明滅する春と修羅 3


Timeline: One day of YURIEV Institute






 アネモネが揺れる。薄暮の紫と蒼穹の青を溶かしたような、青い八重咲きの種だ。羽状に深裂した細かな葉は少年の腕に囲われ、束ねられた蒼い花々は湧きでる泉のように、その小さな腕から溢れている。
 アネモネの花束に視界を遮られた赤毛の少年は、早朝の庭園をふらふらと歩いていた。アトリウムの天窓から、まだ肌寒く淡い朝の光が射しこんでくる。午後になれば人通りも若干増える園内だが、今の時間帯に人影は見当たらない。さえずり始めた鳥の歌声にご機嫌なドロイドが、タイヤを転がして庭園の整備に精を出している。病棟区画に向かう少年の横で、最深部に中央電脳『ピエタ』が装置されている実験棟のドアが音もなく開いた。奥から白衣を着た二人の男女が階段をおりてくる。
「おはよう、コルネーリアにヨッヘン」
 アトリウムの向こうに広がる青空のように朗らかな笑顔で、少年は二人に挨拶した。近づいてくる二人を待つ間、重さで滑りおちる花束を持ちあげて抱え直している。
「おはよう、ルベド。今日も早起きね」
 コルネーリアと呼ばれた女性は、ウェーブのかかったブロンドをなびかせ、すらりとした長身を屈めてルベドと目線を合わせた。えくぼのできる微笑みに疲労の色が見え隠れしている。まあね、とルベドが苦笑する。
「徹夜組のお二人さんには負けるけど」
「よくわかったなあ」と、黒人の若い研究者であるヨッヘンは、大きな欠伸をしたあと目尻に浮かぶ涙を拭った。褐色の肌に羽織った白衣も、今日はよれたまま肩から吊るした状態である。ルベドは疲労困憊の二人の姿を見比べ、自分の目尻を指先で軽く突いてみせた。
「疲れ目に花でも」
 腕の中のアネモネから二本の花を抜きとり、二人の前に差しだす。明るい陽光を透かした青い萼片の内部には、血管のような紫の葉脈が浮かびあがっている。ありがとう、とコルネーリアは微笑んだ。
「君と話してると楽しいわ。フェーズ6に移行してからは、本当に笑う暇もないほど忙しくて」
「寝ても覚めても―いや、寝てないんだが―とにかく眼の裏で二重螺旋の二次構造がぐるぐる回っていてさ……今の缶詰状態は勘弁してほしいよ、正直」
 二人は一輪ずつ青いアネモネを受けとり、揃って長いため息を吐いた。両手を白衣のポケットに突っこんだコルネーリアの胸元からは、入電中のコネクションギアが覗いており、黒い短髪をかきむしるヨッヘンも、大量の資料が保存されたホログラフィック・デバイスを持っている。
「花は食えないからな。最近ずっとデスクでサプリメントだ……食堂の飯が懐かしいぜ」
 一輪の花を恨めしそうに睨み、ヨッヘンは情けなく愚痴を零した。
「ところで、今日は他の二人と一緒じゃないの?」
 屋内庭園に流れる人工の水辺を三人で歩く途中、コルネーリアが何気ない口調でルベドに尋ねた。せせらぎを演出するウォーターコースの先では噴水が清らかな水音を響かせているが、水流に映るルベドの表情は急に曇った。しかし、それも一瞬のことで、水滴が跳ねて水面を揺らしたあと、平らに戻ったそこには、先程と同じ笑顔が映っていた。
「俺、あんまり眠れなくてさ。それで、まあ、読書する気分でもなかったし―庭師の仕事、一人で手伝ってたんだ。それで、この花を」
 ルベドは得意気に、アネモネの花束を顎でくいと指し示した。
「庭師って、あのドロイドたちか?」
 ガラス温室で作業をするドロイドに目をやりながら、ヨッヘンが驚いたように声をあげた。古典的な形状のジョウロを腕にさげたドロイドに、ルベドは親しげな視線を向け、そうだよ、と楽しそうに頷いた。「彼らはね、ここにいる誰よりも植物学に詳しいんだ。インスティテュートの美化活動に熱心だし、些細な質問にも親切に答えてくれる。今日は俺にバラの苗を植えさせてくれたよ」
 説明しながら、ルベドは病棟区画のほうを指差した。隣の区画へ続く通路の外壁前には、真新しい黒土の盛られた花壇がある。その土から小さな棘を持った瑞々しい苗が、微妙な等間隔を保ちつつ植えられていた。
「へえ、あのドロイドが。レアリエンも似たようなものだが、話すことなんてあるのかい?」
 自分とは違う生きものを見る目で、ヨッヘンが悪意なく問うてくる。アネモネ越しに剣呑な視線をちらりと走らせ、ルベドは不自然なほどにこやかな表情で答えた。
「人間のほうが彼らをコミュニケーション対象として認識してなくちゃ、話題がないのは仕方ないさ。大抵の研究員がドロイドやレアリエンと接する態度は、俺たち兵器に対する扱いとさして変わらないだろ。そういう連中に、自分たちから接触するような馬鹿はしない。彼らが人を邪険にすることはあり得ないよ―そういうふうに、人につくられたんだから。まともなリアクションが欲しいなら、ヨッヘンのほうから話しかけてみるといい。ユーリエフ博士なんかよりも丁寧に答えてくれるよ」
「そういうものかい? じゃあ、試してみようかな」
 ユーリエフ博士、の部分で過剰に反応したヨッヘンは、ルベドの機嫌を伺い、ぎこちなく笑った。自己の意思を強くもたない優柔不断さは、若い研究者の外見をさらに幼く見せる。コルネーリアは相方の様子に呆れつつ、長い白衣の裾をなびかせてハイヒールで颯爽と前を歩いていった。
 庭園の端に設置されたベンチに、二人は腰をおろした。ここは施設の隅に追いやられた数少ない喫煙所であり、健康を害する、と取り締まりの厳しい煙草を嗜む者にとって、唯一の休息空間となっている。「いいかしら」
「ご遠慮なく」
 隣に立つルベドの許可を得たコルネーリアは、胸内のケースから煙草を一本とりだし、乾燥した唇をフィルターに寄せた。ヨッヘンも彼女のそれにライターで火を点けてから、自分の煙草を銜える。清涼水を飲むように煙草を吸い、二人は満足気に白煙を吐いた。倒れこむようにベンチにもたれかかっている二人の前で、有害な煙が環境虫に吸収されてゆく。いつの間にか周囲には、仄かな光を放つ虫たちが空気を浄化するため飛びかっていた。
 ヨッヘンは煙草の煙でボルテックスリングをつくり、宙に吹きあげてやった。柔らかな絹のように危うい白の輪を、ルベドが環境虫に食われる直前まで見つめる。渦を巻いた流体は震えながら天を目指して舞いあがるが、届くものなど一つもないと決まっている。ルベドが思わず手を伸ばしても、触れる間もなく空気中に霧散する儚いものである。
「初めて見たけれど、とても美しい花ね。学名は何かしら」
 ルベドの掌が虚空を掴んだとき、コルネーリアが花を眺めながら呟いた。聡明な彼女の呟きに、驚いたルベドは瞳をまたたかせる。「アネモネだよ、アネモネ・コロナリア」
「温室裏の花壇に、赤と白もいっぱい咲いてる―見たことない?」
「あら、そうなの。あまり外出しないから知らなかったわ」
 研究員たちは、貴重な休憩時間以外は施設内に缶詰状態という生活が常であり、屋内庭園まで出てくることさえ稀であった。とはいえ、何年もここで生活していながら、そこら中に咲く花もまともに見ていないとは驚きである。至極当然のように答えたコルネーリアをまじまじと見つめ、ルベドは不思議そうに口を開いた。
「コルネーリアもシトリンも、U.R.T.V.の生態については詳しいのに、花の名前はちっとも知らないんだな。サクラは花が好きで、女の子はみんなそうだと思ってた」
 アネモネに顔を埋めるルベドの赤毛に、環境虫がとまっている。光の触れた部分の髪はオレンジに透け、アネモネの花束の内からも点々と燐光が漏れている。まるで少年自体が発光しているように見える現象を、コルネーリアは赤と青の眩しい電燈のように見つめ、そうね、と少し微笑んだ。
「私は自分の研究一辺倒だから、一般的な女の子とは観点が違うかもしれない。シトリンは、そういうものを気にするだけの余裕がないんじゃないかしら」
「女性体は個体数が大幅に減ったもんな。実際、上層部じゃ最近まで女性体の完全な廃棄処分が検討されてたらしいぜ。噂じゃあ、シトリンからの強い嘆願と、それを酌んだユーリエフ博士の意見で見送られたんだと」
 ベンチの背もたれに腕を広げたヨッヘンが、頭上にふっと白煙を吐き、太い首を蔦のように後部へ垂らした。
 天窓の向こうに敷かれた春天の空は遠く、薄雲が溶けた霧のように漂っている。本能のまま列を作って碧空を泳ぐ渡り鳥が、屋内庭園にV字型の影を落としてゆく。ルベドはヨッヘンの言葉に無言のまま、白い庭園の石畳を流れる鳥の影を見送った。
「俺、今でも覚えてるよ」と、横顔を綻ばせたヨッヘンが口を開く。
「テロメア遺伝子の改変体は、最終段階に入ってから実践的に製造してたもんだが、ユーリエフ博士が満足するような身体能力・精神状態ともに安定した変異体の成功例ってのは、ルベドとアルベドが初でさ。ハイスペックな精神波長を有し、かつ個別能力を誘発させても正常な兵器として機能する個体だってな。研究に関わってる俺たち若造も、おまえらが誕生したときは自分の子供でも産まれたような喜びで感無量だったぜ。ユーリエフ博士だって、そのときばかりは上機嫌さ―そこら辺、わかりにくい人だが。中途半端に癒着してたおまえら双子を無事に切り離せるまで、そりゃもう気が気じゃなかったよ」
 アネモネを空にかざして破顔したヨッヘンは、その他意のない陽気さを物語っている。アネモネの花々に隠れたルベドの表情は見えないが、指先も見え隠れする耳朶も青白い。まるで煙草の灰のように脆く見えた。
「私も覚えてるわ。ルベドが紙の本やら色々な物に興味をもちはじめるにつれて、シミュレーションでの殺傷行為を拒否するようになったこと。それから、先に製造されていた標準体の処分に最後まで反対して、ユーリエフ博士を説得したこと。頭の固い上層部なんかよりも感情豊かで、普通の子供と何ら変わりない。そんな君が、どんな訓練も厭わなくなった―ちょうど、ニグレドが生まれた時期からね」
 コルネーリアの憐憫にも似た美しい微笑みを受け、ルベドは小動物が草むらから外敵を窺うような仕草で、アネモネの陰から同色の双眸を覗かせた。
「選択肢のない一方的な妥協案さ。リーダーの俺が命令通りに動けなきゃ、処分されるのも汚染されるのも俺じゃなくて、一緒に任務をこなす仲間のほうだと念を押された」
 磁器のように透明で青白く、修正部分のない端正な笑顔。寒色のアネモネが冷ややかさを増長させている。それを見てわずかに体を強張らせた二人の怯えを、彼はチューリップの花壇から茎のように突きだした耳と、自慢の鼻とで感じとった。インスティテュートにいる研究員の大多数が、U.R.T.V.を画一的な兵器として、または研究のための実験体として認識しているが、中には二人のようにコミュニケーションをとる者もいる。その彼らでさえ、U.R.T.V.という異端の生物に対し、無意識のカテゴライズが根づいているのである。先程の二人の研究員の口調は揶揄もなければ嘲弄もない、むしろルベドへの慈しみや労わりを含んだものであったが、その言葉の端々に無邪気な棘がある。良くも悪くも人間らしい物言いに、兵器である主人は何を思ったのだろうか。
「まあ、訓練や検査なんかの拘束時間を除けば、ある程度自由に動ける許可はもらってるんだけどさ」
 例えばこれとかね、とルベドは花束を肩に担ぎ、悪戯っぽく笑ってみせた。コルネーリアの見解どおり、表情豊かな子供である。少なくとも、施設内において赤い髪の主人以上に喜怒哀楽のある人物を、彼はいまだ見たことがない。
「その花束、あの子にプレゼントするの?」
 話題を変更したかったのか、コルネーリアは横目でそう訊いた。
「……できればいいんだけど。サクラ、花のことも俺のことも、こっちじゃ見てくれないから」
 アネモネの向こうに求める彼女がいるかのように、ルベドは青い萼片に唇を寄せた。花蜜の甘さは知らないが、ルベドの瞳にも唇にも蕩けるような甘さが伴っている。いつもピアノを弾いているサクラという少女は、砂糖菓子の味でもするのだろうかと、彼は長い髭をひくつかせた。
「サクラ・ミズラヒの病状について―医者の診断は信頼できないと聞いてたけど、中枢神経系の器質疾患なんて見当外れもいいところよ。電位パルスの不安定さを含めても、脳の回路網の寸断だけならナノマシンのグリア補助で十分こと足りるんだから。それが効果を成さない時点で、U.M.N.の精神障害だと気づかないのかしらね。コミュニケーションにおける欠損部分は脳じゃなく、U.M.N.内に囚われた彼女の精神だと過程した上で、私のチームは調査してるの」
「で、一向に進展なし」
 ヨッヘンが煙草を灰皿に押しつけ、大仰に肩を竦めた。休憩時間の終わりが近づいたのか、二人は億劫そうにベンチから腰をあげる。猫背を伸ばすヨッヘンの横で、そうなのよ、とコルネーリアは嘆息を漏らした。
「これ以上を望むなら、彼女のより深層部まで潜る必要があるの。それだと、さすがにハイリスクだし……ああ、可能なら私も一度、君のように彼女の内的世界で本人に会ってみたいわ」
「あ、俺も俺も。ああいう年頃の女の子ってさ、どんな頭の中身してるのか興味あるよな」
「研究対象として?」
 もと来た道を歩きだす二人のうしろで、ルベドが密やかに呟いた。その口調には抑揚も冷温もなく、標準体のそれに限りなく近いものであった。花束を抱える指先には、先程より強い力がこめられている。二人を見上げる顔には笑顔が貼りついたまま、危険な色の双眸だけが鋭利な槍の突先を思わせた。
「いやいや、純粋な興味だよ」
 弾かれたように振り返ったヨッヘンが、焦りながらホログラフ資料を横に振りつつ否定する。褐色の肌を蛍光グリーンの影が行き交い、『R&Dレポートvol.69』の文字がとり繕った笑顔の上を走った。狼狽する相方を尻目に、コルネーリアは冷静さを崩さず莞爾として笑った。
「心配しないで、ルベド。ミズラヒ夫人が彼女や君たちの安全を最優先に演習を組むよう進言してくれてるし、私だって彼女を助けたくて研究してる。こんな私でも、研究者の前にまず人間だもの。彼女を悲しませたくはないわ―もちろん、君たちも含めてね」
 庭園のように整然とあり論理的な彼女の心遣いを受け、ルベドは邪推した自分を恥じたのか「ありがとう」とやんわり笑んだ。それでも、眉根と口元には困惑したような諦観が残っている。
「それより、ヨッヘン。言い忘れてたけど、昨日の研究データが揃わないって、セルゲイさんがラボで痺れを切らしてたよ」
 重石を振りきるように顔をあげ、もとの朗らかな調子をとり戻したルベドが、茶化すようににやりと口角を捻った。
「げえ、マジかよ」顔を歪めるヨッヘンは、手元のレポートに目を通しながら、縮れた黒髪をかきむしった。「標準体のレポートは完成してるんだが……参ったな、くそ」
 眉をしかめるヨッヘンの資料を、腕の下からルベドが覗きこむ。鏡のように逆方向のアルファベットや記号の羅列に目を走らせ、ルベドは「ああ、ヒトゲノム分析か」と呟いた。それから、あ、と小さく声をあげ、記録の一部分を触れる程度に指差した。「ここ、間違ってる」
「え、どこだ?」
「確かにテロメア遺伝子の改変体は六百番台からだけど、No.623のテロメアDNAは、6塩基の繰り返し配列のままで約一万塩基対存在してる。3'末端が百基ほどオーバーハングする点も変異体とは異なるんだ―だからと言って、プログラム細胞死の原因はアポトーシスでもネクローシスでもないと思うけど」
「情けないわね。そんな基本的なこと見落とすなんて」
「……俺の元専門はナノテクなんだよ」
 淡々と訂正箇所を指摘するルベドと呆れ顔のコルネーリアに対し、ヨッヘンは力なく項垂れた。ルベドの知識に二人が当然のごとく対応している辺り、その利発さは周知の事実らしい。まだ何かあるのかとでも言いたげなヨッヘンの様子には構わず、ルベドは記録を読み進めていた。おそらく無意識だろうが、肩に担いだ花束がリズムを刻むように揺すられている。ルベドには、標準体にない癖がよく見受けられる。これもその一つなのかもしれない。
「変異体のデータが足りないんだな。核酸のプライマーだけ? もう一度、俺で採取したら足りるかな?」
 ものの数十秒で通読したレポートから目を離すと、ルベドは夕食の献立を調子でヨッヘンの顔を覗いた。その問いにヨッヘンは面食らい、ああ、いや、とかぶりを振った。
「午後から訓練だってあるし、連日の検査は肉体的にも負担が―」
「構わない。だから、俺だけにして」
 懇願のようにも見える、厳命のような揺るぎない声でルベドは頼んだ。瞬き一つすることなくヨッヘンを見上げるルベドの眼差しには、屹然とある強固な壁のように圧倒されるものがある。気圧されたヨッヘンの息をのむ音が、プランターの裏にいる彼にまで聞こえるような気がした。
「君たちの検査には、ユーリエフ博士の許可が必要よ」
 すっかり萎縮して喘いでいるヨッヘンの横から、コルネーリアが落ちつき払った声で諭そうとする。
「他の研究員には、連中の勝手な都合で何度も実験につきあわされてるぜ。大体、昨日の検査だってあの人は立ち会ってなかったろ。俺一人で済むなら、それが一番いいんだ」
 自嘲的な笑みを見せ、ルベドはアネモネを胸に抱え直した。
「とにかく頼むよ。準備ができたらラボに呼んで」
 ルベドは二人が口を開く前に背を向けると、もともと向かっていた病棟のある区画へ駆けだした。人気のない庭園に軽やかな靴音が響く。二人の研究員は複雑な面持ちのまま、赤毛の少年を見送った。気づけば空には霧のような雲が増え、朝の陽射しを遮ることが多くなっていた。二人のアネモネは、少年の傍で瑞々しく咲いていたときが嘘のように、萎びて変色していた。


 ドロイドからのお礼のアネモネを、ルベドは殺風景な施設内のいたる場所に飾った。建物内への侵入が禁じられている三毛猫の彼は、屋内庭園や通路から赤毛の主人の動向を見守っていた。
 ピアノ、病室、食堂、ライブラリ、廊下―食堂に設置された使い捨てのグラスを花瓶代わりに、青いアネモネを丁寧に挿して回る。グランドピアノの上には、花束の中でもとりわけ真っ青で形の整った一輪を選びぬき、一人含羞の笑みを浮かべていた。男性体の個室にも飾りたかったようだが、仲間全員にわけ与えるには本数が足りなかったらしい。
 ようやく飾り終え、庭園のベンチに腰かけたルベドの手には、二輪のアネモネが握られていた。ピアノに飾った花に負けず劣らず深い色の花である。手にした花と、その先に見えるピアノの部屋を眺め、ルベドは地面まで届かない足をもて余していた。
「おはよう、ルベド。鮮やかなアネモネだね」
 警戒を怠っていたルベドに突然、穏やかな挨拶が投げかけられる。弾かれたようにルベドは顔をあげた。自分を見下ろす二人の人物を認めると、胸を撫でおろして微笑む。
「おはようございます、ヘルマー中将、ミズラヒ博士。花を自由に持ち運ぶ許可はいただいていますので」
「ああ、そう警戒しないでくれ。君を責めているのではない」
 厳しい軍服に身を包むヘルマーが、それには不似合いな困惑した笑みを浮かべた。脂気の抜けた褐色の肌に埋もれた双眸は、これもまた軍人よりも神父と呼ぶほうが相応しいほど温厚な灰色をしている。慈愛に満ちた眼差しは、ルベドにはいささか居心地悪いものであるらしい。もどかしそうに首を垂直に曲げ、ヘルマーのずり落ちそうな軍帽へと目線をあげた。
「ルベド」ピアノの和音のように澄んだ声で、ユリは虚空を見つめるルベドの名を呼んだ。ユ暗褐色の髪を流して細腰を屈め、ベンチに腰かけたルベドと目線を合わせる。華美ではない服装が彼女本来の美しさを際立たせており、目が合うだけでルベドの頬には赤が差した。
「ピアノや病室に花を飾ってくれていたのは、あなただったのね。ありがとう、あなたの心遣いで、サクラがいる場所はいつも明るいわ」
「いえ、そんな、俺……」
 ユリの優美な微笑みと深い感謝の言葉を受け、ルベドの頬は赤みを増した。目も合わせていられないのか、顔を逸らせて俯いてしまう。手中のアネモネが苦しそうに反った。芝生の陰で丸まっている彼は、ヘルマーのこともユリのことも知っている。二人とも最近になってインスティテュートに出入りするようになった人物であり、女性のほうはピアノを弾く少女の母親であるらしい。二人に対し、ルベドは長年つきあっている研究員よりも信頼を置いているようである。以前、彼を抱きながらルベドが二人のことを、〝まったく躊躇せず俺に触れてくれた初めての人間〟だと評価していたことを覚えている。なるほど確かに、二人がルベドを見つめる眼差しはどの研究員とも異なり、慈しみある自然なものであった。人工的に流れる水よりも天窓越しの遠い空よりも自然に、ユリは優しく問いかけた。
「毎朝、病室のカーテンを開けてくれるのもあなたかしら?」
「え、あの、ご、ごめんなさい」
 咎められたと判断したのだろうか、薄紅色の頬が一気に青ざめ、ルベドの体は鉄のように強張った。ユリはゆるゆると首を振り、
「いいえ、嬉しいの」
 びくりと怯えるルベドの肩を、なよやかな腕で控えめに抱きしめた。天涯孤独の彼でさえ母親というものを思いおこさせる、柔らかな女性である。おそらく、あの腕の中は毛布などよりずっと快適な空間なのだろうと、彼は主人を少々羨ましく思った。
「あなたと会うようになって、サクラの生活リズムが変化したのよ。以前は一日のほとんどを眠って過ごしていたのに、今ではピアノを積極的に弾くようになったわ。それに、あなたの話では、料理の腕も上達しているでしょう。庭の手入れも紅茶のブレンドも、教えた私より上手になりそうね」
 ユリの口調は、まるで少女のように楽しげなものだった。彼女の腕にくるまれた体が、普段の緊張を置いて弛緩してゆく。だらりと垂れていた両の拳に力をこめ、ルベドは鼻先が触れあいそうなほど近くにあるユリの顔を、今度はまっすぐ見つめ返した。
「サクラ、ユリさんのお菓子のレシピは全部つくれるように努力するんだ。サクラの家は、ユリさんにもらったもので溢れてる。サクラは誰よりも、ママが大好きなんだよ。サクラのために、俺にもできることがあれば、何でもしたい」
 今にも泣きだしそうに見えるほど、目映いものを見つめる眼でルベドは答えた。その目尻に溢れているものは涙ではなく、零れることを知らない純粋な決意であった。青白くなった顔にも再び、生き生きとした血が巡っている。ユリは深緑の瞳を嬉しげに細め、庭園で青々と葉を茂らせるハナミズキのように、たおやかに微笑んだ。
「あの子は今まで誰かと触れあうことがなかったから、あなたと話せて本当に喜んでいると思うわ。これからも、サクラをよろしくね、ルベド―あなたの存在が、サクラには必要なの」
 個人を必要とされ、ルベドは面映げにはにかんだ。ルベドの笑顔に一切の邪気はなく、それが余計に身を苛むものであるかのように、けれど、とユリは深憂の面持ちで俯いた。
「無理はしないでほしいの。矛盾するようだけれど……頚部に管針を注射するダイブ方法も、そこから障害を引きおこす危険性も、私は心配で――」
「そんなこと、そんなの平気です、何ともない。俺たちの身体構造は、人間よりも多少優れてるんだ。あれくらいで壊れたりはしない。平気だよ、俺……」
 言葉をつまらせるユリを気遣うように、ルベドは狼狽しながらも必死に答えた。サクラの治療から外されることを怖れてのことだろう、珍しく兵器の自分を主張した。困惑したような微笑みを浮かべ、ユリが婉然と立ちあがる。彼女が身を引く瞬間、ルベドの寂しげな目があとを追った。
「ルベド、故意に自分の存在を貶める必要はない。我々は君を利用価値で判断しないよ」
 不安の表情を見せたルベドに、ヘルマーは篤実な人柄がにじみでた声で優しく諭した。それは間違いなく気遣いの精神であったが、自分の内を見透かした男に対し、ルベドは警戒した視線を向けた。
「生体兵器という己のあり方に疑問を抱いたところで、ここにいる限り、その利用価値が俺たちの生死を左右することに変わりないんだよ。例え順調に生が長引いたとしても、ヘルマー中将―最後はあんたに戦場へ招待されて、ジ・エンドさ」
 わずかに口角を吊りあげた自嘲的な笑みは、ユリに対するものとは別人のようであった。春の陽気に透かされる髪は、太陽のように満遍なくすべてを照らすと同時に、無自覚に攻撃的でもある。庭園中に響く環境管理システムの低機械音だけが、彼の鼓膜を打つ。鋭利な青いナイフの視線を受け、ヘルマーはその巨体で泰然と構えたまま、黒い顎を指の腹で揉むように撫でた。
「ふむ、随分と悲観的だ。私からの招待状を破棄する気がないように受けとれる」
「もちろん、喜んで赴くよ。それが俺たちの存在意義だからね」
 言葉とは裏腹に精彩に欠ける口調で、ルベドは単調に答えた。子供らしくベンチから飛びおり、庭園内に靴音を響かせる仕草だけは、無邪気で少年らしい。ユリは物言わず、端麗な顔を哀しげに歪めている。一方、ヘルマーは二人の様子にまったく頓着せず、やはり悠然たる面持ちで、ほほう、とおもしろそうに頷いた。
「君の思考論理は非常に特殊だと聞いていたが、その研究員用の処世術も紙媒体の文献から得たものかね」
「非合理的な知識に好奇心を示すのは俺だけだそうで―貴重なパターンとして経緯観察のために、ライブラリの閲覧権限はあまり制約されてないんだ。連邦の中将に詰問される覚えはないんだけど」
「いや、すまない。君の真意が知りたくてね」
 どこまでも鷹揚な態度を崩さないヘルマーに対し、ルベドは皮肉るように自分の体の倍はある男を睥睨した。少年の表面的な視線が、そっちは何も見せないのに、こっちが見せるわけないだろ、とでも言いたげな姿勢を物語っている。
「やはり研究員の話はあてにならんな。君の思考論理は人として非常に正常であり、〝普通〟の少年そのものだ」
「あいにく、俺は人じゃあ―」
 ないよ、と答えたルベドの態度は、紙のように素っ気ない。
「ルベド、人の定義とは何であると考えるかね?」
 それまで寛容だったヘルマーの表情に、初めて峻厳な色がよぎる。ルベドは不透明な瞳で、真摯に軍人を見つめた。
「ゲノムのように、ある生物をその生物たらしめるのに必須な遺伝情報で決定されるものなのだろうか。完全な原種と呼べる生物など、ライブラリ内に情報が現存するだけの時世だ。オリジナルの人でさえ、原種保護法が確立するまではクローンや実験体を容認し、身体整形から倫理に反する改造まで厭わなかった。加えて、軍人である私は戦場心理に精神を破壊され、人の形だけを保った憐れな者たちも大勢目にしたよ」
 ヘルマーは緩やかに乾いた瞼を伏せ、真っ黒な眉根を少し寄せた。それから再び開いた深い無彩色の双眸で、薄く唇を開いたルベドを我が子を見るような眼差しで見つめた。「君が閲読した文献の内容を私は知らん。しかし、聖書、哲学書、童話、古典―そうした様々な書物の中には、人を人たらしめるものが出生過程や機能構造からなる外形的特徴であると、はっきり記してあったかね?」
 遠くの空で鳥の羽ばたきが聞こえた。一人の男性型レアリエンが、無表情のまま三人の横を通りすぎていった。規律正しい硬質な靴音が遠ざかる中、ハナミズキの下では、いつの間にかドロイドが落ち葉の掃除をしていた。三人の体の表面を、雲の影が流れてゆく。影が切れて陽光を浴びたとき、ルベドは静かに口を開いた。
「お気遣いありがとう、ヘルマー中将。そこら辺のこと、また読み返してみるよ」
 眼球の表面で光が屈折し、狡猾にも冷酷にも知的にも見えるルベドの眼。兵器という道具が、こうも複雑な掴みどころのない眼のあり方をするものなのだろうか。瞳孔が目まぐるしく変化する彼の眼のように、ルベドのそれは安定しない。
 二輪のアネモネを見つめ、その花茎を回してみたあと、躊躇するように指先を動かしたルベドは、二輪のアネモネを両手に持ち直すと、ヘルマーとユリの前に差しだした。
「これ、どうぞ」
 二つの青が揺れる。
「誰かに渡さなくてもいいのかな?」
「うん、どうせ―何でもない。いいんだ、受けとって」
 ヘルマーの言葉に、ルベドは困惑と諦念の入りまじった顔で笑った。それを見たヘルマーとユリが、顔を見合わせる。
「ありがとう、ルベド」
 腰を屈めたユリは、右胸をわし掴んでいるルベドの手を撫でるようにして力を緩ませ、その手を握り直して微笑みを向けた。
「次の機会に、何かおもしろい土産でも持ってこよう」
 それでは、また、とヘルマーはルベドに握手を求めた。差しだされた黒く分厚い掌を凝視してから、ルベドは意を決したように男の手を握った。ヘルマーは満足げに笑い、ユリを連れて病棟入口へ向かった。欠伸をしていた彼は、近づいてくる二人に見つからぬよう窓から飛びおり、デイジーの花壇の裏に体を滑りこませた。「あの、ユリさん」ルベドが躊躇いつつ、彼女を呼びとめている。
「今日、その、サクラの、俺……」
 やたらと口ごもるルベドに、振り返っていたユリは苦笑する。その花顔を綻ばせ、彼女は手を振りながらそういえば、と思いだしたふりをして言った。
「今日の治療は、演習の最終段階に向けてお休みだったわね。ルベド、もし良ければ訓練の合間に、サクラと遊んでくれないかしら。今は眠っているけれど、お昼前にはピアノを弾きにおりて行くと思うわ」
「も、もちろん!」と、ルベドは体ごと跳ねる勢いで返事をした。空いた両手の拳がぐっと握られ、その喜びを表現している。鳴ってもいないピアノの音色が聞こえるかのように、ピアノのある部屋を見つめてはにかんでいた。