溺れる魚 2


Timeline: EP1, Durandal on the way to the point Woglinde got lost




 T.C.四七六七
 水素も塵埃も存在しない。ラピスラズリのような惑星が自転していたはずの黒く凪いだ静謐の海で、デュランダルは赤く壮麗な体躯を泳がせていた。まるで磨きたての鏡のような深紅は滑らかに艶めき、それそのものが鋭利なナイフのようである。クーカイ・ファウンデーションの核は、マザーフレーム『ピエタ』の名のごとく、我が子に対する母の無償の愛と、無慈悲に弾丸を乱射するライフル銃の平等さを兼ね備えている。『この宇宙にデュランダル以上はない』とは、この戦艦を初めて目にしたJr.の私見だ。完成された美を手懐け、なおかつ己の命を預ける。支配と信頼の天秤を考えると、彼はあまりの恍惚に目眩がしたと言う。
「船首回頭! これより本艦は、連邦艦隊遭難ポイントへ向かう!」
 槍のような突端に位置するブリッジでは、狼ではなく羊が吼えるような声で艦長のJr.がクルーに指示をだしていた。彼を囲む女性たちは、各々のコンソール席で艦長の指示を復唱し、巨大な赤い手足を操作する。小さな主人の命を受けた赤い人魚が、黒い海中で方向を定め、目的地に向かって泳ぎはじめた。
 広大な宇宙を眼前に配したブリッジの艦長席で、人魚を宥めるように赤いコンソールを愛撫したJr.は、惑星アリアドネ消失事件について思案していた。この惑星を手品のように消しさった連中で、例の遭難した連邦艦隊に搭乗した者がいる。それならば、そのヴォークリンデの残骸から何らかの鍵が発見できるかもしれない。現場から何も採取できないのだから、そちらに賭けてみるのも悪くはないだろう。この事件やグノーシスの襲撃からして、残滓のみではなく〝最後の贋作〟自体がそこにある可能性も否定できないのだ。
「到着次第、調査を開始する。シェリィ、曳航用のワイヤ準備とシークェンシング・プライマーの確認を頼む。このポイントは特殊データで処理してくれ。メリィは俺の調査に同行な。それまでに、回収班とサルベージのフェーズ移行を完了してくれると助かる」
「了解しました」
「はいな、ちび様」
 姉妹に指示を出しながらレベーターの昇降パネルに乗るJr.に向け、メリィはにっこりと敬礼をした。信頼の置ける優秀な部下たちへ、Jr.は振り向くことなく右手を挙げることで礼を言った。パネルは真下に落下するようにして無音で下降してゆき、やがてJr.の赤い頭部も床下に沈んで見えなくなった。
「なあ、シェリィ」
 Jr.の姿が視界から消えると、メリィは不思議そうな顔で人差し指を頬にあてた。こめかみに垂れた金髪が、さらりと明るく揺れる。
「アリアドネに着く前の戦闘でな、ちび様の古式銃が珍しくジャムってん」
 メリィの知る限りでは、射撃の腕に関してJr.の右に出る者などいない。何しろ、投げたコイン一枚一枚まで確実に命中させられる腕前で、大抵の兵士やグノーシスであれば急所の一発狙いで始末してしまうのだ。Jr.は精神的に相手をなぶること、不必要にいたぶること、過度な尋問なども本来は嫌悪しており、まるで祈るように敵を撃つ。それがメリィには美しくも空怖ろしく映る。彼の懐古趣味を潔癖とまではいえないが、古式銃や古書に対し、それに近い信仰のような美的情操を抱いていることもメリィは知っていた。興味のあることに関しては非常に几帳面な性格であり、銃の手入れも欠かさない。だからこそ驚いた―あの兵器が、あの主人を拒絶したことに。
「完全な兵器に意思はないわ」
 妹の思考を読みとったように、シェリィはさらりと呟いた。コンソール上を滑りつづけるなよやかな指先はピアニストのように洗練された動きで、メリィは藤色の髪から透ける十本のそれを無言で見つめた。
「あれはちび様の力で武器となりえるものだから、ちび様の心次第で役立たなくなる場合もあるのよ」
 メリィは真っ青な瞳で目を丸くした。
「あの銃やのうて、ちび様のほうが拒絶したってこと?」
 メリィの中でJr.といえば、常に前方を見据えている男である。立ちはだかる現実がどんなものであろうと、目を背けない―というより目を背けることができず、苦痛に耐えながら直視するしかできない男。メリィが庇ってやりたくなるほど痛々しい彼は、理不尽に瞼を閉じることも、罪悪に顔を俯けることも、苦痛に首を捻ることさえできない。何がJr.をそこまで追いつめるのか大体の予測はできるが、それは自分が介入してよい領分ではないのだろうと思う。数多の危険から姉妹を守ろうとする彼は、姉妹に背を向け、常に苦痛の側に目を向けている。未来を楽観視もできず、浅はかな期待も抱かず、敵でなくとも威嚇し、常に銃を構えている男。ふいに見せる痛ましい笑顔でさえ、自分で噛み砕いて笑い直すような男。傷つけられる前に傷つけることを選び、自ら責めを負う男。Jr.の破壊的な脆さもメリィはじゅうぶんに理解しているつもりだが、それ以上の自虐的な強さがJr.の印象としてあった。
 今回の拒絶がJr.の精神に負荷をかけた結果であるならば、それは彼を補佐する自分の失態である。マニキュアを塗った爪が、掌に食いこんだ。
「あの敵、ウチが始末するべきやった」
 ブリッジの百式たちには聞こえない小声で、メリィは唸った。
「そんな顔しないの」
 シェリィが彼女の眉間に人差し指を押しあて、優しく微笑む。メリィは姉の気遣いに感謝した。そうでなければ今頃、自分の頬には情けなく涙が伝ったに違いない。Jr.を守れなかったことは悔しいが、彼に子供っぽい自分を晒すことは、それ以上に悔しい。


 すれ違う作業員たちにも的確な指示を伝達しつつ、エリア間を移動するシャトルを利用したJr.は、デュランダル内の居住区にある自室へと急いだ。異質なほど生活感がないガイナンの執務室と異なり、Jr.のデュランダルにおける私室はお世辞にも片づいているとは言い難い(コロニーの私室はベッドと本棚だけの味気ない空間なのだが)。ベッドなど古書の山積が崩落し、子供一人が眠るスペースをやっと確保できるようなありさまである。
 自室で他者の目がない場合、Jr.は胎児のように丸まり、呼吸する鉱石のように眠る。母の子宮も羊水も知らないが、不思議とそれが最も安眠できる体勢なのだ。悪夢を見る日は大抵、ブーツを脱ぐのも億劫なままベッドに倒れこむ夜で、そうしたことからも大の字でベッドを占領するよりは古書に埋もれていたほうが安心できた。ここ最近となると、まとまった睡眠を摂取した覚えがない。シーツも以前に跳ねのけたまま、読みおえた古書が塔のように積みあがるばかり。ルキアノス、シラー、チェスタトン、イヴリン・ウォーと節操のない塔には、電源が入ったままのヘッドギアが金鎖のように絡まっている。薄めのラグを敷いた床にも、使いかけのナノスプレーや飲みかけのボトルが転がっていた。治療用のナノマシンをつめこんだ箱にはチューブ薬の他にテーピングやサポーターがあり、もともとは白であったろうガーゼには、乾いて茶色くこびりついた血痕がある。体から乱暴に拭った血痕の数々は、簡易浴室やゴミ箱にも放りこんであった。仕事用の端末類と数種類のカプセルや錠剤が散乱したデスクは、この中ではまだ整理されている。古書のために空調だけは気を配られて清潔な空気を保っているが、空調システムが最高品質のものでなければ、浴室に放置された衣服に染みこんだ硝煙などの異臭が、部屋中に充満していたかもしれない。コロニーの二十七市街区画にあるクリーニング店の女将さんが部屋を覗いたならば、金切り声でJr.を叱り、彼の汚れた服を引っ掴み(もしくは彼ごと)、それらを可能な限りの素早さで洗濯機につめこむことだろう。
 ベッドとデスクの他には、部屋の中央に読書用のカウチが一つ、角に古式銃のメンテナンス用品を揃えた棚が一つ、それだけの部屋。冷蔵庫の中身は水とサプリメントだけで、パンの欠片すらない。そんな自室を改めて見渡すわけでもなく、Jr.はロングコートをベッドに脱ぎすて、浴室のほうに歩きつつ頭からインナーを脱いだ。肌に密着するインナーの脇腹部分には、赤黒い血液がじわりと滲みだしており、その下から少年の柔肌が外気に晒された。肋骨が浮きでるほど肉づきの薄い脇腹を、そろりとさする。疼きに近い痛みを感じるものの、傷自体はナノ治療で処置されているので、すでにミミズが這うような肉厚の跡になりかけていた。傷に触れながら、息吐く程度の安堵感と巨大な虚無感を感じたJr.は脱力した。脱いだ服を浴室の自動洗濯タブへ乱暴に放りなげると、カウチにぐったりと身を沈め、腰に巻いたままのホルスターから二丁の古式銃を抜く。コルトSAAの木製グリップは紅茶のように変色し、トリガーの隙間にも乾いた赤錆のようなものがこびりついていた。S&W・M36の銀のバレルにもぬめりの失せた血が貼りつき、プラチナの輝きを損ねている。メリィたちには隠し通したものの、ひどい状態である。
 Jr.は幽霊のように起きあがり、角の棚に移動した。棚にある道具を一瞥すると、オイルに防鎮剤、洗い矢、研磨剤など必要な道具を運びだし、カウチで銃のメンテナンスを開始する。細かな金属音を鳴らし、手持ちの銃を順番に分解する。スライドストップ、バレル、チャンバー、ノズル―熟練した手捌きで作業を進める内、トリガーから先の分解は必要ないと判断したが、カートリッジを取りだしたところで手をとめた。「くそ、もう血糊が固まりかけてやがる」
 もはや黒い血で覆われた部分のほうが多いカートリッジを眺め、Jr.は小さく舌打ちをした。凝固した血液は厄介なのだ。しかし、リボルバーのメンテナンスを完璧にしておかなければ、次の戦闘でも支障が出てしまうだろう。Jr.は手入れの怠りを反省した。
 血痕の交じる銃の部品をカウチのサイドテーブルに並べ、湿らせたコットンで丁寧に汚れを拭いとる。粘着した茶色の液体が、赤錆のように内部の鉄を侵食していた。血と鉄の臭いが鼻をつくと、やけに憂鬱な気分になる。リボルバーの場合、環状に並べたシリンダーに弾丸を収め、それが回転することで次弾が送りこまれる仕組みになっているのだが、これは機構が単純なため弾がつまりにくく、ジャムなど滅多に起こらない。自らに問う。そのジャムが、なぜ発生した?
 簡単なことだ。Jr.の古式銃は正確には武器ではなく、デュランダルの主砲のように彼の攻撃を伝達する媒体でしかない。彼が放出する攻撃的波動を弾丸にこめ、それを敵へと発射する道具である。つまり、Jr.自身のイマジネーションによって攻撃的波動を明確な凶器の形に構築できなければ、時代錯誤の古式銃など博物館に並ぶ骨董品でしかないのである。弾丸がつまる場合もしかり、銃が暴発する場合もしかり、それはJr.自身から漏出する精神の不安定さが起因している。動揺、躊躇、逡巡、惑乱、激昂、狂乱、盲進、沈鬱。兵器として不必要なものが、自分には多すぎるのだ。無心のままシンプルに、トリガーを引くだけの簡単な作業でさえ満足にできない。


 歳は十二ほどだったろうか。戦場に少年兵がいた。銃を構えたまま、Jr.は躊躇した。少年が一体どのような経緯でU‐TIC機関に配属されたのか、自分には知るよしもない。身の丈に似合わないライフル銃で、ましてや子羊のように震えるなど場違いにもほどがある。その弱々しくもどこか狂気を孕んだ瞳が、限りなく白に酷似したプラチナブロンドが、Jr.の右胸を強烈に抉った。仄暗く窪んだ双眸は確かに怯えているのに、口元には引きつるような笑みが浮かぶ。死人のような青白い唇で少年は笑っていた―死にたくない、殺さないで、怖い、怖いよ、と。
 銃声と同時に右の脇腹に衝撃がくる。間を置いて襲う、灼熱の鋼で肉を抉られたような痛み。脳髄を揺さぶられる激痛に、他の臓器を押し返すような鈍痛が加わる。反射的に横跳びしたため、連射の一発目だけが右の脇腹を貫通していた。触れると、泥沼に手を突っこんだような感触があった。よろめく。しばし霞んだ目で正面を見据えると、少年は硝煙が立ちのぼるライフル銃を、赤ん坊でも抱えるように構えていた。撃たれたJr.より、撃った本人のほうが驚愕と苦痛の表情を交互に浮かべている。
 逃げろ、という声は出ない。
 逃げろよ、ばか。この程度の銃創なんて俺には意味ねえよ。おまえの敵は、まだ死んじゃいない。ほら、まだ倒れてねえだろうが。とどめを刺せよ、ガキが。撃て。でなけりゃ殺られるぞ、この俺に。
 リボルバーを再び構える。おののきに喘ぐ唇から鼻筋を通り、釘づけの双眸を無視して崩れた眉の間―青白い額に照準を定める。トリガーにかけた指は動かない。荒い呼吸だけが強制的な静粛の空気を惑い、遠くで連続する銃声や爆音が、教会の鐘声のごとき神聖な音楽に思われた。重なる過去の幻影を自分は何度、撃ち殺してきただろうか。撃てるのか、俺に。
 それでも引いたが、銃声はない。肝心の指は最後まで曲がらず、代わりにシリンダーが奇声を発して弾丸のつまる奇怪な金属音が鳴った。実際には微弱な音であったのかもしれないが、そのときは自らの悲鳴にさえ聞こえた。一抹の安堵を感じた己に歯噛みし、脳内を逡巡する無意味な葛藤に唾を吐く。今さら善悪の彼岸で足踏みする資格など、自分にはないだろう。今までいくら人間を殺してきた? 今さら戻れやしない。這いよる屍は背負うしかない。選択の余地などない。累々と横たわる屍を越えてきたうしろ背に、道らしき道など存在するはずもなく、眼前の綱を渡りきるしかないのだ。今さら振り返るな。撃たずして行き場はない。
 マズルを口元に、薄く瞼を閉じる。
『わたしの苦悩を秤にかけ、わたしを滅ぼそうとするものを、すべて天秤に載せるなら、今や、それは海辺の砂よりも重いだろう』
 言葉の飴を舐めるように口腔で呟いた。後方から靴音の乱打が近づいてくる。
 ちび様!
 メリィの悲鳴だ。少年の視線がライフルの照準と一緒に、駆けつけた彼女へ瞬間的に移動する。それをJr.が見逃すはずもない。罪悪を払拭した少年兵の眼光に宿るものは、未知の恐怖から反射的に増幅される殺意、恐怖からくる自己防衛。見知った誰かを見ているようで、次の行動など容易に予測できる。撃ち殺せ。体の芯の深奥で、したたかに本能が叫ぶ。こうなればもう抗いはしない。どんなに取り繕おうと、汚れた血は拭えないし、剥がれないのだから。敵を殺そう。撃ち殺そう。彼女を守るという大義名分で、自己の満足と安穏を得よう。
 うわああああああ!
 少年の雄叫びと同時に、トリガーを引いた。銃声は一発きり。ライフルの銃口をメリィに向けた少年は、彫像のように静止した。火薬の臭気が漂う。火元は少年の抱えるライフル銃ではなく、Jr.のリボルバーだった。驚愕する少年の額の中央に、赤い穴が開いている。その穴から少量の液体が飛散し、伐木された杉のように彼は後方にまっすぐ倒れた。
 Jr.は弾丸が貫通した脇腹にインナーを押しあて、さらにロングコートで銃創を隠した。見開かれたメリィの目は、硬質な床に飛散する血痕を見つめている。Jr.も少年兵を見下ろした。波紋のない水面のように寂寞とした空気が、小さな体内を満たしている。何も感じない。
 ちび様、あの、ブーツに血が―。
 遠慮がちなメリィの声に、口先だけの返事をした。何と答えたのかは覚えていない。少年の後頭部からとろみのある鮮血が垂れ、冷たい床を這ってゆく。ようやく銃をおろした自分に気づき、辟易する。卑怯者、臆病者、となじることもない開きっ放しの窪んだ双眸は、凍結した湖の色をしていた。


 最後のスライドを装着し直し、Jr.は手慣れたメンテナンスを完了した。ゴミ箱は血糊を含んだナノ分子ペーパーの屑山になった。代わりに隅々まで磨かれてじゅうぶんなオイルを注入したコルトSAAとS&W・M36は、本来の剣呑かつ妖美な黒光りを見事に取り戻していた。主人の小さな掌で今は獣のように横臥しているが、次の戦闘では惜しみなく助勢してくれることだろう。銃たちは常に確固とし、公平無私な上に忠実である。あらゆる故障を除けば、裏切る理由もない。リボルバーを持ちあげ、Jr.はこめかみに銃口をあてた。短い赤毛越しに、皮膚に触れる重厚で冷厳な無機質の感触が心地良い。上下運動を繰り返す薄い胸は子供の速度で、裸の上半身に少し肌寒さを感じた。
 銃はいい。自らの手を血で汚すことなく、相手のすべてを奪うことができる。記憶に残存する暇もなく生物を肉塊とし、返り血も浴びずに立ちされる。相手の肉体を直接抉るナイフよりも感触を思いださずに済むぶん、罪悪感を挿げかえられる。これは一方的な支配だろう。使役する者の体格さえ関係なく、訓練さえ行えば子供であろうと平等に大人を殺せる。自分の領域に踏みこませることさえ許さず屠れる。つまり、銃とはJr.にとって完璧で理想的な武器なのである。
 生物のように耳障りで不快な心音に塞がれるでもなく、心という曖昧で漠然とした盲覚に縛られることもなく、兵器は淡々と確実に使命を果たす。古代の技術で製造された産物であるにも関わらず、欠陥だらけの兵器のルベドよりも、銃ははるかに優秀である。もともとの出来が違う。長々と浪費した年月と膨大な研究費用、様々な科学の知識を応用して創造したものが、先人が豊富な鉄を利用して大量生産した兵器より劣るのだから、人類も進歩がない。
 セイフティを外し、グリップを把持し直すと、トリガーにかけた指に力をこめる。そうして、中途半端に指先を曲げて終わる。シリンダーに弾丸は充填していない。それでも引くことができない。十四年前から延々と、この血のごとく赤い頭に銃口を押しあてたまま、最後の引き金だけを引くことができずにいる。殺してやりたい。最も残酷な方法で、最大の苦痛を与え、なぶり殺してやりたい。そう苛立ちはしても、しょせんは怖ろしいのである。英雄と呼ばれる先人たちの強靭さの欠片でもあれば、身を挺して何かを救えたのかもしれない。実際の自分ときたら、その英雄が名乗りでる姿を陰から眺める群集の一人でしかないし、ああ良かった、あいつが犠牲になってくれて、と安堵するような臆病者だ。ぬるま湯に浸かった毎日が過ぎる日々において、時折ふと猛烈な後悔の念に駆られ、いつまでも虚しく生き残る男なのだ。馬鹿らしい。
 銃をおろしたサイドテーブルに転がった弾丸の箱の中には『Go ahead, make my day.』と並列する黄金の弾丸一つ一つに極小の文字が刻印されているJr.は死に近い場所―例えばグノーシスやU‐TIC機関がはびこる戦場エリアに好んで赴くもちろん大抵は任務の障害であるためだがそれでも単独行動の際においても危険な役回りを選択する一瞬の選択で生死が別たれる極限の状態であれば何も思考せずに済むからである本能と技術に任せひたすら敵を排除するそれだけでいい殺される前に殺す自らの罪に苦悩する暇もなく雑多な情報が蓄積された脳も生への嗅覚に集中されることでクリアになるだからこそ自分でも呆れ果てるほど死の最前線まで突っこんでしまう周囲の忠告は自問自答でとうに却下された内容でありそれに耳を貸す余裕も持ちあわせていないタナトスに魅入られて死にたいわけではないがもしかするとどこかで誰かが自分を殺してくれることを望んでいるのかもしれない何て利己的だとせせら笑うつきあわされる周囲はとんだ迷惑だろうが
 最後にJr.は、弾の充填を完了させた。二丁の拳銃をホルスターに収めることで、物寂しい腰回りに確かな安定が戻るのだから始末が悪い。新しいシャツを引っ張りだしてゆるゆると袖を通し、そのままベッドのわずかな空きスペースに倒れこんだ。乱れた赤毛がシーツに散り、山積した古書が何冊かまた振動で崩れ落ちた。顔の上で交差した腕に、硬くて重い本があたる。セルバンデスの『ドン・キホーテ』上下巻はさすがに痛かったが、退ける気にもならない。清涼な空気にさえ今の自分の顔を覗かれたくない。Jr.は寝返りを打った。暗闇を見ていた瞼を閉じようとして、まだ閉じられないことに気づく。ブリッジへ戻らなければ。