影よ、影よ、影の国 5


Timeline: EP1 before meeting with his party, in Kookai Foundation



 執務室に戻ったとき、壁の時計は午前三時を指していた。Jr.の子守唄を聞いたあと、ガイナンは少々仮眠をとると、夕食で気取ったご婦人たちの相手をし、その足でおもしろくもない株主総会に出席していた。別段、多忙なスケジュールでもなかったが、どうにも倦怠感がつきまとう。自動のはずの室内灯が点灯しないことも、どうでも良かった。タイを緩めながらプールテーブルにもたれかかる。
 胸元でUNPが震動した。相手を確認する必要はない、シェリィだろう。耳元で明日の予定を最終確認する奔命な彼女の美しい声に、ガイナンの鬱々とした気分も和らぐ「ああ―そう―いや、早々に出発しよう―ああ、そちらは任せる―はは、体調管理には気を配っているつもりだよ」
 シェリィとの通信中、ガイナンの指先がワークデスクに置かれた古い紙箱に触れた。日中、Jr.が話していた修繕済みの古書らしい。ガイナンの両の掌ほどある古惚けた紙箱で、ホログラフィックカードが添えられていた。
『ちび様、お待たせいたしました。ごゆっくり読書をお楽しみください――オペラ界隈のルリユール店主』
 工房宛にメールを返信したJr.が、転送場所をデスクに設定したのだろう。花柄の表紙に『地下の国のアリス』と、赤と黒の文字で装飾されたタイトルがあった。
「―Jr.なら奥にこもっている。心配ない、ありがとう―君も、良い夢を」
 UNPを切ると、ガイナンは上着とタイをクローゼットにかけ、Jr.のコレクションルームに続く木製ドアを一瞥した。Jr.の精神状態が気になる。シェリィが通信を試みても、一向に応答がないらしい。普段であれば、二度目には億劫がっても返事くらいはするものだが。
 おそらく読書に集中しているのだろう。精神を安定させたい場合、Jr.は大抵そうしているか、バーチャル射撃に精を出しているかである。UNP通信に応答しないということは、読書中に寝入ってしまったのかもしれない。
 ガイナンは紙箱を手にとると、コレクションルームの木製ドアを開けた。扉の向こうはJr.の背丈で設定されているため、ガイナンには少々天井が低い。まるでアリスの地下世界に迷いこんだようで(実際、狙ったのかもしれないが)、大人には居心地の悪い場所である。仄明るいセンサーに照らされ、屈んだ姿勢で腰を痛めながら進む。コレクションケースで眠る古式銃たちが主人以外の客を珍しがってか、照明の下で銃身を黒光りさせていた。
 古書しかない部屋に入ると、紙特有の何とも言えない匂いが鼻腔を通る。すっかり消灯していた部屋の照明が、ガイナンの登場で音もなく作動した。くすんだ背表紙の古書たちに四方から見守られ、Jr.はロッキングチェアに沈んだまま眠っていた。
 こうして見ると、まるで古書の息子だな。ガイナンは呆れた。Jr.の手から転げおちた古書を拾いあげ、自分が持ってきた紙箱入りの古書と重ねると、書架の低い棚に置いてやった。その列には、いわゆる西部劇小説(武装集団が列車を襲う話や、お礼参りに来た三人のごろつきを保安官が一人で皆殺しにする話、潰れた政府の軍資金を悪党共が奪いあう話など、要はJr.が好みそうな〝早撃ちのガンマンが出てくる〟ような小説の類)が並列している。よく読み返しているのだろう。どの背も棚の奥まで押しこまれていない。
 同じ物語を何度も読み返すJr.とは反対に、ガイナンが読了した古書を手に取ることは滅多にない。つまり、その作品にまつわる自分の思い出などを追懐することもない。
「おまえとて、悪い夢など見たくもないだろうに」
 幼い寝顔を覗きこむとJr.は案の定、歯軋りをするように呻いていた。唇がわずかに切れている。汗ばんだ額に張りつく前髪を梳いてやると、ガイナンはJr.の体を慎重に抱きあげた。当然だが軽い。痩せぎすの体は容易に壊せてしまいそうで、あまり触れたくないはない。
 目覚める気配のないJr.をベッドに寝かせると、ガイナンは彼の悪夢の読みとりを試みた。膜のように薄くやわい精神防壁からJr.の思念が漏洩している。彼の意識に干渉し、より深層領域へと潜ってゆくと、Jr.の脳が生成する映像を感じとった。苦痛や悲哀の思念を直接的に感受することは、受けとる側にとっても危険な行為である。実際、ガイナンはJr.の負の感情に当てられ、頭痛や嘔吐などに見舞われることが度々あった。それでも、脳の処理活動を鎮静化させる思念波を送りこむと、Jr.の体はゆっくりと弛緩するので、彼のためにと続けている。今回もうまくいったが、しばらくすると再び体を引きつらせ、苦悶するように身を捩った。
 ガイナンは熱を冷ますようにJr.の額にひたりと触れ、「もう大丈夫」と優しく宥めた。
『忘れるんだ』
 ガイナンの瞳孔が開き、エメラルドの虹彩が、薄暗い部屋に点った端末電源のように発光する。低いテノールはJr.の耳介に滑りこみ、脳の内部で効果を発揮しているはずである。ガイナンは囁いた。
『これは夢、悪い夢なんだ。だから、おまえが苦痛を感じる必要はない』
「あ、なん、だ……?」
 固く瞼を閉じていたJr.の瞳が虚ろに開き、自分を見下ろす男の顔をぼんやりと見つめた。ガイナンを貫き天井を捉えたような焦点は、明らかに現実を認識できていない。そうした状態へと操作しているのはガイナン自身なのだが、大人しく身を委ねるJr.の信頼には多少の苛立ちを感じた。仕方ない、と諦めに慣れた思考回路が感情を切りかえる。
『眠るといい。大丈夫だ、俺がついているから』
 小さな赤い頭を撫でてやると、Jr.は力の入らない腕で弱々しくガイナンに縋った。シャツの袖を掴む手が、きりきりと痛むように震えている。
「ま、まってくれ―俺、おまえに―どんな、ひみつがあっても―びんのふた、はあける、からな―俺と、おまえ、どちらが、どく、を、のむことになっても―かならず―」
『おやすみ、Jr.』
 艶めいたガイナンの声が、たどたどしくもつれるJr.の言葉を遮った。縋りついた腕はだらりと落ち、音の出ない唇だけが何度か動く。緩やかに瞼をおろし、Jr.は眠りについた。
「瓶の蓋、それに毒? 毎夜おかしな夢を見ているな、こいつは」
 おまえにとっての良し悪しは断定しかねるが。安らかな寝顔で安定した寝息を立てはじめたJr.を見つめ、ガイナンは苦笑した。
「Jr.、おまえが自らを決して赦さないように、どうか俺を赦さずにいてくれよ」
 自分に対してあまりにも無防備な兄に、ガイナンは危機感を感じる。できることならば、いまだに悪夢を見続ける己から、兄を遠ざけたい。ガイナンの見る悪夢はJr.のような睡眠時ではなく、覚醒時に突如として起こるのである。男の逞しい両腕が少年の細首へ迷いなく伸び、小さな羽虫を潰す程度の力をこめると、首の中心で鈍い音が鳴る。白く硬いものが真っ二つに裂け、頭部がぶらりと直角より深く折れまがる。青い目玉が飛びだし、唇がぬめった泡を吐き、しばらく痙攣を起こしたのちに呆気なく息絶える。その時のJr.は一切の抵抗をせず、むしろガイナンを挑発するように微笑んでみせる。それが余計に、ガイナンの恐怖を煽るのだ。
「俺は十四年前から、夢を見ていないんだ」
 眠る間に夢は見ない。現実の悪夢と、その元凶である兄だけが、ガイナンを常に脅かしつづける。いっそ殺してしまいたいほど、すべてから楽にしてやりたい。
 眠るJr.のベッドに腰をおろす。両膝に肘をつき、骨張った両手で顔を覆う。背中を丸めた男の姿を、市街地のネオンがきらびやかに照らし、黒い影を壁に縫いつけた。