明滅する春と修羅 7


Timeline: One day of YURIEV Institute




 夕刻になり、ようやく事態は沈静化したといえども、この事変直後の騒然は凄まじく、これまでのルベドが発端となった擾乱の中でも大事であった(彼が知る限り、それはアルベドが拳銃で頭をぶち抜いた以来の事件でもある)。それまで変異体の存在を除いて寂寞としていた屋内庭園は、輪になった研究員たちの陰険な囁き声で充満しており、ドロイドやレアリエンまで倒れた友人を心配して駆けつけるため、研究員たちは備品の動向を訝りますます厭悪になって囁きあった。
 研究員にとり押さえられるアルベドは発狂して泣き喚き、憤怒に充血した眼でシトリンに罵声を浴びせた―おまえのせいだ、ルベドが死んじゃったらどうするんだよ、おまえなんかにルベドの何もわかるもんか、おまえらが知ったふうな口をきくから、僕もルベドも誰にもわかってもらえないんだ!―頭蓋を撃ちぬいたことで脳内がうまく整理されたのか、気づいたから撃ちぬいたのか、どちらにしろ、アルベドには想定しつつも回避したい事態であったらしい。棒立ちのシトリンは、掴みかかるアルベドの拳を避けようともせず、怯えた表情で自失しており、失神したルベドを支えるニグレドは、輪の中心で自らも事態に愕然としつつも意識のない兄に必死で呼びかけていた。徹底的な管理体制にある単調な日々も、河川の淀や瀞のごとく水面下では緩やかに流れているもので、こうして水面に浮きあがることは極めて蓋然的な流れであり、仮に突発的な事態と捉えるのであれば、それは単に兆候を見逃しているにすぎない。
 ところで、轟々と吹きすさんでいた嵐はといえば、まるでルベドの能力に呼応するかのように収束し、夕間暮れの今や惑星ザバロフ裏側へと消えさっていた。アトリウムの天窓を打つ雨粒も少女の弾くピアノの音色も聞こえない現在、人気のない庭園は閑静な佇まいをとり戻している。ドーム内から仰ぐ空は依然として曇天のままだが、あれほど猛っていた雷光はどんよりとした雲間に影をひそめ、内臓にまで響いていた雷鳴よりも小鳥のさえずりが勝るほどの静けさであった。天窓に残った無数の雨粒が、名残惜しげにガラスの表面を滑りおちながら一塊になって質量を増し、徐々に滑降速度をあげてゆく。
 何をするでもない彼は、そうした重力の働きを病棟の中庭から眺めていた。その一時の合体は、以前にルベドが見せてくれた植物図鑑に描かれた、瑞々しい葡萄の房によく似ていた。時折、灰と白が混じった薄雲の奥から一条の陽光が射すと、雨粒の集合体はこの地面にまで淡い影を落とし、水面のように揺らめく。
 病棟内には入れない彼が、自然の一滴まで余すことなく眼に映していたところに、実験棟区画へ続く連絡橋から黒い髪の主人が歩いてきた。ニグレドは彼の姿を目にとめない。頭上を覆う曇天のように沈鬱な面持ちで、病棟の入口から向かって左のグランドピアノがある部屋に入ると、傍目に見てもわかるほど肩を落とし、ピアノの長椅子に腰かけた。緑地から出るな、という言いつけを堂々と破っている彼が窓の下枠に飛びのっても、主人は気づかない。明るい緑の双眸は、ピアノの上に飾られた真っ青なアネモネをしばし眺め、それから白と黒の整然とした鍵盤を見下ろした。あの笑わない少女が一曲演奏しおえるほどの時間が経過しても、並列が入れかわるでもない八十八の鍵盤を見つめている。
「こんなところにいていいの?」
 鬱々としたニグレドを振りむかせたものは、凛と響く少女の声であった。
「やあ、シトリン」
 自分に向けられた微笑をシトリンは靴音で一蹴し、ピアノの長椅子にニグレドと背中合わせで座った。背骨をニグレドのそれに押しつけるように丸め、夕映えのようなオレンジの髪で顔を隠したシトリンが、「質問に答えて」と素っ気なく言う。前を向いたニグレドは、背後の熱に気づかれないよう小さく苦笑した。
「ずっとつき添っていたけれど、調整後は顔色も大分良くなっていたし、今もアルベドが傍にいるから。大丈夫、心配ないよ」
 結果として、ルベドが倒れた理由は血管迷走神経反射性失神であるらしい。研究員同士の会話から察するに、今朝の無断検査や点呼時の遅刻による処罰も軽いもので(個室軟禁という処置は、ルベド個人にはきついものかもしれないが)、それよりもNo.666という個体の危険性について誰もが再び懸念しはじめたことが問題だろう。ディミトリ・ユーリエフはNo.666を現行の方針で管理していく意向であるらしいが、施設内でのルベドの立場は以前よりさらに悪化している。研究対象外となる異質なもの、変化をもたらす可能性のあるものなど歓迎されない場所では、想定可能な進展を求められる。能力値は高くとも〝普通の少年〟という個性を見せつけてくる異常な兵器に抱くものは、期待ではなく畏怖に近い。
「別に彼を心配しているわけじゃないわ。失言だったとは思わないもの」
 シトリンはすげなく言い、馬鹿馬鹿しい、と顔をしかめた。
「単なる神経心原性失神で、あなたもアルベドも大袈裟ね。あんなもの、大抵はものの数分で回復するんだし、何の後遺症もないじゃない。そもそも、精神的ショックや情緒的ストレスが誘引なのよ。ショックにストレス―情けないったらないわ。それより、口利きしてくださったお父様に感謝なさいな」
 早口でまくし立てたあと、シトリンは振りむこうとせずに背後にある熱を伺った。そうだね、とニグレドが穏やかな声で呟く。伸ばした指が白い鍵盤をまとめて撫でた。
「シトリン、君は正しい。いつも正しいだけの選択ができる」
 山なりのアルペジオ和音が白亜の内壁に染みこむように響く。淡々と銃を組みたてる柔さのない指が、ピアノの鍵盤上を滑らかに移動する。中々うまい。少なくとも赤い髪の主人のハーモニカよりは断然、見込みがある。濁りない音色の余韻が霧散したあと、シトリンは躊躇いながちに口を開いた。
「あなたも感じたでしょう、ルベドが発した赤い波動―あれは確かに、私へ向けて放たれた」
 その声はわずかに震えていた。口振りからして、シトリンも彼と同じく今回初めてルベドの能力―反ウ・ドゥ波動発動モードとやらを目の当たりにしたらしい。具体的な効果も発動条件も、名称意外に彼には知る由もないのだが、炎のように赤く不気味にうねる波動を身にまとった主人の顔は青白く歪んでいた。しれじれ笑える打算的な顔に、隠せないほどの汗と苦痛を浮かべていた。アルベドの能力のように、主人が自ら望んだ能力でないことは明らかだ、と彼が理解にいたるほどの絶望と疲弊があった。
「ウ・ドゥに汚染されてもいない君に対して、なぜルベドの能力が発動したか―おそらく、ルベドの精神が極度のストレス状態を抑えきれずに、自身の内部で発火した強力な波動を暴発させてしまったから。これは博士の見解でもある。君が気にすることはないよ」
 ニグレドは慰めるが、緑の眼差しは背後にいるシトリンではなく、花瓶に生けられた青いアネモネに注がれていた。ルベドを〝極度のストレス状態〟に追いこんだ原因はアルベドだろうが、ストレスそのものはNo.666の誕生直後から蓄積されていたものだろう。こびりついた垢のように、発生したカビのように、ノンセンスにも程があるスナークのように不可解で、ゴドーのように待つだけ不条理な―狂気を孕んだアルベドにも、本人にすら容易に転がせないものが、ルベドの中にはごろごろと沈殿している。
 そうじゃないの、とかぶりを振ったシトリンの心細げな声に、ニグレドは先を見透かしたような微笑みを浮かべた。それに気づかないシトリンは、悔しげに言う。
「あの波動を受けて、私は無傷だった。私自身もルベドと同じようにして無意識に能力を行使したのかもしれないわ……女性体はそういう存在だと、お父様が仰っていたもの」
 さらりと垂れた夕焼けの髪が、ヴェールのようにシトリンの顔を覆う。どうだろうね、とニグレドは当たり障りなく流したが、その微笑に多少の不気味さが伺えたので、彼は少なからず一驚した。
「案外、僕かもしれないよ。あの場にいた誰もが、その可能性をもっている」
 普段より半音低い声に、彼の毛並みが耳から尾まで粟立つ。口調は懐疑を含み、なおかつ自嘲にも聞こえた。穏やかで柔和なニグレドが仮面の性格であろうことは薄々了解していたが、それをこうした自棄の形で露見させるとは彼にも予想外である。能力を行使した者が、自分も含め、誰であっても快くは思えないらしい。あの場にいた全員に可能性があるということは、U.R.T.V.すべてに共通する能力ということなのだろうか。彼の目にはルベドの内部で化学反応のような現象が起こった結果、当人にとって不本意な暴発を集束したように思えたが、あの能力は外部からの働きかけが必要なほど強力なものらしい。まあ、禍々しい波動であるには違いない。
「お父様は―」
「それに関しては、何も」
 短い応答のあとに流れた沈黙は、二人を観察する彼の毛先をちりちりと苛んだ。居心地の悪さから窓外の芝生へ静かに着地すると、花壇に植わる花々に体をすり寄せて自らを慰める。赤いヒナゲシ、白いスズラン、ブルーデイジー、花々はいつでも彼を迎えてくれる。
「とにかく、ルベドなら大丈夫。目覚めてしばらく多少ぼんやりしていた以外は、ピローグを食べ損なったと冗談めかして笑うくらい普段の調子だったし、君に対してひどい暴言を吐いたから謝りたいと反省していた―ああ、後日、彼の謝罪を聞いてあげて。だからね、君が責任を感じる必要はないよ、シトリン」
 落ちついたニグレドの語り口に、彼も主人の無事を確認して安堵していた。しかし、リーダーとして、良き兄として、インスティテュートの外壁より高い自負を持つルベドのこと。弟たちには見えないところで自分の失態を恥じ、内心では泣きたいほど鬱々としているだろう―そうした兄の心情など弟二人は易々と察している、その事実を露とも知らず。相手の機微には敏感なくせ、その変化が自分による影響であり、自分に向けられたものであり、自分が与えたものであることだという考えに及ばない。ルベドが早々に諦めたものは、未来でもなく関係でもなく自分自身なのかもしれない。
「私が感じているのは、もっと違うことよ」
 シトリンは強張った声で警鐘を鳴らした。「彼は危険だわ」
 似たような言葉を聞いたことがある。彼が記憶を辿るに、今朝、女の研究員が口にしたものだと気づく。『だから、化け物だって言ってるの』―これと同じニュアンスなのだ。意志があるから、個性があるから、名前があるから、花を愛でるから、芸術を鑑賞するから、人殺しは嫌だと言うから、関係を構築しようとするから、苦痛を免れようとするから、異質を自覚しているから、それでいて普通の子供であろうとするから、No.666は極めて危険な化け物であるらしい。
 人であるとは、どういうことだろう。人間を人間たらしめるものは? ほとんど水で構成された、その肉体だろうか。螺旋の集合体、遺伝子の配列だろうか。脳の運動、心は頭にあるもの? 約束事に従い正義を論じる、文明のため、愛のため、争い、奪い、支配する神の子ら―彼にはわからない。なぜなら、彼も人ではない。
 ニグレドは肯定も否定もしなかった。返答の代わりに、
「ああ、マルシュだ。ルベドのところへ行くのかな」
 と、妙に間延びした口調で言った。ふと見れば病棟の中庭に〝歩く〟という行為以外何も思考していないような顔をした男性レアリエンがいた。「何、マルシュですって?」と、シトリンの怪訝な声が室内から届く。
「まさか、あのレアリエンの呼称?」
「古代の言語で〝前進〟という意味があるらしい。彼の仕事は僕らのスケジュール管理、常に時間を気にしている。時計の針が時を刻むように歩き回る彼の姿に意味を求めて、ルベドはそう呼んでいるんだ」
 時計といえば、設定された数値が累積してゆく無機質なものだが、アトリウム内にあるモニュメントの一つにはアナログ時計を埋めこんだものがある。ぶつぶつと本日の予定を反復しているらしい男性レアリエンは、休むことを知らず規則正しく回りつづける時計の秒針と確かに似ていた。わざわざ愛称で相手を認識する行為は、名づける相手を自分の所有物としたい、もしくは自分の世界に住まわせたいという欲求でもあるが、これもまたルベド本人に自覚はないのだろう。
「それは、同情という類のものかしら」
 シトリンは冷ややかに言った。本人に悪気はないんだよ、とニグレドが本人代行として弁解する。「U.R.T.V.も研究員もレアリエンも関係なく、ルベドには誰に対しても、そうなんだ。良くも悪くも立場からの偏見がない。例えば、神と呼ばれるものと出会ったとしても、彼は気軽に握手を求めるだろうね。他意なく自然に相手を尊重できる。心臓が鼓動するように無意識だから、そこに善悪は存在しない」
「愚直とも言えるわね。人間には美質ととれても、兵器には必要のない性質よ」
 呆れ返ったシトリンの声は刺々しいが、純粋に納得し、ルベドのそうした性質を認めるような含みもあった。単にどうしようもないと、諦観の境地にいたったのかもしれないが、公正なだけに必要以上の非難はしない。まあね、とニグレドは苦笑した。
「その性質が逆に、自分自身を苦しめているんだから……ルベドは標準体が全体で抱く感情を無視できない。それが負に偏ったものであるならば、なおさら真正面から受けとめてしまう。いなす術を知らないんだ」
「変異体がもつ波動は特別なのよ。それは標準体のウ・ドゥに対する恐怖を鎮静させる効果を備える代わりに、そのベクトルを彼らへ向ければ、まばらな自意識なんて容易に破壊してしまうほど強大なものだわ。彼らが私たちをウ・ドゥとは別の面で本能的に怖れるのは当然のこと。その上、圧倒的な能力差を考えれば、嫉妬の対象となっても無理はないでしょうね。U.R.T.V.の連結に、生温い感情は必要なくてよ。さっさと割りきるべきだわ」
 シトリンの言葉は、マニュアルを朗読するように間違いなく正しい。ニグレドが言ったように〝正しいだけの選択〟だ。絶対的に正しい選択だとわかっていても、そうそう割りきれないものが感情であることは考慮されていない。誰も彼もが正しい選択をしているのであれば、平和という言葉も形成されないほど世界は安寧であり、そうして無闇に戦争を起こさなければ兵器も必要なく、つまりは皮肉なことにU.R.T.V.という生体兵器が生みだされる日も訪れなかったのではなかろうか。自分たちの存在自体が正しい選択から逸脱した人類の愚かさゆえの産物であると、シトリンは気づいていないのだろうか。
「僕もそれを望むよ。憎悪も、嫉妬も、彼らの巨大なマイナス感情を素直に受けとめるなんて、毒を飲みくだすようなものだ。それなのに、ルベドときたら無防備に傷ついてゆく。彼らに対して罪悪感すら抱いている」
 ニグレドは悲しげに瞼を閉じた。あのルベドは確かに救いようがないほど愚かであるが、それが他者を惹きつける要因でもある。その無防備さでもって、彼やニグレドに満面の笑顔と好意を向けてくれる。見返りは必要だが、真正面から愛情を与えてくれる。刹那的な感情ではあるが、そんなものをもらって嬉しくない、と思えるわけがない。そうしたものは一度でも味を占めてしまうと、もう手離すことができなくなる。
「いくら彼の能力値が高いとはいえ、あまりに逸脱した個体は異分子として処分されるわよ。変異体を四体連続で出現させたということは、データも相応に揃っていることでしょう」
 ねえ、とシトリンは憂いを帯びた声で囁いた。「いいこと? 変異体といえども〝換え〟がつくれないわけではないかもしれない。そうした意味でも、ちゃんと彼を監視してもらわないと危険なの」
 ひどく真剣な口振りは、シトリンが初めてディミトリ・ユーリエフ側ではなく、ニグレドたち兄弟側に立って零した発言に思えた。正しくないことを言っている自覚があるらしく、好奇心に負けた彼が再び窓枠によじ登って室内を覗くと、シトリンはニグレドの耳に自分の手をあて、
「他の標準体のように、あなたの手で処分したくはないでしょう」
 と、誰にも聞かれないよう耳打ちしていた。もとより人気はないが、いたとしても人より聴覚が優れた彼でなければ聞きとれないほどの小声であった。ミズラヒ母娘への一応の配慮なのか、ピアノの部屋には棟内で唯一、監視カメラが設置されていないため、それを見越しての二人の会話なのかもしれない。
「標準体なら良いのかい?」
 隠す気もない声量でニグレドが訊いた。振りむいたニグレドに見つめられ、驚いたシトリンは弾かれたように体を反らした。噤んだ口から戸惑いが漏れる。ニグレドはくすりと笑い、ごめんね、と謝罪してからピアノの鍵盤に向き直った。「残念だけど、その通りなんだ」
 譜面を見据え、薄く微笑む。鍵盤に乗せられたニグレドの十本の指が、譜面どおりの順番で鍵を押しこむ。
「二人の兄さえいれば、僕には標準体なんてどうでもいい。本当はU.R.T.V.の使命どころか、ウ・ドゥすらどうでもいいのかもしれない」
 ピアノを弾きながら、ニグレドは語る―歌うように、とても感情を伴った、中くらいの速さで。変イ長調、四分の三拍子。最初の音、弱く。愛らしさを伴って。左手に二つの音、右手に二つの音―四つの音が同時に鳴り響く、短い序奏。シトリンの焦った声も、彼女に掴まれたニグレドの肩の揺れも、その序奏の響きに吸いこまれる。
「僕にとって世界というものは、すべてが曖昧で実感に乏しく、物質は背景にしか感じられない。まるでルベドが描いた虚像を見せてもらっているように、自分という確固としたものがない。だけどね、僕は満足しているんだ。この目に痛いほど鮮明な世界は望んでいない。僕は二人の兄以外何も執着がないんだ―自分でも不思議なくらいに」
 シトリンはわなないていた。「ニグレド、あなたがそんなことではいけないわ!」
 悲鳴によって旋律が途切れる。ひどく狼狽したシトリンが呼吸も慌しく胸に手をあて、その次は煩悶するように額に手をあて、オレンジの髪を振り乱した。
「私たちは優秀な兵器なのよ、ニグレド。人間よりも役にたつ、領域を超えた……ええ、価値があるの。お父様から与えられた使命に、私たちは誇りをもつべきだわ。いいえ、それよりも―お願いだから、もっと自分を大切にして―あなたは特別なのよ、ニグレド」
 すっかり理路整然を忘れた物言いのシトリンに、ピアノの手をとめたニグレドは面食らっていた。両頬を固定され、首の筋がつりそうなほどうしろ向きに回された状態では、目と鼻の先にあるシトリンの謹厳な表情を見つめ返すしかない。緑と金の眼がじっと絡みあう。双方の色に戸惑いがある。シトリンは年相応にうろたえ、「本人たちは知っているの? その、あなたの、そうした所思というか―」と、言い淀んだ。
「ルベドは何も知らないよ。アルベドとは似た部分もあるから少し話をしたけれど」
 苦い薬を飲みくだすような顔で、ニグレドは穏やかに言った。そうして、割れてしまった皿の欠片を拾い集めるように丁寧に、大事な兄の名を口にした。ルベドルベドルベド―あなたたちは、本当にそればかり―シトリンの表情には不満が見える。
「ルベドはとても優しいんだ。兄弟だというだけで際限ない彼の優しさが、僕には怖ろしくてたまらない。好意という感情をもつ彼には、光と影のように相反する嫌悪という感情も存在するから……」
 嫌われたくないんだ、とニグレドは呟いた。緞帳のような黒い睫毛を揺らし、口元から怯えを零している。無理もない、と彼は同情した。赤い髪の主人につきあっていたら、振り回されるばかりでちっとも気が休まらないのである。あのルベドときたら、こちらを勝手に解釈して、誤解して、泣いて、諦める。すべてを自分一人で判断し、結論づけて、こちらの話なぞ聞きやしない。ひっそりと孤独な我々が、喉から手がでるほど求めている美しいものも素晴らしいものも手中にあるというのに、あっさりと捨ててしまえる神経をしている。真実や童話よりもよほど残酷さを体現している。深いブルーの光源も、血より赤い髪も、その魅力に惹かれてくる哀れな者たちを、蜘蛛の巣のように絡めとるための罠でしかないのかもしれない。ウ・ドゥという存在がどのようなものかは知らないが、インスティテュート内を撹乱してゆく魔王の数字を冠した悪魔のほうが、愛憎されている分よほど化け物じみていやしまいか。
 ゆっくりと深呼吸したシトリンが、かわらしい咳払いで間を置いてから「ニグレド、聞いて」と真摯な眼差しを向けた。躊躇いに引きずられつつも瞼を開いたニグレドは、銃弾のようにまっすぐ歪みのない視線を、痛ましい緑の眼で受けとめた。
「私たちU.R.T.V.は普通の人間じゃないし、普通の兵器でもない。そして、私たち変異体は標準体から見ても〝普通〟じゃないの。それは名誉なことよ。お父様の望まれる未来が私たちの中にあるのだから。この意味がわかる? 特別の意味が―私たちの存在意義は、そこにあるの。私たちにしかできないことがあるのよ」
 シトリンの薄い瞳は潤み、その金色は誇りで満ち満ちていた。崇高な思想を父の名のもとに掲げ、実現のため邁進する。白い頬は生き生きと紅潮し、癖のない鮮やかな髪が顔を整えると、純粋で汚れのない少女の忠誠をよりいっそう引きたてた。シトリンは自分の使命に疑問を抱こうとしない。盲目的にディミトリ・ユーリエフを慕い、自己を主張するルベドとは別の方法で父性を求めている。
 〝特別〟の意味を理解しているらしいニグレドの唇の端には、密かな諦観と自嘲が見受けられた。「馬鹿げたことだと重々承知の上で告白するけれど」と、ニグレドは自分の頬を押さえるシトリンの手をとり、優しく握りしめて微笑んだ。「僕らの兄さんたちは、悩んでも仕方のないネガティブな思考を一人で抱えこんでしまう、案外どうしようもない人たちでね。そうして自分の首を絞めてしまう思考を一つ一つ拾いあげて、見えない場所に捨てたり、あるべき場所に戻してやる―それが僕の本当の役割だと、僕は思っている。誰にも譲れない、自分で選んだ僕の役回りなんだ、と」
 そう思いたいんだよ、とニグレドは自分でも呆れるように苦笑した。項垂れた眉とは対照的に、語気からは確固たる意志のようなもの、シトリンが自らの使命に対して抱いているような誇りさえも窺えた。シトリンは震える唇で、なぜ、の形をつくり、声なき声で呟いた。それでいいの? 自信に満ち溢れた威勢は萎え、今にも泣きだしそうな顔をしている。いいよ、と頷いたニグレドの表情に迷いはない。悔しげに口を窄めたシトリンの手を離し、ピアノに向き直ったグレドは再び指を鍵盤に乗せた。
 再開された旋律は、完全四度以上の跳躍はしない。三小節目の冒頭、和音は初めて分散され、八分音符の一定のリズムで、旋律的な順次進行の中の弱拍に初めて下属和音があらわれる。そして、わずかにクレッシェンドしたところへ、ニグレド、と小さな呼び声が重なる。
「どうして、私にこんな話を?」
 ニグレドはピアノを弾きつづけながら、そうだな、と顎をあげた。「君なら秘密にしてくれると思ったんだ」
 旋律は流れ、次の小節では弱くなる。たった一小節だけのクレッシェンド。右手の旋律は付点八分音符の跳ねるリズム。まるで根拠のない理由に困惑するシトリンが、思いきり眉をひそめて嘆息する。
「サクラ・ミズラヒにも同じことを言われたわ。それを理由に、お茶を飲みながらルベドの話ばかり聞かされて……ちっとも治療の糸口になりやしないんだから」
「話したのかい」少々驚いた様子のニグレドが訊ねると、何度かね、とシトリンは素直に肯定した。
「彼女って結構したたかな女だと思うわ。単純なY型のルベドには釣りあわないと思うの」
 他意なく意見を述べるシトリンに、ニグレドは声をあげて笑った。装飾的な音の揺らぎに笑い声が混じる。ピアノでは生むことのできない半音以上の揺らぎを、細かなクレッシェンドとデクレッシェンドで器用に表現するニグレドは、それでも譜面どおりに五指を動かしているだけのようである。
「そういうルベドだからいいのさ。あの二人は出会うべくして出会ったようなものだ。同じY型で同じ顔をした僕ら三人の内、なぜ彼女はルベドを選んだのか―ルベドを通して僕らは同じ軸にいるんだよ。いわば、惑星の回りを公転している衛星の仲間と言える。サクラがロスト・エルサレムだとすれば、僕らは昼に消える月、ルベドは夜に沈む太陽だね」
 旋律は自分の内に閉じこもり、その歩みは遅く静謐に揺れながら、弱く、愛らしさを伴って流れる。
「僕たちじゃ近すぎて、知りたくもない理解の領域に踏みこんでしまうけれど、ルベドはサクラが怖れることのない距離で彼女を照らして、寒さからも守ってあげられる」
 このまま外への通路は開かれないのかというとき、第一主題が聞こえてくる。主題の始まりは、ここでも主和音の第三音であった。
「何も知らずにいられるなら、それは確かに幸せなことね」
 皮肉ともとれる言葉を、シトリンは瞠目したままぽつりと呟いた。
 美しい水の惑星は生命を育んだが、自分の子らに破壊され、むしりとられ、刻々と確実に死へ近づき、そこには最後まで運命をともにするように月が寄りそっていた。そのはるか約八光年先で太陽は燃えつづけ、百二十三億年後の未来までエネルギーを放出する。赤い髪の主人は天文学全般に詳しく、灯りのない彼の寝床でもロスト・エルサレムやザバロフの宙域について話してくれることがあった。星も見えない鬱蒼とした木々の底から、真っ赤な蠍のアンタレス、オレンジとブルーの二重星アルビレオ、南十字星、焼きこがすシリウス、双子のカストルとポルックス、プロキシマ・ケンタウリ―きらめく星々を思いうかべる主人の眼の中に、彼は青い星を見ていた。ルベドが太陽であるならば、賑やかな太陽系外にいる彼は小さく暗いプロキシマ・ケンタウリ、太陽系に最も近い恒星でありたいと思う。ニグレドのピアノ演奏を聞く彼は、灰色がかった雲の彼方に広がる壮大な宇宙を眺めた。
 第三楽章に入ると、十六分の十二拍子になり、アリオーソ・ドレンテから短調の旋律が始まる。そしてフーガへ。その主題は、左手で完全四度に上行し、短三度の下行、その反復。右手、再び左手にあらわれるときはオクターブとフォルテで強調される。どこかで聴いたような音程―これは第一楽章の冒頭、その序奏、最初の音程であった。
「もう一つ理由があるとすれば、君だけには僕を覚えていてほしいから」
 さらりと言い放ち、ニグレドは鍵盤の両手を離した。ハンマーに叩かれた弦が上蓋の内部で余韻を響かせている。
「それも、彼には言えないことなのね」
 真顔のシトリンはそれだけ言うと、長椅子から立ちあがった。くるりと振りむいたニグレドが、入口へ向かう背中に紳士的に声をかける。
「送ろうか」
 シトリンはひらりと手を振り、「結構よ。私、彼女とは違うから」と返事を残したきり、ピアノの余韻を連れてドアの向こう側へ消えた。あとには静寂と雲間から漏れだす夕陽の残照が床に散らばっている。ピアノの蓋を丁寧に閉じ、ニグレドは譜面からアネモネに視線を向けた。青い花の先に何を見ているのか知らないが、もう姿を隠すべき相手もいないので、窓辺の彼は黒髪の主人に甘えるように、ひと鳴きした。別段、驚く素振りを見せないので、主人は最初から彼の存在に気づいていたのかもしれない。気まぐれに尾も振ってみると、ニグレドはにっこりと普段の微笑みを見せた。
「やあ、ガイナン。盗み聞きはよくないな」
 そっと抱きあげられ、明るい緑の光を湛えた眼が緩やかに彼を捉えた。漆黒の髪が毛並みと触れあう。ニグレドは今日も清潔な匂いがするものの、かすかに硝煙臭い。
「このアネモネ、ルベドが飾ったんだね? ベートーヴェンのピアノソナタ作品一一○、単調のアルペジオによく似合う」
 腕の中から首を伸ばして譜面を覗くと、いくつも飛びはねたホログラフの音符の連なりに、電子ペンで演奏上の注意が書きこまれていた。そうした一連の単語の中に、演奏とは関係のない〝Blueness〟そして〝His harmonica〟という単語も浮いている。新しい書きこみらしく、他の走り書きとは色が変えてあった。ガイナン、と自分の名を呼ぶので、彼は主人に額を押しつけた。
「病室のベッドで眠るルベドの横で、アルベドは『気づいてしまえば仕方ない』と言っていたよ。『僕は限りなく自由で、世界はあまりに広大で、ルベドにあげる約束をした、この目も、この手も、すべては僕だけのもので、この心臓は誰にも抑えられない。僕はもう、ルベドと一緒ではいられない』―そう言ったんだ。僕にはよくわからないな」
 彼の滑らかな毛並みを撫でながら、ニグレドは窓外の景色を眺めていた。次第に晴れ間を覗かせるアトリウムの空から夕焼けの残滓が零れおちてくる。そろそろ宵闇が、塗り残した空にもタールをたっぷり流しこむ時間である。すでに気候は落ちついた。ドロイドも庭仕事を終え、屋内庭園には誰一人いない。木もれ日より強い残照を受け、ニグレドの瞳がグリーンに輝いた。震える唇に気づき、強張った顔を彼が舐めてやると、ありがとう、とニグレドは微笑んだ。
「ガイナン、僕は思い違いをしていたよ。愛とか幸福とかいうものは、もっときれいで、もっと穏やかで、何より尊いものだと思っていた。こんなに凶暴で、偽れないほど醜くて、とても苦しい、泣きたくなるようなものだとは思わなかったよ」
 窓に背を向け、影に紛れたグリーンの光源から、ぼろりと涙だけが溢れた。呆然自失の表情で、知らなかった、とニグレドは泣いた。いつまで経っても雨がやまないので、彼の毛並みは湿気でじめじめする。これは罪悪だろうか、とニグレドは恐怖に震えた。
「それでも僕は、彼らに危険を及ぼす者をすべて排除する。その対象が、例え〝神〟だとしても」
 主人の腕に抱かれ、彼は夕間暮れの空を眺めた。窓から見た四角い空の端には、薄っすらと虹が架かっていた。