影よ、影よ、影の国 1


Timeline: EP1 before meeting with his party, in Kookai Foundation 



 入室を禁じられていた親父の書斎。好奇心に負けて忍びこんだ俺の目に映ったものは、初めて見る紙の本だった。チェアでくつろぐ親父の片手の中、しなやかに曲がったそれの表面には、俺の知らない単語が並んでいた。
 親父に怒られることも忘れ、俺はそれに見入ったよ。この真っ白なユーリエフ・インスティテュートで、こんなにも色と匂いに溢れるものがあっただろうか。ふらふらと古ぼけた紙の匂いに誘われた俺を、親父は叱咤することなく、手中のそれを俺に渡してくれた。
 綻びのある布製の装丁は黒ずんだワインレッド『La Chanson De Roland』というフランス語のタイトルの下にネットライブラリで閲覧した馬という動物にまたがる時代遅れのサイボーグのような男が描かれている男が甲冑をまとった騎士だということはのちにデータベースで得た知識でねそれから男は尖った金属製の棒を掲げていたこれが剣という古代の武器かと俺はひどく感嘆した
 期待に胸を膨らませ、何もない廊下を馬鹿みたいな勢いで走った。途中、研究員の警告が聞こえていたような気もする。自分の個室に戻ると、早速ヘッドギアを取りつけ、ライブラリで辞書を引きだした。表紙と同じフランス語を探し、親父の見よう見まねで少しずつ読みすすめた。
 不思議な感覚だったよ。部屋にいながらにして、まったく別次元を旅しているような―同じ内容でも光データと質量のある本とでは、天と地ほどの差があった。脳天を割られるような衝撃さ。何て素晴らしいんだ、ってね。
 フランス最古の叙事詩。作者未詳。A.D.一一〇〇頃成立。A.D.七七八のロンスヴォーの戦いをめぐる歴史的事実がベースで、レコンキスタの初期の戦いともいえる、シャルルマーニュ率いるフランク王国とスペインのイスラム帝国の戦いを描いた物語。カール大帝のスペイン遠征の帰途、味方の裏切りのためにピレネーの山中で壮烈な戦死を遂げる後衛軍の指揮官ロランの武勲を称える。
 ライブラリのデータベースと照らし合わせながら読了し、理解できたことはその程度だった。特におもしろい物語だとは思えなかったが、名剣デュランダルや勇敢な馬ガイナン、舌滑りの良い名前は記憶の中流に留まっている。それよりも、手探りでページをめくって読みすすめていく作業自体が、時間を忘れるほどにおもしろい。途中から俺の部屋に入ってきたアルベドは、散々喚いて本を奪おうとした挙句、泣き疲れてベッドで眠ってしまっていた。
 壮大な歴史を形にした聖遺物は、黄ばんだ繊細なページ一枚一枚に描かれた文字の羅列によって、またたく間に情景を映しだす。どんなエンセフェロンよりも間近で美しく、それ自体は過去であるにも関わらず、現代人がもつことのない夢がつまっている。感動というありふれた言葉の意味を肌で感じた瞬間だった。
この感覚を弟たちとも分かち合いたい、退屈な演習を忘れて一緒に楽しみたい、と俺は考えた。もっと紙の本を読みたいとせがんだ俺に、親父が自分の書斎を一部解放してくれたことには一驚した。ニグレドの理屈っぽい説得が効いたのかも。
 最初に借りた古書を返したとき、親父は「一滴の血も争えんな」と誰にともなく呟いた。見上げた俺は、親父が初めて見せた穏やかな微笑が嬉しくて、言葉の真意は測れずとも、紙の本を読むことは親父にとっても良いことなのだ、と勝手に解釈した。
 親父の本を子供の俺が読む。本当の親子らしい感じがするだろう? 普段はシミュレーションルームのガラスを隔てて会話をする程度だが、俺がもっと賢くなれば、知識を増やせば、親父はもっと色々なことを教えてくれるかもしれない。
 結局、親父とのつながりはそれきりだったが、紙の本は今でも純粋に好きなんだ。こんな臆病者の俺でも、ページをめくればヒーローになれる。本物の動物も中々拝めないこの時代から、悠久の歴史へ旅立つこともできる。古式銃もそうだが、あのフォルムもたまらない。装幀から挿絵まで、これほど生きた芸術品が他にあるだろうか。


 まあ、そんな感じだから、俺の恋人は目下のところ、苦労して口説きおとした古書と古式銃たちなわけ。どの娘もひいきなく大事にしているし、快適な空間でくつろいでもらいたいと常々思っている。彼女たちって魅力的なんだ。誰か一人に絞れだと? そんな残酷なこと、俺にはできねえよ。
「だからさ、俺が何を言いたいか―ガイナン、おまえならわかるだろ?」
「わからんな」
 執務室のチェアに腰かけたガイナンは、鬼気迫った顔でつめ寄るJr.の懇願をあっさりと切り捨てた。本人はワークデスクに両手を突いてガイナンと向き合いたいのだろうが、残念ながら十二歳の少年の背丈では、デスクの縁にしがみつく形となってしまっている。
「彼女たちは、俺のささやかな願いを叶えてくれる麗しき女神だ。それを手離すなんて! 金が必要なら他のもんを売ればいい。物ならうちはあり余ってるじゃねえか」
 堂々と胸を張っているが、金が入用になったのはJr.の無茶によって半壊したA.G.W.S.の修理費やデュランダルの消費エネルギー、大負けしたカジノのツケ、そうした出費がJr.の給料から差し引いても足りないことが原因である。そういえば、Jr.が演説していた古書の主人公も、不利な戦の場で親友の言葉に耳を貸さず、強行突破で味方の兵を道連れに死んだ、はた迷惑な輩ではなかったか。笑えないな、とガイナンは嘆息し、鼻息荒いJr.に問いかけた。
「売却というが、例えば?」
「そうだな、おまえのサイン入りホログラフとかオークションにかけりゃ確実だろ」
「却下」
 目を泳がせ適当に返答するJr.を、ガイナンはさらに一括する。「また仕置きされたいのか」
「マジで怒るなって。大体、俺の保管してる古書や古式銃は歴史的価値のある文化財であり、前時代から続く至高の芸術品でもあるんだぞ。もしも素人の金持ちなんかに渡って、補修すら不可能な状態にされたらどうする? もったいねえだろ。歴史の破壊すなわち文明の崩壊につながるわけだが、おまえはその片棒を担ぐのか」
 どうあってもコレクションを手離す気はないらしい。戦闘でその古式銃を派手に振り回し、自室に読みかけの古書を放置する自分のことなど完全に棚にあげている。
「わかった、妥協しよう。おまえのコレクションを売却しない代わりに、今月は給与なしだ。毎度おまえの迷惑を被るファウンデーションの住民に奉仕しろ」
 ガイナンは有無を言わさぬ威圧的な眼差しで、やたらと噛みつくJr.を貫いた。懲りずに『くそ、カジノで稼ぐしかないな』と悪あがきをするJr.の心を察知し、「カジノも今後一ヶ月は禁止」とつけ加える。露骨な舌打ちもガイナンには無意味であった。
「話は終わりだ。ところで、おまえ宛にメールが届いているぞ」
 デスクの通信インフラに組み込まれた常駐アイコンが点滅し、新着メールを知らせている。ガイナンがそれに触れると、アイコンから文字の並んだモニターが浮かびあがった。その内容を一読したとたん、Jr.のふてくされていた表情はころりと笑顔に綻んだ。
「馴染みの製本工房からだな。落札したはいいが、痛みの激しい古書があってさ。ちょっと修繕に出してたんだよ」
「珍しいな、おまえがファウンデーション外の人間を信用するなんて」
「いや、身内だぜ。二十八区画にルリユールがあるだろ? あそこの店主」
「なるほど、彼か」
 Jr.は完璧主義者でもある。いわゆるマニアという人種であり、古書や古式銃の類であれば、専門家の域まで達する知識をもつため、修理も大半は自分でこなしてしまう。Jr.の機体メンテナンスを任された専属エンジニアたちを除き、他人を信用して自分のコレクションを託すことなど滅多にない。
 Jr.に限らず、ガイナンも基本的に他人を信用しない。星団連邦やU‐TIC機関など、ファウンデーションを目の敵としている組織の名を挙げれば両手で足りず、ヘルマーを始めとした数少ない友を除けば、そうした相手と常に腹の探り合いをしているからである。ただ、ファウンデーションの住民ならば例外といえよう。絶大な信頼となればシェリィやメリィといった限られたメンバーに絞られるが、自分たちのような異色の代表理事を認め、ファウンデーションという場を愛してくれている者たちへ、二人は感謝とともに信頼を置いている。
「そりゃあ、ある程度の補修なら俺の能力で済ますが……やっぱりレアモノはプロに頼むのが適任だろ。ちゃんとした道具も揃ってるし」
 ガイナンとデスクの間に小柄な体を滑りこませたJr.は、返信メールを打ちながら機嫌良く説明した。ガイナンが無言でその様子を眺めていると、
「送信っと」最後のキーを弾いたJr.がにやりと不敵な笑みで振り返った。「どんな本か知りたいか?」
「もとより拒否権はなさそうだが」
 ガイナンを見上げるJr.の顔には、話したくてたまらないと書いてある。ガイナンは仕方なく微笑み、「では、どうぞ」とJr.を執務室の中央にあるプールテーブルの縁へ促した。ビリヤードに興じるよりも腰かけ台として使用されている台に乗り上げたJr.が、意気揚々と語り始める。
「そもそも、A.D.一八五〇頃までの西洋の書物ってのは、主にそれを購入した奴が製本を行う形式なもんだから、同じ内容の本であっても外見がまったく違ってね。そうしたセンスの違いもおもしろいんだが―」
 ガイナンはデスクに肩肘をつき、外見相応の子供のように瞳を輝かせたJr.の話に耳を傾けた。身振り手振りを交えながら、兄の顔は愉快そうに綻んでいる。
「有名なファンタジー『不思議の国のアリス』も、もとはルイス・キャロルが実在の少女アリス・リデルにA.D.一八六四のクリスマスに贈った手製の彩色本がオリジナルなんだ。昔の人間はユーモアあるよな、ほんと。まあ、イギリス人は皮肉も効いてるし、キャロルなんて変態と紙一重なんだが」
 適当に相槌を打ちながら、ガイナンは早くも眠気と闘っていた。二時間後には夕食会と株主総会が待っている。本来なら仮眠をとるべきで、時間が迫ればシェリィからも連絡が入るだろう。どちらも取引先のご機嫌取りがメインで、まったく乗り気はしない。同じご機嫌取りなら、この兄一人で十分なのだ。
 そんなことを思案する間にも、Jr.は興奮してプールテーブルを揺らしながら力説していた。彼は書物の内容を咀嚼するだけでなく、それを執筆した著者の人柄にまで興味をもつ。
「―でさ、あの本はその秘蔵の原本を完全復刻したものなんだ。手書きの文章にキャロル本人の挿絵、一冊ごとに異なる丁寧な装丁、まさに最高のプレゼントブックだろ? 限定本だから落とすのに苦労したぜ」
 このまま時が止まればいい。Jr.にとって読書が安らぎの時間だとすれば、自分にとってのそれは今このひと時だろうから。
 Jr.の軽やかなハイトーンを子守唄に、ガイナンは夢現をさまよう心地良さを味わっていた。インスティテュートの頃から変わらない。兄の子守唄はいつでも物語のメロディーとなり、まだ幼かったアルベドやニグレドは兄の個室で、あるいは開放的な中庭で、その音楽に耳を傾けていた。
 ふとメロディーが途切れたことに気づき、ガイナンは閉じた瞼をゆるりと開いた。白けた顔のJr.が眼前にあり、思わずチェアでぎしりと体を揺らす。
「眠いのか」
「いや?」
 しれっとした普段の態度で、ガイナンはごくごく自然に応答した。嘘つけ、とJr.が毒づく。「悪かったよ。おまえに仕事が入ってること、つい忘れてたぜ」
 Jr.は常の冷静な口調に戻ると、プールテーブルから飛びおり、執務室から隣の部屋へ続くドアを開けた。その先に見える一直線の廊下には、壁を埋めつくすほど長いショーケースが両脇に設置されており、さながらプライベートミュージアムのようである。棚には様々な種類の古式銃が並び、真空のケース内でその妖艶な銃身をきらびやかに晒していた。中には高価な装飾弾も飾られている。
「別に構わないさ」と、ガイナンはJr.の背中に向けて言った。
「いや、仮眠くらいとったほうがいい。奥にいるから、何かあれば呼んでくれ」
 デスクから立ちあがるガイナンにも振り返らず、Jr.は木製のドアを静かに閉じた。


 ドアにもたれかかり、Jr.は本日二度目の舌打ちをした。
 なにを甘えているんだ、俺は。そう自分に釘を打つと、深紅の絨毯が敷かれた廊下を歩いてゆく。人感センサー付きの紫外線除去照明が点灯した。物言わぬ銃たちが、両側から自分を嘲笑っているように思えて気分が悪い。
 奥には四方の壁が本棚に囲まれ、中央にも数列棚が並ぶワンルームがある。壁さえ見えないその部屋には当然のように窓もなく、空調の静穏だけが低く唸っている。Jr.は入口に設置されたモニター画面を確認した。温度二十度、湿度五十パーセント。正常値だ。空調設備により保管物に快適な温度・湿度を保持するこの部屋では、少数の環境虫が忙しなく漂っている。彼らはここで、機能性ナノ複合材料によるミストでの除菌消臭を定期的に行っていた。
 色褪せながらも鮮やかな背表紙をぐるりと見渡し、Jr.はその棚の中から一冊の古書を抜き取った。『ピーター・パンンとウェンディ』―紙ケースをしばし眺める。白んだ空色を背景に、緑色の服を着た少年が両手を翼のように広げている。少年の頭上には、輝く金色の妖精。ピンクのネグリジェを着た少女が、彼らのうしろに続く。
 Jr.は部屋の中央に常備したロッキングチェアに体を沈め、紙ケースから古書を取りだすと、おもむろにページをめくりはじめた。紙特有の匂いがつんと鼻をつく。期待に胸が膨らむこともない、読み古した内容の本だ。実際にはありえないおとぎ話だということも承知している。大昔にはピーターパン・シンドロームなどという症候群が流行したらしいが、自分の場合は少々違う。大人になれないのはピーターと同じ肉体だけで、精神は子供が悲鳴をあげて逃げ帰るほど汚れている。子供の頃に戻れないことはわかっているのだ、ほんの少しだけ、夢を見させてもらうだけだ。目覚めたときにはもとのJr.でいることを約束する。自分にそう言いきかせ、Jr.はゆっくりとページの文字を吸いこんだ。


 最終章に辿りついた頃、どこかで聞いたような鈴の音が鳴った。
「何だ?」開いたページの中より、雪のように金色の粉を振りまきながら、握りこぶしほどの光の塊が這いだしている。人型のようにも見えるが、何しろ眩しいので直視できない。光は環境虫よりも素早く、Jr.の周囲をひらひらと蝶のように飛び回った。そのたびに輝く粉がJr.の衣服へと降りつもるが、体温でまたたく間に溶けてしまった。
 Jr.は小さな光を目で追い、それが自分の鼻先にとまったところで軽く息を吹きかけてみた。光は鈴の音の短い悲鳴をあげ、よろめきながら壁の本棚にぶつかった。くつくつと思わず笑ったJr.に、光は全身から真っ赤な湯気を立てると、Jr.の短い前髪を力いっぱい引っ張りはじめた。
「おい、やめろよ」Jr.の抗議も聞きいれず、光は小さな体を斜めに傾がせながら、赤毛を開かれた古書のページへ押しこむように擦りつけた。すると、不思議なことに黄ばんだページが泉の波紋のように滑らかに波打ち、まるで水に溶ける絵の具のごとくJr.の髪がページの文字上に吸いこまれてゆくではないか。紙の水面はJr.の髪のような真紅に染まり、黒いアルファベットの数々が水中で漂っている。そのまま頭から金色の光とともにページの中へ、Jr.は体ごと沈みはじめた。深い泉に潜りこむように、肩、腰、膝とJr.のすべてが本の中へ消えてゆく。
 滑らかな波紋の余韻を残し、とうとうJr.の爪先までページの中に沈んでしまうと、真っ赤なページはたちまち色を失い、背表紙からことりと椅子に落下した。最後にJr.をそこへ押し込んだ光の塊が、彼のあとを追って平面のページへ飛びこんでしまうと、誰もいない部屋では静謐だけがまどろんでいた。開かれたままのページには、ライ麦畑の中央に建つ一軒の家がセピア色で描かれている。色のない世界では、ただ一人、白い服を着た亜麻色の髪の少女が色鮮やかに微笑んでいた。