明滅する春と修羅 4


Timeline: One day of YURIEV Institute



 実験棟の裏庭にある、森閑とした人工林。白ばかりの施設内で凝縮された不似合いな緑を、誰かが緑地と呼んでいた。こんもりと茂る木立の林冠は頭上を覆う屋根となり、木もれ日が星のように降り注いでくる。白木蓮が清楚で控えめな純白の花を枝先に咲かせ、薄紫や桃色など色彩豊富なライラックも交じり、春の木々は強い芳香を放っていた。林の周囲はお粗末な煉瓦で隔離されており、研究員が近づくことは滅多にない。ドロイドもレアリエンも管轄外で、閑静な施設の中でも特に異様な雰囲気を醸しだしている。時折、陰森とした内部へ誘われるように迷いこんでくる者といえば、U.R.T.V.くらいのものであった。
 彼の目線は低く、林床に生えた草の葉脈まで判別できるが、木もれ日の屋根は遠く、アトリウムの天窓より先にある空はさらに遠い。夜目の利く暗がり好きの彼の寝床は、緑に覆われた春日のたまり場の中、老木の白木蓮の根元に空いた小さな洞である。暗雲が垂れこめる曇天の今日は、光の欠片も落ちてくることがなく鬱蒼としている。施設の全領域で空調を管理されているため、晴天との差はないはずだが、森々とした林内は普段より肌寒く感じた。ザバロフの太陽が隠れるのは何日振りだろうか。灰色の分厚い雲も、黒々とした葉に覆われて見えない。
 かすかに暖かな熱を残す洞の中で、体を丸めた彼は三毛の尾を頭上で何十回と往復させていた。昨日と同じ時間に二人の主人が来ない。空の胃が収縮しては満たすものをせがんでくる。寝床に敷いた毛布は土にまみれて薄汚れているが、彼は主人がくれた柔らかな毛布をいたく気にいっている。しかしながら、毛布は空腹を満たしてはくれない。
 六度目の欠伸をして毛並みを整えおわった頃、彼の湿った鼻が待ち望んだ匂いを捉えた。周囲の木々が放つ植物特有の草いきれや花の芳香とは明らかに異なる、咥内から唾液がじわりと溢れる食物の匂い。洞から突きだした鼻の天辺をひくひくと動かしてみる。
「ガイナン」
 赤い髪の主人の声である。密集する林木の隙間から、陰鬱な深緑の中で際立って精彩な赤が近づいてくる。真っ赤な頭髪は、魔女と遭遇しそうな林間では魔除けのように力強い。
「ガイナン」
 主人のルベドが、彼に与えた名を呼ぶ。彼の食事を運んでくるためか、主人の呼び声は極上のスープのような深みと温かさを連想させる。彼は洞から這いだすと、土と草のいり雑じった地面に四本の足をついた。肉球に触れる耐陰性の強い植物は、朝湿りでしっとりと冷たく濡れている。
 彼は鳴いた。予想外に掠れた声しかでず、彼は乾いた舌を舐めると再度、高く鳴いた。洞の前で尾を垂直に立てた彼を認めたルベドは、曇り空から太陽がでたように笑った。
 今日からおまえは、ガイナンだ。
 現在よりひと回り小さな彼を抱きあげ、そう宣言したときのルベドの笑顔を、彼は今でも覚えている。
 両手に銀の器を一枚ずつもつルベドは、彼の前で腰を屈めた。器からは白い湯気が立ち昇っている。
「腹、減ったろ。待たせて、ごめんな」
 彼は桃色の鼻をひくひく動かし、浅めの器を覗きこむ。顔全体を包みこんだ湯気で彼の視界は一瞬、真っ白になった。鼻腔の奥まで香ばしい匂いで満たされる。片方の器に、粥状に調理された粘り気のある乳白色の料理が盛られていた。粉のような具らしきものも混ぜこまれており、これまで食していたものとは微妙に色味が異なっている。未知の匂いではあるが、彼の本能は食すべしと首肯した。細長い瞳孔を黒々と丸め、怖々と顔を近づけてみる。
「猫は魚も食べるんだって? 人工の魚肉粉でも平気かな、オートミールに混ぜてもらったんだ」
 舌先が粥に触れた瞬間、牙の内側から唾液が零れおちそうになる。
「食品衛星管理局の人たちに聞いた話じゃ、インスティテュートには本物の魚なんて滅多に調達しないらしい。あ、今度はミートパイを焼いてくれるって。本当は必要な栄養分しか摂取しちゃいけない決まりだけどな、内緒でつくってくれるスコーンやパウンドケーキは、最高にうまいよ」
 滔々と料理の説明をしているルベドの声に関心はなく、粥の熱さに我慢しながら顔を突っこんだ。今までにない美味である。自慢の髭を汚さないよう注意しつつ、ようやくの食事を全身で味わう。長く短い一日の内、U.R.T.V.が比較的自由に過ごせる早朝と深夜―その二度の時間帯に運ばれる食事は、彼の最大の楽しみであった。
 ふと主人の声が途切れたので、不思議に思った彼は器から口を離した。話をやめたルベドは、木々の暗闇に沈む林の出口を、ぼんやりと見つめていた。睫毛の下の青い瞳だけが燐光のようなか弱い光を残しており、彼の視線に気づいたその双眸がゆるりと見下ろされる。
「U.R.T.V.の女子棟って、実験棟の区画内にあるのかな。ガイナン、おまえは見たことあるか?」
 答えは〝否〟であるが、彼は人語を話せない。鼻から抜けるような鳴き声で一応の返事をしてやると、器の中に顔を突っこみ、食事を再開する。整えられた毛並みを冷たい手が撫でたので、彼は背筋を粟立たせたが、拒絶する素振りは見せなかった。
「いつか話したろ、俺たちがU.R.T.V.の女性体と出会ったこと。ナンバーはアルベドとニグレドの間の668、シトリンって名前だ―」ルベドは彼の背を撫でながら、出会いの場面を思いだすように顎をあげた。「兄貴も、姉貴も、弟も、妹もいる俺って贅沢かもな―まあ、同じ顔しかいないけど」
 顔を歪めて苦笑する。忙しないルベドは、次に思いきり眉をしかめた。
「シトリンの奴、すっげえ生意気なんだぜ。サクラと同じ女の子とは思えないくらい。サクラはあんなにかわいくて―」ルベドは途中まで口走ってから何かに気づき、それから一気に頬を紅潮させた。「あ、いや、違うぞ、違う」一体何が違うのか、慌てふためきどもっている。身を屈めたまま後退したルベドは、彼の寝床である白木蓮の幹に背中をぶつけ、湿った草地にずり落ちるようにして座りこんだ。純白の花々が頭上で揺られている。発熱を疑うほど頬と耳が赤い。
 主人が一人で動揺している間、彼はもう片方の器のミルクを舌で飲んでいた。器いっぱいに盛られたオートミールも粗方食べおえてしまい、器の底が見えている。
 頬の赤みを抜くように、ルベドは長いため息を吐いた。老木に背を預けたまま、食事を終えて今度は毛繕いに余念のない彼を眺める。隔離された無風の施設内でも、森然とした林に身を置いていると木々のざわめきが聞こえる。遠くの空で、猛禽類らしき鳥の甲高い鳴き声に彼の耳は反応した。
「おいで」
 自分を誘う甘やかな声に、彼は毛繕いを中断し、瞳孔を開いて主人を見上げた。どことなく寒気のする今日の住処で、草地の上より心地良いであろう主人の胸を断る理由はない。両腕にくるまれた温もりを感じていると、ルベドのほうも、温かいな、と鼻先を彼の毛並みに寄せた。
「おまえといると現実が希薄になる。いっそのこと全部、夢でも良かったんだ―あいつの変質をとめられるなら」
 ルベドの眼には、青い光がたゆたっている。庭園の闇夜で光る青い電燈、自然色よりも危うく発光する、ルミネセンスのような光源―熱を伴わない燐光は、より寒色を際立たせる。アトリウムの天窓に雨粒が落ちるように、ぽつりぽつりとルベドは言葉を降らせる。「昨日は二人、汚染された。No.297はウ・ドゥよりも俺に怯えて精神リンクを躊躇して、そのまま―200番台はあいつで最後だった。No.466は戦闘を好んでる節があって、休憩時間にすら早く戦いたくてうずうずしてた。今にして思えば、死に急いでるようにも見えたのに……俺は、二人とも助けられなかった。今までだって、俺は何も―」
 考えあぐねるようにして閉じられない口が、彼の上で喘いでいる。虚ろな目は確かに彼を見つめているが、しかし彼をすり抜けて地面より底を見つめている。白木蓮やライラックより鮮やかな色の髪も、どことなく萎れて見えた。
「仲間なのに、兄弟なのに、リーダーなのに、見殺しにした。特別なんて意味ねえよ。壊すばかりで、俺は誰一人救えやしない。大事な弟が泣いてるのに、慰める方法がわからない……〝怪物〟って呼ばれるのも、当然だ」
 ルベドのもたれた幹が軋み、抱きすくめられた彼の柔な骨も軋む。滑らかな毛並みに埋めた唇が、生ぬるい息を吐く。「俺にはできない、かもしれない……重てえよぉ」
 搾りだされたか細い声は、相当な密度があり、言葉どおりに重量もあった。その上、危うげに震えている。腕や膝からも同じ震えが伝達される。寒気ではない振動を受けた彼は身動いでみるが、抜けだした尾が赤毛を掠めても、たっぷりと毛のある腹に顔を埋められるばかりであった。
「アルベドォ……」
 縋るような声で呟く。U.R.T.V.の制服ごとわし掴んだ胸元で、五指の先は血色を失ってゆく。彼の毛先に触れる息も、奇妙な冷気を伴っている。
「あれが、あいつの能力だなんて―あんな生体組織の再生速度、ナノマシンでも実現不能な能力じゃねえか……肉体損傷に対する完全な抵抗力だ……アルベドは死ねない―頭部を再生できるタイプなんか、ナノマシンの実験室レベルでも実現されてねえ……あいつの能力だけを抽出する方法なんて、存在するのか? 俺、どうすればいい?」
 最後は自身に問うように言い、ルベドはかぶりを振った。コバルトの双眸が朝露のように潤む。「親父も研究員も、アルベドの能力に気づいてるのかな―だとしたら、どうしてアルベド個人を研究対象にしない? 親父は肉体の不死より他に興味の対象があるのか? ウ・ドゥ関係だろうとは思うけど……そうすると、実験体としてアルベドだけが連れていかれる心配はないのか……」
 強張った表情を少し緩めたルベドは、そこで間の抜けた声を漏らし、あれ、と首を傾げた。「じゃあ、俺のほうは……あいつと切り離された俺って、不死じゃねえなら何がある? ニグレドにも特殊能力があるのか? 俺はアルベドのように負傷しても再生なんかしない。ちょっと他より波動が強力なだけで、そりゃあ統制もできるけど……」ざらつく舌で、彼は愕然とするルベドの顎を舐めてやった。ルベドはそれにすら気づかず、信じられないとでもいうように、彼を膝に乗せたまま両手で頭をかき抱いた。「こんな重要なこと、俺、どうして今まで考えなかった―違う、考えようともしなかった……どうしてだろう、今まで一度も、俺は疑問に思わなかった……弟どころか、自分のことも知らないじゃねえか」
 自分を殴りつけるようなルベドの呻き声が、陰森とした緑の空間に消える。満腹感からくる眠気に瞼を閉じかけていた彼は、鬱陶しいと思いながらも主人のために鳴き、もう一度、尖った顎を舐めた。くすぐったさからか、ルベドは力なく微笑んだ。その右手は、おそらく無意識に、またも右胸に移動していた。制服越しに爪を立て、皮膚と肉と骨の先にある心臓を抉りとるようにかく。一種の精神安定剤なのだろうか、苦悶の表情はわずかに和らいでいる。
 言葉にならない苦しみだけが、浅い息として吐きだされる。双眸は濡れそぼつほどであるが、涙は流れない。ブルーの光源は羽虫のように脆弱な光で、まるで深い水たまりを覗いている気分になる。その光は彼を照らすほど明るいのに、光を放つ少年自体は霧中の影にいるのである。
「俺とアルベドは合わせ鏡なんだ―切り離された、もう一人の自分。俺はアルベドを受けいれられない。受けいれて認めてしまうと、俺のほうは弱くて壊れた存在だって証明される……薄情だよな、俺。あいつは何も悪くないのに……大事な弟なのに……」
 ルベドの弱々しい口調に、大人に見せる強気の影はどこにもない。その体は小刻みに震えていた。射竦める彼の視線から目を逸らし、身を守るように縮こまっている。意識も混濁しているらしく、時折、舌をもつれさせ〝アルベド〟の部分をうまく発声できていない。うわごとのように言葉を紡ぐ中、右胸の五指はますます白く変色し、甲には青い血管が浮きでていた。眉間でも掴まれた制服と同じくしわが深まり、顔色が悪い。汗か、涙か、水滴が彼の尾を掠り、湿った草地に落ちた。
「右胸が鼓動するたび、俺の中で何かが疼く。その鼓動が、アルベドのものか自分のものか、どちらのものなのか区別できない。あいつを抱きしめると満たされて、突き放すとすごく痛む。自分の中にまだ心臓が二つあるみたいだ。その音がうるさすぎて、俺は時々、それを握り潰してしまいたくなる……」
 ルベドは右胸を掴む手を、重力に任せて草地に叩きつけた。地を打つ鈍い音が鳴り、野草を掴んだ拳で、それらを一気に引きぬいた。広げた掌から花弁のように何本かの野草がはらはらと落ちてゆく。
「いつか、俺はあいつを置いていくのか」
 歯軋りのような声を搾りだし、ルベドは両手で顔を覆ってしまった。解放された彼は膝から飛びおり、白木蓮の根元に蹲った少年をまじまじ眺めた。鮮明な赤毛は黒々とした幹に映え、地面に落ちた清楚な白い花々が、小さな体の周囲を泉のように彩っている。
「どうして、俺たちは別々の存在なんだ。ずっとひとつなら楽だったのに。切り離されたりしなけりゃ、抱きしめればいいのか、突きはなせばいいのか、迷ったりしなかった。愛せばいいのか、憎めばいいのか、迷ったりしなかった!」
 誰にともなくぶつけられた痛嘆の叫びが、頭上を覆う林冠の間を貫いた。嵐のように激動する声は、荒々しくも不安定で臆病さを含んでいる。木々の影に重なるルベドの薄い影は、磔にされた怪物のように蠢いていた。「アルベド、アルベド……」すすり泣く声が、膝の間から漏れる。自分の寝床を塞がれた彼は、空になった器に目を向けた。主人の中にあるものも食べてしまえたら良いのに、と利口な彼は思った。それはさぞかし密度が高く、濃厚な味がするのだろう。
 人は脆い。仲間の姿に誘われ、水たまりに落ちた虫は、その無意味さも知らずに狂乱しながらもがく。水面に映る姿は自分のものだとも知らぬまま、虚しく死んでゆく。それは彼とて同じことが言えるだろうが、彼の場合、そうしたことを嘆く感傷などもちあわせていない。
 アトリウムの天窓を何度も叩く音が聞こえる。曇天の空から、春雨が降りだしていた。