溺れる魚 1


Timeline: Flashback of one day at YURIEV Institute



『わたしの犯した罪は海辺の砂より多く、咎は増しました。主よ、増し加わりました』
 紙の本を読んでいた。それは分厚い書物で、作者は不明、発行日も不明、タイトルさえ褪せた本だった。しみや虫食いだらけの乾いたページで理解できた文体は数少なく、まるで呪文のような世界が存在するだけ。装丁も中身も古臭い、父親の書斎の奥深くに埋もれていた、数ある古書の内の一冊だった。
『わたしは天の高みを仰ぎみるにはふさわしくありません。多くの悪事を行ったからです』
 内容も理解できないまま開いた、とあるページ。何度も繰り返される〝sin〟の文字は、ひどい損失もなく綺麗なまま、タイプライターなる古代の道具で打ち込まれたアルファベットたちが、セピア色の羊皮紙上に乱れなく、単純な記号の群れとして羅列していた。ページの箱庭につめこまれ、人の脳内で都合良く管理される。まるで自分のようではないかと、少年は皮肉った。
『わたしは多くの鉄の枷で引きすえられ、罪のゆえに、頭をあげることができません。わたしには、安らぎがありません』
『罪を犯しました。主よ、罪を犯しました』
 そこで言葉は途切れていた。虫食いでもページの破損でもない。黒い文字の一行が白いインクで乱暴に塗り潰されていたのだ。昔の読者が塗抹したのだろうか、しかしその跡はまだ真新しい。意味なす文字たちを掩蔽する白は、羊皮紙上で余計にその存在を主張していた。
 その先を含め、データベースを漁りながら読みおえるまでに、多少の日数を要した。二人の弟と庭園で遊べるようになった頃には、大方の内容を理解できた。U.M.N.ダイブミッション・フェーズ6―一人きりで世界を統治する少女と出会う前夜には、どの一節も暗唱できるようになっていた。
 あの日、初めて聖書を読んだ。


 T.C.四七四二
 屋内庭園のベンチに腰かけていたルベドは、最後のページをめくって裏返すと、それを頭上の空にかざした。ザバロフの太陽が、天窓の向こうから薄い羊皮紙を透かせる。黄ばんだ紙の色が抜けると、空の青が染みこんだような色になった。室内では見ることのない色が、乾いた瞳を潤してくれる。白いインクの裏側で反転したアルファベットの羅列を睨んでいると、何かの影が日蝕のように太陽を遮った。屈折した太陽光が、虹色の鎖になって瞳の奥へ伸びてくる。
「おめでとう、ルベド!」
 見上げた真っ暗な空から、指先ほどの小さな羽根が無数に舞いおちてきた。思わず何度か瞬くと、睫毛に柔らかな綿毛が触れた。螺旋を描きながら視界を踊る羽根は白く、太陽を遮る影との対比が美しい。
「ありがとう、アルベド。何のことだか知らねえけど」
 ベンチの裏から自分を見下ろすアルベドにそう言うと、アルベドは逆光の中で紫の瞳をきらめかせ、掌でルベドの頬を包みこんで「あの人がね」と早口に言った。アルベドにとっての〝あの人〟とは、彼が苦手としているディミトリ・ユーリエフに他ならない。「今日から僕らも、この庭で遊んでいいって。ルベドがずっと説得してたからでしょ?」
「そのことか」とルベドは頷き、アルベドの掌をやんわり払った。上を向いた首が限界に達したからなのだが、アルベドは少々機嫌を損ねたらしく、むくれ顔でベンチの背もたれに頬杖をついた。ルベドはもとに戻した首を軽く鳴らすと、膝上の本に視線を落として言った。
「洗練された環境美での有意義な休息、それによる演習効率の上昇割合や精神波長の安定効果―そこら辺を実証すりゃ、親父だってノーとは言えないだろ」
 痛んだ背表紙の上で、白い羽根が小船のように揺れていた。吐息を吹きかけるだけで、ふわりと軽く舞う。それを二人で眺めていると、アルベドはおもむろに舞いとぶ羽根を掴み、拳の中で握りこんだ。開いた掌から、潰れた白い残骸がちらちらと地面に落ちてゆく。
「あのさ」白い鳥もそうして捕まえたのか。
 ルベドの問いは喉奥から進もうとしない。どうしてだろう、と疑問に思う。鳥たちが空を泳ぐ外界と自分たちがいる施設とは、外壁と天窓で完全に隔離されている。それにも関わらず、地面に散乱する無数の羽根を、弟は一体どこから調達したのだろうか。
「僕、ルベドなら本当にできるって信じてたよ。でもさ、どうしてこんなところで遊びたいの? 外で読書がしたかったの?」
 ルベドの思考が定まるより早く、ベンチの背もたれから身を乗りだしたアルベドが小首を傾げた。不穏な思考が一気に霧散する。まあいいか、アルベドの機嫌が良いなら。
「まあ、それもあるけどな。ニグレドの最終調整が完了したら、三人で広々と遊べる場所が欲しいだろ」
 実験棟内で走り回れば、研究員から厳重な注意を受ける。威圧的で殺風景な個室やダイブルームでは、息がつまりそうにもなる。うるさい監視の目がない場所で、邪魔されることなく仲間と一緒に過ごしてみたい。庭園に咲く色鮮やかな花々や、水飛沫をあげる噴水と虹、天窓の外を優雅に泳いでいる渡り鳥、降り注ぐ太陽の暖かな日だまり。日々を個室とダイブルームの往復で終わる標準体も、こうした真新しい輝きを知れば何らかの変化があるかもしれない。自分からのアクションに何の反応も示さない日常が、多少なりとも改善されないだろうかと、心温まる小説に登場する兄弟のようになれはしないだろうかと、夢見がちなルベドは密かな希望を抱いていた。
「おまえ以外は、興味なかったみたいだけど」
 一切の不純物を排除した整然たる庭園は、以前と変わらず閑散としており、ルベドとアルベドの他に子供らしき人影は見当たらない。暖かな陽気が心地良い昼下がり、今日の演習はとうに終了したにも関わらず、この結果である。
 結局、この程度のものなのか。これだけの存在なのか、俺って。
 書斎に出入りする許可が得られたのは偶然だが、実験棟の出入り、緑地の開放は、インスティテュートの最高責任者である父親と直談判して手に入れた初めての自由である。しかし、その自由に何の意味があるのだろう、と拍子抜けしてしまう。己の力で他の個体に影響を与えるどころか、自分ですらそれを体良く使いこなせていない。せっかく広々とした場所にいるというのに隅のベンチで縮こまり、個室のベッドにいるときと変わらず、黙々と読書に耽っている始末なのだから。
 悔しさがルベドの鼻腔をついた。背表紙の上に乗せた拳に汗がにじむ。自分の行動に唯一反応を示してくれた弟に情けない顔を見られるのが嫌で俯くと、アルベドの間延びした声が聞こえた。
「へえ、新しく製造されたNo.669―あれ、ニグレドっていうんだ」
「黒髪だからな。俺は赤で、おまえは白だし。ユングの『心理学と錬金術』にあったよ」
 ルベドは取り繕うように笑った。頬杖をついたアルベドの眼が、ルベドの奥まで探ってくる。早鐘を打つ鼓動も、アルベドに聞こえているのかもしれない。なぜなら、自分にも背中で癒着していたアルベドの鼓動が聞こえるのだから。自分たちはつながっている。標準体にはない絆があるのも二人だけだ。何よりも互いが大切で、それ以外に何も要らない。アルベドはそう思っているだろう。もちろん、ルベドもそうだ。ただルベドの場合、大切なものが増えれば嬉しいと思う。好きなもの、愛しいものが増えると、それだけ人生も楽しくなるのではないか。
 ルベドにとって、その一つは紙の本だろう。そして、今度は新しい弟が増える。他にも、まだ知らない外の世界や会ったことのない母親、感情の芽生えた兄たち、かわいらしい女の子―今は純粋でしかない欲が石榴の実のように弾ける。そうしたものすべてを欲しがる自分は、やはり傲慢なのだろうか。
 兵器として欠陥があるということは、研究員の態度から窺いしれる。どのような位置づけの存在に対してならば、自分は完璧になれるのだろう。自分の居場所はどこにあるのか。鬱々とした気持ちで、ルベドは弟を見つめた。アルベドは庭園中央にある噴水を眺めている。水飛沫をあげる水は流砂のような音を鳴らし、水の反射がアルベドの瞳できらめいていた。紫の双眸の奥に沈む心臓が、自分の右胸で脈動している。心地良い。ここが俺の居場所だよな。そう安堵させてくれる心音である。
「黒だか灰だか知らないけどさ、その変異体、稼動したばかりなのに調整室でルベドのまねして本を読んでるんだよ」
 さも気に食わないという顔で、アルベドは唇を尖らせた。ルベドは外見より多少幼い面影を残した弟に苦笑し、その白く柔らかな頭を撫でた。
「あれは俺が薦めたの。『ロランの歌』を手にいれたとき、仮調整段階のあいつも解読を手伝ってくれたから。まだ色々と動き辛い時期にさ、優しい奴だよ。早くニグレドも一緒に遊べるといいよな」
 陽が当たると透明に艶めくアルベドの髪を梳きながら、ルベドはつらつらと考えた。目を覚ましたニグレドは、この庭園をどう思うだろうか。ここに咲く色鮮やかな花々を、美しいと感じるかな? 噴水と虹は? 優雅に空を泳ぐ渡り鳥は? 暖かな日だまりは? 三人で遊ぼうと手をつないだら、どんな顔をするだろう。
 ほんの少しでもいいから、自分と同じように感じてほしい。バラを見てきれいだねと、食事をしておいしいねと、本を読んでおもしろいねと、共感できる相手がほしい。もちろん、ルベドにとってアルベドこそが現時点でその相手なのだが、アルベドの場合、そうした共感にいたる直前で、わずかなずれが生じてしまう。
 ルベドが『この花、きれいだな』と白いバラを見せれば、アルベドは『ああ、本当だ。この棘はちぐはぐに見えて均等だ』と茎を見る。ルベドが『やっぱり飯はうまいな』とスープを飲めば、アルベドは『うん、点滴より早く済むしね』と肉にフォークを突きさす。ルベドが『あの本、おもしろいだろ』と貸した本のことを言えば、アルベドは『そう、汚れを拭けるよ。だけど枕には硬いな』と笑う。本は二度と返ってこない。
 それらの差異は、会話の渦に巻かれて霧散するような限りなくゼロに近いものであり、されども決して無ではない。知らぬ間にナノ単位で堆積され、手遅れになるまで知覚できないような齟齬である。己の片割れであり、自分にとって最も近しい存在であるアルベドに、こうした現象が起こることは不可解だが、それでもルベドにとって大事な双子の弟であることに変わりはない。ニューラル・モニタリングでのシンクロ率も、現時点では常に九九パーセントを維持している。些細なことは関係ない。二人をつなぐ絆を信じている。
 案の定、アルベドからの返事は、ああそう、と素っ気ないものであった。アルベドはルベドの隣に座り、そんなことよりさ、と足を揺らしてにこにこ笑った。
「今日のこと、二人だけで祝おうよ。ねえ、ルベド、何が欲しい?」
 ルベドの鼻先まで顔を近づけ、アルベドが覗きこんでくる。
「何が欲しいって、急に言われても……」
 自分が欲しいものなど、脳内で羅列したリストの通り、どうせ手に入らないものばかり。その中でニグレドという弟や、アトリウムに出入りする許可も得られたのだから、手の届く範囲で他に望むものなど、もう思い浮かばない。
 おまえがいれば、それでいいかな。そんな当たり前のことを、面と向かってアルベドに言うのも気恥ずかしい。当の本人は、零れ落ちそうなほど大きな紫の双眸を輝かせ、ルベドを見つめている。この期待に沿いながら、なおかつ弟が用意できる程度のものを導きだすのは至難の業である。
「鳥なんてどう? 好きだよね」
「好きだけど、俺、鳥より魚が好きかも。実物は見たことねえけどさ」
「魚なんて、水中でしか生きられないんでしょ」
「鳥だって基本は空中でしか生きられねえだろ。それに比べて魚は、人類がついぞ到達できなかった深海にも棲息してたんだ」
「ふうん。だけど、ここに深海なんて場所はないね。まあ、そこの噴水があるか」
「深海魚は真水じゃ生きられないんだよ。海っていう塩の水で満たしたとこじゃねえと」
 そうした理由で、鳥と魚は却下された。明日、俺の代わりに報告書を作成してくれだとか、親父の眼鏡を盗んでこいだとか、ルベドがくだらない頼み事を考えはじめた頃、アルベドが嬉々として声をあげた。答えをだすことが面倒になっていたルベドは、弟の気が変わったことを期待して「何だ?」と先を促した。アルベドが、にこりと笑う。
「僕をあげる」
 束の間、ルベドは時間が静止したような錯覚に陥った。高らかな鳥のさえずりや、地面の溝を這う水のせせらぎ、ドロイドの緩やかな稼動音、すべての動きと音を奪う沈黙の波が、屋内庭園ごと自分たちを攫っていったかのように奇妙な感覚に囚われる。
 歪曲した空間から脱出して瞬くと、真っ白な髪に目が眩んだ。自分の耳を疑う。「……は、アルベドを?」
 上擦った間抜けな声が口から漏れた。簡単な単語であったにも関わらず、アルベドが口にした言葉の意味はまったく理解できない。ルベドが眉をひそめても、アルベドは自分で素晴らしい提案だと思っているらしく、満悦した様子で頷いた。
「いいでしょう? 君が好きだって言ってた白い髪と紫の眼も、右手も、声も、頭も、心臓も全部、君のものだよ」
 自分の部位を両手で指折り数え、アルベドは愉しそうに右手の拳をルベドの胸に押しつけた。その瞳は相変わらず星のまたたきのようで、奥にはダークマターのような闇が移ろっている。制服越しの拳に空気を抜かれたように長いため息を吐き、ルベドは脱力した。馬鹿らしい。「ばか、いらねえよ」とかぶりを振る。「そんなことしなくても、いつも一緒にいるじゃねえか」
 常日頃から自分の傍にいる相手を贈られても困る。愛玩動物のように首輪を装着し、束縛しておけとでもいうのか。それではインスティテュートの研究員がU.R.T.V.を扱う態度と大差ないだろう。俺にとって、アルベドは物じゃない。おまえにとっての俺だって、そうだろうが。胸の右手を押し返して贈りものを渋るルベドに、アルベドは奇異なものを目撃したように怪訝な顔を見せた。
「いつも一緒にいるんだから、僕がルベドのものでも大丈夫じゃないか」
「そりゃ、まあ、そうだけど……?」
 まるで世界の常識を諭すかのようなアルベドの語気に、ルベドは不覚にも気圧された。そういう問題ではない、と言い返すつもりが、持ち前の強気を挫かれ、あからさまに狼狽してしまう。
 ああ、またか。ウ・ドゥ・シミュレーション内に転がった標準体の遺体を、二人でダイブルームへ運搬するときもこうなった。皮膚まで白骨化したように硬い体、温かさの欠片もない寒々しい温度、掌にべっとりと張りついた血、ぼろぼろと転がりでた内臓。つい先程まで行動していた生物から決定的な何かを抜きとられたそれは、確実に別の物体へ変貌しており、ルベドという存在のすべてが、それらの現象を拒絶していた。震撼と戦慄で体は役立たず、視界の靄がシミュレーション内を充満していた。ひどい吐き気に見舞われもした。それなのに、アルベドはルベドのように恐怖や嫌悪の感情ではなく、何度でも修復可能な道具か何かを眺める眼で、残念そうに「あーあ。失敗しちゃったね」と笑った。その上、管制室の父親や研究員までもがアルベドと同じような眼をしていたものだから、そのときのルベドは周囲と異なる自分の感情のほうが不可解であった。
「じゃ、決まり」
 言葉を濁して身をひいていたルベドに、アルベドは有無を言わさぬ様子でにじり寄る。吐息の温もりが届くほどの距離でルベドが押し返した拳を広げると、667の赤い数字が主人の顔につられて笑っていた。ルベドと同一ではない、たった1だけ違う数字。その右手がルベドのものと緩やかに握り直され、アルベドは小指だけ拳の外に残した。
「ほら、約束しよう」
「あ、それ」
 ユビキリか。ルベドは古代の風習をまとめた書物の内容を想起した。大略すれば眉唾ものの口承をもっともらしく書記したものであったが、単なる証文よりも重々しい約束方法に衝撃を受けた覚えがあった。アルベドの小指と自分の小指が絡まりあう様子を、他人事のように見つめる。冷温の両極を感じさせる指先は、蔦のように、鎖のように、二人の熱をつなぐ。
 俺たちの底にある硬質で過重な磁極は、不可視の力で劇しく引きずりあう。自分の底にある磁力の重みに、ルベドは一度だけ身震いした。
「もしも僕が君のものじゃなくなったら、僕の指だけじゃなくて、頭の天辺から爪の先まで、切り刻んで構わない。その鳥よりも、ぐしゃぐしゃにね」
 地面に散乱する鳥の羽根に、ルベドは目を向けられない。磁石のように、アルベドの微笑みから目が離せない。これは、インスティテュートの中で最も美しいものだ、とルベドは思っている。どんな物質よりも純度が高く、そこに濁りなど見受けられない。赤い髪だから〝ルベド〟、白い髪だから〝アルベド〟だなんて安易すぎると文句を垂れたこともあるが、アルベドはその名の通り真っ白な存在なのである。しかし、その白さには赤く錆びた自分の醜さがまざまざと映しだされ、白に染まれと強迫されているようでもあり、純粋に美しいものを斜に把捉してしまう自分が嫌で仕方ない。そうした純白に目を眩ませていたものだから、その瞬間のルベドは、おそらくまともな思考が働かない状態であったのだろう。
「だから、君が僕を捨てたときは僕もそうするね」
「あ、ああ、わかった」
 情報処理能力が急激に低下し、思考は寂々と停止。空言好きな口は、わかりもしないことをわかると言う。これは後々、名を変えたルベドが自覚したことだが、自分の口はとても上等な二枚舌で、虚偽・虚構・妄説といったメニューならばお手のもの、誰よりうまく調理できるようだ。父親のDNAの中でも色濃く受け継いだ部分だろう。
 絡めた指先が頼りなく揺れる。二人の小指など、関節と逆に曲げるとぽっきり折れてしまうような脆いものなのに、儀式のような行為は、何者にも裂けない空気をまとっていた。
「よおし、これで僕は君のものだ」
 アルベドは満面の笑みを湛えている。ルベドの内には、嵐のように鳴動する呼吸がある。その額にアルベドの額が触れた。温かすぎる熱に、どちらともなく寒気がした。
「ずっとずっと大切にしてね?」歯列から覗いた咥内で、赤い舌が濃艶に笑う。
「手離さないでね?」鼻筋で区切られた紫の底を、深淵が撫でる。
「失くさないでね?」陽光に反射する前髪が、白を超えて目を焼く。
「僕以外を見ないで」
 君の赤に映る未来を、僕におくれ。
 アルベドという白い物体の奥まった部分から、そう囁きかける声が聞こえた。
「ずっと一緒だよ、ルベド」
「ずっと一緒だ、アルベド」
 絡ませあった小指を揺り動かし、二人は誓いを立てた。それはまるで禁じられた密約のように思え、千切れた痕の背中がむず痒く、つながる心悸が高揚していた。触れあう額の熱は冷めない。互いの睫毛が掠ると瞳の焦点が暈けてしまい、アルベドの笑顔も滲んだ。呼吸と微香は、鋭利さを増してゆく。煮えたぎる鍋のように蕩けた頭のまま、ルベドは絡んだままの指先を見つめた。
「ユビキリって、無慈悲だよな」
「そう?」
「だってさ、小指を切りおとす上に、一万回も殴られて、最後には針を千本も飲まなきゃいけないんだぜ。そんなこと本当にしたら、死んじまうよ」
 たった一度の裏切りで、これほどの罰を受ける必要があるのだろうか。〝悔い改めよ〟と導きのもと、大人が神に赦しを請う儀式を行っていた外側で、子供たちが残酷な契りを何気なく交わしていたと思うと背筋が寒くなる。一度でも罪を犯してしまえば、悔い改め、自分の弱さや愚かさを正面から認めるにいたらず、もう二度と赦されることはないのである。やり直しはできない。約束するための小指は、切りおとされてしまうのだから。骨ごと一気に切りおとされる感触を想像するだけで、ルベドの小指は情けなく震えた。その振動を受けたアルベドの小指には、ますます力が加わる。アルベドは無邪気な笑い声をあげた。
「ルベドったら! それが嫌なら約束を破らなきゃいいじゃない。ね、簡単! それに僕ら、そんなことじゃ死なないでしょ」
「まあ、そうだよな。約束を守ればいい……」
 額から伝わる熱で浮かされたように、いまだ思考は朦朧としている。白い霧が立ちこめる外耳道を、アルベドの言葉が波となり、ルベドの奥に流れこんでくる。途中でどこかの一言が鼓膜に引っかかる気もしたが、それはすでに音の形を成していない震動であった。その言葉、その約束、その存在の意味を、
「ゆーびきった」
 今になって思い知るのだ。