溺れる魚 5


Timeline: EP1, after arriving in Kookai Foundation



 アルファベットや整数の一つ一つが別物であるように、669にしてみれば666という存在はまったく未知の存在であった。U.R.T.V.としての最終的な調整を完了し、二体の変異体より一年ほど時を遅くしてニグレドは世界というものを目にしたが、そんなものは彼にとって一分の価値もなく、エンセフェロンで極々少数の人間が感じる心身の乖離のように、現実として違和感があった。無機質な施設も無機質な人間も、ニグレドの世界では単にのっぺりとした背景の内に他ならない。そうしたニグレドにとって、彩り溢れる始まりの日は歳月に流され色あせることもなく、脳内の特別区域に保管されている。一般的には美しい思い出と呼ばれるものなのかもしれない。
 ニグレド、一緒に遊ぼうぜ。
 調整室にて検査やら補正やら、ニグレドを正常で有用な兵器として世に出す諸々の工程が終了した日のこと。ひと足先にインスティテュートを駆け回っていたルベドは、ニグレド本人の意識的覚醒よりも早く調整室へ飛びこんできた。親父に許可はもらったから、と研究員の制止も聞かずに牽制するルベドによって、ニグレドの手は当然のように掴まれ、ぼんやりと虚ろなまま実験棟の外まで連れだされた。ルベドは兵器として信じられないほど強引で、遠慮のない温もりで甲を包みこまれていると、ニグレドの体は妙な熱をもった。
 眩しい。
 まず始めに、光があった。わずかな影の濁りさえかき消す光が、眼球から侵入するなり全身を焼いた。どこかで眼球を落としたのかもしれない、と思うほどにまばゆい。際限なく襲いかかる光の奔流に視覚が戸惑っていると、比較的冷静な聴覚でからからと陽気な音を聞いた。ルベドが声をあげて笑ったらしい。
 調整室って陰気臭えもんな。大丈夫、俺も最初はそうだったから。慣れちまえば平気さ。
 自信に満ちた声の通り、持続する衝撃のように強烈な光は、虹色の点描と黒い残像を置きざりにしたまま徐々に薄れ、対照的に周囲の景色が輪郭を露わにしていった。すべての輪郭がはっきり描かれると、次は色彩が各々の体色を思いだす。誰に決定されたのか、それらは見事に分散していた。真っ先に視界に入った色は、赤だ。体内を循環する血液やルベドの頭髪と同じ色だが、それは血でもルベドでもなかった。
 その花、きれいだろ? バラって名前なんだとさ。白や黄色の種類もあるよ。
 ニグレドは、ここの物質に名があることも知らなければ、美の基準値どころか概念すらも設定できていなかった。しかし、〝バラ〟という単語には覚えがある。ルベドから借りうけた古書に、それと同じ名が記されてはいなかったか。
『ああ、五月の薔薇よ、可愛い乙女、優しい妹、麗しきオフィーリア!』
 そう、『ハムレット』という作品の劇中で、この植物を見たではないか。ああ、五月の薔薇よ。脳内で反芻する。他にも色々とドロイドの皆が世話してくれてる、とルベドが指折り数えながら説明してくれた。バラを眺める青の眼差しは、穏やかで慎ましい。
 実験棟はつまんねえけど、インスティテュート全体で見ればおもしろい場所も結構あるんだぞ。ニグレドなら全部、教えてやるよ。きっと好きになるから。
 親父には内緒だぜ。白い歯がのぞく唇の前に人差し指を立て、ルベドは悪戯っぽく笑んだ。あらゆる技術の粋を集めて誕生させた兵器の表情は、人間であるはずの研究員よりも色彩豊かで、多面体のようにくるくる変化する。バラを眺めているより、おもしろい。
 物事の推論の基礎となる事実や情報は、デザイニング段階で遺伝子データとして刷りこまれているものの、それは兵器として有益かつ実用的な参考資料ばかりであって、こうした美感を含む感覚についての知識など当時のニグレドにはなきに等しい。ニグレドが見るバラとは、赤い折り重なりの連続による歪な円であり、いかにも軟そうな棘を持つ緑の支柱が、肥料まみれの地面からおおよそ垂直に伸びている。そうとしか見えない。このバラという物体の存在は認識できるが、その先に感じるものはわからない。
 ねえ、666。
 ルベドでいいよ。俺もニグレドって呼んでるのに。
 わずかな怒気を含んだ乱暴な口調で、ルベドは訂正した。切望にも近い、有無を言わせぬ強要があったが、感情の機微に疎いニグレドでも判断できるほど、表情には阻喪が見てとれた。傷ついたような視線にいたたまれなくなり、ニグレドは、どうして? と訊ねてみた。間違った発言はしていない。もともと〝ルベド〟や〝ニグレド〟という固有名称は、昆虫の標本において、ナンバーと別の分類をするためラベルを貼るような用途で与えられた程度のもの。U.R.T.V.の変異体は個として最低限の境界を設けられた画一的な兵器であり、全体で一つの意思を共有する標準体はいくらでも交換がきくため、個体としてすら扱われない。研究員はこの名称をもとに、変異体を特化能力のない標準体と別途カテゴライズし、彼らと比較しながら研究・実験を行うのである。粘着性のない殴り書きのラベルに拘る理由など、どこにあるのだろうか。
 ルベドは困惑に回転する眼差しをニグレドへ寄越した。虚を衝かれた様子で、しばらく質問の意味を理解できずにいたらしいルベドだが、庭園の中央に設けられた噴水が噴射のパターンを変えた瞬間、爽やかな飛沫の音で弾かれたように一人納得した。思考より先にせっかちな唇が動く。
 なぜって、おまえは俺の弟だから。
 そうとしか言いようがない、決定だ。血縁という事実証明もあるのだろうが、ルベドの言葉には血脈以上に絶対的な要素が含まれているように聞こえた。
 俺たち、兄弟だろ。
 まるで母親の腹に度々耳をあて、胎内で成長する生命を十月十日ずっと待ちわびていたかのように、自分を見つめる真摯な眼差しを受け、ニグレドは瞠目した。受け継がれる血脈によるつながりというものは、有機体特有のものである。オートマチックに量産された無機物からなる通常の兵器の場合、製造順序や性能・方式の引継ぎなどの関係性があったとしても使用者が参考とする情報でしかなく、多彩なモデルのバリエーションがあろうと兵器自体からは何の主張もないのだが、厄介なことにU.R.T.V.の肉体は人と同じもので構成されているし、何より彼らには意思があった。内部を流れるものはオイルではなく生温かな血で、666に関していえば、喜怒哀楽の感情まであった。その意志は人間以上に人間らしくありたいと切望しており、もはや〝ルベド〟として確立していたのである。
 ルベドに認められた僕も、ルベドのようになれるのだろうか。ニグレドは臓器がつまっているだけの胸で未知の高揚を感じた。
 だから、ニグレドも早く俺の名前に慣れてくれないと。それに、アルベドの名前も。あいつ、ちゃんと構ってやんないとすぐ拗ねるからさあ。兄貴になった自覚がねえんだ。
 ルベドはつないだ手を振り回しながら、どこまでも陽気に、足取りは軽やかにニグレドの前を行った。アルベドに関してならば話題は尽きないらしく、白い頭髪と紫の瞳の形容から始まり、共同で成功させた悪戯の数々まで、ルベドは背中にくっついていた弟について事細かに話してくれた。ニグレドが生まれるまで、ルベドには弟の自慢も愚痴も零せる相手がいなかったという。泣き虫だし甘えん坊だしで困ると言いながらも、口元はだらしなく緩んでおり、唇はしゃべり足りない、とでも言うように忙しなく動いていた。
 困った奴だけど、ニグレドもきっと―。
 慣れてしまえば、好きになる。
 え?
 ニグレドに言葉の先をつづけられ、ルベドは驚きに声をあげた。その言葉が、慣れてしまえば平気だ、きっと好きになる、と言ってみせた自分の引用であると気づくと、ああ、うん、と曖昧に頷いた。上空を覆う青より深いブルーの瞳が、今も蒼、群青、藍、瑠璃と色を変えており、どれも初めて目にするニグレドは絶え間ない変化に眼がくらんだ。後々、惑星ロスト・エルサレムの写真を見たことがあるのだが、思えばルベドの中身はあの惑星によく似ていたと思う。とても美しくてたまらなく欲しくなり、抉りだしたい衝動に駆られたが、そんなことをしてはいけない。ルベドの中にあるからこそ価値があるのだと思った。
 真っ青な色でニグレドを見つめ返したルベドは、兄貴然とした表情を柔らかに崩して言った。
 そうだなあ。好きになってくれたら、嬉しいなあ。
 面映く微笑む顔は、先程までの煌々とした燦爛な笑顔ではない。繊細な糸を一本一本、丁寧に編みあげたように不器用な含羞の笑みであった。頬全体にうっすらと血色がにじみ、ハの字に垂れた眉の下方で細められた瞳は豊かな紺碧を湛えていた。その中に黒髪の少年が映っている。自分の虹彩が、庭園で萌える青葉によく似たグリーンであることをニグレドは初めて知った。
 きれい、だな。
 自分の中にある緑も、それを映す青も、燃える赤も、鮮やかな造形を成すものすべてが美しい。味気ない世界が、ルベドを中心として鮮明な色を放ちはじめる。噴水の音、鳥のさえずり、木々のざわめき、雑多な音が聞こえる。花の芳香がここまで届く。樹冠から降り注ぐ日だまりよりもまばゆい。ルベドの隣にいれば、世界はいっそう鮮やかなもので構成されるのだろうか。
 待たせたな、アルベド!
 ルベドが空いた手を挙げ、思いきり振った。つないだ手から伝達される振動に揺られつつ、ニグレドは遠方に目を細めた。白いベンチと融合してしまいそうなほど真っ白な影が見える。
 遅いよ、ルベドったら。
 ルベドともニグレドとも寸分違わぬ造形の顔で、二人より幼くアルベドは満面に笑んだ。アルベドは嬉しそうに駆けてくると、そのままルベドに突進した。衝突ともいえる勢いで飛びつかれたルベドは情けない声をあげ、アルベドごと背中から倒れこむ。危険を察知したニグレドは反射的にルベドの手を離したが、すぐ足元で鈍い音がしたので見下ろしてみた。痛え、と仰向けに引っくり返ったままのルベドが呻いていた。
 アルベド、おまえなあ!
 アルベドが体の上に倒れこんでいるため、怒鳴り声も切れ切れである。当のアルベドはルベドに圧しかかったまま、さらにへらりと笑った。危険が去ったことを確認したニグレドは、とりあえずルベドを救出すべくアルベドのほうに手を伸ばした。そこでアルベドはようやくニグレドの存在に気づいたらしく、
 あ、ええと、ニグレド。
 呼びなれない舌足らずな発音で、新しい弟の名を呼んだ。ニグレドは心の弾みを感じる。自分の名を呼んでくれたという、それだけのことが嬉しい。ガラス玉のような紫の双眸が、物珍しそうにニグレドを見つめてくる。アルベドの手はひんやりと冷たく、清涼な小川の流れに手をひたすかのような、ルベドの温もりとは異なる心地良さがあった。
 人工羊水内で漂っていた頃から、ニグレドには諦めていたことがあった。ロボット三原則より矛盾した規則に従い、正体も掴めないウ・ドゥという恐怖を殲滅するためだけに存在するU.R.T.V.―僕は兵器だから。そうして自己を諦めていた。自分の意思すら諦観していた僕を、ルベドとアルベドは弟として接してくれる。僕を思考する生き物にしてくれる。その毎日が僕にとってどれだけ価値のあるものか。その笑顔が、どんなに嬉しかったことか。君たちの存在に勝るものなど、この世にあるはずもない。それなのに、一番上の兄ときたらニグレドの思いなどちっともわかっていない。それはもう、絶望するほどに。


 紙箱を机上に置いたガイナンが顔をあげると、開いた執務室のドアに仏頂面の見慣れた少年がいた。
「ほらよ」
 我が物顔で執務室に侵入するJr.から、粗雑に声をかけられ、コネクションギアが弧を描いて飛んでくる。落下するギアを受けとると、その拍子に起動したモニターの表面に、自尊自謙で嫌味のない精悍な顔を貼りつけた男が映っていた。いつの間にこれだけ歳をとったのだろう、と奇妙に思う。十四の歳月を時間に換算すれば、およそ十二万二千六百四十時間。数字だけ見ると途方もなく感じるが、実際に経験してみれば光陰を惜しむ間もないほどの時間であった。一人分の過去を清算するには、どうやら十四年程度では足りないらしく、Jr.の十四年前の古傷はいまだ表面さえ爛れたまま、内部に膿瘍まで発生している。近頃のガイナンは辟易していた。
 胸をざっくりと切開し、すべて排膿してしまいたい。Jr.が最も神聖視する過去の領域を干犯するのだ。彼の中にある昔の自分も含め、家畜のように屠殺してしまおう。乱暴狼藉に、冷酷無残に、体格と能力をもって容赦なく組みしき、徹底的に痛めつけたい。どんな抵抗も無意味なのだと、もう徒為なのだと全細胞に刻みこみ、惨めで憐れな子供だと嘲弄したい。己の手によって苦痛に呻く喘ぎ声を聞いてみたい。死に絶えるさまを刹那も見逃さず、事切れるまで見物していたい。さぞかし愉快であろう、過去の死というものは。まあ、それを実行した場合、眼前の彼は虚無の抜け殻になってしまうわけだが。膿漏する傷口はひどく厄介で、それに対し少々猛悪な感情を抱いてしまう。
「精密機器は慎重に扱え」
「壊れたって、ぶん殴っときゃ事足りるだろ」
 発せられた声には普段の愛想の欠片もなく、言いながらJr.はワークデスクに向かった。ガイナンの視線が赤を追う。歩行動作に異常は見られない。午前中に軽く触診もしたが、打撲した右半身も脱臼した肩も、本人の自己診断どおり問題なさそうである。右顔面の腫れもない。もっとも、Jr.がどこまで平静を装っているかを判断できなければ、実際の体の具合などわかりはしないが。
 本来の持ち主に悪びれることもなく半円形のデスクのチェアに気だるげに身を沈めたJr.は、抜き身のナイフのように扱いに気を遣わなければならない素顔を晒していた。Jr.の場合、不機嫌なだけであれば普段以上の饒舌になり、皮肉な笑みを口元に浮かべるのが常で、そうした状態の彼の餌食となる気の毒な人物は、理論的な構成と博識の装飾を備えたマシンガンのごとき語り口に言い包められ、大抵が反論の間もなく肩を落として退散する破目となる(つい最近など、星団連邦に所属するとある艦隊とU.M.N.コラムの待ち時間に口論し、勝利と航路の先行をもぎとっていた)。しかし、必要最低限の事項以外は緘口して語らず、深層の剣呑と冥暗を眼光に湛えるこうした状態は、Jr.の精神が極めて不安定な状態にあることを意味している―つまり、凝縮された密度と膨大な容積を有する負の感情を、自身でコントロールできずにいるのだ。肉体の容量と精神の容量とが比例するわけではなかろうが、Jr.に関していえば、ちっぽけな子供の器にあれほどの暴虐さは到底収まりきらないのだろう。ガイナンはそれを十二分に承知していた。
「繊細なんだ。おまえの頭と一緒にするな」
 呆れを含ませた声音で返すと、Jr.が恫喝を加えるように上目を使った。そんな彼の視線を慣れた動作であしらったガイナンは、今し方受けとったコネクションギアを正常に作動し直した。クローゼットに並ぶスーツの連なりのように、幾重にも層を構成したホログラフィック・ウィンドウが表示される。提示内容は今回の航行活動報告書である。自分に都合の悪い事項(主にA.G.W.S.の派手な損壊や、いわゆる子供が手を出してはいけない遊びの類)の場合、報告書を頓着なく改ざんするJr.の悪癖はガイナンの頭痛の種であったが、どうやら今回は正確な作成をしてくれたようだ。乗組員の死因までもが、医者のカルテのように細密に記入されていた。それらを通読していると、くつくつと笑う声がガイナンの耳朶に触れた。
「何がおかしい」
 Jr.の全身を横目で一瞥する。デスクの上に行儀悪く両脚を投げだしているJr.は、「何だろうな」と子供らしく小首を傾げてみせ(このような所作は、彼が社交場などで自分の容姿を最大限に生かすため、頻繁に利用する仕草であり、彼のペテンに瞞着される哀れな貴婦人やペドフィリアの姿を、ガイナンは何度も目撃している)、まったく他人事であるかのように嫣然と笑った。
「何もかも全部ぶっ壊したくなってさ。自暴自棄ってやつかな―なんて、浸ってる自分に笑えた。気色悪くて」
「昼間のように悪役気取りか? 子供の演技より似合わんぞ」
 この陰鬱な自嘲に歪む微笑を見れば、Jr.のために古書や絵画を散々貢いだ被害者たちも、無意味な幻想から目を覚ますだろうに。外面と内面とが秩序立って一体であると認識しているのであれば、それは己の首を絞めかねない愚かな基準だが、それを彼らに逐一忠告するほどガイナンは親切でもなく、またJr.において真に厄介な性質は別にある。それは、十四年も間連れあう弟の前で見せる異質な微笑でさえ、実のところ本人が自分自身の瞞着のために認識させる無自覚の演技であるということだ。他者に見せるどの角度の顔も兄の本質ではない。そうした場合の言葉というものは、やけに空疎である。金属の擦れる空気音だけが耳に残る弾帯を抜いたマシンガンのように、身を抉る実弾がない。もともと備えた性質は陽気であり、心身ともにあらゆる感受性が強く、他者の痛みを自分の痛みとして、もしくは自分の喜びを他者の喜びとして共感を求める彼であるからこそ、それが自らをも騙す嘘だと知れる。苦々しげにガイナンから目を逸らし、ガラス一枚隔てた街並みに避難する様子を見ると、当人も頭の片隅では理解しているのだろう。
「おまえって、マジでかわいくねえ弟」
「結構なことだが」
 聞き慣れたJr.の嫌味をさらりと流し、ガイナンはウィンドウを閉じた。
「それを言うならば、都合の良い状況でのみ子供の容姿を利用する兄は、かわいげどころか相当に性質が悪いだろうね」
「利用してるのはお互いさまだろ。知ってんだぞ、おまえが父親の立場を逆手に良縁も無碍にしてんのは。誰が〝存分に躾けてやる〟って?」
 よく言うぜ、とJr.は鼻で笑った。良縁とはガイナンが時々もちかけられる縁談のことであろう。だとすれば、確かに十二にもなる息子がいるという理由も、年頃のお嬢様や妙齢のご婦人からの好意を丁重にお断りする手段の一つとして、利用させてもらってはいる。なぜならば、籠の鳥のように育てられた彼女たちの耳にさえ、(巨大な戦艦の艦長として自分よりひと回り以上も外見年齢の離れた男たちを卓越した手腕で指揮し、U‐TIC機関なる野蛮な連中やおぞましいグノーシスとも互角に渡りあい、齢十二にして大人顔負けの懐古趣味を持つ手八丁口八丁な)ガイナンJr.の風評は届いている。ファウンデーションにおいて有用な人物であるJr.も、義母となる女性にとっては厄介な瘤でしかない。Jr.を対等な目線で扱えるシェリィやメリィ、社会からミュータントとして迫害を受けながらも懸命に生きぬいてきたファウンデーションの女性たちならまだしも、彼女たちの頭ではJr.に大人しくママと呼ばせる懐柔策を捻出することは困難であろう。ガイナンが「少々気難しい息子でね」と神妙な面持ちで切りだせば、彼女たちの微笑も曇るのだから利用しない手はない。目の上の瘤も我慢しましょうという健気な女性もいるにはいるが、大抵は〝財産目当ての継母に疎まれるかわいそうなJr.少年〟を勝手に庇護する周囲の善良な人々に冷遇されて虚しく終わる。言うなれば、良縁を無碍にしているのは自分でなく、優秀な息子の存在それ自体である―という事実を本人に告げる必要もなかろうと、ガイナンは〝存分に躾けてやる〟の部分に対しての釈明を述べた。
「養子だろうと、仮にも自分と肩を並べる代表理事なんだ。部下の面前で長々と叱責するなど立場上控えたいからな。おまえが希望するなら、それなりに善処するが?」
 台詞の前半部分を無視されたことが腑に落ちないのか、Jr.は「そりゃどーも」と白けた目を向けた。常日頃かけているワーグナーではなく、無音の沈黙が執務室に流れる。ガイナンはコネクションギアを胸元に収め、蓮の葉を模した巨大な芸術を飽くことなく眺めた。コロニーの摩天楼として湖畔から屹立している深紅のデュランダルにも、躍動する市街地にも、眩耀たる人工太陽や屹然たる高峰の山々にも、海面を燦然と輝かせる浜辺にも、自分たちの描いた希望が凝縮した形として内包されている。コロニーの住民は二人の理事の願いが具現化した街に誇りをもち、あり余る生へのエネルギーで現実に根づかせてくれた。今にして思えば、よくもあんな得体の知れない子供二人に砂ひと粒ほどでも信頼を寄せてくれたものだと、彼らの寛大かつ度胸ある心にしばしば感服する。今や天下のヴェクターからも出資を受け、星団連邦から危険視されるほど巨大化した財団の確かな呼吸をワーグナー代わりに聴きながら、ガイナンは背後にいるJr.の気配を感じた。Jr.とガイナン、兄弟ともに寡黙な男ではない。仕事上のコミュニケーション以外でも、軽口を肴にクラシックや映画、古典文学を鑑賞したり、ビリヤードやチェスに耽ってみたりと、ワインを嗜むように会話を楽しむ術を知っている。そんな二人の間に流れる沈黙とは、それもまた有意義な時間であった。思考という運動のための時間であり、また返答という選択のための時間でもあり、つまりは猶予でもあるのだ。弦楽器が織りなす精妙な世界では弱音の美しさに陶然となるが、Jr.との沈黙にも同様の心地良さがあった。
 A.D.一九六九に上映された『ワイルドバンチ』を、深夜のマイナー放送で鑑賞した際も(Jr.が導入部分で、アメリカン・ニューシネマの傑作だぞ、スクリーン横の邪魔な資料は退けろだの、アグア・ヴェルデの死の舞踏シーンは目玉ひんむいて焼きつけろだの、散々文句を垂れた以外は)バーボンのグラスを揺らしながら、動乱のメキシコでならず者となった男たちの壮烈な生き様を、始終無言で鑑賞していた。逃げるホールデンと追うライアンの胸中での共鳴に物悲しさを感じ、Jr.の言う通り大橋梁の爆破や機関銃を乱射する大銃撃戦は何とも美しく、いつもの酒が格別にうまかった。エンドクレジットが終了し、耳障りな電子音と真っ暗な画面が続いても、なお二人並んでソファにもたれ、無言のままバーボンを飲みほした。暗闇でスクリーンに照らされていた幼い兄の横顔は、銃を乱射する初老の男並みに老熟しており、アルコールを嚥下する喉仏のない肌も砂漠のように乾燥して見えたものだ。望むと望まぬとに関わらず、この男は確かに自分の兄であった。俺たちは酒を酌みかわし、無言で隣を許せる兄弟なのだ、と肌で感じた。スローモーションで飛びかう弾丸、スクリーンから伝わる微熱、映像内で聞こえる映写機の軋み、グラスで揺れる氷の音、蕩けた酒の味、ソファの柔らかさ、上下する赤い睫毛と薄い胸、二人分の呼吸。深夜の仄暗い部屋で感じたすべてを、今でも鮮明に覚えている。どのような場所より心地良かった。隔てなく素を晒し、気を許せる相手は、この兄を置いて他にいない。再生された映画のように途切れることなく、あの夜を覚えている。無性に孤独を感じるとき、あのひと時を思いだすだろう。
「ガイナン」
 どれほどの時間が経過していただろうか、Jr.に名を呼ばれる。実際にはひと呼吸の間だったのかもしれないが、ガイナンの感覚では前奏曲を聴き終わった直後の崇高な余韻が残る間であった。一度口を噤んだJr.は、再びそれを開くと、
「悪かった」珍しく素直に詫びた。
 思わず振り返れば、後頭部で組んでいた両手を胸元で組み直した彼が、謝罪の態度とは言いがたい踏んぞり返った状態でガイナンを見上げていた。きまりの悪い表情に気づかなければ口論の原因になりそうな姿勢だが、ガイナンとて謝罪を待っていたわけではない。Jr.の心情は依然としてむき出しのまま不安定で、彼自身が発した先程の言葉のように、本気で自暴自棄にもなりかねない。本人から原因である事件の愚痴でも聞ければ、多少なりともその振幅が改善されるであろうとの判断であり、単純にJr.を心配しているというよりは、結局はガイナン自身が内心の安寧を得たいのだ。しかしながら、Jr.によって自身の平穏を紊乱されることには慣れていても、それを鎮静化する術においてはいまだ試行錯誤の域をでないガイナンである。閉曲面には触れさせても、己の心髄に付随する中身となると一切を見せようとしないJr.は厄介この上ない。外界の脅威や不安から自我を防衛する自我防衛機制は極めて高いと言えよう。どのように要求しようとも奥底ではなく半周して裏側を見せるほど強情な彼の沈殿物を、せめて別の形として吐露させることはできないものだろうか。
「やはり、何も話す気にはなれないか」
「愚問」
 一言前の殊勝はどこへやら、ガイナンの問いはにべもない口調で両断された。予想通りの返答に「だろうな」と嘆息する。奇妙なことに、返答したJr.はガイナンを正面から見つめて硬直していた。間抜け面と言っては失礼だろうが、それと慮外の中間のような、ひどく衝撃を受けた表情をしている。赤い眉が不可思議な歪曲を描いている。それからJr.は「あー」とも「うー」ともつかない獣のような呻き声を口内で発した。赤毛を乱暴にかきむしり、敗残兵のように屈した面持ちを見せると、「まあ、その、何ていうか」と聞きとり辛い曖昧な声で早口に話しはじめる。「自分でも非情だと呆れるんだが、航海中の仲間の死に対しては、どうにも感傷的になった覚えがないんだ。誰が死のうとそれっきり、弔意すら胡乱でさ。事実、俺が殺したようなもんだから、彼らのために涙を流す資格もない。いや、資格云々以前にそう思うことがない。つまりは、あー、悪い、その程度なんだ。俺にとっちゃ、おまえに愚痴るほど大事じゃねえってこと。おまえが心配してくれるのは、わかってる。ありがたい。でも、俺は―」
「〝俺はおまえが思っているような兄貴じゃない〟―以前にも聞いたな」
 ぎこちない弁舌を遮り、ガイナンは唖然とするJr.を見下ろした。さらに機嫌が悪くなるかと思いきや、
「当たり前だろ。前にも同じこと聞かれたんだぜ」
 と、ぼけた老人を心配するような顔をされたことは、ひどく心外である。そもそも心配している側はこちらであって、その上、自分が思っているような兄ではないと念を押したにも関わらず、もう兄貴面とは一体どういう了見だ? ガイナンは少々苛立った。Jr.が傍にいると、ときに他の誰といるよりも感情的になってしまう。世間から一目置かれるガイナン・クーカイではなく、何の地位もない弟というポジションに位置づけられるからかもしれない。立場も役目もとり払ってしまえば、自分たちも要はどこにでもいる成人した兄弟である。Jr.からはかわいげがない、図体ばかりでかくなりやがって、など冗談交じりに罵られるが、ガイナンとて一人の弟―極々微細な変化ではあり成人をとうに終えて今さらでもあるが、兄の言動に一喜一憂する感情がまったくないとは言いきれない。こちらが兄をどう思っているのか欠片も理解もしていないくせ、毎回こう断定されることも当然のごとく気分が悪い。ガイナンとしては、この面倒な兄を買い被っているつもりも侮っているつもりもなく、ましてや何らかの評価をくだした覚えもない。要は芸術作品と似たようなもので、文学作品を読解して判断の勝負にでるとしても、作品が知覚に与える刺激の組織化に対して誠実な努力を払っていたとしても、その作品自体が潜在的に完成していなければ(部分的に白紙であったり、それ以前に未完結であったり)正当な評価などできはしない。
 ガイナンは苛立ちに焦慮しており、俺だって、おまえが思っているような弟じゃない、と内心で反論していた。苛々する。せっかくの経験も日記にしたためることで色あせてしまうように、この乖離が歯痒くてならない。
「おまえの自覚の欠如は悲劇的だな。自責で苦痛を自制し、客観的な悔恨へ変換する脳―まるで自虐的な進化のようだ」
 苛立ちついでに皮肉をこめて非難したが、その程度で胸中を蠢くものが昇華されるわけでもなく、舌打ちでもしたい気分になった。それでも、皮一枚上の表層ではいたって冷静かつ沈着な姿勢が崩れていないガイナンを、Jr.は露骨に鼻で笑い、暴虐な内面を露にする眼光で見上げてきた。
「この姿の俺に進化も何もないだろ。その台詞、丸ごと返すぜ。おまえだって俺のことを言えた義理か? 仕事の愚痴どころか、負の事柄は何一つ俺に見せやしねえ」
 なるほど、確かに。ガイナンは危うく首肯しそうになり、顎を引くに留めた。Jr.の短絡的な惑乱作戦にわざわざ乗っていては、事の核心が一向に近づかないばかりか、宇宙の膨張速度で遠のいてしまう。弟に甘えてもらえないことが不満だという単純な理由ではなかろうが、Jr.が口を噤むと室内灯に照らされた青白い無表情が全体を覆い、彼の底意は量りかねた。兄の精神はいよいよ厄介な状態にありそうだ、とガイナンは理解した。
「そうだとしても、俺の場合は特に苦ではないさ。おまえとは違う」
 ガイナンは、瞬く気配のないJr.の双眸を見据えた。もともと自分が淡白な質だということは自覚している。仕事で累積する諸々のフラストレーションも、市民からの絶大な期待の重圧も、議会員や政治家からの誹謗や批判も、能力を使用した直後の良心の呵責ですら、ガイナンにはそれほど苦ではない。何が〝それほど〟であるかといえば、過去にニグレドとして生きていた時分に体験した最低以上の最悪な状況、もしくはその後から今現在にいたるまでの煩瑣な工程と比較してのことである。どんな現象が惹起しようとも、大抵が自らの仲間殺し・父親殺しの罪深さと匹敵するほどのことではないし、今のところディミトリと汚染されたアルベド以上に倫理や道理から外れた生きものとは遭遇していない。そして文字通り、死ぬほどの苦痛もネピリムの歌声にて経験済みとあらば、現状の労苦など愚痴にもならない。むしろ多忙と比例する繁栄は喜ばしいことであろう。また、別人物として世に定着する過程も中々に面倒なものであったが、煩瑣な工程とはそれとはまったく別の要因なのだ。煩瑣とは、月日を増すごとに世界に対する基本的な希望と安心感、及び世界に存在しても良いという自己受容感覚を喪失してゆくJr.の世話であった。いかなる場合においても第一に効率を重視する合理的なガイナンにとって、格別に配慮しながらもやはり面倒事であることは否めない。気持ちはわかる、といっても偽善的であるし、実際に理解できない。Jr.と自分が別個体であることはもちろん、もともとの性質や置かれた状況も異なる。極々稀に、アルベドならば理解できたのだろうか、ともしもの未来を思考してもみたが、ひどく不毛に思えた。自分はアルベドではないし、アルベドも双子ではあるがJr.ではない。彼らの肉体が例えつながったままだとしても、意識が二つ存在しているのであれば別々の存在である。それに、おそらくアルベドにもJr.のことはわからない。互いにわからず仕舞いだったからこそ、十四年前の結果になった。わからないから、この場に奴はいないのだ。それはつまり、Jr.がアルベドを理解できていないことにもつながるため、数多の要因の中でも最も重い一因としてJr.は苦悩しているが、それは客観的妥当性から見てもまったくの徒労なのである。凄まじく不毛な作業でしかない。そうだな、とJr.が平坦に呟いた。
「俺の場合は、純粋に死者を偲ぶ思いじゃない。誰の墓前にも立てない」
 口吻を洩らすとはこのことだ、これが兄の本音なのだ。遺された生者にではなく、地中に埋もれる死者に対してばかり責を感じている。このざまで感傷的になった覚えがない? 何を馬鹿な、とガイナンは胸中でせせら笑う。多大な苦痛から逃れるために精神の保身が働き、おまえの感覚を麻痺させているだけだろう。罪悪を、自責を、後悔を、存分に抱えているではないか。
 ようやく一言吐かせたものの、想像以上に馬鹿らしく滑稽であり、やはり不毛であった。今回の航行にて不運にも殉職したサヴァとやらも、すでに彼の罪状に加えられているのだろう。くだされることのない罰に対してJr.は固執する。上っ面の人づき合いや世渡りは得意なくせ、こうした割りきりには不器用で困る。人間一人、猫一匹にまでお優しいことだ、とガイナンは密かに皮肉る。事実、驚くべきことにJr.の脳内では廃棄された初期の標準体から近年になって殉職した乗組員まで、個々の情報が生前のように良好な状態で保存されている。端的にいえば、〝自分が殺した〟と認識する者たちの名前すべてを記憶している。情報の記憶自体ならば自分にも可能であるから驚きはしない。それを無意識に実行している兄の歪曲した情に対し、ガイナンは驚愕したのである。これはもう追悼とは別の次元ではなかろうか、と。確かに、Jr.は昔から人間である研究員が危惧するほど感情豊かな個体であり、何者にも偏見を抱かず、愛情をもって接する精神を有していた。その点で彼は篤実であり、赤誠であり、人の美質というべきものを備えている。そのため、人は彼を好むのだろう。まだ自我の芽生えが不完全で環境に左右されるモモなどは、「Jr.さんって優しいんですね」と、簡潔に表現するかもしれない。だが、今のJr.を突き動かすものは果たして純粋な優しさだろうか。純粋という点に焦点を絞れば、答えは疑問だ。そもそも優しさ自体が純粋な性質だとは思えない。それは施された相手が喜びや満足を感じなければ定義できない、位置づけが非常に曖昧な性質ではなかろうか。本能や先天的なものではなく、社会で培う理性のように後天的なものではないか。感情のように誤魔化しがきかず、起伏あるものでもない。その不明瞭な部分を強調すれば、この疑問は肯定となるのだが。純粋に死者を偲ぶ思いではないJr.の心情とは、彼の内にくすぶる炎のごとき不安定な激情ではなく、本来は人の美質であるはずの優しさや思いやりといった情操、安定を強いる抑制が原因ではないだろうか。昔のように無意識かつ自然な、ともすれば無遠慮となりえる無邪気な挙動とは異なり、現在のJr.は過去への贖罪と責務から、強くありたい、優しくありたい、と一種の強迫観念とも呼べる思慮分別に囚われているように思う。少なくとも、十四年前の兄であれば、誰の墓前にも立てたはずなのだ。ガイナンは蟠りとともに迫りあがる慨嘆を飲みこむと、大した効果も期待できないであろう慰めのために重い口を開いた。
「この歳になって思いが真に純潔である者はそうそう居るまいよ。通常、何かしらの不純物が自然と融解しているものさ。身内の死をおおいに悼む遺族でも、自分の今後を憂える自己本位な不安が一抹ほどは頭をもたげるものだが、それに関して彼らが自責や嫌悪を感じる必要はない。人特有の感情なぞ概して境界が不明瞭、生じる矛盾はモラルの問題において妥協を許すために多少なりとも必要だ」
 ガイナンにしては、なるべくソフトな言葉を選んだつもりだが、Jr.は釈然としない表情で「相変わらず、見も蓋もねえな」と吐いた。確かに、詩的な比喩や引用を普段から用いる相手に対し、いささか不適切な言い回しであったかもしれない(ただ、Jr.がそうした遠回しな表現を選択する場合、本心を読みとられたくない、核心を逸らせて話を進めたい、わかる奴にだけわかればいい、忌諱に触れる直接的な言葉を使用したくない、といった面倒な理由であることが多いので、あまり褒められたものではない)。
「表現を変えようか。感情とは単一として存在しない。ニューロン間を接合するシナプスを表し、紡いだ糸のように絡まりあっているものだ」
「そんじゃ、俺の場合はな、その絡まりが面倒なんだよ。絶望的にこんがらかった糸屑でな、切り刻んでばらばらにするか、いっそのこと燃やして捨てるしかねえの」
 もういいだろ、とJr.は億劫な眼を向けて吐きすてた。おまえにはわからん、と副音声で聞こえてきそうな態度。こうなってはもう、どうしようもない。人と人は相容れないものだ。例えば、絵画を鑑賞したとして、同空間にいる他者と分かちあえるものがあるとすれば、それは呼吸に必要な空気くらいのもの。データベースを共有する百式観測器でもない限り(いや、彼女たちでさえ、刹那的感情の振幅という個々のブラックボックス部分で一時保存のみされる参照データにおいていえば)人と人とが一片の乖離もなく理解しえる術はない。自己の感覚は各々固有のものであり、それを基準に情動は決定される。他者にまったく同じ感覚を求めるなど、所詮は自己満足を得るための強要でしかない。しかし、幼い頃の兄は無意識にそれを共有しようとしていた。それが許された理由は、彼が他者に感情の共感を求めるのと平等に、痛みや喜びといった他者からの感情も自分のことのように受けいれられる感受性をもつためであった。もちろん、差はあれ必ず食い違いがあるものだし、押しつけがましい偽善的なものであれば不快となるが、兄のそれは脳で思考するような分離されたものではなく、より深い胸中に密着した、ガイナンなどには理解しがたい類いのものであった。無意識の深層領域から伝達されている言動に、おそらく当時の本人も気づいてはいなかったろう。隔離されたインスティテュートから未知なる外界へ生活の場を移行したあと、施設では異色の存在だった兄のような者が、人という種族に多く存在するということをニグレドは知った。自分たちを保護したヘルマーやケイオスの思いやりは兄のそれを紳士的にしたような誠実と博愛であり、シオンという女性はJr.と同類の匂いがする。理論を組みたてることもできない難解な性質に、療養中のニグレドはレアリエンのカナンと二人して、彼らの不可解さに頭を捻ったものだ。
 それほど感傷に耽る質ではないが、あの時分が懐かしいと思わないこともない。インスティテュートでルベドとアルベドの結びつきを目の当たりすることで密かに感じていた疎外感も、今となっては贅沢な悩みであったのかもしれない。アルベドに異常かつ排他的な独占欲が顕在していたとすれば、ニグレドも同質のものを持っていたと言える。ニグレドの場合はそれが伏在していただけで、傾向の違いか乏しい自己愛のためか、極めて受動的な子供であった。アルベドが泣き喚けば条件反射のようにすっ飛んでゆくルベドを、自分から迷いなく離れてゆく兄の手を、引きとめることなど一度もなかった。最初から結果が予測できることに、労力や時間を費やすほど非合理的なことはしない。そう諦観しながら結局のところ、自分が行動を起こした場合のルベドとアルベドの反応が怖かったのだ。特にルベドに拒絶でもされようものならば、その失意の底なしたるや想像にかたくない。アルベドが安定すれば再び自分のところに戻ってくる、という根拠のない欠片ほどの自負もあるにはあったが。
 さて、現状はどうかといえば、今の環境で長男を独占している者は、アルベドではなく自分である。素朴で幼稚なままの優越感が、自らの内で蝋燭の炎のように灯っていることは確かだろう。加えて今このとき、兄にもういいだろと突き放され、くすぶる苛立ちとともに小雨のように降る淋しさも感じ、自分もまた精神的には大した変化はないのかもしれないとガイナンは思った。
 古紙の擦れる音に顔をあげると、Jr.がデスクの引きだしから(今さらながらに断っておくならば、このワークデスクはガイナンの私物である)古書をとりだしていた。いつの間にひそませたのか見当もつかないそれをJr.は太腿に乗せ、古書にしては少々キッチュな装丁の表紙を開いた。ナボコフの『ロリータ』だ。ロシア語の旧著に手をだすほど、兄は著者を贔屓にしている。つまりは、いよいよガイナンの話に耳を貸す気がなくなったということである。
「Jr.」
 努めて平静に自己を制御しながら、ガイナンはJr.の名を呼んだ。「パーソナル・スペースは知っているな?」
 が、唐突な話題を自然に組みこむ流れについては失念していた。当然、Jr.は不審がるだろうと思ったが、彼は古書のページに視線を落としたまま、机上で組んだ脚の踵を軽く鳴らし、「コミュニケーションをとる相手との物理的な距離のことだろ」と素っ気ない声で答えてくれた。「ソーマーの定義では、そこに侵入者が入ることが許されない、個人の体を取り囲む目に見えない境界線に囲まれた空間。心理的な私的空間だから持ち運び可能。代表格はデスク。古い心理学用語だな」
 Jr.の声は古びた紙に反射してからガイナンのもとへ届くため、少々くぐもって聞こえた。いくら読書に専念していようと(ふりである可能性のほうが高いが)ガイナンを無視できないところも、やはりJr.らしい。英雄にも悪役にも、子供にも大人にも、Jr.という役自体にすら徹しきれない甘さをもつ兄の本来の姿を、ガイナンは昔から好んでいた。燦々とコロニーの太陽が射しこむ窓際からJr.が陣取るデスクの方向へ、ガイナンは一歩ばかり踏みだした。
「一三七インチから四七インチ」
 端的に呟いたガイナンの言葉を咀嚼しているのか、Jr.がページをめくる手をとめた。しばしの間を置き、納得したように小さな唇で吐息を漏らすと、Jr.は再びページの文章に視線を走らせはじめながら口を開いた。
「形式的なコミュニケーションの距離。同僚と仕事をする際、公式の商談なんかに適切な距離でもある―何なんだよ、突然……俺の用は済んだぞ」
 ぶつくさと文句を垂れながら、脆弱な古紙を慎重にめくっている。ガイナンは構わず、鷹揚に前進した。柔らかな絨毯が磨きあげられた靴を無音で包みこむ。会話になるものの、Jr.はもっぱら読書に集中しており、ガイナンの動向に気づいてはいないようだ。
 パーソナル・スペースとは個人が占有する一定の空間であり、そこへの侵入は空間の所有者に特定の反応、例えば警告、攻撃、拒絶、歓迎を引き起こす。ロスト・エルサレム時代の心理学的観念ではあるが、現在でも適用可能な部分は多いにある。人という生物の根本は、数千年程度では大した変化もない。Jr.の回答通り、今の二人の距離を区分するならば社会的距離となる。
「四七インチから一七センチ」
 Jr.の表情の機微がより詳細に観察できる距離までガイナンは歩みよった。左から右へ何度も往復していたJr.の視線が、再び一時停止する。
「知りあったばかりの友人や知人と会話をする距離じゃね? 一七インチ前後は、片方が手を伸ばして相手の体に触れられる限界の距離だ。友人と個人的な会話を交わす場合に適切だろうな」
 あからさまに怪訝と阻害を訴える声音だが、またもJr.は律儀に返答した。ガイナンの唐突な遊びに、適当な態度でつきあうことにしたらしい。開かれたページのアルファベットが何とか読める距離で、ガイナンのスーツのボタンのすぐ手前には、机上に置かれたJr.の脚がある。こちらの腕を少し伸ばせば古書をとりあげることも可能だろう。デスクの空いた位置に左手をつき、「一七インチ以内」と、ガイナンは囁いた。上半身を前方に傾けて推し進める。Jr.の組まれたブーツ越しの爪先が、スーツのボタンに触れた。ようやく、Jr.が眼球だけを回転させてガイナンを見やった。視線が絡む。空の色とも海の色とも異なるブルーは、ガイナンが初めて目にした青という色である。あの少女の庭に咲いていたバラのように、鮮やかとしか言いようのない色あい。それは近距離で見つめることにより自分の緑と重なりあい、まるで真夜中の樹海のような、すべてを無に帰す深海のような、より一層深みのある不思議な色あいへと変化する。ガイナンの瞳がJr.と同一の青であったならば、どこまでいってもそれは青でしかない。違いがあるからおもしろい、と教えてくれたのはこの兄であった。
「親密的な距離だ。家族や恋人との身体的接触が容易にできる。非言語コミュニケーションが使用可能。他人にこの距離まで侵入されると、くそ不愉快。警戒、緊張、痛痒、困苦、恐怖、とにかくマイナスイメージ―って、聞いてんのかよ?」
 その通り。パーソナル・スペースを侵害された場合、人は凄まじい不安感と不快感を抱くことになる。眉を吊りあげるJr.の問いには答えず、さらにガイナンは距離をつめて体を寄せる。俺とおまえは他人じゃない。そうした意地もどこかにあった。
「おい、うざいから退けよ」
 身体的な接触を伴う行動とは、親密な相手に愛情を伝えるための触れあいばかりでなく、相手を攻撃するような行動も含まれる。ガイナンに対するJr.の行動がまさにそれである。
「蹴りとばすぞ、ガイナン」剣呑な眼光と緊迫したと刺々しい空気。「―糞っ、うぜえな、何だよ!」スラング交じりの怒声でもって拒絶を示される。全身が激烈な攻撃性をまとった刃物であるかのように、Jr.の怒声は鼓膜をつんざいてくる。ガイナンは構うことなく右手を差しだした。
「Jr.」吐息の絡む至近で唇が動く。Jr.は口を噤んだ。もどかしく歯痒いほど鈍重な動きの右手を、Jr.の惑乱した眼が追っている。ガイナンは少し笑った。
「今の距離、わかるか」
「は、知るか」
「ゼロだ」
 若干震える変声期の声を遮り、ガイナンの指先がJr.の左目尻に触れた。皮膚と皮膚の触れあった点から、静電気のような軽い衝撃が二人の全身に走った。フラッシュのような瞬間光で、互いの網膜が真っ白に染まる。反射的に二人の体が緊縮し、Jr.のほうが身を引くより早く、念話と似た感覚の声が二人の脳内で共鳴した。


 ねえ、二人で何を話してたのさ。ずるいよ、僕にも教えてよ。
 幼いアルベドの声がする。どうやら、Jr.とガイナンの精神防壁が一瞬だけ完全に崩壊し、二人が共有する記憶をにわかに想起させているらしい。インスティテュートの庭園で、とりとめのない会話をしていた頃の記憶だ。初めて世界を見た日の瑞々しい情景を懐かしいと感じる間もなく、それは残像すら与えずに駆けぬけてゆく。時の流れの中に留めることなどできない流水のような映像を遠景している。
 別に大したことじゃねえよ。バラがきれいに咲いてるだろって。
 なあ、ニグレド。花壇を指差すルベドが振り向いて笑う。そう、あの日はとても穏やかな一日だった。インスティテュート内に寒暖などありはしないが、まるで初夏のような清々しさがあった。標準体と差異なく佇むニグレドを物珍しげに眺め、アルベドが白い睫毛をまたたかせる。その陰で透き通ってきらめく菫色の瞳は、今こうして見ても美しいと思う。
 そんなの当たり前じゃないか。あれはルベドの色なんだから。
 何だよそれ、意味わかんね。
 ルベドは首を捻っていたが、ニグレドにはアルベドの言うところの意味がわかるような気がした。ルベドの赤がバラと同じなのではなく、バラの赤がルベドと同じだという主観を当然とするアルベドのルベドへの傾倒は、崇拝や信仰に近かった。自分の意思や思考を放棄し、渇仰する対象に身を委ねる依存とは実に楽な生き方で、このような閉塞感をむきだしにした空間であれば特に、標準体のような全体で一個体の意思というあり方が無難であり、利口なのだ。何事にも傷つくことなく自我のない自分を保持していられる―絶対的偶像の裏切り、崩壊、消滅、そうした非常事態が発生しなければ。だが、アルベドよ。その狂信が過激になるほど、実像であるルベドとの乖離も顕著になるのではないか。いや、もしかすると下の兄はそれを望んでいたのだろうか?
 じゃあ、白いバラはアルベド色か? ははっ、変なの。
 冷やかすようにルベドが笑った。気を悪くしたアルベドが頬を膨らませている。日頃は青白い印象を受けるアルベドも、こうした際には適度に赤みを帯びた。
 何だよ、ルベドのばか。
 いてっ、叩くなよ。悪かったって。本当は俺もわかるよ、そういうの。
 そう言ったルベドには、何の他意もないのだろう。明々とした表情から判断できる。わかる、という言葉もニグレドからしてみればアルベドの何かをわかっているようには聞こえない。真水で簡単に流せてしまう泥のように表面的な響きであった。
 本当に?
 アルベドの瞳から唇から、泡のように笑みが零れる。まったく同一の造形であるのだが、ルベドの笑い方もアルベドの笑い方も、ニグレドには到底まねのできない代物であった。
 嘘ついてどうすんだよ。なあ、ニグレド、おまえもそう思うよな?
 断定的な語気で同意を求められるが、それが何を指すのかニグレドにはわからない。アルベドの思考を理解できるかということなのか、白いバラを特別と思えるかということなのか、はたまたルベドの発言の正当性についてなのか。アルベドの思考ならば、わからない。白いバラならば、まだ見たことがない。ルベドの発言ならば、内容が真実であるか量れない。つまり自分の返答は〝ノー〟にすべきはずだったが、なぜかニグレドは、そうだね、と答えていた。曖昧な可能性の提示。何がそうなのか、自分でもわかっていないのに。味方の肯定ともとれる返答に、ルベドは満足げな笑顔を見せた。期待していた褒美が得られ、もっと欲しい、とニグレドは思った。ルベドから向けられる興味、信頼、好意、満悦、庇護―そうしたものを直に感じられる反応が欲しい。
 ニグレドの無意識的な欲求とは裏腹に、アルベドの呼びかけでルベドの視線は双子の弟へ移動した。遅疑しているというよりも言葉一つでは心許なく不安であるかのように、アルベドは眼球を忙しなく上下に回していた。
 本当に本当かい? 特別だって思うの、わかるかい? ルベドがそのものなんだよ。
 縋るような眼差しで問い質してくるアルベドに、ルベドは右手の小指だけを立てて見せた。その動作の意味はわからないが、アルベドは小指をへし折るほど見つめた。
 そう言ってんだろ。アルベド、俺の言うこと信じられないのか?
 し、信じてる! もちろん、信じてるよ、ルベド。
 ルベドの面倒そうな口調に狼狽しながら、アルベドは怖々と眼前の小指に自分の小指を絡めた。
 なら良し、と納得したルベドは、意気揚々と歩きだした。天窓から木々の樹冠を透いて落ちる木もれ日が、この者こそ照らすに相応しいとでもいうように、ルベドの足元を点々と先回りしていた。
 ルベドはどこまで行っても、僕のような陰にはなれない陽の存在なのだろう。ニグレドはしたくもない線引きをしながら、アルベドの名を呼んだ。ルベドの足跡をなぞるように歩いていたアルベドが振り向くと、ニグレドは彼の耳元でこう囁いた。
 僕もね、赤いバラは特別だって思うよ。
 ルベドに聞かれても問題はないのだが、何となく下の兄と二人だけの秘密にしておきたいと思った。アルベドは驚いていた。潤った菫色が陽光に反射し、ほとんど赤く見えた。ドロイドと気軽に挨拶を交わすルベドに視線を戻したアルベドは、兄弟が増えて始終ご機嫌な兄を一心に見つめたまま、そうか、と呟いた。
 ニグレドもこっち側だね。
 ニグレドはアルベドの横顔に、自分と類する純然たるものを感じた。それは未発達で脆く形も名もなく、太陽の中心核のように高圧、高密度、高温の異常な圧縮領域でもあり、ブラックホールのように時空の他の領域と将来的に因果関係を持ち得ない領域でもあり、自分でも手に負えない未知の存在である。得体が知れないものを己の内で飼育している自覚があると、ひどく不安になるもので、悪性腫瘍のように変異しながら増殖しつづけ、正常な組織をどうこう破壊してしまうかもしれない暗部を、どう定義すべきか。アルベドは一人、結論に肉薄していたのかもしれない。
 楽しそうなルベドの笑い声がした。アルベドは声の主をひたむきに見つめている。菫色の眼を通して見るルベドは、一体どのように映っているのだろうか。そうか、とアルベドは再び呟いた。
 ニグレド。君がそうなら、僕、嬉しいなあ。
 穏やかな陽光のもと、アルベドはへらりと笑った。今度はニグレドが目を見張る番であった。面映く微笑むアルベドのそれは、ルベドのようにどこか不器用な含羞の笑みであった。細めた瞳に湛える色は、薄暮の紫紺に夕映えした朱色であり、それを収めている目元は泣き顔のようにも見えた。手探りで編みあげられた不器用さが、二人はよく似ている。
 おい、行くぞ。二人で何してんだ?
 あまりにも二人が遅いので、前方からルベドが声を張りあげた。アルベドがニグレドの手をとり、ルベドのもとまで連れてゆく。
 何でもないよ。ねえ、ニグレド。
 へえ、おまえら、もう仲良くなったんだな。
 手をつないだ弟二人の様子に、ルベドは手放しで喜んだ。標準体の行動パターン例を最も熟知しているのは、リーダーのルベドである。自分も含め、今まで例のない変異体の弟たちが、無事に打ち解けられるのか心配だったのだろう。安堵を含む満足そうな笑顔で、良かった、と呟いた。ニグレドはルベドの眼差しに注目した。ひたむきに懸命にルベドを見つめていたアルベドとは異なり、アルベドを見つめるルベドの眼差しには、当時のニグレドが知る真心と呼べるものすべてが、注がれているようであった。入れない、とニグレドは直感した。この二人の間に、僕は入れない。そう思った。二人が双子だからだろうか。それとはまた違う気がする。強固な結びつき―単純な絆より癒着した、ともすれば狂気を孕むほど隙間のない親密さで、磁力より引きあい、重力など超越し、二人は密に密につながっている。この二人を引きさくものなど、本人たち以外この世にはないだろう。少なくとも自分には無理だと思った。仲間には入れない。寂しさの種子から広がる孤独感が、ニグレドの胸をしめつける。それと同時に、奇跡でもあり数奇でもあるこの存在らを、自分の手で守護したいという欲求も感じた。この施設の人間はすべて信用できない。今のところ二人に最も近い立場である自分ならば、二人に危害を加える存在を未然に排除できるだろう。自分なりの方法で、兄たちを守りたい。前途も希望も特になければ、恐怖も絶望もこれと言ってない。ニグレドには、他者への献身とささやかな見返りが生の実感となるのである。二人に触れるたび、カフカの『変身』のようにニグレドの内部は変質する。U.R.T.V.という兵器ではなくデザイナーズチャイルドとしての人の部分が、より高度に、より柔軟になる。その感覚は、唯一ニグレドの想像力を膨らませた。
 僕には兄さんがいる。僕とは違うけれど、二人の兄さんは僕を大事にしてくれる。二人が笑ってくれるなら、僕はどんなことでもしてあげたい。幸せであってほしい。どうかいつも笑っていて。そうして時々、僕を見て。僕はそれで満足だ。
 ニグレド、一緒に本読もうぜ。翻訳、手伝ってくれよ。
 僕でよければ喜んで、ルベド。
 AからZまで子供が死んじゃう絵本があるよ、ニグレド。
 それっておもしろそうだね、アルベド。
 さあ、行こう。


 悪夢で目覚めた夜のように、Jr.は呆然としていた。ガイナンの右掌に並んだ数字を、弾丸で貫くかのように凝視している。不安定に揺れ動く薄暗い眼光が、そのままJr.の心情を表していた。Jr.の頬骨を包む指先にガイナンが少々力をこめると、我に返ったJr.は短い眉をわずかにしかめた。親指の腹で頬骨を擦っても、滑らかな肌の質感と生ぬるい体温以外に何も感じない。精神防壁はすでに正常な状態に戻っている。皮膚を糊塗し、痣と腫れは引いていても、内部の疼きは中々死に絶えない。こんなものは治療でなく、単なる誤魔化しでしかない。爪で引きはがしてみれば、Jr.が普段から被っている分厚い仮面のように、やわな肉芽種が増殖する本来の損傷が視えることだろう。
 そもそも、Jr.は他者から始まる触れあいを極度に回避する傾向がある。自分からのスキンシップであれば今でも過剰に行うが、他者から唐突に接触されるとか弱い小動物のように警戒する。Jr.のそれらすべては、過去を、罪科を、臆病を、憎悪を、自認できない暗部を、捨てられない諸々を、後生大事にホルマリン漬けにしておくための処置とも言えた。その瓶を割られては困るから、誰にも触れさせないのである。
「Jr.」ゼロになった距離から名を囁くと、Jr.は観念したように瞼を伏せた。返事の代わりに瞼を開いた先にある眼で、聞いてやるから言え、と無言の相槌を打った。
「おまえの領域は、自分をとり巻く空間ではなく暗い海のようだ。どこまでも深く錯雑としていて、正直なところ俺にはわずらわしくて仕方がない」
 念話を使用する気はない。男としてJr.と相対し、弟として兄を尊重したい。自我の区別が曖昧で自他の心の機微に無頓着だった昔の自分には、兄に向かっていくなどという選択肢はなかった。
 その俺をこうまで変質させた第一は、おまえだろうが。それなのに、なぜ過去の自分を否定する。そんなルベドを信頼していた過去の俺は、アルベドは、どこに行けばいい。確かに、俺たちは利己的で身勝手だったさ。叶わない夢、羨望、憧憬、あらゆる理想をおまえ一人に押しつけ、都合の良い虚像をつくりあげ、残酷にも無意識にそれを強要していたよ。おまえが俺たちに対し、人間的な理想の弟を望むように。
 アルベドでさえ、Jr.の悔恨によって発生した悪夢ほど兄を責めることはないだろう。むしろアルベドがどこかで苦痛やら孤独やら憎悪やらに心身を蝕まれているとすれば、それらすべてを何らかの形で癒せる者はJr.しかいない。アルベドを裏切った者がJr.であるならば、アルベドの要望に応えられる者もまたJr.以外に他ならない。
 つまるところ、二人の弟はいまだに兄を特別な軸に置いている。今のアルベドが無邪気にJr.を慕っていることはまずないだろうが、きれいさっぱり忘却しているわけもない。これだけは断言できる。アルベドもガイナンも、間違いなくJr.を見捨ててはいない。見限ってもいない。兄の裏切りで完全に消失してしまったものは、弟たちの信頼ではなく〝アルベドとニグレドは、俺を信じてくれている〟という兄の自信であったのだから。弟からの信頼も確かに失ったが、それは木っ端微塵に破壊されたのであり、無様な欠片はそこら一面に散乱している。本気で彼が努めれば、ある程度の修復は可能だろう。それをしないのが逃避という怠慢であり、兄の裏切りの理由である。Jr.は黙していたが、ガイナンに引く気がないことを理解すると「だから何だよ」と端的に返した。攻撃と拒絶を混じらせた声の圧力が、ガイナンの右掌を押し返そうとする。それすら愛しくなり、ガイナンは我知らず破顔した。
「力を抜け。手なら貸そう、おまえが望んでくれるなら」
 丁寧に慎重に、素直な言葉を紡ぐ。重石を背負い、一人であがき、ひらすら沈むばかりは辛いだろう。いい加減あがってこないか。おまえが必要としてくれるなら、俺はいつでも手を貸したいんだ。あの頃、おまえがそうしてくれていたように。
 ニグレドという存在に、興味を向けてくれた兄に感謝している。生まれたばかりの人間は自他の境界線が不明瞭なため、リビドーのベクトルが自分自身に向けられているらしいが、認知の変容を拒絶する現在のJr.も大概似たようなもので、外部にある他者や事物に向けるはずのベクトルを自分の暗部へと向けている。正確には彼自身もその暗部の位置を正確に把握できていないため、ベクトルの先は固定されず壁にぶちあたりながら、延々と回転していることになる。その緊迫や重圧で陰鬱になった兄へ、いくらかの安心を与えたい。安心という使い古された概念の中には、この世界で生きながら苦悩している者は自分一人ではないと実感できる、孤独からの解放の種子が潜在するとガイナンは認識している。この世界には危険や不快ばかりではないと、世界や他者への信頼や受容を強めてくれるものだと。ルベドは、その安心というものをニグレドに、アルベドに、サクラに、猫のガイナンや庭師のドロイドに、持って生まれた陽の性質と呆れるほど無鉄砲な強さでもって与えてくれた。それはつないだ手の熱が互いを移動するような、無限、無償の分与であった。兄には精神的に自由であってほしい。どのような制限下でも、強く鮮烈な自我をもち、傲慢なくらいに笑顔であればいいのだ。死んだように贖罪をこなし、生きる喜びから逃避することは、糧にした命に対する侮辱となろう。掌で触れる頬は、昔と変わらず温かい。伝わる熱とともに様々な思いが循環する。
「今この距離も、先ある時間も、慣れてしまえば愛しいものだよ」
 複雑で面倒な思考に先走り、呼吸のごとく自然と零れた言葉であった。自分でもおかしく憚られるような内容は、紛れもない本心だ。ガイナンはJr.から手を引いた。
 どうして僕は、こんなにも厄介な存在を希求するのだろうか。この十四年の年月において、そう思惟する日々があった。兄を求めている。自分を認めてくれ、存在を受け入れてくれ、と望んでいる。隔てないじゅうぶんな愛を欲している。感情を共有したいと願っている。自らも相手に庇護の念を抱き、慈しみと労わりをもって接している。どのような悲劇的欠陥があろうとも、その性質に嫌気が差そうとも、見限る選択肢など微塵も存在しなかった。過去に執着するあまり不安定に凶暴さを垣間見せる精神、そのどろどろとしたものを至近距離で目の当たりにするたび、吐き気を催すほどの嫌悪感とともに、なぜだろうか―そう客観的に自己を分析する冷静かつ淡白な己の一面が疑問を呈していた。これまでにJr.を責める要因は、脳内の悪夢だろうと幻影だろうと、自身の能力で呪い、徹底的に排除してきた。自分の命を惜しいと思ったことはない。自分一人の命を差しだして万事が丸く収まるのならば、喜んで犠牲になるだろう。だが、それを実行すれば、延々と終わりなき悲嘆に暮れる兄が自責の念で圧死するかもしれない。そのため、実際のところは他の誰かを生贄にするだろう冷酷な自分がいることを、ガイナンは日頃から重々自覚していた。ルベドであったJr.に対し、自分の兄である事実を重荷に感じる時期もあった。処刑人という己の役割ゆえに、自分の存在自体に疑心暗鬼となり、いっそ無関係の他人であれば良かったのに、と血脈を呪いたくもなった。自身を病むほどに兄の存在は負担であったが、同時にそんな自分の拠り所にもなっていたことは確かである。実の父親を射殺した時点では、日を増すごとに肥大する〝ルベドを殺してしまうかもしれない〟自分への恐怖が、任務放棄の理由であった。自分の世界である兄を失うことは、己にとって唯一最大の恐怖である。この手で兄の命を奪うくらいなら、同じ手で自分の命を絶つ。子供にとって自己の世界の崩壊とは何としてでも阻止すべき現象であり、そのためにはいかなる残酷な手段をも厭わない。息子など口先だけ、自分たちを兵器と捉え、研究対象の被検体として扱う実の父親よりも時間をかけて世話を焼き、愛憎にまみれるほど絆を深めようとしてくれた兄弟のほうがニグレドには重要であった。いや、正確には兄弟しか必要ないという結論が、ニグレドの中での常理であった。あの閉鎖的空間で死守すべきものなど、自分にはそれしか見当たらず、だからこそ、あれこれ苦悶したわりに実際その場に直面した際、呆気なく任務を放棄してしまえたのだ。任務を強制するディミトリ・ユーリエフを、自らの手で射殺した。追いつめられた獣のようにひどく狼狽していたものの、五指はその父親と同じかそれ以上の冷静さでもって照準を合わせ、重くも軽くもないトリガーを引いていた。父親に負けず劣らぬその冷酷さも自認している。実父の命を屠ったことに関し、罪悪感は今なお心底にある。一生涯そうであろう。しかし、その行為自体を間違いだと後悔したこともなければ、兄のように罪を赦されたいとも、誰かに罰せられたいとも切望したことはない。そうした欠落の代償にか、十四年間の日々を兄とともに過ごしたが、日課のようにJr.を屠る自らの幻影にずいぶんと長い昼夜、苦悶していた。兄を置きざりに成長する己の体が怖ろしく、これ以上もう伸びるな、歳を重ねるな、と無意味な自己暗示をかけてみた時期もあった。体中が逞しい筋肉で覆われ、硬く骨張る五指の握力が格段に増すと、なおいっそう途方に暮れた。これでは能力を行使せずとも、右手一本で兄の首を掴み、いとも簡単に殺せてしまうではないか。小さなJr.が絶望の凝塊に見えた。呼吸を求めて喘ぐ苦痛に歪んだ顔を、赤から白へ幾度となく変色させた。自分を見上げる血走った憎悪の眼を、幾度となく閉じさせた。青紫に浮きあがる頚動脈の感触さえ生々しい。Jr.を殺すときは決まって絞殺だ。兄を重荷とする暗澹とした感情が、拳銃よりも直接的な接触を得られる殺害方法を望んだのかもしれないし、兄を神聖視する盲目の感情が、父親を始末した際と同一の絶命方法を忌避したからかもしれない。それとも、最後までこの手で兄の熱を感じていたかったのか。いずれにしろ、任務を放棄したはずが処刑人の役目は身の内に刻まれ、もともと正常とも言いがたいガイナンの精神を確実に蝕んでいた。
 ひたすらに非生産的で、自滅の促進でもある。そうした類の幻覚を、いつの頃からだろうか、はたと見なくなったのだ。決定的な出来事や明確な変化があった覚えはない。ただ、クーカイ・ファウンデーションの代表理事として、身を粉にして働くようになり、様々な人々と出会い、触れあい、意見を交え、仕事柄かリビドーのベクトルが過去から未来へと百八十度転換した。自律的な意志の力を確立したと言えるのかもしれない。Jr.のように贖罪という意識はなく、生きるためにガイナン・クーカイと名乗り、生きるために勤労している、そうした自覚があった。ファウンデーションに住まう人々と同様、それぞれの喪失と重荷と耐え難い記憶を抱えたまま、やや客観的ではあるが、未来を見据えて現実を生きている。時間を浪費ではなく投資している。いずれ訪れるであろう死という唯一平等で終局的な運命を受容し、自身の存在や人間関係の価値を承認できる。自己実現、個性化の過程、自我の統合―抽象的な概念や観念でしか捉えられない生の目的に、ガイナンは自分なりの回答を完全ではなくとも見出していた。そうした意識の変化から、任務を放棄したまま引きずり続けていた処刑人としての役目を、捨てようと決意したのである。己から逃げたのではない。文字通り自ら捨てたのだ。無形の役割であるため、結局は意識の問題となるのだが、その意識こそガイナンには重要であった。培った精神で〝処刑人〟という役割の主導権を握り、不要と見なした上で、自らの意志によって取捨選択の判断をくだし、破りすてた。これはガイナンにとって多大な自信となり、本来の意味でガイナン・クーカイとして一歩を踏みだした証でもあった。U.R.T.V.としての役割、つまり定められた生存意義を放棄しても、他に生きる目的があるということだ。自分から生きたいと思えるのだ。この力への意志が重要である。ニグレドであった自分を否定するつもりもない。恥じいることもない。過ちも屠った罪も抱え、それでも前進してやろうという意気込みさえある。どこに存在するやも知れない神から己の選択を非難されようとも、模範的な答えを選びとれていなくとも一向に構わない。過去の苦悩や逡巡がなければ、今の自分はここにいないのだから。
 このような過程を経て、当初の疑問に一巡する。どうして僕は、こんなにも厄介な存在を希求するのだろうか。まったくもって疑問であった。仕事面では信頼できる良き相棒であるが、精神面では胃酸のように過負荷な男を、なぜこうも大事に思えるのか、自分自身でも理解不能なのだ。ヘルマーと自分の間柄のように適度な距離を保っていれば良好な関係を築けるところを、どうにも断ちきれず今日にいたっている。ノイズのように不協和音で影響しあうつながりは、ルベドとアルベドとは似て非なる依存関係とも呼べよう。とうに成人を迎え、数え年で二十六になる。今ならば自然と理解できる。
「わかるか、俺たちは兄弟なんだ」
 同じ血を分かちあった兄弟だろう。〝優秀で健康な卵子〟としてしか母親の顔も知らず、父親にいたってはろくでもない男だったが、生まれたあとでは分かちあえないものを与えてくれた事実には感謝している。その理由とはつまり、ルベドとニグレドが兄弟であるという極々単純なものであった。口にすればするほど本来の重みと意味を擦りへらし、打ちあげられ、どこかへ転がっていくような理由である。合理的でもなければ、論理的にも根拠のない、くだらない理由だとも思う。人からしてみれば母親の腹にいる頃から周知の事実であるために、普段は意識もしない根底のつながりである。これ以上に大事なものも当然あるだろう。このつながりが最上ではない。例えば、シェリィとメリィは血縁がなかろうとかわいい妹であるし、ヘルマーはまさに育ての親である。重要なものはつながりだ。ファウンデーションはその特性上、多種多様な家族の形態があり、それぞれに独特の絆がある。そうした糸が捩れに捩れ、歪んでもとには戻らない者たちもいる。互いをつなぐものが強固であるほどそうなる。赤の他人や見ず知らずの者に、愛憎など何らかの感情を抱くことはない。興味もない。人間とは身勝手な生物なのだ。それゆえ、ヒトという種族において他者とのあらゆる関係性は、人間を人間たらしめるものである。
 アルベドの能力は確かに特異だが、アルベドの精神に関しては、これらの人々と何ら変わりはないのではないか、とガイナンは思う。ネピリムの歌声では互いに衝突して悲惨な目に遭ったものの、インスティテュートでのアルベドは、ルベドとは異なる形で接してくれる良き兄だったと言える。少なくとも、不仲ではなかった。アルベドの特殊能力を本人が知るまでは、これといった亀裂も確執もなかった。ルベドの弟として甘えん坊で泣き虫な面はあったが、ニグレドに対しては見栄を張った態度も見せたし、機嫌が良いときには少々過激な悪戯に加えてくれることもあった。それがアルベドなりのコミュニケーションであることは、悪意のない笑顔から容易に推測できた。無垢ゆえに残酷。他の子供と変わりない。もしも、アルベドやシトリンがインスティテュートの頃と変わらずファウンデーションでも暮らしていたならば、現在のJr.とガイナンのように各々の仕事分担をもち、兄弟ともに(もしくは場所は違えど皆それぞれ誰かとともに)生活できていたならば、ガイナンはJr.と同様に彼らに接し、格別の情を抱いていたことだろう。いや、彼らの生死が不明な現在でも、彼らに対しての興味は変わりなく、願わくば幸せであれと、エゴと傲慢を自覚しながらも祈ってしまう自分がいる。
 つまりはそういうことである。今はもう、何もJr.だけが特別なわけではない。今現在、希求するものはJr.だけなのかと問われれば、答えはノーだ。ついでに言えば、Jr.そのものを希求しているわけでもない。極々シンプルな結論に達するのだが、弟として兄のことが心配で―まあ、やはり、それだけなのである。今までの苦悩やら何やらがつくづく馬鹿らしくなるほどに。
 おまえは俺の弟だから。あの頃、ルベドは誇らしげに言って笑った。兄貴然とするルベドの手を、躊躇なく握り返せたことが自分にも誇りであった。兄の手は子供の頃のままひどく温かいのだろう。自分たちも他の人間と同様、極めて行動範囲の狭い排他的な幼年期の終焉を迎え、果てなき荒野のごとき世界へ足を踏みだした瞬間から、揺るぎない血脈と幾許かの諦念を循環させて生きているには違いないのだから順応すべきだ。苦々しい過去も、それぞれの孤独が待つ未来も、今このときも慣れてしまえば悪くない。万般の角度から数多の僥倖に巡りあうだろう。
「安心しろ」俺もアルベドも、おまえが切実に生きるこの世界も、おまえに辛いばかりじゃない。
「何があっても、おまえを信頼している。少しは気を楽にしてくれ。少なくとも、俺はおまえに理想や完璧を期待しているわけじゃない。Jr.、おまえが今を生きているなら、それでいいんだ」
 Jr.は睥睨していた双眸を見張り、絶句していた。半開きの唇を動かすも、掠れた音しか出ない。
「何だよ、それ、意味わかんね……俺、おまえのこと信頼してるし、まっとうに生きてるだろ?」
 姿は十二歳のままでも、心中の動揺に戸惑う笑みは二十六歳相応のくたびれが見てとれた。瞳のコバルトは深く、これが十四年間分の兄の疲弊なのかもしれない。「Jr.」促すように名を呟けば、彼は緩くかぶりを振った。
「おまえもさ、こんなん相手じゃ面倒だろ。火中の栗なんて拾うもんじゃねえよ」
「そうは思わない」
「おまえの懸念ほど、俺は参ってねえから」
「ああ、そうだな。俺が参っているのだろう」
 自嘲ではなく本心から弟を労わる口調のJr.に、ガイナンは微笑んだ。もちろん、欲しかった言葉はこうした適度な優しさではないし、自分の言葉がJr.の内にある何かを射止めたとは思えない。本来こうした役割は心情の機微に敏感であるJr.が得意とするはずのものだし、案外、今も内心を見透かされているのではないだろうか、とかすかに期待していた。ガイナンの微笑みにJr.は憮然たる面持ちでため息を吐き、「その言い方、狡いぞ。俺にどうしてほしいんだ」と困ったように言った。青白く強張っていた表情は血色をとり戻し、毒気の抜けた眼光にも鎮静の色があるため、ガイナンの心配は多少なりとも緩和された。とはいえ、根本的な解決にはいたっておらず、今回も兄のほうがいくらか狡猾でうまくはぐらかされてしまった。
 まあ、いいさ。長期戦なら望むところ。待つのは得意なんだ。どうしてほしいだって? そんなもの、
「おまえの思うままでいいさ」
 ガイナンはデスクから離れると、プールテーブルに寄りかかった。やけに殊勝な弟の発言で、Jr.が虚を衝かれている。
「それよりも、航海中に起こった一連の概略は承知したが、おまえの見解を聞いていない。子守唄代わりにつきあってくれるか?」
 子守唄とはベッドでの読み聞かせ―もとい古書自慢である。オークションで古書を入手した夜のJr.は徹夜も辞さない威勢があり、歴史的価値のある古書やマニアなら垂涎ものの珍本についての詳密な解説からはじまり、原作者の生いたちや当時の時代背景まで熱心にうんちくを語って聞かせたがる。哀れな聞き手の役回りは当然のごとくガイナンであり、翌日は決まって寝不足になるが、厄介なことに自分もそれを心待ちにしているのであった。Jr.はデスクの脚を組みかえながら、「仕方ねえな」とまんざらでもない顔で言った。「途中で寝ないって誓えるなら、イエスだ」
「どうかな。聖書の文句は眠くなる」
「ま、それと比べりゃ退屈しねえ内容だとは思うぜ」
「それは良かった」
「いいや、良くもないね。黙示録より面倒事かもしれねえ」
「安眠の歌声は期待するなと?」
「そんなとこ」
 常であれば小気味良く居心地良く感じる会話に、今日は多少の寂しさを覚える。Jr.は当時の状況を想起するように天井を見上げ、順を追って自分の見解を語りはじめた。聖書の文句を銃弾に乗せ、敵を屠るJr.の癖は知っている。人は神が創造して誕生した生物だと言われているが、その神は聖書の中で人―いわば、自分の子供を悪魔よりも数多く殺している、と言ったのはJr.であった。言霊を吐きながら己の咎を認識し、新たに罪を背負う心情とはいかなるものか。洗礼を受けてもいないのに。教徒ならば、まず他者のために祈る。自分のために祈るのは、それを終えてからなのだ。Jr.にとって聖書とは、単なる宇宙一のベストセラーであった。言葉遊びが散りばめられた『ロリータ』のように芸術性の高い古典と同じ、快楽装置としての鑑賞作品であり、決して苦し紛れの戒めのような使い道はしていなかった。
「―とはいえ、アリアドネ消失事件とエミュレーターについては、念話の通りだしなあ。大体、モモの件に関しては、俺が聞きたいくらいだぜ」
 Jr.が意地悪く口角を持ちあげる。兄が影から健気に見守りつづけるほど大事らしい、百式レアリエンの少女―U‐TIC機関に拉致されたモモの救助保護はJr.に内密で処置する手筈であったが、彼女が保護されたエルザをデュランダルが確保したことで露見してしまった。そのため、Jr.がモモと初対面を装って出会った日の夜、ガイナンは念話で散々Jr.に咎められていた。例の部下が殉職してから間もない内の事件であったが、その内面を欠片も見せない胆気は、さすが艦長と言うべきか。
「まだ根に持っているのか」
「冗談だって。その顔、笑える」
 ガイナンが窮しているとJr.はチェアを揺らしからからと笑い転げたすっかり普段の調子をとり戻したらしいガイナンは本来の姿をした兄とビリヤードで勝負をしてみたいと思っているもしくは紫煙をくすぶらせる自分の煙草から兄が銜えた煙草に火を移してみたい同じ高さの目線でビジネスの話がしたい弟にとって兄とはどういうものかおまえはわかるか―Jr.?
「ガイナン」
 名を呼ばれる。揺るぎない青の眼光を受けとめながらも、ガイナンの意識は宙を漂っている。
 それがどういう存在なのか、わかるかい、兄さん? 俺たち弟が、必死に、あらゆる言葉と行動を尽くし、何とかして理解してもらおうとするところを、何とかして興味を向けようとするところを、兄はたった一言で、
「ありがとな。俺のこと、今も兄弟だと認めてくれて」
 いとも簡単になしえてしまう。嬉しかった、と。そんな容易い単語で、俺たちが積み重ねた言葉を軽々と凌駕する。限りなく真円に近い完全さで勝手気ままに情を語る。
 ほら、見たことか。不器用な含羞の笑み。細められた青い眼差しは、昔と変わらぬ兄を兄たらしめる強さで弟を見守り、根拠などへし折ってしまうほどの絶対的な安心を与えてくれる。手をつながずとも、兄という生きものはそれができる。俺にとって、兄とはそういうものだ。それをこの人ときたら、ちっともわかりやしない。こみあげる。目頭が痛む。大の男が柄にもなく、と自分に呆れる。堪えきれず、歪もうとする顔を見られたくない。ガイナンが顔を背ける前に、Jr.のほうが己の発言に耳朶を染めており、壁にかけられたゴッホの『ひまわり』までふらふらと視線を泳がせていたが、何やら聞きとれない声で言い淀み、そうそう、と内容を思いだしたらしいときには、普段の醒めた表情に戻っていた。
「とにかく、そういう経緯でエルザの連中を拾ったわけなんだが、どうもアリアドネが消失した時点から、単なる偶然じゃ済まねえ巨大な意図がありそうでな。チェスの駒よろしく盤上で踊らされてるようで気分悪い。ポーンでタップを踏んでる感じ」
「ナイトですらないのか」
 机上に伸ばした五指でタップダンスのように爪を鳴らすJr.の指を眺めながら、ガイナンは努めて冷静な調子をもち直した。Jr.は盤に見立てた机上で、十字を切るように指を滑らせた。
「だとしても、向こうが先にクイーンでスキュアを決めちまう。俺らポーンが昇進できりゃあ話は別だが、エミュレーターやら重要な手駒を配置してるぶん、他を動かし辛いからな。現状でのキングをモモの中にあるY資料とすると―チェックメイトでゾハルを贈呈ってな事態になりそうだ」
 淡々とした説明の最後に、Jr.は『ロリータ』の角をこつりと机上にあて、チェックメイトとした。窓辺のカーテンにもたれたガイナンは、いや、と彼の先見をやんわり訂正した。
「その仮定は打つ相手がU‐TIC機関である場合だろう。狙うキングもウィナーの戦利品も、仕掛けてくる相手さえ現時点では不明。先手を打つには情報が不足しすぎている」
「まあな。結局のところ、現状じゃ後手に回るしかねえだろ。杞憂で終わりゃ、それが最良だが」
 呆気なく見切りをつけながらも、Jr.は少々歯痒そうに爪を噛んだ。ガイナンが頷くと、彼はチェアを回転させながら、まあ、と話を進めた。
「それと関係あるかどうか判断しかねるが―ヴォークリンデの生存者でもあるヴェクター一局の客人たちが連れてるアンドロイドについて、報告書にデュランダルで録画しといた映像あったろ」
 ああ、とガイナンは頷く。対グノーシス用ヒト型掃討兵器が未知の兵装でグノーシスの大群を吸収している異様な光景のことである。音声がなくとも兵器の格外は伝わるほどで、この兵器の開発計画に携わっている人間も普通ではない、そう考えるのが妥当であろう。
「あのKOS‐MOSって奴のポテンシャル、並大抵じゃないぜ。どう見てもプロトタイプって柄じゃねーな。エミュレーターと共鳴したことも気になる」
 あれは信用ならない、とJr.は警戒した表情を見せた。信用ならないアンドロイドについて存知することの内で一点、ヒルベルトエフェクト、と呟いたガイナンは、「アーキタイプは損失したと聞くが、中々裏がありそうだな」と続けた。さらに、ヴェクター第一開発局所属のシオン・ウヅキに関しての疑問を呈し、互いの意見を述べあう。「見たとこ普通の女の子だけど」などとJr.がまんざらでもない顔で呑気なことを口にした。そうした兄を眺めていると、平常を逸脱した事態の蝟集を脳の大半で危惧しながらも、残りの角で別の意識を働かせてしまう。その角には、兄の言葉を咀嚼している自分がいた。いまだに多少、自分でもよくわからない情動の余震が続いている。時折ペシミズムに転ずる兄の思考どおり、現実というものは悪と悲惨に満ち、誰しも平等に不条理であり、理不尽であるのだが、もう少し寛容に世界を信頼しても良いのではないか。そうした矛盾の楽観も、意欲的に能動的に生きていくため、人には必要な条件であろうと思う。そう、我々は人なのだ。生ぬるい熱のためにナイフほど鋭く切りさけず、重い血肉のために銃ほど迷いなく貫けない。優秀な兵器とは言いがたい、矛盾した人間であり、愚かな男なのである。
 兄弟だと認めるも何も、おまえの中では俺と出会う以前から決定していたのだろう。生まれる前から死んだ後まで変わらない。俺はな、卵子の浮標する試験管でナンバーを用意され、心臓が鼓動をはじめる前からおまえの兄弟で、脳が思考を完全に停止し、骨と灰になってからもおまえの兄弟なんだ。それが誇りだ。俺の根底をなす定義だ。兄が自分で気づくまで、わからせてはやらない。アルベドのような白髪の年寄りになるまで言ってやるものか。ガイナンは、そう勝手に決意した。ざまあみろと思うと、少し爽快だった。
 Jr.のくだらない後悔は海のようだが、振り返れば足元には岸辺があることを知るべきだ。存在の呪いも、数えきれぬ命を奪った罪も、偽善の裏切りも、浅ましき醜悪も、限りない痛みも、すべてその身に受けて、なお自分たちは生きなければならないのだから。過去の自責や絶望に支配された現在の自分を、未来の受容に向けて転換する。容易ではないが不可能でもない。
 スクリーンを見つめる深夜の暗がりで感じたすべてを、Jr.も覚えているだろうか。映画のような決着も存在しないであろう深海で何を思うのだろうか。何も見えない。わからない。それでも、この罪悪を互いに見届けるしかない。情動の余震がやみ、世界がすっきりとする。モモのことでからかったとたん、食ってかかるJr.に目を向けたガイナンは、デスクの端に置いたきり失念していた紙箱の存在を思いだした。包装されてはいるが、すぐに開けてしまえる。デスクは共用と認識していても紙箱はガイナンの私物と判断し、手を出していないJr.に安堵した。『ワイルドバンチ』と時代はずれるが、最近のJr.はソビエト連邦のスチェッキンやマカロフに夢中であった。デュランダルが惑星アリアドネ消失事件について調査を開始していた先週から、サザビーズの古代武器コレクションを物色した中で目をかけ、帰還日に合わせて落札したこの品。最後の一器となるエミュレーター確保への景気づけという意味合いもあったが、結果的にはゾハルエミュレーター全器格納封印達成への褒美となった。Jr.はどう反応するだろう。柄でもない、と訝るだろうか。ガイナンが退出する時間さえ待ちきれず、口笛でも吹いて歓喜するだろうか。中々におもしろい。当のJr.にビーチへ行って気分転換でもしてこいと言いながら、どのタイミングでこの品を渡そうかと思案してみる。この兄が、まるで海から釣りあげられた魚のように驚くさまを見てみたい。それくらいは、兄に振り回されてばかりの弟の特権だろう。長期戦には多少の息抜きが必要である。
 話を終えたJr.が立ちあがる。ステンレス仕上げのマカロフが入った紙箱を手にとり、ガイナンはドアへ向かう兄の名を呼んだ。