親愛なる君へ 9


Timeline: EP2, after meeting Albedo in Local Matter Shift




 丘で回る風車はもう見えない。濃厚な青いバラの深海が、今この視界を埋めつくす。西の太陽は沈みきり、真っ赤な炎の残り火が頭上の空を焼いていた。先程までの涼風もやみ、鼓動以外の音は聞こえない。
 青い波に漂うように浮かぶ白は、探すまでもなくむやみやたらと目立っていた。青く美しいバラに不似合いな白髪の不作法な男だ。欠点のない逞しい体躯に救世主のようなぼろ布をまとい、彫刻のような顔で断末魔のごとく引きつった薄ら笑いを浮かべている。俺の悪い夢に幾度となく現れては、虚しい哄笑を残して去ってゆく男。おまえは別段何をするでもなく、バラの茂みに埋もれていた。茨の中で時折ふと宵闇迫る空を見上げては、襲いくる眠気を堪えているようにも見えた。
 バラの大海へ一歩踏みこむと、侵入者に気づいたバラたちが一斉に青い頭をもたげた。まるで勢いづいた俺の心臓のように、花畑全体がざわざわと揺れ動く。おまえの最後が目に浮かんだ。動かない体と止まらない血。背筋が凍る。おまえは何度でも死ぬ。そして何度撃たれても、俺は死ねない。
「なぜ、おまえがここにいる」
 気だるい視線で虚空を見つめたまま、おまえは言った。最後におまえと対峙したあとは、時間などいくら経ったか見当もつかないが、久しくおまえの声を聞いていなかったように思う。不覚にも、その低音の響きだけで俺は心の底から喜びを感じた。おまえの体は欠点のない完璧なまま、俺が空けた銃弾の跡はどこにもない。純白の髪にも、血は一滴すら付着していない。俺が引きちぎったおまえの首は、まだ胴体とつながっている。それは完全に、紛れもないアルベドを形容していた。例え残像でしかないとしても、吐き気と眩暈がする。棘だらけの茨の中で堂々とくつろぐおまえの、退屈そうな口元が再び動いた。
「亡霊と心中でもするつもりか。相変わらず、根暗な奴だ」
 口角を上げ、くつくつと喉奥で笑う。立てた片膝に乗せた腕が、笑いに合わせてぶらぶらと揺れた。おまえの喉から発せられた音が、空気を振動させ、俺の鼓膜を震わせる。その感覚に身震いするのは、それがもう外界にはないものだと知っているためだ。自分の感覚は常軌を逸し、変態じみているだろうか。ばらばらになったおまえの断片、意志と呼ばれる遺伝的にぴ路グラミングされた複数要素が衝突するプロセスそのものを指すとしても、おまえの選択まで食らいつくさなければ、俺は満足できない。おれの〝欲求モジュール〟が決断するものは、いつも目先にいる死者なのだ。
「おまえこそ、どうして最後にここへ」
 荊を踏みつけ、かきわける。服を裂く棘も関係ない。邪魔するものは払いのけた。手を伸ばして届く距離に、おまえがいる。擦り傷に対する痛みなど選択されず、今ここにいる俺の意識は唯一おまえのためにあった。
 覇気のない鬱々とした薄暗い眼は、俺を映したところで動きをとめた。おまえの顔に、以前のような破壊や殺戮を愉しむ狂気の色はない。葡萄酒のような毒々しい赤紫が二つの白に囲まれているだけで、それ以外の変化はない。ありとあらゆる感情すべてが整理されず、ない交ぜになった複雑な視線は、俺がおまえに対して抱く感情でもある。それは、殺しあいにいたるほど密なもので、ごりごりとした感触が持続して頭をやられる。
「別に、意味などないさ」ふいと視線を外し、おまえは青を見つめた。「昔に見た青いバラを、美しいと思った―それだけで」
 おまえは筋肉をしなやかに操作し、むかつくほど優麗な動作で一輪のバラに触れた。長い爪がバラの茎を絡めとり、戯れに指を動かしている。おまえの口元で揺れる青いバラ。それは確かに、寒気がするほど美しい。「邪魔をするなよ、ルベド」と、俺が口を開くより先におまえは先手を打った。「俺は消滅へのひと時を愉しんでいるんだ。それとも、懲りもせずに殺りあうか? この世界をおまえが壊してみるのも、また一興だが」
「そんなことに意味はない」
 嘲りの言葉を吐きながらも、おまえの声は末弟のそれのように安定していた。俺たちの間には色々なものがありすぎて、十四年の断絶からのち、顔を合わせれば衝突ばかり。誰よりも憎み、誰よりも厭い、本気で死ね、と何度も呪い、それでも離れられずにいた。どちらか消えれば終わるのだろうかと、何度も考え直しては健忘症のように忘れてきた。
「よくわかっているじゃないか。俺とおまえの間にあるものすべては無意味で、そこに意味があるんだ。俺の無価値を証明するために」
 おまえは鼻を鳴らし、戯れていたバラの茎を爪先で突いた。音もなく折れた青いバラは、音もなく土に落下した。そうとも、俺はもうわかっている。臆病な自分を隠すための虚栄心も、おまえの前では滑稽な仮面でしかない。剥がさなければ会話にもならない。
 十四年前のネピリムの歌声で、俺はウ・ドゥが視せた未来のビジョンに恐怖し、すでに完成していた精神連結を遮断した。敵前で唐突に盾を降ろせと命じているのだから、その時点で何人かの仲間を見捨てることになることは承知していた。その上で、俺は死にたくなかった。おまえたちと生き残るほうに懸けた。おまえとニグレド、そして自身の生存のため、ミルチアごと破壊されることは何としてでも避けたかった。リンクを遮断しても、変異体ならばウ・ドゥから逃げきれるかもしれないという希望的観測のもと、標準体を犠牲にした俺の罪は重い。おまけに、おまえはウ・ドゥに汚染され、ニグレドは瀕死状態―全滅より最悪の結果が俺を待っていた。
 おまえを見捨てた罪悪感と、恐怖の対象であるウ・ドゥに汚染されたおまえへの恐怖を直視しないよう、俺は自己を正当化していたにすぎない。煮えたぎるミルクのような世界の上に、辛うじて薄皮一枚が被さっているようなものだ。それは薄皮一枚と言えども強靱で、外へ出ることも不可能、突き破ることも不可能。そこに留まり、自分の下で何かぐつぐつと沸いて煮えたぎっている混沌のようなものが足元にあることを意識している。この世界で自分が享受している幸福な状態を誇張するため過去はあるのだと思いたかったが、それが目に見える場所に少しずつにじみだし、今ではこの青いバラのように庭一面に咲き乱れ、俺に眩暈を起こさせる。俺はすでに選択してしまった。それはつまり、これまで見ないようにしてきたものに気づいてしまったということだ。
 夕暮れの赤が薄れ、バラより濃い群青が空を埋めつつある中、おまえは気だるげに首を回した。
「帰ってニグレドにでも慰めてもらえ。ここまで来てもまだ右胸の鼓動に縋るというのなら、俺には―」
「右胸の鼓動なんて感じねえよ。生まれてから二十八週目以降、そんなものを感じた覚えはねえ。ありゃあ単なる俺の妄想だ。今も昔も、俺たちはつながっちゃいない」
 俺の生活は、沸騰したミルクに浮く薄皮一枚。鼓動はミルクの中にある。紛争や貧困のような暗部を俺はミルクに溶かしこんだ。飲みほさなければ、一向に真実は見えないだろう。
 覇気のないおまえの眼に、剣呑な影が差し、薄笑いが口元に浮かんだ。
「くく……そう、そうだよなあ!」
 こみあげた笑いで上半身を震わせつつ、おまえは長い腕で俺の胸倉を掴んだ。息がつまる。直後、頭を割る衝撃に襲われる。背に瞬間的な痛みが走った。俺は花畑に仰向けで倒れていた。地面に密着したコートの下から、茨の棘が突きぬけているらしい。肌がじくじくと痛む。脳味噌が嫌な具合に回転している。
 すぐ鼻先に、おまえの暗い顔があった。流れる白髪の向こうには、おまえの瞳と同色の空。押さえつけられた右胸の上に、失ったおまえの熱を感じた。ひどく息苦しいが、おまえが俺の呼吸をとめるのであれば耐えられる。
「おまえの心臓は、千切れたときからもう、俺の痛みを感じてやいなかったさ。ルベド、おまえが延々と感じていたのは、おまえ自身の痛みだろう。おまえの選択を動機づけるため、俺の心臓を利用した」
 三日月形に曲がった口が、俺をのみこむように広がる。妖艶に歪むそれとは対照的に、二つの眼は真円を型どり、一点の濁りもなく俺を射抜いた。奥底まで潜ってゆけそうな葡萄酒を、浴びるように飲みたいと渇望する。そうさ、と肯定する唇は乾き、声は掠れた。「俺はおまえが怖かった。無意味で無価値な自分を認めることが怖かった。俺と世界の親密な関係が一気に壊れちまって、俺は〝自分は本当に人間なのか〟という疑念を抱いた。そのとき、痛みだけが唯一の真実だったよ。一体どれだけの痛みがあればいい? どれほど痛みを感じれば、俺たちは他人だと主張できるんだ」
 俺はおまえを憎むことで、おまえを蔑むことで、自分の弱さから逃れようとしていた。おまえに俺の姿を写し、ありもしない右胸の痛みさえ、おまえのせいにしていた。「そんなことで二の足を踏んでいる間に、おまえはひとりで行っちまった……おまえには、わかんねえだろ、アルベド。自分の中の時間がどんどん死に向かって流れて、かつてあった場所からも転げおちて、ぼろ雑巾になって死んでいく―そんな男の焦燥なんて。俺の一番大事な弟は、まったく時間の手に触れられることなく、おぞましい永遠に包まれて、そのままそこに残されてるのに……どうしてやりゃあ良かった? 絶望的な悪あがきで、俺はおまえを救えたのか? 脳内で論争を繰り広げたあげく、散々喚いていた欲求に屈しただけだ。結局どうして自分のためじゃねえのか―」
 言い終える前に、無骨な手が口を塞いだ。内側で圧迫され、咥内で咳きこむ。おまえは平然とした顔で大仰な溜め息を吐き、口の減らない奴だ、と俺に呆れた。
「俺の部屋であれだけべらべらと喋っておいて、まだ足りないのか」
 ぐちゅ、と脳みそを潰したような音がした。内臓を吐きだしたい気持ち悪さに駆られ、それを何とか堪える。そろりと視線をおろせば、俺の胸倉を押さえつけていたおまえの右手が、俺の体内にずくずくと沈んでいく異様なさまが見えた。自分の胸が奇妙に波打ち、主軸はぶれ、おまえの手を誘うように引きこんでいる。太い腕が俺の胸から突きだしている。自分の内部―右左の肺の間で、骨張った指が蠢いている。皮膚や骨肉などの不要物を介さず、アルベドという存在が生々しく俺を混ぜ返した。内臓をかき回されている感覚に全身の毛が逆立つ。気持ち悪い。他人とは本来そういうものだ。侵入されると気持ち悪い。気持ち悪さを嘔吐しようにも、おまえの左手が俺の口を塞いでいる。
「ああ、確かにないな。俺のものは何一つ、おまえのなかにはない」
 うっとりと恍惚にも似た表情を浮かべながら、一つ一つの臓物を探るようにして乱暴に突っこまれる。内部を侵される嫌悪感が喉元までせりあがり、打ちあげられた魚のように、俺は喘いでのたうった。おまえの手を口から払いのけ、ある、と反論する。全身が拒絶を訴えていたが、無視することも可能なようだ。「あるさ。心臓は、ねえけど、おまえの……」おまえの、何が俺の中にある? 俺は躊躇した。人の意志は、中脳の側脳と脳核にある報酬系のエージェントが競合している、まさにその状態全体を指す言葉だということ。人間の双曲線割引的な報酬系の振る舞いが、人の意志を決定するということ。意識とは、脳の無意識下に存在する多数のエージェントの利害を調整するためにあるものであって、いわば意識されざる葛藤の結果が我々の意識であり、行動である―人間の意志のあり方に関する論文もモデルも、二十一世紀にすでに発表されていた。そうした昔ながらの欲求の断片の集合体が、一体何を言えるというのだろう。
 弄るように動いた腕によって、言葉が遮られる。その五指が俺の心臓を握っている感覚を、塞きとめられた血液の流れで感じとれる。どくどくと脈打つ中心に冷たい氷が触れている。核を握られた恐怖で、体は否応なく緊張していた。
「物語による合理化でも図るのか、ルベド。まあ、効くには効くのだろうが、そこまで自分に対して蓋をする、見て見ぬふりをするのはなあ、俺としては、いやはや、ぞっとしない。脳は因果の中で世界を捉えるというのに―人間は望むところのものになれる、他試してみろ」
 ユルスナールの言葉を借り、自分を人間の脈絡に戻すものはない、とおまえは言う。何もないのだ、受けいれろと言う。俺は聞きわけのないガキのようにかぶりを振る。人が死ぬことに何の価値もなく、生きることに何の意味もない。そう認めてしまうことは、ひどく悔しい。実際、俺たちをとり巻いている世界は、絶対的にその本質として何事にも揺るがされることなく、俺たちから関係のないものとして存在している。そんなことはわかっているのだ。かつて、〝わたし〟という遺伝子の集合が〝わたし〟を証明するために宗教を必要としたように、俺には自分が自分であるという思いこみが必要なだけだということも。
「〝地に落ちて死なぬ麦は一粒のままである〟―もうじゅうぶんに、おまえの言葉だよ、ルベド」
 囁くおまえの掌の内で、俺の心臓は飴玉のように転がされている。どろりとした水音が鼓膜を揺さぶり、背中の棘の痛みを麻痺させていた。おまえは右腕を埋めたまま、俺に覆い被さってくる。高い鼻先がぐいと寄り、おまえの吐息に舐められる。アメジストを填めこんだ目玉が二つ、細部の血管までよく見えた。
「最後には、俺を大地に落としてくれた」
 おまえの顔に、自嘲的な笑みが浮かぶ。加減なく内部を蹂躙する手に翻弄され、俺は呻くことしかできない。
 ネピリムの歌声で、血反吐とともに吐いた一節。この先に、だが、と続く。〝死ねば多くの実を結ぶ。自分の生命に愛着する者はそれを滅ぼし、この世において自分の生命を憎む者は、それを護りて永遠のいのちに至る〟というものだ。おまえも知っているだろう。
 俺が求めたものは、内なる命の分与でも崇高な精神でもない。「あれは、おまえに、言ったんじゃ、ねえんだ……おまえを否定した、わけじゃない……」喘ぎながら空気を少量ずつ吐きだし、音声を生成する。耳をつんざく骨と心臓の悲鳴は、これまた鬱陶しいので無視することにした。
 おまえを根本から否定するなど、俺には不可能な所業だ。そうではなく、あの言葉は自分に対して言った。おまえに自分の弱さを重ねて見ていた自分が、自分の卑劣さに嫌気がさして救いを求めたあげくの戒めだ。俺は宗教に逃げを打ったのだ。何も生みだすことなく、ただ虚しく生きていくであろう、死人のような前途の自分に対して覚悟させた呪いの節だ。
 この十四年間、毎日のように悪夢を見た。雨が降るミルチアの廃墟で死体を蹴ってひた走り、立ちどまるな、考えるな、と自分に言いきかせる。振り返った先には、いつだって何もいやしなかった。おまえが追ってくれていることなど一度もなかった。腑抜けた俺は自分の影に怯え、孤独の持久力ばかりを鍛えていた。
「実を結ぶことのない麦は、おまえのことじゃねえよ、アルベド……その一粒は、臆病者の俺であるべきだ」
 息苦しさで視界が白く霞む。俺の中にある手は心臓から離れ、間近にある紫の双眼が見開かれていた。その顔には、腹が立つ薄笑いも、不機嫌な半眼もない。本来の年齢よりも、ずいぶん若々しく見えた。
「それなら、互いに白状しようじゃないか」と、おまえは唐突に言いだした。今、白状したろ。俺が声を絞りだしても、おまえは、違う、と否定した。「おまえは、何かにつけて皮肉を言うので忙しい。俺のほうも、おまえを苛立たせる言葉を考えるのに忙しい」
「何だよ、それ」
「―おっと、思わず。いやいや、そうじゃない。いかんな、これも良くない」
 おまえはひとり、いかんいかん、とかぶりを振る。口元には薄ら笑いの欠片もない。語気も真面目で、ふざけているようには見えない。むしろ極めて珍しく困惑しているようにも見てとれる表情に、ようやく俺はおまえの言わんとしている意味について見当がついた。
「それをやめろってことか」
「ああ、そうだ」
 つまり、くだらない皮肉を盾に、本性を隠すのはやめろ、と。そんなことを言われても、「……何話していいか、わかんねえ」困惑する。顔を掴まれ、逸らした視線を引き戻されると、なおさら動揺してしまう。おまえは俺のことを鼻で笑い、
「今しがた、半ば自棄になって喚いていたろう。まあいい、俺から話してやる」
 と言って、俺の赤毛を無造作に撫でた。その優しいとも言える仕草が信じられず、瞬きも忘れておまえを見つめる。喉元で堪えていた吐き気など、こんなことでふっ飛ぶのだから、俺という男はつくづくおめでたい。おまえは俺の体内に腕を突っこんだまま、実に淡々とした調子で、昔々と絵本でも読み聞かせるように、「おまえは昔から、そういう奴だった」と語りはじめた。
「俺が一人で何かしようとすると、『何言ってるんだよ。だめだめ、おまえが一人でなんか、できるわけないだろ』と笑う。僕は君と同じなのに何の問題があるの。俺がそう反論すると、おまえは紅茶を口に運び、紙の本を読みながら、『そういう問題じゃねえよ』と言う。だったら、どんな問題なのさ、と俺は問う。おまえは俺と視線を合わせようとせず、『俺に任せときゃいいってことだ。安心しろ、おまえは俺が守ってやるからな。ほら、わかったら返事』と言う。わかったら返事、わかったら返事、俺にはわからない。僕はもう子供じゃない、と俺は怒る。おまえは俺を見ずに本を読んでいる。『いいか、アルベド、おまえは俺の弟なんだよ。俺にとっては、おまえはガキのままで、これからもそうだろう。これはおまえのために言ってるんだぞ。だから、だめ。だめだ、わかったか? わかったら返事。な、アルベド』本当は好きでもない紅茶を、おまえは女のために飲む。俺を見ようとせずに、アルファベットの羅列を追う。わかったら返事、わかったら返事。俺は返事をしなかったな? イエスともノーとも答えなかった。返事の代わりにディミトリ・ユーリエフの私室へ忍びこみ、古い拳銃を一丁、拝借した」
 おまえはここで一度、口を閉じた。俺は瞠目し、絶句した。そんなやりとりは、まったく覚えていない。というより、覚えがありすぎていつのことなのか特定できない。おまえの言う通り、あの頃の俺は、わかったら返事、とおまえに同意を強制していた。おまえは不満な顔をしながらもイエスイエスと頷いていたように思う。それ以外の答えを、俺は認めようとしなかった。ノーと言えば、お気にいりの本を読み返すように、もう一度、最初から。やり直し、やり直し、イエスになるまで。な、わかるだろ、わからない? おかしいな、どこかで間違えたのかな、もう一度だ! 完璧な数式を見出すように問題を解いてゆく。そうして、おまえが頭をぶち抜いた日から、俺たちの亀裂は決定的なものとなった。
 おまえがそんなことを事細かに記憶し、あまつさえ俺に話していることが信じられない。おまえを殺す直前でさえ、おまえはそんなこと一言だって話さなかったじゃないか。俺の話を聞いてばかりで―ああ、そうか。そういうことか。何ということだ。俺は弟を殺す瞬間でさえ、昔と同じことを強要していた。ノーと言っても結末は変えない。俺はおまえを殺すつもりでいた。イエスと言うまで嬲りあいは続いたろう。何ということだ!
 自嘲的な薄笑いを浮かべ、おまえは語りつづけた。
「おまえの言う通りガキの俺は、おまえのことを自慢に思い、おまえが自分と同じ存在であるかのように振る舞っていた。俺の意志は、おまえのもの。アルベドという意識はなかった―そのときまではな。俺がおまえを見限った理由は、一人で行動を起こすことに対して反対されたからじゃあない。おまえは俺を見ようとしなかった、ただの一度も。見て見ぬふりを決めこんだ。イギリス人の歴史の闇を封印した脳天気なファンタジーを読みながら、自分たちも魔法が使えると勘違いしてやいなかったか? 『わかったら返事だ、アルベド』そうして俺を重圧する、おまえの手は震えていた。その手の内にある紅茶には、常に波紋が、水波が―おまえがどれほど怒りを露わにしようと、ああして震えたことはない。おまえの手の震えは俺に対する怯えだろう。どうしてもつなぎとめておけない大事なものに、自分に反旗を翻すものに、自分より上等だと気づいてしまったものに対して、おまえは蓋をするのが実にうまい。俺が一人になることを主張するたび、おまえの手はああして震えていたのだろうよ。なあ、ルベド―我が愚兄よ」
 おまえは不敵な笑みを見せ、俺が知る限り、最も冷酷かつ空虚な眼差しを向けた。
「俺はなあ、ルベド。震えるおまえに心底―ああ心底、呆れたんだよ」
 おまえの視線が、俺の体を無視して地面へすり抜ける。触れてもくれない。見限られる恐怖に、苦痛が戻る。痛い。猛烈に痛むが、当然の痛みだ。じゅうぶんに納得はいく。俺の不始末だ、俺の過失だ。確かに、ああ確かに、それは不甲斐ない俺のせいだ。確かに、俺は物語がもつ特殊な幻想に共感していた。あまりにも怖ろしい真実に直面したという事実を、きれいさっぱり忘れてしまいたかった。フィクションに救いを求めたことも事実だ。あまりにも怖ろしい真実―幸福を目指すか、真理を目指すか。俺は前者を、おまえは後者を選んだ。
 そうか、そうか。それで、おまえは俺を見限ったのか。何よりも尊重されるべき生命を、悪意をもって傷つけるというその明確な意志によって、親父の銃で頭をぶち抜き、ありのままの事実を俺に見せつけてくれたのか。まったくもって正しい判断だな、至極当然の結果だ、そりゃあ仕方ない。
「なあ、アルベド。おまえはさ、おまえ自身が異常だと承知した上で、あのパフォーマンスをやってのけたんだろ。でなけりゃ、ああもうまくいくもんか、そうだろ?」
 ノーって言えよ。
 無言のおまえを見上げ、咳きこみながら自嘲する。『わかったら返事だ、アルベド』―ああ、自分に反吐が出る。
 おまえは俺が戦闘で傷を負い、療養していた時間を何度も目にしていた。おまえの頭ならば、絶望的な事実を誰にも確認することなく、ひとりで導きだせてしまえたはずだ。想像力も乏しい無能な俺には想像もできない失意の中、おまえが縋るわずかな期待にすら、当時の俺は答えようとしなかった。気づこうともしなかった。おまえの中に潜む可能性に怯えつづけ、おまえを正面から見ようとしなかった。
 ああ、我が弟よ。愛しい弟よ。俺を置いていくな。愛している、愛しているんだ、行ってくれるな。一人で行くな、おまえは俺が守ってやる。傍にいてくれ、頼む、頼む。愛してるよ、アルベド。
 呪詛のような盲信だ。頭をぶち抜き、絶望の確信を得て、生きる孤独に泣き叫ぶ小さなおまえを殴った俺の手も、ああ、そうさ―ものの見事に震えていた。
 おまえは、じゅうぶんだ、と呟いた。皮肉屋な質は大概おまえも似たようなもので、ここまでしないと不満ひとつ吐きだせない。厄介で面倒な男だよなあ―俺も、おまえも。
「できることなら、おまえとずっと話していたいよ」
 体内でぶらりと垂れた腕を感じながら、おまえの肩を両手で掴み、重たい体を引っ張りあげる。おまえは奇怪なものを見る目で、脂汗を流す俺を眺めている。伸ばした両腕を徐々に曲げ、水分を多分に含んだ布のような自分の体を、無重力のごとき緩慢な速度で何とか起こしてゆく。俺の内部にいまだ沈む腕は、ぎちぎちと背骨の裏で嫌な音を立てた。声にならない呻きが漏れ、筋肉を裂くような音と同時に、おまえの五指が俺の背中を突きぬけた。宙をかいたおまえの指先の動きに連動し、俺の体も弱々しく震える。
 自己の内部を混ぜ返される嫌悪感は去ったが、体を貫かれた圧迫感と、中心を失ったような喪失感に気が遠のく。自分の中の何もかもが、管を流れる血潮のように、おまえのほうへ漏出してゆく感覚に眩暈がする。精神障壁など何の意味もなく、おまえは俺のすべてを感じているのだろう。無自覚に俺をとりこんだ状況と違い、おまえも俺の意識を感じているということは至高の喜びだ。
 俺の中で融解したおまえの腕を通し、おまえの熱も俺のほうに流れこんでくる。体験したことはないが、胎児が母体の栄養をへその緒から受けとる感覚とは、こうしたものなのかもしれない。肉体の苦痛は別として、おまえにすべてを曝けだしている状態を心地良くさえ感じる。
「気でも狂ったか、ルベド」
「おまえほどじゃねえよ」
 口を開くだけで骨が擦られ、血管が千切れる気もしたが構わない。どうでもいい。今の肉体がどうなろうと、自分で自分を定義できるならば、君の世界では関係ないのだ。上体を起こし、おまえを手繰りよせる。ぐずぐずに融けあい、原子単位で流通しあう互いのすべては、赤くて青いこの空のように対極の色をも同化させる。
 おまえの向こうに広がる空は、涙がでるほど美しい。赤を蕩かした深い青は、空というより限りなく海に近い。それは青いバラと折り重なり、青く青く、俺たちは青に埋もれる。西の残り火が、俺たちを照らす。
 この世界にも、おまえにも、俺は必要とされていたかった。
 月が昇ったら、帰らなきゃいけない。君にそう忠告された。闇を受けいれはじめた空に、月の影は今のところ見えないが、いつまでも影の世界にいられはしない。泣いて笑っても、これが最後だ。
 くらくらと回る頭をなけなしの気力で固定し、深呼吸を一度する。何のつもりだ、と呟いたおまえの声がくぐもっているのは、その口元に俺の肩があたっているからだろう。俺の短い腕は今、おまえの太い首に回されている。俺の薄い胸は今、おまえの右腕を突きさしたまま、おまえの脇腹とゼロの距離で触れあっている。俺の軽い頭は今、互いの耳と耳が触れあう位置にある。
「別に、意味なんてねえよ」
 頬に触れる白髪の感触を確かめながら、歪めた顔のまま笑う。中心を貫く腕の微細な動きにさえ体は強張るが、呼吸は幾分か楽になった。痛みは大事だ、おまえを受けいれるために。
 回した腕に力をこめる。おまえはそれを拒絶するでもなく、俺の背中から突きでた腕を戯れに動かしているようだ。骨と筋肉だけの白い体は頭髪以外どこもかしこも弾力はあるが硬い。
 俺が名を呼ぶと、おまえはつまらなそうに首を伸ばした。異なるリズムの心音が聞こえる。おまえの心臓は気まぐれ、俺の心臓は忙しない。
 とあるイギリスの詩人は、『いかなる距離も血縁を断ちきらず、兄弟は永久に兄弟なり。いかなる激烈な無常も憤怒もこの磁石に勝ることなし』と言った。これが俺たちの間で唯一の普遍的な関係だろうと思う。
「俺がおまえを殺したのは、俺がおまえの兄弟でいたかったからだ。おまえには鬱陶しい情かもしれないな。わかったか、とはもう尋ねない。ノーで拒絶したっていいぜ」
 俺は言った。
「放っておいても、俺は死ぬ。おまえを置いて、俺は死ぬ。おまえは俺が死ぬことを怖れていた。つまりは、俺を必要としてくれていた。おまえは俺を見限らなかった。おまえを恐怖から救える術があるならば、絶望的な孤独から救える術があるならば、そのために俺ができることは何だろうかと、馬鹿な頭を捻って何年も考えていた。
 おまえは死の先に救いを求めている。不死の肉体から解放され、自分が自分だけのものである自由を生き、その意志で自らの命の終わりを決めたいと願っている。そして、死による望みの実現を他でもない俺に求めている。おまえの渇望が俺の招いた結果なら、俺の手で終わらせなけりゃ、おまえも納得しねえと思った」
 愛しあうか、殺しあうか、そんなことでしか自分たちを認めあえない。ある一定の相対主義と相互不可侵をかなぐり捨て、血まみれの争いでようやく理解の域に足を踏みいれ、そこまでしても相手のすべてはわからない。
「俺はウ・ドゥとリンクしたことで、己の意志を獲得した。後悔はしていない」
 抑揚のない声がして、背中に突きでたおまえの腕が俺の後頭部に触れた。撫ぜるように俺の頭部を滑った掌は、冷たい熱を帯びていた。
「俺は生まれた頃から必死に何かを壊していた。何を壊していたのかは、わからない。壊しても壊しても破壊しつづけても、満足したことはいまだかつて一度もなかった。壊した穴の中に何かが見えることはなかった。むしろ不満は募るばかりで、理由を追及する間もなく、また壊したくなる。これが俺の性だというのならば、満ちたりたと感じられる、何もなくなる良い方法を考えなくては―」
 おまえはつらつらと丁寧に語り、俺を貫いた腕を躊躇なく引きぬいた。ずるりと中身をすべて持っていかれるような感覚に、息がつまる。圧迫感と充足感とが消えた胸で、心臓が矢継ぎ早に収縮を繰り返している。おまえは眉をしかめて笑う。
「結果、このざまだ。おまえを見限るより早く、俺は自分を見限ったんだ。おまえが壊れるより大分ましだと思えたが、満ちたりたと感じられる、何もなくなる良い方法じゃあない。俺が本当に欲したものは、おまえが誰より知っているだろう、ルベド」
「ああ、知ってるよ」
 影を落とした紫紺の眼に向け、俺は答えた。おまえが心から願うならば、おまえはいつでもここに在るだろう。おまえが拒絶するならば、おまえはどこにでも行けるだろう。それでも構わない。おまえの好きにしろ。
 いい加減、おまえの体から離れようとすると、前触れもなく片手で頭部を掴まれた。昔から加減を知らない奴だな。力の入れ具合に文句を言おうと口を開くが、その頭をおまえの胸部にぶつけられたものだから、鼻っ柱をぶつけた俺は軽く目を回した。
「何すんだ、てめえ」呻いたものの、首を羽交いじめにされ、硬い胸元に押しつけられた状態では掠れ声しかでない。何だというのだ。今さら喧嘩でもおっ始めるつもりか。筋肉の隙間でもがきながら思っていると、独り言のように呟くおまえの声が降った。内容は聞きとれなかったが、なぜこうなるのか不思議でたまらない、と言わんばかりの顔をして頭を傾げるおまえに、俺はその行動の意味を何となく理解した。
 おまえ、俺のまねをしようとしたな? つまり、ハグを。まったくかわいげのない、皮肉じゃ俺といい勝負の、あのアルベドが!
 愛しさとおかしさで腹を抱えて笑いだすより早く、力強い腕に震える頭を押さえつけられる。穏やかな声が降る。
「この俺のものは、おまえのなかにひとつもない。それは、生まれた頃と同じく共有のものとして、おまえの器官として固着しているため―」
 おまえの胸の奥からは、砂浜に寄せ返す波のような、静かに降りつもる雪のような、落ちついた心音が聞こえる。それはもう心音ではなく、本当に波と雪の音なのかもしれない。
 おまえを怖がらせるものは、もう何もない。俺が怯えるものも、もう何もない。二度と、誰にもおまえには触れられない。生と死の境界線を越え、おまえが俺の中で息づく限り、思いと呼ぶには歪んでいても、おまえと共有した時間が、俺の礎になる。
 血のように駆け巡り、骨のように組織をつくり、俺を支配しながら生きてくれ、兄弟。世界が見たいなら、この眼で先を見ろ。退屈させねえ自信はあるさ。
「この俺を無駄にするなよ、兄弟。おまえにくれてやれるものなんて、俺には何も残っちゃいない。あとはもう、素粒子になって散らばるだけだ」
 くつくつと笑い、おまえは言った。緩められた腕から離れ、正面からおまえと向きあう。おまえが最後にどんな顔をしているのか、一番の見物だったのだ。
「俺の死体がここにあれば、餞別に首でもくれてやるのになあ」
 おまえは笑っていた。どうにも愉快だと、にやにや笑いを浮かべていた。何とも不敵な笑みだった。
 皮肉をやめるという試みは、結局のところ失敗に終わったが、まあ、こういうのが俺たちには似合いだろ。
「いらねえよ、おまえのにやけた生首なんて」
 おまえの無骨な手を握り、俺は今度こそ腹を抱えて笑った。