親愛なる君へ 11


Timeline: Interval between EP2 and EP3, after returning from Local Matter Shift




 ファウンデーションに帰還した俺を待っていたのは、誰もいない執務室だった。夜間用の室内灯は点いておらず、深夜の室内がネオンの灯りに闇の色を変えている。動かないカーテン、音の鳴らない蓄音機、枯れない観葉植物、球のないプールテーブル。どこもかしこも奇妙なほど整頓されていた。寝心地の良いダブルベッドも使用した形跡はなく、室内は人の痕跡を残していない。デスクのインフラだけが、立ちあがったまま放置されていた。年代物インテリアには不自由していないが、ひどく寂しい部屋を見渡してみる。乱れのない空間に置かれているものは俺の嗜好だけで、もう一人の代表理事の個性を何も伝えていない。いつでも捨てられる場所なのだと、暗に告げているようだった。
 あの男が、いつから睡眠をとっていないのか、それさえ俺は知らない。十四年間、常に傍にいてくれた弟のことを、俺は何も知らない。この目玉がいかに質の悪い屑石かを今さら思い知さられる中で、部屋の角にたまった闇にも嘲笑われているようで居心地が悪い。
 窓外は夜の光華に満ちていたが、執務室の音といえば規則正しく時間を刻む振り子時計の秒針くらいのもので、静謐な空間にはデスクのモニターから零れおちたグリーンが光るだけ。無人の室内は、身を切るように薄ら寒い。網膜を刺激する窓の影に、穏やかな緑光を湛える瞳が重なる。
『おかえり』
 見えない指先で、体を柔く刺激する低い声。何気ないやりとりを、当たり前の権利だと思っていた。ガイナンが消える未来を、俺は一度でも考えたことがあったろうか―いいや、考えた。そりゃあ、何度も考えたさ。考えすぎては信じたくなくて忘れようとした。決して実現してはならない未来であったのに、すぐ傍に忍びよるまで何も対応しなかった。
 ―ニグレドの影に気をつけろ。
 ―ニグレドにお礼を言っておいてね。
 君たちなりの懸念の言葉は、俺の愚鈍さへの叱咤でもあるのか? 目を逸らすな、真実を見ろ、と。
「……ただいま」
 掠れた言葉は、どこへも届かず霧散する。デスクに拳を打ちつけると、右手から衝撃が伝わり、ヴァイオリンの弦のような余韻を脊髄に残した。


 執務室の廊下には、赤い絨毯が敷いてある。室内には飾りきれない複製絵画が並べられており、俺はいつも『オフィーリア』に見惚れる。
 相変わらず、念話の応答はない。夜分だ、足で探そうと思った矢先のこと。白い壁が迫るように伸びる廊下、黒いスーツの男はまったく背景に溶けこめておらず、いとも容易に発見できた。男は廊下の角の壁にもたれかかり、呻いていた。獣のような低い喘ぎ。深紅の絨毯を何度も靴で蹴り、両腕で頭を抱えている。かき回された黒髪が長い指の間から飛びだし、その姿は飢えた野犬を思わせた。
 人気のない静の空間で男が俺の足音に気づき、獲物に食らいつくかのように振りむいた。その一瞬のあと、普段の柔和な顔をとり繕う。額に張りついた前髪を撫で、汗を拭い、俺の名を呼ぶ口元には、多少の苦悶が残っていた。
「よお」別段、不審もない平常の俺に対して男も平静を装う。荒れ狂っていた獣の獰猛さが嘘のように払拭されている。「頭痛はひどいのか」
 断定的に訊く。この男があからさまに頭痛に苦しむさまを目撃したのは、これ一度きりだが。見上げた男の睫毛だけがわずかに震える。それ以外に動揺は見られない。
「ここ最近な。おまえの無茶にやられている」
 軽口を叩く余裕はあるらしい。さすがだな。「笑い事じゃないぞ」自嘲気味に吐いた息を単なる笑みと捉えたのか、男は呆れた口調で俺を非難した。ああ、そうだ、笑い事じゃない。
 記憶のコピーという代物は、どこまでオリジナルに忠実なのだろうか。そんな考えを巡らせながら、男の外面をしばらく見つめた。その顔に回答の記号が並ぶはずもなく、男のほうは眉をひそめ訝しんだ。俺はコートから車のキーをとりだし、ぞんざいに放りなげた。鈍色の古めかしいキーが、男の硬い掌で金属音を鳴らした。なあ、と挑むように笑い、男を覗きこむ。
「眠れねえなら、朝までつきあえよ」
 生意気な子供の顔が、緑の双眸に辛うじて映っている。そのまま喘ぐように口を開き、
 気づいてるか? 振りむいた瞬間、おまえ人殺しの眼ぇしてたぜ。
 言いそびれた言葉をつくり笑いに隠した。


 助手席から見る市街地は夜更けの紫に染まり、色とりどりの蛍光が車窓を流れてゆく。まるで流星群のような光と闇の交差する世界に、自分の陰鬱な顔が繰り返し映る。自動操縦を解除した形だけのエンジン音は、その流星が地に落ちる音のようにも聞こえた。
 A.D.一九六四型のアストンマーチン・DB5は、二十七市街区画にある倉庫のような整備工場『East6』の面々が、七九%新しい部品を使用し、新車同様にレストアされた車種だ。日常の足としても十二分に使用することが可能なだけでなく、ファウンデーションで毎年開催されるクラシックカー・コンクールに出展して優勝を狙うこともできる。愛称〝エリザベス〟。当時の英国らしい気品あるボディには、女の肢体を思わせる美しさがある。ガイナンが仕事で移動に利用する電磁車も乗り心地は良いが、俺にはリズミカルに振動する彼女のシートのほうが性に合う。
 車内にはベン・E・キングのヴォーカルが流れている。ロスト・エルサレム時代の米英オールディーズのヒットナンバー集だ。以前、ガイナンと姉妹を乗せ、短い休日を利用してコロニーの周回ドライブをしたが、あの日からオーディオに挿入して忘れていた。水中から届いているようなこもった音と、その水泡が割れるように所々ぱちんと弾ける旋律は、お世辞にも現代の洗練されたメディアに遠く及ばないだろう。だが、古代の遺物には、その差を埋めてなおあり余る魅力がある。当時の連中が生きた時代を俺が生きることは不可能であり、所詮はスクリーンやページの向こうで起きた過去の出来事を繰り返し再生しているにすぎないのだが、それでもノスタルジックな過去へと思いを馳せてしまうのは、俺の悪い癖だ。過去というものは、人の歴史であり、証であり、傷痕というには生々しい傷であり、未来へと進むしかない人類にとって、こうして過ぎ去った日々の幻想ほど甘美で中毒性のあるものはない。麻薬と同様、虚無でしかない現在を蕩かせ、不安な明日を忘れさせるほど、ずぶずぶと浸らせてくれる。すべての苦痛を麻痺させるために没頭すれば危険だが、見知らぬ昔を懐かしむ程度に使い慣らせれば、これほどの暇潰しはないだろう。ドラッグ以上に手軽なのだ。
『No, I won't be afraid Oh, I won't be afraid Just as long as you stand stand by me…
 流れる曲に合わせ、喉の奥で鼻歌のように歌ってみる。耳につく自分の高音では、やはり様にならないが、まっすぐに歌いこまれた思いは何千年経とうと色あせることがなく、どれだけ経験を積もうと進化のない人類を嘲笑うかのように心を抉る。この曲に乗せて綴られた、十二歳の少年たちのひと夏を描いた同名映画にしても、スクリーンで駆ける彼らが何千年も昔の人間だとは到底思えなかった。俺が体験した当時は彼らと何の関係もないが、人間の根底にあるものは変化しない。いつの時代も少年は死体探しに熱中できるし、男は少年時代からちっとも成長できない。
 俺もずいぶん歳をとった。人でありたいと焦がれつづけた子供の自分を馬鹿な奴だと自嘲する今、あまりに俺は人間らしいじゃないか。ただの兵器に矛盾という感情をもつことはできない。
『人間とは神の失敗作にすぎないのか、それとも神こそ人間の失敗作にすぎぬのか』―ラジオの端末がひとりでに入り、ロックンロールを流しだすエリザベスのように、記憶や感情には理屈のつかない装置がある。神なんぞ端から信じちゃいないが、
「完全な兵器よりは、はるかにましだな」
 運転席でハンドルを握る男の横顔を覗くと、彫りの深い顔に陰影がつき、その表面を外灯の光が一定感覚で滑っていた。閉じられた口がわずかに開き、「何か言ったか?」と問われる。
「おまえの運転は久しぶりだ、とな。彼女も喜んでるよ」
 フロントガラスの先から目を離さない男に向かい、そう答えた。男はこなれた手つきでギアを操作してから、乾いた笑い声を漏らした。その低音が耳朶に触れる。
「女性には優しくしろと、誰かさんに口うるさく言われているものでね」
「そりゃ、いい心がけだな」
 冗談めかした口調にどことなく気だるさを感じ、適当に返事を返してから苛立つ。こんなことを話したいわけじゃない。
 筋肉から微弱な緊張が脳へ伝わり、思わず車窓へ顔を逸らすと、ネオンの流星が見えた。夜半を終えつつ朝に届かない時間帯―完全な黒ではない、深みのある紫の空色が美しい。車窓の縁に頬杖をつき、睫毛がガラスに掠るほどの位置で息を吐きだす。白く曇った窓を見つめ、運転席の男に意識だけを傾け、
「フィフス・エルサレムで、何をしていた」
 と短く問う。震えのない声に安堵した。「ファウンデーション絡みの仕事じゃねえのは、確かだよな」
 余計な感情を抑制し、自分に可能な最も低い声音を捻りだす。黙したままの男に向き直り、睨みあげる。薄暗い車内で男の横顔に表情はない。まるで彫像のような顔の中、形の良い唇がやんわりと動く。
「ザルヴァートルの動きを洗っていた。旧ミルチアへ出発する前にも、説明したはずだが? 詳細もシェリィに伝えてある。星団連邦軍によって急遽編成された起動艦隊がタンタス腕へ向かっていたからな。その意図するところは明白で、こちらもただ座して待つのではなく、先手は打っておくべきだと―」
「聞いたよ、だから言ってんだ。それは俺の仕事だろうが」
 流暢に話す男の言葉を遮り、怒鳴り声にならないよう自分を抑える。確かに、あのとき俺自身はモモの深層領域にいたし、ヘルマーも色々と手回しをしている最中だったが、敵勢力の動向調査などという裏仕事に、表の代表理事が直接介入する理由などあったのだろうか。戦況からしても、先手を打てたようには到底思えない。この弟が、俺への事前報告もなしに単独で動いたことは一度もないというのに。
「旧ミルチアの出現に連中が色めき立つことなんて、俺でも予測できた。実際、デュランダルでも件の調査には常に人員を割いてたし、あの最中に部下への指示ならまだしも、要のおまえが第二ミルチアを離れる必要性はねえだろ―おまえなら、ガイナン・クーカイなら、そう判断したはずだ」
 軽々しい行動など一切しない、むしろ慎重すぎるほどのガイナンが、自分の立場も憚らず自ら危険に身を晒すだろうか。男は答えない。俺を見ようとしない。オーディオから響く音楽が、今は耳障りだ。体を振動させるエンジン音も同じようなもの。向こうの言葉を聞き逃したくないのに、何も聞こえない。ハンドルを握る両手も、ネオンに照らされた横顔も、安全な膜を通して接しているようで、俺のところに危険なものは届かない。
「U.M.N.が混乱していたとはいえ、何の連絡も入れないのかよ」
 念話の応答さえせず、何をしていた。精神ブロックの向こうにいたおまえは、どんな状況だった。教えてくれよ、ガイナン。
「心配をかけたことに関しては、すまないと思っている。しかし、連中のもとには我々U.R.T.V.のデータも残されていたはずだ。念話といえども、傍受の危険性を考慮しないわけにはいかない」
 その言葉もファウンデーションで聞いた。ユーリエフ・インスティテュートの研究員が保有していた俺たちの研究データを、ザルヴァートルの組織が保有していてもおかしくはない。ミルチア紛争後も水面下で続行されていた研究の成果とやらを、俺はこの目で見たのだから。
「U.R.T.V.ポッドのことか」
 エルザで旧ミルチアへ向かう途中、移民船団と連邦軍の交戦に出くわした。アルベド、おまえの小細工だったよな。厄介な二つの勢力を鉢合わせ、自分はその隙に機動要塞をブースター代わりとして旧ミルチアへ向かう。それを見せつけるのは目論見の内だったのだろうが、仕組まれていた戦闘で連邦軍が投入した兵器がU.R.T.V.ポッドだったのを、おまえは知っていたのだろうか。無人の小型機動兵器。その中枢制御ユニットに使用されていたものは、生体部品―つまり、脳だ。クローニング培養されたU.R.T.V.の生体脳が機動兵器に組みこまれていた。反吐がでる。実際、目撃した瞬間は強烈な吐き気に襲われた。
 仲間との対面が、こんな形で待っていようとは。あのような非道が許される、それがザルヴァートルという組織なのか。移民船団の保持する兵器は、ゾハルの波動を利用したエネルギーフィールドを有していた。その波動とのリンクを断つために、U.R.T.V.の能力が有効で、それなら打ってつけのものがあるぞ、と開発されたのが、あの胸糞悪いポッドというわけか。連中、ふざけんな! 俺自身、仲間を見捨てた罪とて赦されるものではないが、それでもこれは非人道的すぎやしないか。U.R.T.V.は人間ではない兵器なのだから、道徳や倫理など関係ないとでも? 丸出しの脳に刻まれた苦痛は、単なる情報だと? 豚や牛と同じ場所で培養され、悲鳴さえあげられぬ姿に解体され、生きたまま奴隷以下の使役を強要された挙げ句に処分される。移民船団のファシズムにも呆れるが、ホロコーストやアパルトヘイトは対象を変えながら今も繰り返されているし、そうしたイデオロギーがなくならないことも事実なのだ。自分も自分以外の者も、生きた人間でありたい。理不尽にむしりとられたくはない。まっとうな人間として生きたい。それだけのことが、どうして何千年も叶わない。
「ほう、知っていたのか」
 こちらを一瞥した男の、抑揚のない冷めきった返事を聞き、瞬間、足先から頭まで一気に血が昇った。憤慨を抑える間もなく、スーツの胸元を掴みあげる。舌を噛みそうになる。「てめえ、何でそう平静でいられ―」言葉が途中で浮いた。ベルトを装着していない体が大きく揺れ、ボードに叩きつけられる。全身に走る衝撃。手足の指先が痺れる。横着してエアバッグをとりつけなかったことを、ぼんやりと後悔した。ぶつかった弾みでオーディオは途切れていた。
 急停止した車内で痺れの残る体を起こし、男を睨めつける。当人は悠長にベルトを外し、俺の動揺など気にもとめずに「お望みの場所に到着だ」と、ことさら優雅に微笑んだ。