明滅する春と修羅 6-2


Timeline: One day of YURIEV Institute



「待てよ、アルベド」
 自分のもとから去るアルベドを、遠慮がちな声音でルベドが呼びとめた。アルベドは振りむかず、汚れた手を制服に擦りつけながら、耳を塞ぐように肩を竦めた。その苛立ちがわかるほど、地面を叩きつけるようにして大股で歩き、庭園中央にある噴水の前でぴたりと立ちどまる。
 アルベドのあとを追って温室を出たルベドは、明らかに混乱しているくせ、水やり中のドロイドに挨拶をされると愛想良く返したり、監視役のレアリエンに昼食の時間だと忠告を受ければ「茸のピローグは残しといて」と普段どおり調子の良い受け答えをするなど、完璧な平常を演じてもいた。こうした主人の変わり身を彼は毎度のように感心する。ルベドについて、自分の特異性を理解した上で個性を演じている、とある女の研究員は評したが、なるほど、あながち間違っていないのかもしれない。真偽の使いわけは人間の特徴であり、巧妙な演技もまたしかり。事情を知らぬ相手には、憔悴など微塵も悟らせぬ見事な役者ぶりである。
 そんなルベドを置きざりに、アルベドは噴水の水面に咲く花に目をとめていた。彼は物音を立てぬようひたひたと慎重に噴水の裏側まで移動すると、柔らかな体躯を丸め、息をひそめた。水底に植えられた水草から淡い色彩の睡蓮がぽつぽつと顔を覗かせている。水中では深い森のような緑が森々と萌え、原種の魚が遊泳していてもおかしくはない自然のサイクルを形成していた。
「アルベド!」
 ようやく弟に追いついたルベドは、息を切らして額に汗をにじませ、弟の名を呼ぶと軽く咳きこんだ。相手の機嫌を伺う媚びた笑みを張りつけている。アルベドは振りむかない。少女が弾くピアノの音色は聞こえなくなり、強まる雨脚が曲を変奏するかのようにアトリウムの天井を鍵盤代わりに打っていた。雨粒の尾は音色を形にかえ、一つ一つの音が弾けて和音になる。雨の音楽を除けば、ぎこちない沈黙がアトリウムを制していた。アルベドは睡蓮のように動かない。
「なあ、アルベド」ルベドは困惑しながら再び弟の名を呼んだ。歯切れの悪い声は、雨音より不安定で聞きとり辛い。赤毛を乱暴にかきながら、ルベドはとり繕うように笑った。「その、ごめんな。俺、今ちょっと調子悪くて、あんまり頭、回んなくて、おまえのこと、傷つけたなら謝る―」
「君ってさあ、誰にでも対等だよね」
 はっきりとしないルベドの言葉を遮り、アルベドが乾いた声で言った。「それが優しさかどうかは別として」
 瞳に影を落とした白い睫毛は、木の下闇のような紫紺を晒している。剣呑な物言いは先程の失態を誤魔化すように笑う相手にも伝達したらしく、ルベドはますます顔色を悪くした。
 ねえ、とアルベドは首を傾げる。「君は弱者を守ろうとする。あいつらはみんな同じだけど、それは僕らと違うって意味でのことだ。サクラだってそう、君とは全然、違うんだよ。それなのにどうしてだい? どうして、君は連中のために心を乱せるの?」
 憂いを帯びた眼差しと皮肉に歪めた口元のアルベド。どうしてって、とルベドは再び困惑している。主人にとって当然の概念であるのだから、無理もない。他者への気遣いがアルベドには不可解極まりなく理解しがたい姿勢であっても、ルベドの場合は呼吸の際に膨らむ肺のようなものであり、相手について気を回し、思いやり、理解しようと努める、そのプロセスを省けというのであれば、それは思考をとめろと強要されることの同義となる。主人は面倒なプロセスをゲームのように愉しむし、おそらく演習よりもこちらの上達にこそ余念がない。しかし、そうした快楽の装置としての過程を、当人は無意識的な共感として思いこんでいるため、アルベドの問いは理解の手順にひそむ矛盾を掘りおこすような猜疑なのである。そうすると盲信的なルベドの答えは決定しており、つまるところ、「そんなの、相手のことを考えれば当たり前だろ?」となる。
「わかんねえよ、アルベド。おまえこそ、どうして他人の痛みが理解できないんだ。ほんの少しでも相手の気持ちになって考えれば、わかるだろ?」
 アルベドに自分と同等の理解を求めるルベドは、行為において見返りを要する。他者の憂いを察する感情に偽りはないが、そこには自分が相手を思うように相手にも自分を思ってほしいという心理がある。優しさが純粋な感情として単独でなり立とうとも、その思考を行動へと移した際に相手が望む形でなければ、それは単なる自己満足となるだろう。相手の気持ちとやらを第一に考えるルベドだが、そもそも人という生物は自らが相手の境遇を体験しない限り、全理解にはいたらない。自己犠牲や利他心に基づく行動を生起させる程度の理解とは、科学的な妥当性や客観的な正確さをもっておらず、相互了解している幸福な共同幻想や語り口の時間の共有性に多くを依拠している。何より厄介であるのは、自分の無理解な思考から起こした言動が他者に与える影響について、本人には自覚がないという点である。そのため、常日頃よりルベドの影響を最も受けているアルベドが直接的な精神への実害を被ることになる。
「何それ、相手の気持ち? そんなの、わかるわけないだろ」
 ようやく振りむいたアルベドは、ひどく滑稽なものを見物する目つきでルベドを蔑視した。
「わからなくても考えろよ。今何を考えてるのか、何を思ってるのか、わかろうとしろよ」
 ルベドは根気強く忠言するが、そうした言葉を重ねるほど言葉自体の厚みは薄っぺらに聞こえた。おまけにアルベドの不愉快を煽ったらしく、やめてよ、と今までになく強い語気の拒絶が弟から投げつけられた。アルベドを瞠視するルベドの、閉じようもない口から虚しい音の余韻が零れおちる。
「じゃあ、ルベドは僕の気持ちがわかるの? 僕が今何を考えて、何を思ってるのか、わかるっていうの?」
 紫紺の睥睨にたじろぐルベドが弁明するより早く、アルベドは冷然と続ける。「君の言う、気持ちを考えて痛みを理解したい仲間が、敵じゃない連中がさ―君のことを陰でどう言ってるか、知ってるんだろ? 気づいてるんだろ?」
 いよいよ青ざめてゆくルベドの額には汗がにじんでいた。篠突く雨の激しさは二人まで届かず、アトリウムの天井から滴る胃酸のような雨垂れが、外界と庭園を切り離している。主人の足元にある溝は泥水の激流で、もはやアルベドのほうへ飛びこえることは不可能なのではないか、と彼は嘆いた。
「俺は気にしてない」
 整然たる雨より冷冽な眼差しに釘づけられたまま、ルベドは蚊の鳴くような声で反論したが、アルベドは即刻それを、嘘だ、と否定した。「ルベドは無理してる」
「君が何も言わないから、僕が代わりに言ったんだ。ここの連中は誰も君に協力する気なんてないし、頑張るなんてことも知らない。それこそ、連中の気持ちを考えればわかることじゃない? 頑張ってるの、君だけだよ」
「おまえの気が立ってるから、そう見えるだけだ。おまえが俺の代わりなんてしなくていい、俺は平気だ、無理もしてない。それでアルベドが苦しくなってちゃ意味ないだろ」
 な、わかったな? そうつけ足し、ルベドは渇いた唇を無理にまくりあげた。アルベドは兄の念押しに返事をせず、ルベドも返事がないことを予想していたのか観念したように微笑んだ。諦念の下では、両の拳が震えている。主人の青い両目が、これほど微弱な光に萎縮しているさまを、彼は初めて目にした。
「僕には、ルベドのほうが苦しそうに見える」
 震える拳を見やり、アルベドは変じて哀しげな眼差しで兄を見つめた。ルベドは力なく苦笑し、そんなことねえよ、と小さくかぶりを振った。「そう見えるなら、おまえがそうさせてるんだ。アルベド、おまえがそんなこと言うから―」
「違うよ!」
 アルベドは甲高い悲鳴をあげ、困りはてたルベドの胸倉を荒々しく掴んだ。身動きがとれないほど胸元を締めあげられたルベドは、息苦しさに掠れた戸惑う声音で弟の名を呼んだ。アルベドは引っ掴んだ制服に額を押しつけ、違う、違う、と繰り返した。
「何言ってるの、違うだろ? ルベドの馬鹿! そうさせてるのは僕のせいじゃない。それって全部、ルベドが自分自身で感じてることじゃないか!」
 アルベドの語尾を覆うように雷鳴が轟いた。突然の落雷に、二人の体が同時に竦む。彼の全身の毛も逆立ち、威嚇の鳴き声を発して天を仰いだ。横降りの雨は激しく、雷雲も霞む模糊とした陰雨の空に雷光が走る。数秒の間を置き、腹の底に響く雷鳴が届く。アルベドの耳元で「ベルリオーズの幻想交響曲みたいだ」と、苦しさを紛らわせるようにルベドが囁いた。
 自分の喉を鳴らす音に似た雷雲の轟きに彼が息をひそめ、再び天井が稲妻の閃光に染まったとき、わかんないよ、とアルベドが静かに嗚咽を漏らした。言いおわると同時に、怒号のような雷鳴がアトリウムの屋根をじりじりと震動させる。
「僕にはわからない。ねえ、ルベド、自分以外にどうしてなれるっていうの。君の気持ちと僕の気持ちは同じじゃない。僕は君じゃない。自分の考えを僕に押しつけないでよ。自分の悪いところを僕のせいにしないでよ。僕はもう、君の思うようにはなれないよ」
 堰を切ったように啜り泣くアルベドに戸惑うルベドは、やりようのない両腕を彷徨わせては掠れ声で呻いた。ふざけた弁明の大半が、そんなつもりじゃない、おまえのせいじゃないのは知ってる、それは違う、誤解だ、という薄っぺらな言いわけと、ひたすらの謝罪であった。上辺だけの言葉でアルベドが納得するはずもなく、雨音と雷鳴はアルベドの心境の混乱を表すように荒天し、ザバロフでは珍しい春の嵐となっていた。
 もういいよ、とアルベドが自棄に呟く。「僕には君の痛みがわからない。左胸の鼓動なんて聞こえたことがない。ルベドだって本当はわかってるんだろ。僕の心臓が今も君の中で動いてるなら、君だって、僕のように死なないはずだもの……」
 しゃくりあげるアルベドの核心をついた見解に、胸元を掴まれたルベドの体が竦んだ。そうとも、ルベドが今でもアルベドの心臓の状態を敏感に察知しているのであれば、老木の根元に埋められた心臓の動きが途絶えた時間を知っているはずである。土中に埋もれた心臓が分解され、アルベドの体内で再生するさまを感じとれるはずである。しかし、アルベドの肺と肺の間が空洞であることをルベドは知らない。それでも右胸の鼓動が聞こえると言いはるのであれば、そんなものはアルベドの急所を自分のもとに置いておきたいルベドの浅ましい願望であり、回帰への理想そのものなのである。
「俺、おまえを置いて死んだりしない!」
 外界の嵐より震える声で、ルベドは根限り訴えた。陰鬱な雷雨にも庭園にもそぐわない嫌になるほど真っ青な双眸が潤み、紫色の唇の中で歯の根が合わずに奥歯が鳴る。垂れさがる赤い眉と口角は痙攣していた。死ぬもんか、と呪文のように唱えるも、それは噴水の飛沫にさえかき消されるような小声で、排水口付近でくるくると回転するアナカリスにすら馬鹿にされてもおかしくない自信のなさであった。
「……どうしてそんなこと言うんだよ」
 アルベドは泣きじゃくりながら怒鳴り、掴みあげていたルベドを噴水に突きとばした。天井に青白い雷光が幽霊のように走り、よろめいたルベドが声をだす間もなく浅い水面に尻餅をつくと、遅れた雷鳴が悲鳴の代わりに雄々しく轟いた。噴きあげた水の造形芸術がルベドの頭上から降り注ぎ、鮮やかな赤毛をしとどに濡らす。水底についた両手と尻の下で水草と睡蓮の花が無残に潰され、辛うじて生き残った花たちは、水の森のバランスを侵害する無礼者を非難するかのように揺らめいた。
 深い真紅に染まった赤毛が、雫で水紋を絶え間なく象る水面に映り、水草の森を赤く燃やしている。大蛇のような雷光、咆哮のような雷鳴、天を打つ雨糸―そうした自然現象とは無縁の箱庭で、ルベドは呆然と腰を抜かしていた。赤い睫毛からも雫が零れている。ルベドの顔色は天候以上に良くなる気配がなく、どうする気力もないのか噴きあげた水に打たれ、またもや堪えきれずに咳きこんだ。
 どうやら、本当に調子が優れないらしい。水に濡れたままでは体温も低下する。どうせアルベドには見つかっているのだ、と彼が意を決して主人のところへ擦りよろうとしたとき、背後に数名の気配を感じたので、彼は不本意ながらも再び身を隠して様子を見ることにした。
「いつも僕をわかってるふり。できもしない約束ばかりして……最低だね、ルベド。その無責任さと君の満足のために、どれだけのものが淘汰されたと思ってるの?」
 噴水の前に立ち、アルベドは無様な兄を冷然と見下ろした。自分の涙を乱暴に拭い、空虚な眼差しを向ける。頭から水を被ったルベドは辛うじて母音の形をとった音しか紡げず、目も当てられないほど情けない面持ちでアルベドを見つめた。噴きあげた水の滑らかな壁がルベドの表情を覆い隠しはするが、その救いある流れは間隔を置いてとまるので、そのたびに哀れな顔がアルベドのもとに晒される。絶句しているルベドの惑乱を映した視線から顔を逸らし、アルベドは赤い目元を掌で擦りながら、ごめんね、とあっさり謝罪を口にした。「でも、君には無理だよ。僕のことも、ニグレドのことも、サクラのことも、君にはわからない。ルベドはそういうふうにできちゃいないから。君といる僕らって、そういう意味では同じなんだ。僕らは君にわかってもらいたくて、けれど君には決して理解できないものを持ってる」
 言葉とともに雷が落ちる。青い閃光が空をさき、獣の咆哮が追ってくる。
「君は特別―玉座の王様は、仲間外れに気づかない。孤独に慣れてないから、本当の恐怖も知らない」
 アルベドは薄い瞼を固く閉じた。ゆるりと瞼をあげると、その顔からは一切の表情が消えうせていた。うろんな無を表面に垂らし、すべての期待を捨てた眼差しで水壁の先を諦観している。水底についたルベドの両腕は震え、水面に細かな波紋を立てた。蒼白に冷えた顔を覆い隠してくれる水流も、悔しさがにじみでるルベドの顔を歪め、ひときわ痛ましく悲惨に映している。
「ルベド、君は落雷だ」
 と、アルベドは言う。
「遠くの空で急に光って、だけど、すぐに消えちゃって、僕らの暗闇には音だけが届くんだ」
 稲妻が天地を走る。青い矢が嵐に消える。雷鳴が追い着き、雨音に覆われる。
 アルベドは言う―「追いかけっこの連続しかない」と。放心状態にあるらしいルベドは、開いた口も閉じずに濁った青い眼で水壁を見つめている。潰された睡蓮の花弁が循環する水によって噴水の円を一周し、道を塞いだルベドの体にひたりとたまった。濡れそぼつルベドの体積はひと回り縮んでいたが、その分密度は増して重そうに見える。
「その兄弟ごっこ、よく飽きないわね」
 突然、割りいってきた冷静な少女の声に、双子は同時に振りむき、そして瞠目した。二人の視線の先には、彼が感じた気配の主がいた。ガーベラのオレンジより鮮やかな髪をまとめた少女は、シリカの粒子が連なったような淡緑の双眸をつんと吊りあげ、ほんの少し膨らみのある胸元で腕を組み、冷ややかな視線を向けている。少女は498と同一の容姿でありながら、頭髪の鮮明さと態度の横柄さには大分差があった。この少女が変異体のシトリンであることを、彼は一見して確信したと同時に、ルベドが少女について〝すっげえ生意気〟と評していた点も大まかに理解した。おそらく生意気さの度合いはルベドと良い勝負であろう。
 シトリンの隣には黒髪の少年がいる。ルベドと交代で彼の寝床に食料を運び、精をだして繕った毛並みを撫でてくれる、もう一人の主人ニグレドである。ニグレドは普段どおりの微笑を湛えた沈着さで、噴水に落ちたまま呆然としているルベドのもとに歩みよると、自分が濡れることも厭わず水の裏側へ潜り、気遣わしげにルベドを抱きおこした。
「大丈夫かい、ルベド」
 ぐっしょりと濡れた赤毛から覗く耳元で優しく問い、制服の袖口で呆けたルベドの顔を拭ってやる。どうして味方をするのだ、と責めるアルベドの視線に気づくと、ニグレドは若葉色の瞳を細め、本人だけに内密の微笑みを返した。
 肩を貸しているルベドが疑問と不安を露にした表情で様子を窺ってくるので、
「君たちが戻って来ないから迎えにきたんだ。もう少し早くくれば良かったね」
 ニグレドは可能な限りの柔和な声音で、兄を安心させるように囁いた。支えがなければ立つこともままならないルベドは、弱々しくかぶりを振り、ありがとう、とほとんど息を吐きだすだけの礼を言った。赤毛から滴る水が乾いた地面を濡らし、影のような黒点をにじませる。二人を見つめるアルベドの眼には、ぬめりを帯びた嫌悪が膜を張り、舌打ちや皮肉が今にも飛びだしそうな口をしっかと噤んでいた。
「変異体のお二人さん、まだ人間の真似事に夢中なの?」
 三人のやりとりを傲然と眺めていたシトリンが、侮蔑の眼差しと嘲弄の声音で、呆れたものね、と嘆いた。青みの強い碧羅の眼に宿るものは敵意に近い。凛とした少女の姿勢には、男性体にはない清楚な気品が感じられるが、そこからは矛盾や汚濁を一切許さない潔癖な印象も受ける。自らの使命に妥協がないのだろう。
 真っ青な顔をしたままニグレドに支えられたルベドは、U.R.T.V.相手に珍しく怒気の低音を用いて「おまえに関係ねえだろ」と、シトリンを睨みつけた。血色の悪い唇が寒さと怒りで小刻みに震えている。もとより威迫など残っていない濡れ鼠の牙に、シトリンが怖気づくわけもなく、彼女は恬然とした調子で、関係あるわ、とあっさり反論した。「男性体のスケジュールがずれこむと、その分だけ女性体はダイブ・ルームを使用できないの。あなたたち男性体とは別に、わたしたち女性体にも果たすべき任務があるのよ」
 こんな無意味な空間で水遊びしてるほど暇じゃない、と軽蔑するシトリンの正当すぎる主張に、ルベドは青かった顔を羞恥で赤く染めた。しかし、瞬間的な血行の上昇が引くと顔には再び蒼白が戻り、濡れた体をぶるりと震わせる。降りしきる雷雨のように顫動はとまらず、それはもはや精神的な動揺よりも急激な体調の悪化が上回っている事実を明確にしていた。早々に着替えて医務室に行くべきだ、とニグレドは弱った兄を気遣うが、優しく名を呼んで促そうともルベドはぐったりとして動かない。
 ルベドの変色した唇の端がめくられ、うるせえな、とシトリンに唾棄した。「何も知らねえくせに」
 自嘲ともとれる薄笑いに、弟二人が身を強張らせるが、シトリンは沈着な態度を崩さず、知ってどうするの、と鼻を鳴らした。「何も知る必要ないじゃない。必要な情報以外のことを知得したところで、特にメリットでもあるかしら」
 無駄を排した利己に近い合理主義だが、迷いがない。シトリンの極めて排他的な思考の裏には、気づいてしまったら自分をも偽ることでしか自己を保てない少女の決意があるのかもしれない。彼には冷淡な緑の双眸がこう語っているように思えた―私、今の現実に絶望したくないの、と。
「ああ、馬鹿みたい。あなたに借りた本も真面目に読むんじゃなかったわ。フィクションなんて役立たずな上に時間を浪費するだけね」
 剣呑な沈黙を自ら破り、シトリンは肩を竦めた。ニグレドの肩で深く俯いたルベドの鼻柱から、雨粒のように雫が滴りおちる。おぼつかない足元には水たまりができていた。こうも不気味に押し黙る主人は初めて目にする。
 さすがのアルベドも遠慮がちに兄の名を呼ぶが、濡れた制服を引っ張っても無反応なルベドに気を落として背を向けた。あれだけ痛罵した上に噴水へ突きとばした手前、普段のように素直な心配はできないのだろうが、憂慮すべき事態になり不安は増しているらしい。陽気を常とするルベドがまとう不穏な空気を察した彼も、ガーベラの花弁の裏で尾を太くしていた。外気の轟きが緊迫を助長するように増大し、何度目かの落雷が天井を青く焼く。荒々しい暴風はアトリウムの天窓をごうごうと滑り、インスティテュートの外壁を揺さ振る。塔のように立ちのぼる巨大な雲頂も今は黒々とした暗い雲底に覆われ、その胎に蠕動する雷を蓄えている。
 シトリンが、ねえ、と声色に苛立ちを含ませ、黙りこんだルベドを蔑視する。「極端に変動のあるNo.667の波動も迷惑だけれど、あなたにも責任があるのよ、No.667ルベド。自覚はあるでしょう―データを見るまでもないほど、あなたの集中力は急激に下降しているものね。小説の虚構で展開されるような感情に振り回されて、標準体との確執どころか変異体同士で足を引っ張りあうなんて、まったくもう……お父様の期待を裏切るようなことは―」
「ルベドのこと、悪く言うな」
 淀みなく淡々としたシトリンの面責を遮り、アルベドが意を決したように前へ進みでた。突っぱねた両の拳が震えている。夕焼け色の睫毛を瞬かせ、無防備な瞠目を見せたシトリンであるが、頬に垂れたオレンジの横髪を払うと同時にすげない表情に戻り、アルベドの後方から、もう引いてくれ、と眼差しで嘆願するニグレドに無言でかぶりを振った。
「ルベドはおまえと違って特別なんだ」
 背後を気にするアルベドが、おどおどと続けた。
「特別だからこそ、特別なりの言動で標準体を統率してもらわないと困るのよ。言ったでしょう、泣き言なんて許されないって。その不可解な執着を捨てない限り、私たちに任務の成功はあり得ないわ」
 シトリンは高圧的な口調で相手を押さえこむ。一つ一つのアクセントを截然と強調され、その断定を覆す言葉につまったアルベドは口を噤んだ。理由は異なるが自分でも相手をさんざっぱら非難した分、そう強くは出られまい。前方のシトリンに盾突く術もなく、背後のルベドを振り返るのもばつが悪い。アルベドは往生していた。胸の前で左右の指を絡めあい、定まらない視線をどうして良いものやらと惑わせる。
 項垂れたままのルベドは、肺に穴が開いたような呼吸を繰り返していた。ぼたぼたと落ちる水滴はルベド自身が源泉であるかのようにとめどなく、その芯から溶けてなくなるのではないかと、彼が心配するほどであった。
「シトリン、もういいだろう? ルベドは十分わかっているよ」
 事態を静観していたニグレドも、これ以上の接触は憔悴した兄にとって危険であると判断したらしい。濡れそぼち蹌踉としているルベドを庇い、あまり耳慣れない角が立つ語気で姉のほうを制した。
 温順で中庸な弟からの思わぬ干渉に、シトリンは面食らったようで、弟の心外な介入によって打撃を受け、明瞭な焦燥と恥辱を露わにした。それは奇しくも、ルベドのアルベドに対する感情表現と酷似しており、彼は二人の境遇に通底するものを肌で感じとった。
 シトリンは真一文字に結び直し、わかってない、と憎々しげに呻いた。「わかってないわよ、何もわかってないんだから―」
 瑞々しいオレンジの髪を振り乱す少女の頭上で、青白い雷光が拡散した。色味の異なる四人の頭髪が、閃光に反射して色彩を深める。天井を打つ雨音の間を縫って雷鳴が届いたとき、黙れ、と唸り声がした。
「私、兵器として間違ったことは言ってない」
 落雷後に訪れた一時の静まりに包まれている中、シトリンが毅然たる態度で確言する。シンチレーションのような瞬きを宿した淡緑の瞳は、アルベドを素通りして奥にいる赤毛の兄を見据えた。
「頼むから、もう黙ってくれ」
 冷たい体を気遣うニグレドの手を振り解いたルベドの、肌に張りついた真っ赤な髪の下、青すぎる眼光がシトリンを睥睨している。「何もわかってねえのは、おまえらのほうだ」
 青い光源が、より深い群青に爛々としている。顔面の蒼さは悪化の一歩を辿り、風に揺れる藪甘草のように朦朧として危なっかしい。全身を濡らした水が覆いのように少年を曇らせ、いつにも増して発光する濃紺の光源だけが乾燥しきった諦観を露出している。
「いい加減にしてちょうだい」と、シトリンが押し殺した怒声を発した。奇怪なものを見る目で端正な顔をしかめると、真っ向からルベドを非難する。「あなたたちの異常な依存関係なんて、私たちには理解できない。いくら癒着双生児だといっても、受精卵が分裂した時点で胎児期からすでに別個体でしょう。生命維持に必要な器官も、もとから共有されていないわ。あなたたちが接合していた部分は背部だけなのよ。考える脳も、動く手足だもある、五官にも不自由していない―何をそれほど求める必要があるの?」
「おまえなんかに、わかるもんか!」
 双子が同時に叫ぶ。アルベドは自分の発言と兄の声に驚き、思わず背後を振り返った。よろめいた自分の体を反射的に支えようとしたニグレドを振り払い、ルベドは呼吸とも空咳ともつかない気息でアルベドを瞥見すると、薄っすら微笑むように視線を流して項垂れた。少し尖った顎の先から水滴が滑りおち、目尻から落ちたそれは、唇から這いだした舌で絡めとられる。そうした兄の劣情すべてを見つめるアルベドの眼は真っ赤に充血し、恥辱と歓喜に情けなく歪んだ顔は、そっくりそのままルベドの表情であった。
「また、それなの?」
 シトリンが、半ば自棄になって嘲笑する。
「ええ、わからないわ、わかりたくもない―お互いの存在を感じあえるなんてこと、あなたたちの精神的な弱さが生みだす幻想なのよ、認めなさい! どうせ生まれる以前から心臓だって別々なのに!」
 難詰の語尾は次第に悲鳴となった。少女の視線が徐々に知覚し得ない化け物を見るような恐怖へと変貌した理由は、蹌踉としながらも落ちつき払ったルベドの不気味さにあるようだ。シトリンには双子の執着が理解できない。それは彼にもわからないし、ニグレドにもわからない。おそらく当人たちにも本能以外では理解できていないのだから、シトリンが双子について理解しようと干渉することは無謀でしかない愚行だろう。下手に踏みこめば双方がダメージを負う。双子の心臓が医学的にどのような状態であろうとも、その事実は当人たちにとってさして重要な問題ではなく、双子は心臓の感覚を記憶しているかという命題に関心があり、そこから見出された精神的なつながりを把捉し、なおかつ相手の優先順位が同位置にあるか、価値が同等であるか、相手に対しての感情の質や重量が肝心であり、その差異が二人の間に軋轢を生じさせている。
「―だからさ、言われなくてもわかってることをおまえらはわかってないって言ってるんだよ。わかんねえかなあ」
 雨音で湿る空気を疎むように、ルベドは乾いた声で笑った。「兵器には無用なオプションだ、最高に滑稽な真似事だ、こんなものに金と時間を費やすのは馬鹿げてる、こいつは壊れてる、そんな脳神経回路は要らない―今さら言われなくても、耳が腐るほど聞き慣れてる。ああ、そうさ、わかってる―俺個人の思考や言動のせいでシトリンやニグレドに迷惑かけてることも、研究員や標準体に疎まれてることも、親父の期待に答えられないことも」
 ルベドは吊りあげた口角から犬歯を覗かせ、のぼせたような語調で言いたてた。赤い眉を歪め、「ここじゃあ、俺みたいなもんは異端らしい」と、下卑た笑みを浮かべる。それは湿気の多い梅雨のように陰鬱な卑屈さをひけらかし、雷火に照らされようとも払拭されることがない。
「愛想良くするほど気味悪がられる、紙の本を読むと嘲笑われる、誰かを殺すのは嫌だと言えば、おまえに拒否権はないと脅される―なあ、こうして俺が普通に考えたり思ったりすることは、そんなにおかしいことなのか? 存在を否定されるほど、いけないことなのかな? 俺たちは兄弟でも何でもないって? ―俺、アルベドとニグレドと一緒にいると楽しくて、嫌なことも我慢できる。俺にとっては大事な弟だ。それを守るためなら、人間だって殺してやるよ」
 濡れた制服が肌に張りついている姿は、まるで重苦しい鎧を着込んでいるようである。鎧は負の感情を吸って重量を増し、じわじわと本人を圧死させる。踏みだすたびに凍った足元が崩壊し、底なしの沼にはまる。ずるずると過重な鎧を引きずり、捨て鉢な態度で諦観を決めこむルベドからは、むせ返るほどの雨の匂いがした。
「No.666は、そういう奴だよ。生まれる前から、そう感じるし、そう思うし、そう考えてた―見たい、触れたい、知りたいって。受信する感覚も、発信する感情も、自分じゃ抑えられない。こういうことを余計なものだって言うなら、もうどうしようもねえんだよ。だって、わかっていてもそう思っちまうのが俺なんだ」
 ルベドは全身で泣いていた。ほとんど睫毛に隠れた青い眼で、頭皮にへばりついた赤い髪で、だらりと垂れた手足で、まっすぐ降り注ぐ雨のように嗚咽もなく泣いていた。
 悪かったな、とルベドは言った。「真面目にやってるおまえからしてみりゃ迷惑だろ、鬱陶しいだろ。もとより、俺には無理なんだ。親父やシトリンの言うように、俺はやれない―うざったけりゃ、おまえのほうから親父に処分申請してくれよ。No.666はリーダーとして不適切、兵器として重大な欠陥があるため速やかな処分が望ましいってな」
 雨粒に打たれつづけることで身を削り窪んでゆく雨落石のように、ルベドの言葉と涙は自身を削っている。青白い顔をぐしゃりと潰し、もういい、と妙に毒気の抜けた軽い呟きに、弟たちと妹は同じような困惑の表情で長兄に怯んだ。シトリンでさえ、野蛮な獣を警戒する表情で口を閉ざしている。三人を見回したルベドは、ひくりと口角を痙攣させ、ぼろぼろと無駄な涙を零し、自虐的な笑みを浮かべた。
「どうせ俺の一人芝居なんだろ……はは、何も知らず馬鹿みてえに、俺一人浮かれてたってわけだ。どうしたって現状が変わるわけねえよな、現状以外の選択なんて用意されてないもんな。いくら考えても同じことの繰り返しで円を描いてるんだからな―どうせ未来も死ぬまで今の延長なんだろ!」
 濁声の叫喚で、張りつめた空気が振動する。どうせ、どうせ、とルベドは覆ることのない結果を諦めていった。どうせ、と泣哭するたびに遠雷が落ち、花々の花弁が散り、雨が吹きすさぶ。
 今のルベドは、やはり雨の匂い―湿った土壌で細菌から発生される腐った水の臭いがした。陽光をたっぷりと浴び、体内から液体が揮発してゆく匂いは今やザバロフの太陽のように覆い隠され、雨の鎧にけぶって輪郭が朧になっている。庭園の花々も色をにじませ、絵画のように背景と同化して彼の丸い眼に映る。雷光の繰り返しで瞬間だけ浮きぼりになる輪郭、鮮明な幻想から曖昧な現実へと目覚めさせる雷鳴―その繰り返し。あるはずのない雨の匂いが彼の鼻腔に充満している。これは外界から届いた雨の匂いではなく、ルベドに沈殿する腐敗しかけた底意の匂いなのだ、と彼は思い直した。
 わかった、わかったよ、とルベドは大仰に頷いた。気だるげに頭を振るだけでふらついていたが、手を貸そうとしたニグレドを片手で制し、眉間に手首を押しつけ呻いた。「俺個人の集中力は下降しても、全体的な総合結果は要望通りに仕上げてる。訓練も演習も、命令どおりに実行してる。このまま俺を生かすって腹なら、期待には応えるさ。任務も当然、遂行する」
 湿った空気が帯電し、びりびりと弾ける。髭に痛みを感じた彼は、前足で顔をかくことで異常な電気を分散させた。強烈な負を帯びた帯電体のルベドを通し、隣で兄を心配しているニグレド、前方で萎縮し震えているアルベド、さらに前方でルベドの変貌に怪訝な顔をしたシトリンの三人へと、剣呑な空気が伝達されている。赤毛から滴る少量の水や、延々やまない雨音など、どれもこれも彼の眼には危険な事象の兆候に思えてならない。
「目的のためなら、レアリエンだろうと人間だろうと、皆殺しにするのが正解だったよな?」
 落雷の閃光と同時に、ルベドが哄笑する。
「ウ・ドゥだとか、意識体だとか、そんなものが怖いだなんて、ここの連中は腰抜けばっかりだ。いいぜ、ぶっ殺せばいいんだろ。この世から完全に消滅させてやるよ」
 腰骨の軋み。雷鳴がくる。
「そうすりゃ、てめえら満足なんだろうが!」
 腹の底を撫でてゆく低音に、その場の全員が身構える。アトリウムの天井にまで反響する怒号―自ら発した声量に体が耐えられず、ルベドの足がもつれた。倒れる寸前の体をニグレドが支えるも、ルベドはシトリンを睥睨したままニグレドのほうに見向きもせず、優しい腕だけを振り払った。ふらつく体から電気のような赤い波動が迸っている。しっとりとしていた頭髪の毛先が一本一本ぴりぴりと粟立ち、わずかな水蒸気を発生させている。ずぶ濡れた制服も、ルベドの体内から溢れはじめた熱によって間もなく水気を失った。すでに涙は蒸発している。全身を覆ってゆく波動の高熱にも関わらず、その中心にいる火種は死人のような冷たい顔色をしている。目の下の隈がいっそう濃くなり、薄暗い顔面の中で爛々とした二つの青い光源が、揺らめくたびに尾を引いて青い光の残像を宙に描いた。
「お望み通り、全部、ぶっ壊してやる!」
 自棄の怒声が張りつめた空気を破裂させた。真っ赤な炎の波動がくる。ルベドの負電荷が周囲と反発しあい、電流となって放電する。無音の膨張。うねどり、飛散する火花。体が宙に浮くような間を置き、ルベドを中心に赤い竜巻が発生した。飛沫となって吹きとばされる噴水。突風にしなる木々の葉と、焼ける臭い。アカシアの黄色い房は見事に散った。
 外界で息巻く天雷までもが、彼らを戒めようとする。できる限り姿勢を低くした彼は波動から身を守りながら、竜巻の中心にいる主人が以前に朗読していた節を想起していた。ニーチェの書である。
『あなたがたの罪が天の審きを求めて大声をあげているのではない。叫んでいるのはむしろあなたがたの自己満足だ。あなたがたの罪のけちくささそのものだ! だが、その舌であなたがたを焼き滅ぼすような稲妻はどこにあるのか? あなたがたに植えつけられなければならない狂気はどこにあるのか? 見よ、わたしはあなたがたに超人を教えよう。 超人こそ、この稲妻、この狂気なのだ!』
 稲妻、雷鳴、渦巻く炎。ニグレドは反射的に両腕で顔を覆い、赤黒い余波を受けとめながら必死に兄の名を呼んでいる。アルベドが恐怖に歯を鳴らし、青ざめた顔で震えながら後ずさる。シトリンは明らかに動揺しており、ひどく惑乱した様子で眼前の光景を凝視していた。波動を察知した標準体も、異常を窺いはじめたようで、窓には薄い碧眼がいくつも並んでいる。数名の研究員が実験棟の入口から慌ただしく飛びだしてくる。
 三人の兄弟が兄の名を呼ぶ。彼も主人の名を呼んだ。その鳴き声が誰かの耳に届くより早く暴発すると思われたルベドの波動は、なぜか爆ぜることなく突如として急速にしぼみはじめた。竜巻が瞬く間に勢いを失い、赤い波動のうねどりが緩やかになる。集束する波動の中心にいる少年を、その場にいる全員が注視した。ルベドはいまだ発光する青い眼を虚ろにし、声にならない苦しげな呻きを何度も漏らした。弱々しい体を覆う赤い波動が完全に消失し、眼光の青が安定すると、ニグレドは即座にルベドのもとに駆けよった。呆然と立ちつくすアルベドとシトリンの視線の先、ニグレドの腕に、火種の体は燃えつきたあとの灰のように崩れおちた。