明滅する春と修羅 5


Timeline: One day of YURIEV Institute




 人工林には、古代魚の骨のように朽ちた枯木もある。若木の萌える緑が密生する中、彼の寝床である白木蓮の北―林中央の一部屋ほど開けた緑野で、ブリッスルコーンパインに似た孤独な木は、その身の一部を枯らしながら生命を維持している。ユーリエフ・インスティテュートが建設される以前からここにあるのかもしれないと、目にした者に思わせるほど立派な老木である。天に伸びる骨張った枝や、密集する年輪が剥きだしになった螺旋状の幹は、丁寧に研磨されたように艶々とした部分もあれば、白骨化した骨のように枯凋した部分もある。地面から這いだした根が、干乾びた大蛇のようにうねりながら草木を屠り、枯木の周辺には他の木々が寄りつかない。
 頭上を覆う樹冠の連なりも唯一ここでは途切れ、アトリウムの天窓を間近に仰ぐことができた。晴天の日であれば、おそらく彼の寝床よりも燦々と光が射しこみ、暖かな日だまりが溢れていることだろう。その証拠に、ここ一帯に生い茂る植物は、耐陰性や耐寒性のある他の種とは形容が異なっている。土から芽吹く小さな花々も見受けられた。まるで緑色の小部屋にいるようである。
 枯木の空間を囲むように、春を告げるライラックの木立は色鮮やかな花を咲かせている。葡萄の房を思わせる密集した円錐状の花は、木々によって様々な色を見せているが、白や薄紫色の淡い色の中で鮮明に咲く青紫のライラックが、彼の大きな眼にひときわ強く映る。その花々から放たれる甘く高貴な芳香が、淡い霧のように漂っている。
 この空間を普段よりも幽寂に感じる理由は、途切れることのない雨音のせいだろう。もう五月雨と呼んでも良い時期かもしれない。先刻までの快晴が嘘のように、空のどこにも青い晴れ間は見当たらない。灰色の仄暗い曇天には時折、音のない雷光が走っている。天窓に落ちた雨粒が太陽の涙のように流れおち、雨を凌ぎつつ低空飛行する渡り鳥の影をも朧に映した。
 人工林の闇に吸いこまれてゆく雨音の中、食事を終えた彼は枯木を見上げる位置に佇んでいた。赤い髪の主人は、U.R.T.V.用のUNPから呼びだしを受け、彼には立ちいることのできない実験棟へ急ぎ足で戻ったばかり。炎のように赤々と燃える少年の姿がなくなると、人気のない林はますます陰鬱な空気を漂わせる。
 腹ごなしに散歩でも、と彼が立ちよった枯木の下で、彼を見下ろしているU.R.T.V.の変異体がいた。その体、顔、頭髪の癖毛一本まで、主人ルベドとまったく同一の少年である。しかし、少年の頭髪は真っ白い。鮮血で染めあげたような主人の赤ではなく、透明に近い光沢のある白い髪をしている。怖ろしいほどに艶やかな純白である。その頭髪よりは赤みがある顔の中に、紫色の目玉が埋めこまれている。光の屈折で双眸が映す色は、宝石のシンチレーションのように美しい。ふうん、と少年は首を傾げた。
「君がルベドとニグレドの〝秘密〟ってわけか」
 アルベド―白い髪の少年を、赤い髪と黒い髪の二人の主人はそう呼んでいた。それがこの少年の固有名称なのだろう。
 三色の少年たちは、彼の目から見ても仲が良い。三人で連れだって庭園を駆け回る姿も幾度となく見かけている。しかし、実際に彼がアルベド個人と対顔するのは今日が初のことである。彼の記憶のアルベドは、ルベドのように喜怒哀楽の激しい性格でありながら、一見すれば気弱で臆病―だが、その怯えは施設内の誰に対するものでもなく、自分自身の内にあるものに恐怖している節があった。それが最近は一変し、標準体や研究員への嗜虐的な行動を度々目にする。様々な面に変動し、歪曲してゆく、アルベドの中身は定型のない水のようだと彼は思っている。
 花曇りから霧雨になって一時、いよいよ鬱蒼とした林での彼との邂逅に、アルベドはさして驚く様子も見せていない。むしろ嬉々として無邪気な笑顔を見せ、豊熟した葡萄酒のような瞳を輝かせた。うしろ手に組んでいた手を彼に伸ばし、彼の首輪のタグに触れる。「G」おもむろにアルベドの唇が動く。
「ガ、イ、ナ、ン―ああ、ルベドが最初に読んだ本にある名前だね。『ローランの歌』だっけ」
 目元だけで微笑むアルベドは、彼と同じ動作で目を細めた。白く透けた睫毛の下、深い紫色を変える。アルベドの虹彩は不可思議である。侵入する光の角度により、青みの強いバイオレットから赤みの強いパープルまで、その色を変化させる。垂れた睫毛の下にある今、それはライラックの花のような青紫を見せている。
「猫って初めて見たなあ。ライブラリの写真とは色が違う。犬のキメラも見たけど、君はオリジナルかい? まあ、そんなことはどうでもいいや。それ、君の眼、きれいだね。琥珀の中に入ってる緑の虫みたいな色。ルベドが気にいってる鉱石図鑑にも、そういう色があったよ」
 彼は自分の虹彩の色など気にとめたこともなかったが、アルベドの言葉に気を良くし、少々誇らしげに尾を立てた。おもしろい悪戯でも思いついたのか、アルベドは口角を吊りあげ、にっこりと含み笑いをして見せた。ねえ、とアルベドが彼を窺う。
「君はプラナリアって生物を知ってる? どれだけ小さな断片になるまで切り刻んでも、そこに新生細胞が含まれてる限り、それぞれの断片から完全な一個体を復元できるんだ」
 白い肌より白い髪に、赤い瞳はひどく際立つ。アルベドの右手には、園芸用の移植こてが握られていた。薄いスペード型の刃に、湿った土が付着している。アルベドはこての汚れを気にすることもなく、それをおもむろに自分の頸部へあてがった。
「トカゲの尻尾は千切れても再生するけど、千切れた尻尾からトカゲの頭が生えてきたら、それってグロテスクだよねえ」
 アルベドは喉奥でくつくつと笑った。あてがわれたこての刃先が首の皮に食いこむ。薄皮は事もなげに破れ、無邪気な笑顔を映した鈍色の刃が、アルベドの首に赤い直線を引いた。赤い糸のような線から次々と赤い玉が盛りあがり、まるでアルベドの頸部に赤いビーズの首飾りが巻かれているようになる。それらは肉のつまった体内より押しだされ、血の糸が切れたと同時に弾けとんだ。一粒一粒が雫となって喉仏を伝い、ある一粒は真っ逆さまに地面へ落ち、ある一粒は鎖骨を滑って制服の染みへと変わった。切れ味の悪いこては首周りを泥と血で飾りながら、刃先を肉の内部に隠している。皮と皮の切れ目では、ピンク色の肉や青紫の血管が呼吸の具合で見え隠れしている。その奥には、硬そうな脊椎の一部があった。
「僕の場合、ちょっと違うかな」
 筋肉の切れる音を立てながら次第に傾いてゆくアルベドの首を、彼は満月のように円を成す瞳孔で凝視していた。二本の華奢な腕のどこに、これほどの力があるのだろうか。アルベドの手の甲には青緑の血管が浮きあがり、硬いゴムを引きさくような手つきで刃を動かしてゆく。大木を斧で伐採する要領である。叩きつけるように刃を肉に刺しこむ。内部の刃が横に滑るたび、粘り気のある音を立てる頸部の切れ目が広がった。左へ左へと、白髪の頭部は傾く。それなのに、三日月形の唇では安定した呼吸が繰り返されている。
 薪を割る勢いで中央の脊椎を折ってしまえば、白い頭部は、ほぼ一八〇度ぶらんと傾いた。薄皮一枚でつながったまま、反動で左肩に耳が三度ぶつかる。逆さまの顔が無邪気に笑っていた。
 彼の目線が白いものを追って地面に移る。アルベドの頭部が自身の重みで胴体から引き千切られ、落下した。「いてっ」アルベドが声をあげたと同時、鈍い音がした。
 草地に転がる、白い髪の頭部。心臓がある胴体の頸部は、雨にも負けない鮮血を噴いていた。それは倒れることなく突っ立ったまま、制服に付着した血や土を両手ではたいている。右手に握ったこてが体にごつごつとぶつかっていたが、胴体はさして気にしていないらしい。
「ふふ、怖いの?」
 マイペースな胴体を放置し、血だまりの横に転がった頭部は悠然と微笑んでいた。年輪のような切り口が見える頸部以外は汚れておらず、頭髪は純白を保っている。くるりと回転して彼を見つめる瞳は紅だ。空虚な移ろいを見せ、ルベドのものと似て非なる不気味な深みがあり、どこまでも冥暗がつきまとっている。
「僕の場合はね、もとある頭を潰すまで新しい頭は再生しないんだ。その間も体は自由に動かせるよ―まあ時々、頭を置いて勝手にどこかへ行っちゃうけど、仕方ないよね。そっちには目も耳もないんだから」
 頭部と胴体が一体であった数分前のアルベドと変わらぬ調子で、頭だけで転がっているアルベドは言った。頭部の言葉どおり、耳も目もない胴体は好き勝手に歩き回っている。不安定な重心でよろめきながら地面を踏みあらすさまは、彷徨う幽霊のようにも見える。本人は直進しているつもりなのか不明だが、それは狭い緑野の空間をふらふらと周回していた。
 手足の残る首なし胴体に、彼は怯えた。全身の毛が一本一本外へ逆立ち、ぴんと伸びた自慢の尾も普段の倍の太さになる。頭だけのアルベドは、そんな彼を、大丈夫だよ、と宥めた。
「君には触ったりしない。もしも君が死んじゃったら、ルベドが悲しむもの。君もルベドの大事なものだからね」
 横向きに転がった頭部のうしろで、枯木と衝突した胴体が方向転換をしている。
「いつの間にか、ルベドには大切なものが増えた。そうして僕には何もなくなった―ううん、多分、最初から僕には何もなかったんだ。がらんどう、ってこういうことかな」
 林の暗闇に消えいるような声で、頭だけのアルベドは虚ろな顔を見せた。無垢、純粋、それゆえの残酷さが消失し、無邪気さを前面に押しだした笑顔が次第に苦痛へと歪む。
「ずっと以前は、全部が二人だけのものだったのに、僕を置いてルベドは自分を広げていくんだ。僕、ルベドの読んだ本はどれも知ってるし、サクラより近くでルベドを見てきたよ。ずっと一緒にいて、ずっと同じことをしてきたのに、特別な存在はルベドのほうで、ルベドにとっての特別も、今はもう僕じゃなくてサクラなんだ」
 地面に近い目線にある彼の顔を、アルベドの頭は同じ高さで横向きに転がり、流血よりも紅い双眸で見つめる。
「ルベドはサクラを治したいって言うけど、サクラは病気なんかじゃあないよ。大体、きれいな世界にいるほうが、彼女にとってずっといいじゃない。嫌なものなんて、わざわざ見る必要ないじゃない。こっちに来たって、彼女には退屈なだけさ。ルベドがどんなに望んでも、きっとサクラはあっちを選ぶんじゃないかな。そうでないと、ルベドを忘れた僕が僕じゃなくなるように、サクラもサクラじゃなくなるよ」
 アルベドは白い睫毛で二度ほど瞬きをした。それから、自嘲と憐憫を塗りこんだ口元で、彼に微笑んだ。君にはわかるかい、とアルベドは問う。
「ルベドには、それがわからないんだ。僕のことも、サクラのことも、笑顔で手を引いて歩いていく。目が霞むほど眩しくて、握った手は痛いくらい強い―ルベドは前を向いてるから、気づかないんだ。僕はルベドのようにできちゃいないし、ルベドは僕のようにできちゃいないのに」
 頭部が憧憬と嫌悪を呟く間、首のない胴体は球のように頭部を転がしていた。ひと通り派手に噴出した血はとまり、頸部の中央から脊椎の一部が突きだしている他、首元から放射線状に飛びちった血痕が白と青の幾何学模様の制服を彩っている。そこから生えた両腕が、足元の頭部を拾いあげる。両手に抱えられた頭だけのアルベドは、胴体の首から上の何もない宙に向かい「僕ら、どうして違うんだろう」と問いかけた。
「僕がルベドを知っていても、ルベドが僕を知っていても、そんなことに何の意味もなかった。どれだけルベドに近づきたくても、僕はルベドのうしろから動けないよ。ルベドを追いかけて行けないよ。だって、ルベドは僕よりずっと足が速いし、それでいてつまらない寄り道ばかりだ。ルベドの世界じゃ、僕はもう、息もできない……」
 頭のアルベドが痛嘆すれば、無口かつ無表情の胴体は、頭部の口元を右手で覆った。
「ルベドに手を離されたら、僕は世界に独りぼっち。ルベドが生きてようと、死んでしまおうと、ずっと、僕はひとりだ」
 覆われた掌の中でこもった声が響く。やはり無言の胴体が、今度は右手の置き場を口から目に移動させた。薄く開いた唇を越え、まっすぐな鼻梁を滑り、紅い両目を塞いだ掌の横、喘ぐように唇が動く。
「ルベドの全部を忘れて、僕ごとなくなってしまえたら、きっと何もかも楽になれるだろうな。だけど、あのまま僕らがひとつだったら見えないものも確かにあった―それは確かに、今もあるんだ」
 指先の間から、落涙が見えた。アトリウムの天窓上を流れおちる雨粒も、遮断物がなければ下水処理施設ではなく、こうして大地へ還ってゆくのだろうか。物悲しい雨音は今も続いている。
 一滴のあと、アルベドの両手から頭部が落下した。重く鈍い音を立て、頭は再び草地に転がった。白い頭髪に黒い影が差し、アルベドが小さく声をあげて間髪を入れず、頭部はおびただしい血だまりを残して消失していた。それがあったはずの血痕の散る草地を、胴体の左足が踏み潰している。硬い靴には肉片も何も付着しておらず、爪先半分が土の表面にめりこんでいた。踏みこんだ左足は、靴の履き心地を正すように爪先で地面を叩き、アルベドの口は、
「僕ら、この頭と体みたいに切っても切っても切り離せないよ」
 と言った。彼が胴体を見上げると、アルベドの体には首と頭がついていた。新しいアルベドの両目は、赤も青も同量を放りこんだ紫の色をしている。風もないのに揺れた髪は、白を上乗せしている。
 彼への興味が尽きたのか、アルベドは枯木の根元に座りこみ、血糊が粘着した園芸用こてを地面に突きさした。もともと、アルベドは枯木の根元で何か作業をしていたのだし、アルベドにしてみれば彼の出現で中断していた作業を再開したにすぎないのだろう。
 アルベドの正面、苔が生えた枯木の根元―緑のはげた黒土の地面には、ちょっとした高さの隆起がある。真新しい土が丁寧に盛られており、その上に三本の枯れ枝が放射状に突きさしてある。杭のように打った下端とは異なり、枯れ枝の上端は三本を寄りそわせるように立てかけ、その交差部分を丈夫そうな蔓で結びつけてあるらしい。真上から見ると三角柱のような形をしているが、お世辞にも美しい飾りつけとは言いがたい、不恰好で奇妙な形のシンボルである。そのシンボル自体の意味を、彼は知らない。
 無言のアルベドは、シンボルのすぐ横の地面を掘っていた。ひどくなる雨音と土を掘る音が林を満たす中、彼とライラックの青紫の花々は孤独なアルベドを見守ることにした。
「何をしているの?」
 そこへ突然、少女の声が入ってきた。その声が言いおわるより早く、アルベドの顔がぐるりと回転する。炯々とした眼光には、紅い殺気が雷光のように走っていたが、声を発した少女は平然とした態度で緑野に立っている。
「―君、668?」宿した殺気を払拭し、アルベドが少々困惑する。
「違うわ。私、No.498よ」
 少年の容姿と酷似した少女は、無表情のまま首を振った。アカシアの花より薄い金髪、天窓越しに見る不確かな空の碧眼―そのカラーリングは、No.665までの男性体と同一のものである。男性体より多少しなやかな肢体の少女は、アルベドに対して一切の感情を見せない。隣にいる彼の存在も目に入っていないようである。
「そんなの、どっちでもいいよ」
 目元だけ安堵の表情を見せたあと、アルベドが498を見る目つきは、自分が踏みつけている雑草に対するものと同等になった。何の興味もないのだろう、視線を土に戻すと、再び黙々と穴を掘りはじめた。土を抉る湿った音が鳴り、掘り起こした土が近くの草地に無造作に投げすてられる。498はアルベドのうしろ姿をしばらく眺めていたが、石のように温度のない瞳を向けたまま、口を開いたので何かと思えば「ねえ、何してるの?」と、同じ質問を繰り返した。
「おまえには関係ない」
 アルベドは手を休めることも振りむくこともなく、冷淡な口調で言い放った。498のほうは、傷ついた様子も臆した様子もなく、立ちどまってから変わらぬ姿勢のまま、アルベドの傍にある土の盛りあがりを指差した。
「それは、何?」
「うるさいな、あっちに行けよ」
 またもや一喝され、498は口を噤むが、やはり表情に悲しみや悪びれた様子はない。特に言葉を発するでもなく、この場を離れる気もないらしい。林立する木々の一本のように直立不動で突っ立っている。アルベドは少女を存在しないものとし、地面の穴を掘り進めた。
 彼が体を丸めて入れるほどの穴が掘れた頃、アルベドは枯木の枝に手を伸ばし、似たような長さの梢を三本、躊躇なく折った。やむことのない春雨が、しんしんと閑寂な林間で静やかに音楽を奏でている。それを聞くでもないアルベドは、背後にいる498の気配を感じてか、手の内にある三本の枝を弄りながら口を開いた。
「ルベドに借りた本で読んだことあるんだ。人は死んだら、土の中に埋められるんだって。そのまま腐って土の養分になる方法と、燃やして灰だけ残る方法と、どっちがゼロになれるのかな」
「ゼロ―」無表情の498がオウム返しに首を傾げる。
「一粒の分子も残さずに、体積も質量も、何もかもまっさらに、もと通り、なくなりたい」
 アルベドは独り言のように呟いた。発せられた言葉が、真下の穴に落ちてゆく。幽冥な穴の底を見つめていたアルベドは、498と彼のほうに振りむくと、侮蔑と嘲弄を上塗りした顔で、ここにはいない者をせせら笑った。
「この世界に残された人間は、先に向こうへ逝った人を埋めた場所に自分の目印をつけて、何度も何度も確かめに来るのさ―そいつが存在したっていう証拠をね。墓って、そういうものでしょ。その人が確かに生きてた証だけど、見るたびに死んじゃったこと、思い知らされる。ずっと、ずうっと、忘れさせてくれないんだ―たった四千グラムぽっちの灰でさえ、捨てられないくらい。一生の呪いだよ」
 アルベドの目線は、自分が〝墓〟と呼んだものに向けられた。なるほど、これは墓標らしい。しかし、見れば見るほど無様で不恰好さが目立つ墓である。三本の枯れ枝を括る蔓には、点のように小さな棘が無数に生えている。枯木の根元に巻きつく野荊を摘んだのだろう。結われた枝は互いにもたれあい、その蔓に束縛されることで危ういバランスを保っていた。
 498は行進のように歩き、墓の前でうずくまって穴を眺めた。
「人は死んだら、地下に住むの?」
 498が問うと、アルベドは「違うよ、馬鹿だな」と鼻で笑った。
「死んだ体は使えない。壊れたドロイドみたいに、ちっとも動かないし、しゃべらなくなる。何か処置しないと腐るしね。おまえ、処分された標準体を見たことないの? 廃棄施設のあいつらみたいなものさ。すぐにおまえもそうなるよ」
 鬱陶しい羽虫でも相手にしているような態度で、アルベドは告げた。歪んだ口元が不快さを表している。498はぎこちない動作で、隣に立つアルベドを見上げた。不透明で感情がなく、容赦のない視線がアルベドを射抜く。
「壊れたなら、直せばいいわ」と、少女は言った。
「……直らないんだよ」
 アルベドは苛立っている。
「どうして?」
「もう、黙れよ!」
 悲鳴にも似たアルベドの怒声が、森閑とした林をわななかせるほど反響した。自棄の声は木立にぶつかり、地面に馴染む。音が見えなくなると、林は再び静まり返り、鬱屈する寂寥の感が戻った。498はわずかに目を見張り、その視線に晒されたアルベドの拳が、わなわなと震えはじめる。
「だめなんだ、ルベドもニグレドも直せないんだよ! 再生もしないって―ルベドが言ったんだ! 一度でも死んだら、もう二度と生き返らないって!」
 自分の内に蠢く様々な感情を統御できず、アルベドは頭を振り乱して喚いた。赤くなった頬を転がりおちる涙は穴の底に沈み、黒い地面をにじませた。左手の爪で右手に刻まれた赤い数字を力の限りかきむしるも、千切れて鮮血がにじんだ矢先、傷口は跡形もなく消えてゆく。唇を噛み切っても、舌で舐めたあとには治っている。しゃくりあげるアルベドは外見以上に幼く、彼のほうから頬を舐めて慰めてやりたくなるほど弱々しい。
「あなたも直せない?」
 目を見張る以外の変化はなく、アルベドの涙を眺めていた498は、それを気遣うこともせずに、自分の疑問を口にした。血の気の引いたアルベドの顔は憔悴している。青白い顔色をした虚ろな眼で498を視界に入れたアルベドは、その場にのろのろとうずくまり、袖口で何度も乱暴に涙を拭った。擦った目元が赤く、影になった瞳は蒼く、痛々しさが目につく。「……僕は違う」と、掠れ声でアルベドは呟いた。
「だって、僕は死なない。ルベドが死んでも、ニグレドが死んでも、僕は死ねない。動かなくなった二人の隣で、僕は毎日、眠って起きての繰り返し……何をすればいいの? 何もすることがない。一人で起きたとき、眠ってる二人を見たくない。だから、ここに埋めるんだ」
「ああ、それ、666と669のお墓なのね」
 納得する498に、アルベドは初めて痛みを堪えるように覇気なく微笑んだ。
「何度も練習してる―こんなことじゃ、何も変わらないけどね。僕の中の細胞一つ変わらない。怖くて怖くてたまらないよ……それが、ずっと続いてる。いっそ僕も生きたまま埋めてもらおうか。寒いし苦しいけど、息ができないのは今も同じだもの」
 自分の左胸に、アルベドは両手をあてた。ルベドのように精神を安定させ、呼吸を正すための行為かと思われたそれは、どうやら彼の思い違いであったらしい。アルベドは転がっていた移植こてを右手にとり、胸にあてた左手の五指を立て、刃先を胸に突きさした。左手の爪が制服に食いこみ、鈍色の刃を捻りながら布ごと肉を抉ってゆく。太いネジで硬い壁に穴を開けるような作業である。生首の笑顔が、彼の脳裏に蘇った。
 アルベドを横に見る彼の位置だと、胸の開き具合は大して見えないのが幸いであった。曝けだされた中身の筋肉や内臓も腕に隠れている。こての刃先が胸の奥へ沈むにつれ、押さえを失った血は内側から溢れだした。重い音を立てて地面に落ち、ねっとりとした液体が穴の底へ流れこむ。首を切る作業と似た粘着質な不快音は嫌でも耳に入るため、彼は気分を悪くした。
「その下、今は何が埋まってるの?」
 アルベドの奇怪な行動を凝視する498が、抑揚のない声で訊いた。碧眼に映る光景は異常なものであるはずだが、少女には微塵の動揺もなく、興味の対象はあくまで墓という物体にあるらしい。至近距離でアルベドの顔を覗きこむ間に、498の制服にも少量の血が飛びちっているが、少女の表情には以前、変化がない。
「僕の中の―誰にも聞かれちゃいけない、見られちゃいけないものだよ」
 アルベドの顔に、自嘲的な笑みが浮かぶ。ごとり、と移植こてが地面に落ちた。地面に掘った穴と同じように開いた胸の中央から、アルベドは拳大の臓器を繊細な手つきでとりだした。両の掌に乗せ、力強く脈打つ臓器を二人で見つめる。弾力性のある筋肉の塊に見えるそれは、アルベドの瞳より濃い赤紫色である。表面に蔦が這うように血管が駆け巡り、生々しい淡紅色の管が何本か生えている。絶え間なく収縮する内部からは、真っ赤な血が管を通って押しだされ、アルベドの掌から滝のように滴りつづけた。
「ライブラリのどこかに、『王様の耳はロバの耳』ってお話があったな」
 アルベドはそれを穴に入れた。無残に抉られたはずの胸元が、すでに傷のない肌に戻っている。拳大の穴の開いた制服と血痕だけが直らず、肌寒そうに見える。穴の中に置かれたあとも、アルベドの臓器は活動を続けているようであった。498は物珍しそうに収縮する臓器を見つめている。
 アルベドは掘りおこした土を両手で掬いあげ、臓器に被せはじめた。湿り気のある新鮮な土が、血の海に浸かっていまだ脈動する臓器を覆い隠してゆくさまを、彼は遠目から眺めた。アルベドの汚れた掌は、もう何で汚れているのやらわからない状態である。
「私には、埋めるものがない」
「おまえのことなんか知らないよ」
 こんもりと土で塞がれた穴を見た498が呟くと、アルベドは面倒臭そうに一応の返事をしてやった。被せた土の形を整えるアルベドを置いて、498が蹌踉として立ちあがる。相変わらず表情はなきに等しいが、何か決意を固めたように少女は一人頷いた。
「私はシトリンのお墓をつくろう―シトリンは怒るかもしれないけれど、あの子のお墓をつくろう―」
 抑揚のない口調で呟いた498は、林の出口に向かって歩きだした。整然とした歩調で草を鳴らし、緑野から木立の群れへ潜ってゆく。少女のうしろ姿が林の暗闇へと消える直前、「さようなら、アルベド」という声を彼は聞いたが、墓づくりに集中するアルベドは無反応であった。隆起する土を丁寧に整え、思いだしたように顔をあげたものの、
「あいつ……No.―忘れちゃった。まあ、どうでもいいや」そう零して思考は終わった。
 それから、アルベドは二つ目の墓の仕上げにとりかかった。枯木から折った三本の枝を、円を描くように等間隔に土へ突きさし、倒れないように枝同士を立てかける。枯木の根元に巻きつく野荊の蔓を引き千切り、無造作な手つきで括ってしまえば、隣の墓と同じく不恰好な墓標のできあがり。アルベドの顔に、小さな笑顔が灯った。
「僕の体、燃やしたらどうなるだろう―灰になれたらいいのにな。分子より細かな灰になってルベドの中で融解して、もとの一部になるんだ。僕のせいで、ルベドは咳がとまらなくなる。それって素敵なことだなあ」
 陶然とした表情を浮かべ、アルベドは心穏やかに微笑んだ。紫陽花のように色を変える瞳は、黄昏の空の色を見せている。普段は混和することのない夕陽の赤と宵闇の青が境界を失い、刹那の融合を果たす時間帯の色をしている。天藍の空のようなルベドの青も美しいが、真っ赤に焼けた夕焼けのようなアルベドの紫も、彼は気にいった。
 アルベドは完成した墓から一旦離れ、特に見事な花の房をもつ一本のライラックの下で屈むと、一輪の花に触れた。花は青く、中心から放射状に小さな羽根が何本も生えたような丸い形をしている。群れる多くの同種はまだ蕾のままで、開花したものはそれ一輪だけのようであった。青い花を摘み、振りむいたアルベドは、朗らかな調子で彼に話しかけた。
「これ、確か矢車草って名前の花だよ。サクラのいる森にも咲いていてね、ハーブティーに使うみたい。ルベドはその紅茶、おいしいって話してた」
 矢車草を鼻先に近づけ、アルベドは花の香りを嗅いだ。声の調子はどこか投げやりで、嘲笑うようにも聞こえる。
「この草、赤いバラと同じ色素を持ってるのに、こんなふうに青い花が咲くんだよ。単独では赤い色素も、複雑な金属錯体を形成することで青くできるんだってさ。その複合体をバラは自分で形成できない。こいつなんか、たった四個の金属イオンとフラボンだけで真っ青になれるのにって―これも、ルベドが話してた」
 瞬きを繰り返す紫の双眸は、純真無垢な幼い子供のものであるが、純真無垢と呼ぼうにも、この少年は物事を知りすぎている。「でも、僕は思うんだ」とアルベドは小首を傾げた。
「もとから赤いバラが、わざわざ青くなりたい、だなんて考えるのかな。青いバラが欲ほしいからって遺伝子を組み換えてつくっても、それって結局、バラの力では青くなれてない。サクラの裏庭には最初から青いバラが一年中咲いてるよ―あのバラだけが、本物の青だ」
 不自然なほど真白い髪が、雨天ながらも空から届くわずかな光に輝いている。青紫をした虹彩の中心がバイオレットの光源になり、危うく発光する。彼の瞳孔が眩しさに細まった。
 冷たい土の中に埋めたあの臓物は、すでに体内で再生しているのだろうか。彼は紫という曖昧に揺らめく光源を見上げた。アルベドの胸は規則的に上下し、正しく呼吸が行われている。アルベドの鼓動が土の中に埋められていると思うと、呼吸にまつわる活動に意味はなく、心音は単なる騒音と無駄でしかない。
「本物の青がある世界が偽物だなんて、僕には思えないな。ルベドだって言ったじゃないか―真実ほど残酷なものはないって。じゃあ、そこから逃げて何が悪いの」
 唇を尖らせ、アルベドはルベドを非難した。色を変える瞳のように、アルベドの心は転変する。研究一辺倒の施設職員より、この少年たちのほうがよほど不可解で、人というものに拘っている。不安定の釣りあいにいる関係は、誰か一人がわずかでも動いた時点で呆気なく崩壊し、二度ともとには戻らない。
 今はまだ、大丈夫。生温かい鼓動と声が、土の下から聞こえてくる。悪寒が走った彼は、恐怖を振り払うように全身を震わせた。静寂を保っていた林が突如、同時にざわめき、彼とアルベドは空を仰いだ。天窓の向こうを羽ばたく白い鳥の影が、その顔面をよぎってゆく。
「雨、やまないね」
 退屈そうなアルベドの声が鳥を追い、遠い雨空に昇った。