影よ、影よ、影の国 4


Timeline: EP1 before meeting with his party, in the dream of Gaignun Kookai



 木目の感触が頬に当たる。横たわる自分の体を起こすと地面が軋んだ。潮の匂い、波音も聞こえる。
「くそ、何度目だよ……こんな目覚めは」
 何度目覚めても、Jr.は夢の中にいる。むしろ目覚めるたびに現実から遠のいていくようで、苛立ちからぐしゃぐしゃと頭をかいた。
 どうやら今いる場所は、見知らぬ船の甲板らしい。普段Jr.が搭乗するデュランダルのように宇宙空間を航行する船ではなく、珊瑚礁の入江に浮かぶ木造のガレオン船である。二本の立派なマストが空へ屹立し、その先端でジョリー・ロジャーの海賊旗が潮風になびいている。船体には殻に海草を生やした貝類がびっしり張りついており、一本一本の横梁がほつれてみすぼらしい。幽寂とした入江に大波が寄せると、Jr.の立つ甲板はいちいち軋んでは斜めに傾いた。晴天の上に日差しも強いはずだが、このガレオン船の周囲にだけ霧が発生している。不気味な船だな、とJr.は眉をひそめた。船端に架けられた真新しい渡し板が目にとまる。
「それはおまえの十字架だ、ルベド」
 突然、背後から声をかけられ、条件反射からJr.は素早く攻撃態勢に入った。だが、普段ぶら下げているホルスターもなく、両手は腰の辺りを所在なくうろつく。その上、眼前に佇む声の主は、初めて出会うような、しかし誰より身近であるような奇妙な印象の男でJr.は戸惑った。ガイナンの黒髪を真っ白に染めあげ、ガイナンの双眸に葡萄酒の紫を流しこんだように端整な容貌。そのカラーリングを知らないはずはないが、Jr.は成長した〝彼〟と対面したことがないため、脳が彼の認識を少々躊躇していた。呆然とするJr.に気づいた男は、「ああ、わかった」と合点がいったようににやにやと笑い、ガイナンと一寸違わぬテノールの声で言った。「おまえの姿に合わせてやるよ」
 男は何を思ったのか、自分の頭部を両手で掴み、手の内から赤紫のオーラを発しはじめた。白髪が赤く照らされ、意地悪い笑みに影をつくる。
「う、わああああ!」
 Jr.の絶叫は、爆発音とともに海底へ消えた。赤紫の禍々しいオーラが白髪をすべて赤く染めたとき、その波動が男の頭部を跡形もなく吹きとばしたのである。頸部から上を一瞬にして失った体は、生温かい鮮血を噴射しながら千鳥足で数歩進み、ぐらぐらと仰向けに倒れた。溢れだした血だまりが、てろてろとJr.の靴先まで到達する。マストの支柱に背中を押しあて、Jr.は絶句した。呼吸が引きつり、手足が震えた。出血の勢いが多少弱まった頸部から、トカゲのように真新しい頭部が生えてくる。髪と瞳の色は先程の男と同一だったが、今度の頭は幼い少年の大きさであった。忘れもしない貌だ。少年の首が生えきると、そこからまるで赤子が産まれるように肩、腕、腰、脚と、一人分の人体がずるずると這いだしてくる。それはJr.が本から抜けだしたときにも似た光景であり、吐き気を催したJr.は口元に手を当てた。可能であれば、悪い冗談だとせせら笑いたい。そうできない理由がJr.にはある。
「ア、アルベド……」満足に声も出ない。
「ちょっと待ってね、ルベド。今、これを始末するから」
 無邪気な笑顔を向けたアルベドは、低く跳びあがると、首なし死体を両足で踏みつけた。死体はゴムのようにぐんにゃりと潰れ、アルベドの体重で轢かれた蛙のように平べったく伸ばされ、最後には膨らみきった風船が割れるようにして皮が飛びちり、真っ赤な液体になって甲板を汚した。甲板の赤い水たまりが広範囲に広がり、船を囲む霧がさらに濃くなりはじめる。晴天の空も見えない無風の船上では、潮の匂いと波による船体の軋みが海の存在を思いださせた。アルベドは愉しそうに笑っている。
「ねえ、見て。君に切り離された右手がさ、今でも痛むんだ」
 アルベドの右手には、人間の五指ではなく鋼の鉤爪があった。まとわりつく霧ごと震駭するJr.を満足そうに見つめ、アルベドは「ああ、そうだ」と、間延びした声でJr.の注意を引いた。
「ロストボーイズには会えたかい? あいつら、君に会いたがってたよ」
「だれ、だ、それ」まだうまく声が出ない。
「あれ、会ってない?」アルベドが小首を傾げた。「おかしいなあ。裏ミルチアで待つように言ったんだけど」
「おまえ、が、チェシャ猫、なのか、アルベド。そうか、あの標準体も、おまえが用意したんだな」
 苦虫を噛み潰したようにJr.は呻いた。これは夢だ、とそんな言葉でアルベドを排斥できるはずもなく、十四年前の過ちに対する自責から、ひたすら受動的になってしまう。
「僕じゃないよ、君が用意したんだ。この世界は君のもの。君がいるときだけ、こうして動きだすのさ」
 言いながら、アルベドは鉤爪の歪曲した部分をJr.の首に引っかけた。細い首をマストからはがし、背丈の同じJr.を自分の頭上まで易々と持ちあげる。「ぐっ」Jr.の足が宙をかいた。自重で頚動脈を絞められる苦痛から、指で必死に鉤爪を引っかく。両眼の端々で、血液の配線が千切れている。
 異常なまでの腕力により、Jr.の体は宙ぶらりんの状態で甲板を移動させられた。船端から突きだした渡し板に着くと、アルベドはJr.を板の上に無造作に落とした。咳きこみながらも、細長い板から落下しないようバランスをとろうとするJr.を、アルベドが冷めた表情で眺める。海面から数フィートの宙に伸びた板は、Jr.の体重で不安定にしなった。ちょっとした衝撃でも真っ二つに割れてしまうかもしれない。
「ほおら、ルベド。海の中を覗いてごらん」
 宥めるような口調で、アルベドが言う。「ワニが口を開けて、君を待ってるよ」
 Jr.は足元の板から怖々と視線をずらし、言われた通りに海面を覗きこんだ。板の真下で巨大なワニが大口を開き、獲物を今か今かと待ち望んでいる。黄色く濁った目玉は片方ずつおかしな動きをしており、頭部に目覚まし時計がめりこんだ奇妙なワニ。回転する時計の針は、三時まで進むと逆回転を始め、同時刻でもとの回転に戻り、それを何度も繰り返している。
 Jr.が怖れたものは、喉奥まで肉を誘うワニの鋭い牙ではなく、その口腔に伏在する無限の意識体であった。「何でウ・ドゥが……」雨雲のように濃厚な紫の空間で、赤黒いものが轟々と渦巻いている。底は見えない。それが余計に恐怖を煽った。
「君に捨てられて、僕はそいつに食べられた。だから次は君の番、だろ?」
 アルベドが猫のように笑う。
さあルベド――〝Walk the plank.
「俺、俺は……」首肯するつもりが、かぶりを振っていた。アルベドの言葉を二度と拒絶したくない。それなのに、恐怖は切望よりも強く体を突き動かす。自分の中で純粋なものなど、恐怖くらいしか残っておらず、他ならぬおまえが言うなら、と心を決めても複雑ゆえに安定しない感情はいとも簡単に覆ってしまう。
「言い忘れてたけど」アルベドは指先でこつこつと鉤爪を弾きながら言った。
「ここでは君が息をするたびに、誰か一人ずつ死ぬんだよね」
 ええと、もう何人くらい死んじゃったかな。
 指折り数える内、自分の指が六本しかないことに気づいたアルベドは、残念そうに唇を尖らせた。ワニの目覚まし時計から聞こえる秒針の音が、Jr.をいよいよ心急かした。
 俺のせいで誰かが死ぬ?
 それが事実かどうかは別として、Jr.はすでにワニの内部で蠢くウ・ドゥにのまれていた。氷像のように立ち竦み、その氷が融けるようにして脂汗が渡し板の上にひたひたと落ちた。ウ・ドゥに釘づけにされた視線は、文字通り釘で打たれたように激しく痛む。
 どうしたの? アルベドが何か言っている。君の勇気は、見ている僕らのほうが怖いくらいだったのに。
 何か答えないと、何か。
「もしかして、こわいの?」
 アルベドの嘲弄に、Jr.の体が水となり波打った。それを見たアルベドは鼻で笑い、甲板の床に散乱する武器の中から、錆びたナイフを拾いあげた。ざらりとした切っ先を、鉤爪の根元に当てる。皮膚に赤い線が盛りあがり、次に粘ついた肉の音が軋んだ。切口からまたたく間に生温そうな紅い血が流れはじめる。肉はさほど柔らかくもなく、ナイフが少々曲がった。最も硬い骨の部分まで達すると、アルベドは左手にぐっと力をこめ、それを割るようにごりごりとナイフを突き進ませ、最後は皮まですっと切りおとした。ごとりと甲板に転がった右手には五指があり、掌に667の刻印がされていた。
 Jr.は何も見ていなかった。というより、見ていられなかった。船の縁から身を乗りだしたアルベドが、切りおとした右手をワニの喉奥に放りこむまで、渡し板の上で死刑囚のように硬直していた。右手がウ・ドゥの内部まで完全に沈み、やっとの思いでアルベドを見やるJr.の目に、鉤爪ではなくきれいな五指が再生したアルベドの右手が映った。掌の赤い数字が反転している以外は、完璧な右手である。
「飛びおりなよ、ルベド。死ぬことは、すごい冒険だぞ」
 アルベドは口を三日月形に開き、両手を広げてJr.を促した。とたんに足元の渡し板が無機質なフロアに変化し、珊瑚礁の碧海はウ・ドゥの波動が一面に蠢く底なしの穴に、霧の海賊船は不気味なネピリムの歌声に、一瞬にして変貌してしまった。Jr.の足が竦む。奥歯が鳴るのを必死に押さえた。冷静になれ。それは土台、無理な話だ。理性と本能がせめぎあう。
 アルベドがこんなことになったのは、俺のせい。だから、アルベドを救えるのも、きっと俺だけ。これも影が言っていた自惚れなのだろうか。だったら、俺は一体どうすればいい? アルベドの言う通り、この穴に飛びこめばいいのか。そうすれば、おまえたちへの贖罪になるのか? 俺は罪を償えるのか? それとも全部が夢なのだから、このアルベドも利己的な俺の自我なのか。
〝Walk the plank.
 意味は理解できる。わかるんだ。いや、意味だって? これは夢だ、意味なんてない。意味がないなら、どうでもいい。どうなってもいいじゃないか。アルベドが、それを望むのならば。
 ふらりと一歩、足が動く。
『自分を責めてりゃ、楽だよなあ』
 ウ・ドゥの海に映った自分の影から、呆れ声が聞こえる気がした。足がとまる。俺は怖いのか。何が怖いのだろう? 死ぬことだろうか。いいや、違う。本当に怖いのは、
『生きることだろ』
 影が言った。正確にはJr.自身が呟いていた。生きることが怖いなら、ここで飛びおりることを選んでも、俺の裏切りは続くんじゃないか? 死をもってしても罪は償えない。アルベドの望みは叶わない。飛びおりろ、アルベドはそう言った。アルベド? こいつは本当に俺の知っているアルベドなのか? そうさ、俺の知るアルベドだ。本物じゃない。俺の狂った脳みそが記憶をもとに再現した、アルベドという名の亡霊だろ。俺の悪夢を食らう代わりに俺の求める言葉を吐く、夢を巣にした獏なんだ。
「アルベド」
 汗ばんだ拳を握り締め、Jr.はウ・ドゥに背を向けた。焼死させる熱風のような威圧を背中に感じる。向かいあう者はアルベドであり、己の一部でもある。果たして暗部はどちらだろうか。Jr.に見据えられたアルベドは、うんざりした様子で肩を竦めた。毒気を削がれ、つまんない、と薄暗い歌声の天井を仰いだ。そうして、さらにうんざりした。
「また今度も、あいつが邪魔しにきたよ。いつまで経ってもルベドが臆病だから、こういう面倒なことになるんだ」
 アルベドの言葉をJr.が不審に思っていると、遠くでかすかな鈴の音が聞こえた。「もう、うるさいな」空耳かと思われた鈴の音は、どうやらアルベドにも聞こえているらしい。音は次第に近づいてくる。
「もしかして、ティンクか?」
 機嫌を損ねたアルベドの視線を追うと、天井部をくるくると飛び回る、木炭のような黒い光を見つけた。Jr.は戸惑う。自分の知るティンカー・ベルは金色に輝いていたが。薄暗い闇に紛れて見分けにくいが、靄のように黒々と灯った光も金色のティンカー・ベルのように鈴の音を鳴らし、炭のような黒い粉を振りまいていた。黒い光は銃弾のように天井から降下すると、鈴をかき鳴らしながらアルベドの頭上を一周し、アルベドを大いに苛立たせた。憂える音色を響かせながらJr.の懐へ飛びこんだ黒い光をむすりと睨んだあと、アルベドはぐっと瞼を閉じた。
「思いだせ、そして省みろ、ルベド。君には必ず、自分が犯した罪の代価を払う時が来る」
 忠告するアルベドの声も、ウ・ドゥの声なき咆哮も、Jr.の鼓膜まで到達するには遠すぎた。黒い光がJr.の全身に真っ黒な粉を振りまき、黒々とした靄がJr.と外界のコネクトを遮断している。靄に重量はないが分厚く、Jr.の視界は真っ黒に染まった。ウ・ドゥの暴力的な赤紫色も、アルベドの純白の髪も、寂しげなアメジストの双眸も見えない。肉体の感覚もなく、まるで自分が影そのものであるかのようだった。
 影の重なりとも思える黒い靄に支配される寸前、Jr.は自分の名を呼ぶアルベドの遠い声を聞いた。嘲りのない呼び声に、耳を澄ませる。
「いかれ帽子屋に気を許すな」
 その一言がJr.の感覚神経に辛うじて到達した直後、真っ暗闇を漂うJr.の意識は、本を閉じるようにぱたりと途絶えた。


「くそっ……頭いてえ……」
 瞼をあげると見慣れた天井があり、Jr.は二度瞬いた。はっきりと脳は覚醒しておらず、執務室のベッドにいる自分の状況を認識するのに少々時間を要した。軽く頭痛がする。
 室内灯は消えていた。旧時代の調度品も眠ったように静謐で、陸離として光彩を放つ市街のネオンが、窓越しの絨毯を濡らしている。夢を見たことが夢であるような、ひっそりとした夜である。
「ああ、目ぇ覚めたのか。ちくしょう、もう深夜じゃねえかよ」
 壁かけ時計は午前三時を指している。ベッドの上でやんわりと伸びをしたJr.は、自分の右掌をしばし見つめると、数字を額に押しつけるようにして顔を覆った。頭痛は治まらない。寝直す気分にもなれず、「酒でも飲んで仕事すっか」と寝癖のついた頭をかいた。数本ほど開けたところで文句をいう輩も今はいないと、私室のワインキャビネットを目指し、のろのろと体を引きずるJr.の鼻腔に、甘い蜂蜜の香りが届いた。渇いた喉には甘すぎる香りだが、空腹でもあるJr.には魅惑的である。かすかな甘い香りのもとを辿ると、ガイナンのワークデスクに置かれたティーカップを発見した。蜂蜜の香りを漂わせるカップの中では、赤橙と琥珀の二色が混じりあっている。カップの表面に触れてみると、まだじゅうぶんに温かい。横にはサモワールの湯沸かし器と、薔薇のレヴァニエが入ったジャム瓶もあり、なぜかチェアには見知らぬシルクハットがかけてある。
「ガイナンの奴、仕事前のティータイムなんて趣味あったか」
 何となくシルクハットを手にとり被ってみるが、大人物など当然Jr.には合わない。頭どころか首まですっぽりとはまってしまう。弟がこれを被った姿を想像し、Jr.は帽子の中で苦笑した。
 とにかく腹に何か入れたかったので、シルクハットの縁を鼻梁まで押しあげると、ジャム瓶の蓋を軽く回した。しかし、固くて開かない。強く回しても一向に開かない。物理学の原理でどう力をこめても、中身のレヴァニエが瓶の内側でどろりと上下するだけ、Jr.の能力をもってしても開かないのである。奇妙な瓶だ、とJr.は思った。しまいにはジャム瓶ごと叩きわりたくなったが、蜂蜜入りの紅茶が残っているので、薔薇のレヴァニエはもう諦めることにした。
 ほんのりと温かいカップを鼻先に近づけ、紅茶の香りを嗅ぐ。神経が麻痺しそうなほど甘ったるい。Jr.がカップに口をつけようとしたとき、それは何者かによって阻止された。高速で飛んできたボールのような黒い塊が、Jr.の手からカップを弾きとばしたのである。シルクハットも吹きとばされた。転がったカップから零れた赤い紅茶が、柔らかな絨毯の上にじわじわと滲入してゆく。それは絨毯の色と相まって赤黒い血痕のような色味になり、濡れた絨毯の毛は不思議なことに蛙へと変貌した。皆しゃがれ声で鳴きながら思い思いの方向へ跳んでゆき、するりと壁に消えた。
「何だありゃ、絶滅したはずの蛙が、何で―」
 唖然としていたJr.は、執務室に出現した謎の蛙たちを最後の一匹まで穴が開くほど凝視し、それから宙に浮かぶ黒い光を縋るように見つめた。
「黒いティンク、どうしてここに? もしかして俺、まだ夢を見てんのか?」
 それは確かに、夢の中のティンカー・ベルに違いなかった。光沢なく黒々と発光し、炭のような鱗粉を振りまいている。
 目覚めたとばかり思っていたのに。これは現実ではないのか? どうしたら戻れる? あの蛙は一体? おまえは誰だ? あまりに疑問が多く言葉も出ないJr.は、ティンカー・ベルの黒い光が次第に弱まっていることに気づいた。切れかけた電灯のようにちかちかと明滅している。
「おい、どうした。具合でも悪いのか?」
 心配になったJr.が光に触れようとすると、黒い光は突然ぶわりと発火し、輝く金色に燃えあがった。思わず手を引いたJr.が再び手を伸ばすより早く、黄金の炎はぶすぶすと灰色の煙を立ち昇らせ、残りかすのような煤に変化しはじめた。舞いおちる煤が、たちまち絨毯の上に積み重なってゆく。
 Jr.には状況が理解できぬまま、黒い光はあれよあれよという間に煤の山に姿を変えてしまった。ティンカー・ベルが焼死した。Jr.はそう思い、絶句した。理由はわからないが、自分のせいなのだろうか。何かしてはいけない行いをしてしまったのかもしれない。
 ひひ、ひゃははっ。
「誰だ!」どこからか不気味な笑い声が聞こえ、Jr.は叫んだ。条件反射から腰元に手が伸びるが、またもやホルスターはない。笑い声は煤の中から聞こえたように思う。Jr.は身構え、こんもりとした煤の山に近寄った。集積した煤の天辺から、吹きとばされたと思っていたシルクハットの角が覗いている。指先でその角を摘み、慎重に掬いあげてゆくと、シルクハットには思いもよらぬものが固着していた。
「ニ、ニグレド?」
 Jr.が煤の中から取りだしたものは、正確にはシルクハットではなく、それを目深に被ったニグレドであった。Jr.の親指と人差し指で持ちあげられたほどの重量しかないニグレドは顔面蒼白で、ふらりと倒れそうになる彼をJr.は慌てて支えた。触れた体はひどく熱い。
「ニグレド、大丈夫か!」
 ぐったりとしたニグレドを抱きかかえていると、十四年前の最悪の状況が蘇るようで怖ろしい。市街地の青いネオンがニグレドの顔を照らすと、青い血液でも注入したかのようにますます青ざめて見える。ルベド、と力ない声でニグレドは呻いた。
「あの紅茶には、毒が入っていたんだ」
「毒? 何だってそんなものが……」
 絨毯に転がったカップと、蛙たちの跳ねていった足跡を見やり、Jr.は困惑した。
「だけど、もう大丈夫」ニグレドが弱々しく微笑む。
「ひでえ面して、どこが大丈夫なんだよ!」
 悲鳴のように怒鳴ってから、悪い、とJr.は謝罪し、耳元での大声に顔をしかめたニグレドを優しく抱きしめた。Jr.の腕の中で深呼吸をしたあと、ニグレドは「薬はあるんだ」と囁いた。「どこに?」切羽つまったJr.の問いに、ニグレドはワークデスクの机上を指差した。「あの瓶だよ」
「薔薇ジャムが薬? わかった、待ってろ」
 理由がつかない事実の究明よりもニグレドを助けることが先決である。Jr.はニグレドをベッドに横たえさせると、デスクのジャム瓶を引っ掴み、また固い蓋を回した。やはりびくともしない。「くそ、何で開かねえんだよ!」能力を発動しても何ら変化のない瓶を、Jr.はブルーの瞳を皓々と発光させたままデスクに叩きつけた。それでもジャム瓶は割れない。赤いレヴァニエが、瓶の内部で踊っている。
「もういいよ、ルベド」
 幼子をあやすように、ニグレドが穏やかに囁いた。瓶の蓋に全力を傾けていたJr.は、諦念を帯びた翠色の双眸に見つめられ、言いようもない絶望に襲われた。
「もういいとか、言うなよ……頼むから、そんなこと言わないでくれ!」
 どうにかして開けようと躍起になり、蓋を何度も爪で引っかいた。瓶の蓋は貝のように強固で、焦燥がJr.の冷静さを奪ってゆく。開かない。開かない。たかが瓶の蓋なのに。「ちくしょう、何で!」開かねえんだ。開け、開け、開いてくれ!
「待ってろ、ニグレド―すぐに開けてやるからな―今、薬をやるからな!」
 待ってろ。ほとんど泣きそうな声でJr.は叫んだ。爪が欠けても瓶は割れない。薔薇のレヴァニエはとろけた心臓のようになり、内部でどろどろと脈打っている。
「ルベド、僕なら平気」ニグレドは力なく微笑んだ。「今はとっても悪いけど、時には良いだけになるよ。あっちになるか、こっちになるかだけなんだから」
 どういう意味だ。Jr.の問いより早く、ニグレドが手招きする。開かないジャム瓶を掴んだまま、Jr.はベッドの側に屈みこんだ。ニグレドは自分の被っていたシルクハットをJr.に被せ、憂慮を湛えたコバルトの眼差しをやんわりと隠した。「ニグレド?」不安に晒された声で弟の名を呼ぶ。ニグレドはJr.の手からジャム瓶を取りあげると、やっぱりね、と嘆息した。
「この瓶、今の君には開けられない。僕らの秘密がつまっているから」
「僕らって何だよ、その中に俺は入ってねえのか?」
 シルクハットの中から唯一外気に触れている口でJr.は訊ねたが、ニグレドからの返答はなかった。鼻梁まで被さってくるシルクハットを脱ごうとしても、ニグレドが押さえているのか一向に持ちあがらない。見えるはずのものが見えない状態にいると、余計に不安が増してしまう。ニグレドの安否が心配でならない。
『忘れるんだ』
 奇妙な音量の声がした。外耳や中耳を通さず、耳の最深部である蝸牛に直接届いたような、脳を直に刺激するような声。頭の中央にまっすぐな糸が張られ、ぴんと弾いたその音を聞いているような感覚にJr.は陥った。ぐわんぐわんと声が内部で反響する。
『これは夢、悪い夢なんだ。だから、君が苦しんだり悲しんだりする必要はないんだよ』
 麻薬のような響きをもつ声である。脳全体に張り巡らして弾かれた糸が、Jr.の精神を緩やかに支配してゆく。「あ、なん、だ……?」
『眠るといい。大丈夫、僕がついているから』
「ま、まってくれ……俺、おまえに……」
 呂律が怪しい。手探りでニグレドの頬に触れると、シルクハットを首まで深々とおろされた。目を開けているのか閉じているのかさえ判断できなくなったJr.は、今や自分がベッドに横たわっていることにも気づかない。ニグレドにシーツをかけもらうと、意識の灯りを消されたように猛烈な睡魔に襲われた。全身がベッドに沈む。
『おやすみ、Jr.』
 Jr.が意識の底で最後に聞いた声は、ニグレドのものにしては低く艶のある声であった。だが、それも急激に遠のく。夢の世界から消えさる自分の道連れのように、Jr.はニグレドの服の裾をしっかと掴んだ。自分以外の意識に包まれる安らかな心地を感じながら、Jr.はさらに深奥の眠りの世界へと落ちてゆく。頭の片隅でJr.は思う。それは今度こそ、苦痛も悲哀もない、そして快楽も歓喜もない、死の果てにあるような無の世界なのだろう、と。