スミレの砂糖漬け 2


Timeline: Outside of Encephalon



「最低」
 縁起でもない、とメリィは苦々しく言った。
「何が」
 今朝方まで年末調整やら自分の不始末やらのデスクワークに追われていたJr.が、だらしなく頬杖をついたまま寝不足を押し殺した横目で気のない返事をする。お世辞にも清潔で洒落たとは言いがたい、西部劇にでも登場しそうなきな臭い中華料理店の円卓を囲む四人。向かい席のガイナンとシェリィも、食後の八宝茶を注ぐ手をとめるとメリィに注目した。
 近頃つくづく夢見が悪く、今日は特に嫌な夢を見たJr.は、これ、とメリィが突きだした薄っぺらいものすら霞んで見えたので、改めて目を細めつつ凝視した。彼女の指先に挟まれたオブラートには、青い文字が刻まれている。
『世界は終末へ向かっています。ログオフしてください』
 中央の皿からクッキーをひとつとりあげ、トッピングの生クリームをつけながら、Jr.は紙面の文字を追った。どこかで見たようなフレーズだ、と寝惚け眼で頭を捻る。しかし、回想で寄せ集めた情報は時が経ち、アルファベット同士をつなげるインクのにじみのように曖昧なものとして浮遊しており、その中に決定的な文字は見当たらない。「つまんねえジョーク」とだけ言っておいた。
 糖蜜を練りこんだクッキーの生地は香ばしい歯応えで、生姜の入っていないジンジャースナップに似ているが、口直しなのでそれほど味気もない。気持ち悪い甘さだけがあとに残ったので、Jr.は添えた生クリームについて多少後悔した。
「ちび様、口元にクリームが」
 胃のもたれから密かに気分を悪くしていると、シェリィの白魚のような指先が、遠慮がちにJr.の口元を掠めていった。
「ああ、悪い」
 普段なら子供っぽい失態に照れ隠しをする場面だが、それも億劫なほど自分が疲労していることにJr.は愕然とした。どうにも今日は〝Jr.〟という人物をコントロールする力が惰弱しているようだ。何事にも薄情で関心がなく、醒めた眼でしか判断できない冷然とした素の自分が眠気で露になりかけている。Jr.の調子に憮然とした様子のガイナンは無視するとして、恋愛に関する格言を期待していたメリィ(なんでも、新年のおみくじとやらは今年一年にとって重要な意味を持つらしいのだが、Jr.は毛ほども信じていない)を、Jr.はやたらと陽気に慰めた。
「おまえの好きなブランド品でも何でも買ってやるから、くだらねえこと気にすんな。忘れちまえよ」項垂れたメリィの金髪を梳くように撫で、ことさら優しく問う。「言ってみろ、何が欲しい?」
「ちび様、あまり甘やかさないでくださいな」
 ピネイダー、という単語をメリィの口が発音するより早く、茶杯から口を離したシェリィが、かぐわしいため息を漏らした。薄いガラスの茶器には、店主が調合した花や果実が浮かんでいる。中国の伝統的な養身健康茶であるらしい。千日紅の赤い花、白菊の白い花、クコの実、なつめ、干し葡萄、龍眼(ロンイェン)、さんざし、茶葉、溶けた氷砂糖―その水面の回転と具材の色が、パウル・クレーの線と色彩を思わせた。恥じらうメリィの姿などは『忘れっぽい天使』と重なり、すべての背景が絵画のように遠のいて、自分だけが鑑賞者として額縁の外に追いやられる疎外感をJr.は感じた。時々このように今という時空から弾きだされる。厨房から中華鍋に香油を引く音が飛びちり、焼けた小麦の匂いが鼻腔を刺激したところで、ようやく意識は引き戻された。
「構わねえさ、シェリィ」Jr.は言い、残りのクッキーをひと口で平らげた。「ヘルマーと会うまで時間はある。クリスマスも結局は仕事でろくなことしてやれなかったし、今日くらい俺たちの時間と財布が許す限り、おまえらにつきあわせてくれよ。満足させる自信はあるぜ?」
 なあ、ガイナン。向かいの席で八宝茶の香りを嗅ぐガイナンを見上げ、Jr.は悪戯っぽい笑みで目配せをした。
『ピネイダーのカントリーコレクション』
 口角をあげた唇が音声を伴わずに動く。前時代のシグネチャは、在庫として現存する革を使用するしかないため非常に高価であり、姉妹が十代の頃から、ブティックの飾り窓で滑らかなカーフスキンのバッグを飽きもせずに眺めていたことを、Jr.もガイナンも記憶している。思惑を示すJr.の赤い舌を覗いたガイナンは、同意するように茶杯を回した。
『もちろん、ブティックにとり置いてある。今夜のオペラ座の席もな』
『本日の演目は?』
『トリスタンとイゾルデ』
 Jr.に念話を送りながら、ガイナンは姉妹へ優雅に微笑んだ。
「日頃の感謝をこめて、ぜひとも素敵な品をプレゼントさせてほしい。オペラ界隈まで、ご一緒してもらえないかな」
「もちろん、喜んで!」ガイナンの誘いに興奮したメリィは、歓喜の震えから呂律も怪しく、Jr.の耳元で「どないしよ、ちび様、大人になってガイナン様とオペラ座の前を歩けるやなんて!」素敵やわ、最高やわ、と騒ぎたてる。その笑顔があまりに無邪気なものだから、Jr.は思わず目を細めた。
「昔からのブランドは中々手が出されへんけど、ガラス越しに眺めとるだけで幸せやし、お菓子の工房で出来立てのチョコを試食するのは最高よね、シェリィ」
「花屋のアパルトマンやピアノの町工場を横切るときの芳香や音色も好きだわ。お二人に淹れる紅茶の葉も、ギャラリー内にある行きつけの店で購入しておりますのよ」
 空になったガイナンの茶杯に茶を注ごうとしていたシェリィも、うっとりと微笑みながら茶器を傾けた。
彼女たちの話すパサージュの天井はとても高く、いたるところに美しい鉄の装飾が施してある。昼でも頭上の街灯が灯っており、ガラス屋根を通して見える青空との対比が目に鮮やかで、木製のファサードとアールヌーヴォー調の装飾の組みあわせが美しい。視察で立ちよった際のオペラ界隈を思いうかべたJr.も「俺はパノラマ小屋とルリユールに寄りてえな」と上擦った声で発言してみたが、そこがJr.のような者しか楽しめない場所であることを存知している他の三人は、常のごとくまったく耳を貸さない。
「ガイナン様、素敵な品って何ですのん?」
「それは秘密だよ、メリィ」
「あら、楽しみですわね」
「君たちの笑顔のためなら、ブティックごと買いとっても惜しくはない、とだけ言っておこうか。それにしても、飾り窓の品々を眺めていた少女が、それを身につけるに相応しいレディに成長したのだから、我々も鼻が高い」
「まあ、ガイナン様ったら。相変わらずお上手ですこと」
「事実だからね。君たちを前では、どんな男もその心を射止めるため見栄を張るだろう。まあ、男がありとあらゆる理屈を並べたてようと、女性の涙ひと粒にすら敵わないものだが」
 談笑する三人の端でJr.はガイナンを一瞥し、内心では、女たらしめ、と罵った。大体、女は非常に完成された悪魔だとも言うだろ、と肩を竦める。
「解せねえ」ぼそりと呟き、不服を紛らわそうとクッキーの中につめられていたオブラートをそろりと開いた。紙上にあるはずの内容を見つめ、青の双眸が白む。密かに口角を吊りあげ、薄笑いを浮かべた。
「あ、ちび様の中身はどうでした?」
 無言で紙片を見つめるJr.に気づいたメリィが、好奇心から小さな肩に寄りかかる。ふ、と顔をあげたJr.は珍しく無表情で、彼女は少々面食らった。笑っているように見えたのだが、見間違いだろうか。小首を傾げたメリィを視線に捉えたJr.は、すぐに何事もなかったかのように普段の笑顔に戻り、あっけらかんと答えた。
「なんにも」
「え?」
「だから、何もなし。ほらよ、これ」
 Jr.は目を丸くしたメリィの鼻先に、指で挟んだ紙片を頓着なく差しだした。戸惑いながらも二本の指から紙片を抜きとり、そっと開いてみる。向かい席のシェリィとガイナンも、彼女の手元に注目した。メリィの青い瞳がまたたく。
「白紙やんか」
 そこにはアルファベット一文字、数字すら印字されていなかった。紙片を天井の電球にかざしてみても、薄く透けるだけで何も映しだされない。やはり白紙である。紙片の内容を注視した三人は、これを引いたJr.に視線を集中し、何らかのレスポンスを求めた。当の本人は飄々としており、ガラスの茶杯に唇をつけて最後のひと口を飲みほしていた。いつまでも成長途中の喉仏が、上下に揺れ動き、喉が鳴る。次に三人は問題を議論しはじめた。
「店舗側の不備でしょうか?」
「いや、菓子の製造元は別になる」
「予言めいた不吉な一文といい、いっぺん文句つけたろかいな。こういうもんは、心躍る内容にすべきや」
 立腹する彼らの威勢ときたら、本気で製菓会社にクレームを申したてかねないほどである。椅子の背にもたれかかり、円卓の外から他人事のようにそれを眺めるJr.は、くつくつと笑い声を口内で噛み殺した。背中を丸めた体が椅子ごと揺れ、勢いから軽く咳きこむ。「おまえら、マジになりすぎ。こんなもの単なる口直しだろ。中身が何だよ、くだらねえ」
 引き笑いのまま息を整えるJr.を、三人は不満げな面持ちで見返した。
「せやけど、ちび様」
「そうですが、ちび様」
「Jr.、卓上に足を置くな、行儀が悪いぞ。そもそも普段の癖がこうした場にも―」
「じいさん、勘定!」
 三人同時に放たれた言葉の内、Jr.は小言へ連接されるであろうガイナンの低音に素早く自分の声を被覆した。「はいよ、坊ちゃん」厨房からの陽気な返事と早々にカウンターへ向かったJr.に続き、三人も多少腑に落ちないまま席を立つ。姉妹に外で待つよう伝えたJr.は、店主に代金分の紙幣を手渡しながら、隣のガイナンに「行儀にゃ気をつける」と謝罪した。
「真っ当な心がけだ」
 首肯するガイナンに、にしても、とJr.は間延びした声で続ける。
「おまえも、ちったあ脳みそ休ませてやれよ。その顔で禿げられても笑えねえだろ」
「まあ、それもそうだな」
 Jr.の忠告に妙に納得した面持ちで、ガイナンは自分の豊かな黒髪をひと撫でした。
 料理を満喫した四人は、路地裏から表通りにでると、地区の境界となる門代わりのパサージュに向かった。コロニー中央に屹立した真っ赤なデュランダルが、摩天楼の体躯をディスプレイとして広告塔の役割を果たしている。クリスマス・イヴから新年にかけての連夜ライトアップは、湖畔や繁華街のイルミネーションと相まって観光客を喜ばせていたものだが、派手にライトアップされたデュランダル内部では、Jr.たちが年末の仕事に追われていた。ゆったりと消化する時間における心身の平穏が、改めて休息のありがたさを教えてくれる。雪が降ると予報された天蓋は一面蒼く、人工太陽の照射が冬の冷気を影に追いやるほど暖かい。ロングコートを重く感じるJr.であったが、新年の賑わいと活気を見せる往来の中、楽しげな姉妹の姿を眺めていると荒んだ心も多少は和らいだ。何事も皮肉る癖は良くない。不毛に働く脳みそを休ませる必要があるのは自分のほうかもしれない。祝日くらい心穏やかに、と深呼吸をする。
 道行く人々の会話や店先から聞こえる音楽に耳を傾け、人混みの奥に赤い風船を見つけたとき、Jr.はふと隣にいるガイナンを見上げた。
「なあ、おまえのクッキーは?」
 中身はどうだ、何が書いてあったのか。純粋な疑問から問えば、頭上から落とされた視線とぶつかった。新緑の双眸には角度的なものなのか陰りがある。しばしの沈黙を置き、ガイナンは珍しく億劫そうに口を開いた。
「ともに生きよう」
「へ?」間の抜けたJr.の促しに、ガイナンはスーツの胸元から紙片の入った小さな筒(持ち帰り用に店が配布しているものだ)をとりだした。訝るJr.に無言でそれが手渡される。
『ともに生きよう! 愛しあおう! 僕らの心の奥にある一番の秘密を共有しよう!』
「へえ、美しい理想じゃねえの」
 紙面の文字を読み、皮肉めいた口調でJr.は言った。かぶりを振ったガイナンは、紙片の端を掴むJr.の親指を横へずらすと、最後まで読んでみろ、と視線で促した。自分の親指の下に隠れていた部分をよくよく注視してみれば、そこには極小サイズのフォントで青いアルファベットが印字されていた。
『―じゃあ、まず君から』
 弱々しい字だ。脱力する。現実はこんなもんだろ、とJr.は笑った。「〝心の奥にある一番の秘密〟を、それ相応の見返りと保障もなしにしゃべる馬鹿はいねえ。真実は否定の恐怖で、恐怖は拒絶の連鎖だ。人生の共有や感情の共感なんつう、くだらねえ幻想に砂糖ひとさじほどの価値でも見出そうとする連中は、それよりも第一に無理解というものを理解すべきだね」
 冷然とは逆に人懐っこい笑顔で言うJr.から紙片を返され、ガイナンは、「ああ、本当に」と短く肯定した。吐息の白さが陽光の温もりと相反するぎこちなさを感じながら、二人は言いあわせたように寒空を仰いだ。それだけで周人々の賑わいも入り交じった街の匂いも自分から乖離し、まるでいつかの遠い時代を歩いているかのように思えてくる。
「ちび様、ほらほら、風船もろたで」
「この菓子店にはカリソンも。いかがですか?」
 露店を覘いていた姉妹から、弾ける呼び声が届く。メリィの手には赤い風船が、シェリィの手には原色カリソンのつまったパッケージが握られている。「あーはいはい」Jr.は肩を竦め、かわいい姉妹へ笑いかけた。十二歳の子供よろしく風船と菓子を抱えた自分を想像し、内心その馬鹿らしさに自嘲する。街道の雑踏が、またもや遠のいた気がする。幸福を顔に浮かべ行きかう人々の声が、羽虫のような雑音に聞こえて鬱陶しい。
「あまり考えこむなよ。行儀よりも悪い癖だ」
 頭上から降る声。ほとんど上目を使って見ると、実際の差以上に距離を置くようなガイナンの横顔があった。グリーンの光源に労わりを塗り、静やかに微笑んでいる。わかってるよ、と掠れた声で返すも、Jr.は彼の顔を直視できずに俯いた。
「甘いな」
 オブラートを丸めて自分の口に放りこんだガイナンが、薄い唇を舐めながら呟いた。
「当たり前だ。その文面なら」
 スミレの砂糖漬けより甘いだろうさ。陰気な眼でJr.が言う。甘くて甘くて、気持ち悪い。今の自分の周りにあるものは、幸福で胸焼けするようなものしかない。
「おまえはどうなんだ、Jr.」名を呼ばれたので仕方なく顔をあげると、疑り深いガイナンの双眸に見つめられる。「本当のところ、何が書いてあった?」
 こうしたことに対する自分の信用のなさは嬉しい。甘ったるい砂糖漬けでは息がつまるのだ。後味も悪いし、虫歯にもなる。じんじんと疼く痛みは、誘惑に負けた自分の弱さと怠惰を責められているようで落ちつかない。
 嫌いなんだよ、甘いものなんて。
「言ったろ、白紙さ」
 Jr.は肩を竦めると、ガイナンを置きざりに一人歩きだした。弟の風除けがないと、やはり寒い。一気にかじかむ手をコートに突っこんだところ、自分のオブラートの筒が赤らんだ指先に触れた。予報外れの澄みきった晴天に白紙の未来をかざし、Jr.は青空と同じ色の瞳を細める。連立するビルの壁に切りとられた四角い空から、ファウンデーションの人口太陽が連続する虹色の輪を反射させていた。間違えようもなく、白紙だ。何も映らない。
「でもまあ、当たってら」
 かざした紙片を鼻先まで近づけると、現実の景色は辿れなくなる。視界一面を埋める白に魅入ることで、これから起こることや起こらないことについて、ぼんやりとしたイメージが浮かび、思いだすような未来がすでに存在することを悟る。まるで過去のようだな。そう思うと、存在しないはずの声がJr.の口元を愉しげに掠めてゆく。
『You can't catch me, na na na na na!
 くそ忌々しい未練だ。くだらねえ。こんなもの食っちまえ。

 3

 帰るはずのない過去であり、行くはずのない未来である。だから夢を見る。それでも、すり減る数字が淡々と終末を刻むと、あの日の情景まで辿りつけるかもしれない。余りある今をどうにか元通りに修正したいと願う、愚かな自分がそこにいる。

 2

 こんな自分の行く先に待つものは、悔恨の赤でもなく、断罪の黒でもなく、この紙片の色だろう。目が霞む。雪のひとひらが紙片に舞いおち、にじむように溶けた。予報通りの粉雪に、薄い笑みを浮かべる。きれいなものは嫌いだ―白は特に。その裏にあるものを、自分は知っている。

 1

 砂糖菓子のように甘ったるく、吐き気がするほど真っ白な世界だ、と。