溺れる魚 4


Timeline: EP1, after arriving in Kookai Foundation



 理想の親子としてファウンデーションの名物となっている二人の代表理事が、珍しく公衆の面前で諍いを起こした。偶然、自船の修理の段取りを済ませ、偶然、複合カフェの奥にあるパブで昼前から一杯引っかけていたエルザの面々もまた、幸か不幸かその現場に遭遇していた。さすがに会話の内容までは聞きとれない距離にいたが、沈黙を破った二人の怒声だけはパブで飲んだくれていた三人の耳にも鋭利な矢のごとく飛びこんできた。その怒号に一驚した彼らは、それぞれ大なり小なりの被害を被っている。例えば新しい葉巻を取りだしたマシューズは、年季の入ったジッポーの着火に失敗し、不精ひげを少々焦がした。カウンター席のトニーは、女性バーテンダーにつまみを注文する際、いつもの口説き台詞を噛んでしまい(それが原因であるかは不明だが)彼女の名前すら聞きだせなかった。コネクションギアで個人的な転送作業を進めていたハマーは、手にしたXYZを危うく取りおとし、命よりも大事なデータを消去するやもしれない危機に胆を冷やした。
「よお、船長。エルザはどうだ?」
 はた迷惑な騒動の収束後、パブの前を通りかかったJr.がエルザの面々に気づき、コートに突っこんでいた手を挙げた。エールのジャグを空けた三人が先程の諍いを目撃したことはJr.も容易に察したろうが、彼の様子に変化はなく、むしろその飄々とした風采は普段以上の沈着を感じさせた。溌剌な笑顔の印象が強いJr.だが、それは部下や一般市民に対するものであり、ごく一部の親しい者たちの間では笑顔といっても片方の口角をあげる程度のものが多い。十二歳の少年には明らかに不似合いでも、二十六歳の青年としては不自然ではない人擦れした不敵な面構えである。マシューズとしては、大人に媚びる子供の演技よりもニヒルな彼のほうがつきあいやすい。「ああ、ちび旦那」キャップを脱いで彼に軽く会釈すると、マシューズは無残に縮れた不精ひげを撫でながら感嘆の声を漏らした。
「おかげさまで。うちの馬鹿どもと違ってデュランダルのエンジニアは優秀でさあ。エルザのネジ一本まで把握してるし、船自体への配慮も行き届いてるときた。いやはや、脱帽ですな。第二ミルチアまで世話になりやす」
 大昔の流行である履き古したジーンズを愛用するマシューズは、道楽的な外見によらず、元星団連邦政府軍海兵という肩書きをもち、礼儀を重んじる義理堅い男である。新しい経験を楽しむ豪放磊落な面が目立っても、外向的かつ活動的な彼の人間性には好感がもてる。四十歳を迎えた今も精悍な顔立ちは衰退せず、若しり頃と変わらず勇健な男だ。かくいうJr.も彼の男気を好む一人であり、誰であろうと美点をてらいなく認めるマシューズに、喜色満面を隠すことなく頷いた。
「デュランダルに半端な仕事する奴はいねえからな。ま、エルザはちょいと特殊な船だし、あいつらも良い経験になるだろ。俺としてもありがたいよ。重々よろしく頼む」
「おいおい、馬鹿とはひでえな。今日の船長ときたら、ドロイドと酒作りに精だすばっかで何もしてねえだろ?」
 握手を求めるJr.の右手がマシューズに伸びたところで、トニーのハスキーな声が飛んだ。空になったギムレットのグラスを揺らす優男は、心外だと言わんばかりの表情で、カウンターに片肘をついている。トニーの隣席でコネクションギアを弄るハマーは、モニターに釘づけた視線のまま、相棒の言葉に「そうそう」と首肯した。「補給はともかく、修理は僕らが指導してるんすから」
 唇を尖らせて文句を言いながらも、でたらめに思えるほど高速のタイピングがデータを打ちこんでいる。青いヘッドフォンからオルタナティブな音楽が漏れ、眼鏡の奥にある子供のような双眸には、四角いモニターしか見えていない。自分用のバランタインとハマーのコープス・リバイバーをウィンクつきで注文するトニーを眺めていたJr.は、マシューズに物欲しげな目を向けた。
「その馬鹿ども、俺は気にいってるんだよな。何なら、うちへ引きぬいて―」
「いくら旦那でも、それだけはご勘弁を。エルザはあいつら以外、認めとらんのです」
 マシューズはJr.の言葉を跳ね返すように両の掌を押しだすと、筋骨逞しい首ごとかぶりを振った。冗談と知りながら真剣な面持ちで返したエルザの船長に、Jr.は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「言ってくれるね。その男気で借金も返済してくれりゃ、ありがたいんだけどな」
「……耳に痛い話ですな」
 先程の威厳はどこへやら、マシューズは怒り肩を竦ませて目を泳がせた。事情を知らぬ者が見れば小生意気にすら映る威風堂々としたJr.よりも、その体躯の倍以上はあるマシューズの体がこぢんまりと大人しくなってしまう。広い背中を軽く叩き、気楽にいけよ、とJr.は彼を激励した。
「どうせ今回の客も〝ボランティア〟の最中に拾ったんだろ? いよいよ期限が差し迫ってるのに人助けとは、やあやあ慈悲深いこって」
「ははあ、何のことやら……」
 冷や汗をかいているマシューズには、尋常ならざる浪費癖がある。見かねたガイナンが借金を一本化してからというもの、現在では運送屋としてそこそこ真面目に働いているのだが、それでも到底、返済できるような額ではないため、必然的に生活費の工面としてアルバイトせざるをえない彼らの現状などJr.もお見通しである。
「あーあ、ばれてら」
「だから言ったのに」
 カウンター席では、トニーとハマーが素知らぬ顔でマシューズを諦観していた。U.M.N.の非常帯を傍受し、わざわざ辺境の連邦艦隊遭難ポイントまで航行しながら、凶暴なアンドロイドに脅迫されたことを発端に自分たちにはまったくもって関係のない非常事態に巻きこまれ、収穫はゼロ―むしろ、船体の損害を被ってマイナスという結果。ガイナンからの再度忠告だけではさすがに世知辛いものがある。
「ま、心配すんな。ガイナンは実務的な面で注意を促すだろうが、実際おまえらが少しばかり宇宙空間を掃除してくれようと、財団にとっちゃ屁でもねえ」
 悠揚として迫らぬ態度でマシューズを慰労するJr.は、にやにや笑いながら彼の脇腹を小突いて言った。「笑える額だし、もう無利子・無期限みたいなもんだ。何なら、死んでから返済したって構わないんだぜ」
「ちび旦那ぁ」
 ひらひらと手を振りながら去ってゆくJr.のうしろ姿を、マシューズは感謝とも非難ともとれる情けない声で見送った。カウンター席からJr.を眺めていたトニーは、睫毛にかかる金髪をかきあげながら、何だ何だ、と意外そうな声を漏らした。「すっかり機嫌いいじゃねえか、俺らのボスは」
「はあ、無茶な依頼されなくて何よりっす」
「まったくだ」
 ガイナンへの憤懣の矛先を自分たちに向けられては堪らない。いくら外見が少年とはいえ、彼の怒声や不機嫌な表情には青年相応の凄みがあり、銃口のように剣呑で威圧的な眼光は、可能な限り拝みたくない。ガイナンほど熟達の域には達していないが、エルザの船員はそれなりにJr.の扱い方を心得ている―つまり、触らぬ神に祟りなし。ハマーの応答を全力で肯定したトニーは、フィッシュ&チップスを豪快に摘んだ。古臭いラベルのボトルが陳列する壁のモニターでは、V.S.S.内のシミュレーション映像やコロニー内外のニュース速報がリピートされている。イギリスのパブ風の内装はひと続きの複合カフェから遊離しており、『Ye Olde Cheshire Cheese』と書かれたブリキのパブサインが艦長Jr.の趣味を大いに感じさせる(伝統などあるはずもないのに伝統的な古めかしさは、大体において観光事業目的よりも先に代表理事の趣味なのだ)。メニューを一覧しつつ女性バーテンダーの艶やかな褐色の肌にも目移りしていたトニーは、モニターにちらりと映ったJr.の射撃を見て眉をひそめた。
「何となく見物したけどよ、ちび旦那のありゃあ、おっかねえな。あの人と出くわす敵さんのほうに同情しちまうぜ」
 正確無比な弾道が敵の中心を貫通する。それだけで相手の全機能は呆気なく強制終了してしまう。銃弾に追尾機能でもあるのではないかと疑るほど、容赦がない。情けもない。戦闘用レアリエンと同様に躊躇がない。シミュレーションと理解しながらも、冗談抜きで逃亡する敵を憐れに思った。
 ほらほら、敵さんはもう白旗あげてるんだ。勘弁してやれよ、ちび旦那。それより俺らと一杯やらないか? 美人のバーテンに会えるぞ。
 道化のように軽口を叩き、平和な輪に入れてやりたくなる。そうした感情が芽生えるのは、やはり幼い外見の影響なのだろう。子供に銃は良くない。戦場になど行く必要はない。子供とは女と同等に男が庇護すべき存在なのだ。その容姿や動作、慈悲、無垢な精神でもって、怒張する男に安息を与える稀有な生きものなのだから。女子供が危険な状況にあるとして、彼女たちを見捨てる男なんざ男じゃねえ。そんな奴は糞だ、腑抜けだ。そうだろう?
 Jr.が外見相応の子供ではないことは、トニーも理解している。こうした扱いはJr.本人にとって侮辱となるだろうが、彼のことを放っておけないという者は、決して自分だけではないはずなのだ。普段からフェミニストを気どるだけあり、トニーは純粋で強固な人一倍の正義感を備えている。気障、優男、軽薄―あまり誉められたものではないレッテルを貼られようと、彼は頑として自分の信条を貫く。偽善も見栄も関係なく、身体的弱者のためならば自らの体を張って行動する。
 リズミカルな五指の演奏を最後のエンターキーで終演させたハマーが、グラスに残った最後の一滴を舌先で掬いながら、そうっすね、と興味なさげに答えた。
「おっかない人っすよ。僕が見る限りじゃ、これでもかって撃ちまくりながら口が動いてたんすよね。音声が入ってない分、呪詛みたいで気味悪いったら」
 トニーが指先の油を舐めとっていると、項垂れていたマシューズがようやく席に戻ってきた。自分のジャグを掴んだ彼は、わずかに残ったエールを一気に胃へ流しこむと、しわだらけの喉仏を派手に嚥下させた。
「おまえら、戦闘中のちび旦那を見たことないのか」
 そうか、そうか、と二人の顔を交互に見やり一人納得しているマシューズは、どうやら二人の会話を聞いていたらしい。「当たり前だろ、船長」トニーは小麦色の肩を大仰に竦ませた。
「俺たちゃ単なる運び屋で、ちび旦那は戦闘のプロ」
「外野で待機はしても、敵地まで同行する気にはなれないっすよ」
 コネクションギアをジャケットの内ポケットに仕舞い、ハマーは自らの怯懦を恬然と言ってのけた。今回の航行はハイパースペースでの無茶な戦闘によもやの白兵戦、果ては巨大グノーシスと散々だったが、エルザの本業は運送なのである。手元のシェパーズパイを頬張ったマシューズは、もごもごと口を動かしながら「俺は見たことがあるんだ」と言った。
「ほら、あれだ、去年の年明けか? ケルティアでのスパイスシスターズのライブ。あの翌々日に一度よお、ちび旦那の依頼でフィフス・エルサレム宙域端の廃棄コロニーまで飛んだろ。大人の背が必要だからって、ちび旦那が半ば強引に―」
 スパイスシスターズと聞き、二人の表情にも「ああ、あれね」と合点の色が浮かぶ。アイドル話なら長引くだろうと、ハマーは三人分の酒を一パイントずつ注文しながら、当時の状況を思いおこした。
「そうそう、船長だけコロニー内部まで連れて行かれたんすよね。ちび旦那のご指名?」
「船長、ガタイいいもんな。たまーに腹筋してるし。俺らより役立つっしょ」
「何おう? おめえらが死にたくねえって文句ばっか垂れるから、仕方なく俺が同行したんじゃねえか!」
 呑気な二人の調子に、マシューズは酔いと怒りで赤くなりながら怒鳴った。言われてみれば、Jr.から戦闘の可能性もある探索同行の要請を受け、二人して子供のように駄々をこねた覚えがある。そして、最終的に「船長がいいんだけど。頼むよ」というJr.の鶴の一声で、マシューズの同行が決定したような気もする。仏頂面で渋りながら出かけた彼が、なぜか神妙な面持ちで戻り、そのままフィフス・エルサレムへと航路を変更したものだから、二人してすっかり忘れていた。顔を見合わせた二人は、多少の罪悪感にへらりと苦笑いを浮かべ、そのときと同じ仏頂面でクリスプスを摘むマシューズに向き直った。
「単に死ぬのが怖いわけじゃないんだぜ。俺は生涯、船乗りだ。死ぬなら愛しのエルザと心中したいのさ―それか、女の腕の中で」
 まるで西部劇の決闘の場で宣言するかのように凛々しく、トニーは白い歯を見せて笑った。日系フィリピン人に近い艶のある薄茶の肌で、青と緑の入りまじった双眸が細められる。流れる金髪も含め、黙っていれば俳優並みの容姿なのだが、いかんせん粗忽さが目立つ。バーテンダーから三人分のジョグを受けとり、トニーは彼女に甘い笑顔で視線を送った。ハマーにいたってはトニーよりも性質が悪く、彼ときたらこう言った。
「あんな血生臭いとこで人生に幕閉じるくらいなら、神経デバイスで脳ハッキングでもされたほうが本望っす、僕」
 ハッキングはおまえの十八番だろう、とマシューズとトニーは内心辟易したが、身の安全のため口にだすことは控えた。何しろ、死体だと勘違いしていたKOS‐MOSを相手に鼻の下を伸ばしたり、好奇心から巨大犯罪組織のデータベースに易々と侵入したりするような男である。
 トニーはマシューズの肩に手を置き、「まあまあ、船長」と気楽な調子で言った。「無事に生きて帰ってこられたんだから、良しとしましょうぜ。こうして酒も飲めるんだし」
「金も入ったし」
「ばか、ありゃ借金から天引きだって」
 横からフォローを入れようとして墓穴を掘るハマーに、小声で突っこむ。マシューズの目は据わっており、珍しく何やら思案しているようであった。キャップのつばの下で影になった眼光が、たゆたうエールのように滑らかな光を湛えている。
「あの廃棄コロニー内で、何度か戦闘があってな。ちび旦那は、そりゃあ頼もしかった。もちろん俺も応戦したが、まあ腕も鈍ってる。ちび旦那が単独で一掃したようなもんだな。詳しくは話せねえが、あの人の戦闘を間近で見たのは、あの日が最初で最後だろうな」
 グラスへ言葉を注ぐような、彼にしては歯切れの悪い口調であった。話の意図が見えず、はあ、とハマーは箒頭を傾げた。「で、その旦那がどうかしたんすか?」
 マシューズは酒をぐいぐいあおってから重い口を開き、「最中、おかしな呪文をぶつぶつ呟いてんだよ」と呟いた。ハマーは納得した。自分が先刻モニターで見たJr.の口の動き―その内容をマシューズは知っているのだ。とたんに彼の中の好奇心が疼きだす。博識なJr.とは別の領域で、ハマーは知識を吸収することに喜びを感じる。
「へえ?」ハマーの隣でトニーがにやりと笑った。「魔法の呪文なら俺も囁くぜ。ベッドの上で、女限定だけどな」
「はいはい。トニーの頭ってほんと、船か女かだけなんだから」
 トニーの軽口で話の腰を折られ、ハマーは呆れ顔で彼の体を押し返した。気を悪くしたのか、トニーは「それがどうした」とドスの利いた声でハマーを正面から睨みつける。「悪いかよ。この二つとうまい飯と酒がありゃ、生きるのに何の問題もないだろうが」
「まあ、船と飯は同感っすけど、人間の女なんて数値リラテルのヌルにおける端麗さに比べれば、無駄が多すぎて嫌んなるっすよ」
 トニーの剣幕にも平然と対応するハマーは、ジョグにつけた唇を尖らせ、不服そうに意義を唱えた。自分も含め、肉体においても精神においても無駄な成分が蛇足のように下垂している人間より、自ら構築した複雑かつ不要物のないプログラムのほうが、裸体の流麗を感じるし、信用もできる。なぜならハマーには、U.M.N.という限定された無限の空間に自分の望み通りの世界を構築できる技術があるのだ。こんなことができたらいいのに、という人々の願望を、仮想空間で実現してしまえるほどの腕をもっている。その彼にとって、もはや仮想も現実も関係ない。女の体のように触れないと反論されても、そんな問題などエンセフェロンに実体化してしまえば即解決。まるで楽譜のように空間を埋めつくすプログラム言語、規則正しい羅列の何と洗練されたことか。典麗。どんな音楽や文学よりも流麗で、脳内イメージが寸分違わず眼前に完成された瞬間など、欣快のいたりだ。それなのに、何度説明しようと一般人に(懐古趣味を持つJr.とガイナンなどは、否定も肯定もしなかったが)ハマーの自論が理解されたことはない。腐れ縁のトニーとも、船の好み以外では一向に相容れない。このやりとりとて、何度目になるだろうか。案の定、慰めるように背中を撫でられた。その表情には憐憫と遺憾が如実に表れている。
「ああ、ハマー」トニーはかぶりを振りながら相棒の名を呼んだ。「プログラムに色気を感じるおまえより、俺は男として上等だと思うんだ」
「何すか、その憐れみの目は。僕らの周囲には、レアリエンや百式、今じゃアンドロイドにサイボーグまでいるんすよ。今さら相手の構築物質とか生産経緯なんて関係ないでしょ」
 レアリエンやライフリサイクル法被害者といった純血のヒトから見た人外に対する差別意識がいまだ根本で燻り続ける現代社会。それは、悪性腫瘍のように厄介な病を抱え、簡単に人の根底は変わらないと証明しつづけている。それにも関わらず、同じく純血の人であるハマーがこうも堂々と明言するとは。
「そりゃあ、俺の愛を感じて、俺を愛してくれる女なら、俺だって素体はどうでもいいさ。けどよ、数字や記号ばっかの他律機械なら、やっぱり別物だろ」
 トニーにしてみても、相手が女性であれば細かいことには拘らない。好みのタイプはあるが、その範囲内の女性と恋に落ちれば、むしろ障害があるほど燃える性質である。
「そしたらエルザはどうなるんすか」
「エルザは美人だ」
 特別だ、とトニーは答えた。
「でも、無機物っす」
「そんなの関係ねえよ。船乗りは船を愛するもんだ」
 世の女とは別の次元で愛している。
「じゃあ、僕がエルザの中央電脳を愛してたとしても、万年発情期のトニーには文句言われたくないっすね」
 粘着質な嫌みがたっぷりとこめられた口調に加え、お得意の人を小馬鹿にした憎たらしい顔でハマーは拗ねた。直情的なトニーの蜘蛛の糸より細い理性が切れるにはじゅうぶんな要素が揃い、彼の拳がカウンターを強打する。
「あんだと、このオタク野郎!」
 怒号を浴びせられ、胸倉を掴まれても、ハマーは涼しい顔をしている。
「何々? トニーの声なんて聞こえないっすねえ」
「てめえ、このやろ、またそれかよ!」
 こうして、いつの間にやら口論から談笑に落ち着くのが二人の常であるのだが、先に飽きたハマーのほうがクリスプスをもったり口に運んでいるマシューズの存在を思いだし、
「船長、それで? ちび旦那の呪文って何ですか?」
 と、当初の話題に流れを戻した。隣で大人しくなったトニーも、マシューズの側へ上半身だけにじり寄る。マシューズは半分閉じた目で、酒とつまみを胃に搬入しつづけており、二人の視線に気づくと「ああ、うむ」と目をしょぼつかせた。「羊がどうとか、神さんがどうとか―ほとんど無意識らしいが、とにかく気味が悪いんだ。いや、ちび旦那がってわけじゃあなくて、あの場の光景とあまりに懸け隔たってたもんだからよ」
 そう話して眉をしかめるマシューズだが、端的な話を聞くだけの二人に状況が想像できるはずもなく、
「ヒツジって何だっけ?」
「ラムやマトンの食肉になる家畜っすよ。毛はウール」
「ああ、高級品か」
 トニーにいたっては羊の姿さえ、うろ覚えである。それにしても、あの無表情で銃を連射するJr.が、羊の頭数を数えていたり、神に念仏やら何やらを唱えている姿は、確かに薄気味悪いだろう。モニターで映された彼の足元には、虚像とはいえグノーシスの死骸が散乱していたし、あの状況下では何を言われても死神の誘いにしか聞こえなさそうであった。
「聖書だと思うよ」
 唐突に、二人の背後から声が聞こえる。囁きにも似た穏やかな声に首筋を撫でられ、二人は小さく奇声をあげた。
「驚かせてごめんね」と謝罪しながらも、そこにいたケイオスは流水のような微笑を湛えている。微笑というより、達観の具現といえるかもしれない。真理や道理を悟り、俗事を超越し、その境地で物象を流しさるような微笑。ガイナンやJr.が見せる微笑にも中々の含みがあるのだが、ケイオスの場合はそうしたものが一切なく、総じてこちらの中身を隅々まで見透かされているような感覚に陥る。トニーより濃厚な褐色の肌に、濁りない翡翠の瞳が二つ填めこまれ、原石のような稀少の輝きを放つさまに心惹かれていると、宇宙の空虚が見えるようで知覚しているにも関わらず彼の存在は不確かに思える。
「〝屠り場に引かれる子羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった〟」
 ケイオスが言葉を紡ぐと、酔いどれが集うパブには不相応な神聖さがあり、その場は小さな聖域のようになる。大航海時代以前の人々が見上げていた月のように神秘的で、言葉は生誕のときより彼のものであったかのような適合を見せ、ケイオスの存在と完全に調和していた。しかし、マシューズは小さな聖域にケイオスとは異なる少年の姿を重ねていた。聖書、と口内で反芻する。そうだ、聖書。Jr.の唇の動きが脳裏で再生される。マシューズは呆けたように呟いた。
「ちび旦那が言ったんだよ、『俺は聖書で人を殺せる』って」
 約一年前の廃棄コロニーでの出来事が、浮草のように記憶の水面を漂いはじめる。コロニー内の閉鎖された廃工場。自分の前を歩く赤毛の少年。小さな掌に収まる古風な銃。靴音。埃臭さ。冷気。視覚をきっかけに、聴覚、嗅覚、触覚といった当時の感覚が蘇る。
「どうやって文字データで人を殺すっての。超古代の魔術ってやつ? ちび旦那に限って信じてねえだろ、そんなもの」
 トニーが疑問を呈した。常人には理解しがたい古代の芸術を愛し、事あるごとに男の浪漫を主張するくせ、仕事柄かJr.の基本的思考は科学的である。逆上時は別として、平常時であれば論理的、実証的に系統立て、物事を管理する。トニーの記憶にあるガイナンJr.とは(「占術なんつーのは所詮、統計学と確率論なの」「はあ、幽霊? グノーシスの原理と似たような原理だろ」「運命なんてありゃしねえ、原因と結果があるだけだ」)ことごとく夢を切り捨てる、ロマンチシズムの欠片もない男。当人はガイナンのことを「夢のねえ男」と概評するが、トニーから見れば二人は親子揃って現実主義者。そもそもJr.が〝夢〟という単語を使用すること自体に違和感がある。
「電子バイブルじゃなくて、紙の本のことっすよ。ほら、第一博物館の展示物みたいな骨董品」
 自分のこめかみを指で押さえたハマーが、ミルチア博物館の展示物を例に挙げた。記憶を辿るような彼の提言に、ケイオスが首肯する。
「グーテンベルク聖書だね。A.D.一四五五にドイツで世界初の活版印刷として制作された本だよ。当時の技術の粋を集めた書物で、出版史上最も美しい本と言われている。Jr.に招待された博物館で観たね」
「ああ、あれ。船長がケースに手垢つけようとして、ちび旦那にこっぴどく説教されたやつ。あの分厚さなら確かに鈍器だな。一〇〇パーセント天然パルプでも思いっきり角をぶつけりゃ、やれるかも」
 合点したトニーは、展示されていた聖書の厚みを親指と人差し指で推し測り、それをハマーの鼻先に突きつけた。しかめ面のハマーが、トニーの指を掴み返して羽虫のように架空の厚みをぎゅっと潰す。
「あのちび旦那が、紙の本を鈍器に? いやいや、考えられないっすよ。あの人の懐古趣味って、もう異常の域っすもん」
 膨大な文字をデータベース化して専用端末で読書を楽しめる現代に、保管が面倒で場所をとり、言語の変換も不可能な紙の書籍を好んで読む者は一部のビブリオマニアくらいである。そうした意味で酔狂な部類に入るJr.は、つい先日もサザビーズでレオナルドの手稿やら、ドイツ語やフランス語やスペイン語で書かれた大英帝国史やら、そうした紙の束を気の遠くなるような金額で落札していたくらいなのに、とハマーは力説したが、「ちび旦那も、おまえにだけは言われたくないだろうぜ」とトニーは双方に呆れた。
「船長、どうなんすか」
 真相を迫る二人の視線に、マシューズは気おくれして「俺だって宗教なんぞに縁はねえし、そんなこと知るかい」と口ごもった。「まして聖書なんてなあ、宇宙一のロングセラーだか何だか知らねえが、あんな小難しいもん、金積まれても読みたいとは思わんぞ」
 つまらない、と二人は拍子抜けした。好奇心は不完全燃焼のまま萎えてゆくが、もともと酒の肴に膨らんだ他愛ない話題であるし、酔いの勢いもある。一度寝つけば忘却も必至だろう。どうでもいい話で盛りあがり、明日になればエルザを修理しながら、似たような話題で爆笑しているかもしれない。彼らにとって重要な目的とは、要するに会話の内容云々ではなく、今という時間を存分に楽しむことにあった。
「どうした、ケイオス。やけに上機嫌だなあ。おう、まるで聖書にでてくる聖人みてえな顔してるぜ」
「船長、聖人なんて見たことないっしょ」
「それ以前に、あんた聖書も読んだことねえんだろ」
 新たな酒を酌みかわす三人の視線を受け、ケイオスは格別にっこり微笑んだ。確かに今日の自分は機嫌が良いのだろう。理由として、人生を謳歌する三人の笑顔に密かな安寧を感じたことが挙げられる。それから、もう一つ。
「そうだね、聖母と出会えたから」
 いまだ昏睡状態ではあるが、懐かしい女性と邂逅した。素晴らしいことが起こるよ。誰にともなくケイオスは呟き、それに気づかず酒を呷る男たちがおもしろく、今度は苦笑した。
 これから世界は激動の渦に呑まれるだろう。今になっても自分は迷っている。しかし、彼らと行動をともにすることで答えを見出せるような気がする、という根拠のない自負はあった。いや、根拠ならある。彼らとともにすごした逸楽の時間が証明になる。大丈夫だと僕は思いたい。Jr.にはまだ罪状が必要なようだけれど、彼は自分の認識より強い人間だし、選択のときが来れば自らの力で聖書も閉じられるよ。そうだろう、マリア。
 手袋の中で、ケイオスの拳が熱を帯びる。マシューズはジーンズの尻ポケットから、着火に失敗した葉巻を取りだした。酔っ払ったトニーとハマーのヨタ話に相槌を打つ一方、脳裏では浮草の記憶がいまだ水面を浮遊していた。特に追想するような甘い記憶ではない。むしろ畏怖すべきものである。当のJr.も銘記されていては迷惑だろう。ならば、記憶の奥底で蓋をするために最も効果的な方法は酒と快楽である。まあ、これも飲むための口実に他ならないが、と内心で己に苦笑しながら葉巻を銜えた。


 Jr.とマシューズが立ちいった場所は、ひと昔前に閉鎖された小規模プラントの廃工場であった。名も知らぬ精密機器の残骸が随所に山積し、放置されたまま埃を被る圧搾機から天井を見上げれば、幾何学的に交差する鉄骨の梁から大振りのチェーンが蔦のように垂れ下がる、陰鬱な空間に二人分の靴音が響く。辛うじて稼動しているものは、十字の羽根を伸ばした排気ファンくらいで、低音の唸りをあげながら回転するファンの影がナイフのようにJr.の首元を横切り、硬質な床に落下している。壁面の高所に穿たれた窓がアルミで目張りされているせいか、工場内は日中でも薄暗く、埃臭い空気が淀んでいた。二階に吹きぬけた天井は開放的に高く、忍ばせた靴音も鉄骨に反響してしまう。労働者で賑わいを見せていた頃であれば、圧搾機の稼働音だけで鼓膜の内を満杯にされていただろう。操業を停止した現在では物音を立てる原因とて見当たらないが、Jr.の調査によれば、とある製薬会社の研究機関が近年まで実験施設として再利用していたらしい。すでに部署は検挙され、被検体の救出も完了しているため、事件自体は解決しているそうだが、Jr.は何らかの痕跡を捜索しているらしかった。マシューズが知りえる情報の範囲はそこまでの域をでない―あの日に限らず、小さなボスの真意を推し量れたことはなかった。自分たちの関係はあくまで雇用主と雇用者という上下関係であり、あまり大っぴらには言えない過去がマシューズ自身にもあるため、Jr.のそれにもあえて触れる気などない。クーカイ・ファウンデーションは過去より未来を重視する。ライフリサイクル法の被害者を初めとして、厄介な過去を抱えた者たちが導かれたように集まり、慣れない頃は傷を舐めあうだけでも、やがて活気に満ちた日々を一人一人が自ら再構築する意志を持つようになる。人類と時代そのものが、変化を望んでいる証なのかもしれない。
 マシューズは注意深く周囲を見渡していた。間断なく轟音の唸りをあげ、大気を震動させていた機械であろうとも、完全に沈黙した現在の廃墟の仄暗がりは、不可侵の静寂に支配されている。目張りされた隙間から一条の光が弱々しく照射し、空気中には薄く埃が舞っていた。比較的瓦礫の少ない通路に到着すると、瞑想するかのごとく黙していたJr.が、ゆっくりと瞬いた。肉の薄い瞼が緩慢に持ちあがり、閉口した空気を射抜くような眼光が、つりあがり気味の眦から放たれる。完璧な造作の双眸に填めこまれているものは、精巧に似せたサファイアのように青い瞳で、人工物を思わせる硬質さの瞳に宿る狂気は、長く優雅な睫毛で縁どられ、ノーブルに筋が通った鼻梁は、精緻な彫刻のように冷たい。マシューズには、鋭い輪郭を持たない少年期特有のしなやかな肢体も、万能の神ではなく傲慢な人間の創造物に思えてならなかった。
 船長、抜かるなよ。
 幼い顔に浮かぶ不敵な笑み。沈殿する空気を切りさく挑発的な声につられ、構えた銃で警戒を強める。視線の先、廃工場の最奥の作業室に戦闘服を着込んだ十数人の集団が話しこんでいた。室内には通過してきた作業室と同じく機器の残骸が散乱しており、その惨状を見たJr.が舌打ちした。おそらく彼らは何の情報も与えられていない末端の兵士だろう。服装は言うまでもなく研究者と一線を画しており、下卑た笑いや乱暴な銃器の扱いが彼らの若さを物語っていた。腕章は見慣れぬもので、U‐TIC機関のように画一的な統制もとれていない、街のならず者に毛が生えたような集団であった。敵までの距離は約三二フィート、今のところ自分たちの存在は気づかれていない。マシューズと同じく目測でおよその距離を割りだしたらしいJr.は、古式銃の重量を確認するように五指を開閉し、すっかり体温の馴染んだ相棒を把持し直した。マシューズも右手でグリップを握りこみ、左手で銃底を支えて固定する。発砲時に弾道がぶれぬよう、それを念頭に置きつつ足を肩幅まで開いた。屯する兵士の数は十九人。マシューズの銃はレーザー式だが、Jr.のそれは時代錯誤なリボルバー。弾倉を交換する手間を考慮しても四十秒―いや、三十秒以内には蹴りをつけたい。
『屠り場に引かれる子羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった』
 Jr.は呪いめいた儀式のように言葉を発し、銃身に彫られた金色の十字架のレリーフへ、恭しくキスを落とした。無学なマシューズにも理解できた―放たれた言葉は、戦場に不似合いな神聖さを内包したものであろう、と。
『捕らえられ、裁きを受けて、彼は命をとられた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを』
 廃工場の暗がりに、少年独特の甲高さと掠れを含んだ声が反響し、それが合図となった。声変わりの過渡期なのだろう不安定な声が、官能的に大気を震動させる。同時に埃以上に乾いた銃声が連続し、小さな体が豹のように転がって敵の攻撃を避ける。攻撃と防御は一体で、重力の意味など知らぬかのように宙を舞い、両手のリボルバーから最低限の弾数を撃ちだしている。一発、二発、三発、着地。薬莢の金属音が軽やかに転がる。兵士三人の体を、Jr.の特殊な銃弾が貫いていた。たった三発で三人が死んだ。呆気なく倒壊し、肉の塊となった。湧いた血だまりが目に入る。戦力外となった敵には見向きもせず、Jr.はトリガーを引きつづける。驚愕していたマシューズも、我に返って応戦した。彼に援護は必要ない。せめて足手まといにならぬよう、己の身を守らなければ。最新式のレーザー銃が、敵の胸に焦げ跡を残し、見事な空洞が人体の中央に開いた。敵の銃火器は四方を舞う。窓が木っ端微塵に粉砕し、弾丸を反射した機械の残骸が凶器となって弾けとぶ。
『教えてください、主よ、わたしの行く末を、わたしの生涯はどれほどのものか、いかにわたしがはかないものか、悟るように』
 トリガーを引く指はとまらない。子供のように無邪気に、臨終間際の老人のように悟り、一切の表情を打ちけして敵を排除する。
『御覧ください、与えられたこの生涯は、わずか、手の幅ほどのもの。御前には、この人生も無に等しいのです。ああ、人は確かに立っているようでも、すべて空しいもの。ああ、人はただ影のように移ろうもの。ああ、人は空しくあくせくし、だれの手に渡るとも知らずに積みあげる』
 そいつは俺だ。内心で反駁し、マシューズも休みなく銃を撃ちつづけた。自分が地で戦い、Jr.は天で戦っているようであった。機械的なまでの正確さと精密さ、銃弾の発射から敵を撃ちぬくまで、コンマ一秒の狂いもない。死を撃ちこむ鎌である銃を撃ち、Jr.は唱えつづけた。
『主よ、それなら、何に望みをかけたらよいのでしょう』
 ここまで十三人。全弾を命中させることができる理由は、生まれもった稀有な身体能力と、おそらく幼少時からの訓練の成果だろう。そのことについてJr.は特に感慨もなさそうだが、血生臭い環境で研磨された才能に助けられ、今日まで生き永らえてきたことも、自分と同じく事実であろう。実際、彼に備わるそれらのものは、一歩間違えば人殺しの才能としか定義しようのない危険極まりない性向である。悪寒に似た寒気がマシューズの背中を伝う。
『わたしをさいなむその御手を放してください。御手に撃たれてわたしは衰え果てました。あなたに罪を責められ、懲らしめられて、人の欲望など虫けらのようについえます。ああ、人は皆、空しい』
 銃声の反響が凄まじい。銃火器を振り回す敵の絶叫以上に、まっすぐ鼓膜をつんざく。不協和音に顔を歪ませた直後、Jr.の体がマシューズの前に転がりこんだ。
 間一髪、敵のトリガーより素早く、Jr.の古式銃が火を噴いた。礼を言う暇などもちろんなく、それでなくともJr.は一瞬でマシューズの下を飛びのき、残った最後の兵士に照準をあわせた。自分の古びた腕時計を一瞥すると、銃声の開始からちょうど三十秒が経過するところであった。冷徹なJr.に表情はない。能面のようなそれが恐怖を煽る。案の定、その恐怖にあてられた敵が、容量超えの戦慄に後ずさりし、味方の死体に躓いた。幼い両手で固定された照準はまったくぶれていない。その手の倍はあろうかと思われるマシューズの無骨な手が、処刑を制するかのようにJr.の肩へ伸びる。
 数多の戦闘でがむしゃらに生きのび、惨憺たる光景の戦場を幾度もくぐりぬけた。人が人の形だけを残し、狂気の塊へと変貌する様を目の当たりにした。生死の境界がサイコロ一つで決定するような、最悪に陰惨な日々であった。戦争が終わり、兵を退いた今も、自分が赦されるとは思っていない。敵という所属の人間を殺し、仲間を見殺しにしたこともある。だが、罪の意識に束縛されたまま今を嘆くよりは、踏み台にした命のぶんまで生を謳歌し、迎えが来たときには、先に逝った者たちと胸を張って再会できる男でありたい。未来ある若者たちの未来をつくりたいと、柄にもなく願うこともあった。Jr.の実年齢など知る由もないが、それでも自分より多少若いだろうことは窺いしれる。生きながら死んだようなその眼は、若い彼には不相応ではなかろうか。絶望するには尚早だ。
 笑ってくれよ、ちび旦那。あんたがどれだけの年月を生きて、どんな人生を歩んできたのか、俺はこれっぽっちも知らんがなあ、若いもんがそんな顔してちゃいけねえよ。
 マシューズの手がJr.に届くより早く、
『塵からは、災いは出てこない。土からは、苦しみは生じない。それなのに、人間は生まれれば必ず苦しむ。火花が必ず上に向かって飛ぶように』
 死の臭いに満ちた室内で、銃声が鳴った。天窓から射しこむ一条の微明が、散乱するガラス片を幾多の角度から照射し、薄暗く静謐な空間をオパールが眠る鉱山のようにきらめかせる。光を反射するガラス片は、死体から漏出する血だまりが映りこむことでルビーを思わせる輝きを放った。
 人間の死体が散乱する惨状であるにも関わらず、こうも詩的な自分が信じられない。おそらく彼の影響だろうと、解読可能なコンピュータを片っ端から漁るJr.の姿を見つつマシューズは思った。棚上や壁面など、Jr.の手が届かない場所には手を貸すが、それ以外で自分の役割はない。銃撃による手首の懲りを揉みほぐしながら周囲を見渡していると、虚ろな兵士の眼とかちあい、一応なんまんだぶ、と以前トニーから聞いた冥福を祈るらしい語を唱えてみた。こんな時代だから、とマシューズ自身も幼少の頃からコークの空き瓶などを的に射撃の訓練をしたものだ。子供の小さな手に発砲時の反動は凄まじく、手首を捻挫しそうな衝撃に思わず銃をとり落としたこともある。自分の場合、成長に伴い骨格がしっかりと安定し、連射の反動にも耐える体となったが、Jr.の外見年齢ではかなりの負荷がかかるだろうに、彼は平然と今の作業に没頭していた。大したものだと敬服し、マシューズは戦闘中のJr.の妙な儀式のことを思いおこした。
 縁起担ぎか何かですかい?
 主語もなしに好奇心が口をつく。押し黙っていた彼からの問いにJr.は動作を一時停止し、それから背を向けたまま、ああ、あれね、と合点してデータ収集の作業を再開した。
 まあ、癖みたいなもんかな。冒涜だろ? 機械相手にはならねえんだけどさ。気が散ったなら謝るよ。
 気軽な口調で答えるJr.の手元から、キーボードを高速で打つ音が聞こえる。いずれのコンピュータもモニターが破壊されていたり、ドライブを粉砕されていたりと散々な状態なのだが、Jr.は配線を弄り倒してサーバーを復活させ、システム同士を同期するなど、零細な情報も入手しようと試行錯誤していた。正直、この理事が真摯に仕事にとり組む姿を見るのは久方振りであった。マシューズが彼を見かける場所といえば、カジノやパブ、ジャンクショップといった娯楽施設が主であり、デュランダルでの艦長然とした姿のほうが縁遠く、悪戯好きの博識な少年というイメージが強いのである。だが、正確無比な射撃の腕もしかり、卓越した機械の知識もしかり、無意識の暗唱癖とやらもしかり、不動の地位も今であれば納得できる。
 稼動可能な最後のコンピュータをブーツの角で蹴りとばし、糞しかねえな、いや糞より死物か、とJr.が吐き捨てた。一応コネクションギアへの転送を見届ける彼を眺め、データは入手できたんじゃ、とマシューズは疑問を呈した。
 いや、俺も把握してる時効の情報でな。ま、当然といえば当然さ。
 もとより期待薄だったらしいJr.は、あっさりと気持ちを切りかえ、悪びれた素振りもなくマシューズを見やった。
 悪いな、船長。
 いえいえ、これも仕事の内でさあ。たまにはこいつも撃っとかんと、腕が鈍っちまうんでね。
 腕にかけた銃を掲げてみせると、Jr.はにやりと笑った。
 へえ、おかしいな。〝たまには〟って腕にゃ見えなかったけど。
 ぐうの音も出ない。自分が普段から訓練している事実は不詳のはずだが、たった三十秒程度の、しかも銃撃戦の最中に見抜かれていたとは。トニーやハマーに無意味な男の意地で隠し通していても、マシューズは前線を退いた今も肉体の鍛錬を怠りはしない。習慣づいたものもあるのだが、自分の肉体に老いた鈍りを認めることが癪でこっそりと続けている。明敏犀利。鋭い洞察力にはお手上げだ。自分を同行させたのも、それをあらかじめ推定していたからかもしれない。
 エルザに帰船しようという頃、まだ死臭を発していない死体の前でJr.がマシューズを呼びとめた。
 ここからフィフス・エルサレムまで飛んでくれるか。
 そりゃあ、航路沿いですし構わんのですが、また仕事で?
 実験プラントに到着してから半日ほどが経過している。最寄りのU.M.N.転移コラムでゲートジャンプを実行しなければ、三日でフィフス・エルサレムに到着できるだろう。そのぶん日程はずれこむが、もともとエルザに仕事が舞いこんでくるほうが稀であり、それにも関わらず趣味や新しい事業など手当たり次第に手をつけた結果、借金ばかりが嵩んでいる始末。僅少でも借金を天引きできるなら、それに越したことはない。しかし、小さな体の一体どこにこれほどのバイタリティがあるのだろうと、マシューズはしょぼくれた目を丸くした。会話の流れで訊ねられた彼の問いに、Jr.はしばし思案したのち、あんたなら、と頷いた。
 プラントからとんずらした元高官の暗殺さ。連警はあてにならねえ。さしで話したあと、生きていられちゃ拙いんだよ。
 さらりと粉薬を飲みくだすような物言いで、Jr.は黙々と古式銃のシリンダーに装填した弾丸を確認している。昨日ウォッカの瓶を空にした酒気など一気に吹っとび、マシューズは驚きいった。
 あ、暗殺って、危険じゃねえんですかい。
 だから俺がやるんだろ。
 何を今さら、と呆れ顔で振りむかれ当惑する。絶対的な自負と当然のごとき自己犠牲が共存する彼の言葉に、マシューズは肯定も否定も返せない。Jr.はマシューズの背中を軽く叩き、出口の通路へと歩きだした。所々に血だまりの模様をつけた床を踏みしめながら大股で進むJr.を追いかけようと、マシューズも重い腰をあげる。常日頃から豪放磊落な男が辛気臭く黙りこんでしまったので、Jr.の方も少々困ったらしい。彼はキャップを深く被り直しているマシューズを振り返り、道化を演じることには慣れた様子で、マジになるなよ、船長、と苦笑した。
 元軍人が感傷に過ぎるんじゃねえの。素人じゃあるまいし―
 言いかけたところで、歩くJr.の動きがとまった。足元の積もったガラス片を無造作に蹴りのけ、銃のグリップを握りしめた彼は、半開きの鉄扉に背をあてた。体重をかけた扉が錆びた軋りをあげて開き、網膜を焦がす白熱の奔流が殺到してくる。マシューズは外の眩しさに目を細めた。左手で手庇をつくると、その影で右手の古式銃を掲げるJr.の姿が光線の合間に見える。
『昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う、〝おまえの神はどこにいる〟と』
 マシューズの眼に、鮮やかな血飛沫が映った。約九八フィート先にある廃棄物処理場の影にひそみ、今まさに腰だめに抱えた自動小銃でこちらを蜂の巣にしようとしていた兵士が、右胸を銃弾で貫かれていた。もがき苦しむ暇もなく迅速な死で、破裂した右胸から鮮血を噴出させた兵士はすでに地面に倒れふしている。兵士の最期を無感動に見届けたJr.は、マシューズを振り返り、
 自分の尻は自分で拭くさ、こんなふうにな。
 と、不敵に笑った。赤毛は日光に輝きをとり戻し、自分とよく似た青の双眸が遠慮なく見上げてくる。あらゆる驚愕で言葉がない。探るような眼差しにマシューズの目が泳ぐ。自負、威嚇、牽制、虚虚実実に打たれた先手。誰にも言うなよ、とでも言いたげな偽の無邪気さ。無言の圧力が、マシューズを空気ごと嚥下する。寒気とともに一筋の汗が広い背中を伝った。
 それから先の会話はごく他愛のないもので、Jr.は常と変わらず博識ぶりを発揮してマシューズの耳を楽しませ、マシューズは自分の武勇伝を大仰に語り、以降Jr.の例の仕事については何も問わなかった。
 一六・一七世紀なら、シェイクスピアもおもしろいぞ。
 ははあ、しぇいくすぴあ……古代人はずいぶんと詩的な奴が多かったようで。インドア・エンターテイメントも普及してない時代だからか。今じゃ宇宙のど真ん中で哲学なんぞを論じようと、一銭の金にもなりゃせん。
 まあな。U.M.N.を介した知覚リンクデバイスが氾濫してる現代じゃ、想像力も大して必要ねえし。脳に直接送りこんだ情報なら〝現実にある現象を仮想的に体験した〟なんて考え方は、もう前時代的さ。今の常識じゃそうした行為は〝U.M.N.による情報体験を現実に行った〟と考えるだろ。肉体を用いた体験も情報体験も、ともに現実に存在する体験で、拡張現実として相互に関係してる。わざわざ文字データを視覚からとりこんで脳内で進行する映像として再構築せずとも、ヘッドギアを装着すりゃ過去も未来も体感できちまうんだ。専業作家が食っていけねえのも当然だよな。
 Jr.は肩を竦めた。担いだ銃をぶらつかせ、二人して空を仰ぐと、常闇の宇宙に幾億もの星の輝きが見える。夕刻の空気は冷えていた。
 じゃ、何ですかい。妄想や幻覚も現実の体験ってことになるんですかね?
 人が接する、あらゆる現象は現実の体験だろうな。体験した内容の現実性を問うことと、体験した状態そのものの現実性を問うこととは、まったく別の問題だろうが。
 Jr.の考えに、ほお、とマシューズが頷く。荒廃した土地に停泊するエルザの船体は、もう目前に迫っていた。そのエルザを背にJr.が振りむく。知ってるか、と紡いだ唇の上で、爛々としたブルーの双眸がマシューズを見据えた。
 エンセフェロンの無法地帯じゃ、ヘッドギアセックスでの売春や麻薬取引、原種保護法なんてどこ吹く風の生体臓器売買、果てはレアリエンの人身売買まで氾濫してるんだ。俺らが理由も忘れるほどドンパチやって死んでく裏で、臓器を毟りとられて死ぬ奴ら、いかれた変態に虐待されて死ぬ奴らがごまんといる。仮想空間で連邦のお偉方がスラム街の連中と、双方が姿を変えてることも知らずに仲良くやってたり、仮想においては真実に近いものほど価値が低い。エンセフェロンとあっちゃ連警もお手上げ、U.M.N.管理局の監視も隅々まで手は回らねえ。昨今、生身の人間でさえ出来の悪い生体部分を完璧な品に換えたがる始末だ。仮想と現実、精神と肉体、境界なんて曖昧だろ。それがこの世の現実さ。真理じゃねえが、本質ってこと。
 皮肉めいた口調には、自嘲的な含みもあった。エンセフェロンを介して横行する犯罪の噂はマシューズも耳にするが、仮想空間より現実味のないものでしかなかった。それが、実際に光景を見たようなJr.の口振りにより、一気に身近なものとして感じられるのだから人の感覚とは不思議なものだ。想像も体験した状態そのものとしては現実であるのだが、想像された世界のほうは一体どこにあるものだろうか。思考するほど不可解になる。
 人様もお偉くなったもんだ。まるで神になったつもりでいる。
 ははっ、違いねえ。Jr.が声をあげて笑った。
 だからこそ、俺は紙の本に人間の英知を感じるね。理性があるだろ。
 記憶というものは一時的なデータとなり、削除されることもなく脳の奥底まで沈殿してゆく。強い酒も入っていれば、なおさら虚構と事実の狭間で不安定に揺らいだ。一年前の出来事だったはずが、口伝の昔話のように荒唐無稽に思えてくる。人間の記憶とは実に精度が低い。エルザへ乗りこむ直前に呟かれたJr.の言葉だけが、唯一マシューズの脳で鮮烈かつ克明な色を残していた。
 その延長にねじ曲げた信仰を見出すのも、人の業だがな。〝悪魔も自分の都合で聖句を引く〟なら、俺だって中身は腐った林檎だろうよ。
 少年らしからぬ幽冥な青い眼をした自分より一回り以上も小さな魔の、その善悪は判断しかねる。マシューズには、彼についての存知が幾許もないのだから。わかっていることは、彼が人間の内だという事実だろう。
 船長、俺は聖書で人を殺せるんだ。
 そう言って背を向けた彼は、天使でも悪魔でもなく、ましてや神でもない。