな、俺はリチャード三世のように何かに徹しきれたワケでもない。ただ臆病で中途半端な、情けない大人だよ」
「けれど、それが君の哀しい魅力でもあった。ルベド――君はあの主人公のように、僕等の亡霊にまで苦しむ必要はないんだ」
 Jr.の空いた手を握って微笑んだニグレドに、彼は頭を振って答える。
「――バカ言うな。俺はその亡霊に救われてるんだぜ」
「自分には幸せになる資格なんてない?」
 ニグレドに優しく言われ、Jr.はアルベドの髪を梳いていた手をピタリと止めた。その様子にシトリンが小さく息を吐く。
「器の小さな男ね――それは貴方が決めることじゃないわ」
「お前はカワイクねぇ女だよ」
 苦笑したJr.をシトリンはちらりと見てから、少し恥ずかしそうに頬を染めて言った。
「これでも、男には不自由しなかったのよ。どれも使えなかったけれど」
 暗に自分はモテたと主張する彼女の可愛らしい顔に、ニグレドがプッと吹き出す。
「そうそう。僕等の中で唯一、結婚できたものね」
「えっ、マジかよ!?どんな男だ、俺の妹を!」
「僕に似た人、かな」
「ちょっと、ニグレド!誰もそんなこと言ってないでしょう!?」
 真っ赤になったシトリンにバシッと背中を叩かれ、ニグレドは咽ながら「ごめん、ごめん」と軽く謝った。
「お前等、昔より更に仲良くなってないか?」
 Jr.は2人の様子を眺めながら、少し羨ましそうに呟いた。
 ニグレドが自分よりシトリンの方へ心を許しているのは、何となく面白くない。そんなくだらない嫉妬に気付き、Jr.は自分で恥ずかしくなる。
「まあ、ここじゃ仲を深める他にすることもないしね」
「ニグレドはもう黙って」
 バラ色の頬をしたシトリンに怒られてばかりいるニグレドの言葉を聞き、Jr.は「あ、そうか――」と俯いた。
 彼等はあのアベルの方舟で肉体的な死を体験した後、この地でずっと留まっているのだ。この美し過ぎて何もない大地で、彼等は、ずっと――。
 そう思ってから、Jr.はふと首を傾げた。
 自分は今、“肉体的な死”と脳に言葉を並べたように思う。では、肉体を持つ自分と同じように彼等の体温を感じるのは何故だ。腹も減らない気がする。そもそも、何故この地には2人しかいないのだ。ケイオス達がレンヌ・ル・シャトーにいるとしても、他にも大量の意識がこの地へと送られたはずではなかったか。一向に来ない仲間達も気になる。
 自分は何か見落としているのではないか、という考えにJr.が至る前に、ニグレドが薄っすらと目を覚ましたアルベドを見て穏やかに言った。
「そろそろ、浜辺へ降りるかい?」
「ん~?――あ、うん!行こう、ルベド!」
 目を擦りながらぼんやりとしていたアルベドは、ニグレドの言葉にパッと覚醒すると、Jr.の手をまた握って走り出した。
「おい、アルベド!また転ぶだろーが!」
 文句を言いながら、Jr.は頭の片隅に引っかかった疑問をそのままに、青い海へと向かって行った。


***


「僕とルベドとニグレドのお城、ほぼ完成!」
 茜色の夕陽に染まった浜辺で、アルベドが嬉しそうに大きな砂の塊を叩く。彼の白い髪は薄いオレンジに照らされ、ところどころ砂でも汚れてしまっている。
 すっかり潮が引いた浜辺には、不恰好なアルベドの城が歪な影を作っていた。
「何よ、その不細工な造形。砂なんてすぐに崩れて意味もないけれど、どうせ作るならもっと綺麗にできないの?」
 夕陽と同じ色の髪を黄金色に輝かせて、シトリンがアルベドとその城を見下ろす。城というよりは、どうにも土砂が崩れたようにしか見えない。良く言って、泥の要塞だろう。
「そんなこと言うなら、シトリンの部屋は猫のガイナンの部屋にするからね!」
 砂の土台の出っ張った部分を指して怒るアルベドに、シトリンはギョッとして聞き返した。
「――何ですって?貴方、ガイナンを知っているの?」
 彼が自分の部屋を用意していてくれたことにも驚いたが、ルベドとニグレドがインスティテュートで飼っていた猫のことを、知らないはずの彼が知っていることは驚愕の事実だ。
「知ってるよ。だって僕、ルベドの中でルベドの見る夢を毎日見てるもん」
 その言葉を聞いて、シトリンはスッと納得できた。彼はルベドとの合一を果たし、永遠の孤独から解放されたのだと、ニグレドから聞いている。ルベドの悪夢には、猫のガイナンも登場することがあるのだろう。
 アルベドはポンポンと砂の塊を叩いて形を整えながら、睫毛を震わせながら続ける。
「でも、本当はずっと前から知ってたよ。ルベドとニグレドが僕に内緒にしてたのは悲しかったけど――でもいいんだ。だってあの時の僕は、ガイナンにどうやって接すればいいのか、どうせ分からなかったしね」
 シトリンは面食らったようにアルベドを見る。彼から悲哀の様子は微塵も感じられず、ただ楽しそうに城を作っているだけだ。
 シトリンは何も言わず、スッと屈んで彼の作った城の横に砂を積み上げ始めた。
「シトリン?」
「私の部屋を猫と一緒にしないで。ガイナンの小屋なら別に作ればいいでしょう」
 アルベドが不思議がっていると、シトリンは顔を上げずにボソッと言った。白い手が汚れることも気にせずに、砂を集める。
 アルベドが初めて自分だけのその能力に気付いてから、3人の仲が変わっていったことは自分も知っている。不死の能力を持ったアルベドの苦しみは自分には分からないが、今こうして狂気の薄れた兄と触れ合えている今に、彼女は心から感謝した。
 ただ、それを表に出すことは決してなく、彼女は湿った砂を叩いて固め、意外と難しい小屋作りに集中する。
 シトリンのそんな姿を見て、アルベドはポツリと呟いた。
「本当は僕、ニグレドとシトリンのことも知ってたよ」
 何の邪気もない、素直な感情だった。その声の主に、シトリンは彼が今まで一度も見たことがないような優しい顔で微笑む。
「私達の中で貴方が一番、大人よね――昔からずっと」
「そうかな」
「少なくとも私はそう思うわ。一番上の兄より、兄らしいかもね」
 アルベドは「へへっ」と笑ってシトリンに猫の小屋作りを任せると、自分はまた城の領地を拡大し始める。紫の瞳いっぱいにオレンジ色の太陽が映り、狂気の色は場所を奪われてしまったようだった。

 そんな弟と妹を見守りながら、Jr.の方はニグレドと浜辺をゆっくり歩いていた。ザッザッと砂を踏みしめる度に、浜辺には蛇のような2本の足跡が点々と出来て行く。
 Jr.の赤い髪は夕陽で更に燃え上がり、ニグレドはその眩しさに緑の瞳を細めた。
「――ファウンデーションは、ヘルマーのおっさんの支援とアイツ等の底力でもってるよ。モモ達の頑張りもあってさ、順風満帆とはいかねぇけど何とかなるもんだなって――人の力ってスゲェよな」
 どこか遠くを見つめながら、Jr.はしみじみと言う。ニグレドはただ黙って、彼の話を聞いていた。
 もどかしいのかJr.はくるりとニグレドに振り向き、少しためらったものの真っ直ぐな目で告げた。
「シェリィとメリィをエルザに乗せてる」
「そう――」
 その言葉にも、ニグレドはただ微笑んで答える。
「殴っていいんだぜ。俺はアイツ等の未来を奪ったんだから」
 Jr.が困惑したように言うと、ニグレドは首を振って否定した。
「いや、それは僕だよ。僕が彼女達に、Jr.を頼むと言ったから――」
 最後に見た姉妹の泣き顔を思い出しながら、ニグレドは自分のエゴだと自覚しつつも、瞼を閉じて彼女達が幸せであることを祈る。
 そのニグレドを見つめたまま、Jr.は自信なさ気に呟いた。
「――俺はそんなに頼りねぇか」
「危なっかしくて見てられないよ」
 あっさりとのたまった彼にJr.は目を丸くしたが、構わずニグレドは真剣な面持ちで続ける。
「でも僕は、そんな君をずっと騙してたから――君をもっと危ない場所に立たせていた」
「親父のことなら、お前のせいじゃねーよ」
「それもあるけれど――」
 立ち止まって、ニグレドは口を噤んだ。2つの影が海に向かって伸びたまま、動きを止める。
「“処刑人”か――?」
 Jr.がそう言った途端、ニグレドの肩がピクリと反応した。憂いを帯びた緑の瞳が、ゆっくりと空色の瞳を見つめる。
「俺は、お前が俺に対して何かを隠していることはインスティテュートの頃から知っていた――でもそれを問い詰めようとすると、いっつもお前にはぐらかされてたよな。お前は昔からデキた弟で、俺にはちっとも甘えようとしなくて――全部、独りで抱え込んじまうんだ」
 それは僕が君に暗示をかけていたからだ、とニグレドは思った。彼が自分に対して疑問を抱くと、後ろめたさを心の底に押し込みながらも、知られることを恐れて彼の記憶を奪っていた。
 知っていることと知らないこと――たったそれだけの差が、これほどまでに高い壁を築き、自分達を別つことになるとは思わなかった。
「それは、ルベドも同じだよ」
 ニグレドはそれでも笑っていた。彼はどんな時にでも笑える術を持っていた。そうでなければ、彼が誰かの前で笑うことなど、一度もなかったことだろう。
 ニグレドの笑顔の底を知っているJr.は、その顔を見る度に痛みを感じた。
「お前のは、俺のと違う。お前は自分で自分を恐れていて――」
「違うよ!僕は、自分が君にとって危険な存在だと分かっていて、それでも君の傍にいたんだ。ずっと君を監視して――君をいつ殺してしまうか怖かった!汚染された標準体が死んで行ったのも、博士に身体を盗られてデュランダルが壊滅したのも、僕のせいだ!何も知らないフリをしていた――僕の――ッ!」
 グッと拳を握り締め、ニグレドは自分へ怒鳴った。夕陽に照らされた身体が火照っている。
 珍しく大声で叫んだ彼を、Jr.は微動だにせず見つめていた。自分の視界で、そのJr.が酷く歪んでいくのがわかった。歪んだJr.がゆっくりと口を開く。
「ニグレドが俺の傍にいてくれたのは、俺がお前を縛っていたからだろ。それでもお前は俺を好いてくれてたんだ――そんなお前を、誰が責めるよ」
 Jr.はそう言って、どこか苦しそうに笑った。そうして、朱色に染まったニグレドの頬を伝う雫を、親指の腹でグイッと拭ってやる。
「12年間、インスティテュートで俺達を守ってくれて、15年間、ファウンデーションで肩を寄せ合っていた。誰かに傷の舐め合いと言われようが、俺はお前のお蔭で生きてこられた――ニグレド、俺はお前と生きてこれて幸せだったんだ」
 自分が泣いていた時とは違い、壊れ物を抱くようにJr.はニグレドの背へそっと手を回した。震えるニグレドの肩に頭を乗せ、瞼を閉じて呟く。
「だから俺、お前になら殺されても構わなかったぜ」
 彼の言葉を聞くニグレドの瞳からは、心の底に押し込められた苦しみが溢れ出して止まらなかった。ただそれは、Jr.のように熱く荒々しく、爆発を起こすようなものではなく、どこまでも冷たく静かな、小川のように流れ続けるもので、ニグレドはその流れに身を任せてみる。
「たくさん苦しませて、独りで辛い思いさせて、ごめんな」
 ――違うんだ、謝るのは僕の方なんだ。
 自分はあのアベルの方舟で、最期にJr.を残して自分が消えることで自らの役目から解放され、同時にJr.への復讐も果たしたのだ。
 自分にとって絶対的存在だったJr.は、自分を生きたまま殺し続けていた存在で、どこかできっと憎む気持ちもあったのかもしれないと、今となっては思うのだ。
 アルベドの望みを“合一”と決めつけたが、彼の本当の望みは違ったかもしれない。
 Jr.に幸せになって欲しいという願いは真意だが、純粋にそれだけを望んでいたかと自分に問えば、答えられないのだ。
 Jr.のトラウマとなったサクラやアルベドのように、自分もそうして彼のために死を選ぶことで、彼の心に一生消えない傷を残したかったのかもしれないのだ。
 幸せになって欲しい――けれど、自分のことで苦しんで欲しい、のかもしれない。
 それでも――。
「――ルベド、は――僕を、許してくれる――?」
 ニグレドは小さく小さく呟く。
「君は本当の僕をすべて知っているの?すべてを知っても、同じことが言える?」
 恐れるように早口な言葉を聞き、Jr.はしばし考えてからきっぱり「言える」と答えた。
「お前のすべては知らない。けど、お前になら何も言わずに殺されても、俺は構わない――俺がお前を大切に思う気持ちも変わらない」
 Jr.はハッキリそう言うと、ニグレドを抱いたまま「あ」と思い出したように声を上げた。
「でもさ、ずっとお前の兄貴でいさせてくれるようには頼むかな」
 恥ずかしそうに言った彼の言葉に、ニグレドの瞳からは更にポロポロと雫が零れる。
 ――どうしてこんなに泣いているんだろう。
 兄の口から発せられる自分のためだけの言葉に確かな幸福を感じ、優越感と罪悪感の矛盾した気持ちが交錯した。しかし、兄の体温を感じながらそうしている内に、どんな感情もすべてが綯い交ぜになって溶けてしまい、今この一瞬の充足だけが最後には残る。
 ニグレドは、初めて自分の感情をコントロールしようとしなかった。生まれたばかりの赤ん坊のように、自分を抱き締める存在に自分のすべてを預けて、泣いた。
 1つに重なった長い影は、海からやってきた星付きの群青によって薄れゆく。それでも、波の音は変わらず彼等を包んでいた。


****


 赤い太陽が地平線の彼方へと沈んでしまうと、海から白い月が顔を出す。
 チェシャ猫のようにニンマリと笑うその月は、ほんのりと柔らかな光を放って海面を宝石のように煌めかせていた。潮風は少し肌寒くなり、相変わらず波音だけが流れない時を刻み続けている。
 兄弟は、またヘパティカの青い地面にいた。そこから海を眺め、食事の代わりに言葉を交わす。
 ニグレドとシトリンは、またウトウトとしてきたアルベドをからかっていたが、Jr.は会話に相槌を打ちながらも、一人考え込んでいた。
――思い出せ、そして省みろ。
 そう心の中で唱え、自分の両の掌をジッと見つめてみる。特に何の変哲もない、“666”の刻印が赤く笑う、銃のマメができた小さな子供の掌だ。
 小さい――自分は27年間、12歳の少年のままだった。過去に固執したがために、汚れた自分を隠し、レアリエンの少女のように神聖でありたかった。“レッド・ドラゴン”の能力が制御しきれないことも問題だったが、それ以上に自分の姿は、サクラとの約束を理由にモモを守るという名目で、実際には幸福だったあの頃をどこかで取り戻したかったからなのだ。過去に心を置いて来たままなら、何を詰め込もうと成長などする訳がない。
 だが、足掻くことを止めた現在はどうだろう。
 世界を知り、己を知り、過去を過去として認識した――多くの大切な者達と引き換えに、自分は自分を知り得た。そうして、自分は初めて成長したのだ。
 思い出せ、エルザでの自分の姿を――。
 シトリンの言う“イデア”とは何だったか――個々の事物をそのものたらしめている根拠である真の実在。見られた形、知られた姿。
「これは、俺の真実の姿じゃない」
「ルベド?」
 突然立ち上がったJr.にアルベドが驚く。しかし、ニグレドとシトリンは表情を変えずにそれを見上げていた。
 Jr.はアルベドの腕を引いて立ち上がらせると、自分達を見つめる2人に一言一言、言葉を区切りながら告げる。
「俺達はまだ、ロストエルサレムに辿り着いてはいないんだ――そうだよな、アルベド。エルザでの俺達はどんな風だった?」
 問い掛けられたアルベドは、ハッとしたようにJr.の姿を上から下まで辿ると、ふるふると首を振った。
「うん、ルベドはこんなに小さくなかった――そうだ、そうだよ。僕ももう、子供じゃない」
 自分の両手を眺めて、アルベドが独り言のように呟く。
 彼がそうしている内に、ニグレドとシトリンの瞳に映るJr.の背がだんだんと伸びてゆく。
 140cmの身長は、高速に成長する樹木のように180cm近くまですらりと伸びきり、赤い髪と青い瞳はそのままに、しなやかな少年の肢体は、逞しい筋肉を持つ大人の男のそれへと変化していった。外見年齢は12歳の少年ではなく、20代後半の立派な青年だ。
 ラフな格好でコキコキと腕を鳴らすJr.の隣では、同様にテスタメントの姿へと戻ったアルベドが、190cmの長身で白い頭髪を無造作に掻いて、大きな欠伸をしている。
「これが今の俺達なんだ」
 Jr.はアルベドの方をちらりと見やると、彼の欠伸よりも少し高いテノールで、2人の弟妹を見下ろした。2人が立ち上がっても、頭はJr.の胸下ほどにしかならない。
 Jr.は二人の頭をくしゃくしゃと撫でながら眉根を歪めて笑った。
「まだ、会いに行けないんだよ」
 本当の12歳の頃は太陽のように眩しく輝いていた瞳が、今は月のように穏やかな光を湛えている。それは、ユリがサクラを見つめる時のような、とても深い愛情に満ちた光だ。
「どうして?」
 シトリンが腕を組んで尋ねる。同じ目線で見ていた時には偉そうだと思ったその様子も、今のJr.にはとても可愛らしく見えた。
「やらなきゃいけねぇことがあるから」
 Jr.は言いながら思う。
 ――俺が悪かった、俺のせいだった、俺が殺した。
 だから、大切なものも失った――でも、まだ残っている。俺を必要としてくれる人達がいる。
 もう、終わりにしなければいけない。愛おし過ぎて振り返ったとしても、また前を向いて進まなければいけない。ユリやジギーといった、先に行く人達がそうしてきたように。
「また誰かとの約束?」
 ニグレドが首を傾げた。Jr.は静かに首を振る。
「いや、俺が自分で決めたこと」
 自分の頭を撫でていた大きな手を両手で握ると、ニグレドは悲しそうに呟いた。
「寂しいな――寂しいよ、君達がいないと」
 そんな彼を見て、Jr.はまた眉根を下げたが、それでも力強く答える。
「あれだけ泣いておいてカッコ悪ぃけどよ――もうどれだけ足掻いたって戻れやしないって、自分が一番よく分かってる」
「そっか――」
 成長した彼の言葉に、ニグレドは悲しみの表情をスッと消して、安心したようにニコリと笑った。
「ごめんな」
 最後にもう一度、Jr.は2人の頭を優しく撫ぜる。
「おいおい、ルベド。コイツ等だって、お互い様なんだぜ」
「お前は昔のままの方が、可愛げあって良かったのにな――」
 Jr.は大きくなったアルベドの方へ振り向くと、小さなアルベドを思い出して溜め息を吐いた。ニヤニヤと不適な笑みを浮かべた今の彼には、先程までの無邪気な笑顔など欠片も残っていない。
「――シトリン、もういいんじゃないか?」
 突然、アルベドと同じ低いテノールが背後から聞こえたことに、Jr.は驚いて向き返った。同じ声の主に、アルベドもその視線を移す。
 先程まで彼等の見下ろした視界にいた小さなニグレドとシトリンは消え、代わりに同じくらいの目線の先に男と女が立っている。
「ほうら、お互い様と言ったろう」
 アルベドがJr.を足で蹴って笑ったが、彼の方はただ眼前の2人を無心で見つめていた。Jr.よりも少し高い目線から、黒いスーツに身を包んだ男は、隣の女に向かって言った。
「分かったろう――ルベドは俺達の兄だ。救世主(メシア)でもなければ、魔王(サタン)でもない。俺達がそうであったように、悩み迷いながら生きてきたひとりの人間なんだ」
「ニ、ニグレド――?」
 Jr.は瞬きもできずに男の名を呼んだ。
 ファウンデーションで共に過ごしていたガイナンが、今ここにいる。自分の前で、昔と同じ姿で、同じ声で、同じ口調で話している。
「そうね――貴方は私達の兄。それ以上でも、それ以下でもない」
 ガイナンの隣で、彼より頭一つ分背の低いシトリンが、艶やかな唇を動かして答えた。膨よかな胸が組んだ腕の上で揺れる。
 いつでも一人状況が理解できないJr.は、自分のことはお構いなしに落ち着いた兄弟達へと、情けないと思いながらも尋ねるしかない。長い手を振ってガイナンとシトリンに詰め寄った。
「どういうことだ。夢だから、お前等もデカくなったのか」
「相変わらず鈍い男ね。ロスト・エルサレムは夢と現実が交差する、そういう不安定な空間なのよ」
 呆れたようにシトリンが長息を吐くと、補足するようにガイナンが説明する。
「実数と虚数の領域が重なり合う宇宙とは違い、通常は知覚することのできない虚数領域だけの世界だからな」
 それでもJr.は納得できずに、ガイナンと同じ顔をしかめた。
「――俺達はまだエルザの中だ。情報を得て確実に近付いてはいるが、ロスト・エルサレムの目視はおろか、探知レーダーにすら一切反応したことはないんだぜ」
「ここに物質である肉体は不要だ――お前とアルベドの精神のみがエルザから離脱し、このロスト・エルサレムの地へ呼ばれたとしたら?」
 自分の意識だけがロスト・エルサレムまで飛んで来ただって――?
 それこそ夢のような話を当然のように話すガイナンを、Jr.は困惑した顔で見つめる。
「そんな現象、有り得ねぇだろ」
「有り得ない、なんてことは有り得ない――数学的矛盾だが、矛盾の塊であるお前に否定できるのか?」
 少し高いJr.の声に、アルベドが少し離れた場所から馬鹿にしたように低音を投げかけた。薄笑いのアルベドの方を睨んでから、Jr.は話を次へと進める。
「それが事実だとしても、誰が俺達を呼べるんだよ」
 シトリンが少し考えてから、彼女にしてはあまり自信なく答えた。
「お父様――だった意識、とでも言えばいいかしら」
「――親父?」
「ニグレドと共に消滅したならここへ飛ばされて当然だが、まだ残っているとはな。しぶといゴキブリ野郎だ」
 青い花をグシャグシャに踏み潰して遊んでいたアルベドが、また横やりを入れる。そんなアルベドを無視して、Jr.はギュッと拳を握り締めると憤慨した。
「どこにいるんだよ、アイツ。ぶん殴ってやる!」
 デュランダルの一件を忘れていない彼は、あの時の父親の顔を思い出して唇を噛む。怒るJr.を見ながら、シトリンは少し哀しげに目を逸らせて呟いた。
「今のお父様には、私達のような個の意識はないわ。すべてを受け入れ、この世界の一部となったのよ」
「つまり――世界がお前達を呼んだんだ」
 世界に呼ばれたらしいJr.は、握り締めた拳を解いて半信半疑でガイナンを見る。それでもガイナンは、まるで無実を主張する被告人のように、嘘はないとJr.の前で堂々としていた。
「ということは、ニグレド――結局はディミトリに利用されたな」
「ああ、癪だがな」
 またも皮肉を言うアルベドを、ガイナンはさらりとあしらう。
 ガイナンの身体を乗っ取ったディミトリは、自分が息子達によって消滅させられるという未来も、想定の範囲内だったということだ。自身をウ・ドゥと同等の存在へ昇華する、その鍵であるツァラトゥストラを手にすることは阻止されても、恐怖を克服したいという彼の最終目的は結果的に達成されたことになる。
 誰もが迎える安息の“死”という最終手段で――。
 U.M.N.の転移実験によって、意識の憑依能力を得てしまったことが彼の不幸であったのかもしれない。肉体的な死を遠ざけることができてしまったばかりに、死を軽視しながらも誰よりもその恐怖に怯え、盲目のままバベルの塔を倒れるまで造り続けたのだから。
 シトリンはそんな彼を悼みながら、静かに言う。
「苛まれ続けていた恐怖から解放され、集合的無意識を享受したあの人は、自分が消える最後に貴方達を呼んだのよ」
「すべての人の意識の最深層――宇宙全体と繋がっているそのネットワークを通してな」
 ガイナンが続けた。
 Jr.はその話を聞いて、チッと舌打ちをする。
「自分の望みのために俺達を生んどいて、それが叶えば独りで消えちまいやがって――どうしようもねぇ親父だぜ」
 兄弟をこの地で再会させたことが、彼の贖罪なのかどうか、真理のほどは分からない。
 それでもJr.は、これが息子達のためのものだと信じたかった。彼のしてきた行いは許せるものではなかったが、ニグレドやアルベドと違い、Jr.は彼が自分達の父親だと常に受け入れ続けていたのだから。
「お父様らしいわ――」
 Jr.と同様に父親を慕っていたシトリンが、愛しそうに呟いた。
「迷惑極まりないがな。リチャード三世に相応しいのは奴だろう」
「珍しく気が合ったな、ニグレド」
 吐き捨てるように言ったガイナンとアルベドを見て、Jr.とシトリンは顔を見合わせて苦笑した。

「じゃあ、俺が自分と相手を知覚しているこの状況も、俺達共通の意識が創り出したものだってことか」
 ようやく状況が理解できたJr.は、月光の下で満点の星を眺めながら言った。ガイナンは、自分とほぼ同じ背丈になったJr.を眺めながら答える。
「そうなるな。実際には我々にも肉体はない」
「――」
 肉体はない、との言葉がJr.の胸を謀らずとも抉った。
 分かっていたことだが、ロスト・エルサレムに辿り着いたとしても、昔のように4人で仲良く生きていけるわけではないのだ。自分と彼等の間には、生者と死者という大きな河が横たわっているのだから。
 それでも、もう一度こうして会えた。抱き締めることができた。
 ――俺にとって、これ以上の幸せはないだろう。
 Jr.は静かに笑った。
 シトリンはガイナンの横で、その美しい顔を崩すことなく淡々と告げる。
「私達は集合的無意識(ウーヌス・ムンドゥス)から逃れることを選択し、拒絶しているに過ぎないわ。フェイルセイフが働いている今、私達の意識がいつまで保つのかはわからない――」
「シトリンはお前達を試したんだ。もしも、お前がこのまま俺達とここにいることを望むのならば、宇宙の救済などという大義名分にくれてやるより、自分達の元で宇宙最期の日までいさせてやりたい、と――彼女なりの優しさだよ」
 ガイナンはそう言うと、横にいるシトリンを見て片目を閉じてみせた。キザな彼を容赦なく睨み、シトリンは不覚と思いつつも頬を染める。
「ニグレド、それは貴方の意見でしょう?」
「いや、俺はルベドがそれを望むとは思えなかったからね――言ったろう?ルベドは、君が思っているより強い男だと」
 思わぬ所で弟に褒められ、Jr.は少年だった頃のまま素直に照れた。が、すぐに続いたガイナンの「まあ、思ったより時間は掛かったが」という言葉に、一転してムッとする。
「馬鹿ね、ルベドがそれだけ貴方のことを想っている証拠――」
 シトリンはガイナンを嗜めるが、マジマジと自分を見つめる視線に気付くとハッと口を噤み、視線の主をじとりと睨む。
「――何よ、その顔」
「あ、いや――ありがとう。シトリン」
 頬を膨らませたシトリンに、Jr.は頭を掻きながら礼を言った。素直な兄に気勢を削がれた彼女は、プイと顎を背けて言う。
「貴方に礼を言われることはしてなくてよ。気持ち悪い顔はやめて」
 その彼女に苦笑したJr.は、ふと真剣な面持ちに戻ってガイナンとシトリンを見つめた。
「必ずここへ辿り着くよ。俺の還る場所は、初めから――兄弟(ここ)しかなかった」
 そう宣言したJr.に、ガイナンは優しくアドバイスをする。
「肉体に戻っても、お前の心はここを覚えているはずだ。それがお前達の助けになるだろう」
「ああ。今は半分夢だけど、必ず俺が未来の現実にする」
 明るい表情を取り払ったJr.の顔は人形のように端正で、決意の強さを物語っていた。
 その彼に諦めたようにも満足したようにも見える微笑みを返すと、ガイナンは1人で星の数を数えていたアルベドにも呼び掛ける。
「お前はどうするんだ、アルベド」
 自分と同じ声にゆっくりと振り向いたアルベドは、至極楽しそうに笑って言った。
「お前らと仲良く待つよりは、ルベドの中で楽しむさ」
「アルベド、お前――」
 あくまでも自分と共に歩んでくれる意志を示したアルベドに、Jr.はただ感動する。そのJr.に気付いたのか、アルベドは彼の耳元に唇を寄せ、ニヤリと笑った。
「ルベド、お前の中は最高なんだよ。痛みと苦しみで満ちていて、そのハンモックに揺られるのがたまらない」
 くっくっくっと笑ったアルベドは、Jr.の首にガシッと腕を回して天を仰いだ。様子のおかしくなった弟を見上げ、Jr.は「おい、アルベド?」と恐る恐る話し掛ける。
 アルベドは空いた手を広げ、Jr.をぶら下げたまま、溶けるような声で語り始めた。
「わかるか、ルベド――?俺は無用な空の身体を介せずに、お前のすべてを直に感じられるんだ。お前の痛みに貫かれ、お前の苦しみに焼かれ、お前のすべてが俺という存在を満たしてくれる、この快感を!一切の障害を取り除き、個が消滅するその限界に、俺とお前は存在する!」
 語尾に向かうにつれ激しくなっていく彼の声色と表情を見て、Jr.は何か言いかけようとしたが、大きく息を吐いて諦めた。
「――まあ、自傷行為さえしなきゃいっか」
 わざわざ止めるのも阿呆らしく思え、Jr.は彼の為すがままに揺られる。
「俺の全世界が、ルベドの中にあり、その逆もまた然り!一が全、全が一だ――!ヒャアッハッハッハッ!!」
 死んだ魚のような目をしたJr.と対照的に、興奮が最高状態に達したアルベドは、高らかな笑い声を響かせて悦に浸っている。
 その彼をJr.と同じような目で眺めながら、ニグレドとシトリンはアルベドの腕の中のJr.に言った。
「――ようやく関係が修復できて良かったな。昔のように微笑ましいぞ」
「――本当、羨ましい限りだわ。是非このまま地獄の果てまで添い遂げてちょうだい」
 棒読みのセリフを突き刺されたJr.は、
「年がら年中、相手にしてるのも大変なんだぜ」
 と、愚痴りながらもどこか嬉しそうに言うのだった。

 しばらくの間、静かな世界にはアルベドの高笑いが響き渡っていたが、それも止んで静かになるとJ、r.は最後の疑問を弟妹に投げ掛ける。
「つーかさ、俺達はどうやったらエルザに帰れるんだ?」
 シトリンが顎下に手の甲を当て、その問いに軽く答えた。
「そうね――お父様に呼ばれたんだから、お父様の気が済んだらじゃない?」
「奴の気など、もう残ってはいないだろう」
 どうしても父親を“害”としか見られないガイナンは、ボソリと呟く。その弟を横目で見てから文句を言おうとしたシトリンは、浜辺に下りて何かしているアルベドに気付いた。
「――あの子は何をしているの?」
 彼女の言葉にJr.とガイナンがアルベドを見ると、彼は月明かりの下で腕を伸ばして眺めているようだった。その伸ばした腕の先がどうもおかしいことにJr.がハッと気付き、慌てて自分も浜辺に下りて行きながら叫ぶ。
「アルベド!お、お前、また腕を吹っ飛ばしたのか!?」
 以前のJr.ならその叫びに怒気が混じっていたが、今の声には心配の色しか出ていなかった。それを知ってか知らずか、アルベドは手首から先が消えた腕を月明かりに照らしている。
 恍惚とした表情で、彼はうっとりと腕を回した。
「見ろよ、ルベド。お前の中が恋しくなった途端にコレだ」
「――は?」
 彼の言葉にJr.はピタリと走っていた身体を止める。
「どうやら帰りの船は見つかったようだな」
 アルベドの消えた手を凝視するJr.に、後ろから追って来たガイナンが言った。
 Jr.はガイナンを一度振り返り、指先からゆっくりと消えていくアルベドの身体を見つめて、「ああ、そうか」と頷きながら呟く。
「帰るには、最深層の意識を通って自分の肉体へ流れればいいだけだ。精神は肉体に引き寄せられるんだから」
「生きている内は器が必要だものね」
 ガイナンの隣でシトリンが静かに言った。どこか哀愁を帯びたその声を聞き、ニグレドは彼女の肩にそっと手を置いて微笑む。
 アルベドの隣へ移動したJr.は、海に浮かぶ月を背にしてガイナンとシトリンを見つめた。
 Jr.の瞳の中には、月明かりで仄かに光る青い花々を背にした2人が映る。瞬きを一度、そして再びしっかりと目を開けてから、彼は眼前の2人に言った。
「ニグレド、シトリン、ありがとう――俺、行くよ」
 自分対しても他者に対しても、あらゆることに無自覚だった彼は、とても脆く弱かった。けれど今では、その弱さを逆に強さへと変えているように見える。
 恐らく4人の中で“人”という生き物を最も理解し、かつ体現しているのはこの兄であろう。
 青年として覚束ない光の下に立つ彼の姿は、まさしく心身一体の成長を2人に示していた。
 変わらないものは、炎のような赤い髪、強い眼差しの青い瞳、ニッと上がった口許――そして、彼が自分達の兄であるという事実。
「ルベド、アルベド――」
 ガイナンはフッと笑い、既に下半身が完全に消えてしまっているアルベドと、半透明になってきたJr.に聞こえるよう、彼にしては大きな声を響かせた。
「俺達は最高の兄弟だったよ」
 美しく響いたその声が届くと、アルベドは珍しく目を丸くして驚きを見せる。何度か素早く瞬きをする彼を見て、ガイナンは爽快な気分になる。
「はは――やっぱ、過去形?」
 Jr.は指先で頬を掻き、少し残念そうに笑った。
「現在進行形になるかどうかは、貴方次第ね」
「その通り」
 シトリンがフフッと上目遣いで笑い、ガイナンがニッコリと肯定した。
 ともすれば、再び2人を抱き締めそうになる腕をどうにか堪え、Jr.は明るい声で笑う。
「次は額にキスしてやるから、待ってろよ」
「ルベドにそんなことされるくらいなら、星まで逃げるわ」
 言った途端にシトリンが眉をしかめ、少女だった頃のように頬をバラ色に染めた。彼女の言葉にガイナンは、
「名案だ。ルベド達を待つ間、星になって輝きでも競い合うか」
 と、仕事もなくなって退屈なロスト・エルサレム生活での娯楽を提案する。
「何だそりゃ。ならさ――あのオリオン座の近くにいてくれよ」
 ガイナンがシトリンに窘められている様子に微笑んでから、Jr.は冗談めかして半透明の腕を伸ばし、頭上の夜空を指差した。彼の指を透かせて、遠くで明るい星達が輝いている。
 夜空を見上げるガイナンとシトリンに、Jr.はこう付け足した。
「そしたら、見つけやすいからさ」
 彼の言うように、オリオン座のシリウスは焼き焦がすように光を発し、中央のベルトに三ツ星が仲良く並ぶ様は、落ちてくるような満天の星空の中でも一際目立っていた。
「ルベド」
「ああ」
 姿はほぼ消えてしまい、透明人間のように声だけで自分を呼んだアルベドへ、Jr.は短く答える。そのJr.の姿もほとんどが暗くなった海と同化し、月明かりも彼の身体を貫いて砂浜を照らしていた。
 ガイナンとシトリンは、もう何も言わなかった。Jr.の方も何も言わなかった。ただ、お互いに笑顔だけを交わしていた。
 さざ波と潮風がガイナンとシトリンを包む中、Jr.は笑顔を残してほどなく海へと消え、後に残ったのは歪な砂の城と、道のように続いた足跡だけとなった。
 それを最後の最後まで見届けた後、2人は自然に手を繋ぐ。
「じゃあね、ニグレド」
「ああ、いつかまた――シトリン」
 その言葉を最後に、彼等の身体もJr.達と同様に薄れていき、最後には蛍のような光を散らばらせて消えてしまった。
 美しい海と神々しい月、青い花畑は、認識する者がすべて消えてしまうと靄のようにその風景をぼかし始め、まどろみでたゆたう曖昧な世界となる。
 ロスト・エルサレムはブランクスケールに縮小して形を留めないまま、いつかこの地に来たるであろう人の未来を、多くの意識と共に待ち続けるのだ。


*****


 世界が白い――いや、白いのはキャビンの天井だ。
 Jr.は瞼を数度、ゆっくりと瞬かせる。目尻の端に溜まっていた雫が、ツ――と頬を流れ落ちてシーツを濡らした。
「夢だと思うか?」
 Jr.は目を擦りながら呟いて、少し間を置いてからまた、
「俺は信じるぜ」
 と、小さく笑った。
 天井を見上げたまま、Jr.は自分の腹に乗っていたホログラフの星図を挟んだ古書を、顔の前へと移動させる。その途中で、1枚の別の小さな厚紙がするりと古書の間から滑り落ちたが、彼はそれに気付いていない。
 蛍光グリーンの星図越しに、古書に描かれた2,000年程前の太陽系詳細図を眺める。
「実際に着陸した星は、グリーゼ581cが最後だったな――ああ、レーダーには引っ掛かった――エリスで間違いないだろうな――これで太陽の位置が掴めればいいが」
 傍から見ればおかしな独り言にしか聞こえないそれは、彼の内部に存在する男に対して語り掛けているものだった。
『どうだかな。黄道面からかなり傾いた楕円軌道を557年かけて公転しているとしたら、目印にはならないだろう』
 Jr.の内から、アルベドの低い声が鼓動と共にずんと響く。
「まあな――太陽程度の恒星なら、この銀河系にいくらでもある。オーカスやクウオワ辺りの星か、それか一気に冥王星とでも接触できればな。準惑星までのデータなら、結構揃ってるし」
『それを探すなら、太陽で目を焼いたが早い』
「違いねぇ」
 Jr.はホログラフを挟んだままパタンと古書を閉じると、むくりとベッドから起き上がった。運動不足の身体がギシギシと軋む。
 ふと視線を下げると、先程床に落ちた小さな厚紙が目に入った。
「おっと、いけねぇ。せっかくヘルマーがくれたってのに」
 それを長い手で拾い上げると、Jr.は愛おしそうにその厚紙の表を見つめる。
「ヘルマーも結構な懐古趣味だよな。ポラロイドだっけ?スゲェ値打ちモンなんだぜ」
『ああ、ディミトリに隠れて、無理やり俺達を並ばせた時のモノか――くだらん』
 Jr.の視界を通してそれを見ていたアルベドは、うんざりしたようにその時の光景を思い出して言った。
「俺もメルカバに乗り込む前にコレを貰った時は、そう思ったよ。形に残るモノなんて直視できなかったのに――何でだろうな。今なら穏やかな気持ちで見ていられる」
 Jr.はしばらく飽きもせずにそれを眺め続けた。早々に飽きたアルベドは、Jr.の中でぶつくさと「退屈だ」と文句を言い始める。
「見ろよ、俺、変な顔」
 Jr.は厚紙の一部を指差し、ハハッと声を上げて笑った。
『何故、笑える?』
 ――ソレを見て、以前のお前が笑うことなど一度もなかったのに。
 アルベドの問いに、彼はからはぐらかすように答える。
「――“何故だと?流す涙は、もう一滴も残ってはいないから”さ」
『タイタス・アンドロニカスか――お前には過ぎた役だろう』
 彼のつまらなそうな声に、Jr.は大きく頷いた。
「そうだな、俺にとって悲しみは敵じゃない。それこそが心の安息だ」
『お前の安息は俺の退屈だ。もっと楽しませてくれよ』
 今の自分に悲しみはない。切なさもない。
 Jr.はただ愛しさだけを感じながら、内部の片割れにそっと告げた。
「――ありがとな、アルベド」
 少しの間を空けて、とぼけた声が返ってくる。
『今、空耳が聞こえた――二度と聞きたくない言葉だったが』
「安心しろ、もう頼まれても言わねぇよ」
 Jr.の奥底へ引っ込んでしまったアルベドに、彼は苦笑しながら言ってやった。
 そうして小さく息を吐くと、
「俺の心は筒抜けなのに、お前の考えてることはちっとも分かりゃしねぇな」
 そう呟いて自分の右胸を手の甲でコンコンとノックする。すると、「誰が教えてやるものか」とでも言うように、彼は内側からドクンドクンと乱暴に返事をするのだった。
「でも、もうお前の手は離さないから」

「ちび様、ちび様!」
 キャビンに散らばった大量の資料をJr.が片付け始めると、ドアの向こうから快活な声がする。
「ヘルマーのおっちゃんから通信や!」
 昼夜の区別もつかず、これといった娯楽もない船内で、クルー達は三度の食事と曙光からの通信を何よりも楽しみにしていた。Jr.を迎えに来たメリィも約1年振りの通信に、喜びが隠せずにいるようだ。
「ああ、今行く」
 Jr.はそう答えると、ドアのロックを外す。シュッとドアが開いた先では、メリィがJr.を見上げて目をキラキラと輝かせていた。
「モモちゃんもおるで!えらい美人さんになってはるねん」
「へえ。んじゃ、ジギーも変な虫が付かねぇか心配だろうな」
 モモに言い寄る男を睨むジギーを想像し、Jr.は笑いながら廊下へ出る。
 メリィは隣を歩きながら、長い足でずんずんと進む彼を眺めた。
「――ちび様。腕、組んでもええ?」
 廊下の中程で、ためらいがちにメリィはおずおずとJr.を見上げて尋ねる。
「三十路過ぎて何言ってんだ」
「嫌やわぁ。女はこれからやないの」
 からかうJr.に、メリィは「お肌も元気やで」と自分の頬を軽く弾いてみせた。
「わかってるよ。お前等、まだまだこれからさ――ホラ、ブリッジまでエスコートするぜ、お嬢さん?」
 Jr.は少し背を屈め、自分の腕を彼女へと差し出す。メリィはパアッと笑顔を見せると、その大きな腕に自分の腕を回して彼にギュッとくっ付いた。
 2人並んでブリッジへ向かいながら、メリィはポツリと漏らす。
「――もう、ちび様って呼ばれへんね」
 寂しそうな彼女の顔を見下ろし、Jr.は赤い髪をくしゃりと掻いた。
「そのままでいいさ――“バラと呼んでいる花を別の名にしてみても、美しい香りはそのまま”。血色の花弁も棘も、同様にな。名や姿が違っても、俺は俺――根底は不変だ」
 ブリッジのドアの前でそう言った彼の声は力強く、自嘲も何も含まない素直な感情だった。青い瞳は、海のように静かで穏やかな色をしている。
 メリィはそんな彼を見上げ、何も言わず見守るように微笑んだ。
 ドアが開いてブリッジの光が届いた瞬間、Jr.は隣の彼女にも聞こえないほどの、小さな小さな声で呟く。
「行くか、アルベド」
『ああ、生きてやろうじゃないか――ルベド』

 あの時、俺は確かにお前達と生きていた。
 感じられる体温も、抱き締められる身体も、温かな呼吸もないけれど――。
 この胸の苦しさが、俺の愛する人達が生きていた証だ。
 この苦しみが、今は愛しい。
 星になった人々には、どんなに手を伸ばしても届かないけれど、それでも俺の夜空で絶えず輝き続けてくれる。
 欠落をそのままに、この苦しみを抱いて、俺は生きるよ。
 それが俺の罪に対する罰であり、その罰が俺の足を歩ませてくれるから。
 この苦しみと愛しさが、俺に道を示してくれるんだ。
 668体の兄弟とデュランダルの棺を引き摺って、仲間達の少しの希望を背負って、どこまでも歩いていける。
 時々、振り返ることもあるだろうけどな。
 引き返すことはもうしない。

 Jr.のいたキャビンの机の上には、彼が先程まで眺めていた“ポラロイド”と呼ばれる紙媒体の写真がある。
 その小さな画面の中には、少年と少女が映っていた。
 無表情のままピアノの椅子に腰掛けた白いワンピースの少女と、彼女の隣で恥ずかしそうに笑う赤い髪の少年。赤い髪の少年に引っ付く、機嫌の悪そうな白い髪の少年。2人の少年の肩に手を乗せて苦笑している黒髪の少年と、興味なさそうに腕を組んで立っている橙の髪の少女。
 昔のものだからか、画像はほとんど色褪せてセピア色に近い。
 しかし、時と共にその色が溶けて消えてしまうまで、紙の中の彼等は短い命を生きてゆくだろう。
 今、残った仲間とブリッジで笑っている青年と同じように。