影よ、影よ、影の国 2


Timeline: EP1 before meeting with his party, in the dream of Gaignun Kookai



 水中を泳ぐような感覚で、Jr.はもがいていた。体にまとわりつくページから頭がふっと抜けた直後、視界一面を覆いつくす奔流の光に思わず目をつむる。焼かれるように眩しい。慎重にまばたきつつ瞳に映した眼下の光景は、鈴の音を響かせながら自分の周囲を飛び回る光よりも眩しいものであった。
「あの家、まさか―」
 徒歩で一周できそうな孤島の中央に、白亜の壁と赤茶色の屋根の家が一軒だけ建っている。質素な木の柵で囲まれた家の周辺ではまだ緑のライ麦畑がざわめき、手入れの行き届いた庭で色とりどりの花々が咲き乱れている。その中でも、裏庭に広がる真っ青なバラがJr.の目を引いた。開け放たれた一階の窓からは、紅茶の匂いを連れた白煙が立ちのぼっている。家から森に入ってゆく畦道は、北端の海へと続いているようであった。
 家のドアが開いた。踊るような足取りで、誰かがポーチの階段をおりてくる。肩まである亜麻色の髪と白いワンピースをなびかせ、右手には銀のジョウロを持っている。彼女を目にとめた瞬間、Jr.は目を見張った。脳内を電撃が突きぬけ、様々な回路がスパークする。
「サクラ!」
 思考回路が遮断された頭で呂律も怪しいものだから、自分でも驚くほど必死な声で叫んでいた。とっさに千切れるほど手を伸ばすが、その五指が冷たい狂風を裂いていることに、はたと気づく。
「何だ、これ……俺、落ちてんのか?」
 言葉通り、Jr.の体は物凄い勢いで空中を落下していた。脱いだはずの黒いコートが、ばたばたと轟音を立てている。空気はひりひりと突き刺さるようだ。頬の皮膚を抓るように引っ張られ、まともに呼吸ができない。落下、と意識したとたんに小さな恐怖が喉を掠め、嘘だろ、とJr.は乾いた唇をわななかせた。どのように体勢を整えようとも落下速度は増すばかり。内臓が泳ぎ回る感覚に心拍数があがる。対流圏の圏界面よりは下にいるのだろうが、今の状況で常識が通用するとは思えない。雲一つない真っ青な空を祈るように仰げば、膝上にあったはずの古書が成層圏の彼方で小さな点となって宙に浮かんでいた。隕石のように虚しく落下する自分の周囲を、とにかく見渡してみる。斜め前方の空中に、自分をここへ落とした張本人である光がいた。「おい、おまえ!」なかば自棄にJr.は叫んだ。「なあ、俺のこの状況、何とかできねえか!」
 呼び声に反応した光が、吹きあれる風に負けないようJr.の鼻先で激しく鈴を鳴らす。奇妙なことに、その鈴の音の意味をJr.は理解することができた。
「何、飛び方を教えるって? ああ、何でもいいからやってくれ!」
 古書も見えなくなり、このままでは地上に衝突してしまう。墜死はごめんこうむりたい。風圧に全身を打たれ、自由を奪われながらも、Jr.は光の指示に従った。
「腕、を肩から動かして、枝をしならせるように? 脚はまっすぐ―って、こんなんで本当に飛べるのかよ?」
 両手をガチョウのように動かしたものの、重力の加速に変化はない。疑念を抱いた面持ちで睨みつけると、光はJr.の頭上でくるくると回転しながら、なにやら言い辛そうに鈴を鳴らした。
「ああ、おまえの粉が? 俺に振りかけるのを忘れてた? ばか、それを早く言えって!」
 Jr.に怒鳴られた光は空中へ逃げたが、それから螺旋を描いてJr.の全身を覆い、湧き水のように自身から零れおちる金の粉をまんべんなくJr.振りかけてやった。花粉にも似たそれに包まれると、重力に従っていた体はぴたりと落下をとめ、周囲の雲と同じように宙に浮かんだ。幸い地上は今のところ遠い。つんざくような風圧の耳鳴りもやみ、冷気だけが残った。
「飛んでるっていうより、重力の小さい空間で浮遊してる感じだな」
 Jr.は呟くと、慎重に空中の一歩を踏みだした。空中を歩くのは実に妙な感覚である。
「ありがとな。ええと、おまえの名前―好きにと言われても……まあ、そのなりだから、ここは無難にティンカー・ベルかな」
 適当に命名した光の球体に礼を言うと、Jr.は参ったな、と頭をかきながら、古書が浮いていた上空を仰いだ。
「俺、部屋で本を読んでいたのに」
 光によるとJr.は今このとき飛んでいる最中らしいが、どうにも高く舞いあがることはできないようで、静止したつもりでも体は微々たる速度で下降しつづけている。上空には戻れないのだから地上に行くしかないだろうと、Jr.は見えない階段をおりるようにして高度をさげようと試みた。


 なぜか懐かしい景色に思える。Jr.が地上を見下ろしていると、美しい珊瑚礁の入江に停泊する一隻の船が目にとまった。人影は見当たらないが、船室から歌が聞こえてくる。
 どこか聞き覚えのある陽気な歌にJr.が傾聴していると、突然の爆発音が耳をつんざいた。「ちっ、今度は何だ?」と身構えてからコンマ数秒後のこと。Jr.の体ほどもある弾丸が、こちらめがけて発射されているではないか。「くそっ」高速回転しながら猛スピードで飛んでくる弾を、持ち前の反射神経で何とか回避したJr.であったが、金の粉で安定していた体のバランスを崩してしまった。視界がぐらりと揺れ、階段から転げおちたように瞬く間に空中を落下しはじめる。がむしゃらに手足を動かしても、どうにもならない。空気は再び痛みを伴うナイフとなった。金の粉が彗星の尾のように、Jr.の体からはがれてゆく。真下は大海だ。もう視界一面が青い。
 光の塊が一直線に向かってくる。「ティンク!」叫ぶと同時に手を伸ばしたが、ティンカー・ベルが辿りつくよりも早く、Jr.は海面に叩きつけられた。全身を激しい衝撃が襲い、次に一瞬で痺れが広がる。痛みは鈍く、自分の体が割れたガラスのようにも、潰れた粘土のようにも思えた。Jr.の体は海中に沈んでおり、悲鳴の代わりにいくつもの水泡を吐きながら、真っ暗な海底へ向かっている。呼吸を奪われて苦しいはずが、そうした感覚はなく、いまだに空中を落下しているようであった。落下する先が地から闇へと変化したくらいのもので、朦朧とする意識の中、それもいいかもな、とJr.は思った。


 腫れぼったい瞼を持ちあげると、どこか見覚えのある市街地にいた。街は廃墟と化しており、火薬と死臭が充満している。横転したアイスクリーム屋台の下から染みだす乾いた血だまりを見つめ、Jr.は恐怖にわなないた。
「ミルチア、なのか?」
 驚愕し、その光景に息をのむ。荒れはてた瓦礫の道路には、大勢の死体が転がっていた。惨憺とした地で、彼らの血痕のみが街に色を与えている。不気味な静寂が空間を制し、動いているものなど何もない。墓標のように屹立する無人のビルに囲まれ、Jr.はぞっと身震いした。水中でもがいていたはずなのに、衣服はまったく濡れていない。体の節々が痛むので怪我の具合を確かめようとするが、Jr.はまたもや違和感に気づいた。ロングコートを着ていない。コートどころか今の服装は、このミルチアで着用していたU.R.T.V.の制服姿であった。一瞬で血の気が失せる。悪い冗談だ。
「どうなってんだよ、ちくしょう……」
 瓦礫を蹴とばしても、空虚な音がビルの隙間を反響する以外に変化はないように思える。が、無音の廃墟で立ちつくすJr.の耳に、かすかな鈴の音が届いた。薄暗い市街地を注視すると、視界の隅に金色の物体が映り、それを認めると同時にJr.は走りだしていた。
「待て―なあ、待ってくれ!」
 アスファルトにたまった黒い粘性の油状物質を跳ねあげ、千切れた死体の足につまずきながら、Jr.は必死でそれを追った。体が鉛のように重く、大破した車を飛びこえるのはひと苦労だった。瓦礫の山は廃棄物でつくられたタイムマシンのようで、そうした破片の影がJr.を見下ろしている。血生臭い。酸鼻をきわめる光景から目を逸らすようにして走る。疲労と恐怖で息が苦しい。


 ようやく追いついたときには、亭々とそびえるラビュリントスの真下にいた。見たくもない建物を見上げるのだから、嫌でも暗澹とした表情になる。冗談だろ、と零れた呟きは、ラビュリントスはもちろんのこと、自分が追ってきた正体に対する呻きでもあった。
「ガイナン……」
 クーカイ・ファウンデーションで自分が肩を並べている男ではない。Jr.がルベドだった頃、誰にも内緒でニグレドと世話をしていた猫の名である。白地に黒と茶の斑模様のある猫が、ラビュリントスの上層から落下した瓦礫の山積の頂で優雅に伸びをしている。愕然とした。
「おまえ、生きて―いや、これは夢だ。そうなんだろ」
 頭を乱暴にかきむしり、舌打ちする。現実ではない。でなければ、おかしな金色の光に一軒家しかない孤島、あの少女、歌が聞こえる船、どこまでも続く大海原―そんなものが現実に存在するはずはないし、ましてや十四年前の光景が再現される理由もない。いつものように本を読んでいた。おそらくそのまま寝入ってしまったのだと、ルベドになったJr.は自分に言いきかせた。生温い風に乗って運ばれる死臭は消えないが、これも小説のような虚構なのだと頭に納得させる。しょせんは悪夢、贖罪の一部さ。享受してみせろ、と。
 瓦礫の上でガイナンがあくびをした。白く尖った牙の隙間で赤い舌が蠢いている。ガイナンはあまり鳴かない猫だ。沈黙を知る利口な猫であった。ザバロフに見捨ててきたが、ずっと心配している。ガイナンが無音のあくびをすると、その背後から無機質な声がした。
「666はガイナンをすてた。なかまもすてた」
 外耳道へコールタールを流しこまれるような声に鳥肌が立つ。毛繕いをするガイナンの横には、いつの間にか一人の少年がいた。少年は金髪に碧眼であるがルベドと同一の顔をもち、子供には似つかわしくない散弾銃を小脇に抱えていた。能面のように端麗だが表情の欠如した顔の中央で、濁った双眸がルベドを謗る。標準体、と呟いたルベドの声は掠れていた。
 一言だけ言葉を発した少年は影となり、蜃気楼のようにラビュリントスの背景へと消えた。ガイナンが再びあくびのモーションを行うと、またもや標準体が一人現れる。まったく同じ顔なので、先程と同じ者かどうか判断がつかない。
「666は667にガイナンをあわせなかった。666は667がきらいだから」
 あらかじめ用意されていたかのような言葉を淡々と吐き、彼らは消えてゆく。
「666はうそのじょうずな669をりようした」
 ルベドが腰を抜かすこともできず、おののいて固まっている間、奇妙な現象は時計のように正確に、単調に、整然と繰り返された。
「666はじぶんがだいすき、ほかはきらい」
 猫が笑うように口を開いては、ひと鳴きもせず、それを閉じる。長い尻尾だけが、さも愉快だと左右に揺れている。
「666はなにもしらない。AからZのくべつもつかない」
 標準体が現れる位置は一歩ずつ前進し、次第にルベドへ近づいてくる。
「666のなかみはからっぽで、しんぞうにはあながあいている。なにをいれてもおおきくならない」
 凍りついた脚をどうにか曲げ、ルベドは一刻も早くここから逃げるべきだとあとずさる。違う、違う、と呪文のように口腔で絶えず呟きながら、かぶりを振る。
「666は、ばけものだ」
「ち、違う!」
 耳を塞ぎ、叫ぶ。刹那、ルベドの体は赤紫の攻撃的なオーラに包まれ、内部で膨張した危険なエネルギーが体外へ放出された。耳をつんざく爆発音と同時に、大蛇のような赤いうねりが標準体に襲いかかる。うねりと衝突した少年の体は抵抗もなく吹きとび、ラビュリントスの壁に勢いよく叩きつけられた。もとより崩れかけていた壁はたちまち崩壊し、少年と瓦礫が絡みあって地面に落下する。破片は派手な音を立てて地面に散乱したが、標準体の姿は跡形もなく消えていた。
「ああ、こわい。666にころされるよ」
 丸い瞳孔を縦にきゅっと細め、ガイナンが笑った。その笑い方があまりに人の表情と酷似していたものだから、ルベドは危うく悲鳴をあげそうになった。「あはは、いひひ、ひゃはははっ」縮こまったルベドを三日月形に開いた口で嘲笑いながら、ガイナンは軽やかに瓦礫の頂から飛びおりると、ラビュリントスの入口へゆったりと歩いていった。
 去り際にこんな言葉を残して。
「ウ・ドゥはこわい。666はもっとこわい」