親愛なる君へ 7


Timeline: EP2, after meeting Albedo in Local Matter Shift



「そんな言い方しないで、ルベドは素敵な男の子だよ」
 はあ? 何ほざいてやがる。誰だか知らねえが、気休めはやめろ。気色悪い。
「あなたが覚えている限りの私が知っているあなたに、そう言ったわ。今もこう言ってほしいのでしょう?」
 無音の暗闇で自分以外の声が聞こえる。硬く丸めた背中に、ひたりと冷たいものがあたる。浸透する熱が、電流のように体を震わせた。柔らかな温もりに包まれる。大樹のイメージが浮かぶ。黒い幹から伸びる枝に、ほとんど純白の薄紅を咲かせる美しい樹だ。雪のように花弁を散らす大樹の木陰にいるようだった。
「あなたが死んでも、死んでしまった人たちには会えないわ。私たちが存在する証は、今を生きているあなたなの。ねえ、あなたが私たちを生かしているのよ、ルベド」
 大樹は言った。人が他者との関係性をつくることで比較を目的とした自我に目覚めるとすれば、その他者と深く関わるほど自分の存在は濃くなり、自分を知る者がいなくなれば、自身の中にある〝わたし〟という認識も〝あなた〟という区別も、彼らの記憶の分だけ薄まると、どこかで読んだ覚えがある。瞼の有無は関係なく虚無しか映さない視界で、黄金色が揺れた。
 離れる体温に思考より早く体が追う。振りむく。突如として吹き荒んだ突風に、思わず両腕で顔を覆う。何も見えぬまま立ちあがると、踏みしめた靴裏に地面があった。草が足元をくすぐる感触。そこから漂う草いきれ。
 局所事象変移内に残存するものなど俺くらいのものなのに、一体どういうことだ。熟考する間もなく一陣の風は去った。両手をおろして前を見据える。そこにあるものは、懐かしさに胸がつまるひとつの風景だった。
 夕陽に照らされた黄金色のライ麦畑が、さわさわと初秋の涼風に揺られている。ビロードのようになびく高い麦の穂―暗闇で揺れた黄金色はこれか、と納得した。その黄金をかき分けるようにして細い小道が続く。俺は途上にいた。自分の背丈よりも高い麦の穂に囲まれ、北の方角に目を凝らす。遠方には女の子が人形遊びで使うような家が建ち、黄昏の秋空の下で円熟した花たちが咲き誇っている。まるで神が七日間で創造した天地のように完璧で、絵画よりも美しく、宇宙よりも寂しい世界。それが、俺が知る限りの君の世界だ。
「こんにちは、ルベド」
 ライ麦畑の中から君の声がする。「向こうのあなた、調子はどう? 私はとても忙しいわ。晩夏はいつもこう、秋は二度目の花の月だし」君の姿は黄金色の波に隠れて見えない。かさかさと乾いた音を立てる穂の奥で、一人分の影が踊るようにして歩いていた。「寂しくなった花壇の一角に何を植えようか、ずっと考えているの。コレオプシスはもちろんだけど、モリナもいいわ。アスチルベが一番と決まっていても、春のためにはドロニクムだって―アンクーサ・オフィキナリスなんてどうかしら? メロカリスを植えても見栄えがする。そうだわ、庭の土をふかふかにしたら森へ行って葡萄も収穫しないと」君はチャペックのような園芸家ぶりを発揮し、小鳥がさえずるように花の名前を羅列した。俺は君の影を追い、ライ麦畑に飛びこんだ。
 私ね、と君の影が言う。「空より土が好きなの。自分が踏みつけているものを見つめるほうが好き。でも、ルベドは違うよね。いつも挑むようにして、空の向こうを睨みあげるのよ」声を追う、影を追う。耳元で穂と穂の擦れる音がうるさく鳴り、何度か腕を葉で切った。俺は君の名を呼んだ。君は答えず、ライ麦畑の中を泳いでいる。黄金色の波が流れてゆく。「私の中のルベドは、そういう男の子なの。自分が見たくないものから目を背けることを許さない人。自分の世界で好きなものだけ並べている私に、塞げない耳と瞼のない眼をくれた人」溺れるほどの黄金の洪水に、目を細める。君の影は穂と穂の合間を縫い、まるで人魚のような優雅さで畑を泳ぐ。黒い土を踏みしめる赤い靴が見えた。風船のように膨らんだ白い裳、そこから伸びた手足はしなやかで、真夏に萌える緑のような瞳が黄金色の水面から俺を見つめていた。
「サクラ」
 今ここに君がいる。その姿は悪夢にも残像にもない熱と質感を俺に与えた。局所事象変移内の幻覚だとは到底思えないほどの存在感が、今の君にはある。
 夕暮れの風が二人の間を吹きぬけ、白波のように揺らめく穂の先から斜陽の光が射しこむ。眩しさに目を細めると光に草いきれが混じり、まだ蒸し暑さを残した初秋の黄昏に首筋が汗ばんだ。
 微笑みを浮かべ、「泣いているかと思ったわ」と君は言った。泣きたいよ。俺がそう答えると君の微笑みはいっそう深くなり、零れおちそうな緑の瞳に映る自分が、君の奥へ消えた。
「知ってる」
 君が言う。何を、と訊けば、君は当然のように答えた―あなたを、と。
「あなたの中にいたから」 
「俺の中だって?」 
「ついて来て」君は言い、ワルツの申し出でも受けるように白い手を差しだした。君の手は薄く、陽向の土の匂いがする。銃器の使用やA.G.W.S.の操縦によって分厚くなった俺の掌の中で、その手は昔よりも小さく感じられた。同一空間で別の時間が交錯する感覚は、俺の認識する現実を薄れさせ、闇から遠ざけてゆく。君と手をつないでも、子供の頃のような胸の高鳴りは聞こえない。この心臓はいまだ冷たいまま、正確かつ淡々と己の役目に従事している。十四年の歳月は、子供の火照りを冷ますのに十分な猶予だった。 
 青と赤が溶けあう空を見上げ、孤独な世界の息吹を感じる。ちっぽけな俺たちの姿は背の高いライ麦の穂に隠され、右前方に伸びてつながった二人で一つの大きな影を追うように風の音が流れてゆく。夕陽に赤く染められた亜麻色の髪を見つめるだけで、君と過ごした一度だけの夏の終わりを痛感した。
「ここにいる私から、ルベドにコネクションをつなぐこともできたわ。あなたと仲間たちが私のママと会った日の事件よ―あのとき、私の妹の深層領域に残された私の内的世界を介することで、ルベドと会える状態になったの。覚えてる?」
「君の記憶を構造モデルとしたモモの深層領域―俺たちが潜った精神世界のことか」
 第二ミルチアでのY資料の解析作業中、アルベドがモモに仕掛けたトラップが発動し、Y資料が外部へ流出しはじめるトラブルが発生した。モモは即座に神経回路を断ち、資料の流出を防ごうとしたが、同時に自らの精神も崩壊させてしまい、一命をとりとめたものの、神経ネットワークに多大なダメージを受けてしまっていた。モモの精神を内側から復元するプランを急遽編成し、モモの精神世界へエンセフェロン・ダイブしたはいいが、ここでも俺がアルベドの二重トラップに引っかかり、奴の筋書き通りY資料は流出してしまった。Y資料流出だけなら打つ手はあるが、モモの精神までも完全に壊れてしまうことだけは避けたかった。実際、その最悪の事態になるはずだった。
「サクラがモモを救ってくれたのか」
 そうして、君は再び自らを犠牲に? 俺がアルベドの挑発に乗らなければ、モモも君も救えたのか? 俺は一度ならず二度までも、君を死に追いやったのか! 愕然とする俺の手を引き、振りむいた君は、かぶりを振った。
「いいえ、私はあの子の精神が壊れてしまう前に、私の内的世界をY資料の流出経路に設定しただけよ。それは私の自由意志で、あの子のせいでもあなたのせいでもない」
「そんな、そんなことをしたら、サクラ―君の存在は無事じゃ済まないだろ。資料の流出現象にのみこまれて、モモの中にある内的世界とともに消えてしまう―」思考の困惑を言葉で吐きだし、はたと気づく。そう、君の世界は拡散したのだ。流出するY資料に壁面を傷つけられ、剥がれおちる油絵の具のように外界へと洗い流され、そこに器を持たない意識の深層は存在を維持できるはずもなく、消滅した。「だったら、この世界は一体どこに存在する領域なんだ? 未練たらしい俺の願望なのか? 単なる悪夢か? サクラ、君は誰だ?」 
 頭の糸が絡まりあって解けない。ここにある君の存在は何だ? わからない。ここがどこであるのかも、本当の君が何者なのかも、どうして俺に対して微笑みかけてくれるのかも、わからない。
「願望じゃないけれど、あなたの意識による影響はあるわ。あなたがあなたとして高濃度であるとき、記憶を再構築する想像力は同じ円をぐるぐる回るの」
 君は指先でくるくると描いて見せた。黄金色の海を抜けると、イラクサの野原に建つ瀟洒な家に辿りつく。君の家、すなわち世界の中心だ。アネモネ、ペチュニア、ロベリア、カンパニュラ、アリッサム、プリムラ、ジプソフィラ、アンテナリア、サギーナ、ケルレリア、ケシ、ヴェロニカ―もう秋だというのに春や夏の花が咲き誇る、奇妙に美しい君の庭。見渡す限り隅々まで丹念に手入れされ、使いこまれた銀のジョウロやシャベルが常備されている。玄関前には懐かしい木製ブランコ。窓の内側で見慣れたレースのカーテンも揺れている。
「ようこそ、ここは心に消えゆく影の世界」
 入口の柵に手をかけ、君が振りむく。主人の声を聞いた柵に絡みつく蔦は、水滴を弾かせて久し振りの客を歓迎した。
「アルベドの深層領域に潜在する、私の内的世界よ」
 モナリザのように深く薄く微笑む君の言葉にまたたく。君と庭の花たちに見つめられ、混乱する頭を抱えた。普段の癖で手荒く髪をかき回す俺のうろたえぶりに君はくすりと笑ったが、それに照れるどころではない。どういうことだ、アルベドだと?
「つまりここは、あいつが記憶している君の世界なのか? エンセフェロン・ダイブや他の経由もなしに、直接そんなことが―体ひとつ意識ひとつで他者の深層領域に潜れるなんて聞いたことねえよ。どれほど希求しても、実行する技術がなければ個人の根源的な感情でしかない……第一、アルベドは死んだ!」
「ええ、本物じゃないわ」憂いを帯びた瞳と諦観した口調で君は言った。他でもない君に対して乱暴に叫んでしまった自分の軽率さを恥じ、口を噤む。
「この世界はアルベドの意識が焼きついた影のようなものなの。太陽が二つ出現したにも等しいルベドの波動とアルベドの波動―その衝突によって高密度化した強烈な炎熱エネルギーがアルベドを融解して、収束する局所事象変移の空間に焼きつけた、その影でしかないの」
 眩暈がした。足元がおぼつかない。後ずさると尻が柵にあたった。影、影―実体ではない影の世界?
 君は俺の手を握り直すと、今にも枝を伸ばし溢れだすように萌える緑の瞳で、俺の深淵まで覗きこんだ。「自分の影を切り離すことはできない。アルベドの影を写しとって私を呼んだのは、あなたよ」
 あなたなのよ、ルベド。あなたが望んだから、と君は言う。俺が望んだから? 繰り返せば力強く首肯される。目の前にある現実は、俺が望んだから。そう確認するとしっくりと納得できた。この世界が自分を受けいれてくれるような気がした。
 己の記憶の精巧さに自信はないが、アルベドの記憶にある世界は、俺が認識していた君の世界のディティールとほぼ同じだ。海がある方角も、ライ麦畑のヘクタール数も、黄昏時の微妙な空の濃淡も、庭に咲く花の種類も、彼女という存在も―おまえも俺と同じ世界を見ていたのか、アルベド。同じものを美しいと感じていたのか。おまえの思考を教えてほしい。こうして世界を記録するまで、おまえが何を思い、何を考えていたのか。おまえとサクラがどのような波長を交わしたのか。この世界がおまえの意識下ならば、当のおまえはどこにいる? 違うな、おまえはもういない。今あるものは残像だから、正答という赦しを欲しても手遅れだ。死者は憎んでもくれない。それは、例え俺が望んだとしても叶わない。
「あなたが望んだから、私はここへ来たの。私は私の世界がある領域へ行き来できる―そう言ったら、信じる?」
 鳥肌が立つほどきれいな笑みに背筋が寒くなる。死者の国に迷いこんだような気分で鼻先に届く甘い吐息を振り払い、情けなくも困惑に震えた。呼吸の証でもある唾を飲みこみ、乾いた唇を舐める。
「君は、生きているのか?」
 最低な質問だ。それでも、訊かずにはいられなくて口にしたが、すぐに後悔することとなった。何か言ってくれ。いいや、何も言わないでくれ。俺が望む答えなど事実にない。ひどい自己満足で、宗教のように君を利用している。君はまっすぐ俺を見つめた。君の中に映る自分と目が合う。滑稽な面だ。つないだ手と手が汗ばんでいる。見守るように静寂を保つ花たちが憎い。
 振られた首は、真横に二度きり。いいえ、と。
「私は十四年前に死んでいるわ。あなたは理解したはずよ、ルベド」
 君の口調に迷いはない。言葉に嘘はない。その通り、君の死は客観的な妥当性もある歴史の一部だ。君は死んだ。俺の腕の中と、中庭の地面で死んだ。今ここにいる君は、アルベドの記憶が構築した君と俺の知る君との合致があるからで、重複した領域における君の濃さが君を認識しているだけのことだ。
「……理解はしたさ」
 君と俺との間には、十四年の歳月がごろりと横たわっている。外見は互いに変化がなくとも、大人を知らない君と子供に戻れない俺の距離は遠ざかるばかりで近づくことなどあり得ない。君にルベドと呼ばれていた頃の俺は、もうどこにもいやしない。生者と死者の峡谷は越えられない。「わかっていても、ずっと君に謝りたいと思っていた。あの日、サクラを傷つけたこと、それ以前も―」喉奥で声が震える。視線は君の微笑みから離せない。十四年間で沈積した懺悔は、赦しを請いたいわけではなく、自分が楽になりたいわけでもなく、絞首台に立ちつくしたままでは終われないという未練のためだった。「俺はどうしようもなく無知で、サクラの思いの露ほども汲みとれない、まるでわかっちゃいないガキだった。もしも、サクラの死が他ならぬ俺のせいであるなら、俺は……」
「私、ルベドに救われたことはあっても、傷つけられたことはないわ」
「そうじゃない! だって、サクラは病気が治ることなんて望んじゃいなかったろ! サクラ、君の本当の望みは―」
 声を荒らげた唇に、細い人差し指が立てられた。しぃ、と呼吸で俺を窘める君を見つめる。体中で渦巻いた感情の混迷が凛と伸ばした指に吸いこまれてゆくと、卑屈を増長する後悔やら理解しあえない歯痒さやら不条理に対する憤怒やら、そうした余計な感情が剥がれおち、至極シンプルな原始的感情のみが残される。
「サクラ、俺は君と生きたかった。それだけの言葉で俺を赦してくれ、なんて馬鹿げてると思うけど、さ」
 ともに生きていきたいと思った。できることなら、誰一人欠くことなく。十四年前にいた全員が仲良く生活している姿など想像できないが、それが叶うのであれば他に何もいらない。他に大切なものなんて何もなかった。自分がそうであるように、すべてを天秤にかけてでも選ばれる存在でありたかった。死神にさえ勝利したい。俺と苦痛を共有してくれ。俺と地獄へ堕ちてくれ。君がいれば狂っていられる。結局はそうしたエゴイスティックな自分の欲求でしかないのだが。
 夏空の入道雲、君と一緒に凧を揚げた思い出が脳裏に浮かぶ。あの三角の凧は、永遠に飛びつづけるものだと思っていた。
 君は困ったように笑い、私もよ、と言った。「私もそう、アルベドもそうね」
 軽く手を引かれ、家のポーチにあがる。足元に視線を落とすと、目玉のような木目に睨まれた。ひとしきり空を泳いだ凧は、緩やかな速度でヒースの荒野に落下した。それは破り捨てられた国旗のように縮こまり、二度目を揚げることはなかった。
「君たちは、俺を置き去りに死ぬことを選んだ。俺は地獄に遺された」
 選ばれた者に対する、選ばれなかった者の醜い嫉妬だ。すべての生物に平等に用意された結末である死を敵視しても仕方ない。永遠の命を生きるように不毛すぎる。庭の花々に嘲笑われている気がした。
「本当ね、自分のことがわかっていても、これからどうなるのかなんて、何にもわからないのね―正気でも、狂気でも」
 ブランコに腰かけた君はオフィーリアのように美しく、まるで狂った彼女の歌声のようにブランコが鳴った。聞いて、と君は言う。「私は死ぬことを選んだわけじゃない。私の愛する人たちが生きる世界を選んだの」
 夕陽に照らされた君の笑顔が目映い。黄昏は、真昼の太陽よりも真夜中の満月よりも輝きを放つ。オレンジ色の睫毛が揺れる、少女のままの姿をした君は、ユニコーンを従えるほどの純潔を守っているのだろうか。いいや、もの狂いのオフィーリアのように、世界の経過を辿った末での潔白があるのではないか。君が俺の内部にいたというのであれば、俺が犯した罪業や俺自身の醜悪さに触れてきたであろうし、その回想で登場する無邪気な少女である君自身にも向きあわなければならなかったろう。他人の認識で存在する自分を見せつけられることは、外にいる俺よりも苦痛や嫌悪を強いられる境遇だ。何せ君には、訂正を要求する術さえなかったのだから。ひどく申し訳ない気持ちになる。俺のせいだと思う、この悔恨でさえ君の負担になるだろうか。
「座って」君に促され、ほとんど倒れこむようにしてブランコに腰をおろした。まともに西日があたる位置は、当時の俺の特等席だった。この瞬間も太陽の赤らみが青白い空を覆いつつある。俺と君に外見の変化はないのだから、昔の二人と偽ることもできるかもしれないが、同じブランコの同じ位置に並んで座っていても、俺たちの距離は君の創造した太陽より遠い。視覚の尾ひれに影を植えつけるほど強烈なオレンジが、ひどく目に染みた。
 この世界では時間の感覚が皆無になる。西の空はいつまでも赤く、この一瞬を途方もなく感じる。ブランコを揺らす赤い靴を見つめながら、君は探るような声音で言った。
「向こうの私が外界を認識していたこと、ルベドは知っていたのよね」
 俺は首肯した。君の内的世界は、当然ながら君の主観的認識で構築されている。「サクラはユリさんがくれた貝殻の宝石箱のことを知っていた。現実世界で俺がサクラに贈った花を、上等な花瓶に生けてくれていた。君はちゃんとユリさんのことも俺のことも見てくれていたよ。それに、この家の風景からしてサクラが家族と住んでいた頃の思い出だろ」
 俺の言葉を聞いた君が、嬉しそうに顔を綻ばせたものだから、頬が火照るまではいかずとも俺は動揺した。そうよ、と君は言い、大きくブランコを揺らした。俺たちの足は宙に浮き、世界が回る。
「ここはきれいな思い出の世界―ルベドがいた暗闇と同じで、私が見たくないものは何もない」黄昏色の睫毛を震わせ、君はうわごとのように言葉を紡いだ。「ママが一人で泣いていたことも、パパが一人で苦しんでいたことも、とても悲しいこと。私のためにルベドがハーモニカを吹いてくれたり、花や本を贈ってくれたりしたことは、とても嬉しいこと。楽しいことは大好き、喜びに踊りたくなるわ。苦しいことは嫌よね、心が痛むもの。だから、ママの涙やパパの咳、二人の言い争い、見つからない治療法、副作用のある薬、点滴、注射、消毒の匂い―そうした嫌なものは全部、水槽へ流してしまう。ハーモニカの音色は宝石箱の中、きれいな花は庭に植えて、ハッピーエンドの童話は本棚に並べるの。お菓子を焼いて、紅茶を淹れて、ティータイムの支度をしなくちゃ。バラの世話も、ピアノの練習も欠かせない。ああ、今日の服はどうかしら? 胸が躍るわ、なぜってルベドが来てくれるから。毎日、ポストに届く贈りものが楽しみだったのよ」
 遠くで回る風車を眺めながら、君はぽつりぽつりと雨粒のように語った。雨音は心地良く、「お礼、言いそびれてたね」と振りむいた瞳と目が合い、ありがとう、と紡ぐ唇を見つめていると、穏やかな幸福を感じた。
 こうして孤立した世界にいると、自分の罪悪も含めた一般的な道徳観念が薄れてゆく。エンセフェロンの疑似体験と似たようなもので、現実のあらゆる制約をとり払われた解放感から傲慢さが頭をもたげ、善悪の境界が限りなく曖昧なものとなる。
「始まりは、ただ外の世界が怖かっただけ」
 君は言う。表面上は中枢神経系の器質障害、病名は〝U.M.N.の共時性に対する感受性過敏〟―心のマスキングを知らない君の強すぎる感受性は、小さな体に収まりきらなかったのだ。診断の通り、内面を表出させる脳の回路網が切断されているのは事実だし、電位パルスの制御が不安定なのも確かな診断だが、それが先天的なものだとは思えない。君の症状は、病気と括ってしまうには、あまりに多感で瑞々しく、解けない糸よりも複雑なものだ。
「わからないの。当たり前にある物事の矛盾や、人と人との関係性において絡みあう感情の坩堝―出口のない迷路よ。私たちは心に覆いをすることを自分で許せる生きもので、神様を信じて、魂があると考えてる。形のない意識の中枢にあるものが天国や地獄に導かれることで、人は原罪から逃れられるの? 誰も見たいものしか見ようとしない。信じたいものしか信じない。その黙殺は理解からほど遠い。私にはわからない。カフカを読んだ日のように、不条理が重なりあって辿りつく変えようのない未来を知ったときから、何もわからなくなったの……自分のことも、全部」自分の胸に両手をあて、君は苦しげに語る。その苦痛を、その孤独を、俺は見たい。理解したい。「私が私を定義できなくて、遂には〝わたし〟を保てなくなった。私という認識ができなくて、確固とした自分のもとに選択することもできない―そうしたらね、いつの間にかここにいたの」
 君は我が子を慈しむように、俺たち二人をとり囲む世界を眺めた。その眼差しは、ユリさんが君を見つめるそれと酷似している。果てのない空、広がるライ麦畑、腰折れ屋根の家、回りつづける風車、白い砂浜の海、望むまで枯れない花々―おおよそ思いつく美しさのすべてがつめこまれた、壮麗な風景画。ゴッホが再現した青と黄色のコントラスト。そこへ筆でシャガールの赤を入れたような色合い。君の世界は宇宙のどこよりも美しい。その世界の住人である君は、モネの描いた日傘を差すカミーユのようで、逆光とヴェールに遮蔽された瞬間的な印象性が君の面影だけを残すのだ。
「そうして私はここで生きてきた。今いるこの世界を否定することは、私自身を否定することと同じ。きれいなものだけ並べた世界が、今の夕陽のように真っ赤な嘘だとしても、それすら含めて私という世界なの」
 この世界にいる限り、君が望むものは何でも手に入るし、必要ないもの―つまり、君が否定したものは初めから存在しない。研究機関でしか生成できなかった幻の青いバラでさえ、主である君が望むのならば、赤いバラは鮮やかな青を咲かせる。枯れることを悲しめば、そのバラは永遠に咲きつづける。飢えることもなく、下賎な金も必要としない。幼い少女が人形遊びに興じるように、ただ戯れに、何かを作っては壊すような飯事の日々。
 存在するはずのない世界では、唯一直に存在する君が神だ。旧約聖書の創世記のようなエデンの園を、ただ一人で管理している。天地創造の日から延々と世界という名の絵を描いている。すべてを模した楽園で一つだけ手に入らないものが、自分以外の人間だ。君にアダムとイヴはつくれなかった。狡猾な蛇に誘惑されずとも、君は知恵の果実をもいで食べた。そうして、誰もいない絵画の中で君は孤独に暮れていた。昨日と同じ今日を生き、今日と同じ明日を生きる。おそらく、それはおまえと同じ最大の恐怖に直結する孤独だよ―アルベド。
 ごめんね、と君は自分を恥じた。「ルベドたちは、私を治すために頑張ってくれていたのに……」
 最後の声は震えていた。君は両手で顔を覆ってしまう。俺の前では気丈を崩さなかった君が、初めて見せた弱さ。細い指と指の間から、五月雨のようにしとしと雫が落ちた。夕映えに輝く涙は、君の裁縫箱に納められたビーズのようだ。心臓に痛みを感じ、俺は君の名を呼んだ。
 君の涙を見るのは、初めて出会った日以来かもしれない。あの日、静かに涙する君の口元には慣れない笑みがあり、俺はこの先どれほど魅力的な女の子に出会おうとも、君以上の子はいないだろうと思った。君の笑顔のため、どんなことでもしてやりたいと思った。ウ・ドゥだろうが殺してやると、うそぶけるほどに。それなのに、結局こうして他でもない俺が君を泣かせている。
 ためらいに怯える手を伸ばし、「そんなことない。そんなこと……」掌で萎れた蝶を包みこむようにして君を抱きしめる。腕の中の体は想像以上に柔らかく、華奢な肩が震えていた。温もりは春の陽気のように適度で、自分とさしたる差のない体温とは思えず、自分の体をひどく冷たく感じた。背中に回した手と手が絡まり、君の体の薄さを知る。鼻先に触れるふわりとした髪、肩口に乗せられた頭部。君の内からすべての悲しみを包めたらと、腕に力をこめる。君のほうは、俺の体温をどう感じているのだろうか。君との距離を肌で感じ、つながることも憚られるし、どうしてもひとつにはなれないのだと思い知る。
「わかってやれなくて、ごめんな……」
 どうにもできない悔しさで歪んだ顔を、柔らかな君の髪に埋める。君の心情を経験することなどできやしないし、言葉と表情と体温だけで、君のすべてはわからない。俺は無力だ。
 U.M.N.ダイブミッションのフェーズが進行するたび、俺を迎えてくれる君の表情は曇るようになった。膨張しつづける不安に肉体を蝕まれ、君はどれほど心細かったのか。秘めた決意をおくびにも出さず、君は笑っていた。いつでも俺のために笑顔を絶やさなかった。それは事実だろうか? 君の悲しむ顔など見たくないと、単に俺のほうが君の伝える悲哀を見ようとしなかったのではないか、と今なら思う。君のすべてを受けとめたいと望んでいる。
「俺は君を助けられなかった。それでも―」人の欲望で腐敗した世界を拒みながら、矛盾だらけの俺を受けいれてくれた君を誇りに思う。「君のことが好きだ、心から」
 確かに、君の世界は他の人間から見れば真っ赤な嘘の世界かもしれない。空想の産物かもしれない。そういう奴らは自分のことを棚にあげているだけで、現実の社会とて同じようなものだ。約束事や結果が嘘にならないよう、規律で固められた城壁でしかない。違いなど内か外かという領域くらいのものだろう。俺は君の信じるものを信じるよ。
 俺の背にゆっくりと手を回してくれた君を、もう一度より強く抱きしめた。伝わる温もりが愛しい。
「ありがとう、ルベド」
 耳元からくぐもった声が聞こえた。「俺のほうこそ」と口に出した言葉は、掠れて声にならない。いつかの傷跡でも治すように、君は俺の背中を撫でた。
「あなたたちと出会って、私は変われたの」君の声の雰囲気が力強いものに変化した。「ルベドのおかげで、生まれてくる子を妹だと思えるようになったんだから」
 意表を突かれた俺の様子に、君は苦笑した。その声は初夏の爽やかさのごとく凛と麗らかで、約束の日を思いださせた。涙の跡がオレンジに輝いている。俺の頬に優しく触れた君の手は熱い。
「ルベドが大好きなの」
 深々とした緑の瞳、素直な告白に胸が痛んだ。当時の俺であれば驚喜するだろう言葉が、今となっては過去の未練でしかなく、君への思いは血潮のように全身の血管を駆け巡る。喉から手が出るほど欲していたはずの言葉が、こんなにも惨い重力を有しているなど想像もできなかった。そこらのナイフより鋭利な刃にもなり得る、ゆっくりと瞼を閉じた君の睫毛を、俺は一心に見つめた。
「ママもパパも、アルベドもニグレドも、シトリンも―出会った人たちが大好きよ」
 拍子抜けした俺の表情を見てとったのだろう。君は「もちろん、あなたは特別」とつけ足してから、それより真剣な眼差しをこちらに向けた。
「これ以上みんなが私の世界に来るのをとめなくちゃいけなかったのに―」君が口を噤んだので、俺は安心させようと君の手に自分の手を重ねて先を促した。君は再び悲しげな笑みを見せ、「もうだめね、知ってしまうと手離せないの」と零した。頬に触れた手で俺の手を握り返し、観念したように弱々しく微笑む。
「私、自分がこんなにも欲張りだなんて思わなかった」
「サクラ、それは欲張りなことじゃない。誰かを必要とすることは、人として当然の感情だろ」
 何も恥ずべきことはない、と俺は言った。それは君に対する労りでありながら、もしかすると自分のほうを慰めているのかもしれない。そうね、と君は素直に肯定した。
「他人が当たり前にしていることを、どうして私はうまくできないのかしら」
「それは、俺も同じだよ」
 口を閉じると沈黙が流れた。君は俺の手を自分の胸に軽く押しあてた。わずかに膨らみのある胸の中央、薄い布地と肉の下で、君の音が聞こえるような気がした。風の音、木々の音、土の音―世界を満たす音の重なりが渾然一体となり、オペラのように壮大な音の響きをみせている。君の心音は世界に組みこまれた心臓そのもので、本来の世界から隔離された自然を生かしている柱なのかもしれない。
 死んでいる、と言った君の心臓は動いている。ここを出れば停止する間もなく、君ごと消滅してしまうのだろうか。もちろん、君の存在が忘却されずに残り得るかどうかを確かめる術などないのだが、それでも連れだしてやりたいと思ってしまうのは、昔と変わらぬ俺の欲求なのだろう。連れだしたとして手離す気もないのだから。
 君は自分の胸にあてた俺の手を、俺の胸元に押しあてた。君の奥で刻まれる鼓動を移植したかのような自分の心臓の鼓動を聞いた。この世界にあるどの音よりも力強い。生き生きとしている。握っていた手を離し、君は笑った。
「私はルベドと一緒に生きたかった、本当よ。でもね、それよりもルベドに生きてほしかったの」
 ベリルの瞳は揺らぐことなく、愕然とした俺の顔を映していた。掌から命の音が伝わってくる。冷たいはずの心臓が、鉄のように徐々に熱を帯びてゆく。凍てついた心臓が君によって溶かされてゆくような感覚で、高熱で真っ赤になるほど定型を失い、筋肉より柔軟になる。凝り固まった脳までも解される。心音が正しい循環を形成する。
 ビーチでの白昼夢を思いだし、あの少年に教えてやりたいと思った。君が生きたいと望んでくれていたことを。ルベドの気持ちは届いていた。ともに生きる理想はあったのだ。虚しいばかりの独り善がりではなかった。
 このまま沸騰しそうなほど、心臓が熱くなる。冷たい氷がぱきぱきと音を立てて割れる。冬を越えた春の息吹のように、雪解け水が乾燥しきった臓器を潤滑な器官に解凍させる。重なる君の掌にも、生命の営みを主張する熱は伝わっているだろうか。自分の心臓がこんなにも熱く鼓動するものだということを、俺は今まで知らなかった。
「私の恐怖は、あなたたちを傷つける」
 夕陽よりも強い眼差しで君は言い、揺らめくような情景の中、毅然として立ちあがった。斜陽のまばゆさをこらえ見上げると、離れてゆくと思われた君が視界より早く近くなり、柔らかな影に覆われる。
 単語にすらならない音の断片が、自分の唇から漏れた。影とともに落ちる亜麻色の髪に瞼を閉じた瞬間、額に柔らかな温もりが触れたことに驚き、含羞とは異なる感情で頬が一気に火照る。「サクラ」すぐに離れてゆく感触を、視線で追った。君は扉に向かう。その背に向かい、腕の代わりに声を伸ばす。
「俺は、それでも構わなかった!」
 ドアノブに手を置いたところで、君は立ちどまった。薄い体を透かし、オレンジの陽光が届く。立ちあがった俺の背後で、ブランコがすすり泣くように揺れた。「どうして?」と君は問う。さらりと流れた亜麻色の髪に隠れる、愛しい顔。表情は見えないが、構わず声を張った。
「どうして? 言ったろ、君を愛してるからだ! どんなに傷ついても俺は構わない。君と一緒にいられたら、それで良かった。君に頼ってほしかった」
 額に残った温もりが熱い。夕焼けは俺たちを等しく照らし、ブランコに重なる影を震わせた。君の濃い影も長く伸び、黒い頭がわずかに傾いだ。あのね、と君は面映くはにかんだ。
「今までの私は、ドアノブのない部屋の中にいたようなもの。窓から外は見えても、内側からドアを開けられなかったの」
 重いドアが華奢な両手で開かれる。扉が軋む中、振り返った君の唇には、懐かしい笑みが浮かんでいた。「それを、あなたたちが開けてくれた」
 出会った日のように、君は神に祈るかのごとく瞼を閉じた。
 あの日、俺たち兄弟が出会った女の子。彼女の瞳から伝い落ちる今まで見たことのない涙。来てくれて嬉しい、と君は泣いた。最初で最後の訪問者を、君は初めての友人として迎えてくれた。孤独な世界に住む君の寂しさを少しでも埋められていたならば、それは俺にとって訓練以上の成果であり、喜びとなった。日ごと同じ穴を掘る作業のような訓練より、君の心にある底なしの穴を埋めるほうが、よほど意義のあるものだと思った。気分の悪い固有波調査も、面倒な報告書の作成も、君といた時間を思いうかべれば胸が踊り、昨日より今日、今日より明日、そう自分なりに努力した。君こそ、俺の中の未知の扉を開けてくれた。
 だからね、と君は言う。「その扉を閉じるのは、私の役目でしょ?」
 身を隠した君の影だけが、ポーチに伸びている。ブランコはもう揺れていない。時が停止したように夕陽は空にぶらさがったまま、影を連れた俺もポーチに立ちつくしている。
 自分の死を承知の上で、君は俺たちが生きることを望んだ。それが君の責任であり、選択だった。君が秘めるすべての可能性を捨て、君の世界の主として、その名のもとに選択した道なのか。主体的な決断を怖れ、そこから逃避していた俺などとは比べるべくもない崇高な精神だ。どうして君は、そんなにも真剣に自分の罪と向きあえるのだろうか。
 ドアが閉まる。「待ってくれ!」とっさに叫び、ドアに手を挟む。玄関から覗いた室内に君はいない。西日が射しこむ部屋は妙にぬるく、些細な違和と嫌悪を感じた。
 木椅子が二つ。湯気の立つサモワール、蜂蜜の瓶が用意されたテーブル。紅茶はローズティーだろうか、バラの淡い香りがした。水道管の蛇口から、水滴が一定間隔で滴りおちている。それから、木目の床全体に染み渡ったオレンジ。ぬるいオレンジ。
 以前とは、何か違う。この生ぬるさも、居心地の悪さも、家具の距離間も、まるで臓器が裏返りそうな気分も、生ぬるいのに鳥肌が立つような薄ら寒さも、昔は感じたことなどなかった。アルベド、おまえが見ていた世界だから、そう感じるのだろうか。
「サクラ」
 君は二階へ続く階段の途中にいた。
「部屋の中には、君の他に何がいたんだ?」
 君は答えない。リビングにある振り子時計の振動音がやけに響く。空っぽの頭を叩くような音を発し、右と左を往復している。振り子時計が三十回ほど往復しても、やはり君は答えない。
 ドアノブのない部屋にいたと君は言うが、なぜ開いた扉を再び閉じる必要があったのだろうか? そのまま外には出られなかったのだろうか? それはつまり、外界への恐怖とは別に、ここに君を留まらせる何かがあったわけか。君が身を挺して退けなければならないほど厄介なものがあったのか。すべての窓をきっちりと閉め、しっかりと鍵をしておき、誰のためにも扉は開けない。そうしなければならない何かに、君は囚われていたのか。君の背後には、寄りそうように他の影があったのだ。それは、開け放した扉から外へ飛びだし、他者を傷つける要因となるものなのだろう。その影を俺たちに触れさせぬよう、君はドアを閉めなければならなかった―外側から影を閉じこめたとき、影の主である君自身の存在が現実において引き裂かれるとわかっていながら。直に存在できなくなるとわかっていながら。
 その厄介な影こそ、君の恐怖である、
「ウ・ドゥ、なのか」
 薄い肩がわずかに震える。君は階段の途中でかぶりを振り、違うわ、と俺の答えを否定した。モネの『日傘を差す婦人』のように曖昧な表情をしている。代わりに君をとり巻く空気の流動が見えるようだった。
「正確には、あの子のほんの一部でしかない欠片なの。この世界と同じで、本物じゃないの」
 どうして君がウ・ドゥを〝あの子〟と呼ぶのか、俺には理解できない。俺が知っているウ・ドゥとは、死を具現化した絶対的な終焉を予期させる波動で、固体でもなく気体でもなく、定型を成していない。嵐のような現象そのもので、人には抗う術などない。超越的存在であり、個体として認識もできない。君にはウ・ドゥが、どう見えていたのだろうか。
「あの子は悪くないの。ただ、私たちのことを知りたくて違う世界からおりてきた、それだけよ。世界を拒絶する私の心を視ていただけ」諦念を含んだ君の声音に、俺はもどかしくなった。
「向こうに危害を加える意思がなくとも、下位領域の俺たちにとって上位領域の存在は知覚するだけでも危険だ。いや、知覚できてしまうこと自体が問題なんだ。サクラ、それは君だって例外じゃない」
 わかってる、と君は頷く。「あの子のほうに悪意はなくても、人はあの子の見せる力に耐えられない。そうして人は壊れてしまうの。だからこそ、あなたたちと会わせるわけにはいかないわ。あなたたちが反存在なら、なおさらよ」
 君の恐怖は、自分と他者を区別し、世界を認識するための基盤となる。俺にとってアルベドがそうであるように、君の恐怖は君の暗部であり、君を君たらしめるものだ。私とは諸々の感覚の束である、と言った哲人がいたが、実のところ俺が考える自我とは、そうした種類のものでもある。〝わたし〟を形成するものは膨大な知覚と記憶と反応の束であり、欲望の運動はそうした束の複雑な絡みあいの中から生みだされ、時として当人でさえもどこから来てどこへ行くのかを知らない。人格を人格たらしめるものは、この欲望の運動ではないだろうか。必ずしも単純な期待や充足の範囲に留まらない、捻くれた欲望の運動の間だけ、自我は存在するのではないか。君の恐怖で発生する他者との相互干渉によって成立する役割もまた、運動の一点で瞬間的に現れる相なのだ。その運動につれ関係が発生し、消滅してゆく。〝わたし〟と〝あなた〟は相互補完的な存在である、と考えずとも、君のように〝わたし〟は〝わたし〟であり、〝あなた〟は〝あなた〟のままで連帯することはじゅうぶんに可能だ。君の自我である〝わたし〟の欲望の運動が、俺を含めた〝あなた〟という他者の運動と交錯した瞬間、君がそれを恐怖という感覚で受けとり、心を閉ざしたとしても、誰が君を非難できるというのだろうか。U.M.N.の共時性に対する感受性過敏とは、実はそうした症状なのでは?
 俺たちの次元で考えるなら、ウ・ドゥとは間違いなくシステムだろう。君はU.M.N.内でナビゲーションデバイスとしてのウ・ドゥと接触していた。つまり君は、親父と同じくウ・ドゥを知覚し、ウ・ドゥは君に干渉したということだ。接触の記憶は君の世界に潜在する恐怖という感覚に置換され、ウ・ドゥから君への干渉は、その恐怖を通じて継続された。君の恐怖は肉体的な死に対するものではなく、精神的な死に対するもの。自己を認識できない、空虚な自分を怖れていた。
 君の中のウ・ドゥは、世界を拒絶する君の意識を観測していただけ。その観測行為がウ・ドゥの反波動を持つU.R.T.V.に悪影響を及ぼしたのは、俺たちが君の恐怖を〝ウ・ドゥ〟として知覚したからに他ならない。ウ・ドゥ・シミュレーター内の波動を体感している先入観から、自分たちの認識で君の恐怖の正体を特定してしまった。つまり、ウ・ドゥだなんて思わなければ、そうなっていたかもしれない。君の世界で営まれる自然は雄大だから、神々しい自然現象として捉えることもできただろうし、それこそウ・ドゥより怖ろしいものなど現実には山ほどあるのだから。
 目に見えるものは本当じゃないから、と言っていた君の言葉が脳内にこびりついている。俺たちが君の眼であの子とやらを見ることができていたならば、結果は違っていたのかもしれない。
 認めなければいけない。俺たちは失敗したと言わざるをえない―俺たちが倒すべきものなど、初めから何もなかった、どこにもなかったのだ、と。
 アルベドも、君の唇が紡いだ名に顔をあげる。その名に対する動揺が表情に現れていたのかもしれない。君は俺を見下ろして小さく苦笑した。「アルベドも私と同じように、自分を孤独にする世界を拒絶していたわ。それにあの子が反応して、私の世界から彼に触れようとしたから」
「だから、君が代わりに―」
 遮るように俺が訊ねると、君は雄弁に微笑んだ。半ば放心状態で、そうか、と呟く。げっそりするほど凡庸な俺の脳みそで展開されていた、何とも凡庸な妄想の数々が、どうしようもなく愚劣な美の瞬間を体現させようとした絶望と希望の仮定が、無様な死を迎えてゆく。安堵にも似た徒労感が肩に圧しかかる。
 あの日のことを、おまえは一度として俺に話そうとしなかった。いや、今にして思えば、話せなかったのだろうと思う。何しろ、あの時期の腑抜けた自分は、おまえの声に耳を傾ける余裕など微塵もなかった。
 雪に埋もれたおまえは、砂浜で遺体を抱いていた。君の最後を見届けた者は、おまえただ一人だ。あのとき、二人の間で何があったのか、俺は何も知らなかった。というより、知ることが怖かった。おまえのせいにして逃げるのは楽だった。おまえは泣きじゃくることもなく、それ以来まったくと言っていいほど泣かなくなった。妙に達観した表情の欠如は、標準体たちとは明らかに違う不気味さがあり、例えていうなら雪の結晶の精巧さに似たものがあった。
 誰よりも死を切望しながら、誰よりも死に怯えていたおまえを、他ならぬ半身の俺が、どうしてわかってやれない。相互不可侵の壁は壊せない。俺の頭の中では絶対の真理であることが、おまえの頭の中では許すべからざる誤謬になってしまう。人間が、たかが真偽の偽に対して、どれほど凶暴になり得るものか。相対主義も相互不可侵も、殺しあわないための絶望的な知恵なのだとしたら、俺たちはそれを承知しながら壁などぶち壊そうと殺しあいを選択し、結局のところ壁に張りついてみただけの馬鹿な男にすぎない。
「ルベド、ついて来て」
 黙りこんだ俺を見下ろしていた君が、階段をあがりはじめた。「見せたいものがあるの」
 最下段から君を見上げ、俺は白い背を追った。階段の途中、壁に飾られた絵画はモネのもので、それが『左向きの日傘の女』であることに、俺は首を傾げた。確実に脚色されている自分の記憶と照らしあわせた場合、ここに飾られているべき絵画は、同じモネでも『印象 ‐日の出‐』という風景画であるはずなのだ。二つの作品の制作年に十四年の差があるのは、果たして偶然なのだろうか。それとも、これも単に俺たちの差異なのか、アルベド。
 何を見せたいのか君に訊くと、背を向けたままの君は、内緒、と言って肩を揺らした。