最下層


Timeline: After the EP3 ending



 毎度の悪夢で目覚める。低音の空調だけが地鳴る、消灯した真夜中のキャビンは薄暗い。脳の覚醒と反比例するかのように夢の内容はフィルターを重ねて奥に埋まり、やがて記憶の彼方に霧散する。
『肉体は死なず、精神の負う恐怖だけを積み重ねてゆくとしたら、もはや世界は、永遠の牢獄でしかない』
 頭蓋には言葉の断片がいくつもこびりついている。作家の言葉か、それとも―思い出せない。何か足りない。大事なことを忘れたことすら忘れてしまった気がする。何もかも覚えていた頃は忘れてしまえば楽だと思っていたが、忘れたとたんに自分を定義づけるものまで失ったようで不安になる。落ちつかない。今ではもう、時計の秒針が時間を刻むたび、一つの物事を忘れる。考えごともしない。俺は空っぽで、頭には藁がつまっている。
 ベッドから這いだすと、室内灯が点く。部屋の姿見が無残に打ちわられていた。ちょうど自分の心臓を中心に、微細なひびが張り巡らされている。それは鏡全体を覆い、ひび割れた欠片一つ一つにいびつな自分の顔が映っている。気味が悪い。
 いいさ、自分一人しかいない船で、見てくれを気にする必要もない。髭くらいは剃るが。
 服を着替え、顔を洗い、髭を剃り、歯を磨く。日課を特に意味もなくこなすが、時間は一向に進まない。今日がいつなのか、年月を数えることにも飽きた。読む本も残っていない。食欲も性欲もない。まともに機能する欲といえば睡眠くらいのもので、それすらも暇潰しのようなもの。
 ブリッジに移動すると、何もない真っ暗な大海原が俺を出迎えてくれる。散らばる星の配置は常に変化しているのだが、今見える恒星の名前一つ知らない俺にとって、赤や白、青、オレンジと多少色味が異なろうとも、どれも過去の光でしかない。小惑星帯を手動で航行するほうがいくらかましだろう。稀に流星群を目撃すると、雨のようできれいだと思う。もうずいぶんと他の宇宙船や有人の惑星に出くわしていない。保存食もだいぶ前に底を尽き、とある惑星の輪から仕入れた氷のみが俺の体内を循環している。最後に言葉を話した日が、何百年も昔のことのように感じられる。事実そうなのかもしれない。年月の感覚などすでにない。
 目的地って、まだ遠いのか? 愚かしい疑問が脳を漂流する。何をするため、そこへ向かっている? ひどく重大な役目があったように思う。それなのに思い出せない。もしかすると目的などないのかもしれない。どうして俺は一人、こんなところを航海しているのだろう。こうして永遠に航海を続けることに意味があるのか、ないのか。わからない。仕方ないので続ける。
 最近ときたら、もう退屈の極みだ。誰かいないのかと、声の限りに叫びたい。そんな気力はないが。助けてくれと縋りたい。救われたい理由など思い出せないが。
 紅茶を飲みたいが茶葉もないので、マグに水を注ぐ。シンクの内側に〝One Hundred〟という単語。何のことかわからないが、こうした文字が、そこかしこに彫られている。相対性理論より素っ気ない数式まで。
 どうにもおかしいとは思うのだ。戸棚にある十人分の食器一式や、必要ない女性用キャビン、抹消された人員記録。ひたすら沈黙を守るドロイドたち。地下格納庫に安置された九つの棺は開かないし、どうにもおかしなことは多いのだ。その不可解な部分を収集して調べようとしたとたん、ひどい頭痛に見舞われる。あまりの苦痛に悶絶し、昏倒すると、ドロイドが俺の体をベッドまで運び、再び悪夢で目覚める。そういうことなので、最近は諦めている。
 注いだ水の表面を眺めると、円の中に一人の男の姿がある。薄気味悪いほど疲憊し、憔悴し、衰弱している。脱穀後の小麦のように萎びた赤毛と、生臭い下水のように混濁した青い眼が、ぐるぐると渦を巻いている。吐き気に襲われる。気色悪い。
 俺の内部にあるものは空洞、そして静寂。底なしの穴。重要な器官を抜かれ、空白を持て余している。
 寒気がしたので振りむくと、ドロイドたちが無言でこちらを見つめていた。船の支配者は沈黙で、瓶底のような目玉は何も語らない。
 水滴がひと粒、水面へ落ちた。渦巻く波紋。俺はたちまち顔のない男になる。水を飲むと、空の胃が痛む。感覚で残るものは苦痛だけなのだから、苦痛が快楽であり、歓喜であり、悲哀であり、安楽であり、愛なのだろう。




 沈黙に問う。

 俺は何も思い出せない。それでいいのか。

 沈黙。

 俺は何も知らない。それでいいよな。

 沈黙。

 俺はそれを肯定とする。