心臓抜き 2


Timeline: DS EP2, in Local Matter Shift



 アルベドの寵愛を受けるシメオンを破壊し、幻影の破片が不愉快な哄笑と霧散するさまを眼球に焼きつけたはずなのに、俺はいつの間にか、デカダン小説に潜りこんだかのような部屋にいた。重苦しい緞帳の合間に点々と張られた、モローの絵やゴヤの版画。毒々しく腐敗したような色の柱が、むきだしの骨のように建ち並ぶ。奥の書架には、ラテン語の文献が溢れていた。乱雑に押しこまれた小説の中に、ボードレールとマラルメもある。『さかしま』の人工楽園を意識しているのだろうか、気味が悪い。寒気がした。その寒気でさえ退廃的な部屋に見合わされているようで、さらに薄気味悪い。
 事象変移内では、実数領域と虚数領域の境界が不明瞭になる。どのような事態だろうと、人の意識を発端に生起する可能性がある。それでも、自分の置かれた状況はとりわけおかしい。ありありと明白に顕然としている。なぜなら、
 モモ! シオン! どこにいる?
 と、間抜けにも呼号して途方に暮れる自分の姿を、今まさに斜め右上から、その俺自身が見下ろしているのだ。水面や鏡以外で自分の全容を見ることなど滅多にない。眼下の自分は焦燥していた。滑稽な様子を観察するのは愉快で、含み笑いが漏れた。愉快だと思う感情も、引きつり笑いも、俺のものじゃない。そうした心境を体感してはいるが、享受も認容もしていない。これは自分以外の精神だとしか思えない。
 今の目線は誰のものか。考えるまでもない。俺を見る視線の歪み、感情の混迷と錯雑による狂気―これはアルベドの眼だ。熟した葡萄酒のように濃厚で、鉱山の深奥で眠るアメジストのように高純度な、俺の青とは似ても似つかないあの赤い眼だ。今の俺の意識は、眼下の自分でありながら、同時にあいつの眼を通し、あいつの視界と心境を体感している。アバターを遠隔操作するように、眼下のJr.が動く。感覚としては、エンセフェロンの初期状態に類似していた。
 部屋の奥に進むべくJr.が足を踏みだすと、靴の先で何かを蹴った。それは『悪の華』の背表紙で、なよやかな褐色の五指が色あせた表紙の上に投げだされている。壁の絵画や奥の書架は見渡しておきながら、Jr.は足元の確認を怠っていたらしく、キルシュヴァッサー、と呼びかけるように呟いた。返事はない。絨毯代わりに石張りの床を埋めつくす少女たちの死屍の中央で、Jr.はすぐに嘔吐した。胃の中身は残っておらず、黄色い胃液のみが唇から垂れおちた。本の表紙が嘔吐物で汚れてしまった。顔から血の気が引いている。アルベドの中の俺は、この光景を愉快に感じていた。気分は高揚し、滑稽な男だと嘲笑している。俺は反論した。当然だ、と。ある少女は無残に四肢を折られ、ある少女は腹を引きさかれ、愛しい彼女と同じ顔をした女の子が何人も、この空間を最上まで美しくするため誂えた宝飾品のように、丁寧に虐殺されていたのだから。そんなものを見せつけられて目を背けない奴はいないだろう。だが例えJr.が青白い顔で瞼を閉じようと、俺は少女たちから目を離すことを許されない。アルベドの眼によって直視することを強要される。褐色の肢体に映える銀髪を広げた少女らは、空虚な灰色の瞳で方々を見つめ、胴体のない首についた二つの眼が、俺をなじるでもなく謗るでもなく、瞬きもせずに濁った灰を見せつける。ゲットーを覆いつくした骨灰のように、俺の内部に降りつける。
 何とも背徳的な光景だ。そうは思わないか、ルベド。
 自分を陶然と見下ろす視線にも気づかず、Jr.は汚れた本を払いのけると、亡骸の一体を抱きしめた。平等に折られた手足がだらりと垂れ、脳みそのつまった頭が傾ぐ。銀髪はヴェールのようにJr.の肩を覆い、褐色の顎が重力でわずかに開いた。
 アルベドは、不公平だとJr.を罵った。同情ならば一体だけではなく、他の九十八体の死体もその手に抱き、全員の死を同等に汲むべきだ、と。それから、百体目のモモに対しては、こうした同程度の薄っぺらい博愛精神で接するべきだ、とも言った。
 ルベド、と名を呼ぶ繰り言での苛みを、俺は否定できない。アルベドの意識に吸収されている俺の意識はアルベドに従属し、なおかつアルベドの言葉は昔と変わらず紛れもない真実だ。
 おまえの半解と生温い態度が、どれほど残酷な結果を生むか自覚しろ、ルベド。
 Jr.は虚空を睨みあげた。眼と眼が合う。Jr.の前に揚々と姿を現したアルベドが、待ち望んだ終局の足音に聞き耳を立て、ほくそ笑む。俺は正面から自分を見据えた。アルベドの目線で見るJr.は、ひどく滑稽であり、ひどく腹立たしくもある。何しろ十四年前のままの姿で大した不自由もなく、それなりに愛される環境を享受し、のうのうと生きている卑怯者だ。罪悪の重石や良心の呵責はあるのだろうが、それも所詮は狂わない程度のものなのだろう。アルベドはそう思っている。狂いもしないおまえの苦悩は甘いのだ、と。
 Jr.本人が冷静な対処を試みようとも、アルベドと対峙したJr.の動揺は大変なもので、精神の惑乱も肉体の萎縮も判然としていた。青の双眸に怖気。俺にとっては不本意ながら、Jr.は恐怖していた。認めざるを得ない。アルベドはその存在のみでJr.の意気を完膚なきまでに消沈させ、道すがらJr.が蓄積した諸々すべての能動的な意志活動を衰滅させてしまった。影響を及ぼす度合いならば、その重要性は何より最上だと言える。それがアルベドという男であり、俺の暗部である証でもある。無上の快楽であり、無下の苦痛であることに間違いはない。
 おや、逃げないのか。
 立ち竦むJr.をアルベドが鼻で笑う。
 ここまで来て、俺が逃げると思うのか。
 Jr.は無意味な虚勢を張る。当然だろう、前科がある、とアルベドは冷笑し、侮蔑に口を吊りあげた。
 十四年も前の話だ。
 苦々しい口調で言い逃れるJr.に対して苛立っているのが、アルベドなのか自分自身なのか、わからない。
 そうとも、十四年しか経っていない。おまえの中では時効か? 俺は違う。まるで昨日の出来事のように鮮明で、記憶と呼ぶには生々しい。
 あの青いバラのようにな。アルベドは最後の晩餐を楽しむように、優雅な所作で会話を愉しむ。俺の意識は居心地の悪さに嫌気がさし、外のJr.は簡単に奴の挑発に乗る。制止する者がいようがいまいが、誰一人として俺たち二人の溝渠を改善できはしない。同じ鉄から精製された二つの車輪が車両の右と左で食い違い、錆びついたレールから上手い具合に外れたまま、最高速度でぬかるみを暴走する。乗客全員を道連れに、崖っぷちまで。そういう生物なのだろうと思う。
 思うに、おまえが俺を裏切ったことは、事実という解釈だ。ルベドよ、真実はどうだったかな。
 アルベドは気怠げに白髪をかきながら、三日月の口で笑った。見開かれたJr.の瞳には怯えが見える。何のことだ、と呟いた唇は乾き、どちらかといえば肌寒い部屋で、額に赤毛が張りついている。
 十四年前のミルチアを思いだせ。あの日のネピリムの歌声を、俺はよく覚えている。
 そう要求したアルベドと同じく、あの歌声は今でも俺の耳を貫き、脳を撃ちぬいている。聞きたくないのに鳴り響く。両手で耳を塞いでも、より鮮明に俺の奥へ侵入し、沼底に沈殿する泥を掬いあげるように、ことさら嫌な記憶を浮上させる。
 教えてくれよ、ルベド。
 にやにやとアルベドが笑う。
 あのとき、先に手を離したのは本当におまえだったのか? それとも……?
 何だよ、何言ってんだよ。Jr.は狼狽した。俺の頭も混乱しはじめる。何言ってんだ、アルベド。手を離したのは、誰かだと? 俺だろ、俺に決まってる。でなけりゃ、俺たちがこうしている理由がねえよ。今さら、それを俺に確認するのかよ。この俺が! おまえの手を離した。これが唯一の真実だろ? そうさ、俺が悪いんだ!
 そうだろ? Jr.は必死の形相でアルベドに縋った。硬い腹に拳を突き、ほとんど抱きつくようにして、アルベドを見つめた。
 俺が、おまえの手を離したから! 自分の消滅が怖くて、リンクを切断したから! リーダーなのに仲間を見捨てたから! 全部、何もかも俺が悪いんだよ! だから、全員ウ・ドゥに汚染されて―おまえだって! 今さら何だよ!
 ああ、そうだな、そうだ。ずいぶん昔のことなもんで忘れちまってたよ、悪い悪い。全部、おまえのせいだ。
 アルベドは肩を竦め、あっさりと俺の罪悪を肯定した。億劫そうに体を引きはがされ、Jr.は安堵する。否定された真実は闇に埋もれ、自己の崩壊も否定される。こうして自己が保持される。これでいい。精神は安定する。俺が否定した言葉は大抵の罪人にとって救済となりえるのだろうが、俺にとっては茫漠とした苦痛でしかない。原因が自分にある現実でいい。俺には罪状が必要だ。何かのせいにしておかなければ、この場に立ってもいられない。
 おまえのせいだ、ルベド。おまえのせいだから、俺の望みもおまえだけが叶えられる―無論、おまえがこの場から逃げないことを前提とした話だが。
 アルベドの皮肉に、Jr.はかぶりを振った。
 ここにいる。
 我ながら、薄っぺらで間抜けな言葉だと思う。決意を宿した青い焔に腹が立つ。そんなもの一時的でしかないだろうに、すぐさま尻尾を巻くだろうに、約束できやしないことを明言しては裏切りを繰り返す自分を軽蔑するも、Jr.はJr.で現時点での意志と発言を真実だと信じているし、確かに今は間違っていないのだろう。
 どうだかな。何にしろ、結局はニグレドに尻拭いをさせるじゃないか。おまえは昔から、そういう奴さ。
 なあ、ルベド。くつくつと喉奥で声を転がすアルベドの嘲笑に、Jr.は赤面した。恥辱に耐える様子を眺め、アルベドが満足する。
 それ以上いくと、その毒々しい髪と区別がつかなくなるぞ。
 にやにやと笑いながら軽口を叩けば、ますますJr.は赤くなる。眦に怒りが湧いている。俺は己の安直さを痛感する。生クリームをたっぷり添えたシュトゥルーデルより甘ったるく、簡単に崩してしまえる。ぐちゃぐちゃに引っかき回してやりたい。
 アルベドの挑発的な視線を受け、Jr.の右手がホルスターに伸びた。無意識だと思いたい。指先にあたるマカロフの感触は遠のきつつあった理性を呼び戻す。Jr.は己の行動に愕然としていた。俺も驚愕した。最終的な決意に関していえば、俺がここまで来た理由それそのものは、このためであることに間違いない。それでも、一時の激情に任せて撃ち殺すような愚は犯すべきではない。それなのに、十四年前と同じ過ちを繰り返そうとしている。何も進歩していない。
 自分を崩されそうになると、そうして攻撃にでる。おまえが否定しようが、それがおまえの本性であることに変わりない。
 銃身に触れたきり硬直しているJr.に対し、アルベドは傲然としていた。一連の行動は兵器としての本能であり、その本能こそが自分を解放へ導くのだと確信している。違う、とJr.が唇だけで否定するが、そんなものには意味がない。アルベドは続ける。
 その破壊衝動はな。おまえの中で暴れ狂い、おまえの手で完全に魔物と化し、やがて偽善の柔肌を破って、この俺を撃つだろうよ。
 嫌だ、とJr.はかぶりを振る。欠片の理性で押さえこんだ右手が、青白く変色していた。
 本能を怖れるな、ルベド。
 諭すように、アルベドが微笑む。
 おまえは俺に対する感情をコントロールできない。俺もおまえへの感情を自分の意志で制御することはできない。もっとも、俺の場合は制御しようとも思わんぞ。なぜなら、おまえは多くの制約に束縛されているが、俺を縛るものは唯一、ルベド―おまえという存在のみだからな。
 アルベドはそう言うが、俺とて根本はそうなのだ。アルベドより多少外に興味があったため、アルベドより大分己の体裁が気になり、結果としてアルベドとは比較できないほど臆病で虚飾に満ちた欲深な子供になった。
 俺の心を占めるものはすべて、おまえに帰結するんだよ。
 表面上の言葉には飾りたてた言葉を並べて返すくせ、本質を問う言葉には激しい気性を発露させる。おまえの迷いが引きおこす自己防衛だろうと、それも俺には拒絶でしかない。なぜ、ここへ来たのか―思いだせよ、ルベド。そのためには、どうすればいい?
 アルベドの手がJr.の肩に置かれる。Jr.は恐怖から湧きおこる衝動に耐えていた。撃てよ、とアルベドは囁いた。
 撃て、破壊しろ。殺しちまえ。
 耳元で誘惑する声音に、Jr.は弱々しく、やめろ、と呻いた。すでにJr.の理性はなきに等しい。それに伴い精神防壁も崩壊し、不安定な思念の流動が起こる。荒れ狂う波のような思念は葛藤で幾多の渦を巻き、嵐の大洋に浮かぶ小舟のごとく間もない転覆を余儀なくされていた。
 アルベドを、この手で再び失う。そんなことは、もう二度と耐えられない。
 とうに飛散した理性の代わりにJr.の右手をとめているものは、アルベドを失う恐怖のみ。もう一度でも拒絶しようものなら、本当にすべてが終いだとわかっている。
 おまえが、いなくなるのは、いやなんだ!
 Jr.は、ほう、と息を吐いた。竦んだ肩がさがる。激昂で赤らんでいた眦に耐え忍ぶ涙の影が光り、鬱陶しいほど青くきらめく光源を湛えた双眸が、そんなJr.を鼻で笑うアルベドと、さらに奥にいる俺を見透かすように渾身の力で睨んでくる。
 俺は、おまえを、撃たない。
 Jr.は言い、右手をそろりと銃から離した。
 撃たないと言ったが、最終的にアルベドを撃つため、俺はここへ来たのだ。それ以外の選択は、アルベドにとって苦痛を強いるものだ。この決断は救済と呼べる行為でもないし、本来その資格もない。俺にできることは己の罪悪の始末をつけることだ。撃たないんじゃない。撃てない、撃ちたくない、という表現が正しい。
 おもしろい、とアルベドは口角を吊りあげた。
 試してやるよ、ルベド。
 何を、とJr.が問うより早く、アルベドの白い両手がJr.の首筋に伸ばされた。尖った爪が敏感な肌を滑り、ひやりとした指が緩やかに細首を絡めとる。片手でもじゅうぶんに収まる子供の首は、じっとりとした汗で湿っていた。息苦しさからJr.がアルベドの腕に爪を立てる。俺は己の苦痛と同時に、その苦痛を強要するアルベドが感じる愉悦も感じていた。
 抵抗するのか? アルベドが問えば、小さな体は簡単に跳ねた。耳元で囁かれる低音に背筋が凍る。どうした、いいんだぞ? アルベドが揺さぶりをかける。
 わざわざ仲間のいない場所に呼んでやったろ。安心して裏切れよ。もう限界じゃないか?
 ああ、限界だ。
 シオンは言うだろう。なぜ、兄弟同士で争わなければならないのか、これしか結末はなかったのか、と。同じ目的をもつ仲間であろうと、結局のところ他者であることには違いない。つまり、越えられない壁を意味する。今の俺が彼らの事情を知らず、その思考回路を形成するにいたった過去にも踏みこまないように、彼らが俺たちの関係を理解できるはずがない。考えてもみろ、出会って一年も経ってない連中だろうが。運命という名の成り行きと利害関係の一致で同行しているにすぎず、彼らのことに関して俺は何一つ知らないに等しい。すなわち、彼らとて俺という男を何一つ知らない。というか、知られたくもない。俺たちが共有していた時間を、喪失と孤独の十四年間を、他の誰がわかるはずもない。
 わかられて、たまるかよ。
 知らず、Jr.は呻いていた。アルベドが首肯し、ほくそ笑む。
 言ったな。それでこそ、ルベド、おまえだよ。
 Jr.の目が見開かれる。泣きだす直前のような、さも傷ついたという表情に、アルベドは憤りを感じていた。
 被害者面をするな、ルベド。おまえには悲劇的欠点がある。自分が加害者である重みも、罪悪を決断しない理由も、すべて過去の出来事を原因として逃避している、その事実だ。俺たちへの裏切りにまるで気づかない。気づこうとしない、考えが及ばない、注意を向けない。この無知に過ちも償いも関係ないぞ。過去の云々も理由にはならん。単なる怖気と怠慢だ。できるのにしない。これが罪だと言っている。そして罪の継続が裏切りだと、いい加減に知れ。
 アルベドは高々と、Jr.の体を掲げた。目線が高くなると、デカダン小説の部屋全体が見渡せ、ますます化物屋敷のように見えた。なよやかに四肢を投げだし、赤い絨毯に寝そべるキルシュヴァッサーたちが、白く柔らかそうな唇を半分ほど開き、無言でJr.を見つめている。アルベドの両手によって酸素の供給を遮断されたJr.は、声にならない悲鳴をあげた。水中をかくように宙の脚を乱暴に動かし、どうにか呼吸をしようと口を喘がせる。どくどくとJr.の表面で頚動脈が脈打っている。まるで生まれた頃のようにアルベドと血液を共有している気分になる。アルベドの皮膚が俺の血を感じ、二本の腕を伝って心臓へと流れこむのだ。呼吸はできない。それでも、苦痛の中で俺のほうは懐かしさを感じた。
 素晴らしい、アルベドが感嘆する。これこそ命の営みじゃないか。この迸る流動、循環、その先に待つ終点。素晴らしい。俺はこれが欲しい。アルベドはJr.の血に羨望していた。
 苦しいか、ルベド。苦痛は大事だぞ。生物にとって何よりも不可欠な要素だ。
 アルベドの言うように、そうだろうとは思う。苦痛は大事だ。それがあるから、今のところ人類は存続している。殺しあいが戦争時のみに限定されるのは、平和ボケした連中であれば、大抵が自己に抑制をかけているからだ。自分が体験した痛みを想起し、それを相手に強いるのは悪だと認識している。稀に善悪も良心もない奴がいるが、そもそも善悪の区別や良心という制約自体が規律でしかないのだから、そいつらのほうがまともなのかもしれない。苦痛は大事だ。生を確認するために。生きるには狂気と上手につきあうことも大事だろう―なるべく、薬抜きで。
 それなのに、とアルベドは残念そうに嘆いた。
 キルシュヴァッサーは苦痛を知らない。哀れな奴らだろう。俺が殺してやったよ。最中も顔色ひとつ変えんのでな、たっぷりと時間をかけて、一人一人余すことなく感じさせてやった。そうしたら、笑う奴もいたよ。微笑んで、俺にキスをする。おかしいだろう? キスだなんて、まったく馬鹿げている!
 くつくつと笑うアルベドの両手の中で、Jr.の血管はどくどくと脈打ち、頚骨は形を維持している。死ぬことはない。両手の力は絶妙な加減に抑えられ、殺すのではなくいたぶりが目的なのだと理解はしていた。それでも死への恐怖は拭えない。
 愛しいよ、ルベド。俺はなあ、あの模造品が何より愛おしい。もしかすると、おまえより―。
 恍惚と、ともすれば優しく、アルベドは実に安らかに微笑みながら囁いた。朦朧とする意識の中でそれを聞いたJr.の瞳から、あっさりと涙が零れおち、音もなく頬を伝った。生理的なものなのか、自分でもよくわからない。嫉妬なのかもしれない。
〝ここに知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は666である〟
 首を片手で絞め、空いた手でJr.の右手をとると、その掌にある数字を眺めてアルベドは言った。
 血縁を裏切り、殺しつづけた暴君ネロ・ケーザル。いつ見ても、おまえに相応しい数字だ、ルベド。
 Jr.の頬を再び涙が伝い、アルベドは大仰に驚いた。なに、悲しむことはない、と。
 あの男は忌まわしい過去を持ち、非常に不運な皇帝だったのさ。皇帝であったことを忘れるなら、ネロは奇抜なことをやってのける愉快な若者と記憶されたろう。善政はした、それが持続しなかった―それだけの話だ。
 Jr.の両眼が、紅く怪しい光を放ちはじめる。そうだ、来い。アルベドが嬉々として煽る。
 とはいえ、持続する意志とは、リーダーに不可欠の要素だがなあ。
 罵り、言葉を重ねる。
 おまえの体で疼く破壊衝動を解放しろ、この俺を攻撃してみろ!
 もしもネロが、皇帝の地位など望むべくもなかった一人の男として生涯を終えていたら? その人柄で多くの友人や庶民に愛され、一般的に幸福といえる一生を送ったことだろう。おまえの場合、〝クーカイ・ファウンデーション代表理事〟という馬鹿な地位にあぐらをかき、その肩書きを降ろしたところで、ルベドは〝裏切り者のU.R.T.V.〟だ。偽りの名で他人のふりをしようと、おまえはおまえだろ、ルベド。
 正直、自分でもアルベドの挑発に乗ると思っていた。だが、Jr.の中で蠢く真っ赤な衝動と体から放たれる危険な波動は、Jr.が苦しげに瞼を閉じるとともに体内へ集束され、狂乱する猛悪を奥底へと封じこめた。己の内部で暴れ狂っていた衝動が、落ちつきをとり戻したどころか、冬の空気のように澄んでいる事実に驚く。閉じた瞼が薄っすらと開いたとき、そこには水底のように静かな青があった。
 アルベド。おまえの手、おまえの指。彼女たちを殺した手と指―おまえ、どんな気がした?
 声は掠れた息でしかなかったが、Jr.の唇がそう動いた。その言葉により泡立った、アルベド自身にもわからない複雑な感情が、高揚したアルベドの心を急激に醒ました。舌打ちし、Jr.に唾を吐きかける。
 なぜ、あいつらと同じことを言ってくる、とアルベドは呻いた。


 アルベドは困惑している。キルシュヴァッサーの首を絞めている最中、抵抗もしない彼女はこう言ったのだ。
 あなたの手―私の妹たちを殺した手―ねえ、あなた、どんな気がしたの?
 最後のキルシュの熱を感じながら、アルベドが答える。
 おまえたちの顎は細かった。柔らかだった。脆かった。細く、柔らかく、脆く、そして―。
 そして?
 肉だった。俺の手の肉と、おまえたちの顎の肉―肉と肉が、生と死をわけた。
 どうか悲しまないで。
 最後のキルシュが言った。
 悲しむ、俺が?
 アルベドは鼻で笑った。
 俺は、おまえたちの散逸をとめて集束させ、おまえたちに言葉を教えたが、その間に何かしらの情を寄せたことはない。だから悲しむこともない。
 ええ、ええ、そうでしょうとも。あなたは私たちを膝に乗せ、愛くるしい、という言葉を教えながら、あいつの首を刎ねろ、と言いました。私たちを眠らせ、楽しい夢をごらん、という言葉を教えながら、あいつの心臓を奪え、と言いました。私たちは、善と悪の言葉を同じ意味で覚えたのです。そして今、私たちが、あなたに言葉を贈りましょう。
 最後のキルシュは言う。
 孤独な私たちを、生かすことも殺すことも、それが愉しい遊びなら、それがあなたの愛なのだから、殺すことのほうを選んだからと言って、どうしてそれが罪悪なの?
 にっこりと微笑むキルシュを見つめ、アルベドは声をあげて笑った。冷ややかな嘲笑でも皮肉めいたものでもなく、二十六歳の青年らしく、素直な感情を公然と示した笑い―つまり、喜びから湧きでたものだった。言うようになった、とアルベドは最後のキルシュの頭を撫でた。彼女はアルベドにとって最後のキルシュだが、アルベドがネピリムの歌声で最初に出会ったキルシュでもあった。以前、モモの姿を借りて俺の前に現れたキルシュも彼女であるらしい。
 俺のキルシュヴァッサー、おまえは今、何を思う?
 言葉にすれば、あなたを憎んでしまうから。
 最後のキルシュは瞼を閉じる。そして囁いた。キスを、と。


 アルベドはさらに困惑していた。自分が何をどうしたいのか、とたんにわからなくなっていた。アルベドの様子に俺も戸惑う。
 アルベド。
 Jr.がアルベドの名を呼ぶ。やはり声になってはいないが、アルベドは腕の先にぶらさがるものを見やり、その重みをとり戻したことで、湧きあがる何かを恐怖した。ぞくりと背筋に悪寒が這い、手中に収めたJr.をキルシュヴァッサーの死屍の中へ投げすてた。硬い屍の上に叩きつけられ、Jr.は呻き声を漏らした。酸素の供給を再開した急速な呼吸に喉が追いつかず、盛大に咳きこんでいる。首には蛇のような青痣が残り、多少の支配欲を満たされたことで、アルベドはようやく落ちついた。
 俺が怖いか、ルベド。
 確認するように問う。Jr.が抱く恐怖について、アルベドはこう認識している。
 ルベドは俺を怖れている。なぜなら、俺はウ・ドゥとリンクし、そのウ・ドゥはルベドにとって恐怖の対象である。大抵の人間にとって死とは恐怖であり、死の波動であるウ・ドゥも恐怖となろう。だから、ルベドは俺を怖れている、と。
 そうか、怖いのか!
 無様に倒れこみ、黙しているJr.を見下ろし、アルベドは高笑う。アルベドの認識は間違いではないが、理由はひとつではない。俺がアルベドを怖れるのは、奴を裏切っておきながら、自分自身はアルベドに拒絶されたくないからだ。それはアルベドを失うことと同等に耐えがたい結果で、単純にいえば見限られたくない、ということなのかもしれない。失望されたくない。期待されてもいないのに、よく言える。
 さあ、とアルベドは両手を広げた。
 俺を撃てよ、ルベド。でなけりゃ俺は何度でも、おまえに苦痛を教えなきゃならん。
 四肢に埋もれた中でJr.は上体を起こし、妙に平坦な顔でアルベドを見据えた。気に食わない顔だ、とアルベドは眉根を寄せた。
 アルベド。
 Jr.が名を呼ぶ。
 この娘たちを殺したとき、おまえ、どんな気がした?
 まだ言うか、とアルベドはうんざりした。どんな気がしたか、だと? そんなもの、わからん。この男はどこまで自分を裏切りたいのだ、と辟易する。期待もしかり、信頼もしかり、未来もしかり、こうくるだろうという予測でさえ、軽々と裏切ってしまう。挑発に乗ったかと思えば、急に話を逸らす。昔から、笑顔を向けたと思えば、他の奴に構っている。いつまで経っても近づけない。
 何だ、あいつらのために復讐でもする気か?
 構わんぞ、とアルベドは嘆息する。
 復讐ってのは、いいもんだ。例えば、自分の敬う人間が殺されるとする。その殺した奴に復讐することは、敬いの心があるからだ。愛された人間が殺される。それに復讐することは、愛する心があるからだ。復讐心にはすべてが含まれている。敬いも愛も親切も献身も自由でさえも、すべての美徳が復讐心につながる。復讐こそ無能な神がつくった最高の美徳だ。だから、復讐をしたいと思ったら、ためらいなく復讐しろ。遠慮なく殺せ。
 アルベドは早口にJr.を急かした。そうしなくては、という脅迫的観念を抱いていた。それはつまり、アルベドはJr.の反応を怖れているということになるが、アルベドが俺の言動に一喜一憂するさまなど、もう二度と見られないと思っていた。あの頃のように純粋に慕っているとは思えないが、まだ俺に否定と落胆以外の関心を寄せていてくれる事実に、眼前のJr.も少なからず驚いていた。
 ひゃひゃひゃはあは、ひひひ、くく、ひゃははっ。アルベドの哄笑は重く、部屋中に充満しながらも響くことなくJr.の頭上に降った。どこか虚しい声に濡れながら、Jr.が掠れ声で名を呼ぶ。
 なあ、アルベド。
 ひひ、ひゃははは、ああ、何だあ? くくっ。
 俺を、殺したいか?
 アルベドの笑いが制止する。夕暮れのような紫が、Jr.をじろりと睥睨した。青と赤と闇をつなぐ色、群生する紫紺のスミレ、神の子の死装束、葡萄酒のように深い。
 狂気の一角を鎮めると、そのつくりこまれた精悍な顔立ちはガイナンと一切違わない。今さらながらに、自分たちの出自がもとは同じ試験管であったことを確認する。あの父親や見知らぬ母親の造形など関係なく、今ここにいる弟について、でかくなったな、と十四年の成長を感じた。そりゃそうだ、と納得する。十四年といえば、インスティテュートで育った時間より長い。でかくもなる。乖離も広がる。想いも歪む。憎悪も増す。時間が傷を癒したとしても、傷痕の疼きと軋みはひどくなる。解りあえる要素なんぞ、どこにもない。
 おまえのために俺ができることが、他にもあれば良かったのに。俺の何もかも、死でさえも全部、おまえにやれたら良かったのに。俺は思い、Jr.は言う。
 ネピリムの歌声で、俺はおまえを殺したつもりでいながら、本当は俺のほうが死んでたんだ。それから十四年間、俺は死人のように生き恥を晒してきた。それなのに、おまえと再び対峙した今、こうして俺は息を吹き返してる。おまえの言う苦痛ってやつを感じてる。
 俺たち二人には、互いの中で暗黙の了解のように、昔から決定された結末がある。だからこそ、もうこれ以上は逃げられないことを思いしっている。もう引きのばせない、無理だ。どれだけ道程を延長しようとも、俺たちの終点が幸いにもどうにかして変更されることはないだろう。奇跡的な転換が訪れようと、それは再び俺たちの負で転換を起こし、結局もともといた軌道へと修正されるのだ。説得しよう、連れ帰ろう―その提案を実行した結果、何か救済されるものがあるとすれば、言いだした連中の良心と安寧だけだ。後悔しないか、だと? 何を選択しようが、俺は必ず後悔するさ。痛みの伴わない選択なんてない。俺たちにとって救済の技法とは、解放することにある。
 俺を殺せば、おまえは楽になるのか?
 諦念の色を睫毛に乗せ、Jr.は言った。語尾のあがりが抑えられた、ほとんど断定的な問いだった。
 おまえが消滅しても、俺は死なない。
 アルベドが自嘲する。今のアルベドにとって何よりも疎ましいものは、自己の存在が望むらく領域ではない無法地帯にあり、なおかつその領分を重ねることもできずに延々と円を描いているという事実であり、ピアソラという姓を得たことからさらに定義を失った自身の存在そのものだった。叶わない望みなら、いっそのことアルベドは存在の完全なる消滅を望む。孤独という恐怖から逃れる、唯一の方法を。
 おまえが死ねば、俺という原子は宇宙から消えうせることもなく、この世に存在しつづける―愉快な話だ。いいや、糞おもしろくもない。太陽に姿をかざし、自分の影のいびつさを歌いあげるだけだ。『人間喜劇』の終結しない連中のように微笑みを浮かべ、時には偽りの涙で頬を濡らし、表情も自在に操ろう。おまえが愛した奴らを殺して、おまえのもとに送ってやるのもいい。そうして、この楽しく空しい日々を延々と憎むのさ。
 執着や依存という憐れみと厭わしさで、俺を完結させてくれるな、ルベド。おまえを殺してやりたい、と毎秒でも思う。憎いさ。狂おしいほど憎い。おまえの傲慢さが厭わしい。おまえの無知が憐れで仕方ない。おまえのしつこさが怖ろしい。底意と仮面の差異が笑える。誰よりも愛しく、誰よりも憎んでいる。脳内で何度おまえをいたぶり殺したことか。こうしている今も、俺の心臓は不機嫌にざわめく。おまえの体が俺の手の内にありながら、どうしても殺すことができない―自己の消滅を、この俺が望む限り。
 呪詛を吐くようにアルベドは言う。それがJr.に聞こえずとも、俺には皮膚の裏側を擦られるようにひりひりと、思わず身を竦めてしまいそうな刺激を与えてくる。
 バルザック、読んだのか。
 意外そうな声をあげたJr.に、こんなときにまで文学の話かと、俺は呆れた。アルベドも呆れたものだから、奇妙な同調に少し嬉しくなった―とはいえ、Jr.の間抜けさは自分の非であり情けない。
 俺がおまえに本を貸しても、翌日になると突き返してきたり、部屋で積んで放置したり……おまえは読書なんて嫌いなのかと。
 死屍の山から立ちあがる体力も回復していないくせに、この極めて異様な惨状の中で何をへらへらと笑っているのか。自分が腹立たしい。まあ、このような後にも先にも引けない状況にならなければ、俺がアルベドと冷静に話をするという〝異様〟な事態は起こらなかったのかもしれない。
 ヴォルテール、ブレイク、ムージル―二十世紀ものはチェスタトン、カフカ、イヴリン・ウォー、フォレスター、ナボコフ、ベルンハルト、ユルスナール―は、すげえな! 親父の書斎並みだ。
 奥の書架に目を向け、Jr.が呟く。アルベドは怪訝そうに首を捻った。
 読書を嫌いだと言った覚えはない。物にはよるがな。おまえは言ったな―書き手はそれまでに閲してきた様々な書物やその他の経験を掬いあわせた結び目のひとつとして作品を書き、読み手は読むことで同様の経験の編み目をそこに結びつける、と。つまり、作品とは人間の記憶の広大な網の目の一点で、読むという疾走を通し、読み手の記憶と書き手の記憶がひとつに結びあう結び目である。まあ、その意見には賛成だ。読書が、それまでに閲してきたすべての本の記憶を集約し、これからくる本へと流れてゆくとすれば、そりゃあ愉快さな。そこらの書物はキルシュヴァッサーが収集したものだ。今じゃあ、おまえに借りた本の冊数より、この十四年で読んだ冊数のほうが多くなったぞ。
 書架を顎で指し示し、アルベドがにやりと笑う。
 欲しけりゃ、どれでも持っていけ。どのみち、俺にはもう必要のない代物だが、おまえには生きあぐむほど必要なのだろう?
 アルベドの言う通り、俺は手段を必要としている。言葉とは刃であり、鎧であり、毒であり、歴史である。その言葉を記録する文字は読むことで麻薬となり、俺の何かを損壊してゆく。いっそのこと、恐怖そのものを破壊し尽してくれりゃあいいんだが。
 俺はさ、空想と現実の境界もなく、すべての体感を客観的に鑑賞していたいんだ。
 Jr.が言った。その口調は恬淡で、死屍の中から薄暗い群青の眼が、アルベドを見上げてくる。
 小説のようにおもしろおかしく仕立てといてくれたなら、そこにある傲慢も滑稽も読み手に享受してもらえる。人は大抵、信念から外れた知識、その真理を知るに耐えない。見たくない、考えたくないし、毛ほどの注意も向けたくない。及ぶことを怖れて、俺はひたすら逃げたよ。逃げて逃げて、追われてもいないのに逃げまくって、その先にあったものは闇より真っ暗な、どん底さ。最悪、最低。三文小説の辻褄を合わせた結末どころか、嘆きの川よろしく最下層を凍えて這いずる体たらくでな。何が戻るわけでもない。もうどうしようもねえ。十四年かけて堕ちるとこまで堕ちて、心底、自分が惨めだったよ。
 俺は弱い。そう呟き、のそりとJr.は立ちあがった。
 海から流れでた六百六十九体の誰よりも脆く、砂で築きあげた虚勢を壁に、凪の浜辺で震えるような奴だ。小さな波紋にも怯えて、寄せる波の側からぼろぼろと崩れる。暴かれた臆病な中身は、滑稽で、醜悪で、誰も直視できないだろうさ。
 自らアルベドに歩みより、その喉奥に滑りこむかのように紫の双眸を見つめてくる。
 笑ってくれよ、アルベド。
 自分が笑いながら、Jr.は言った。
 無様な、この俺を。
 瞳の暗い影、歪んだ口元がよく見える。
 嘲り、罵り、謗り、疎み、蔑み、憎み―、
 膝を折る。
 死んでも赦さないでくれ!
 祈るように跪き、白い脚に縋りつき、無表情で自分を見下ろす男を仰ぐ。
 頼むよ、俺を救ってくれ!
 悲痛な叫びとは程遠い、虚しい叫びだ。俺の生き様は、何と無様なのだろう。過去を置いて自分だけが安寧を享受することを赦せず、自分の首を絞め、その手中で身動きできずにいる。それでいて弟に依存し、人に甘え、断罪で自己を保持していることなど、いとも簡単に忘れてしまえる。忘れてしまえど、すでに自分が愛すべき人々と生き、その幸福の上であぐらをかいていることも認めない。傲慢だろう。幼稚だろう。勝手だろう。自分にとって都合の良いものしか見ようとしない世界に、どれだけ真っ赤な嘘や矛盾が、そして怠慢が転がっていることか。
 ああ、いいとも。おまえを救ってやれるのは、俺だけだからな。
 アルベドは屈みこみ、俺の右胸を長い爪先で突いた。ちりりとした痛みが電気のように走る。Jr.を見据える表情には、憐憫や嘲弄どころか、凍りついた水面のように波紋もない。その状態はアルベドの意識にも言えた。
 ルベド。世界の終わりがくる頃には、おまえ一人が二本の足で立っていることだろう。おまえは心臓から真紅の血を垂れ流し、死屍累々の浜辺で虚無を育てることになるだろう。その胸の血を贄に、今までの罪の種が芽を出すぞ。芽はおまえの体を貪りながら、棘の茎でさらに生き血を奪い、やがて真っ赤に熟れた罰の花を咲かせる。おまえの咎を開いた花だ、さぞかし美しいだろう。その一輪の花を胸に刺したまま、おまえは俺のもとへ来るといい。
 引っこ抜いてくれるのかよ?
 だらりと項垂れ、Jr.は弱々しく苦笑した。
 そんなことをすりゃ、俺は蛹の抜け殻と同じように何も残らない。結局、行きどまりまで追いこまれたら、戻ろうとも進もうとも変わりはねえんだな。知ってしまうと眠れなくなってさ、夜更けにデュランダルを抜けだして海を見に行ったことがあるんだ―ニグレドが俺たち専用に造らせたビーチでな。暗い浜辺で黒い波を眺めて、何をするわけでもなく一人で……そうして空になった頭に、何があったと思う?
 脱力した体に老成した表情を見せ、観念したようにくたびれてJr.は笑った。
 おまえのことだよ、アルベド。おまえのことしか、頭に残ってなかった、笑えるだろ。砂や潮水に汚ねえ頭こすりつけてさ。悪かった、ごめんな、見捨てないでくれ、だとか謝りつづけて―相手なんかいやしねえのに、その一晩中いかれてたよ。夜が明けて朝焼けのあとにゃ、誰からも優しさを見せつけられて、ひたすら惨めだったよ。虚しいったらねえよな。そんな俺が、この手で奈落へ突きおとした弟を、本当に撃てるのか? 甚だ疑問で仕方ねえ。孤独の先に前路を示してやれるのか? おまえを前にして、俺は何ができる? 何を言えと? ちっとも自信がねえんだよ。何せ、犯した罪悪の獄中で後悔してりゃ自他ともに傷つかず済むじゃねえかって、そう言い逃れて十四年の臆病な男だ。ああ、その文句で逃避してる節もある。赦されたいと思う自分を赦せない。それ自体が裏切りであることも、知ってるさ、わかってる。わかっていながら、俺は言葉を呪い、拒絶を吐いて、〝おまえにゃわからん〟と、そうして自分をかわいがってた。相手の心を傷つけるなら、破壊と何も変わらねえのに。わかってるよ、おまえらへの裏切りが、変化を怖れる自分の怠慢だって、おまえらの信頼をとり戻そうとしない拒絶だって、望む時間をとめて逃避する弱さだって。過去の一度で始末すべきところを、俺はどうしようもなく甘えてるんだ。その一度をやり直そうだなんて馬鹿にもほどがある。それなのに、頭では理解していながらも、実際に体験しおおせるまで、俺って男は何一つわかっちゃいなかった。
 尽きることのない饒舌で滾々と話すJr.に、アルベドは瞠目していた。語られる内容に心臓が高鳴り、体中の細胞が活性化する滾りを感じていた。それは炎のように燃え盛りながらも、雪のように心底に降りつもり、冷たい嵐が吹き荒ぶアルベドの荒野に静穏をもたらすかのような雨粒に似ていた。Jr.は舌をとめようとしない。
 ニグレドがさあ、言うんだよ。俺たちは兄弟なんだ、安心しろって。そう言って笑うんだ、あいつ。
 朝焼けの水平線を仰ぐように、眩しげな眼でアルベドを見上げる。俺が眺めていた夜明けの海と、同じ表情なのだろうと思う。
 なあ、アルベド。俺にとって、おまえらの存在がどれだけのものか。その存在が俺に与えてくれる安心の度合いを、おまえは知らねえだろ。わかんねえだろ。改めて愛しいだの、兄弟だのと言って、宣戦布告してくる弟もいりゃ、その手で自分を撃て、殺してくれ、とせっつく物騒な弟もいる。弟や妹ってのはさ、兄貴からしてみると無条件で憎たらしくて、それ以上に理屈抜きでどうしようもなくかわいいんだよ。何があっても守ってやりたい。どれほど自分が損をしようとも、被害を被ろうとも、おまえらの笑顔ひとつでちゃらになっちまうんだぜ。おまえらの誇りでありたいと、俺は常に思ってたさ。人間の目から見ても、自慢の兄貴になりたかったよ。そうすりゃ、胸張って傍にいられる。
 俺は一体、何をべらべらと話しているんだ。言葉の濁流を吐きつづけるJr.の口は、まるで決壊したタンクのようだ。その泥水が尽きる様子はない。
 アルベド以上に、自分でも困惑していた。今までアルベドを相手に、これほど自分の内面を吐露したことなどあったろうか。何気ない話ならば、インスティテュートで腐るほどした。訓練においての確認事項、成果、反省。銃の手入れについて。その日に見た夢の話。研究員の噂、小説の内容、夕食の献立、庭園の花のこと、女の子という生きものについて、行ったこともない海のイメージ、外の世界について。同じような内容の話を、同じような毎日の中で何度もした。毎回、その話題が初めてであるかのように語りあう。そうした日々において、俺は明日に対する不安や見えない先への恐怖、根本的な異常さへの追及、膨張しつづける負の感情、自分の卑下というものを、弟たちに話そうとしなかった。兄としてもリーダーとしても、強くあれと自分に課した。できない、やれない、俺には無理だ、期待しないでくれ―らしくないであろう弱音など、口が裂けても言えなかった。底知れぬ不安の代わりに明朗な笑顔を貼りつけ、大丈夫だ、俺に任せろ、心配ない、そう言いきった。視えもしない未来を偉そうに語り、できもしない約束を力強く交わし、わかりもしない気持ちに自慢げに共感してみせ、そのくせ一寸先は考えない。楽観を装い、強気を通し、見栄を張り、無理をしていた、我慢していた、と言えば聞こえは良いが、結局のところ、弟たちに失望されることを怖れていたのだろう。自分のあり方よりも体面を気にしていた。こうしたことを今まで誰とも話すことなく生きてきた、その事実のほうが実はおかしいのかもしれない。もしかすると今の状況が一般的には正常なのかもしれない。その正常とやらを、アルベドはどう感じているのだろうか。
 空になったおまえが、おまえである証拠はあるのか? ええ、ルベド。
 アルベドの内では、ざわざわと風が吹いていた。排気口を通るような薄暗い中をごうごうと渦巻き、出口を求める乱暴で不安を煽る風。右手を掴み返される。爪が食いこむほどの力に、Jr.は痛みという生気を感じた。
 おまえが記憶の俺を都合良く歪曲するように、過去がおまえを変質させたのであれば、おまえも俺の知ったルベドではない。少なくとも、おまえを追いはじめたものは俺じゃない。その時点で俺はもう、そこに存在しなかった。今ここにいるルベドという生物が、テセウスの船だとしたら?
 アルベドの平坦な問いに、Jr.はかぶりを振った。おまえがいる限り、俺の同一性は証明される、と。
 おまえの存在がなきゃ、情けないことに自分が誰なのかもわからない。俺自身がどこにいようと、痛みの側へ引き戻そうとする―俺の中にいるおまえはそういう存在で、俺のすべてをもっていく。俺の頭にあるおまえも今ここにいるおまえも、それは同じだ、変わらない。
 群青の闇二つで、Jr.がアルベドを覗きこむ。その光は意志の強さを表したものではなく、強烈な陽の気は影を潜め、アルベドの持つ狂気の光に似た危うさを孕んでいる。アルベドに対する俺のいびつな執着を湛えている。
 俺は昔から、おまえのことが嫌いだったよ。アルベド、おまえもそうだろ。
 ああ。俺は今でもおまえが嫌いだね、ルベド。
 アルベドは嬉しそうに笑う。その言葉は、俺たちの独占欲そのものだ。不気味なほどの低音で、Jr.はひっそりと言う。
 だから、おまえを傷つけられるのは俺しかいない。
 絶対的な支配力を持っていたルベドの言葉は、アルベドの精神をどうしようもなく高揚させる。アルベドは、その端的な強さに誰よりも焦がれ、その傲慢さを誰よりも忌み嫌う。
 ネピリムの歌声でさえ、狂わせることができなかった。ウ・ドゥでさえ這入りきれなかった。孤高のルベドの精神を、俺はいとも簡単に侵せるぞ。ああ、この俺だけが! 生に執着する醜い意志が具現化した能力、その姿が何よりの証拠だ。引きさかれた俺の存在が、おまえの時をとめている。幼いままのルベド。成長できないルベド。十四年前の出来事を置きざりにできない、そう望む自分を赦そうとしない、哀れなルベド。ああ、このまま、どろどろに溶けて崩れてしまいたいなあ! 俺たちの間をつなぐもの―苦痛、恥辱、恐怖、憎悪、劣情、執着、切愛―すべてない交ぜにして肉体を満たし、雪のように溶けてしまえたら、どんなに甘美で愉快だろうか。
 そうさな、ルベド。おまえを傷つけていいのは俺だけだ。それ以外は認めない。
 永遠など糞ほどの価値もない。俺の切望は膿んだ傷痕にあるのだ、とアルベドは歓喜に打ち震えていた。Jr.の胸にできた引っかき傷、頸部に残る青紫の鬱血、そうした細胞を少しずつ変質させる痛みを、アルベドは欲していた。いずれ修復される肉体ではなく、その痛みが精神に与える刺激と余毒が重要なのだ、とアルベドは考える。
 俺たちは別々の存在だが、俺のすべてはおまえの中にある。なぜなら、おまえの弱さは俺の弱さでもあるからだ。
 アルベドの白い手がJr.の肩を掴む。その体はさしたる抵抗もなく、麦の穂のように押し倒された。始終にやにやとしていたアルベドが、いつにも増して真摯な眼差しをJr.に向ける。
 この俺がたった一言〝赦す〟と告げれば、おまえという個は崩壊するのだろう。ならば、偽りの仮面を被っていようとも、おまえがルベドで在りつづける限り、俺はおまえを赦さないでおいてやろう。〝思いだせ、そして省みろ〟と、何度でも教えてやる。痛みに慣れるな、苦しみつづけろ。獣のように、すべてを食らいつくすまで吼えてみろ。そうして初めて、おまえは生きてゆける。
 赦さない、とアルベドは言う。アルベドの真意は、キルシュヴァッサーから贈られたキスのように、言葉という行為の表裏どちらにも付随している。アルベドは俺を赦さない、という可能性は、俺にとっての救済であり、言葉ではない赦しとなる。アルベドは俺を赦さないことで、俺たちの過去どころか、俺の存在も、未来ですら赦すというのだろうか。
 生きつづけろ、と? おまえまで彼女と同じことを言うのか。どうして、そんなことが言えるんだよ。なあ、アルベド。だって、俺は、おまえを!
 何でだよ、これ以上、俺を惨めにさんなよ……いや、違う、悪い、違うんだ……こんな、こんなことを言いたいわけじゃない。俺は、おまえに、おまえと、せめて残りの人生を……!
 声にならない。言葉にならない。アルベドの頭越しに見上げる天井を、ひどく彼方に感じた。
 このような事態など想定していなかった。まずもって、俺はアルベドに対して倫理というか、理性というものがない。だから、冷静に会話をすることなど不可能だと思っていたし、第一、俺はカインのように実の弟を殺すため、ここまで来たのだ。アルベド自身の望みとはいえ、そんな一方的な行為の過程で、互いの不通がどうにかして緩和されるはずもないと、とっくに諦めていた。乖離というものは、切り離された俺たちの体のように二度とくっつきやしないもんだと、そう諦めていた。生前のようにくっつくことなど不便なことは御免だが、今こうして触れあうことは心地良い。両肩に感じる熱も重みも、落ちてくる吐息も、俺とは異なる存在でありながら俺の一部であるアルベドの生きた存在を教えてくれる。俺たちは、離れて初めて互いの一部になった。アルベドの手は冷たく、ぬるい。海水のようだとJr.は思った。
 なあ、何でこうなるんだよ、ちくしょう、ふざけんなよ、笑えねえんだよ、やめてくれよ、畜生! 糞野郎! 何でだよ! 何でこうなる、何で、何で、何で、どうして!
 どうして俺たちは線を結べない、歩けない、どうしてだ、戻れないのは。生きてどうなる、おまえもいないのに、惨めだろ、最低だろ。嬉しいはずなのに、赦されて―ああ、言葉以外で赦してくれるなよ、俺はおまえが嫌いなのに、どうしようもなく必要で、おまえがいなけりゃ俺はどうなる? 怖いんだよ、怖い、怖い、怖い、こわい、こわい、生きることが!
 おまえは不完全な存在だ、ルベド。
 アルベドは、泡沫のような紫の双眸を細めて言った。Jr.が知らぬ間に自分の顔を覆っていた両手を、ぞんざいに払われる。ひどい顔だ、と他人事のように思った。
 おまえはリーダーでも救世主でもない一人の男で、ニグレドに言わせれば、確かに俺たちの兄なのだろう。完全にまねたゆえに不完全であることに違いないが、出来損ないではない。それは模造品にも言えることで、そうした人間のメカニズムを最初から知っている女もいるにはいた。構造というより、因果骨格だな。ウ・ドゥとのリンクは、俺にとって最短の手段にすぎない。百年だか一千年だか、それ以上かは知らんが、俺の人生すべてを懸けて到達したい一種の整合を、サクラ・ミズラヒは俺に自覚させようとした。
 Jr.は頷くこともせず、ただ目を細めた。眉が妙な加減に歪んでいて、普段の調子で笑えていなことは自分で見ても明白だった。渇いた肉体がひと足先に泣いているのかもしれない。俺がアルベドの分子を呼吸したと同時、知りたくて仕方なかったサクラの死の真相を映画のように観た。そこにいた彼女の言動すべてが本心かどうかはわからないし、それが最終的に彼女のとった選択なら、俺はどうしたって大人しく見送ることしかできないし、その場にいたアルベドとてそうなのだろう。凪いだ海のように静寂を保つ無に近い意識と、自分と同じく妙な加減に歪んだ口を見上げ、そう思った。
 馬鹿だな、おまえ。そんなこと怖がってたのか。サクラのことでおまえを疑ったことなんて、あるわけねえだろ。おまえら二人とも助けてやれなかった、気づいてやれなかった俺の咎だろ。俺は今もサクラが好きだよ。愛してるし、同等に憎んでるかも。どれほど尽くそうが結局のところ、俺の存在は彼女の生きる意味になり得なかった、その程度だったのか―そう思ってたからな。おまえもそうさ、死ぬほど憎くて憎くて、多分、愛してる。おまえら二人の中を占めるもの全部が俺でありゃ良かったのに。俺のことだけ思ってほしい。他人の介入なんて認めねえ。歪んでるだろ、おまえもそうだろ、アルベド。
 気力だけで手を伸ばしてくるJr.の目元が濡れている。俺は泣いているのだろうか。そこへ、また新しい水滴が落ちてきた。事象変移内の重力が正常だとすれば、液体という質量は落下するものだが。
 泣き虫なのは変わってねえな。
 俺は苦笑し、アルベドの目尻に触れた。何も考えられないのは、どちらの意識だろうか。自失する中で認識できるものは、防壁が崩壊した精神を流動する互いの意識しかない。それは穏やかな砂浜に降りつもる雪のように静謐な伝心で、波に溶けて雪も砂もひとつになるような心地を与えてくれる。
 死ぬなら、この真っ白な雪の中で死にたい。アルベドが思う。俺も納得する。向こう側に、雪原に灯る炎が見えた。
 この俺を呼吸しろ、ルベド。俺を感じろ。
 俺を理解してほしい、と呼吸は語る。おまえを理解したい、と語る。俺もそうだ、と呼吸する。
 合一ぎりぎりの境界で、俺を知覚しろ。俺を認めろ。俺を受けいれろ、ルベド。
 この男ときたら、俺ごととりこんでおいて自覚がないらしい。ばあか、もうしてるだろうが。目玉の裏が熱い。たまらない。喉の奥が痛い。耐えられない。視界がぼやけても、映したいものがある。
 おまえを感じろと言うならば、おまえも俺を感じてくれよ、アルベド。いつまで語りあおうと、いつまで殴りあおうと、どれも足りやしない。言葉でも暴力でも表現できない俺の執着を、どうか受けいれてくれよ。その体すべて、その命をもって、俺を赦せ。
 抱きしめる。ぬるい体温と、血の臭い。
 銃を抜く。本能ではない器官で。
 白髪に銃口。引き金に指。
 背中に回る腕が、心臓を締めつけて痛む。
 アルベド、痛えよ。
 そりゃ何より、との返事。いかれた野郎め、笑ってやんの。痛えよなあ。