Menschliches, Allzumenschliches 3. RUBEDO


Timeline: After EP3 ending





「クーカイ・ファウンデーションのことならご心配なく!」
 小惑星が漂う真っ暗な宇宙を、幾多の苦難を乗り越えてきた船、エルザが泳いでいた。
 中のブリッジに浮かんだホログラフィックモニターの一つに、少し貫禄のついた懐かしい顔ぶれの男達が互いを押しのけながら映っている。われもわれもと興奮した表情でこちらへ喋ってくるその姿に、思わず笑いが込み上げた。
「ヘルマー代表からご連絡があったと思いますが、これまでは第二ミルチアからの援助で食わせてもらっていました!」
「――でも!復興作業も終わってますし、これからは俺達で何とかしますから!」
 そもそも、ミルチア紛争の戦後処理によって特殊財団として第二ミルチア自治政府とクーカイ・ファウンデーションは分離したが、実情として両者はひとつの組織だったのだからと、ヘルマーは当然の如くファウンデーションに残った人々を支援しているようだ。拠点であった戦艦デュランダルは失われ、代表理事という頭を失っても、コロニーではまだ多くの人々がその地を離れることなく力強く生きている。
 U.M.N.の消滅した今、流石に娯楽観光産業ではやっていけないだろうが、あの宙域には惑星も多数点在しているし、コロニーには数多くの技術者や能力者もいる。
 ――大丈夫だ、きっと。
「ウチの嫁さん、昨日ガキを産んだんすよ。男だったから――“ガイナン”て名前をつけたんす」
「バカッ、お前!ガイナン様は――」
 ヘルマーが大体の経緯や状況を前もって説明してくれていたのだろう。最後に見た時は子供だったはずなのに、今では随分と立派に成長したエンジニアの一人が言ったその名前に、周囲は叱咤の声を飛ばす。
「す、すいやせん!けど、俺はお二人のことをずっと尊敬してて――今でもそれは変わりません。だから、俺の子にもお二人のように育って欲しくて、そう名付けたんす」
 瞳を輝かせて未来の希望を語るその若い男が、とても眩しく映る。
「あの、俺達、学もないしアレですけど、ここの人間だってことはスッゲー誇りに思ってるんです!」
「皆さんが守ってきたファウンデーション、何度でも甦らせますよ」
 彼らの自分への心遣い、故郷を愛する思い――それが胸を締め付けて、苦しいほど嬉しかった。
「だから――ちび様。安心して旅を続けてください」
 帰る術がなかったとはいえ、代表理事という役目を放り出して、お前達を見捨てた俺を許してくれるのか。
 壊滅状態となったデュランダルの中には、彼らの身内や友人もいたはずだ。
 その人々を守ることのできなかった今でも――笑って送り出してくれるのか。
「――クーカイ・ファウンデーションは、俺とガイナンの二人だけで創り上げたものじゃない。それこそヘルマーや政府、ヴェクター――様々な方面から助力を得て形になった。そこから、俺の後ろの姉妹、デュランダルのクルー、エルザ――コロニーに集まったお前達のような多くの人々。その一人一人の力が、ファウンデーションという骨組みに血の通った肉をつけていったんだ」
 あの14年間、俺は本当に楽しかった――。
「ありがとう、みんな。ファウンデーションのことは任せたぜ」


 コロニーの面々が映るモニターが縮小したかと思うと、今度は左上で待機していたそれが中央へ移動してきた。
「ふふ、通信ネットワークだけですけど、広域で使えるようになったことを伝えたら、皆さん口を揃えてJr.さんと話をさせてくれって」
 その画面の中には、まるで本当の親子であるかのような、ユリさんとジギー、そして二人の間で桜色の髪を揺らして笑うレアリエンの少女――モモがいた。
「皆さん、お元気そうで良かった――モモ、嬉しいです!」
「みんな、本当に久しぶり!こっちは光に近い速度で航行てるから時差が少し心配だったけど、変わりないわね」
 駆け寄ってきたシオンや船長達が、三人と再会を喜び合うのを見ながら、その問題を考えた。
 そう、光速航行するエルザと通常航行の曙光では、時間の流れが違う。そして目指すロスト・エルサレムも同様だ。現時点ではさほど感じないが、時が経つにつれて曙光のメンバーは俺達より早いスピードで老いていくだろう。モモやジギーは見た目が変わらずとも、ユリさんは――。
 それをわかっていて、俺は残らなかった。

 出航前は正直、迷っていた。
 モモは既にスキエンティアと協力して、新たな広域ネットワークの構築を始めている。母親のもとで少しでも長い時間を、かつ“誰かの役に立ちたい”と願う彼女にそれを薦めたのは俺だが、自分の身の振り方にはどうしても納得がつかなかった。
 サクラとの約束、ケイオスとの約束――どちらも俺には大切だった。
そんな折、曙光の格納庫で思案していた俺に、ユリさんとジギーが声をかけてきた。
『ルベド。私はあの子の妹を、娘を今度こそ守ります』
 彼女がモモを受け入れたことで、昔のような笑顔が戻ったのを嬉しく思う。
『そして、私がいなくなった後も、彼が――』
 彼女はそう言って、後ろの男へ目線を移す。
 わかっていた。
 彼女の笑顔も今の娘の笑顔も、ガキのままの姿をした俺ではなく、この経験豊富な大人の男が与えたものだと――。
 悔しさがないと言えば嘘になる。が、同時に“こいつになら任せられる”と信頼を寄せられる相手でもある。
『Jr.。人間というものは、行動を約束することはできても、感情は約束できない』
『“自己欺瞞なしで、永遠の愛を誓う人間は、愛情の見せかけを永遠に約束するものだ”――か。言ってくれるな、おっさん』
 相変わらずのしかめっ面で言ってくる人生の先輩に、少し笑えた。
『お前がやるべきことをしろ』
『あの子の言葉は、貴方を縛るためにあってはいけないわ』
 ――人が子供を持つのは、たとえ自分は死んでも、子供たちが生涯、自分の感情や考えを持ち続けてくれるからだという。目の前の二人は、その子供を自分よりも先に亡くし、それでもなお生き続け、新たな出会いを果たした母親と父親。
 子供を知らない俺には、どうやっても敵わない。
『約束を枷にして、檻の外へ出ようとしなかったのは俺自身さ。鍵なんて初めから掛かっていないのに』
 そう、本当のサクラはいつだって、俺の背中を押してくれていた。
 俺は、“約束”を言い訳にして逃げてきたんだ。自分で選択して、生きることから――。
『俺、行くよ。おっさん、モモとユリさんのこと、頼んだぜ』
『任せておけ。安心して行ってこい』

「Jr.さん、背が伸びました?声も――三度くらい声域が変わったみたい」
「ん?ああ――成長期だからな」
 モモの問いかけで我に返ると、何気なく答える。
 不死を伴わない不老、不老を伴わない不死――その両方が合わさったからといって、完全な不老不死になるわけではない。おそらく、完成された肉体を保持した段階でそれ以上の変化、すなわち老化は発生しないだろうが、損傷に対する回復力はルベドだった頃のそれと大差ないために、“寿命”による死は訪れない、という程度だろう。
「そうやでぇ、モモちゃん!ちび様は、これからめっちゃ男前になる予定や。そのうちウチらも“ちび様”って呼ばれへんようになるかもなぁ」
「おいおい、男前はこのトニー様だけで十分だろう!」
「メリィったら。ちび様は小さくても手を焼きますのに、これ以上大きくなられては困ります」
「そうっすよ!」
「まったくだ!ちび旦那ときたら――」
 ここぞとばかりに、エルザのメンバーから苦情が出てきた。やたらと騒がしくなった船内を見回してくすくすと本当に楽しそうに笑っていたモモが、俺を見て静かに言う。
「Jr.さん、スキエンティアの皆さんの技術力って、本当に凄いんですよ。こうして新ネットワークの構築が予想以上のペースで進んでいるのも、そのお陰で、――だから、モモのことは心配しないでくださいね。モモはここでママやジギーと、Jr.さん達の帰りを、ずっと待っていますから――」
 いつかの俺が惹かれた少女によく似た、けれど彼女とは確かに違う、愛くるしいレアリエンの少女。その琥珀色の瞳には、以前は知らなかった“女”の色が見え、少し驚いた。
「行ってらっしゃい」
「――ああ」
 モモには、未来がある。ユリさんやジギーに守られて、たくさんの人に愛されて――本当の恋をするかもしれない。成長するかもしれない。家庭を持つかもしれない。
 幸せになれ、モモ――。


 曙光を出てから、エルザの時間で約3年――。
 通常航行の曙光と亜光速航行のエルザでは、既に相対性理論による“ウラシマ効果”が現れていた。向こうでは約5年が経過し、通信のあったヘルマーのいる第二ミルチアやファウンデーションは、重力があり静止しているために、宇宙空間に比べてさらに時間の進みを変化させていた。まあ、光速に近い速度で移動したほうが歳を取らないのは細胞もしくは原子レベルでの老化の速さが遅れたということであって、時間が遅れるということではなく、物理でいう時間は遅れるかもしれないが、時態は遅れないのだが――当事者にとってはそうとしか感じられない。
 ヴィルヘルムの消失によって解き放たれたウ・ドゥの力はグノーシスを活性化させた。グノーシスが巻き起こしたこの宇宙の消失現象は、星間統合国家の全領域に対して、その80%という膨大な規模の宙域を消失――つまり、崩壊させた。ツァラトゥストラ暴走後、わずか数分の内に、約40万の惑星とそこに住む人々が、この宇宙から完全に消滅したのだ。
 プランクスケールまで縮小して封印されていたロスト・エルサレムも、その消失からは逃れられないが、この惑星は星団連邦とは別の銀河に属しているため、含まれないだろう。このまま、下位領域を消去するフェイルセイフの影響が広がり続けてロスト・エルサレムに届くより先に、俺達がそこへ到達する。
 断片的にロストはしているものの、Y資料のほとんどの内容はリカバリーできている。とはいえ、約束の地がこの銀河のどこにあるのかも未だ判らずじまいで、俺達は移民船団の足跡を逆戻りしながら情報を集めていた。幸い、こちらの銀河でもまだ人類が生活を営んでおり、通常航行での惑星間交流もあるのが救いだった。俺達のいた銀河ほど技術は進んでいないが、言葉が通じることも多く、食料や水、燃料もそう変わらない。
 モモ達からの通信はスキエンティアが独自の技術で作り上げたネットワークを利用したβ版のものらしく、シオンとアレンが構造を詳しく聞いていた。次の通信は、またしばらく先になるだろう。
 ラウンジで固形の夕飯を食べた後は、地下のガンルームで現在の進行状況と次の目的地、それぞれが新たに仕入れた情報などを話し合う。
 ハカセ達の手によって増設されたこの薄暗い部屋は、モニター下にある電源を入れると、部屋全体がホログラフィックの宇宙空間になる仕組みだ。宙域を移動するたびにその星団図に設定し、モニターの映像も使う。完成度が高く、生身で宇宙へ放り出されたような気分になる。
「ちび旦那。次の目的地ってのは――?」
 見張り当番のアレン以外のメンバーが揃うと、船長がホログラフの星々を見渡しながら訊ねた。
「惑星グリーゼ581c、移民船団が11番目に辿り着いた星だ。――シェリィ、例の図を」
 そう言うと彼女は、慣れた様子でモニターの方に仮想銀河系図を表示した。その図の部分部分を指差しながら、この銀河について説明する。
「この銀河系は、直径およそ10万光年、約2千億個の恒星と星間物質が集まってできているらしい。現時点ではロスト・エルサレム――呼び名は他にもあるが、位置を知っている者には出会えていない。ただ、“太陽系”という一つの恒星を中心にした惑星系の中に存在するのは確かだ。現在もその名で呼ばれているかはわからないが――」


 話し合いが終わると、いつものように船長・トニー・ハマーからエルザの操縦や機能の使い方についてレクチャーを受け、ラウンジのカウンターでくつろいでいた。
「いやぁ、まったく!Jr.君の博識ぶりには驚かされるよ。シェリィさんやメリィさんも何でもできちゃうしさぁ」
 隣でドロイドのアドニスに酒をついでもらったアレンが、既に酔っているのか上機嫌でこちらへ話し掛けてくる。適当に話に相槌を打っていると、
「でも、何でエルザの操縦まで教えてもらってるんだい?」
 半分寝た目で聞いてきた。
 ――ロスト・エルサレムが存在する銀河に飛ばされたのは幸運だった。歴史を持つ人類がそこにいたのも幸運だった。だがそれでも、光速航行したところで銀河の端から端までは10万年かかるのだ。その中で、場所も未だはっきりしない惑星を探す――辿り着いた時に、全員が生き残っている可能性は、限りなく低い。

 今、エルザにいるメンバーは皆、老いていく人間だ。
 俺は彼らを看取ることになるかもしれない。
 メリィとシェリィが同行を申出た時、俺は当然の如く反対した。
 曙光に残ってモモ達の手助けをして欲しかった――そうすれば、二人の妹が死ぬ時を、俺は見なくてすむからだ。
 なのに、二人は笑顔でこう言った。
『アカンて言うても、ウチらの気持ちは変わらんで!――ガイナン様から、ちび様のこと頼まれてるんやから』
『ちび様、私達を最後までお供させて下さい』
 あいつの名を出されると、強く叱れない。
『ロスト・エルサレムに辿り着くまで、どれだけの年月を要するかわからない。俺は、行かなくちゃならない――その理由は分かるだろう?けど、お前らは違う。あいつも――あいつだって、そんなことは望まない、はずだ』
 俺に、お前達まで看取れというのか――。
 深い海のような、穏やかな眼差しが俺を見つめている。
『ちび様、笑ってぇな――ちび様は、ウチのヒーローやねん。初めて会ったあの時から、ずっとずっと――ウチの方が背ぇ大きくなってもうた今も、おばあちゃんになっても、その背中、追っかけたいねん』
『お二人に救って頂いたあの時から、私達の心は決まっております。――お力にならせてください』
 そんなことはない、救われていたのは――俺の方だ。
 傍にいてくれと言いたいのは、本当は俺。
『――その歳になって、まだ子守が必要だとはな。あんまり世話、焼かすなよ?』
『はい!』
『いい子だ』

 最後には、寿命のない俺だけがこの船に残っているかもしれないのだ――。
 ファウンデーションの人々、ヘルマー、ユリさん――彼らとの再会は、おそらく叶わないだろう。
 そしてモモも、俺の歳を越えていくだろう。
 それでも、彼らの意思を継いだ未来の子供達が生きる世界を、俺達は守らなくてはいけない。
 答えにつまり黙り込んでいると、アレンはグラスを持ったまま、カウンターに突っ伏して寝入ってしまったらしい。時計を見れば、深夜の時刻。アドニスの手を借りて彼をなんとか男性キャビンまで運ぶ。
酒を飲んでも寝付けなくて、キャビンを出てトニーと見張りを交代してもらうと、メインスクリーンに広がる暗闇を眺めていた。


 ルベドとして、Jr.として生きてきた27年は、一体何だったのか――?
 あの男を失ってから、その不安に押し潰されるのを恐れて、他のことで頭を埋めようとしていた。片っ端から資料を引っ張り出して、それらと起こった事実とを照らし合わせる。ヴィルヘルムが求めたもの、親父が目指したもの――それを知ることで、奴等の最終的な計画を阻止した自分を、肯定したかった。
 俺のしてきたことは意味のあることだった――そう、思いたかった。
だが、事の根本へと向かうにつれて、それは無意味なことだったと思い知らされる結果となった。
 キャビンから持ち出した、1冊の痛みが激しい本を見る。ファウンデーションにいた頃、オークションで落札してから、忙しさでエルザに忘れていたその本の表紙には、今、俺達が目指している母なる青い惑星が輝いている。ロスト・エルサレムを探す上で、偶然にも大いに役立っている本だが、自分用に買ったものではなかった。
 インスティテュートで見つけた一冊の本。二人の弟はそれを気に入り、「いつか三人で行けたらいいね」などと、叶うはずもない夢を冗談で言っていた。
 ファウンデーションの激務に追われる弟に、あの時の懐かしい本でも見せて息抜きでもさせてやるかと、“サザビーズ”のモニターを見ていた、何も知らない自分。

「“神に問う。信頼は罪なりや。果たして、無垢の信頼心は、罪の源泉なりや”――」
 知らずそう呟いた自分に気づき、救えねぇな、と笑おうとした。そのはずなのに、込み上げてくるのは可笑しさではなく、心臓を抉り取られるような痛みを伴った切なさばかりで――思わず右胸を抑えた。
 絶えず鼓動の聴こえるそこは、静かに震え、その存在を主張した。
 たとえに憎みあっても、傷つけあっても――ただひとつ何かが断ち切れず、細く細く引き伸ばされて天と地を危うく結びつけていたその糸は、一度切れたかと思っていた。
 それなのに可哀相な末弟は、その糸を二度と千切れないようキツク結びつけ、自分は地獄へと落ちていったのだ。

 俺は、何も知らなかった。
 何もわかっていなかった――俺だけが。

“嫌だよルベド!離さないで!”
 時計の針は戻せても、時は逆戻りなどしない。
 あの日、ウ・ドゥと対峙する前夜――怖がる弟を宥めていた。
 不安も恐怖もなかった。
 訓練通りにやれば、問題はない――そう信じて、あの白い箱庭へ戻れない可能性など、微塵も考えていなかった。
 それよりも、サクラが死んだという事実の方が、よっぽど信じられなかった。
 そうして――俺は罪を犯した。
 姿は変わらずとも、血で薄汚れたただの臆病な男に成り下がった。
 優しい安穏の中で失うことを恐れ、一歩引いたところから“Jr.”を演じていた。
 自分自身に嘘を吐き続けている、その仮面の姿が本当の自分なのだと、そう思い込むほどに時が流れた頃に、俺はモモ達と出会い――。
 14年前に別れた弟と、最悪の形で再会を果たした。
“俺達が愚かなのは道具だからじゃない――男だからさ”
 そうだな、兵器はこんなに弱くない。
 独りではない――そんなことはわかっていたはずなのに、世界中で自分一人になってしまったような気がしてならなかった。
 自分の傷にばかり敏感で、幼いままの外見と同じように、弟に甘えていた。
 26年も連れ添ってきた。コイツのことなら、何でも自分が一番知っている――根拠のない自負で、真実を見ようとしなかった。
 俺は罪を背負って生きている――そんな自己欺瞞で自分を保っていた。
 同じ思いを抱いて苦悩していた男に、どれだけの重荷を背負わせてきただろう。

 ガイナン――いや、ニグレド。
 ルベドだった俺は、お前やアルベドと三人で遊ぶのが、大好きだったぜ。
 研究員の奴等に悪戯してみたり、一冊の本を囲んで読んだり、楽しかったな。
 最初で最後の恋もした――サクラ、君のことを考えるだけで俺は、胸のドキドキが止まらなかったよ。
 小さな楽園は壊れてしまったけど、新しい家族ができたんだったな。
 デュランダルのクルーほど、最高のクルーはいないよ。百式もエンジニアも、いつだって期待以上の働きだったぜ。
 無愛想だし文句も色々言われたけど、何かと助けてくれたよな、カナン。
 ジンさん、アンタは本当に大人だよ。俺はとてもじゃないが敵わない。
 めちゃくちゃなとこもあったけど、強くて頼りになる女だぜ、コスモス。
 シトリン――こんなこと言ったらお前は怒るだろうけど、兄として、妹のお前を守ってやりたかった――本当に。
 俺さ、宇宙を救うなんて大義名分で、本当は自分のために、ケイオス達の意識が眠る地へ行くんだと思う。
 みんなに守られて生かされた命、無駄には終わらせたくない――そんな自分のエゴなんだ。
 気づくのが遅すぎたけど――俺は、ずっと幸せだった。
 幸せだったんだ、とても。
 たくさんの優しい人達に助けられて、愛する人達に愛されていた――今だってそうだ。
 でも、ニグレド――お前は――お前はどうだった?
 俺といて、幸せだったか――?
 あれだけの時間、傍にいながら――お前は、俺じゃなくて自分を殺し続けていたのか。

 抱きしめて、張り裂けそうな思いを伝えたい時に限って、その相手はもういない。
「お前もだぜ、アルベド」
 未だに寝こけたままで、自分を包み込むような気配と鼓動を感じさせるだけの半身に、俺は胸を突きながら文句をつけた。
 闇ばかりが広がる宇宙を見て、雨が降ればいいのに――と思った。
 泣けない自分の代わりに、大粒の涙を流して欲しい。

 仲間を裏切ったあの日から、瞼を閉じれば白い楽園が蘇っていた。
 サクラがいて、アルベドがいて、ニグレドがいた、あの頃――。
 どこまでも続く青い空、吹き抜ける風、それに揺られる緑の草木、たまに見かける真っ青な鳥。この世界にたった一軒しかない家。日陰のポーチには木製のブランコがあって、庭にはたくさんの花が咲いている。玄関のドアを開ければ、透き通った音のベルが鳴る。
 もう二度と帰ることはなく、決して戻ることのないものだからこそ、眩しく輝き続ける美しい情景。
 それと同じように、見えるものが今はある。
 たくさんのクルーがいた真っ赤な戦艦、活気ある人々で賑わうコロニー。
 艦長席でメリィと漫才をして、みんなを笑わせた。木製の調度品が並び、紙の匂いがする部屋で、ビリヤードをしていた。カジノで大負けしたところをクルー達に助けられた。
 ガイナンがいて、メリィがいて、シェリィがいた、明るいビーチ――。
 その日々が輝きを増して息づくほど、永遠に手の届かない過去へと消え去ってしまったのだと知るのだ。

 ロスト・エルサレムには、ミクタムにあった多くのグノーシス化した意識が眠っている。
 ケイオスやジンさんの意識がそこに存在しているのだとしたら、消えていったニグレドやカナンも――と僅かな可能性を求めてしまう。ただ、その意識がどんな形で実数領域に姿を現すのか見当もつかないし、虚数領域から出てこない可能性もある。
 ロスト・エルサレムで鍵を見つけ、本当にすべてが終わって、“Jr.”でもない、ただのつまらない男になったら、そのとき俺は――。
 約束の地に眠る奇跡に、俺のすべてを賭けてみたい。

“また、三人で遊ぼう――”
 待ってろよ、ニグレド。


 結局、寝ずじまいで朝の時間になった。
 プシュッと扉の開く音がしても、振り向く気がしない。
「うわっ!?ち、ちび旦那、顔怖いっすよ~」
 俺の顔を覗き込んできたハマーが、勝手に驚いて後ずさった。
「悪ぃ」
 人に見せる顔じゃなかったと反省して彼と交代すると、目を擦りながらラウンジへと入る。
 女性陣が食器を片しながら忙しなく動き回っているカウンターで、リンゴの入った皿が目に入り、何気なくそれを手にとってそのままかじった。
 そのまま最後の一口を運ぶ頃になって、シオンが俺に気づく。
「あっ、Jr.君!それは朝食じゃなくて、後でみんなにアップルパイを作ろうと取っておいたのに――ああ、食べちゃったぁ」
 すべてのリンゴが俺の胃袋に飲み込まれ、彼女は残念そうに肩を落とした。こういう状況でも、料理や何やらで場を明るくしてくれる彼女達には、頭が下がる。
 すると、隣に来たアレンに小声で咎められた。
「ダメだよ、Jr.君。シオンが食べるの禁止って言ってたのに、聞いてなかったの?」
「ははっ。“知恵の実”じゃあるまいし、んなビクビクするなよ」
怒ると怖いんだよぉ、と情けない声を出すアレンを無視して、ふと思う。

 “知恵の実”――それは人の原罪。愚かな人間であるが故に、苦しみながら生きていく。
 No.666から突然出現したU.R.T.V.の変異体――俺達もまた、その実を食べて、あの楽園に生まれた。
 俺の愚かさは、あまりに人間的で――、多くの過ちを犯してきた。
 それでも俺は、
「それを食ったこと、後悔してねぇから」
 頷くかのように、俺の心臓からアイツの鼓動が、確かに聴こえた。


 君のいない道の上に立っている――。
 さあ、進もう。
 俺はまだ、生きているのだから。