デュランダルの血脈 1


Timeline: Before EP1, in Kookai Foundation



 あるミュータントの回顧録

 俺は時々、あんたの青い眼を思いだす。青い太陽が瞼の裏に張りつき、今でも眩暈を感じている。
 俺がまだ十二やそこらで、デュランダルの整備技師をしている親父を誇りに思い、好奇心からあんたの背を追っていた頃のことだ。コロニーの観光モデル地区が世界の中心で、俺は狭っ苦しい街を隅から隅まで遊び回っていた。知っているよな、ちび兄貴。
 その日は、観光客がひと際多い祝日だった。しゃぶり尽くした資源でしか動かない車なんてものは客用に並べてあるだけのポンコツで、観光地区の道路は材木運搬のトラックやゴミ収集車くらいしか通行できない(市内間であれば路面のメトロか地下のチューブ、すべての区画間とデュランダルとの行き来ならランチが主な移動手段だもんな)。その中央道路を、ちび兄貴とガイナンさんが歩いていた。どよめきが起こって人混みが自然と開けるのは当然のことだろう。クーカイ・ファウンデーションの代表理事といえば、フォーブズでも特集されるほどの有名人だからね。この街じゃスパイス・シスターズより人気がある。まあ、フォーブズの取材を受けるのも行く先々で女に声をかけられるのも、ちび兄貴じゃなくて黒髪の理事のほうだけどな(気を悪くしないでくれ、事実なんだよ)。ガイナンさんは紳士的で、男でも惚れるほど格好いい。その上、毎日テレビで顔を観ようと、ヴェクターのCEOよりは現実味があろうと、雲の上の人間だと感じざるを得ない気品がある。ちび兄貴の場合、デュランダルに乗船していないときは一体いつ働いているのか疑問に思うほど遊び呆けている(ように見える)から、俺たち市民も慣れたもので、市長より市長らしい扱いで接していたりする。
 その日の俺は、人混みに紛れつつ信号機の柱から視察する二人を尾行していた。当時のお気に入りのキャスケットを被り、手にはウォーターピストルを持っていたと思う。
「ハーヴェル!」
 名前を呼ばれると同時に帽子を誰かに盗られ、俺はすぐに両手で頭を隠した。曾々爺さんから聞いた話だと、俺の古い先祖はオーストリア占領時代のクラカウで道楽していたにも関わらず、景気の良いどんぱちで富を築いたらしい(オーストリアやドイツ、ポーランドというのは国の名前らしいが、惑星とは異なる国という区分が俺にはわからない)。軍にエンジンを売って間接的な人殺しで儲けた金は当然のごとく汚濁していて、紙幣にこびりついた血のように先祖には怨恨がついて回ったという。それからというものウルリッヒ家では代々、妙な具合にくすんだ金髪ばかり生まれているんだと。色素の薄い目も、これまた先祖譲り。虱ったかりのように見える金髪が嫌で帽子を被っているのに、それを盗りやがる糞野郎はどこのどいつだ。
「おまえさ、怪しいよ。何してるんだ?」
 振り返った先に、二十七市街区画にあるランドリーの息子ドミニクがいた。にやにやと笑っている。「何でもいいだろ、返せよ、それ」俺はドミニクの手からキャスケットを奪い返し、きちんと被り直してつばの向きを正した。「忙しいから邪魔すんな」
 犬を追い払うように手を振ると、そばかすだらけの顔をしかめてドミニクは言った。
「今日は湖畔で遊覧飛行船が飛ぶんだぞ。ハーヴェル、好きだろ。行こうよ」
「俺が好きなのは飛行機だ。鈍足の風船じゃねえ、断じて」
「どっちでもいいだろ。乗ろうよ、飛行船」
「うるせえな、鼻たれドミニク」
「何だよ、ぶっ壊れハーヴェル!」
 幼馴染みのドミニクとは、こうした調子で今でもつきあいがある。ランドマークのなくなったセントラル湖を見るたび、俺は思うんだ。真っ赤な飛行機をとばしたい、と。ちんたら遊覧する飛行船よりも、わざわざ死にたい奴がするような戦闘機の曲芸飛行に憧れる。昔、ちび兄貴にその話をすると、俺もそうだと同意してくれた。
「俺はな、今日こそちび兄貴に一発くらわせたいんだよ」と、俺は言った。ウォーターピストルの銃口をドミニクに突きつけ、トリガーを引く。水圧の弾がドミニクのそばかす鼻に命中した。冷てえ、とドミニクは当然の結果をひとしきり喚いた。ファウンデーション一の悪戯っ子が聞いて呆れる。
 この頃の俺は、将来はちび兄貴のように本物の銃を使いこなし、A.G.W.S.の構造と操縦も覚え、親父のようにデュランダルで働くのだと意気込んでいた。ピアノやらラテン語やら、親から強制される教養なんて俺には金の無駄遣いでしかない。そういうわけで、俺はちび兄貴の一番弟子を自認し、あんたを追いかけ回していた。
 袖口でそばかすに浴びた水を拭きとりながら、ドミニクは、わかった、と頷いた。「はあ、ちび兄ちゃん相手に決闘やら勝負やら挑むなんて、おまえくらいだよ。明日の勧業博覧会は行くんだろ?」
「そりゃあ行くぜ。うまい飯が食えるし、何よりおもしろいからな」
 ドミニクは納得したようで、「じゃあ、レイラの屋根裏に集合だからな」と、手を振りながらセントラル湖方面のランチへ駆けていった。
 俺が目を離していた間に、ガイナンさんは面倒な主婦たちに捕まっている。あの容姿だから無駄にもてるのもわかる。ちび兄貴も、もてることはもてる。俺と同年のモニークや幼年のアデレイドなんかは、ちび兄貴が初恋の相手だろう(喜べ、幼年層にあんたの敵はいない、それは今でも不変だ)。そのちび兄貴はといえば、ヤンおばさんの立派な腹に弾かれ、女たちの輪から放りだされていたが。ひどい仕打ちが気にいらなかったらしい。ちび兄貴は聞きとれない文句(もともと口が悪いからFワードは当たり前に入っているだろう)をぶちぶちと呟き、酒場『IRONMAN』の扉をくぐった。
 昼夜を問わず開店中の出入り口は、午前中でも酒臭い。店内にテレビで人気のヒーロー・アイアンマンのパネルが飾られているにも関わらず、子供は入店禁止というのだから当時の俺は不満だった。正面のカウンターと、看板のネオンが見える。名も知らないピアニストが、かのビル・エヴァンスのようなジャズアレンジで『枯葉』を演奏していた。酒場は適度に混んでいて、やはり酒臭い。
「ちび様も一杯引っかけにきたんですかい?」
 飲んだくれのコルデリアのおっさんが、でかい濁声でピアノの音色を邪魔する。「いや、今日は仕事でね」ちび兄貴の高い声は、酔っ払い連中の中では確実に浮いていた。
「若い内から酒に溺れちゃいけねえよ。いつまで経ってもちびじゃ困るだろうが」
「あー、耳が痛え。マスター、一本くれ」
「はいよ、サイダージャックだね」
「ありがとう。ハロウィンのパンプキンパイもうまかったぜ。金、ここ置いとくから」
 コインの音が鳴り、ちび兄貴がスイングドアをほとんど足で蹴るようにして酒場から出てきた。小さな林檎酒の瓶を持っている。琥珀色の中身を三口ほど飲み、ちび兄貴は瓶をロングコートの中に仕舞った。
 そのあと再び合流した二人は、レイラの宿屋に寄る予定だったらしく、瀟洒な佇まいを見せる『OUR TREASURE』のロビーに入った。「ちびちゃん、いらっしゃい」嬉しそうなレイラの声。慕われてまんざらでもないちび兄貴がレイラの遊び相手をする間、ガイナンさんがレイラの両親と経営状況や明日の勧業博覧会について話していた。
「ガイナン様、いつもありがとうございます」
「こちらこそ。観光居住区の方々からのご協力で、今のファウンデーションがあるのですよ」
 外の連中は大抵、公表通りガイナンJr.をMr.クーカイの養子だと認識している。もしくはクローニング、恋人との隠し子―形はどうあれ親と子の関係だと思っている。内部の人間はどうなのかといえば、おそらく大半が気づいている。十二の俺でも暗黙の了解に従っているくらいだから。十年前から一インチも変わらず〝ちび〟のままの少年を見続けて、気づかないほうがおかしい。赤ん坊の頃の俺と、十二になった俺、二つの異なる時間軸から見たちび兄貴の姿は、まったく変化がないんだ。人間なら成長する。成長がないのは、百式レアリエンか、サイボーグか、アンドロイドか、ドロイドか、完全なる機械か。人間であることも含め、どの可能性も否定できない。少なくとも、ちび兄貴がよく立ちよる二十六・二十七市街区画の住民は、そうした事実を知っている。知った上で大して気にしていない。そりゃ単純な理由さ、かくいう俺たちも大なり小なり〝わけあり〟の出自でここにいるんだからな。
 ファウンデーションでは人間から機械まで、人から生まれたすべての者が生活している。俺のように第三世代となると、幸か不幸か、ほとんど人間で、流れる血や構成される化合物がケイ素やらヒ素やら異なった成分を有していることになる。俺の親父や爺さん世代にまで遡ると、悪名高い〝ライフリサイクル法案〟が絡んでくる。もともとはサイボーグ技術が全盛だった当時、驚くべくも枯渇しつつあったらしい人的資源の有効利用という名目で制定された法律が、法自体の解釈の範囲拡大によって、人そのもののクローン化や遺伝子や脳神経系の改変といった領域にまで及んだ。遺伝子、脳神経といった生体組織を過度に改変、調整された者、もしくはその子孫が何と呼ばれたか―〝ライフリサイクルの変異体〟、すなわち俺らミュータントの誕生というわけだ。遺伝子の改変、調整の度合いによっては、突出した身体機能や超常的な能力を示すこともある。その反面、精神に変調をきたすケースが多くて、犯罪者の特殊歩兵養成や矯正プログラムも問題視された。つまり、倫理と人道を無視した糞みてえな悪法だってこと。その法案は百六十年間も続いた。T.C.四五九〇年代の連中は、ウクライナで野垂れ死んだ俺の先祖より愚かだとしか言いようがない。殺戮と略奪に明け暮れた先人より狡くて卑劣だよ。
 まあ、人類の過失を今さら嘆いても仕方がない。そうした理由で、ここでは自分の能力をうまく利用して仕事をする住民が大勢いる。誰も大して能力を隠さず(何しろ履歴書で堂々とアピールするほどだからね)、むしろ個性として尊重している節もある。が、見えているものがすべてでもない。要は、誰でも一つや二つの秘密があって当然―その程度ということだ。裏ではミュータントの巣窟なんて呼ばれちゃいるファウンデーションだが、外の連中に比べりゃ気のいい奴らばかりさ。大体、大昔の人間なんて魔法だの超能力だの、それこそミュータントが主役の小説や映画をこぞって制作していたくせに(当然、強い奴が人気者だろ)、現代で実際に出会うと気味悪がって虐げるなんぞ馬鹿げている。てめえら、実は俺らのことが羨ましくて嫉妬してんだろ凡人が、そのくらい言ってやりたいね。
 ちびのままのちび兄貴は、ガイナンさんと一緒に外の連中から俺たちを守ってくれている。事情を知っていようがいまいが、そんなことは関係ない。当時の俺は思っていた―いつか俺が背を追いこしたって、ちび兄貴は俺のヒーローさ、と。
 宿屋を出てから二十七市街区画に入ったところで、ちび兄貴はごろつきのキングが牛耳るジャンク屋『East6』へと続く石畳の階段を駆けのぼり、ピンク色の派手な看板の前を大股歩きで横切って店に入った。
「ガイナン理事、お疲れさまです」
 建物の窓拭きをしていた体格の良い二人の男が、屋根からおりて一人になったガイナンさんに話しかけてきた。鳶職のゴビンドとライナスで、二人とガイナンさんが階下で話しているから、ちび兄貴を追いかけられない。ジャンク屋の中から不気味な機械音が鳴り響くたび、俺は不安に駆られた。当時、キングは腕っぷしの強い荒くれ者だと聞いていたし、『East6』はごろつきのたまり場だから(コロニーがグノーシスに襲撃されたあと、俺はキングと良好な交友関係を築くことになるのだが、十二の俺の世界は狭く、ちび兄貴がどうにかされてやしないかと余計な心配をするしかなかった)。怪しげな金属音を気にとめもしないガイナンさんに、ゴビンドが気楽な調子で言う。
「いやあ、まったくガイナン理事のこだわりっぷりにはシャッポを脱ぎますよ。環境虫を使ってやれば窓も庭も常に清潔なのに―最近の区画整備だってナノ建築を使用したものが主流ですよ。それが、こうも徹底して旧式の建築様式で通すんですから」
「すまない、苦労をかけるね」
「いえいえ、違うんですよ、ガイナン理事。他の区画に住んでいる人たちの話を聞くと、何ていうか、どことなく無機質なんですよね。俺はファウンデーションの中でも、人間臭いこの区画が一番好きなんです。手間ひまかけて育てた我が子のようだ」
「そう言ってくれるとありがたい。嬉しいよ」
「俺もライナスと同意見ですね。もともとコロニーの住人には結束の強さを感じていたんですが、観光産業も安定してきて外部からも認められ始めた最近では、もっと深い絆が生まれたような気がしますし―みんなが家族であるような」
「家族か」
 ガイナンさんは穏やかに微笑んだ。優しい眼差しの先には、そこそこ大きさのある紙箱を小脇に抱え、だらだらと階段をおりてくるちび兄貴がいた。何の怪我もしていないどころか鼻歌をうたうほどご機嫌らしい姿に、俺はひとまず安堵した。
「もちろん、ちび旦那とガイナン理事もさまになっていますよ」
「むやみやたらに奔放で困るがね」
 ゴビンドの言葉に、ガイナンさんは苦笑した。三人の会話を聞いていたのか、ちび兄貴がにやりと笑う。
「これからパパにおねだりして、スマイル・ベーカリーのパンを買ってもらうんだぜ」
 外見年齢を理由に酒やギャンブルを断られようものなら立腹するくせ、こんなふうに子供という立場を愉快犯のように演じる節もあるのだから、ちび兄貴という男はわからない。ゴビンドとライナスは二人して腹を抱えるほど笑った。
「ちび様が養子だなんて、ガイナン理事も大変ですね」
「連邦の嫌がらせに負けないでくださいね。俺たちは、クーカイ・ファウンデーションを誇りに思っています」
 ありがとな、とちび兄貴は素直に笑った。
「我々にとっても、君たちの住むこの街が何よりの誇りだよ」
 ガイナンさんは二人の男と固く握手を交わした。ゴビンドとライナスは柄にもなく照れ、埃まみれの頭をしきりにかいていた。
 二人組と別れたあと、ガイナンさんは「ところでJr.、その箱は一体何だ」と、ちび兄貴の手中を一瞥して言った。
「キングのところのリッグス―リサイクル専門の奴な、あいつがフリマで見つけた改造銃を譲ってくれたのさ」
 だらしなくにやけながら紙箱を開け、ちび兄貴は「見ろよ、これ」と、中身の改造銃をガイナンさんに覗かせた。俺の位置から銃は見えないが、「おまえがうるせえから、金属製のモデルガン」と自慢するちび兄貴の様子からして良品らしい。大切そうに包みを直すちび兄貴と反対に、ガイナンさんはこめかみを押さえて呻いていた(ああ、気持ちはわかるよ。ちび兄貴の懐古趣味からくる収集癖といえば、モノマニアックで有名だ)。
「まあ、今回は何も言うまい。こちらの都合で会議と視察につきあわせたからな。それより、シェリィとメリィへの土産はどうする」
「強請るって言ったろ」
 着いたぜ、とちび兄貴が指し示した場所は、堅物で有名なファルロフのおっさんが経営しているパン屋『SMILE BAKERY』だ。道路沿い一面に張られた飾り窓の先に、うまそうなパンが種別に並べられている。焼きたての香ばしい匂いを嗅いだとたん、俺は腹が減った。というか、腹が減っていることを思いだした。朝から何も食べていないものの、食い物はないし、金もない。それでも、ちび兄貴の隙を見つけられないまま、すごすごと引き返すなんて癪だと思い、俺は空腹を我慢した。パンの品目が書かれたイーゼルの裏にジョニーが隠れていて呆れたが、無視して作業場のほうから店内を窺う。
「よお。ミナ、ヴィルモシュ」
「やあ、お嬢さん方」
 理事二人が挨拶をすると、看板娘のミナはカウンターから奇声をあげて驚いた。おしゃべりに夢中だった新婚のヴィルモシュも上擦った声でガイナンさんの名を意味もなく呼んだ(例のごとく、ちび兄貴は彼女らの眼中にない)。ヴィルモシュは異常になよなよとした態度で、夫がいないのをいいことにガイナンさんの腕にくっついた。「ガイナン様、相変わらず素敵でですわ」とか「お疲れですか? ああ、介抱して差しあげたい」などとひとしきり褒めてから、ようやくヴィルモシュはちび兄貴の存在に気づいたらしい。
「あら、ひょっとしてJr.様もA.G.W.S.パンを買いに? うちの坊や、ここのパンが大好きなんですよ」
 微笑んでから自分の失言に気づいたらしいヴィルモシュは、「し、失礼しました」と慌てて口元を押さえた。「Jr.様は大人ですものね」
「いいや、残念ながら君の言う通りでさ。悪いね、まだまだ子供なもんで。坊やは元気かい? もう六歳になるか」
 ちび兄貴は特に気にしたふうでもなく、普段と変わらず陽気に笑った。狼狽するヴィルモシュも胸を撫でおろしたことだろう。ちび兄貴の機嫌を損ねる、イコール、ちび兄貴の(表面上)父親であるガイナンさんに好ましく思われない、という図式だからな。
 パンを選ぶ二人を見ていると、ますます空腹が胃をせっつく。「なあ、ジョニー。今、何時だ?」隣に隠れてミナのストーカーをしている変態に尋ねると、ジョニーは店内の時計を指差した。一時か。
「ハーヴェル。おまえが邪魔でミナが見えねえだろ」
 背後から怒鳴ってくるジョニーなど、心底どうでもいい。俺はパンの匂いだけで脳髄をやられていた。A.G.W.S.パンといえば、当時の子供の間で一番人気のパンだった。お子様用パンと侮るなかれ。確かミシュランでも評価されていたのだ。
「ロウズォンを二つ、黒い森とピローグを二切れずつに、A.G.W.S.パンですね?」
「ああ、ありがとう。カードでも大丈夫かな」
「小銭くらい持ってねえのかよ。いい、俺が払う」
 ちび兄貴は呆れると、自分の尻ポケットから丸めた紙幣をとりだした。ミナが驚いて首を振る。
「お代なんて要りませんよ。お二人はファウンデーションにとって大事な方ですもの」
「関係ねえよ。俺たちはうまいパンが欲しくて買う客なんだから、金払って当然だ」
 折り目のついた数枚の紙幣を差しだすちび兄貴に、ミナはにっこり笑って礼を言った。それにしても、ガイナンさんが別れの挨拶でハグをしたときにもミナとヴィルモシュは赤面していたが、対してちび兄貴には遠慮なくキスの挨拶で見送るのだから、ちび兄貴も男として複雑だろう。
「ガイナン、俺ちょっと休憩とるからさ。何ならシーラさんの用を先に済ませてくれないか」
 オープンカフェの椅子に腰かけながら、ちび兄貴は言った。ガイナンさんは俺のいる方角を横目で見やり、ちび兄貴に「あまり遅れるなよ」とだけ言い残すと石畳の階段へ向かった。その先には、ファウンデーションでも珍しい古風なランドリー店『LAVARE』がある。ドミニクの家だ。
 ちび兄貴はガイナンさんのうしろ姿を見送り、ゆったりと椅子にもたれた。改造銃が入った箱とパンの包みをテーブルに置き、くつろぐように足を組む。今しかない、と俺は思った。今なら背後から足音を消して忍びより、赤毛の後頭部にウォーターピストルの水圧弾をお見舞いすることができる。今日という日を、ちび兄貴に一発くらわせた記念すべき日にしようと、当時の俺はピストルを構えた。
 当然といえば当然だが、日夜グノーシスやU‐TIC機関とまともに干戈を交えていた百戦錬磨のあんたに、親父のガレージに入り浸って機械をいじっていた頃の俺が、どれほど隙を狙おうとも敵うはずがない。まずもって、覚悟の有無で相当でかい差が開いている。
「おい、ハーヴェル」と、唐突にちび兄貴の声。「ハーヴェル・ウルリッヒ・Jr.、いるんだろ?」
 椅子の背に頭を預けたちび兄貴が、俺の名前を呼んでいる。完璧な尾行を自負していた俺は、ピストルをとり落とすほど驚嘆した。どうしてばれた? いつから? ちび兄貴が手招きをしている。
「俺のほうは一度も見てないのに」
 ちび兄貴に促されるまま向かいの椅子に座った俺は、納得いかずに疑問を呈した。俺どころか背後を振り返ってもいないはずだ。これについては間違いないが、ちび兄貴は呆れ顔で言った。
「気配で察知すりゃいい、目に頼る必要はねえの。おまえの場合、それ以前の問題だけどな。声も足音も隠す気ねえだろ」
「あるよ、やってんだろ。何だよ、ちくしょう」
「まあ、戦法は悪くねえよ。宣戦布告してた頃に比べりゃ成長したぜ。命とりあう戦闘に、立派も卑怯もねえからな」
 ちび兄貴は苦笑すると、パンの包みを向かいの俺に差しだした。店頭で嗅いだ焼きあがりのパンの匂いが、薄い包みを通して鼻腔に充満する。辛抱たまらず包みの中を覗きこんだ。ちび兄貴がくつくつと笑う。
「そんな顔しなくても、やるから。おまえ、俺らを追ってる最中、何も食ってないだろ」
 中身はA.G.W.S.パン。思わず喉が鳴った。パンを引っ掴み、かぶりつく。しっとりとした食感が口内を満たし、咀嚼するほど溶けてゆく。うまい。最高。空腹だったからか、友達と買い食いした日以上にうまく感じる。ちび兄貴はバタービールまで注文してくれた。飲むと体の芯まで温まる、俺の好物だ。
「うまい」俺はバタービールを呷り、とても満足だと礼を言った。「そうか」ちび兄貴は優しく頷いた。テーブルに頬杖をつき、青い眼を細めている。外見は俺と同年でも、ちび兄貴は十二に見えない。十二の子供がするような表情をしない。耿々と生彩な笑顔が印象的だが、それは印象であって実態ではない。実際のところ、醒めた視線で世を睥睨している表情のほうが多い。ちび兄貴は冷然が常、時として陽気に転じるのだ。
「ハーヴェル、これもやろうか」
 指についたチョコレートを舐めとっていると、ちび兄貴が改造銃の入った箱(キングたちからせしめた、と俺は今でも認識している)を指し示した。
「おまえ、父親に本物の銃を強請ったらしいな。銃なんて子供が持つもんじゃねえよ。ま、俺が言っても説得力ないだろうけどさ」
「じゃ、何で?」
この実銃の弾は九ミリパラベラム弾でな由来はラテン語の言い回し〝Si Vis Pacem, Para Bellum〟から―汝平和を欲さば戦への備えをせよ
 ちび兄貴はそう言うと、俺に改造銃を寄越してにやりと笑った。
「重さに慣れろ。そうすりゃ恐怖もわかるさ」
 金属製の精巧なモデルガンは、水をつめたウォーターピストルよりも冷たく、ずしりと重い。心臓の重さなのだと、あんたは言ったな。俺はこのとき、飼っていた合成猫が死んだ日のことを思いだした。小さな子猫だった。死後硬直をはじめた亡骸は、冷たい銃とよく似ていた。
「弾のないモデルガンも銃であることに変わりない。おまえはウォーターピストルをドミニクに向けたろ。どんな銃でも、構える方向を間違うな。仲間に銃口を突きつけるなんて、絶対するな」
 真剣な眼差しで、ちび兄貴は俺の手を痛いほどの力で握った。掌にある銃の形がよくわかった。
「兵器自体に、誰かを傷つける意志はない。使用者によってその意義は変わってくる。ハーヴェル、おまえが銃を撃つとき、それが誰かを傷つけるためであっちゃならない。守るために撃て。おまえが秘める力は、ファウンデーションの人々を守るために使ってくれ」
 ちび兄貴の瞳に炎が見えた。二つの青い炎が揺らいでいる。どんな影も焼き焦がすような光炎だ。青い光源にコロニーの天蓋部で照る人工太陽が映ると、それはもう眩しくてたまらない。まるで青い太陽だ。きれいだ、と心底そう思った。
 俺は時々、あんたの中に自傷行為を許す奴がいるようで心配になる。他人には自分の命を大切にしろと言うくせ、自分はいつ死のうと構わない―そういう節があるのだ。
 俺たちの先代たちはライフリサイクル法案の被害者で、廃案後も迫害ばかり受けていた。被検体にされて死ぬ奴も多かった。クーカイ・ファウンデーションというサナトリウムがなければ、彼らの居場所は当然のように略奪され、心身を虐待されるたび生まれを呪い、泣き寝入りでもする他なかった。それが、俺の世代はどうだ? 帰る家がある。あんたらがつくってくれた立派な居場所がある。偉業だろう。誰でもできることじゃない。
 ちび兄貴、自分を無力だと責めないでくれ。自ら不幸を受けいれないでくれ。しがない現実を誰かのせいだと嘆くことに一体何の意味がある。
「俺のようにはなるなよ、ハーヴェル」
 ちび兄貴は言い、くたびれた顔で少し笑った。ひでえ言葉さ。俺はちび兄貴のようになりたくて、その背を無心で追っていたのに。おそらく、あんたは何が起こらずともファウンデーションで人生の幕をおろす気などなかったのだろう。あんたが誰の背を追い、その青い眼の奥にある虚無を独り育てつづけたのか、俺には生涯わからない。
 ちび兄貴、あんたは一体どこへ向かう? どこへ行っても帰ってくるよな。真っ赤なデュランダルと一緒にさ。
 赤毛の先にあるメトロポリスを見つめ、十二の俺は今の瞬間を未来のすべてと確定していた。あの船が誰かの墓標になるなど考えもしなかった。あれは俺たちの神ともいえる存在だった。〝神は死んだ〟と、よく言ったもんだな。それでも人は生きている。
 キャスケットを意味なく被り直し、俺は赤毛の下で燃える青い太陽のような炎を見つめた。掌の銃は重く、青の反照を受けると、余毒のような眩暈を感じた。