右手に銃を、左手に花を


Timeline: Before EP1, in Kookai Foundation



――右手に拳銃を持つなら、左手には何を持つ?

 姿見に映る自分の姿を眺め、Jr.は唸った。赤毛と青い瞳、耳元で揺れるロングピアスは普段通りだが、本日の服装は少々特別なもの。白いカッターシャツにダークレッドのベストを着込み、ベストと同色のタイを締めた上から、黒いフロックコートを羽織った装い。自分の中で、それだけが見るに耐える変化である。
 控えめなノックの音に、開いてるぜ、とJr.が答えると、開いたドアから華やかに着飾ったシェリィとメリィが顔を覗かせた。
「まあ、素敵ですね」
「ちび様、めっちゃ似合うてはるで! こら宇宙一のキュートボーイやな」
 姉妹はJr.の姿を見るやいなや、歳相応の笑顔で寄ってきた。シェリィはボディラインが美しい淡いピンクのロングドレスに黒いショールを羽織り、藤色の長い髪をうなじでまとめており、メリィは瞳と同じブルーのミディドレスに白いボレロ姿で、ボリュームのあるスカートをふわふわと揺らしている。デュランダルで働いていたクルーの中でも、姉妹と親しかった女性技師の結婚式が執り行われる今夜、彼女たちも目一杯のおしゃれを楽しんでいるようだ。
「おまえさ、いちいち表現が古いんだよ。それ、大道芸でも受けねえぞ」
「もう、ちび様! 大道芸人でも珍問屋でものうて漫才師ですって、何度言うたら覚えてくれはるん?」
「何にしろ、俺はやらねえからな」
「つれへんなあ。ええやないの、容姿かて利用せな損やで――あ、ネクタイ歪んではりますよ」
 メリィは慣れない高さのヒールによろめきながら少し屈むと、Jr.の胸元にある歪な逆三角を直しはじめた。
「これでいいって。喉頸を締めるもんは好きじゃねえんだ」Jr.は身を捩ったが、それ以前にメリィもタイを締める所作に慣れていないため、「うち、よう考えたら就活もデュランダル一本やったし、こういう正装とは縁あらへんのよね」と、照れ隠しの甘えた視線でシェリィに助けを求めた。
「仕方のない子ねえ」
 日頃からガイナンの秘書として彼のタイを整えているシェリィは、手慣れた様子でJr.のタイを直し、なおかつ彼が息苦しくないように、と首回りを少々広げてやった。
「落ちつかねえ」どうにも窮屈だ、とシャツの襟へ指をかけ、Jr.は絶滅したキリンのように首を伸ばした。
「ちび様は毎日のように戦闘をなされますし、仕事上スーツをお召しになりませんものね。普段のちび様も素敵ですが、どうか今夜はご辛抱くださいな」
 唇の前に手を添えたシェリィは、そう言って品良く微笑んだ。彼女の流れるような動作がよりいっそう上品に映るのは、美しく着飾ったその姿のせいもあるのだろう。今夜は姉妹に群がる男どもを追い払うのに骨を折るな、とJr.は頭を痛めた。
「ところで、ガイナン様は?」Jr.の懸念をよそに、メリィは執務室を見回していた。
「ここだよ、メリィ」
 開いたクローゼットの扉から顔を覗かせた青年は、シャドウストライプの入ったロングタキシードを羽織りながら、優雅に微笑んで見せた。オフホワイトのシャツにダークグリーンのベスト、タイとチーフを光沢のあるモスグリーンで揃えた礼装を、ガイナンは完璧に着こなしている。留め金をとめる仕草にさえ、彼の精悍さが表れていた。恍然とガイナンに見入っていたメリィは、我に返ると真っ赤な耳朶でJr.の隣に屈みこみ、「め、めめ、めっちゃ格好ええやないの!」とうろたえた。
「何で俺に言うんだよ」
「ちゅうか、ほんまガイナン様って男前やわ。ね、ちび様」
「だから本人に言えって」
 すっかり興奮した調子で耳打ちしてくるメリィに呆れたJr.は、彼女の顔をぐいぐいと押し返した。端整な顔立ちとシンプルな礼装は女性から見れば魅力的かもしれないが、男のJr.はさして興味もない。大体にして、弟の容姿は自分が成長した姿でもあるのだから、それを女性に騒がれると、いかんともしがたい自慢と嫉妬の感情が渦巻いてしまう。
「いつもと変わり映えしなくね? もっと派手なもん着てこいよ」
 まあ、俺にとってましな形になるだけだが。Jr.は心中で呟いた。クリックひとつで入籍可能、結婚式も形式上の簡単な行事となったこの時世、挙式と披露宴を行うのは上流階級か古代風習を伝統としている宗派くらいのものである。宗教に属さない一般家庭では、身近な者を招待したホームパーティーを開き、新婚夫婦が早々に宇宙旅行のハネムーンへ旅立つことが多かった。
 しかし、観光業の成長を図るファウンデーションは例外である。結婚挙式の多種モデルコースを一から提案するなど、こうした冠婚葬祭においても産業の一つとして定着させようとしているのだ。そのため、代表理事であるガイナンは今夜のような披露宴にも幾度となく顔をだしているので、特別に気合を入れるということはない。面子によって出席せざるをえないJr.も、それは存知している。
「ガイナン様は、いらっしゃるだけで存在感がありますもの。主役を引きたたせるには、この位がちょうど良いのですわ」
 さらりとシェリィが上司をフォローすると、ガイナンは襟元をきっちりと正しながら、「だ、そうだ」と爽やかな笑顔でJr.を見下ろした。うさん臭い笑顔を半眼で一瞥し、Jr.は彼に背を向ける。「あっそ」
「ま、いいけどよ。そろそろ出発しようぜ」
「あ、ちょい待って」
 執務室を出ようとしたJr.の一声に、メリィが鏡の前で慌てはじめた。「シェリィ、これどう?」白いバッグをドレスに重ね、姉に意見を求めている。そうねえ、と頬に手をあてたシェリィも真剣に悩んでいるようで、一向に出発する気配のない姉妹の様子を見やり、Jr.は拍子抜けした。
「何だよ、支度できたから迎えにきたんじゃねえのか?」
 整えた赤毛を無造作にかきながらJr.がぼやくと、隣のガイナンは諭すようにかぶりを振った。
「レディに対して愚問だぞ、Jr.」
「せやで、ちび様! 女の子は色々と大変やねん」
「はいはい、そうかよ」
 マニキュアを見直す仕草をしながら頬を膨らませるメリィに、Jr.は適当な相槌を打ち、
「ごゆっくりどうぞ、我らが美しき姫君ら」
 降参、とばかりにひらひらと手を振った。


 その挙式はデュランダルの摩天楼を背に、コロニーの中央湖畔で盛大に執り行われた。結婚行進曲が響く中、白いウェディングドレスに身を包んだ花嫁とタキシード姿の花婿が、真っ赤なメトロポリスの真下で誓いのキスを交わしたときには、メリィを含めた若い娘たちは大きな歓声と祝福を送った。それほどに美しい光景であった。あまり感情を表にださないシェリィでさえ、どこか恍惚とした表情で主役の男女を見つめていたのだから。
 湖畔周辺には大勢の見物客が右往左往しており、湖畔沿いに並ぶ飲食店は大いに繁盛している様子であった。誓いのキスなどそっちのけで、観光客の集客状況と彼らが大量に落としているであろう外資の獲得を満足そうに眺めるガイナンを目撃したJr.は、相変わらず仕事熱心な弟に開いた口が塞がらなかった。
 夜の披露宴は会場を移動し、コロニーの二十八市街区画で催されている。懐古の情を漂わせる観光スポット、二十六・二十七市街区画に隣接するこの区画は、レトロな雰囲気を街中に残しながらも多目的ドームやコンサートホールが群立する娯楽区画で、スポーツやパーティーを楽しむ人々が絶え間なく訪れる。
 その中でもA.D.一九一一の豪華客船タイタニック号の船内をイメージしたパーティーホールは、高額なものの非常に人気が高く(Jr.は「沈没した船なんて」と否定的だが)、今回の披露宴にもこのホールに白羽の矢が立っていた。ガラス張りの円天井をもち、ビル六階分の豪華な大階段と吹きぬけの大ホール。デッキの先に広がる壮麗なダイニング・サロンで、大海原に揺られながら高級料理を楽しみませんか、というキャッチコピー通りきらびやかなホールは今、招待客の晴れ晴れしい賑わいに包まれていた。
 先方へひと通りの挨拶を終えたガイナンとJr.は、二階の静かなバルコニーで休息をとっていた。ホールではグランドピアノで『月の光』が優雅に奏でられているが、実際のファウンデーションでは月に姿を変えた人工球体エネルギーが天頂で淡く発光している。ピアノの旋律も人工の月の輝きも、言い括ってしまうならば〝月光〟だ。口から吐いたものが何であれ、実現してしまえば嘘でも法螺でもない。
 ファウンデーションの夜空を見上げるJr.は、そんなことをつらつらと考えた。吐息が白い。初冬に設定された季節の夜は着込んでいても肌寒いが、人間の利得や策謀が渦巻く生温い会場より大分ましである。
「あー、だりい」
「ご苦労。おまえの演技はオスカーものだ」
「おまえもな」
 沈黙が続いた。精錬されたピアノの音色だけを耳に残したい。会話を億劫だと思うことなど二人にしては珍しく、気を抜けばため息が出そうになる。そんな二人の耳に、ピアノではなく羽風のような音が入った。
「ご機嫌いかが、クーカイ理事。大きな息子さんもお元気そうね」
 真紅のドレスに身を包んだ貴婦人が、フェザーファンを片手に微笑んでいる。挨拶回りの面子には含まれていなかった。会釈をするJr.の双眸に薄っすら侮蔑の色が浮かぶ。
「これは、ゴーティエ婦人。今宵のあなたは一段とお美しい。あの月さえ引け目を感じて隠れてしまうほどに」
 婦人の嫌味にも顔色一つ変えず、ガイナンは彼女に甘く微笑みかけた。そりゃ設定された雲のせいだろ、とJr.は夜空の陰った月を横目で見上げ、内心毒づく。美しい? くだらない冗談を。あまりの不快さに思わず口元を押さえ、Jr.はガイナンに思念を送った。
『おまえさ、この女が戦災孤児の臓器売買で延命処置してること、知ってんだろ?』
『ああ、もちろん。永遠の美貌を手に入れるため、新品の中身以上に外見を繕っていることもな。まあ、状況証拠も揃いつつある。検挙も時間の問題さ』
 連邦警察の監視が手薄いエンセフェロンでの犯罪が増加する一方である時代、いわゆるエリートの階級でさえ、非合法の臓器売買や薬物取引に手をだす者がいる。永遠の美貌や、不老長寿という願望にとり憑かれ、まるで洋服のように自分の生体パーツを交換してしまう。スペアパーツとして売買される被害者にはミュータントも多く、ファウンデーションでは以前から被害者救済のための調査を極秘に進めていた。その容疑者が眼前にいる。他人の命で着飾った体を堂々と晒している。豊満な乳房にも、吐き気がした。
『挙句、俺が本来の歳に設定してエンセフェロン調査してた時には、しつこくセックスのお誘い。最低だね、この淫売』
『よさないか』と、ガイナンは怒気の欠片もない声でJr.を諭した。外では婦人と当たり障りのない会話を続けている。
『じゃ、気味の悪い女。かの椿姫と同姓同名だなんて冗談きついぜ。セルロイドの人形ですらねえよ』
 普段ならば女性には紳士的なJr.が、今ばかりは辛辣な皮肉を憚ろうとしない。『人形でもないなら、彼女という存在は一体何だろう?』ガイナンは興味本位で尋ねた。Jr.の澱みを流すには、好きにさせてやるのが最善の方法である。いまだ口元を隠したまま、Jr.は暗い眼でガイナンを見上げた。笑っているのだろうか。
『人に違いねえよ。これがヒトの本性だろ。女の業を体現したような人間だ。まあ、俺も他人のことは言えねえが』
 二人が念話で意思の疎通を行っていることなど知るよしもなく、婦人は俯いたJr.をフェザーファンの隙間から見下ろした。口元に手をあてる少年を、どうやら気分が優れないようだと判断したらしい。「クローニングは体が弱いと聞きますわ。お気をつけあそばせ」その一言を残し、悠々とその場を立ちさった。目に痛いほど赤いドレスを着た彼女を見送りながら、ガイナンが嫌悪に顔を歪めた。
「やはり、俺の傍を離れないほうがいい」
「連中に何言われようが今さらだろ。大人をからかうのは楽しいし」
 さして興味のない様子でJr.は笑った。愚にもつかない茶番にうんざりしていようと、ガイナンの無知なとりまき連中は、歯の浮くようなおべんちゃらを滔々と並べたてる。凝り固まった頭で純粋なヒト以外を受けいれない人間がいまだに生息しているという現状は、Jr.にとって珍しいものでもない。だが、その手の阿呆が一人や二人ではなく、しかも頼んでもいないのに他ならぬ自分の周囲でミュータントがレアリエンがどうのこうのと飽きもせず喋りつづけるという厳粛なる事実には、さすがに辟易していた。まあ、戯れ言を虚ろな風として受け流すことは簡単なもので、慣れない必要最低限の礼儀作法を面貌に貼りつけておくことのほうがJr.にとっては骨の折れる仕事であった。
「それにしても結婚とはなあ。数少ない女性技師に寿退社されると、デュランダルの作業場が今まで以上に男臭くなっちまう。彼女、腕が良かったのにさ」
「相手はレアリエンの男性だろう。先進的な一例ができたな」
 バルコニーの柵にもたれかかり、ガイナンは満足そうに頷いた。シャンデリアの光が届かないガイナンの顔を、夜の闇がしなやかに覆う。
「ガイナン」Jr.は平坦な声で彼の名を呼ぶと、ホールの隅々まで照らすシャンデリアの光を背負い、ガイナンを見上げた。
「いい加減、おまえも身を固めるべきじゃねえの」
 逆光がJr.の顔を黒く塗り潰している。内心で、今夜はそうくるか、とガイナンは苦笑した。
「相手がいないんだ」
 気軽な調子で答えると、Jr.は不機嫌を隠そうともせず顔をしかめた。
「ぬかせ。俺に遠慮してみろ、ぶん殴るからな」
「俺に結婚しろと?」
 ガイナンが試すように問うと、Jr.は「急かしてるんじゃねえ」とかぶりを振った。「おまえがその気になったら、俺のことは構うなってことだよ」
 暗がりに隠れているが、Jr.の表情には諦念が見てとれた。本人に自覚はなくとも、そこから伸びる影がガイナンの二本の足を掴んで離さない。青い眼光が、行かないでくれ、と叫んでいる。そう感じる理由は、兄以上に自分が彼を束縛していたいからなのだろう。ガイナンは自嘲した。
「おまえを置いては行かない」
「だから、そうじゃなくて――」
 ガイナンの言葉にJr.が思わず叫びかけると、669の赤い数字が間近に迫った。骨張った右手に口を塞がれる。ガイナンはかしずくように背を屈め、Jr.のタイに手をかけた。
「歪んでいる」
 どこがだ、とJr.はもどかしく苛立つ。タイを締め直しながら、ガイナンはJr.と同じ目線でこう言った。
『仮に、俺が伴侶にしたいと思う女性が現れても、結婚となると虚偽を娶るようなものだ』
 穏やかな思念での見解に、Jr.の頬がぶわりと染まる。噛みしめた奥歯から呻きが聞こえるほど、悔しさが身を焼いた。
『厄介事なら俺にくれよ』
『何だと?』ガイナンが眉をひそめる。Jr.は押し殺した思念で言った。
『裏方は俺が引きうける。財団を興すときからの決め事だろ。仮面の下にある血生臭い正体なんぞ、おまえが背負う必要はねえ。どんな嘘偽りだろうと、俺が実現してやるから』
 右胸の辺りを握りこんでいるのは無意識だろう、Jr.は一方的で不安定な思念を送ってくる。シャンデリアの光を受ける後頭部は炎のように輝いているが、闇に埋もれた顔は健常と思えないほど青白い。精神が大分参っている証拠である。
『今の俺たちに備わった力は、兵力よりも建設的なもんだろ』
 沈黙に、Jr.は小さく息をつめた。そうであってくれ、と単に自分が願っているのかもしれない。ホールから届く『ジムノペディ第一番』の演奏が、波打つ心拍を安定させようと、のろのろ奏でられる。ホールの華やかな夜宴が嘘のように、バルコニーは沈黙していた。
『だからこそさ』
 呟かれた言葉の意味をJr.が問うより早く、ガイナンは「さあ、直ったぞ」と、完璧に整えたJr.のタイを指先で軽く弾いた。「ありがとう、義父さん」一応の礼を述べたJr.は、眼前で微笑むガイナンの様子に戸惑った。ガイナンは冷静に言う。
『我々には、その力に対する責任がある。建設的な分、計画性が必要だ。おまえも自制している殺戮衝動などより用途に苦慮するものでは?』
 釈然としない面持ちで、Jr.は首肯する。『まあ、感情と区別されてりゃ、自分に言いわけできねえし―って、おまえはどうなんだよ』
『年々重さを増す荷だが、それを背負うことに苦はないよ。経緯はどうあれ、己で選択した道だからな』
 ガイナンの表情にわだかまりはない。凝り固まったJr.の猜疑心も、これでは疑う余地がなかった。
「一つ確認しておく」と口を開いたガイナンの声に、Jr.は顔をあげた。「俺がファウンデーション内において厄介事だと括る事例―そんなものはない。無論、おまえを含めて」
 疎まれていないだろうか、厭われていないだろうか、自分は弟にとって無用どころか、要らぬ枷ではないか。そうした懸念で根差したJr.の否定的心理を、覆すまではいかなくとも緩和するガイナンの言葉に、Jr.は身じろいだ。自分の場合、子供の頃はどんなことも肯定が前提であったのに、今ではそれを否定している。それは、否定から入るほうが楽だからに他ならない。望まない結果によるダメージも軽減できる。それをガイナンは肯定する。自分が捨てたものを、弟は拾い集めている。二本の腕には限界があるのに、それでもいいと言っている。
「それに、かわいい妹たちの相手も見つけていない。悪い虫がつかないか、そちらのほうが心配でな」
 ガイナンは苦笑し、ホールで料理を食べる姉妹に慈愛の眼差しを向けた。Jr.も笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「俺の隣は、当分おまえだ」
 ガイナンは明るく言い、Jr.の体を軽々と抱きあげた。仰天したJr.は、状況を把握すると開口一番、降ろせ、と怒鳴った。こうした子供扱いは羞恥よりも屈辱が勝り、自己の無意味なプライドが許さない。宙に浮いた状態で取り乱すJr.を肩の上に乗せ、彼を逞しい腕一本で支えたガイナンは、その痩せぎすな体に眉根を寄せた。
「軽いな。食事が疎かになっていやしないか?」
「知るかよ、降ろせ!」
 不安定な体勢でJr.はもがくが、ガイナンは飛んでくる拳をいとも簡単に避けつつ、大階段から吹きぬけのホールを見下ろした。
『マスコミもいるんだ、たまには仲睦まじい親子の様子を見せておかねばなるまい』
『おまえ、マジな十二歳でも親父に抱っこはねえよ。気色悪い!』
 悠揚たる物腰でホールの招待客に手を振るガイナンに抱えられ、Jr.は嘆ずるように長息した。公衆の面前で、しかも部下の目もある中、狼狽するよりは堂々と愛嬌を振りまいたほうが後々どうにか体裁を繕えるかもしれない。ちび兄ちゃん、と普段から慕ってくれる子供たちに今の状態を目撃される心配がないだけましだろう。
「かわいげのない息子だ」
 残念そうに呟いたガイナンを「そりゃあ、養父のせいだろうぜ」じとりと睨む。ガイナンは息子の視線からするりと目を逸らし、『Jr.、俺がこの式に出席した理由だが』と念話でJr.に話しかけた。
『何だよ、急に』
 ぴたりと大人しくなったJr.を確認すると、大階段の手すりに空いた手をつき、『ホールの手前を見ろ』と低い声で言った。
『右翼派で有名なティモフェイヴィチ連邦議員と、その子飼いだ。その隣はコンラート・ベルクマン、U.M.N.管理局でも上層部の人間―が、裏では有名な賭博師だ。右手は、接触小委員会の改革派バルタザール・ヴィスコフスキー=エネスコ。自称〝小説家〟らしい。メインテーブルの顔ぶれも知っているだろう?』
 テーブルで食事を楽しむ有名どころの面々を、ガイナンは目配せでJr.に説明した。挨拶に同行した際は、着慣れぬ礼装と愛想笑いに疲弊し、ろくに顔も見上げていなかったJr.だが、こうして見通しの良い場所から観察してみれば、自分も見知った顔の著名人が招待されている。彼らは披露宴の進行よりも、門地や権力のある者と親睦を深めることに余念がないらしい。
『精が出るね』
『軽蔑するか?』
 ガイナンの問いにJr.は、まさか、と不敵に笑った。
『これだけの面子に囲まれときながら、テーブルの料理に舌鼓を打ってる輩のほうが信じられねえ―って、こりゃ俺のことだが。パイプを繋ぐには絶好の機会だぜ。料理よりうまい情報のリークもありそうだしな』
『もちろん、祝福の気持ちがあってこそだがね』
『まあ、そこら辺は姉妹に任せとけよ』にこやかな笑顔を見せるガイナンに、Jr.は気楽な調子で言った。
『うまいこと餌に食いつかねえ奴がいるんだろ。おまえ、かわいげないから』
 協力するぜ、と手元の黒髪を軽く引っ張る。『ああ、助かる』と、ガイナンは素直に礼を言った。
「今日の花嫁は、連邦繋がりで名家のお嬢だからな。うちに入るときも身内から猛反対されたとか。失礼な話だよ」
「デュランダルで親密になったレアリエンの男性が婿入りし、家督を継ぐんだ。婚姻しても苦労は絶えないだろう。それにしても親族を説伏した手腕、ぜひご教授願いたい」
 レアリエンの人権法案は制定されているが、世間一般ではいまだに〝捨て駒〟という差別用語が使用されるなど、レアリエンにとっては閉鎖的な時代である。とてつもない障害を理解していながらともに歩む道を選んだ新婦の愛と、彼女を守る決意を固めた新郎の気概には心から感服する。二人のような若者が権利を勝ちとることで、この時代も良い方向へと変容していくかもしれない。
「停滞していた時代が変容を始めている証拠だな」
 螺旋状の大階段をおりながら、ガイナンが言った。
「ヘルマーが掲げる理想も、まんざら夢でもないって? 来年で十四年、俺たちの年月にも意味はあるのか」
 ライフリサイクル法案の被害者に救済を、とこのご時世に潔癖の旗を掲げるヘルマーは、未来に対して誠実すぎるのだとJr.は思う。これは彼が軍人であった頃から言えることで、あの謹直な人柄でずいぶんと難儀な職業に就いていると子供ながらに同情していた。ただ、その懇切でもって自分たちのような兵器を手厚く保護するどころか、実の息子のように愛情を注ぎ、心から信頼してくれている彼が目指すものだからこそ、Jr.は役立ちたいと考えている。生活基盤を確保するため、そして単純な恩返しのため引きうけた仕事は、やはり甘くはなく何より多忙を極めたが、クーカイというブランド名も確立し、多少安定した状況になると自分の役割に明確な意味を求めてしまう。ゾハルエミュレーターの管理がU.R.T.V.としての存在意義だとすれば、ライフリサイクル法被害者の保護や住民との交流は、人としての存在意義かもしれない。
 時々ふと思う。与えられてばかりの自分は、誰かの役に立てているのだろうか、と。
「そう信じることに意味がある」
 遠巻きに二人を見つめる令嬢たちへ微笑を向けながら、ガイナンが悠々たる面持ちで言った。中々見晴らしの良い肩上で、言えてら、とJr.も苦笑する。おそらく答えは、自己の意志にあるのだろう。
「おんやあ、ちび様!」
 甲高い声を弾ませたメリィが、ドレスの裾を揺らしてJr.の名を呼んだ。やはり靴が合わないらしく、よろめく足取りで歩いてくる。ふっくらとした両頬に手をあて、おいしい料理でも食したかのような笑顔で、メリィは二人を交互に眺めた。
「ええなあ、ガイナン様に遊んでもろうて」
「その状態ですと、ちび様もかわいらしいですわね」
 メリィのうしろからたおやかな歩みでやってきたシェリィは、肩乗りペット状態のJr.を見上げると、彼女にしては素朴な笑みを浮かべた。
「趣味も言動も親父臭い普段からは想像できへん姿やで」
「ええ、ビブリオマニアにはとても見えないわ。極めて健全ね」
「おまえらな」
 ここぞとばかりに自分を冷やかす姉妹に反論しようとJr.が口を開いた時、優れた動体視力が視界の端にあるものを捉えた。誰もいないホールの角を、不自然に濃淡する人影らしきものが壁を移動したのである。ほんの一瞬ではあったが、ああした影には見覚えがある。
「降ろせ、ガイナン」
「どうした」
 Jr.の緊縮した眼光を見据えたガイナンは、すんなりと彼を降ろしてやった。二人の異変に気づき、お喋りをやめた姉妹を一見すると、Jr.はガイナンに素早く思念を送った。
『不審者がいる。ステルスを視た』
 簡潔な報告にガイナンが、煩瑣な手続きが発生した、とばかりに片眉をつりあげた。
『サイボーグの常装備だな。警備を呼ぼう』
『披露宴をぶち壊したくねえ。裏庭だ、先に俺が出る』
 ガイナンとの念話もそこそこに、Jr.はすでに不審者を追う体勢でいた。彼の強情さを熟知しているガイナンは、口を噤むと「危殆に瀕する前に呼べ」とだけ囁いた。不満はあるが、言っても聞かない人である。
「OK.」ひらりと軽く手を振ったJr.は、路地裏をかき分けるようにして人混みに消えた。


 闇夜に濡れた裏庭は人気もなく、窓から漏れる光がかすかに届くほどの明度であった。ホールから『ローエングリン第三幕』の大音響が聞こえてくる。甲板に見立てた板の地面を鳴らさぬよう気を配り、Jr.は夜目の利かない視界で目を凝らした。手入れされた植木の茂みで、風景に紛れた透明な人体の隆起が、不自然なひずみを形成している。コートの胸内から小型銃を抜いたJr.は、そのひずみを射程に入れ、慎重に銃を構えた。
「そこまでだ」
 可能な限りの低い声で、威圧する。透明人間の動作が静止し、次の瞬間にはJr.の視界からゆらりと消える。視界にハンデのあるJr.は、銃を構えたまま周辺を見回し、警戒態勢を強めた。
 突如、首全体が圧迫された。照準を合わせようとした手が払われる。視界には何も映っていないが、何かが首を絞めつけていた。息苦しさに呻きながら空いた手を喉頸へ移動させると、自分の首を羽交いじめにしている筋骨隆々とした男のものらしき腕を感触で捉える。その腕に一発撃ちこむ前に、Jr.の体は前方の地面へ叩きつけられた。頭を守った代わりに胸を強打し、ひゅう、と喉が鳴る。耳元に慎重な息づかいが届いた。
「妙な能力を使うガイナン・クーカイのクローニングだとは聞いていたが、やはり普通の子供ではないようだな。おまえもミュータントか?」
 下腹部に響く声は、予想通り男のものだ。ファウンデーション外部のサイボーグだということに間違いはないようである。身動きを封じられているJr.は、それだけわかればじゅうぶんだ、と不敵に笑った。
「ご明察」二つの青い虹彩が、暗闇の淵で妖しく発光する。「俺はな、兵器として生まれた―」地面に縫いつけられた体が、光芒を放つ発光体のように赤みを帯びてゆく。「化け物さ!」
 Jr.の体は緋色に覆われ、その中身がいっそう鮮烈に発光した瞬間、首を絞める男の重量がふっと消えた。ステルスが短い電子音とともにはがれ、男の姿が目視できる状態になる。旧式だが典型的なサイボーグ躯体である。地面に吹きとばされた男は素早く体勢を立て直そうとしたが、それより早くJr.の構えたサイレンサー付き小型銃の弾丸が、男の生身の肩を正確に撃ちぬいた。
 男は再び崩れおち、夜露で湿った芝生に倒れた。シンプルな部品の組みこまれた体がわずかに痙攣し、やがて呼吸のための動作しか行わなくなった。シャープな躯体を除けば、まるで張りつけられたガリバーのようである。
「死にはしねえ、強力とはいえ麻酔銃だからな。うちの警備を呼ぶまで、大人しくしといてくれよ」
 すでに息を整えたJr.は、男に対して関心や興味を示さない冷淡な口調で告げた。構えた銃はおろさない。銃口の先にあるJr.の顔を見上げ、壮年のサイボーグは自嘲した。
「幼体擬装に油断した」
「何が目的だ。資金か、要人暗殺か?」
 わずかほどの警戒も解かず、Jr.は男に尋問した。
「ティモフェイヴィチ、連邦議員、の下で暗躍する小僧の暗殺、だったな」
 口唇も痺れており、男は震える声音で観念したように答えた。通常のサイボーグならば任務事項は黙秘のはずだが、とJr.は不審に思う。
「親鳥の翼下で殺し合いか。ここは托卵用の巣じゃねえ、他でやれよな」
「……殺してくれ」
 男の妙な呟きに、Jr.は眉をひそめた。一度きりなら聞き間違いだと納得できる。しかし、男は一度目よりも断然とした眼光でJr.を捉え、震える唇を開いた。
「おまえを見込んだ上で、頼む……私を、殺してくれ」
「命乞いなら聞いてやるさ」
 胸くそ悪い。Jr.は面倒そうに男を見下ろした。
「任務を終えても、終わりのない日々が、延々と、続くだけだ。わ、私は、百年前の時代、を生きた人間だが、ドナー登録によって、死後、献体として蘇生された」
「ライフリサイクル法案に乗せられたくちか」
「献体サイボーグに、人権は、ない。自傷行為と、任務放棄を禁じる、セイフティで、自ら死ぬこともできない」
 死ねないから殺してくれって? 冗談じゃねえ。Jr.は舌打ちし、かぶりを振った。
「これでも、クーカイ・ファウンデーションの代表理事だ。今の生活が苦痛なら、あんたの身柄を買いとってやるよ」
 以前から提案してきた、一つの打開策である。外部の者が事件を起こしても、ライフリサイクル法の被害者であれば、それが大義名分となる。目には目を、歯には歯を、だったら金には金を、だろ。決して方正ではなく清白からも程遠い理論だが、これが最も穏便に事を運ぶ方法でもあった。本来は所有者とともに処するべきサイボーグでも、こちらで戸籍を登録してしまえば所有者も変更されるので問題ない。無表情な男の眼は、それを聞いても夜の闇に沈んでいる。
「扱いに不満が、あるわけではない。生前の記憶もない、この時代で生き続けること自体が、私には苦痛なのだ」
「あいにくだが、今は麻酔銃しか所持してねえんだ」
 実弾入りのデリンジャーも背中に携帯していたが、あえてJr.はそう答えた。ホールから漏出するピアノの音色が、ひどく耳障りになる。
「膝裏のジョイントに、私の銃がある。脳を撃ちぬき、内蔵されている、発信機を取り除いて、処分してくれ」
 Jr.は再度かぶりを振った。
「この任務の直前に、生体脳を人口部品に、換装された。人間を数字に置き換える機械には、なりたくない……頼む」
 男の声音と呼吸は切迫していた。悲痛にさえ聞こえた。Jr.は唇を噛み、三度目のかぶりを振ろうとしたが、やめた。
 生きることが苦痛だと言うならば、自分はそれに同意する。体の成長をとめ、愛する者たちに死が訪れたあとも、自分は一人で生きつづけるだろう。それは確かに苦痛となりえるであろうし、現時点での恐怖となり、己の精神を蝕んでゆく。男の場合、記憶のない虚無の精神に苦痛のみを与えられている状態である。ならば男の望み通り、死という安息を与えてやることが最善なのではないだろうか。最悪が生だというならば。
 Jr.は自分でも滑稽に思うほど緩慢な足取りで、男の傍らに回った。膝裏のジョイント部分には、古びたベレッタM92Fが差さっている。古式銃ということは、おそらく男が生前から使用していたものだろう。記憶がない、という男の言葉が真実かどうかは知らない。だが、ベレッタは驚くほど丁寧にメンテナンスされており、大事な品だということは一目でわかる。Jr.はベレッタを手にとると、その重みをじゅうぶんに感じた。心臓よりもずっと重い。
 ゆるゆると右腕をあげ、男の眉間に照準を定める。冷たい銃口の先に、自分を見上げる男の両眼がある。心は閉じた。今さら躊躇などしない。
「一発で楽にしてやる」
 乾いたJr.の声は陰にこもっていた。感謝する、と男が初めて微笑んだものだから、不覚にも困惑した。
「いいや、恨んでくれよ。俺を赦さず、死んでくれ」
「君が望むなら善処しよう」
 怨恨や憎悪を向けられても、感謝される覚えはない。されたくもない。勘違いすんなよ、サイボーグ。あんたのために殺すんじゃねえ。血で血を洗い流すためなんだ。
 シャンデリアが煌々と輝く華々しいホールでは、子守唄のような『トロイメライ』が奏でられていた。Jr.が見上げた夜空には、宇宙の星々がコロニーの進路に合わせ、規則的に散らばっている。陰っていた月明かりが自分を避けるように地面を照らすので、やけに侘しくなった。もう一度、グリップを把持する。トリガーにかけた指を、ぐっと折りまげる。ひっそりとした闇夜の裏庭で、冷たい黒光りが微動した。ベレッタの銃声はひどく優しかった。


「ちび様、どうなされたんですか」
 よれたシャツを正しながら披露宴ホールへ戻ると、Jr.に目をとめたシェリィが珍しく取り乱した様子で駆けよってきた。メリィも驚きに目を丸くし、姉妹はJr.を目立たないようホールの角へと押しやった。自分の体でJr.を隠しながら、メリィは小さな上司をしげしげと眺める。
「こりゃまた、また派手にやらかして」
 Jr.の黒いフットコートは白い砂で汚れ、赤毛や顔面にも泥が付着していた。裏庭で大半を払ったつもりでいたものの、何しろ月明かりの下で確認した程度だったので、ホールの照明に晒されてみると、やはり細かな汚れが目立った。
「何でもねえよ、ちょっと遊びすぎたっていうか」
 屈んだシェリィに頬の泥を拭われながら、Jr.は素っ気なく応えた。「またかいな」Jr.の返答に、メリィが頬を膨らませる。
「ちび様のお遊びは、危なっかしいて敵わん」
「無理にはお聞きしませんが、お一人で無茶はなさらないで」
 シェリィはJr.の服装を丁寧に整えてやりながら、彼の眼をまっすぐに見つめた。自分を心配する健気な彼女の表情に、さすがのJr.も言葉をつまらせる。人一倍かわいがってきた姉妹には、どうにも弱い。
「おまえの耳は煉瓦の壁だな、Jr.」
「俺がおまえの忠告を忘れるはずないだろ、ガイナン」
 Jr.の姿を一瞥したガイナンは、忘れたんだな、と大仰に肩を竦めた。
『それで、何があった』
『相手の出方を見る最中に泥被っただけ。異常はない。後片づけはキングたちに任せたし。オフチニコフんとこの馬鹿息子の暗殺、だとさ』
『ふん、議員の子飼いがどうなろうと関係ないが、うちで余計な問題を起こされては困る。が、サイボーグだろうと敵に易々と情をかけるな』
『かけてねえよ。交渉にも応じないからケースDで処理した』
 ケースD、という言葉を聞いたガイナンは、眼球を横に滑らせる程度のわずかな驚きを見せた。しかし、Jr.の格好に対する周囲のざわめきを感じとり、「祝いの席になんて格好だ。遊びがすぎるぞ、Jr.」と厳しい口調で本人を譴責した。
「悪い。花嫁たちに挨拶して、俺は先に帰るよ」
 姉妹を頼んだぜ、とガイナンに目配せをしたJr.は、悠々と人混みをすり抜け、メインテーブルに向かって歩きだした。メリィが慌ててあとを追う。
「ちび様が帰らはるんでしたら、うちも」
「おまえはこの日を楽しみにしてたじゃねえか。最後までいろ」
 せやけど、と納得のいかないメリィの肩を抱いたシェリィは、「ちび様を困らせないの」と妹を優しく嗜めた。聞きわけの良い姉妹に優しく頷いたガイナンが、Jr.の肩に手を置く。
「俺も行こう」
 ピアノ曲は『G線上のアリア』から『アヴェ・マリア』へ移行していた。ホールに二人で並ぶと、どこをどのように歩いていようとも一斉に注目される。ガイナンの場合は端麗な容姿が目を引くのだろうが、その隣を汚れたフロックコートで堂々と歩くJr.に向けられる目は、明らかに奇異のそれであった。密やかな会話は悪意を伴いながら空気を伝い、流麗なピアノの音色さえ歪ませるが、そうした歪みに慣れた二人はしれっとした態度でレッドカーペットの中央を堂々と歩く。
 途中、ガイナンは執事に青い花束を二つ取りよせてもらうと、花束の片方をJr.に手渡した。
「遺伝子組み換え時代からの生き残り、〝枯れないバラ〟の青いプリザーブドローズだ。高級エーテルを用いて色素加工は一切なし。高温多湿にも強いぞ」
 時をとめられた青いバラは、吸いこまれそうなほど鮮烈な色を残したまま一輪一輪が花弁を精一杯に広げている。自然色にはない青さ、どこか儚い雰囲気をも醸しだす美しい青を眺めながら、Jr.は首を捻った。
「原種保護法をクリアしたのは大したもんだが……青いバラの花言葉は〝不可能〟だろ?」
「古代、現実には成しえなかった奇跡から、〝神の祝福〟という意味もある。そちらなら問題あるまい」
 青いバラの花弁に睫毛を寄せ、したり顔で秀眉を持ちあげた。相変わらず気障な弟(その弟からしてみれば兄も大差ないのだが)に呆れたJr.は、青いバラが放つ香気に気づいた。
「香りがする。何か入れたのか?」
 アロマでも配合しない限り、プリザーブドに香りはないはず。この甘い芳香は一体どこから香っているのか。何も、とガイナンは言った。
「それはこの青いバラ本来の香りだ。古い技術を応用したんだが、その割には使えるだろう? このバラ自体、近年になって発掘された数百年前の貴重な植物でもある」
 つまるところ、これは新郎と新婦への贈り物であると同時に、ファウンデーションの技術と研究の宣伝も兼ねているらしい。どこか楽しそうに説明するガイナンを見上げ、Jr.は口笛を吹いた。改めて、技術の結晶である真っ青なバラに鼻先を寄せる。
「〝結婚式も葬式も同じようなもの。違うことは、もらった花の香りを自分で嗅げることくらい〟」
 言いながらJr.は、額に穴の開いた男の微笑みを瞼の裏で思い浮かべた。エーテル漬けにされて、悪戯に寿命を延ばされた紛いもの。あんたより年寄りの花だってあるんだぜ、サイボーグ。
「婚礼の席で不吉な引用をするな」ガイナンが呆れると、Jr.はにこやかな笑顔で彼を見上げた。
「至福じゃねえか。愛する者の隣で、花の香りを嗅げるなんて」
 真面目な弟は苦笑する。
「そういう意味の言葉ではないと思うぞ」
「解釈くらい自由でいいだろ。要は、どうか幸せであれってこと」
 Jr.は再びバラの香りを嗅いだ。この香りを知っている。もう戻ることのできない過去の世界にあった香りだ。少女の庭に咲き乱れていた鮮やかな青を、今でも鮮明に憶えている。どちらの花言葉も相応しい、奇跡の存在。彼女がいない今も自分は無様に生きている。そして、彼女を失った今も自分には愛しい者がいる。例えば、今隣にいる男のように。これが幸せというものだろうか。
 考えてみれば、愛する者に囲まれた自分がいる。それは多くのものを犠牲にして得たものであり、だからこそ死守せねばならない。大事なものを失うことは死よりも恐怖であることを知っている。幸せという主観でしか得られない儚い時間の中に埋もれていたい、できる限り長く。
「おまえの解釈で言えば、俺は幸せ者だな」
 Jr.は隣の男を見上げた。花束にノーブルな鼻先を寄せたガイナンが、飾り気のない表情で微笑んでいる。不相応だと憚られた自分の思いをなんのてらいもなく言いのける弟に、Jr.は瞠目した。その言葉がじわりと胸に嬉しくとも、過去の戒めが一気にその熱を奪ってゆくのだが、一瞬の温もりに口元を緩めたJr.は、ピアノにかきけされるほどの小声で、俺もだよ、と呟いた。
「ところでJr.、その銃は?」
 俯いたJr.の胸元から、見慣れない銃が覗いていることにガイナンが気づく。胸元のベレッタに触れると、Jr.は困ったように笑った。
「誰かさんの百年前の思い出かな」
 次に出会うサイボーグには、この時代を虚無と苦痛で去ってほしくない。彼らの過去には勝てずとも、彼らのような者たちのため自分の地位が多少なりとも役立つのであれば、存分に利用すべきだろう。現在の自分の役割に意味があるのかどうかは、後世の彼らの判断に任せればいい。簡単なことじゃないか。
『なあ、ガイナン。右手に拳銃を持つなら、左手には何を持つ?』
 念話でぽつりとJr.が訊ねた。ガイナンは一瞬の間を置き、Jr.の歩みに歩幅を合わせながら、そうだな、と真面目に応えてくれる。
『昔なら照準が狂わぬよう銃へ添えるだろうが、今なら姉妹を庇うか、おまえの無茶な暴走をとめるか、だな』ガイナンは悪気のない笑みとともに穏やかな思念を返した。『そういうおまえは?』
『俺は左手にも銃だと思っていた、けど』
 己を傷つける敵から、その銃でもって身を守る。自分のことで精一杯の子供でしかない。背後を振り返る余裕もなく、息切れにも気づかず、無謀とも言えるほど必死で走ってきた。約十四年の時を経て、夜目より暗い視界がようやく拓けはじめたように思われる。自分とともに道を歩む弟や姉妹は、いつの間にかずいぶんと成長していた。愛しいと思うものが増えた。
「今は何も持たない。守るために空けておく」
 Jr.は言葉をペンで書き記すように、ひと言ひと言咀嚼した。左手にも銃を持ち、自分の身を守る男の何と無様なことだろう。二丁の銃で、大事な人々まで傷つけてしまうかもしれないというのに。余裕をもつべきだ。信頼を置くべきだ。両手が塞がっていては何もできない。
 今も心底で響きつづける悲痛な叫びが、Jr.の胸をあらん限りの力で締めつける。もう二度と失いたくない。過ちを繰り返したくはない。変わらぬ自分の右手を、爪が食いこむほど握りしめた。
「花は脆い。あまり握りしめると散ってしまうぞ」
「ああ、そうだな」
 右手にこめた力が、花束を持つ左手にも伝達していたらしい。ガイナンに諭されたJr.がそろりと力を緩めると、青いバラは数百年前の姿をそのままに、甘い香をまるで蝶が舞うように漂わせた。愛しい、とは思う。青いバラも、それを調達した弟も、弟と自分を受けいれてくれた日常も、何もかも。そう思うたび、バラの花を摘むように幸福はむしりられる。花の香りを享受できない原因は、赦されない自分の罪にあるのか、それを赦さない自分の悔恨にあるのか。どちらにしろ、花は枯れることも知らず、咲くわけでもなく、麦の穂のように蕾のまま養分を吸う。
 自分の片割れは、今どこで何をしているのだろうか。元気だろうか、傍に誰かいるだろうか。考えはじめるときりがない。自ら捜しにでる勇気すらない自分でも、心の片隅で都合の良い期待ばかり抱いてしまう。
『右手を出せ』
 Jr.の思考を遮り、ガイナンが有無を言わせぬ調子で言った。何だよ、と不審に思いながらもJr.が右手を挙げると、ガイナンの左手がそれを力強く包んだ。仲睦まじい親子にも見える状態で、ガイナンはJr.を見下ろし、彼にしては珍しく年相応の青年らしい笑みを見せた。
『たまには銃もおろして、俺たちのほうも見てくれよ。寂しいだろう』
「へ?」
 普段はてんで甘えてこない弟の言葉に、Jr.はバラと同色の瞳をまたたかせた。数秒ほど呆けてから、青い花束で荒っぽく自分の顔を覆ってしまう。Jr.の行動を不思議がるガイナンであったが、何のことはない。弟の言葉に、情けなく緩んだ赤い顔―兄はそれを見られまいと、悪あがきしただけなのだから。