親愛なる君へ 10


Timeline: EP2, after meeting Albedo in Local Matter Shift



 昇った月は満月だった。海へ向かっている。もう隣には誰もいない。
 夜風になびく穂が鈴の音のように鳴る中、ライ麦畑の間を縫った小道を歩く。黄金色の畑は帰途につく俺を歓迎するようにして夜風で二手に割れ、海へ続く一本道を差しだしていた。満月で照らされた道は、道端のツルニンジンやキオン、モリアザミの葉一枚一枚まで見えるほど明るい。太陽の熱を感じないため、光が降り注ぐというよりは月光の湖に浸かっている気分になる。
 足を踏みだすたび、歩いた道は消える。優しい闇が俺の足跡を食べていく。そのあとには光もなく、影もない。これが本来の姿であるかのように、俺には知覚することのできない無の世界に回帰してゆく。何もない。
 君の家はもう見えないだろう。赤毛をさらう風は少し肌寒く、空気は多少の湿り気を帯び、肌に汗をにじませる。草の行進、風の音色、月光、それらの現象により体内の換気が行われる。
 生きるために命は尽きる。おまえは生きた。同じ時間をともに生きた。俺とおまえをつなぐものは、癒着していた臓器の名残でもなければ、兵器としての能力でもない。
 例えば、それは小説の中のアルファベットのように単独では意味がなく、経験した時間の中で綴られた記録のようなもの。ページに付着した血液と同じく、書き記せば二度と消えない。俺が一冊の本だとすれば、一枚のページに一度は必ずおまえの名を発見できることだろう。真っ赤なインクの殴り書きが、まっさらな羊皮紙を埋めつくしていることだろう。そうして、おまえの部位を預かっていく。糧となれ。正気と狂気の間を行き来しながら呼吸をし、肉をつめた袋だけでは完成されない個の形態を構築しろ。昔も今も、おまえは俺を生かしている。
 この十四年間、俺とおまえは人が相手を見るには、どうも近すぎる距離にいたようだ。睨みあい、憎みあい、求めあい、自分自身を病んだ眼に映していた。でかくなったおまえを、ようやくまともに見られたよ。
 麦畑を越えて波のように進んでくる闇が、伸縮自在の背をゆらりと伸ばし、俺の背中を温める。夜空に煌々と散らばる星たちが、ライ麦畑のざわめきを汲みあげる。世界が終わる静謐な夜に、星をものみこむ勢いで呼吸する。夜気はずいぶん冷えていた。
 揺れる麦の穂の連なり。世界がこのまま在るのだとすれば、この麦たちもやがて土へと落ちたろう。そして、来年になれば多くの麦を生むのだ。その繰り返しが世界をつくる。俺の世界も円を描いてぐるぐる回っていた。宇宙が終わるまで連続するその鎖の途中に一人の人間が組みこまれているのだとしても、俺にはそれをつなぐことしかできない。『せめて、おまえだけでも、生きて伝えてくれ、事の次第を、何も知らぬ人たちにも、納得のいくように、ありのまま』―そう託されたならば、どんなに救われることか。
 星屑の光は月光に息をひそめ、藍色の天井に架かる天の川も靄より薄い。宵の口にしては明るい空で、ロスト・エルサレムの一等星シリウスのような、真っ白い恒星の光が目を焼いた。
 ライ麦畑が終わると、その足で草原に入る。膝下辺りまで伸びた麦草が、さらりと鳴る。遮るものは何もなく、頬にあたる風の冷たさが身に凍みた。それなのに、体の芯は火照っている。
 夜空に浮かぶ赤い満月が思わせるのは、真っ赤なデュランダル。艦内に響く喧騒こそが俺の日常だ。忙しなく行き交うクルーたちの、オイルにまみれた笑顔を冷やかして巡回する。ヴェクターの新製品について、マニアな論争を繰り広げる毎日が好きだ。たまの休みにカジノでコニャックを飲み、カードに熱中する奴らと、また馬鹿騒ぎをしたい。姉妹の監視をかいくぐり、彼女たちの会誌を配るのは俺の仕事。ブリッジの百式たちにも、新しい絵本を読んでやらないと。帰投したらコロニーの賑やかな市街をぶらつき、酒場で男どもと一杯やってから、ジャンク屋で骨董品をしこたま手にいれ、うまい飯をたらふく食う。挨拶を交わす街の人々は、十四年間も成長のない俺を詮索することなく、どんちゃん騒ぎで歓迎してくれる陽気な奴らばかりだ。エルザの連中は長いつきあいの中、無茶な注文に文句を垂れながらも完璧に仕事をこなしてくれる。カナンは無愛想に磨きをかける一方だが、昔から俺たち兄弟を見守ってくれているし、馬鹿げた悪戯にもつきあってくれる一番の悪友、ケイオスもいる。ヘルマーは俺たちを実の息子として育てあげ、俺たちのために泥を被ろうとも惜しみない愛情を注いでくれている。シェリィとメリィは、ああ、かわいくて仕方がない。とびきり美人に成長してしまい、どこかの馬の骨にかっ攫われやしないかと心配している。
 恵まれたことに、俺には帰る場所がある。待っていると、そう言ってくれた奴がいる。あいつのところへ帰ろう。この足で帰ってもいいのだ、そう思えた。
 イラクサの野を抜けると小高い丘がある。入り江の上に盛ったような丘陵には、風車が整然と並んでいる。ゴウン、ゴウン、と地鳴る音は、まるで慟哭のように思える。そこから湿った潮風が吹きあれ、俺の体を突きぬける。黄金のライ麦畑も、緑の草原も、もう滑らかな闇の袖に仕舞われてしまったのだろう。世界をとりこみ肥大した闇が、すべてを無に帰すのだ。
 人は生を見ることが深ければ深いほど、苦悩を見ることが深くなり、人生そのものには何の意味もなく、それは醜悪で、不気味で、誤謬で、虚偽で、無である。生きたいと思うなど馬鹿げている。何よりも自分の意志で生きたいなど、地獄を見た上でほざく奴は馬鹿以外の何者でもない。ああ、まったく俺は馬鹿な男だ。
 潮風の吹きあげる緑の丘に立ち、風車の煽りを受ける髪をそのままに、文字通り果てのない海を見下ろした。真下には入り江があり、夜空の星のように輝く砂浜が見える。水平線に影はなく、背後の闇のように黒い海面が滑らかにたゆたう。白波のない夜凪だ。バラより深い青のコントラストを眺めおろし、風車の轟音に消えないよう声を張る。
「俺はいくよ、サクラ」
 海に向かい、君の名を叫んだ。まるで昔のように揺るぎない自分の声に、少しばかり照れ臭くなる。静寂の海は一度だけ波打ち、海面に映りこむ月が砕けちる。光の散らばりは、デュランダルのブリッジから展望する宇宙の星雲に似ていた。自分の瞳に光の粒が舞っているのがわかるほど、海面から反射した月光は眩しい。乾いた目を瞬かせる俺の背に、風車から送られる風とは違う温かな空気が触れる。
『行ってらっしゃい』
 君の体温を感じているような闇の心地に身を任せてしまいたくなるが、留まることはできない。わずかに後方へ身じろいだ俺を、君は『振りむかないでね』と制した。振りむけば、もう帰れなくなる。ギリシア神話ではないが、そう理解していた。
 例えば、俺が死んだとして、世界は何事もなく回りつづけるだろう。宇宙のシステムからしてみれば、人類の消長も、ましてや一人の命がどうなろうと、取るに足らない事象でしかない。何か残るものはあるのだろうか? 水、炭素、アンモニア、石灰、リン、塩、硝石、硫黄、マグネシウム、フッ素、鉄、珪素、マンガン、アルミニウム……それと、幾許かの元素と。その合成物である肉体というものは残る。大抵が腐るまでに焼かれて灰になるか、もしくはバクテリアに分解され大地へと還るかで、肉を肥やしに墓標の上には草花が咲く。この宇宙のあらゆるものは循環している。築きあげたつながりは、理由を求める人類の意志という糧になり、関係した人々の中に生きつづける。人が意識を重んじる社会に身を置く限り、残るものは意志だ。
 死というものが、実数領域でのつながりを裂いたとしても、人の意思には領域などなく連鎖する。目に見えない、即ちそこにはないと、どうして言いきれる? 人がすべからく力への意志によって突き動かされているのだとすれば、俺は今じゅうぶんに動ける。俺には立ちあがれる足がある。ああ、動けるとも。そうだろ、兄弟?
 肌からにじむ汗や、乾いて水を欲する喉が、影の世界にいる自分の生を実感させてくれる。この世界は自分がいるべき場所ではない。ここでの俺は単なる来訪者であり、永住できる居場所はない。大地に低音を響かせる風車が、場違いな客を追い返すように風を吹きあげた。
 忘れないで、と君は囁き、強風から俺を守るようにして黒い腕を俺と風車の間に伸ばした。『あなたにとって大切な人の最後の一人がこの地上から消えうせたとしても、あなたは現に独りではないし、未来でも決して独りになんてならないわ』
 微笑んでいる。姿は見えずともそう感じた。強風にさんざん混ぜ返された髪を撫でるような優しい口調が、見えない君の表情を伝える。
 過ちを犯さずに生きてゆけたならば、うしろなど振りむかずにいられるのだろうか、と時々思う。俺が振りむいた先には、いつも君たちがいて、やわな俺の背を何度も押してくれた。俺に罰を求めている者など自分以外にいやしない。ありもしない罰にこだわり、それを何度も繰り返しては自重ですべてを失う。罪は巡りつづけ、自らを立ちどまらせる。罪をつくるのが人間ならば、罪を赦すのもまた人間だ。俺は、自分を赦そうと思う。過去を無にしないためにも、それを経て得た今と向きあわなければ。愛惜と苦痛の記憶というものが直結して切り離せないのであれば、俺は受けいれるほうを選ぶ。
 罪は消えない。傷は癒えない。痛みはとれない。それらすべてが君たちへつながっている。そう考えると、甘い痛みが体の根底を熱くする。痛みは大事だ、生きた証を立てるために。
 限りあった未来の中で君たちが生きた証を、同じ時間をともに生きていた俺が受けいれられない。それは、もう二度と君たちを抱きしめられないことよりも残酷なことだと思う。だからこそ、あらゆる全力を尽くして、俺は今を生きるべきなのだろう。人はそうしてつながりつづけてゆくのだ―確かめたければ、なおさらに。
「サクラとの約束、あるしな」
 そうつけ足し、笑ってみる。まあまあ、うまく笑えたと思う。「これからは俺が守るってより、仲間内で見守ることになるだろうがな。頼りになるボディガードもできたことだし、それでなくても、モモとユリさんは強い女性だよ」
 陵丘をくだる坂道に入ると、月光に照らされた影がぐんと伸びる。長い手足の真っ黒な男を見つめ、いつかは俺もこんな姿になるのだろうか、そんなことを考えた。
『あのね、ルベド』背後にいる影のない君から、遠慮がちな声が届いた。普段は積極的な君が口を噤むので、俺は「〝ひとつお願いがあるんだけど〟だろ?」と、君の台詞を代弁した。「ユリさんに伝えるよ、ここでのサクラのことを全部。それでも足りなきゃ、どんなに長い手紙だろうと覚えるぜ」
 あの頃の俺たちは、君の家で日が暮れるまでおしゃべりをして、現実に戻った俺は時差ボケの頭痛をひた隠し、俺の帰りを待っていたユリさんに君の様子を伝えていた。親子の愛を肌で感じ、人の愛情はこれほど強いものなのかと初めて知った。ママを愛してる、が口癖だった君の言葉、局所事象変移での君すべてを必ず伝えよう。
『ありがとう……ありがとう、ルベド』
 囁く声は震えているようだった。君の肩を抱きしめたいのに、それができないのは残念だ。気を抜けば君へと向かいそうな手足を押しとどめ、俺のほうこそ、と頭を垂れた。
 どうすれば君たちに返せるのだろうか。どのような言葉にしても、それだけでは足りない。君たちを抱きしめておける腕の一本でも置いてゆければいいのだが、そんなもの君たちは喜ばない。この先で返せるかな。どこに在ろうと届くように生きてゆけば、安心させてやれるかな。
 乾いた土を蹴り、砂の混じった坂道をくだる。長く伸びた影が道を示すかのように自分より先を行く。潮騒が強くなる。風車の振動はもう聞こえない。君はもう、あとを追っては来なかった。黒い気配は丘から動かず、見送るように健気に佇んでいる。俺のほうも引き返すことはないだろう。歩くだけでいい。
 細かく光る砂浜に靴が沈んだとき、すでに浜辺しか残ってはいないであろう君の世界は、空間すべてが連動したかのように振動した。それは誰かの呼吸のようで、体験したこともない母親の胎内を思わせた。世界が誕生以前に逆行し、闇の中で胎動している。収縮を繰り返す心臓が、いまだ体を残している俺を急かした。
 足元へ寄せる波に近づくと、『ニグレドにお礼を言っておいてね』と、空から凛と通る声が落ちてきた。君の言葉を拾ったまま、それを見つめる俺を見越していたように、確信犯の君はくすくすと笑っている。軽やかな笑い声が雨のように降り注ぐが、声の主の気配は確実に丘から遠のいていた。手にした風船が風に煽られて飛ばされるように、肥大していた闇の質量を感じなくなった。丘にはもう何もいない。おそらく丘すらもうないだろう。君のもつ概念が消え、世界は終焉を迎える。
 虚無の空間から、
『ルベドと見た海、とってもきれいだったわ』
 最後に聞こえた君の声。思わず見上げた夜空から、ひらり、何やら舞い落ちてきた。掌で受けたものは、古書で見つけた桜の花弁に酷似している。雪のひとひらのようにも見える白さ。本当に雪だったのか、欠片は俺の皮膚へとりこまれるようにして溶けた。やんわり広げた掌で、疎ましい数字が単なる記号の並びに見えた。
 ガイナンと姉妹を連れて行ったプライベート・ビーチの光景が、君の言葉と連動するように想起される。病気を治して、俺と本物の海へ行こう―その願いは二度と叶うことなどないと思っていた。願いは理想論そのものだ、そう思っていたのに。
「サクラ」
 何もなくなった掌を、胸元で掴むように握りしめる。当然何も掴めないが、掌は砂でざらついていた。
「海、行けたんだな」
 君からの返事はない。それでいい。じゅうぶん泣いたし、じゅうぶん笑った。じゅうぶんに別れを惜しめた自分は、じゅうぶんに幸福だ。これでいい、じゅうぶんだ。
 君は迷わずいけただろうか。今は誰の声も、闇の中に沈んで聞こえない。乾いた鼓膜を揺らすものは、波の割れる音と風に流される砂の音。耳を澄ませば、星がまたたく音さえ聞こえそうな静謐。砂は毛布のように柔らかで、月光のもと一粒一粒が発光しているようにも見える。黒く滑らかな波が、白い月を海面に乗せている。水平線も仄かに発光し、あるはずのない果てを俺の目に映していた。夜空はコロニーの天蓋よりも高く、点々と並ぶ数億の星へ、どうしたって届きそうもない。空気がこれ以上ないほど澄んでくる。
 ああ、君がいたから、この世界は美しかった。
 記憶にある海は季節に関係なく冬で、瞼の裏には白く死んだ世界がある。後悔という名の雪が舞いつづけ、凍った自分を覆い隠してなお降りつもる。大気は枯れて冷たく、天地は目を焼くように白く、海面に漂うものは寂しさのみ。灰色の海には、果ても何も見えやしない。
 見上げた満月に、照りつける人工太陽を重ねてみる。透きとおる群青に薄く輝く星々が浮かぶ空、黒くうねる生物のような海が、青く青くじにんでゆく。白く波打つ海面の内に、グリーンを含んだ眩しい青が広がる。明るい砂浜で、姉妹が楽しげに笑っている。小さなモモが俺に気づき、ビーチボールを抱えたまま嬉しそうに手を振る。
『Jr.
 滑らかに俺を呼ぶテノール。骨張った手が肩に置かれ、その腕を這うように視線をあげる。辿りついたのは、萌え息吹く緑の瞳。いつもの微笑みで、ガイナンが俺を見下ろしている。
 どうしても言えずに仕舞っていた言葉を、もう受けいれても良い頃合いだ。
 君の書架に並んだ本、おまえの読んでいた本、俺が今まで読んだ本―それらを思い浮かべると、妙に交差する瞬間がある。聖書だろうと三国志だろうと、それらの歴史の結び目に留まることは不可能で、俺たちの時間は疾走する。音も光も消失したあとに残ったものは、紙のページをめくる感触、銃を撃つ熱と反動。残像は美しさを多少削ぎ、瞼を閉じると、そうした日常が俺を定義する。背中に残ったままの傷跡も、薄れる日々の記憶も、結びあい、ともに生きてゆく。
「さよなら」
 と告げた瞼の裏。雪はもう、やんでいた。