影よ、影よ、影の国 3


Timeline: EP1 before meeting with his party, in the dream of Gaignin Kookai 



 混乱で煮つまった頭を冷やそうと、ルベドはミルチア市街を闇雲に歩いていた。道中、腹から木屑を零して小刻みに歩く白うさぎや、目玉を銜えて下品に笑う烏と出会い、うんざりしながら廃墟の街を歩いていたはずなのに、気づけば連中と一緒に見覚えのある森にいた。よくよく見れば奇妙な森で、イラクサやノアザミの花が咲いているにも関わらず、ミズナラの下にはドングリが散らばり、カシやブナ、ネムノキといった季節も分布もばらばらの樹木が緑やら赤やら黄やら鮮やかな紅葉を蓄えている。数分前など、たわわに実った山葡萄の低木をくぐりぬけてきた。気候からして秋に近いらしく、森の向こうにある荒野ではヒースが群生している。
「ぎゃーはは、ぎゃははっ」
 市街地を離れ、ようやくうるさい烏が飛びさって安堵していたのに(なんと奴は紫の目玉を二つも落としていった)、ずんぐりむっくりとした白うさぎは「かげをみつけないと、かげをみつけないともどれない」と、臓物の代わりに腹を埋める木屑を散布しながら騒ぐのだから鬱陶しい。白うさぎの体内から時計の音が聞こえるのだが、何しろ開いた腹の中身は木屑だらけで何時なのかもわからない。しかしながら、白うさぎのおかげではっきりしたことが一つ―確かに今のルベドには影がない。影を外す芸当など持ちあわせていないはずであるが、現に木もれ日を浴びる体は陽光を遮っていない。これでは、まるで自分が世界に存在していないかのようではないか。影の有無による体調不良は見受けられないが、常識的にあって当然のものがないとなると、そわそわと気が急いて仕方なかった。
「かげをみつけないと、じかんをもどさないと」
「影を見つけりゃ、この馬鹿げた夢から目覚めるってか? くそっ」
 自棄になり、野道に転がっていたクルミを力任せに蹴った。なぜか白うさぎがクルミを追って走りだす。「あ、おい!」呼びとめても白うさぎは戻ってこなかった。道中、特に親しくなったわけでもない間柄なので、ルベドは木々の間を突っきるクルミと白うさぎを無言で見送った。一体全体どうなっているのだ。
 赤と黄の葉がはらはら舞いちる光景をぼんやりと眺めながら、ルベドはふと思った。やはり、ここは空から落ちる最中に見えた孤島なのだろう。上空から廃墟のミルチア市街は確認できなかったが、小さな森は見た覚えがある。そうすると、この野道を歩いて抜けた先には一軒家があるはず。そして、家には少女がいる。ルベドの心臓がどくんと波打つ。
 彼女に会いたい。可能性を知ったとたん、思いは募る。しかし、彼女と会って果たして自分はもとの現実に戻れるのだろうか。
 理性で己を正そうとするも、感情の奔流と本能の欲求には勝てない。もとより答えは決まっていた。彼女に会う。何を躊躇う必要がある? うしろめたいことなんて何もない。それに、影もそこにあるかもしれないのだから。理由の正当化に立ちどまっていたルベドは、草を擦る物音で我に返った。
 かさかさと鳴る草むらを注視していると、森の奥から黒い物体がのっそりと野道へ這いだしてきた。黒い物体を凝視する。馬鹿な、信じられない。驚いたルベドは頭でぐるぐると可能性を巡らせる。何だ、これは?
『いってえな。誰だあ、この俺にクルミなんてぶつけた野郎は。チェシャ猫か、帽子屋か、それとも女王か?』
 草むらから堂々と闊歩してきたものは、黒いJr.であった。クルミが直撃したらしい後頭部を、やんわりと撫でながら、唇を尖らせている。
『まったく、いい気分で遊んでたのによ』
 毛髪から爪先まで全身真っ黒な男は、それでも寸分違わずJr.であった。毛先の跳ねた短髪、お決まりのコートを着込み、左耳ではロングピアスが揺れている。それらすべてが真っ黒なだけで、声や仕草はJr.そのもの。少しでも正面から角度を変えると、彼の体が紙のように薄っぺらである奇妙な事実が理解できた。顔面に鼻や眼球の凹凸は多少あっても、開いた口腔まで黒々と闇しかない。
 上から下まで相手を確認したルベドは、陸に打ちあげられた魚のように喘いだ。
「お、おまえ、誰だよ……俺か、俺なのか?」
 無遠慮に指差された黒いJr.は、露骨に顔をしかめ(黒い平面がくしゃくしゃになったという意味だが)、それから『これはこれは、ルベド坊や。奇遇だね』と不敵に笑った。わざとらしく咳払いをしたかと思えば、
『いかにも、俺はおまえなわけだが』などと学者風に頷いてみせる。『今はもう、おまえじゃない』
「何言ってんだ。おまえ、俺の影だろ。大人しく俺んとこに戻れよ」
『嫌だね』
 影は軽そうな外見通り、飄々としている。
『なぜって、俺は自由に生きたいんだ。簡単に言えば、おまえをずるずる引きずって歩くなんて、もうごめんだってこと。俺は疲れたの。だから、邪魔すんな』
 悪びれもせず主人の命令を拒否した影に、ルベドは大いに面食らった。
「はあ? ぺらっぺらの影に何ができる。風で飛ばされちまう前に戻れって」
 ルベドは地団太を踏み、にやにや笑いを浮かべた影を怒鳴った。直情的なルベドの憤慨をいなすように、影は暗闇の表面でせせら笑う。
『はは、〝俺が王だ〟ってか? おまえってさ、哀れなほど無知で、おまけに自惚れ屋なのよ。弱いからって強いふりをしても見栄ってのはな、おまえと近しい奴ほど見抜いてるもんだ。狼少年、そんなんじゃ誰も助けらんねえぞ』
「おまえだって俺と同じだろ」
『いいや、違うね。はあ、女王もチェシャ猫も、こいつの何が良いのかね。俺のほうが断然いい男じゃねえか』
 影は心底うんざりとした調子で嘆息し、大仰に肩を竦めた。
『俺はおまえがつくりだした仮面の〝Jr.〟だよ。おまえときたら、自分は十四年前のあの日より手前でぬくぬく眠っておきながら、それ以降の辛いことや苦しいことは丸ごと俺によこすのさ。考えたもんだよなあ? 卑怯で臆病な自分を隠すためには、まわりが期待する自分を演じればいい、なあんてさ』
「黙れよ!」
 きつく握りこんだ拳で、ルベドは影に殴りかかった。『おおっと』憤怒と恥辱に任せた拳をひらりと避け、手近なクヌギの枝に悠然と着地した影は、くつくつと普段のJr.の笑い方をまねた。空振りでよろけるルベドを、とことん愉快げに漆黒の表面は嘲弄している。
『そうして自分のことに必死だから、一人だけ何も知らずに後悔するんだぜ。毎度のようにな』
 影はクヌギから飛びおりると、『だろ? 相棒』とルベドの耳元で囁いた。猫なで声がルベドの激昂に捕まる寸前、影はしなやかに身を翻した。気づけば再び木上である。余裕綽々だ。
『過去のルベドは足手まといだ。俺に任せろ、ばっちりJr.を務めてやるぜ。ガイナンだろ、それに可愛い姉妹、十四年前から世話になってる連中や、ファウンデーションの愛すべき住人たち、あの子の妹とママだって―俺は平等に守れるんだから!』
 軽やかに駆けだした影が、指折り人数をかぞえつつ自信に満ちた声で叫ぶ。『少女の初恋、少年の憧憬、ファウンデーションのヒーロー! それがJr.、おまえを知らない奴らが求めるガイナンJr.さ!』
「こら、待てよ! てめえ、戻りやがれ!」
 呆気にとられていたルベドも、慌てて影を追いはじめる。木もれ日が降り注ぐ森で、ぺらぺらの影と赤毛の少年が鬼ごっこをしている光景は、何とも奇妙なものである。二人は山葡萄の蔓を払い、陽光を湛えた水たまりを飛びこえ、森の中を駆けぬける。
『ルベドがいるから、前が見えなくなるんだろ! 過去に囚われて未来まで失っちゃ、もとも子もねえだろうが! いい加減さ、わかんねえのか?』
「そんなこと、言われなくてもわかってんだよ! わかってる―それでも、俺が悪いんだから置いてくなんてできねえよ!」
『おまえの理屈はな、過去に甘えて現実逃避してるだけ! 俺が悪い俺が悪いって、自分から檻に入ってさ! おまえさあ、本当は自分を傷つけるもんから身を守りたいだけなんだろ? もう一度、大切なものを失うのが怖えんだ!』
 全力で疾走しながら、二人は声を張りあげた。そのがなり声や土を蹴る音、荒い呼吸が森の静寂に反響し、奥地に潜む影たちが密かに少年たちを見物している。『これだから背が伸びねえんだ』影は皮肉った。走る速度が同じだけに二人の距離は一向に縮まらず、次第に森の出口である緑のアーチが近づいていた。出口の向こうは眩しい光で溢れている。
「うるせえ、うるせえ! Jr.なんかに言われたくねえんだよ! 何も知らないくせに―」
『おいおい、その言いわけは通用しないぜ! 何せ俺は、おまえを知ってる!』
「知るもんか……誰も本当の俺を知らずに理想ばっかり押しつけるんだ……弱い俺なんて要らないから! どうせ何もかも俺のせいだよ!」
『まったく、これだからガキは嫌になる! 腐るほど読んだ本から、おまえは何を学んだ? それとも読書すらお遊びなのか! 先送りにしようとツケは回ってくるんだぜ? あーあ、とっととまともな大人になりたいもんだ!』
 心底うんざりした調子で影は叫んだ。ルベドはぐっと言葉につまり、ほとんど自棄になって空を仰いだ。
「……俺だって、なりてえよ!」


 からからの喉でルベドが叫んだ直後、火照った体は緑の蔦のアーチをくぐり、涼風かと錯覚するほど爽やかな陽光に照らされた。地肌を流れる汗がさらりと乾いてゆく。息切れを整えながら見下ろした視界には、絹のようになびく緑のライ麦畑と、その中央に例の一軒家が建っていた。ここから家までそう遠くない。やはり自分はあの孤島にいるのだ、とルベドは確信した。
「影がいない」自分より先に森を出たはずの影は、忽然と姿を消していた。念のため足元も確認してみるが、依然として自分に影はない。不思議と疲労のない脚で一歩を踏みだし、ルベドは彼女の家へ向かった。
 観察するほど、彼女の家と酷似している。白い塗料のはがれた木目部分までそっくりである。その懐かしさに、ルベドは笑みを零した。水やりを終えたばかりの庭では、瑞々しい葉から雫を滴らせる花々がほどよく香り、柵の向こうから届くライ麦畑のざわめきが耳に心地良い。揺れるレースのカーテンや、ポーチのブランコを愛しい眼差しで見つめ、ベルのついたドアを軽く叩いて合図する。心音は静かな水面を打つ雨粒のように澄んでいた。
 昔のように涼やかな音色を鳴らし、ゆっくりと扉が開く。
「いらっしゃい、ルベド」
 肩まである亜麻色の髪、真っ白な薄手のワンピース。にっこりと微笑むその少女は、ルベドが焦がれる彼女そのものであった。彼女の名をルベドは言葉にしたつもりだが、咽喉から鼻腔にかけて、つきりと痛んで声にはならない。十四年分の積憂やら何やらが込みあげ、切愛に収縮する心臓がひどく苦しい。
「なあに? ルベドったら、おかしな顔ね。いつもの笑顔はどうしたの?」
 サクラは庭に咲く花のように柔らかに微笑み、「さあ、入って」戸惑うルベドを家の中へ招きいれた。
 少々放心気味のまま部屋に通されたルベドは、昔と変わらぬテーブル前の特等席で腰をおろし、そわそわと浮ついた気持ちを隠すように室内を見渡した。リビングはきれいに片づき、二人以外の人影はない。真鍮の花瓶に飾られた赤と白のガーベラは、今朝になって生けたものだろうか。テーブルクロスの端にある飛行機の刺繍を見つめながら、ルベドは思う。
 夢のようだ、いや、夢なのだけれども。
 自分の影が戻ってくれば、この夢も覚めるのだろうか。ああそう、影だ、あの影を探さなくては。
「あの、サクラ。君のところに、俺の影が来なかった?」
 自分で切りだしながら、何と間抜けな質問なのだと恥ずかしくなり、ルベドは耳朶を赤く染めた。キッチンで紅茶の蓋を開けていたサクラは、ルベドの質問を笑うでもなく、「さあ、知らないわ。そんなことより、お茶でも飲みましょう」と質素な白いサモワールの湯沸かし器をテーブルの上に置いた。「ごめんね、ルベド」
「え、何?」
「ううん、何でもない」
 耳にかかる髪を梳き、微笑むと、サクラはサモワールの上で温められたポットから、濃い目の紅茶をカップに注いだ。それをサモワールの熱湯で適度に薄め、ルベドの前に差しだしてくれる。
「どうぞ」
「ありがとう。いい香りだな、うまそう」
 掌に包んだカップは温かい。ルベドが屈託なく笑うとサクラは正面から微笑み返した。それから、テーブルに置かれた二つのジャム瓶を両手に乗せ、
「今日はルベドが来てくれるって聞いたから、蜂蜜と薔薇ジャムを用意したの」
 瓶のラベルをルベドに向けた。誰から聞いたの、とルベドは気になったが、カップから立ちのぼる甘い香りが鼻をくすぐり、疑問はすぐに霧散する。頭に靄がかかったようで、思考が働かない。
「蜂蜜、入れる?」
 サクラの問いに、こくりと頷く。鮮紅色のブレンドティーにサクラが瓶から蜂蜜をひとさじ加えると、紅茶はますます芳醇な香りを放った。赤い水面に琥珀色の螺旋がくるくると混じりあう。まるで自分が溶融しているようで心配になる。
 もう一つの瓶に入った薔薇のヴァレニエを小皿にたっぷりと載せたサクラが、スプーンでそれを弄りながら「ブリーニもつくれば良かったかな」と零したので、「じゅうぶん足りてるよ」とルベドは苦笑した。
「ねえ、ルベド。今日は何のお話をしてくれるの?」
「そうだなあ、バリの『ピーター・パンとウェンディ』を読んだよ。海賊や人魚のいるネバーランドでの冒険はおもしろかったな」
「あ、私も知ってる」
 素敵な物語だよね、と言って紅茶を飲むサクラから、ルベドは目が離せない。長く震える睫毛も、紅茶を流しこむ唇も、さらりと垂れた前髪も、カップを持つ細い指先も、彼女の仕草すべてが、かわいくて仕方ない。「サクラってウェンディみたいだな」思わず呟いていた。
「そう思う? けれど、私はウェンディのような大人になれないわ。ずっと夢の中にいるもの。アリスのほうが近いかもね」
 だったら、とルベドは椅子から立ちあがり、ことさら真剣な表情でサクラを見つめた。
「いつか、俺が外の世界から迎えに行くよ。眠ったままの君を起こしてあげる」
「本当に?」
「絶対さ」
 根拠のない自信で言いきったルベドは、ふと以前にもこんな会話をしたような、という既視感に首を傾げた。どこかの歯車がうまく噛みあわない。それはわかるが、何なのかはわからない。頭の片隅では安心できない焦燥感がもがき、一面に張った蜘蛛の巣を千切るように悟性が奮闘している。至福であるはずのサクラとの時間も、何者かによって急きたてられているようで落ちつかない。頭蓋の内側で何かが警鐘を鳴らしているのだ。
「サクラ」何を言いたいのかもわからないまま、ルベドは愛しい少女の名を呼んだ。サクラはカップに口をつけてルベドを見上げた。長い睫毛に縁どられた森のような瞳にどんな言葉も拒絶されそうで、ルベドは口を噤んだ。
「私よりもルベドのほうが、まるでアリスね。ピーターのように満足していないもの」
 ニグレドよりも深淵に近い翠緑の双眸は、ルベドではなく彼の背後を見つめていた。不思議に思ったルベドがそちらへ見向くと、そこには階段で動く人影があった。
「俺の影だ!」
 ひらひらと足音もなく階段を駆けあがる黒いものは、確かに自分の影である。叫ぶと同時に影を追おうとしたルベドにサクラの腕が伸びるが、彼女の指先が触れる前にルベドは駆けだしていた。「ルベド」呼びとめるサクラの声にも振りむかず、磁石が引きあうようにルベドは夢中で影のあとを追った。あんな影が必要である理由はわからないが、自分のもとにあるべきだと直感している。なくてはならないものだ。忘れることも逃げることもできないものだ。受けいれるべきものなのだ。
 二階にあるサクラの部屋は、昔と変わらず優しい彩りに包まれていた。ベッドサイドの棚には今も、ユリが贈った貝殻のオルゴールがある。サクラのお気にいりだという、うーくんのぬいぐるみが、侵入者のルベドを監視するような黒々としたボタンの目玉でベッドに座っていた。クルミを追って消えた白うさぎに似ている気もする。
 ひと通り部屋を見回したルベドは、迷うことなくクローゼットの前に立ち、しっかとノブに手をかけたところで、ここが女の子の部屋だということを思いだして躊躇した。が、階段を全速力で駆けあがったおかげか頭の靄は晴れ、このドアを開けるべきだと体を促した。両開きの木製クローゼットがゆっくりと軋む。
 暗がりで埋もれるように隠れていたものは、幼い三人兄弟ではなく、真っ黒で薄っぺらな自分の影であった。闇のたまりやすい角に丸まり、衣服を折り畳んだようにして収まっている。自分の影を認めたとき、晴れ渡った頭の中で、ここに辿りつくまでのおかしな出来事が鮮明に蘇った。ああそうか、こいつが必要な理由は―。
『あーあ』影が舌打ちする。『俺を見つけなきゃ、おまえは人生で最高の時を永遠に生きられたのに』
 やはり悪びれるでもなく、影はするりと立ちあがり、自分の主人と向きあった。「永遠だって?」あくびをする影にルベドが問う。
『おまえと女王の出会いから、チェシャ猫が頭をぶち抜くまでの時間―それを反復して永遠を実現するのさ。女王は反対したけどな』
「女王って、まさか……」
『俺は女王と賭けをした。おまえが影、つまり俺を見つけだせば、女王の勝ち。審判の日は回避されるし、そのための鍵もおまえに渡そうと』
 影はルベドの質問に答えず、早口に言った。『だが、もしもおまえに影を探す気がなきゃあ』
「―影の勝ち」
『その通り』影が口角を上げ、黒い歯を見せる。ルベドは苦々しく言った。
「子供の頃の幸せな時間を繰り返したいわけじゃない。そんなものは悪夢でしかない」
『最高の夢も、最低な現実も、似たようなもんだろ』
 影は残念そうに苦笑した。「それでも線を引かないと」ルベドは己に同情するように言った。脳はもう氷のように冷えている。
『わかったわかった。まあ、過去がなけりゃ現在もないからな。正直、まだ希望があって安心したぜ。おまえに意地悪したいわけじゃあないんだよ、俺は』
 どこか誇らしげに納得した影は、うんうんと満足げに頷いたあと、『一つ訂正がある』と立ちあがった。
『人生最高の時ってのは、過去にあるとは限らない。当分―そう、俺らの死期まで保留にしとかねえとな』
 ルベドの肩に手を置き、耳元でそう囁くと、
『よろしく頼むぜ、相棒』
 黒い影はにやりと笑った。


 クローゼットの隅で丸まった黒い布を、ルベドは無言で見下ろしていた。柔らかそうな布は当然のように動かない。
「見つけたんだね」
 ルベドが振りむくと、ドアの前に立ったサクラがにこりと微笑んでいた。黒い布を手にとり、ルベドは呆然と彼女を見つめる。「サクラ、知ってたのか」
 ルベドの問いに頷いたサクラは、ルベドの手から黒い布を受けとり、棚の引き出しから裁縫道具を取りだした。
「座って。縫いつけてあげる」
 ベッドに腰かけるよう促されたルベドは、うーくんの隣でサクラの動きを戸惑いながら見つめた。彼女の真意がわからない。女の子の心なんて、昔からわからないけれど。そうさ、こんなに近くにいる彼女の何も理解できなかった、ただの一度も。
 サクラはベッドの前に跪き、黒い糸を通した針で、ルベドの靴と影の足を縫いあわせてくれた。細い針の先端が自分の靴を貫通する瞬間、ルベドは思わず目をつむったが、ちくりとした痛みすら感じなかった。むしろくすぐったさが足の裏をざわざわと走るので、じっとしていることが困難になる。ひと針ひと針、自分と影が縫いあわされる。ひと針通るたび、ルベド記憶は泡沫が弾けるように蘇り、サクラと別れてからの歳月が高速で印字されていった。その膨大な情報量に耐えられない脳は、自律的につくりを再構築する。それらはすべてしめやかに執り行われる儀式のような変化であり、あまりの熱にルベドは鼻口を擦ったが、特に鼻血もでていない。密やかに変質する脳の生々しい音を聞きながら、ルベドは自分の足に触れ、なよやかな五指で糸を通すサクラを、まるで時が止まったように黙して見つめていた。
「はい、できあがり」
「ありがとう、サクラ」
 ベッドから立ちあがったルベドは、だらりと垂れた影を引っ張り、ゆっくりと歩行してみた。影は零れた水のように伸びてゆき、はっきりとした境界や凹凸を失い、やがて何の変哲もない平凡な影に戻った。自分の影のなじみ具合を確認し、ルベドは一抹の寂しさを感じながらも安堵した。やはり、この状態がしっくりとくる。
「君ならどんなことでもできそうだ、サクラ」
「私ができることなんて、この世界で生きることだけ。だけどね、君を縛りたいわけじゃないの」
 サクラは言い、ここへ来てから初めて苦しげな表情を見せた。ルベドの胸はきりきりと締めつけられ、彼女を抱きしめたくてたまらなくなった。そうしないと窒息してしまうほどに。
「さあ、君はもう行かなくちゃ」
「……あ、いや」
 無垢な幼子のように駄々をこねても、無駄だということはわかっている。こんなにも女々しい自分が恥ずかしい。予想通りサクラは、だめよ、と首を振った。
「君はもう、私の知ってるルベドじゃないもの」
 見て、と訴えられ、ルベドは部屋の鏡に目を向けた。その姿見にU.R.T.V.の制服を着たルベドの姿はなく、黒いロングコートを着たJr.の姿が映っていた。コバルトブルーの双眸に、年月の影が射しこむ。ひでえ顔、とJr.は自分を鼻で笑った。背丈も骨格も、その声すら変化はないが、何が変化したのかは、自分がよく理解している。ひどい顔をしていて当然、初恋の女の子を、大人のくせ幼稚なわがままで困らせているのだから。すると、自分より少し背の高いサクラが、急に小さな子供であるように思えた。世界はとてつもなく無限で、ちっぽけな人間一人が何をしようと自由なのだと彼女に教えてやりたい。亜麻色の髪を梳き、その孤独と悲愴を慰めてやりたい。それなのに、Jr.の体は根が生えたように動かない。
 サクラはおもむろにJr.の右手を取り、その掌に何か握らせると、まじないのように両手で包みこんだ。
「これをあげる。お守りよ」
 サクラの手が離れたJr.の掌にはドングリのような弾丸が一つあった『Go Ahead, Make My Day.』金色の文字が刻印された弾丸は掌の皮膚を貫くほどのまばゆい輝きを放ち青紫の血管を葉脈のように浮きあがらせている
「でもね、私が君を助けられるのは一度だけ」
 忘れないで、とサクラは言った。Jr.の右手を再び握りこむと、サクラはその拳をJr.の右胸に優しく押しあてた。まるで右胸の中に弾丸が吸収されるようであった。Jr.の掌にあった硬く冷たい弾丸の感触は、雪や氷が融ける感覚でまたたく間に消えてしまった。
 軽やかな足取りで窓辺に移ったサクラを、Jr.は一心に見つめていた。別れには慣れている。慣れているはずだろう。
 サクラの手が窓の把手を掴み、華奢な腕でそれを開ける。振りむき、彼女は悪戯っぽく笑んだ。
「ルベドのことよろしくね。ちょっと鈍感なの」
 薄いカーテンが引かれる。部屋中に流れこんだ暖かな陽光が二人を包み、光の海に満たされてゆく。目眩がするほどまばゆい陽光に目を細めていると、光の津波を起こすような突風がJr.を襲った。風の暴威と光の奔流にのまれ、両腕で目を覆ったJr.はサクラを見失う。光すら見えない。Jr.は闇雲に腕を伸ばした。
「〝さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ〟――教えてくれたのは、あなたでしょう。多くを生きて」
「何? 聞こえねえよ、サクラ!」
 サクラの声は風音でかきけされ、Jr.には届かない。瞼を閉じたままJr.は叫ぶが、さらなる突風が小さな体をひらりと煽った。色さえ超越した光からなる奔流は、いつの間にか闇の混じった濁流に姿を変えている。サクラは見えない。
「私、待ってるから」
 濁流の渦に気圧されるJr.の頬に、柔らかな温もりが触れた。それから先は、覚えていない。