明滅する春と修羅 8


Timeline: One morning in spring at YURIEV Institute



「空気中の水滴で屈折反射して分散された光のスペクトル。いちばん外側の赤から内側へ向かって、橙、黄、緑、青、藍、紫―構造の理屈なんて実際の美しさには敵わねえな。あの日の夕暮れに病室から虹を見て、俺は思ったよ。ああ、もしもサクラが今このとき、俺と同じように空を見上げているならば、あの森のような瞳に美しい虹を映しているのだろう、とな」
 瑞々しく溢れる緑に覆われた春の日だまりの中、緑野に立つ枯木の根元に腰をおろした青年は、昔話を語りながら半透明に収縮する彼の体を優しく撫でる。草いきれで充満した温室のような人工林は、廃墟と化したインスティテュートにおいて唯一、施設が機能していた頃と変わらぬ緑地の面影を留めていた。彼方で燃えつづけるザバロフの太陽が、樹冠に覆われた緑の屋根を透かすほどの陽光で、地面の苔に付着した朝露をきらめかせ、まるで木もれ日からも芳香が放たれているような気分になる。今日は特に麗らかな春の日和である。卵型の蕾をつけた白木蓮や色彩豊かなライラックを初めとした花樹は、アトリウムの天窓を突き破って生長し、今なお美しく厳として、この忘却された無人の地に根を張っている。凛然と高く伸び、堂々と地面に根差す尊厳さを備えた樹木は、この先も何百年という年月を逞しい身の内に刻んでゆくことだろう。この林を棲み処とする鳥や動物たちも増えたので、古参の彼は鼻が高い。
「翌日だったか、二度目の海を目指すミッションは―」
 青年は言い、窪んだ目縁の奥にあるブルーの光源を細めた。「ザバロフはもうすぐ夏だというのに、サクラの世界では夏と呼べる季節さえ、とうに過ぎさっていてな。そこは冬まで移り変わっていて―まるでグリニッジ標準時に仮想された平均太陽さ。真太陽と子午線がずれたまま、徐々に均時差が蓄積されていく。彼女は完全な存在じゃないし、彼女の世界も完璧じゃあない。彼女の軌道はロスト・エルサレムのように楕円を描き、公転速度も変則で、さらに自転軸は軌道面に対して傾いている。外界の俺たちが干渉したことで、サクラの世界に正確な時間が現れたんだ。彼女の生命力に直結する時計の針が進みはじめ、現実の肉体が置かれた時間と精神が感じる時間との狂いが蓄積されるに従い、彼女の磁場は混乱を深めた」
 主人は小難しい話に入ると、比喩の割合が多くなる。童話に登場する魔女さながら、呪文のような言葉を語る姿は、何かしらの儀式に思えてならない。話し相手をじゅうぶんに混乱させて自分の領分に誘いこみ、望む答えだけを盗みだすのである。わからない、と意見したくとも、潰れた鳴き声しかでない彼に気づいた青年は、悪い悪い、と苦笑した。
「こんなふうに雪が降っていてな。まあ、海水浴に向いた天気じゃねえのは確かさ、凍えちまう」
 大量に舞う薄桃色の花弁のひとひらを、広い掌で受けとめ、それに息を吹きかける。朽ちていた古木の根元には、薄い桜の花弁が絨毯のように降りつもっていた。春の終わりを告げるように散りつづける桜の樹冠を見上げ、青年は「きれいだな」と呟いた。
 春雷が落ちた嵐の日、彼の寝床より北側にある人工林の中央に開けた緑野の枯木は、まるで雷に打たれたかのように中心から真っ二つに裂けてしまった。もともと林随一の老木だったので、あの日の落雷に萎縮してしまったとも考えられる。赤褐色に研磨された螺旋状の幹は肥大して白くはげ、骨のような枝はどこも朽ちて一気に数を減らし、露出した根の乾燥も広がった。根元に残された不恰好な空っぽの墓も、ますます寂しい墓標となった。
 いよいよ、U.R.T.V.部隊がミルチアへ出発するかという前日―悲しげな顔をした赤い髪の主人は、ヘルマー准将から土産にもらったという桜の苗を、この死んだ枯木に植えつけてくれた。ドロイドの指南を受けながら幹の割れ目に挿し木をし、必ず戻ると約束してザバロフを去った。さしもの想像力豊かな主人も、死んだ木と桜という本来一つになるはずのない別種のものが絡みあい、若盛りの血気ですくすくと育ち、死をもとりこみ一つのものになるなど露ほども思わなかったであろう。
 季節が何度も巡ったのち、もとある枯木のひび割れた幹を埋めるように生長した桜が蕾をつけ、小さな花々を咲かせた。満開の桜は見事なものであった。直径九フィートもの黒い幹回りに加え、花々に覆われた樹冠は三十三フィートにもなるだろうか―今では、夏がくると濃い緑の葉を豊かに茂らせ、鳥たちのため日除けの役割をしてくれるし、秋には目が覚めるほど黄色く紅葉し、動物たちのため落葉の絨毯をこしらえてくれる。寂しい枯木は、素晴らしい花木として蘇った。
 人工林に足を踏みいれ、迷いなくアルベドの墓標まで辿りついた青年は、再会した桜の生長におもしろいほど目を丸くした。ほとんど真っ白な桜の花弁に埋もれ、そこから芽吹いたハルジオンや野苺に遊ばれている、原形を留めていない緑の塊を見ると、いっそう瞠目した。半開きの口から漏れた言葉は、何とも間抜けな「おまえ、まじないでも使えるのか?」の一言。おかしな魔法を使ったとすれば、そちらのほうだろうに―大いに呆れた彼はふと思う、主人が一体どんな魔法を?
 この桜の下で、青年の昔話を聞いていた。記憶の断片は細かな部分まで鮮明になり、精緻な彫刻に仕上げられようとしている―『どうか百年、待ってちょうだい』と、魔女に頼まれた。『どんな魔法も呪いも百年経たなきゃ叶わない、百年経たなきゃ解けないの』と、彼女は言った。もうすぐ先にある気がする。青年の語る昔話を聞いていれば、その魔法を思いだせるのかもしれない。
 惜しみなく散る桜の乱舞を恍惚と眺め、青年は薄く微笑んだ。
「サクラが死んだ日の浜辺は、そりゃもう寒くてたまらなかったのに、そこから押し戻されたインスティテュートは異様に蒸し暑くてさ。葬式の日なんて、ミズラヒ夫妻の咽びさえ無遠慮にかき消すほど十七年蝉がうるさくて、親父も始終しかめ面でな―世界ってのは、揺るぎないから良いんだろう。優しくされると、自分だけのものだと勘違いしちまうから」
 嵐の翌日、彼は落ちてくる少女を見た。天候の荒れた昨日とは打って変わって穏やかな晴天―春が終わり初夏の訪れを感じさせる暑い日で、アトリウムの天窓が湿気で薄っすら曇っていた。おぼろげな春を脱ぎ、はっきりとした輪郭の勇ましい季節が到来する予兆であった。昼下がりに病棟前の中庭を散歩していた彼は、開け放たれた最上階の窓で風もないのにはためくカーテンのことが、無性に気になった。両開きの窓枠には、裸足の少女が立っていた。少女の白いワンピースの裾は、カーテンと絡まるようにしてばたばたと流れ、いつも焦点の合わない虚ろな眼差しが、信じられないことに生命を内包した深い森のように生き生きと輝いていた。少女は微笑を浮かべていた。風のようなものに遊ばれる亜麻色の髪を気にもせず、庭園の中央から自分を見上げる彼に向かい、悪戯っぽい女の子の笑みを向けた。最上階の窓まで、地上からは結構な距離があるはずなのに、彼の眼、鼻、耳―それらの優れた感覚器は、正確に少女を捉えていた。全身で少女の仕草を観察していた。心拍は正常、むしろ自分で意識して心臓を動かしているように、丁寧に呼吸していた。適度な運動を自発的にしない手足は細く青白かったのに、強靭なバネのように張りと艶があり、指先などは赤いバラのような血色をしていた。少しばかり痩けた頬も紅潮していた。その肉体に余すところなく彼女の誇りを感じた。すっくと立つ少女を目にして、普段と同じく人形のように愛らしいと表現する者はいないだろう。それほど少女は生命力に溢れた、そして、何かとんでもないことを企んでいる様相をしていた。アルベドが〝童話のお姫様よりずっと行動的で、ずっと賢明な女の子〟だと、シトリンが〝したたかな女〟と評した通りの少女で、樹海のような森の瞳をぐいと見つめた彼は、妙に都合良く納得した―ああ、彼女はとうとう物語を終わらせようとしている。
 少女は窓の中に向かい、
「ずっと愛してる、ママ」
 と、凛乎たる態度で言った。そうして、地面に這いつくばった彼を俯瞰して、お願いよ、と明澄な声で言った。
「どうか百年、待ってちょうだい。ルベドは赤い魔法をかけたでしょう? どんな魔法も呪いも、百年経たなきゃ叶わない、百年経たなきゃ解けないの」
 宙を飛んだ少女の体は、重力どおりの速度で落下した。彼の瞳孔が垂直のスリット状に開く間に、それは天の手心もなく地上に打ちつけられた。勢いよく割れて潰れる音が地面を伝い、四本足で立つ彼の肉球から体躯に嫌な余韻を響かせた。白い麻布に包まれた肉体はごろりと転がることもなく、頭から大輪の赤いバラを咲かせ、大地に抱かれていた。実に奇妙な手足の曲がり具合は、人の脆さを浮きぼりにしていた。
『彼女はシーツに抱かれて舞いあがり、黄金虫やダリヤの花の漂う風を見捨て、午後四時も終わろうとする風のなかを抜けて、もっとも高く飛ぶことのできる記憶の鳥でさえ迫っていけないはるかな高みへ、永遠に姿を消した』―ああ、彼女が最後に見たものは何だったのだろう。曇った天窓越しに見える晴天の空だろうか、窓から身を乗りだした母親の悲愴な顔だろうか、ドロイドに手入れされた庭園の花々だろうか、アルベドの血痕が染みこんだ芝生だろうか、あるいは思い人の少年? それとも、小さな小さな彼の姿であったのだろうか。どれでも良い、彼女にとって大事なものであれば良い。
 もうすぐ先を思いだすと、魔法というより呪いのようなこの言葉こそが、自分に絡みつく荊であったのではないか、という理解にいたる。どうか百年、と魔女は言った。紅茶を蒸らす時間だけ、とでも言うような表情で頼まれた。紅茶であれば長くて五分程度の待ち時間だろうが、百年となるとそうはいかない。自分でページをめくり、次章へ進展させることもできない。どんな顔で、どんな声で、どんな髪の色で、どんな瞳の色であったか、百年も憶えていなければならなかった。どうした経緯で、自分はここに居続けるのか憶えておくため、記憶と事実の縦糸と横糸を編み、もう一つのユーリエフ・インスティテュートを内部に織りあげた。自分ばかりが不公平ではないか、と忘れてしまうことも思案したが、独りぼっちは嫌だと思った。
 呪いが解ける百年とは、魔法が叶う百年とは、ナーサリー・ライムズやシェイクスピアで語られるような、気が遠くなるほどの散逸したものなのか、もしくはメルキアデスが残した羊皮紙のように、最初から結末が記されている圧縮したものなのか―そもそも、どれくらい待っていたのだろうか。いやいや、きっと百年、待っていた。その年数が少女より彼に贈られた慰めであったとしても、おそらく彼は忠実に待っていたろう。そうとも、百年も待ったことを褒めてもらいたい。自分に魔法をかけた者が、負けん気の強い笑顔がよく似合い、詩を朗読するのがうまく、目の覚める赤毛で、よくある青より青い眼で、どうしようもない馬鹿者だと、ずっと憶えていなければならなかった。とんでもなく非現実的で、大法螺で、哄笑と絶望が渦巻きながらいっぺんに押しよせてくるような、それなりに幸せな夢も見たが、そうした惨めな記憶の焼きましを強要する口約束などよりも、ひと思いに彼を撃ってくれたシトリンの正義に倣う決断のほうが、よほど彼にはありがたかった。
「そろそろ、昔話はやめにしようか」
 青年は思い出という呪文の復唱を終え、左耳のピアスをからりと揺らした。銀色の螺旋の先に填められた三つの赤い宝石は、魔法の杖のように揺れるたび鮮やかな輝きを放つ。「ミルチアから先のことも、おまえは知ってるしな」と青年は含みのある言い方をして、穏やかな風に春を散らす桜の木の根元で、緑と花弁に埋もれた墓を見つめた。四つの墓の内二つは、アルベドが掘ったルベドとニグレドの墓。少し離れた場所にある一つは、498が掘ったシトリンの墓。青年の前にある最後の一つは、シトリンが掘った彼の墓である。アルベドが丁寧に枝を立てたルベドとニグレドの墓には野バラが繁殖してしまい、もはや墓というより野バラの茂みと呼んだほうがしっくりくる。また、498がアルベドに倣って掘ったシトリンの墓には、目印として石ころしか置かれていなかったので、あとから生えた紫色のブルーベルの台座となってしまっている。これら三つの墓は空っぽで、
「ガイナン、おまえはここに埋まってるんだろ」
 野草のはがれた黒い土の部分、シトリンが掘った彼の墓だけには、物言わぬ地下の住人がいる。青年は片腕に彼を抱いたまま、墓土に積もった桜の花弁を払い、土が盛られているだけの素っ気ない墓土を優しく撫でた。青い冷光が土中に注がれ、そこから草と土と陽の匂いが立ちのぼる。彼の肉体はとうに土中の微生物によって分解され、ほどよい養分として新たな植物を根づかせた。自分の体が埋まっていた土の表面を他人事のように眺め、現在の己を定義するものが土中のそれからすでに離脱していることに気づく。正確には、あの小さな体が意識の原型であり、今も自己の一部ではあるのだが、落雷で沈黙した老木のように、古い死に芽吹いた新たな命が彼の内には息づいている。〝ガイナン〟という名を仲立ちに、彼と彼は不安定な領域を共有していた。
 花はいい、と呟いた青年の睫毛を水滴が掠り、墓土にじわりと染みこんだ。彼と青年が黒く美しい幹から桜に覆われた頭上に視線をあげると、大きく割れた天窓から霧のような天気雨が降りはじめており、樹冠の隙間を抜けた微小の雨粒が桜の下にいる二人を濡らした。青年は雨を気にするふうでもなく、黒い幹に体を預け、さらさらと降る雨音と葉の擦れる音を聞いていた。木もれ日で反射する雨粒一つ一つが、太陽の破片のように落下してくる。花はいい、と青年は繰り返した。
「ドロイドの育てる花々が、俺は心底、羨ましくてな。自分のなかにも、そうしたきれいなものがあればいいと常々願っていた。それなのに、俺が当然のように持っていたものは、他の人間にしてみりゃ喉から手がでるほど欲しいものだと言う―そんなにきれいで大事なものを、どうして簡単に捨ててしまえるんだと、そうした裏切りが許せないと、人は言う」
 青年が自分の身を投げだすような生き方をしてきたことは、体中に残された傷痕や唇の端に浮かぶ自嘲の名残を見れば明らかであった。相変わらず馬鹿な人だ、と彼は思う。何もかも知っていながら、何も知らないふりをする恣意のずるさ。この人は、紙と硝煙と紅茶の匂いがしていた指先も、燃えるような赤毛も、青い上等な目玉も、自分で無駄と判断した場合には何の躊躇もなく切りおとし、むしりとり、抉りだしてしまえるような人なのである。人々には、そうした自棄の得手勝手が信じられない。あんなに美しいものをどうして。なぜ、そんなことができるのだ、我々の気持ちを知りながら! 一人で勝手に悩み、一人で勝手に泣き、一人で勝手に諦め、一人で勝手に決断してしまう、この人の傲慢さは、この人を愛する人々にとって裏切り以外の何ものでもない。
 そうとも、と青年は首肯した。
「俺はずるい。自分が愛されていることを知っていた。その上で、愛されている事実について白を切れる驕りがあった。もとより俺が自分で持つべき何を捨てたとしても許される、という甘えがあった。口では偉そうなことばかり言って、すべては俺の狭苦しい世界に好きなものを閉じこめておくため―質の悪い密計だ」
 それでも、僕たちは君を愛している。
 彼は口腔のない器官で声を帆にあげた。その言葉が音を成すはずもないが、青年の唇は「I Know.」と、微笑みを添えて確かに動いた。憎らしく悔しいが、どうしても無関心にはなれない。彼は泣きたくなったが、眼の奥には何の器官もありはしない。
「報告が遅れたが、十五年振りに完璧な精神連結を完成させたよ。ここに眠る六六五体の仲間にも、誇れるものができたかな」
 桜の花弁が舞いつづける緑の小部屋で、明るい霧雨に薄っすらと髪を濡らした青年は、くすりと笑い、軽く咽た。彼が心配すると、「植物が繁殖しすぎて俺には酸素過多なんだ」と、咳きこみながら説明してくれた。
「こんなふうに置きざりにされた場所で、おまえの眼に映るものが、せめて美しいもので良かった」
 息を整えた青年が、面映く眉尻をさげる。温もりにまどろむ彼は、青年の言葉が遠のいてゆくのを感じていた。美しいもの、という語尾は、すでに彼方から響いていた。眠気に誘われた彼の意識は、花弁となって宙に舞い、柔らかな土に触れると、そこから土中ではなく青年の内部に落ちた。奥へ奥へと緩やかに沈む。これが最後なのだ、百年の魔法が解けようとしている。彼には奇妙な確信があった。からりと揺れる左耳の赤い宝石が視界をよぎる。呪文のように書きだされた過去の思い出、ミルチアへ発つ日―百年経ったら、またおいで。そうして宇宙船を見送った。何しろ、君は大層な寂しがり屋だ、口約束があったほうが良いだろう。それから冷たい銃口―彼の肉体を古臭い鉛が貫いた。
 景色は目まぐるしく移り変わり、気づいた瞬間には、見知らぬ場所にいた。
 あの人の深い場所、内在する最も原始的な部分―肉体を突きぬけた場所には、もう血の臭いも臓物の温もりも骨の硬さもない。誰一人いない。ヒースの花すら咲いていない、遮るものが何もない、おもしろげもない荒涼とした山野がひたすら続く。花木も生えず牧草も育たぬような、潅木や雑草の生える荒涼とした丘陵地。地平線の辺りにある断崖が大地を囲いこみ、底なしの谷で世界は果てている。
 薄い雲に覆われた白い空、干し草のような背の低い草木、慰めのように吹く風と、ぼんやりと霧に浮かぶ平らな湖が一つだけ。
 時をとめた雨のように立ちこめている霧。宙に浮かんだ水滴を払いのけつつ、霧を抜けた先にある、おおよそ平凡な湖を覗いてみると、氷結した湖面の水中には雪に埋もれた街があった。すべての建造物が逆さまに建ち、ほとんど雪に覆い隠されている。凍った街の空にあたる湖底に、さざ波が打ちよせ、冷たい潮の香りがした。建造物はどれもこれも古臭い、とりわけ主人が好んだ小説の舞台とされる十九世紀末のロンドンとやらを思わせたが、その帝国に相応しい活気ある人々の姿などは一切なく、不気味なほど寂然としている。
 再びムーアを見渡すと、荒野に一人、この上ない孤独に襲われた。
 こんなにも静かで、寂しく、美しい場所が、あの人の始まりなのだろうか。
 駭然として、薄いビロードのような雲で霞んだ空をぐるりと仰ぐ。雲の流れが非常に速い。荒野を吹きぬける風は冷たく、空気は澄むというよりただ凛冽で、広大無辺にも思える大地を形づくる暖かな土の匂いが、苦しいほどの懐かしさを感じさせる。ひたり、と遠くで水の音がした。ここは寒い。
 ひっそりとした素朴な故郷から、あの人は大迷宮を生みだした。そこに流れる血の何と濃いことか、とことん限界まで行ってしまう魂の何と孤独であることか。孤独とは愛によって完成されるものなのかもしれない。
 何もないところで独りぼっちは寂しいから、あの人は天頂で皓々と輝く太陽になった。そこに咲いているだけで大事にされる花を羨ましく思い、あの人は王たるバラの花になった。自らの命を燃やしていることも、近づく者を傷つける棘があることも知らず、あの人はそうなることを望み、じっくりと自らを変質させて生きてきた―そうさせている自分にさえ、もとよりそうできていたと信じこませるほどに。
 自分でよく見てごらん、恥じることなど何もないじゃないか。ここはとても美しいよ。ああ、ほら、向こうに虹も架かっている。
 ムーアに立つ彼は、世界を見渡して言った。
 あの日のようだね。
 指し示して笑ってやると、青年は静かに泣いた。ほろほろと花弁より多くの涙を落とし、みっともなく啜りあげた。
「四七○億光年先まで観測された宇宙を航海していると、人類の未来なんてものは笑い種に思えるが」
 二つの光源から溢れる惜しみない青。細められた眼差しに七色の光が反射し、表面を虹色の膜が伝う。むせ返るほどの緑地に降りしきる暖かい雨は、青年の色褪せた髪を洗い流し、内から花開いたばかりのバラのように瑞々しい赤が現れた。
「おまえらがいりゃあ、この先だって俺はどこへでも……」
 茫漠としたムーアからも遠ざかり、薄れてゆく彼の意識は、境界を失った数多の彼と出会い、溶けあい、もといた場所へ戻るために旅をする。母の胎内に回帰して羊水を漂うかのような心地に、重たい器を捨てた彼は満足していた。
「ただいま、ガイナン」
 抱きしめられ、幸福を感じる。
「おかえり、Jr.」と、彼は微笑む。
 暗く小さなプロキシマ・ケンタウリのほど近く。星の死骸から生まれ、自らも新たな死へ向けて命を燃やしつづける恒星に焦がれ、焼かれた者は数知れない。繰り返し、繰り返し、世界はそこで果てる。遠く事象の地平面に落ち、ムーアの土くれに還ってゆく。みどりの眼は最後の瞬きまで、明滅する春と修羅を映していた。