明滅する春と修羅 6-1


Timeline: One day of YURIEV Institute



 病棟からは、今日も旋律が聞こえる。明日を先延ばしにしたかのように、昨日となんら変化のないピアノの音色は、彼が昼下がりに病棟の庭園まで足を運ぶと、必ず聞こえる。病棟の一階フロアの開け放たれた窓を額に、グランドピアノを弾く少女の一枚絵を鑑賞できるようになったのは、幾月前からであったろうか。
 彼は尖った耳を澄ませる。赤い髪の主人はデータベースを漁った末、この曲がもともとは楽劇の前奏曲であることを調べあげると、開始二小節の不協和音について何やら小難しい理論まで捏ね回していた。
『一小節の中で、指の先端は鍵盤を三度弾きながら前進し、三度目には黒鍵にあたる。さながら樹木のように、まずあがり、そしてあがったところでしばし留まる。最後に心地良い影をつくりながら下へ広がってゆく。成長過程でさらに音の連続が聞こえ、これが噴きあがり、繁り、裂け、消えてゆくものを暗示する』―言葉の音が口と舌という器官によって運動の感覚と結びつき、それが言葉の意味と切り離せない関係を結んでいることと同様、音楽は楽器によって対話のように快感を刺激するものだ、と。感覚すべてがその運動に加勢するのだと、主人は語った。しかし、何度となくこの曲を傾聴しようとも、彼には樹木など見えはしない。賛美歌や古代の民謡も、シューマンの『子供の情景』も、ベートーヴェンの全三十二曲のピアノソナタも、ワーグナーの前奏曲も、単に異なる音の連続である。
 ピアノを弾く少女の表情を映したかのような抑揚のない音の粒は、雨の届かない屋内庭園で樹雨の代わりに地面を濡らす。アトリウムの外壁と天窓の向こうにある世界は、朝方から降りだした春雨に煙っていた。特殊ガラスの頂点付近で弾かれた雨粒が、ドーム型の天窓をてらてらと垂れおちてゆく。躓きのないピアノの旋律に、泡沫が天窓を打つかすかな雨音がうまく重なるたび、和音となって反響する。ルベドが説明したような完成された調和とは、こうした状態をもいうのだろうか。
『音楽も本に書かれた文字に似てる。楽譜に並ぶ記号一つ一つが、時代を越えて人と人との心をつないでるんだ。ここに存在するだけじゃ単なる紙でも、読むことや弾くこと、そうした鑑賞の疾走を通して、その時代に生きた人の記憶と、今ここにいる俺たちの記憶とが一つに結びあう、壮大で美しい結び目―これって、永遠の命とも言えるんじゃないかな。以前、U.M.N.を介した人体転送の実験が行われたらしいけど、そんなもので肉体を届けなくても、意思はこうして留まれるんだよ。大昔の人間は、それを知ってた』
 見事なものだ。外界の自然としっくり溶けあう諧調に、彼も思わず聴きいってしまう。自分の寝床につめこみ、何日もかけて型を作った毛布のように心地良い。
 初めて音ではなく旋律を鑑賞できた彼は、裏庭から追行している白髪の少年に視線を戻した。ペチュニアの花壇を横切るアルベドの両手は、泥とわずかな血痕で汚れているし、青白く疲弊した表情は、鉱山の洞穴の最深部からようやく脱出したかのごとき陰惨さである。裏庭で白髪に付着した青紫のライラックの花弁も鮮やかさを失い、いくらか萎れていた。
 蹌踉とした足どりのアルベドは、まるで廃墟の亡霊のように見える。どこか熱に浮かされた面持ちで、強力な磁力に引きよせられるかのように一点に注がれている視線も、何やら聞きとれない独り言を零している口元も、確立した自我を得られない、自己を定義づけられない、それゆえに空虚を満たす何かを必要とする標準体における、霧のように模糊とした情動の片鱗を窺わせる。
 それなのに、最大要因であるルベドときたら、こうした機微には彼より鈍感であるのだからいただけない。アルベドが自分の頭を銃で撃ちぬくまでは、すべて順調だと信じており、その反動から今は哀れなほど動揺している。今朝のように、彼のもとへ一人で食事を運んでくるたび、うずくまって嗚咽を殺しているのがその証拠である。以前であれば無理にでも始終、笑っていた。天秤上で共存する勇敢と臆病は、些細な事でも唐突に傾いてしまう。
 アルベドは整備された屋内庭園の石畳から低い垣根を越え、病棟の外壁の下、ピアノの部屋の窓際に敷きつめられた芝生に入った。晴天日に陽光をたっぷりと招きいれる吹きぬけの窓からは、部屋全体を見通すことができる。アルベドは、死骸のような目玉で室内を見つめた。ひどく不安定な呼吸は、あの脈動する赤黒い心臓を隠してしまったせいなのだろうか。もと通り小奇麗に身を包むネットワーク型形状記憶ポリマー製の制服の下、胸の中心に開いた穴もとうに閉塞しているのだとすれば、今のアルベドは一体どこの器官で呼吸しているのだろう。そうしたことは、彼には想像もできない。
 ペチュニアの花壇に身をひそめる彼の位置から、室内の様子を確認することはできないが、雨粒と合奏するピアノの旋律には、辿々しいハーモニカの和音が交じっていた。お世辞にも流麗とは言いがたい音色が重なり、ピアノと春雨にハーモニカが加わったアンサンブルとなる。稚拙な音色は、ピアノのオブリガード上で何度か転倒しながら、ぎこちない足どりで楽譜を辿る。正直、雨音の節奏のほうが上等であるため、ハーモニカは水面にできた雨の波紋を水浴びで散らす水鳥のように、少々騒がしい存在である。
「まあ上手ね、ルベド」早朝にも聞いたユリの声。繊細で柔らかな声音に、ハーモニカがわかりやすく幅広い和音で弾んだ。嬉しい、と明らかな言葉を聞くよりも素直な感情の音だ。
「たくさん練習してくれたのね、ありがとう」
 ルベドを労る声音には、上辺だけの賞賛や気遣いの虚偽は感じられない。対して、ルベドは返事だけでも精一杯のようで、普段の生意気な饒舌はどこへやら、せいぜい口ごもりつつ少女からの伝言を報告するなど、ユーモアの欠片もない退屈な単語しか捻出できていない。
「サクラ、良かったわね」と語りかける声を聞き、彼は瞼を閉じてみる。娘へと注がれるユリの慈愛に満ちた眼差しと微笑みは、その姿を見ずとも彼の目に浮かぶ。同時に、敏感な心臓を直に愛撫されているような面持ちで母子を見つめるルベドの表情も、瞼の裏に浮かぶ。ルベドたちは母親の顔を知らない。産まれた直後に家族と離された彼もまた、親の顔など覚えていない。だからこそ、羨望やら疎外やら希求やらで隠微に歪む主人の表情を、彼は彼なりに多少理解できる気がした。
 窓辺の芝生から室内を見つめていたアルベドの双眸が、楽しげなルベドの笑い声を聞くたび、水面のように揺れる。それは徐々に、直視できないほど醜悪で惨憺なものを間近で覗いてしまったかのように戸惑い、白い睫毛の下に薄っすらと苦悶の影をつくった。下顎を引きずりながら辛うじて目を逸らすが、その視線は最後まで窓向こうにある安穏な光景に未練を残していた。
 ゆるゆると窓枠下の白い外壁にもたれかかると、アルベドは瓦礫のようにくずおれ、窓枠の下で鉢植えのように小ぢんまりとうずくまり、限りなく忠実に楽譜をなぞるピアノの演奏に震えた。強弱・速度・アーティキュレーションはもちろんのこと、あらゆる奏法標語を正確に表現し、抑揚すら機械的な音の粒がアルベドに降り注ぐ。彼は少女の細い指先を思い浮かべた―さざ波のように流動する関節、白と黒を交互に弾く透明な爪、それ自体が別の生物であるような美しい十本の指を、和音に重ねる。音の雨に打たれながら、アルベドは折り曲げた脚の爪先で芝生を蹴った。芝生に不時着していたタンポポの綿毛が、ふわりと舞う。アルベドは芝生を蹴って蹴って蹴りまくった。それから、庭園の隅にたまる雨天の陰湿さを一身にまとい、雨に濡れた灰色の空を睨みあげた。鮮やかな入相の瞳を閉じてしまえば、病棟の外壁と混和しそうなほど白い。弱々しく開いた唇は、縋るように動く。
 るべど。
 直後、室内からキーの高い声が飛んだ。何らかの確信を含んだその一音は、アルベドが呟いた名の当人が発したものであった。足早に駆ける靴音が近づく。開け放たれた窓枠に子供の手がかかり、外界の雨で空濛とした宙に鮮やかな赤が舞った。鮮血のような頭髪が、白壁を背景にひと際の異彩を放つ。窓から身を乗りだしたルベドは、みすぼらしく縮こまる真下の白い影に向かい、
「見つけたぞ、アルベド」
 にっこりと笑った。不慣れなハーモニカよりも自信に満ち、安堵に沈着した声で呼ばれ、アルベドが悲愴な面持ちでルベドを見上げた。涙の跡が両手の泥で汚れ、ずいぶん情けない顔になっている。手の甲で頬を乱暴に擦るアルベドと、ルベドの視線が上下で絡みあい、彼にはよくわからない奇妙な間が空いた。
 ルベドが窓から手を伸ばし、その汚れた頬を拭ってやる。甘えを自覚し享受していた以前のアルベドであれば、ルベドの顔を見たとたんに臆面もなく泣きついていたものだが、今のアルベドは片割れの存在に遠慮なく抱きつこうとはしない。固く口を噤み、自分を見下ろすルベドを謗るような目つきで見返している。非難がましい視線を受け、ルベドは困ったような笑顔を見せると、水底で黙した貝を拾いあげるように、アルベドの髪で萎びているライラックの花弁を掬った。


 次第に強まる雨脚は、外界を模糊とした薄霧で覆っていた。灰と白の靄がインスティテュート内にまで侵入し、アトリウム全体の色を淡くしている。それに紛れるピアノの音色は、湿っぽく陰鬱な空気の重力により、人工ビオトープで整備された小川に落ちて流されてゆく。病棟前の芝生の端、施設の外壁脇の奥まった一角に設けられたガゼボから、二人は腫れぼったい暗雲とその内部で時々跳ねる稲妻を見上げていた。温室の用途を果たしているガゼボ内は、ドロイドに水を撒いてもらったばかりの植物から煙る草いきれが充満している。
「どこ行ってたんだよ」
 天窓の向こうにある曇天を見つめ、ルベドは雨粒のようにぽつりと零した。「朝食にも来ない、部屋にもいない―探したんだぜ」
「探した?」
 心からの気遣いをにじませた口調に、アルベドが眉をひそめる。曇ったガラスの壁に白い頭をあて、アルベドは困惑するルベドを斜に見上げた。
「僕に何か用なの?」
 曇りガラスにぼんやりと映る冷然とした笑みを受け、たじろいでしまった自分を恥じたのか、ルベドは負けん気の強い表情で咎めるように言った。
「おまえと会うのに、用がなくちゃだめなのかよ」
 アルベドの冷笑が瞬時にして消える。別に、と平坦な声で漏らしたアルベドは、妙にのっぺりとした顔でルベドを一瞥したあと、拗ねるように俯いた。
「だめなことなんて何もないけど。わざわざ歩いて探さなくても、念話すれば良いのに」
「何度も呼んだ」
「ああそう」
「……手、汚れてるぞ。服に血の痕も……」
 間を置いて、当たり障りのない優しげな音を選択したらしいルベドは、だらりと垂れたアルベドの両手をとると、さも自分のことであるかのように辛そうに表情を歪め、アルベドの掌をじっと見つめた。風に揺られるカーテンほどの受動性で沈黙するアルベドは、血液や臓腑のつまった生物ではなく、主に合わせて伸縮するだけの影のように見える。
「なあ、どうかしたのか? もしかして、その、また、あんなことを―」
「何でもない、何もないよ。ここってば、どこより安全なんだもの。どうにかなるはずないじゃない」
 心配から突いてでたルベドの言葉は、完全な形を成すことなく否定された。断然たるアルベドの返答に、ルベドが「まあな」と曖昧に微笑む。ガゼボ内で繁殖する物静かな植物の一部のようなアルベドと向かいあい、ルベドはこの状況で最も適切な言葉を探しているようであった。握られた両掌を見つめているアルベドと異なり、ルベドの青い眼はイラクサへ移動したり、野アザミへ反転したりと忙しない。
「ルベド」
 そうした調子であったから、アルベドが零した呟きにさえ、今のルベドは敏感に反応した。どうした、と弾かれたように顔をあげ、アルベドの両手をますます強く握りこむ。この兄弟は互いに名を呼ばれることで安心でもするのか、たったそれだけのことで、ルベドの口元と目尻からは安堵の色がじわりとにじみだしていた。
 そうしたなり損ないの笑顔も一瞬のこと、
「僕のこと、心配でもしたの?」
 素っ気ないアルベドの一言に、自分への信頼を示す言葉を期待していたルベドは落胆した。研究員相手には歳相応の幼稚さなど押し殺すくせ、アルベドを相手にするとルベドは自分の感情をコントロールできない―もっとも、彼が観察する限りでは、まず自制する気がないようにも見えるのだが。
「そりゃ、するに決まってんだろ」
 ルベドは苛立ちをこめた声音で、当然だ、とアルベドに念を押した。赤にも青にも変色する多面体のような紫の双眸がちらりとルベドを見やり、アルベドは、だけどさあ、と気だるげに零した。「そんなの誰かが忘れさせてくれたでしょ」
「え?」
 間の抜けた戸惑いの声が、温室内で跳ねる。何だって? ルベドにそう聞き返されるより早く、アルベドは握られた両手を鬱陶しそうに振り払った。完成された微笑みの表面には何の突起も見当たらず、どんな言葉も砂のように流れおちそうなほど平滑であった。アルベドの表面を固めていた盲信のようなものが、さらさらと崩れている。
「サクラといた間、ルベドは僕のことなんか忘れてたんじゃない? 君が一人でいることなんてないからさ。いつでも誰か傍にいて、それが僕でなくてもルベドは構わないんだ。君を満たすものなんて、僕以外にたくさんあるもんね」
「何だよ、それ……俺は、おまえのことを忘れたりしない」
 面食らったルベドは、ゆるゆるとかぶりを振りながら、そんなことあるもんか、と悲痛な面持ちで訴えた。気の毒なほど狼狽しており、困惑で脳内が煮えているだろうことは、彼にさえ容易に見てとれる。
「僕を探してたなんて、嘘つかないで。サクラのピアノを聴いてたくせに」
 確固たる歩みでアルベドが踏みこむと、ルベドは、違う、と否定しつつも大いにたじろいだ。もともと植物栽培に使用するような東屋である。兄弟三人での密談にさえ窮屈なため、ルベドが少しでも後退すると壁が背中を突き返した。だから、それはさ、と、うろたえながら理解を求める。
「俺、アルベドならあそこへ来ると思ったんだ。サクラがピアノを弾くところ、最初に見つけたのはアルベドだろ。それから、よくピアノを聴きに行ってるじゃねえか。現に今だって―」
「そんなの忘れちゃった。ずうっと前のことなんか、どうでもいいし」
 アルベドがすげなく肩を竦める。
「まだ一年も経っちゃいねえよ」
 ルベドは反論するが、彼のほうもアルベドの意見に賛成である。彼がこの施設に連れてこられた日からも、少女とピアノが運びこまれた日からも、季節は一周もしていないはずであるのに、もうずいぶん長い年月を過ごした気がしてならない。自分が赤ん坊の頃など、追憶に浸ることもないほど彼方の時空へ飛びさっていた。年若い彼はアルベドと同様、生涯の最果てまで旅をして再び肉体に呼び戻されたかのような孤独を経験しており、その間に瑞々しい精神はいくらか年老いたのである。
「今をすぎれば、全部が過去だよ」
 たっぷりと皮肉をこめ、アルベドは醒めた視線を投げかける。「一年なんて昔々の本にできる。僕はもう飽きちゃったよ。こっちのサクラは標準体と同じで、笑いもしないし、怒りもしない。毎日毎日、同じ曲を繰り返してばかり。この窓からの風景、昨日と今日で重ねてみれば? 僕たちみたいに少しのずれもないと思うよ」昨日も退屈、今日も退屈、きっと明日も退屈しかない。「よく飽きないね、サクラも―君も」
 緑の棘に覆われたイラクサの葉を、アルベドが邪魔臭そうに蹴り払う。直後、肉を打つ鈍い音がした。分厚いガラスにルベドの拳が押しあてられている。雨とともに降りつづけるピアノの旋律が、ガゼボの空間だけ一瞬ぐわりと歪むと、アルベドは震動する天井を見上げ、微弱な音波の余韻の中で眉根を寄せた。
「……何があったのか知らねえけど」低く押し殺した声が余韻に重なる。「サクラのこと、そんなふうに言うな。本気で怒るぞ」
 俯いたまま声を搾りだすルベドを見やり、アルベドは笑い声をあげた。もしも彼が笑える猫であるならば、アルベドに倣ってルベドを笑いとばしていたことだろう。なぜならば、アルベドの態度に露骨に動揺している今のルベドが、当のアルベドを冷静に〝本気で怒る〟ことなどできるはずがないのだから。大体にして、ルベドは前々からアルベドに対し、何やかやと怯えを抱いている。最初は単なる違和感でしかなかったそれらの輪郭が顕著になる中、それと相俟って急速な勢いで深まる二人の乖離をその身で感じているであろうに、そんな子供騙しの空疎な言葉が通じると思っているルベドが彼には滑稽でならない。
「そんなふうって、どんなふう? 君が認めたくない現実のこと? だって仕方ないよ、事実だもの。同じ時間に、同じピアノで、同じ顔したまま、同じ曲を同じように弾いてるだけ。僕らだって同じだけど、僕らの訓練には目的がある。譜面をなぞって時間を消費してるだけの彼女とは違う。決まった位置にある鍵盤を叩くより、ずっと難しいことしてるんだから」
 アルベドは真顔になり、今度は物分りの悪い老人を相手にするかのように辛抱強くルベドに訴えかけた。表情と口調に軽蔑と嘲弄の棘を含むものの、それ以上にルベドのためを思って言うのだという使命感と、どうして理解してくれないのだという苛立ちのほうが唇から漏出している。
 それに対し、ルベドは「比べるようなもんじゃないだろ」と、アルベドを諭した。おまえならわかるはずだよな、わかってくれるよな。ルベドは無垢な幼子を宥めるかのように、慈しみと煩わしさのこもった眼差しを向ける。「そりゃあ確かに、俺たちとサクラがしてることは違うけどさ、それぞれ大事なことなんだよ。あのピアノはサクラの健常な身体状態を維持するリハビリでもあるし、ユリさんにとっては親子のコミュニケーション方法でもある。任務を遂行するために必要な俺たちの演習と同じで、まあ、銃火器の訓練は戦争用だから気乗りしねえけど、その日が来たら―」
「どっちも所与されたことを反復するだけのことでしょ。それのどこが大事なの? いくら練習したって本番がなくちゃあ意味もないし、その日が来ることなんてあるの? そんな日が来てもいいの? それが終わった後はどうなるの……」
 身に余る不安を吐露しながら、アルベドは激しくかぶりを振った。青ざめた色より真っ白な顔が妙な具合に歪む。口を結ぼうとする唇が震える。両の目尻に瞬く間に涙がたまるも、零れることなく紫色を映し、朝焼けのようにたゆたっている。
「ばか、アルベド……」搾りだしたルベドの声は、水気なく乾涸びている。「そんなこと、言うなよ」
 アルベドの自発的な思考を、再び奥に押しこめるように嘆き、アルベドの体を優しく抱きしめたルベドは、それだけでは足りないのか、アルベドの頸部に自分の喉首を押しつけた。初めは地面に咲く可憐な花を踏んでしまわぬよう気を配っていたルベドの足元で、野アザミの花が潰れていた。アルベドからの抵抗はなく、抱きしめられたことにも気づいていないのかもしれない。ルベドの体温を感じているとも思えず、茫然とした表情の中で億劫そうに瞬く程度である。
「ねえ、ルベド」
 沈黙の上のピアノを邪魔しない程度の小声で、アルベドは囁いた。「こんなことしてたって何も変わらない。全部、何にも意味ないよ。サクラの病気は治らないし、それに、あの子、治りたいとも思ってない」
「……そんなこと」ない、とは完全に紡げない、ルベドの表情が雨空のように曇る。
「僕らとサクラは違うんだよ」
 アルベドは確固たる語気で告げる。「僕らはサクラの精神世界であの子と一緒に遊べるけど、サクラの中に入ったわけじゃない。あの子の中身なんて誰が知ってる? 僕らがあの子を理解することなんて、できないはずだ―なのに、どうしてそこまで構うのさ。君がそこまでする必要ないよ」
 朝霧の湖畔のように静謐な口調は、ルベドを謗るというよりも憂えるものであった。アルベドが淡々と言葉を紡ぐたび、ルベドの表情は追いつめられ強張ってゆき、とうとうアルベドの肩口へ頭を埋めてしまったルベドは、必要ならある、と一度言い淀み、制服がよれるほどの力でアルベドの背中を掴んだ。
「サクラは俺を必要としてくれた。おまえもニグレドも、これからつくられる命でさえ個人として認めてるし、受けいれてる。サクラは俺の世界を変えてくれたんだ。それなのに彼女だけが、あの精神世界で一人寂しい思いをしてる。ユリさんのことが大好きなのに、愛してるって伝えられない―そんなのって、悲しいだろ」
 そうだね、とアルベドは素直に返答した。潰れた野アザミを見つめる眼差しには、同情と不服がにじんでいるように見えた。だから何、とアルベドは続ける。赤毛がアルベドの胸までずり落ち、弱々しく服を掴んだ両手が冬の寒さにかじかむように震えた。
「あ―俺、サクラとユリさんのために何か返したいんだ。俺にできることなら何でも、どんな形でもいいから力になりたい。どうにかして助けたいんだ」
 語気は最後に近いほど、哀願のようになった。よからぬ諦念に支配されないよう自分を勇気づけるように、例え一時でも確信をもたせてくれる希望か何かに縋りたいのか、ルベドは同じような決意を何度も語る。「俺、サクラの病気を治したいんだ」
 アルベドは黙している。
「相手の全部は理解できないかもしれないさ。現にサクラやユリさんが悲しい顔をしてたって、俺にはどうすればいいかわからないし。それでも、わからなくても、俺にできることならなんだって―」
「僕らにできることなんてない」
 アルベドはかぶりを振った。「あげられるものだってない。何もない。だって僕ら、兵器なんでしょ。女の子を助ける力なんて、あるはずないよ」
 アルベドは毅然と言いきり、どうしてわからないの、という眼差しでルベドを見つめた。そうして、老成した表情を浮かべ、諦念を突きつける。
「それよりも、殺すほうが得意だ」
「―アルベド!」
 涼しい顔をした弟の両肩を引っ掴み、ルベドが怒りに震える。ほとんど悲鳴のような叫びに眉をひそめたアルベドは、ルベドの腕を振り払うと、潰れた野アザミを再び靴の裏で執拗に踏みつけた。
「本当のことじゃないか。なのに、君っていつも我慢してるんだ。自分を騙して笑ってる。僕は嘘なんか言わないよ。大事なものは決まってる、君のようにばらばらじゃない。自分のいちばん奥だって、いつでも覗けるよ」
「何を言ってんだ、アルベド―そんなこと、そんなことない。俺、嘘なんて吐いてない……だって、俺たちはサクラの話し相手になれるじゃねえか。サクラの声が聞こえるんだ。どんな人間よりも、大人よりも、俺たちのほうが先へ進めたんだ。ユリさんにもミズラヒ博士にも、親父にさえも無理だったのに、サクラと、彼女を閉じこめてる何かは、俺たちを選んだ。今まで誰もできなかったことを、俺たちは成しとげられるかもしれない。俺たちだって、戦争以外に役立つことがあるんだよ!」
 狼狽しつつも必死の形相で迫るルベドに、アルベドも驚きに目を見張ったが、すぐに醒めた表情に戻ると、そんなの嘘だ、と吐きすてた。
「ルベドだって、小説で読んだようなハッピーエンドになるなんて本当は思ってないでしょ? サクラは童話のお姫様よりずっと行動的で、ずっと賢明な女の子だよ。王子様がキスをくれるまで長々と眠りつづけるなんて怠惰な子じゃないし、片方の靴を持ってきてくれるまで待ってるほど消極的な子でもない。毒林檎も食べる前に気づいて悲しむような子だ。サクラは毎日、部屋の鳩時計で目覚めるし、綺麗な赤い靴を持ってるし、おいしいお菓子も自分で作れるもの。青いバラだって咲かせられる。行こうと思えば、どこへでも行ける」
 アルベドはひどく残念な様子で、苦しげに顔を歪めたルベドの頬を撫で、鼻と鼻とをくっつけると、ことさら優しく囁いた。
「それをしないのは、サクラの意志なんだ。サクラは最初から誰も待ってやいないし、助けてもらいたいんじゃない。僕らと出会うずっと前から、物語を終わらせる方法を考えてるだけなんだよ」
 ルベドは絶句していた。彼の知る限り、ルベドは聡くあるがゆえに臆病でもあり、無意識に逃げ道を用意している子供である。他者の機微に敏感すぎるため、自分が原因で発生する軋轢に対して非常に疎い。相手を信じて疑わぬことは思考の放棄でもあるところだが、そのため、ルベド以上の慧眼をもつアルベドの言葉は、ルベドが保留にしておきたい問題を突きつける厄介な礼状となる。そこに記された一文一文が破り捨てたい現実であり、真実であり、ゆえにルベドはそれを読もうとしない。アルベドは無垢ではないが純粋であり、本人の意思とは関係なく真実を引きよせる質だろう。頭の中では、なぜ、どうして、の疑問符が渦巻き、そこに妥協がないため理解へといたれない。そのため、人間らしくありたいと切に願うルベドの言動などまったくもって不可解であり、ルベドに共感できない自分にも、自分を満たしてくれないルベドにも、どうしようもなく歯痒さを覚えている。二人の会話は、どうしてわからないのだ、と交互に言いあっているようなものである。
 違う、とルベドは戸惑いがちに否定した。泣きだしそうな声になっている。幼子のように何度も嫌々をし、違う、違う、と体を震わせる。やがて、過換気症候群の症状をきたし、盛大に咳きこんだ。
「違わない」
 アルベドは冷徹に言い放ち、右手でルベドを突きとばした。「ねえ、ルベド、そんなに昔のことが大事? サクラのきれいな思い出になりたい? これからのこと考えないの? 考えないようにしてるの」
 ルベドの体はいとも簡単に揺らぎ、壁のガラスに頭部をぶつけた。ぐったりと俯いた当人は何の声もあげず、壁にもたれかかり憔悴した面持ちで再び咳きこむ。
「なんで……何で、そんなこと言うんだよ?」
 嗄れ声で喘いだルベドの目の下には、薄っすらと隈ができている。それを一瞥したアルベドは嘆息を漏らし、重苦しい空気が充満したガゼボの外に出た。蕭々たる空気がアルベドの白髪を濡らし、金糸のようにきらめかせる。外界の雨音は両肩に弾かれ、イラクサの葉を跳ね回った。
 人気がなくとも普段は燦々と陽光が浸透している庭園であるのに、今は鬱屈な空気で暗澹としている事実が、彼の気を少々侘しくした。唯一の賑やかさといえば、こぞって咲き誇る花くらいのもの。ガーベラの花壇をせっせと整えるドロイドも孤独だろうが、その感情をドロイドは知らない。
 湿る鼻先で外界の雨を追い、彼は天を仰いだ。天窓越しの溟濛とした遠景から察するに、湿度も相当上昇しているのだろう。よくよく目を凝らせば、灰色の曇天から柔らかな午後の薄日が斜に射しこんでいる。その一条の淡い光に絡まる蛇のように、山間で蠢く遠雷の閃光は徐々に施設の天頂へ近づいていた。無音の雷光が幾何学的な線で黒い雲を裂き、数秒後に音速の雷鳴が天井を駆けぬける。刹那の光の連続で天が明らむ。禍々しくも雄々しくもある稲妻には、集束点が見当たらず、延々と長い尾を持つ龍のように雲の狭間をうねっていた。畏怖するほど凛然とした閃光。惑星ザバロフの地で、彼が初めて目にする雷であった。