溺れる魚 3


Timeline: EP1, after arriving in Kookai Foundation




 トリガーを引く。乾いた銃声にあいつが重なる。
『いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう。主に咎を数えられず、心に欺きのない人は』
 ああ、罪の果てに成り立つルベド。結局のところ、自分がかわいいのだろう。おまえは死を恐怖したのさ。六六五体の兄を犠牲に、双子の弟を生贄に、最後の弟を共犯に、堕ちるべき地獄を逃れている臆病者だ。卑怯で、脆弱で、偽善で、罪悪で、有害で、無価値。人殺し、人殺し、人殺し。最も醜い裏切り者。それでも浅ましく生に執着する。今なんて、死よりも過去の亡霊に怯えている。善人から用意された仮面を被り、醜い自分を隠している。おまえは本当に救えない。赦されない。最悪だ、罪悪だ。
 己の脳が吐く悪辣な嘲弄は、陰々滅々と鼓膜を震わせ、三半規管を浸食し、平衡感覚を狂わせる。その嘲りすべてが事実なだけに、己の均衡は余計に崩れ、必要な重心を失う。左胸の鼓動が激しくなり、右胸の鼓動が疼きだし、頭蓋骨の裏側で狂ったドラのように鳴り響きながら体内を巡る血液が、全身の毛穴から赤い水蒸気となって噴出しそうに煮えたぎる。理性が蒸発する。血液が沸騰する。憎悪が奔騰する。憤怒が頂点に達しそうになるのを、寸前でこらえる。
 やめろ。思いだすな。思いだすな。考えるな。忘れろ。実際、仕方なかった。他に方法はなかった。リーダーとして選択を間違っても、人としては間違っていない。純粋な罪とはいえない。あの場に誰がいても、そうしたに決まっている。保身や恐怖だけが強行したわけじゃない。そうさ、仕方なかった。あのときの俺に、そうするほか何ができた? でなけりゃ、おまえの手を離したりするもんか! おまえが俺の立場なら、どうにかできたって言うのかよ?
 自己暗示をかけ、事実を全否定するも、網膜に焼きついた光景が鮮明に自動再生されるたび、悔恨と自責で身体が火照り、発狂し、絶叫しそうになる。例え両耳を五指で隙間なく塞いだとしても無駄なのだ。リアルな幻聴は脳髄で反響している。麻酔なしで切開手術をされているような、失神したくとも叶わないほどの激痛に引きさかれたアルベドの絶叫が、心臓から脳まで貫くように長く長く余韻を残している。臓物が破裂する。鼓膜が破砕する。脳みそが飛びちる。逃げつづける己の弱さを認めたくない。認められない。
『わたしは黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は夏の日照りにあって衰え果てました』
 トリガーを引いた。銃声で固く耳を閉ざす。悪夢も幻聴も歌声も希望も何も聞かずに済ませるよう、瞼の裏に浮かぶ白い顔を渦中に沈め、罪悪感を弾丸で打ちけす。それでも絶叫はやまず、血肉を食い破っては執拗に捻じこまれる。大気に凍みこみ、鼓膜に滲みこみ、その余韻が完全に吸収されるのを待たず、連続に。苦痛を凝縮した叫びには余裕など一切なく、いっそ完全な狂気に身を任せたほうが楽だろうに、つながる鼓動を手荒く掴まれ、乱暴に揺さぶられるために、安穏な深淵から引き戻されては地獄に叩きおとされる、その繰り返しだ。凄まじい苦痛を伴う流動の中、筋肉を引きさき、縫いとじられた心臓を抉じあけ、押し広げ、己の最奥を目指す塊の存在を感じる。生きながら内臓を攪拌される激痛に極限までむいた骨からは、断末魔の軋みが延々と続く。肺全体に汚水がたまっているようで、過多なその水を吸い、膨張した海綿が喉元を塞いでいるかのように呼吸は苦しい。はらわたが熱そのものになる。アルベドは内臓にまで入りこみ、限界まで熱せられた金属のようにとける。どろりとした赤黒いそれが体内を満たし、じわじわと煮つめ殺す。アルベドの残照は、まるで脊髄の代わりに水蒸気を噴きあげる焼きごてを突っこまれたような、その焼きごてで内臓をかき混ぜられているような、抜けることのない苦痛を与える。絶えず喉を焼いて迸る無声の呻きが、廃墟の両壁に反響し、殷々と鼓膜に沁みながら目くるめく眩暈を喚起していた。
『どうか過ぎた年月を返してくれ。神に守られていたあの日々を。あのころ、神はわたしの頭上に灯火を輝かせ、その光に導かれて、わたしは暗黒の中を歩いた』
 トリガーを引く。淡々と、何度も、狂いなく。アルベドの声は悲惨だった。アルベドの顔も悲惨だった。離れた掌の感触は無残だった。振り払っておきながら、心臓を引っかかれ、潰され、千切りとられる、あいつの痛みを感じた。あの絶望も、あの憎悪も。そうさせたのは俺だった。


「おめでとうございます、Jr.様。マニュアル・プログラム『Nightmare』、パーフェクト・スコアでのアチーブメントですね。詳細はコネクションギアの専用メモリに記録されます。バトルフィールドは上書きなされますか?」
 ナビゲーターの音声が、ヘッドギアから注入される。Jr.は手持ちの銃をくるくると回転させながら、満足げに言った。
「ノーだよ、〝アンナ・ボレーナ〟」
「あら、残念。Jr.様の射撃って、音声AIの私の耳にも心地良いの。ずっと聞いていたいわ」
「そりゃ嬉しいね。君の美声には敵わねえが、〝ランメルモールのルチア〟」
「私には口と耳しか磨くものがないの」
「君はじゅうぶん、いい女さ、〝五月のバラ〟」
「罪な人、いつも違う女の名を呼ぶなんて。私はどこにも存在しないのね」
「いいや、君たちはどこにでも偏在してるんだ。君たちが望めば、おそらくアカシックレコードにだって触れられる」
「まあ、嫌だわ。私は望まない。私に目はないけれど、あなたを見つめるだけでいいの」
「そうかい、〝金髪のイズー〟」
 ナビゲーターが通信を切ると、リアルに構築された廃墟のフィールドに画面を切りさくようなノイズが交じり、狭小の視界が曖昧な灰色に揺らいだ。戦地からの報道が銃撃によって途絶える瞬間に似ている。近年、U.M.N.依存症の若者たちが社会問題となっているが、このような現実とフィクションの境界を自己の意識のみで判断するしかない環境を当然として生活していれば、脳が混乱するのも心が逃避するのも無理はない。どちらの世界でも無難に生活できるのだから。
 構えた古式銃を無意識に口元へ近づけたJr.は、きな臭い硝煙を吐息で払った。
「プレイヤーの音声を照合中―上位バトルフィールドへの移行はキャンセル、データをコネクションギアへ転送します―コンプリート。V.S.S.ログアウトします」
 抑揚に欠けた美声でAIの彼女が告げる。
「じゃあね、〝悲しみのトリスタン〟」
 柄じゃねえよ、とJr.は苦笑した。同時に世界が変貌する。眼前に四散していた兵士の死体もグノーシスの残骸も、夢から覚めるように霧散した。ヘッドギア越しの視界に新たな世界―ではなく見慣れた現実が戻る。実際のJr.は、キュービックと呼ばれるヴァーチャル・シミュレート専用の個室にいた。ヘッドギアの映像を四方の特殊防弾障壁スクリーンに投影することで臨場感のあるバトルフィールドを構築し、専用の弾丸で射撃の技術を練磨することができる。床はプレイヤーの行動と連動しており、走行しても壁に衝突することはない。仮想の敵は一般兵士からグノーシスまで各自トレーニング用に設定を行い、画面の端には登録した専用武器やダメージ回数など、ステータスも表示される。ファウンデーション・コロニーの産業地域区画の中でも、先端技術産業を中核とした高度技術工業集積区画にはヴェクターと提携する軍需企業も存在し、それらはコロニー中央に停泊するデュランダルのほど近くに集中している。V.S.S.は、ガン専門の個人トレーニング環境を提供するデュランダルの関連施設である。古代の3Dシューティングゲームをコントローラーではなく自身でプレイするような感覚であるため、興味本位でトレーニングを希望する一般市民もいるのだが、実際にはデュランダルのクルーであることを最低条件とし、その上で指定値の戦闘技術を満たし、認定証でもあるパスを所持していなければ利用できない。エンセフェロンと比較すると構造や性能は多少低く、神経が接続されないので現実感や迫真感は薄まる。代わりにエンセフェロンほど大規模な設備や人員を必要としないため、休憩時間や非番の日などに、クルー一人でも自発的にジム感覚で通えるところが利点である。
 自分専用のマニュアル・プログラムを終了したJr.の体が、床ごと宙へ浮きあがった。プログラムが終了すると天井が開き、プレイヤーの床がエレベーターの役割を担って地下のキュービックから一階の受付へと移動する仕組みである。古式銃をホルスターに収めてヘッドギアを取り外すと、Jr.は眼下に並ぶ四角い箱の並列を眺めた。外部からは無機質な部屋に見える内部で、クルーたちがトレーニングに励んでいる。高速移動する浮遊感の中、彼らの姿に目を細めたJr.の口元が綻ぶ。天井をガラス構造としている理由は監視のためだろうが、Jr.は施設のデザイン性を気に入っていた。巨大な円形タワーの内部にあり、開放的なガラス張りの空間―キュービックから階上へ昇る数分間、コロニーの市街区画や人口海岸、エネルギーパネル手前の山稜を、視界一面に収めることができるのだ。施設を出るなら一階で降りる必要があるが、Jr.はそのまま五階のテラスまで上昇した。二十世紀初頭の欧州を思わせる古めかしい内装で揃えた複合カフェは、デュランダル関係者で賑わいを見せている。
「さすがですね、ちび様! 難易度の高いプログラムを楽々と」
 エレベーターから降りたJr.をデュランダルの若い乗組員たちが興奮した様子で出迎えた。皆、手放しで彼を賞賛しており、テーブル席のサブモニターではヘッドギアを装着して二丁拳銃を斜に構えたJr.のトレーニング風景が再生されている。乗組員に促されて席に腰かけたJr.は、自分の映像に一瞥もくれずサブモニターをメニュー画面に変更した。
「おまえらのために来たんだろうが。見物に回ってどうすんだよ」
「すみません」
 若者たちのつまらない反応にJr.は嘆息すると、メニュー画面で一服の清涼剤である紅茶を注文し、(朝食にブレックファストティー、昼食にダージリンのロイヤルブレンド、三時に叶うならばミルクティーを、夕飯にワインを挟んで夜はアールグレイを飲まないと、彼は落ち着いて眠れない)を注文しながら「まあ、いいさ」と続けた。「それよりも、あくまで訓練だってことは覚えとけよ。グノーシスだろうが前回のような白兵戦だろうが、敵は思考する生物だ。画一的なAIの的なんぞ程度が知れてら」
「ありがとうございます、ちび様」
 軽口を叩きあうときとは異なり、事務的な話の内容になると、Jr.の声のトーンはとたんにさがる。普段は子供であることを逆手に大人をからかうJr.だが、艦長としての真摯な表情には本来の年齢を思わせる重みがある。デュランダルに乗船して日の浅い彼らも、自分たちの半分の背丈しかない艦長から不釣りあいな老成を感じとったのか、敬礼でもするように身を引きしめていた。
 時を同じくして、Jr.たちがいるテーブル席の反対側では人々のどよめきが湧きおこっていた。「何でしょうね?」黄色い歓声も混じる騒ぎの原因を探ろうと、首を伸ばす乗組員に、Jr.は弄りだしたコネクションギアから顔もあげない無関心さで「ガイナンだろ」と言った。こうした施設に頻繁に出入りするJr.とは異なり、多忙なガイナンが民衆で賑わう場に姿を見せることは珍しい。そうした場合、ここではなくとも周囲の反応は大抵一様である。Jr.の予測通り、特に女性の割合が多い人混みから現れた人物は、一糸乱れぬスーツ姿で颯爽と靴音を鳴らすガイナンであった。一歩さがった位置には、シェリィも控えている。取りまく人々と挨拶を交わしつつ、Jr.たちのテーブルまで、ガイナンは映画俳優並みの歓迎を受けて歩いてきた。
『帰したのか』
 ガイナンの思念がJr.の脳に届く。
『滞りなく』
 しれっと返事をしたが、ガイナンは若者たちと握手を交わす最中であり、Jr.もいまだコネクションギアから目を離しておらず、双方が別々の対象と接しながら会話を平行している―その事実をこの場で認知できている者は、二人とつきあいの長いシェリィくらいのものであろう。
『左目』と、ガイナンが呟いた。コネクションギアを弄っていたJr.の指先がとまる。赤い睫毛もわずかに傾いだ。『射撃には支障が出るだろう』
『ナノマシンで医者いらず、って言うだろ。明日には完治するさ』
 手慣れた指先の動きを再開させたJr.は、左目の損傷を素っ気なく認めた。我流のナノ治療できれいに包み隠され、注意深く観察しなければ気づかないが、Jr.の左眼にはピエロの化粧のような青痣があり、それは部分的に腫れていた。切れた口内はすでに完治していたが、さすがに派手な痣となれば多少の時間が必要である。痣の理由も承知しているガイナンは、今の問いで確実に機嫌を損ねたであろうプライドの高い兄に、多少の苛立ちを感じていた。
『右肩の打撲と脱臼は?』
『治った』
 いいから放っておけ、とさも面倒臭そうな態度でJr.は一応の返事をした。ガイナンと視線を合わせようとしない。手持ちぶさたに弄る指先よりも、俺の気遣いは不要なのか。余計で煩わしいものなのか。間接的な自傷行為も、ここまでくると迷惑だと察してくれ、とガイナンは内心で唾を吐いた。つのる苛立ちを寛大な精神で鎮めようと努めながらも、こちらに無関心なJr.の態度は苛立ちを煽る。
 ガイナンは、失礼、と会話中の乗組員に一言断りを入れ、椅子でくつろぐJr.の右肩を斟酌せずに掴んだ。容赦ない握力に、Jr.の表情がわずかに強張る。辛うじて悲鳴は押さえたらしい。ガイナンはJr.の体を牽引し、強制的に席から立たせた。Jr.の手から転がりおちたコネクションギアが、床に落下してくるくると床を滑る。バランスを失った椅子が横転する派手な音に、離れた席の人々が振り返っている。
「ガイナン様!」突然の事態に乗組員たちも狼狽した。シェリィでさえ普段の冷戦沈着な面持ちを崩し、藤色の美しい双眸を丸くしている。
「自分で嵌めたのか」
「悪いかよ」
 Jr.は恨みがましい目でガイナンを見上げ、自分の右肩を掴む男の手を鬱陶しいとばかりに振り払った。あまり目にしない二人の代表理事の険悪な空気に、テラスは驚愕と緊張で水を打ったように静まり返った。この場に低俗なパパラッチがいようものなら、二人の睨みあい写真が明日のタブロイド紙の一面を飾っていたことだろう。ガイナンは自分を落ち着かせるように嘆息した。
『なぜ受身をとらない。おまえなら簡単だろう』
『大人しく転がっといたほうが角も立たねえだろ。後々体裁を整えるのは余計な手間なんだよ』
 陰気臭いものを見る目でJr.は吐きすてた。ガイナンに迫られ苛立ち始めたJr.もまた、彼に容赦がない。腰にあてた指先が不規則なリズムを刻んでいるのは、不機嫌な証拠である。しかしながら、そんなJr.に怯むガイナンでもない。
『いいか、一時的な激昂を受けとめたところで、根本的解決にはならん』
『いいや、違うね』Jr.は自嘲するような薄笑いを浮かべた。『調和の平衡よりも、刹那の衝動が関係を左右するんだ。一度でも拒絶すれば、不安定な天秤なんて奈落の底へ真っ逆さま。あの夫婦に対しては、あれで正解なんだよ。何にしても、仕事の内だろ。艦長としても代表理事としても、現時点で失脚するわけにはいかねえし、俺なりに必要な処置をしてる、それだけの話だ』
 反論するJr.は常以上に饒舌で、それもまた彼の苛立ちを表していた。この十数秒間、事情を知らない人々には理事二人が無言で睨みあっている状態にしか見えないため、和やかな雰囲気であった午後も今や緊張ばかりが糸を張っている。若者たちは二人の顔色を交互に窺うが、シェリィはすでに平静さを取り戻し、ガイナンから一歩下がった位置で二人の動向を見守っていた。
「おまえに口出される義理はねえと思うが」
 痺れを切らしたJr.が、肉声でガイナンを牽制した。普段は明々なコバルトの光を湛える双眸の奥に、剣呑な青白い炎がくすぶっている。ガイナンは公衆の面前であることを念頭に置きつつ、〝息子〟への言葉に労わりの色を見せた。
「いい加減、無茶をしないでくれ。毎度のことだが、おまえ一人で気負うことは―」
「てめえ、アタマ湧いたのか。理由はどうあれ、デュランダルの乗組員及び民間人の失命は艦長の俺に責がある。航行中の人員の命は、俺が預かってんだ。月並みな慰撫で、遠回しに侮辱してんのかよ」
 Jr.の声に怒気がこもる。こつこつと腰を叩いていた指先は拳に変わっており、それは彼の苛立ちが憤慨に達したことを意味していた。ガイナンは自分の傷心とJr.への嘲弄を感じながら、小さな兄を見下ろしていた。数時間後にはJr.自ら報告がてらに執務室へ寄ることを知りながら、密なスケジュールの合間を縫い、ガイナンのほうからJr.に会いにきた理由は彼の言う〝体裁〟とは異なり、兄の身を思ってのことである。V.S.S.のシミュレート中にJr.から氾濫していた晦冥な負の感情は、精神防壁で何重にブロックしても脆くなった隙間から漏洩していた。不特定多数の人間がいる中でのJr.の不安定な精神を危惧して駆けつけたというのに、こうも邪険にされるとは。
「わかっているなら、専属医師の治療は拒否するな。おまえ一人の体ではない」
 自然、語気は荒々しいものになった。テノールの美声に冷淡さが加わると、ガイナンの温雅な人柄に慣れた市民はその変貌に驚愕し、野次馬たちも思わず身をひいた。そうした集団で一人、Jr.だけが挑発的な眼でガイナンを睨みあげ、さらに彼を鼻で笑う。
「自分の状態くらい診察できるぜ。手足でも千切れりゃ診てもらうさ。必要ないから断った。我意や依怙地で医師を拒絶してるとでも? くだらねえ説教なら、執務室に戻ってから聞いてやるよ」毒舌は止まらない。「息子の心配する暇あんなら、頓挫してるリゾート計画に本腰入れろよ、お義父さん」
Jr.
「うるっせえぞ、ガイナン!」
 地鳴りのような二人の怒声に、調理人までもがフライパンの手を止めた。テラスの人々はドールハウスに配置された人形のように不動の姿勢で沈黙し、気まずい均衡が引きさかれることを願った。地下で放送されているアナウンスも、声を潜めているように聞こえる。裁判所にも匹敵する静粛さは、赤ん坊が弾かれたように泣きだすまで続いた。遠慮のない泣き声で我に返った人々は、和やかなランチタイムの雰囲気を取り戻そうと努めて賑やかに会話しはじめた。尾をひくぎこちなさから、どの店舗でも少々焦げた料理が提供されている。
「そうか、わかった。望みどおり執務室で存分に躾けてやる」
 ガイナンは自分を黙殺するJr.に見切りをつけると、凄みを利かせた低声で言った。「行こうか、シェリィ」Jr.を気にするシェリィに微笑みを見せ、「本人の忠告通り、息子の低劣な癇癪につきあうほど我々も暇ではない。今回は客人もいることだしね」
 ガイナンはあっさりと踵を返すと、心配する人々に甘い笑みで謝罪をしながら立ちさった。黒い背中にJr.は舌打ちし、床に転がったコネクションギアを拾おうと腰を屈める。ちょうど、それに手が触れたとき、
『兄を心配して、何が悪い』
 消えたはずの弟から、拗ねたような思念を送られた。とたんにJr.の目頭が熱くなる。眼球の熱は最高温度まで到達するも溶かすものがなく、乾き、急激に冷める。渦巻く苛立ちなど霧散し、後悔と自責がJr.の顔を歪ませた。ガイナンが自分を案じてくれることは嬉しいが、同時に厭わしい。安易に気遣われることは屈辱であり、自分の弟にまで外見通りの軟弱な子供の扱いはされたくないと反発してしまう。そうしてガイナンを束縛している原因は他ならぬ自分の脆弱さであり、依存の形であることは承知しているが、正面から認めたくない。過去から手を離すこともできないくせに、受けいれることも拒絶するしかないのだから、弟もこんな兄など見限ってしまえばいいのに。徹底的に突き放されれば、どうにでも諦められる。無闇な期待を抱かずに済む。こうした痛みを感じずに済む。
 結局のところ、自分自身が傷つくことを怖れ、自らの手を汚したくないだけではないかと、己の卑怯さに反吐がでた。煩悶することは苦痛である。乗組員たちの前で顔をあげるときには、Jr.も平常時の表情に自身を立て直していたが、普段の強気な笑みが足りなかったらしく、覇気のない無愛想な彼の様子に彼らは一瞬たじろいでいた。
「メリィ、報告か?」
 Jr.は従容として背後に問いかけた。そこには、ガイナンたちが去った方向と逆の位置で、戸惑いを隠せないメリィが佇んでいた。彼女も二人に生じた軋轢の諍いに際会していたらしい。普段はヒマワリのように明朗な表情に陰が差し、青海のような瞳にも憂慮の波が立っている。Jr.が自分の存在を悟っていたことにメリィは一驚したが、そのまま上擦る声で返事をした。
「はい、最後まで見届けました。ちび様が退室された後は問題なく……ご遺族の方々も鎮まりはって、グラバク様からちび様へ『申しわけなかった』との伝言を承りました」
 何となくJr.に距離感を覚え、メリィは苦手な事務口調で報告を済ませたが、彼女の予想に反し、Jr.は困ったように微笑んでみせた。
「謝罪すべきは俺のほうなのに」
 よく見知った兄がふとした拍子に儚げな姿を見せると、まるで知らない男性に変質したようでメリィは息苦しくなる。自分の身勝手な押しつけではあるが、彼には強くあってほしい。その手がどれほど血で汚れていようとも構わない。初めて出会ったときのように、死神も引き返すほど生き生きとした笑顔で、その手を私に伸ばしてほしい。死の淵から救われたとき、『フランケンシュタイン』を片手に名付け親となってくれたとき、こめかみのデバイスを隠す髪飾りをつけてくれたとき、彼の身長を追いこしたとき、悩んでいた自分が馬鹿らしく思えてしまう笑顔をJr.は常に浮かべていた。
「ありがとう、メリィ。おまえには辛い役回りばっかさせてるな」
「いえ、これがウチの仕事ですから」
 メリィは自分の仕事に誇りを持っている。まず、女の自分でもJr.の力になれることが最大の魅力であり、選任オペレーター兼作戦一課室長という責任ある立場にやりがいを感じる。肩書きはJr.が自分を認めてくれた証でもある。信頼の置ける姉や、優秀な百式たち気のいいクルーたち―製薬工場の被検体として扱われていた頃は、夢にも思わなかった環境にいる。Jr.が統監するデュランダルでは皆が対等であり、第一に意志、そして経験が評価される。何より、培った自分の能力が愛する彼らに必要とされているのだ。幸福を感じこそすれ、辛いと感じたことなど一度もない。
 メリィの様子に「どうした?」と問うJr.の笑顔を見下ろすと、先刻まで自分が弔慰していた家での出来事が思いだされ、彼らへの不服が募ってしまう。Jr.に大人として扱ってもらいたい。そうした希望とは裏腹に、彼に話しても仕方のない子供じみた不満が喉元まで迫りあがってくる。
「彼、ちび様と親しいエンジニアでしたやろ。どのクルーも、ちび様は大事にしてはるのに。毎度のことですし、大事な家族を亡くしてはるんですから当然の権利でしょう。ウチらが悲しみに立ちいることはできません、けど……デュランダルのことを何も知らん人に、ちび様を痛罵されるのが、ウチには堪えます」
 濁流のような感情を一気に吐露してから、メリィは盛大に後悔した。自分の内にある醜悪で低俗な部分を他でもないJr.に晒しても仕方ないのに。こんなことは彼も承知している。恥ずかしい。下唇を強く噛むと、口内で生温い血が這う。その錆臭さは、口にしたことが紛れもない本音だと語っていた。
 今回の惑星アリアドネ消失事件の調査航行は、ゾハル・エミュレーターはもちろんのこと、予定外の戦闘が多発した上に妙な客人まで拾い、今までにない異例の航海となった。そのヴォークリンデ捜索時に鉢合わせたU‐TIC機関の母艦内での白兵戦では、戦闘による数十名の負傷者と一名の死者を出す結果となり、この早朝にファウンデーション・コロニーへ帰投したデュランダルから下艦を済ませたJr.とメリィは、無言の部下を遺族のもとに返還したのである。Jr.は彼の兄に左顔面を殴られ、彼の姉に散々なじられ、(父親は他界しており、母親は惚けていた)望まぬ再会の場に最後まで残ることを許されなかった。そのため、Jr.の代行としてメリィが事の次第を見届けたのだが、こうした事態は何も今に始まったことではなく、以前から頻繁に起きていた。行き場のない遺族の激昂と悲嘆、その無念さがクルーを見殺しにした艦長へと転換されるのは仕方のないことで、Jr.もまた遺族の無念を当然のごとく承知し、ときには暴力での報いも受ける。しかし、実際のところ客観的に見たとしても、U‐TIC機関の母艦との白兵戦で死者一名ならば、どこの艦長や参謀でも上出来だと賞賛するだろう。これでメインフレームのデータも完璧に入手していたとすれば、誰も文句は言えまい。負傷者も軽傷で済んだ者が多く、これはJr.の指示と作戦がいかに的確であったかを物語っている。不運な犠牲者である若いエンジニアは激しい戦闘で絶命したわけではなく、A.G.W.S.に装着し忘れていた銃器を戦闘班に手渡そうと丸腰のまま飛びだし、敵からの銃撃を受けてしまったのである。A.G.W.S.のサポートで出撃するならまだしも、一介のエンジニアが生身で戦場に出るなど単なる命令違反でしかない。エンジニアとパイロットの信頼関係は密なものであるだけに、彼を予期せぬ事故で失ったことに心は痛む。それでも、聞き及んだ事情でしか状況を把握していない遺族の狂乱にも似た攻撃的感情の矛先がJr.一人に向けられること、それがメリィの内を鬱々とさせる。責任という言葉の重さを理解していても、悪人不在の戦場で恐怖を共有した者と未体験者との間に、絶対的な乖離を感じてしまう。
 メリィの心情を察したJr.は、いや、と首を振った。
「彼らの言い分は正しいし、ありがたいよ。あいつはさ、ミスの露見による自らの失脚よりも、出撃した仲間の安全を案じたんだよな。自分の身がかわいいなら、レーザーが飛びかう戦場をくそ重い銃器なんぞ持って奔走したりしねえだろ。立派だよ。毎年のことだが、若い奴らに対して考慮すべき点はいくらでもある。そうした面を失念していた俺に非はある。当然さ、そのための最高責任者だ」
「遺族の方々に対しても?」
 メリィの弱々しい問いに、もちろん、とJr.は頷いた。
「ミスを犯したクルーが生存していたとすれば、厳重注意も含めて相応の処罰は受けてもらうがな。俺の立場は知らぬ存ぜぬじゃ通らねえもんだ。人命を背負ってる。遺族の要望に従うのは俺の義務であり、死んだあいつの遺訓でもある。それから先は、言動と結果で返すしかないけどな。おまえをデュランダルに迎えいれたときにも、それは説明したはずだぜ」真夏の空より青い眼を細め、Jr.は力強く笑った。「メリィ、おまえが気に病む必要はねえの。俺の場合、恨まれて憎まれて殺されるくらいでちょうど良い。遺族の言葉は物言えぬ死者の言葉だと思っとけ。俺たちの誇りを生み育ててくれた人たちだ」
 メリィは自分の失言を改めて恥じ、珍しく訛りなく「はい」と答えた。身の内で渦巻く鈍重で締まりない感情は、Jr.の笑顔と言葉によって腐敗し、いとも簡単にはがされていく。彼に失望も軽蔑もされてはいない。心身の緊縮がほぐれ、安堵に息を吐いたメリィは、そうなら、とJr.に一つの不安要素を提示した。「教会でのこと、冗談やね?」


 ゴシックからバロック様式まで、古代の建築様式を継承した教会堂が数多く点在する、祈りの十二市街区画。とある聖堂で、赤毛の少年が萎びた麦のように転がった。重力に従い石畳の床に叩きつけられた瞬間、わずかに歪んだ少年の眉根と口元を見逃せるはずもなく、メリィは悲鳴を殺して体を竦ませていた。倒れた少年の変化はそれきりで、強打した右肩を押さえもせず、むくりと起きあがった上半身が聖堂の闇だまりに消え、どこか冷然とした二つの眼が遺族の二人を見上げていた。殴打された彼の左頬は見事に鬱血し、赤紫の濁点が碧眼の周囲を侵食しはじめていた。丘陵のように腫れあがり、蕾のように色づく彼の痛みを、メリィは黙過するしかできない。
 頭で加減しただけ悪く思わんでくれ。どこぞの敵に腹をぶち抜かれるような出来の悪い奴だろうが、あいつは俺の弟でな。
 真新しい棺の前で、兄は獣のように息を荒くしながらも、まったく正気の冷徹な口調でJr.を見下ろした。顎ひげを蓄えた顔は悲憤に燃え、瞳の中では独占欲にも似た激昂をたぎらせていた。姉は冷たい十字架に頬をすりよせ、ひたすらすすり泣いていた。棺を濡らす涙の量が、彼女の痛哭を推し量らせた。引きつる哀咽は天井のステンドグラスまで上昇し、霧雨のようにJr.の頭上へ降り注いだ。快晴の天蓋から彩りのガラスを通過する光を除いて仄暗く、棺がなくとも鬱屈する居心地の悪い場所だとメリィは思った。
 あんたが死ねば良かったのに。
 どうしてこの子が、と不運な青年の姉は嘆いた。叫喚ではない嗚咽交じりの本意は、Jr.の虚無を育てるようで怖ろしい。腰より長い豊かな金髪が未練となり、棺に絡まっていた。メリィはその金鎖を無言で眺め、それからJr.をうかがった。彼の立ち位置には影しかない。ロマネスク様式の分厚い壁面が太陽の光を遮断し、哀泣だけが響くこの静謐の空気にまで、彼の姿は忘却されているようであった。そうですね、とJr.は言った。メリィも遺族も、その淡白な肯定に驚いたが、当人は何も動じていない。まるで影の一部にでもなったかのように、冷光の青だけが闇に二つ浮かんでいた。
 そのお言葉、今すぐにはお受けできませんが―とある任務をすべて遂行し、デュランダルが僕の力を必要としなくなるその日には、この命などファウンデーションの皆さんに喜んで献上いたします。そうすることで、あなた方のお心を多少なりとも癒せるのであれば。
 祭壇の背面に描かれた絵画『ピエタ』を見上げ、Jr.は細く柔く微笑んだ。切れた唇の端に血が滲んでいたが、欠点のない笑みと言えるだろう。メリィの眼には、イエスを膝に抱く聖母マリアが、Jr.に慈悲の眼差しを向けているように見えた。哀れみ深い聖母がこの無慈悲な地から永遠の楽園へJr.を連れさってしまうのではないか、とメリィが錯覚するほどであった。Jr.は祭壇の上に掲げられた黄金の十字架に祈りを捧げることもなく、絵画の中にある死を見つめていた。
 もちろん、お手を煩わせることなく。僕の頭の天辺から爪の先まで、叩き潰して千本の針を刺したあと、均等に切り刻んで捧げましょう。
 振り向いたJr.は、遺族の懐疑的な視線を受け、自嘲とも傲慢ともいえない当然の事実を述べるように言った。
 あいつは俺と違って約束を守るでしょうから。
 姉は泣き腫らした目で訝ったが、Jr.は答えない。きれいな微笑を見せておきながら、彼のそれは絵画の人物より平坦に見えた。唇の血を指先で拭い、胸元に手をあてると、Jr.は恭しく赤い頭をさげた。
 サヴァはデュランダルの優秀な技師であり、いたらない僕の良き友人でした。彼は稀有な才能を授かり、それを磨く努力はさらに素晴らしかった。いかなる場合にも謙虚で驕らず、ご家族や我々乗組員の無事を祈る―そうした彼の精神に、僕は何度も救われました。ご冥福をお祈り申しあげます―望まれずとも、心から。
 深く頭を沈めると、Jr.は聖堂から退出した。そのあとには沈黙が残り、憑きものが浄化でもされたように兄妹は呆然としていた。天からの光を十字架のレリーフに反射している棺も、当然のように何も言わなかった。


「ああ、あれか。おまえは忘れてくれ」
 メリィの問いに対し、Jr.は恬淡に答えた。忘れてくれ、と言われてしまえば、それ以上は踏みこめない。おそらく無意識であろうJr.の拒絶に、メリィは密かに心を痛めた。イエスもノーも断然たるJr.がノーと口にしないのであれば、それが現実になる可能性はゼロではない。〝頭の天辺から爪の先まで、叩き潰して千本の針を刺したあと、均等に切り刻む〟という悪趣味な意中は完全な嘘ではない。悪い冗談だ。彼の死体を目の前にして歓喜する者など、誰であろうと殴りとばしてやりたい。
 ようやくメリィとJr.の会話に間が空いたところで、まごついていた乗組員たちが憚りつつJr.の名を呼んだ。「あの、ちび様」
「申しわけありません。ちび様が負傷されていることも知らず、よりによって銃の指南なんか……」
「僕たちからガイナン様に謝罪と釈明を―」
「おまえらが謝る必要ないだろ。くだらねえことに貴重な時間を割くより、他にすべきことがあるはずだ。サヴァのような同期の死は見たくない、もっと自分を鍛えたい―あの言葉は嘘なのか?」
 今一度、彼らの意志を確認するようなJr.の問いを受け、乗組員たちは一同に口を噤んだ。彼らは亡くなったエンジニアの同期であり、今回の航行にも乗船していたのだが、自分たちの中でも群を抜いた実力で早々にVX‐7000のメンテナンスチームに配属された同期の呆気ない死に、己の無力さを思いしったらしい。それを改善すべく、デュランダルがファウンデーションへ帰投する途中、艦長のJr.に戦闘の技術を学ばせてくれと直談判してきた青臭い若者たちを、Jr.は朗らかに見上げた。
「自分の意志に沿う行動しとけ。ガイナンのことは俺とあいつ二人の問題さ。口論なんぞ珍しくもねえしな。つうか、生半可な気持ちで謝罪なんかしみろ」
 後悔するぜ。そう言ってにやりと笑うJr.に、隣のメリィも首を傾げた。
「あいつの説教、オペラ並みに長えから。聞き慣れてねえと退屈で死ぬぞ」
 冗談めかしたJr.の笑顔に、メリィも乗組員たちも顔を見合わせて笑うのだった。