親愛なる君へ 12


Timeline: Interval between EP2 and EP3, after returning from Local Matter Shift



 車を降り、紫がかった藍色の空を見上げる。蓮の花を模したコロニー上空に輝く人工衛星の照射は、市民に穏やかな月光を提供していた。日中は太陽として、夜間は月として、頭上に燦々と輝きつづける球体のエネルギー源は、人工物とは思えない美しさで、その中でも観光客に特に人気を博しているのが、夕暮れと夜明けの時間帯だ。黄昏の空は赤く染められ、太陽が皆既日蝕のように欠けてゆく。太陽が欠けた部分は一端、暗い影となり、そこから柔らかな月が姿を見せはじめる。夜の満月が皆既月蝕のように欠けはじめると、今度は太陽が体積を増すことで夜明けとなる。つまり、太陽と月の働きを備えた衛星が、丸一日かけて自転する仕組みだ。
 本日の天気は晴れのち曇り。湿度調整のため、夜間は降水の予定だ。ファウンデーションの天気予報は一○○パーセント的中する。緩やかな弧を描く海岸線はいまだ暗く、道路沿いの建物も最低限の常夜灯だけを光らせている。プライベート・ビーチの空気も肌寒く、遠くにそびえる山々の稜線だけが、淡く白みはじめていた。夜明けは近い。車体にもたれ、男は硬くなった体を軽く伸ばした。
「わざわざ明け方にここまで来ても、おもしろいものなぞ何もないだろう。それで、用件は? 今までの経緯でも説明してくれるのか」
 男は早口に言い、唇を捲るだけの年齢以上に老成した笑みを見せた。こうした場合、この男は正体不明となる。寄りそい育った兄弟などではなく、俺には何の片鱗さえ窺えない見知らぬ男になってしまう。時折、ガイナンが浮かべるこの笑みを、俺はどうしても好きになれなかった。唾を飲みこむように顎を引く。
「どうせ全部、筒抜けなんだろ」
 念話に応答はなかったものの、自分が完璧な精神ブロックを張れていた覚えもない。ましてや、局所事象変移内へ移動してからは、自失していたと言ってもおかしくない。そんな状態であった俺の精神状態一片さえ漏れていなかったとは思えない。何しろ、毎夜うなされる悪夢でさえ、覗き見られているほどなのだから。何があったのか問いつめたいのは、俺のほうだ。
「そうだな」長息し、男はアスファルトから砂浜に降りたった。俺も靴のまま砂に沈む。潮に触れた細かな砂は、革靴越しにも湿っていることがわかる。「ミズラヒ議員にお会いしたよ。十四年振りに、あの百合のような美しい笑顔を拝めた。彼女も過去を乗りこえたということか―おまえのように」
 天蓋に散りばめられた星が漂う群青の海を、男は水槽の魚でも見入るように仰いでいた。無軌道方移動コロニーの空には星座がない。毎夜新しくなる星空の夜気を吸いこみ、水平線の円環から白みはじめた夜空を見上げる。
「俺の場合は、乗りこえたなんて響きのいいもんじゃねえよ。諦念も含めて、昔よりは素の自分を受けいれる余裕ができた、それだけさ」
 罪悪感に逃げるのではなく、自分の弱さを認め、過去そのものを受けいれる。それだけのことが苦痛だった。すべてを失いそうで怖かった。今でも乗りこえられたとは思わない。抜けだした、という表現もそぐわない。なぜなら、乗りこえたり抜けだしたりするような障害は、もともと俺の前には存在していなかったのだ。単に十四年前のあの場所で、自分に怯えて身動きをとれずにいたというだけで、狭苦しい足場で一人、自分の影からぐるぐると円を描いて逃げ回っていたというだけで。
 いくら歳をとろうと、孤独を感じなくなるわけじゃない。むしろ時を重ねる中で、それが肥大していく者もいるだろう。時が経つにつれ、自分の心に覆いをすることがうまくなるだけで、人が孤独から逃れる術はない。だからこそつながりを求め、何かにつけ意味づけし、それらを失う恐怖に怯えている。
「思えば、あいつは―アルベドは、俺よりも本当の意味でサクラのことを理解していた。おそらくは、おまえのことも知っていたろうな。その上で、あいつは誰に何も言わなかった」
 君たちに理解を求められたとして、当時の俺はどう答えただろうか。
 俺はおまえを信じている。だから、おまえも俺を信じろ―生きたまま心臓を抉る、残酷な言葉だ。
 おまえをわかっている。おまえを理解している―虫唾が走るほど、厭らしい言葉だ。
 人が人を全理解できると信じることの愚かな傲慢。残忍な決めつけで、真実を見ようとしない。自分の常識以外を認めようとしない。理解しあえない者同士もいると知りながら、俺は君や兄弟に対しては、それを例外だとしていた。肉親の油断、恋の盲目、無知の安穏―氷山の一角を垣間見ただけで、すべてを知ったつもりになっていた。窮屈だと喘いでいた箱庭で、実際にはその窮屈な内部でさえ何も把握できていなかった。自分の無知と怠慢が腹立たしい。
 今年で十五年になる。
「おまえも俺には、何も言えねえ?」
 俺の言葉に、男は絶句した。緑の双眸が見開かれ、暗がりで揺らめいている。返答を期待してはいなかった。
 月は下弦に向かっている。日蝕で太陽が隠れた直後に見えるダイヤモンドリングのような白い輝きが、眼球に焼きついた。不用意に魅入れば、焼きこがされるような白。光というより炎のような白。
「なぜ、戻ってきた」
 質問で返した男の口調は柔らかく、物憂げでさえある。ガイナンの眼差しや、仕草や、微笑みや、雰囲気は柔和で、相手を刺激する棘がない。それが上っ面であることを、この弟が目覚めた日からおぼろげに感じていた。優しい笑みの裏に、その頭髪よりも黒々としたものがある。目を凝らしても何も見えない。些細な疑りまでとりこみ、煙草の煙のように吐きだしてしまう。漠然とではあるが、その暗がりを確かに感じていた。
「なぜ、もう一度、ここへ帰ってこようと思えた」
 次の口調は、無数の棘を含んでいた。淡々とした疑問の内に非難の響きがある。「聞きたいか?」と、試すように口角を上げて見せた。
 このまま死んでしまいたいと思った。何もかもどうでもよくなった。この手に握ったPMで一発ど頭を撃ちぬけば、それでジ・エンドだ。すべてが終わる。恐怖もない。苦痛もない。楽になれる。過酷な現実を生きつづけるより、刹那の苦しみのあとにある安穏の死を選んでしまおう。
 本気でそう思った矢先、君たちが現れた。あれは俺の望みが脳内で展開された妄想の産物で、つまりは単なる夢であったのかもしれない。俺が記憶から生成した君たちは、俺が望む答えを言い、俺が望む結末に向かう。自分にとって都合の良い、幸福な記憶の辻褄合わせに他ならないのかもしれない。俺は君たちに赦されたかった。死を通過することで永遠に失われた赦しの機会を、今一度与えてもらいたかった。現実と想像の境界で、俺は自分を赦したかった。実際、証拠といえるものはない。仲間に抱きおこされて気づいたとき、俺の体は局所事象変移ではなく、エルザのキャビンに横たわっていた。戦闘後にみっともなく失神し、それから小一時間ほど死んだように眠りこけていたらしい。果たして夢か現実か―まあ夢にしろ、それを見たことは事実だ。信じるか信じないかではなく、結果として得た考え方をどう生かすか、それが問題だ。
 どうして戻ってきたのか? 何のことはない、ここに未練があったんだ。どうでもいいと言いながら、どうでも良くなんてなかった。どうでもいい面倒なことほど重要で、本当は理想的にこなして誇っていたい。仮想空間でのゲームのようにリセットを繰り返し、これ以上ないくらいの完璧なデータでエンディングを迎えたい。それができないから自棄になるが、ぐだぐだの過去に諦めはついても、それを継続する自分の可能性を諦めることはできなかった。
 小さな体内で欲望が疼く。隆々と築かれた死体の山を越え、なお立ちどまるなと、それは叫ぶ。力尽きるまで、その足で立て、這いあがれ、と。使命感や正義感といった善なるものではないし、願いや希望と呼べるほど実直なものでもない。自分の内にきれいなものなど残っていない。その持続は薄汚れ、不気味で、常に狂気を孕んでいる。見えない不安や恐怖より、失われる諸々の悲痛より、犯した罪の重さよりも、その疼きは貪欲に体内を這い回る。孤独よりも生々しい。それに従すると決めた。
 選択した答えに、精神防壁は張っていない。ガイナン相手に誤魔化すつもりも毛頭ない。念話に応答がなくなった以降は、むしろぶつけるつもりで垂れ流しにしていた。それが何一つ届いていないのか? そこまで離れちゃいないだろ。
「必要ないよな。わかってんだろうが、全部」
「ああ、まったく」男はにべもなく頷いた。寒気のする微笑を浮かべている。男の右手が俺の肩に置かれ、「辛いか」と、気遣うような表情で見つめてくる。
「おまえほどじゃねえよ」
「俺が?」
 男は珍しく当惑したようで、俺が目で頷くと、肩に置かれた腕は小刻みに揺れた。指先から伝わる男の震えに俺も戸惑う。喉奥から絞りだすような音を聞き、男が笑いを噛み殺していることに気づく。
「おかしなことを言う」
 笑みの残った唇を動かし、男は俺に背を向けた。その広い背には確かな不安をかき立てるものがあった。前々から特に勘が良いほうではないが、戦場で培った死に対する嗅覚は鈍っていない。男の背中は、その臭いがした。
 浜辺を歩きはじめた男の向こうで、山々の稜線はいよいよ明瞭になろうとしていた。円環から伸びるエネルギーパネルが、光を集めて反射を繰り返す。夜明けの合図だ。群青だった海面も碧を帯び、砂浜の白さが目立ちはじめた。頭上の星がきらめきを静める中心で、月は半月に程近くなり、暗く欠けた部分のあとから眩しい輝きが現れる。明暗を分かつ月と太陽の光は、目に耳に鼻に染みる。東側はずいぶんと明るさを増していることだろう。人工衛星の満ち欠けに合わせ、空は瑠璃色を薄めたような色になる。水平線のほうは、いまだ紺紫をためていた。
「親父に会ったぜ」
 本題を切りだすと、予想どおり男の足がとまる。男の些細な反応もとり零さぬよう神経を張りつづけているせいか、嫌な冷や汗がこめかみを滑りおちてゆく。潮風もべたついてきた。
「ディミトリ・ユーリエフにか」
 背を向けたまま、男は冷静に答えた。
「ああ、おかしいだろ」男に歩みよりながら、俺は自嘲する。「ヘルマーからは、十四年前に死んだと聞かされてた。それが、今頃になって唐突に、えらく若々しい面して俺なんぞにコンタクトしてくるなんて」
 男は何も言わない。平静を保つことに細心の注意を払い、俺は続ける。「もちろん、通信ルートは複雑に擬装されていた。ハマーにすら追跡できない周到さには恐れいるが、実のところ、そんな調べは必要ねえんだよ」乾いた唇を舐める。今から告白する事実の皮肉さが、何とも笑えた。「修理ついでに改装したエルザはローエングリン改級、グレードアップした内装も中々のもんだ、と報告したろ。ところが、マシューズの野郎、内実そっくり旧エルザのものを持ちこみやがったのさ。どうやらスピーカーもアンプも特注品だそうで、内装を変えちまうと全部チューニングし直す必要があるから面倒なんだと」
「Jr.」静かに名を呼ばれたが、構いやしない。
「その持ちこみ物の中には、当然のことながら汎用帯ホロモニターも入ってるわけ。そいつが肌の質感やら他云々にまで拘った高画質を売りにしたモデルでな―マシューズがスパイスシスターズのライブを観るためだよ―暗号フォーマットで圧縮されてようが、さすがだね、見事に映ってたぜ。髭剃りあとや薄い痣まで、くっきり」
「何が言いたい」
 熱のない声。背を向けた男の顔が透けて見えるようだ。感情が遮断され、外面が無になり、どんな意味づけもできない男の顔に鳥肌が立つ。奥歯が鳴りそうになり、一度口を閉じた。この男の奥深くで、何かが暗躍している。目を凝らしても闇は闇でしかなく、もはやそこに濃淡さえ存在しないが、確かに何かいる。それが何であるのか、おそらく俺は知っている―例え、それが認めたくない確信だとしても。
「ニグレドってさ、痣があるんだよな。本人の視界じゃ見えねえところ、喉元に黒い蝶のような形をした極々小さな痣。俺が真下から見上げると、ひらひら舞うように見えんの」
 初めて見つけたとき、きれいだと思った。喉元と顎の間にある鬱血した薄黒い痣は、親指の爪ほどしかなく、まるで小さな蝶が皮膚上を舞っているかのような形状をしている。何となく、自分だけの秘密にしておくのも良いかと思い、今まで本人にも教えたことはなかった。精悍さを増してゆく弟は、顎の丸みも頬の柔さも徐々にとれ、その代償に背が伸びた。俺の目線から離れてゆく大人の顔に連れられて、黒い蝶も高く舞いあがる。手を伸ばしても届かない位置まで遠のいてしまうと、ただの点にしか見えなくなった。成長をとめた俺に、孤高の蝶は捕まえられず、つまらない差異の一つになった。
「デザイナーズ・チャイルドでも、クローンとは別だからな。俺たちにも差異はある。個性も、人格も、恐怖も、痛みも、欲望も―あの痣はなあ、俺にもアルベドにもねえんだよ」
 エルザの通信モニターに映った人物は、ガイナンとまったく同一の顔を持つ金髪の若者だった。俺を〝息子〟と呼んだこと、髪と瞳の色、嗄れた声、話し方―それらの要素で男をディミトリ・ユーリエフと断定したが、その判断は直後に覆された。相手を見下すように顎をあげる親父の癖。それは確かに親父を定義できる要素であったが、晒した喉元には黒い蝶が舞っていた。ガイナンを見上げるたび優雅に舞っていた、あれほど嫌味に距離を見せつけて飛ぶ黒点を、今ここで見間違うはずがない。が、事実を信じられるはずもない。愕然とした。
「なあ、おまえ、今……どっち?」
 迷いが声にでた。わずかに掠れた。男は微動だにしない。銃の狙いを定める際の要領で、広い背を見据える。砂の中に踏みこむと、潮風が突然やんだ。
 頭の片隅で、常に妙な違和感が蠢いていた。覚えのない不可解な記憶の途切れ、自分の行動が微妙につながらない不信感。目覚めたあとに夢の内容を忘れているような感覚に近いが、それは思いだせないというよりも、記憶がごっそりと抜けおちているような感覚だった。正しい記憶を盗まれ、別の記憶を植えられたような既視感。そうした違和感の直前には必ず、この男の姿があった。偶然か、蓋然か。
 俺の知るガイナンは、どこにいる? それとも初めから、そんな男はいなかったのか。ほんの数フィート先にいる男が、これほど遠いとは。君たち死人よりも遠く思える。
「うんざりだ」
 面倒だ、鬱陶しい、と言いかえても良いだろう、気だるい声音で男は吐き捨てた。今まで聞いたことのない、相手を突き放す物言いだった。それは俺が最も怖れた拒絶であったが、現在の自分はそれに痛みを感じるよりも強くガイナンの底意を求めていた。ほどよく傷つき、嘆いている場合じゃない。
 男がゆるりと振り返る。月より太陽が満ちてきた光を背に、逆光が強くなる。男は胸元を押さえるようにして、孔雀のタイに指をかけていた。常に乱れのないタイを緩め、乾燥した眼差しで俺をすっぽり覆う。
「もう、いい加減にしてくれ」
 嘲りと呆れを含んだ男の声音が、胸に食いこんだ。その顔には冴え冴えと凍った笑みが張りついている。鼻梁の陰影も消え、のっぺりと平たく見える。口を開いても音がでない。体が動かない。唯一まともな目を見開き、薄ら笑いを浮かべた男を凝視することしかできない。
「Jr.……いいや、ルベド」かぶりを振り、男は眉間を押さえて自嘲した。「いいか、俺はな、おまえのことが嫌いなんだ。ああ、誰よりも嫌いだね。我慢ならない。おまえさえいなければ、と常々思っていた。生まれてこのかた、延々とな」
 憎悪の響きが脳の内部に到達すると、頭蓋を打つように反響した。〝おまえがきらいだ〟―子供でも使う簡単な言葉だ。もう一人の弟にも同じことを言われた。その弟には大嫌いだと笑われたが、俺のほうは皮肉にも、それほど歪んだ執着を嬉しいと感じた。言葉どおりの本心でないこともわかっていた。多分に含まれた情を感じていた。
 同じ言葉でも、この男のそれは鋭利な刃を思わせ、胸に深々と突きささる。単なる冗談でも、したたかな嘘でもない。容赦なく拒まれている。拒絶されている。
 拒絶は孤独の恐怖を生む。無音になり、無臭になり、色あせる。何も感じない。そうして転がりおちた谷底にあるものが、絶望だ。俺は絶望を生身で知っている。言葉で貫かれた体は強張るものの、傷口から溢れたものは血潮に似た高揚だった。この男が俺に対して暗部を曝けだし、紛れもない本音を暴露した。これこそ、俺が望んでいたことじゃあないか。まるで掴めない男の調和が乱れるさまを目の当たりにしているのだ。ああ、これはガイナンに違いない。俺と十四年を過ごした男は、まだここに残っている。
「おまえといると、アルベドのように孤独になる。あいつがおまえを憎むことで求める理由が、俺にはよくわかるよ。俺たちはともにルベドという残酷な兄をもつ弟同士だからな」
 男の言葉は痛みそのもので、体から皮膚を根こそぎ剥がされるように痛む。俺の愚かさ、傲慢さ、迂闊さ、それらを隠した虚飾の皮膚を剥ぎとられる。
「ずっと、そう思ってたのか」インスティテュートにいた頃から、今まで、ずっと。どうしても声が震える。
 下弦の月になっていた人工太陽からは、もう朝焼けが照射されていた。瑠璃色の夜が遠のき、天蓋の空が藍色を薄めてゆく。眩しい赤紫の太陽光が、海面で反射している。夜明けだ。
「おまえのせいじゃない。おまえは何も悪くない。これはもう、どうしようもないんだ」
 男から聞くに耐えない音がしている。怯え、迷い、諦め―限りなく負に傾いた感情がない交ぜになり、悶えるように蠢きつづける。ガイナンが嘆いている。重い。重い暗さを漂わせた言葉が、腹の底まで沈んでくる。どうしようもない。その言葉が沈殿した泥の中で反芻される。
 どうしようもないなら、おまえ、どうして今も苦しんでる。どうしようもないことを諦めきれないからじゃねえのか。どうにかしたいからじゃねえのか。
「役目は捨てたはずなのに、おまえは何度も死んでゆく」
 広大な砂漠で途方にくれたように男は言った。
「馬鹿な奴だ、帰ってこなければ良いものを……ここにはもう、ないんだよ。おまえを満たすものは、もう何も残っていない。あのままアルベドとともにゆけば、二度と苦しむことはなかった」
 男の眼差しに憐憫の色がにじむ。ガイナンに憐れまれたことでなく、それに対して羞恥も憤怒も感じない自分を無様だと思う。
 この末弟は夢を見ないらしい。悪夢にうなされることもなければ、安らかな眠りを貪ることもないと、以前に話していた。おまえの言う役目とは、U.R.T.V.としてのものか? この俺を殺すことが役目だって? おまえは夢を見ない代わりに、最悪の未来を何度も繰り返し、いつも一人で怯えていたのだろうか。拒絶、絶望、憎悪、猜疑といった感情が男から転げおち、俺の足元に散らばった。刃こぼれしたナイフで傷を抉られていくような鈍痛がする。やがて心臓まで到達するであろう切っ先から、逃げることはできない。逃げるつもりも、もとよりない。
「ガイナン、俺は―」
「すまない。忘れてくれ」
 俺の言葉を強引に遮り、男はいともあっさりと謝罪した。先程までの殺意に近い陰鬱さも払拭されていた。角のない微笑でとり繕い、自分の本音を否定する。形のない海水のように、細やかな砂粒のように、五指の隙間から逃げてゆく。そんなガイナンの姿を見たくはなかった。
 ガイナン、謝るな。俺に詫びるな。おまえがそんなことをする必要はないんだ。
『Jr.
 男の薄い唇が、滑らかに俺の名を紡ぐ。脳へ直接抽入する声は、砂糖菓子のように甘さを感じる。何十日か振りになる、ガイナンからの念話だった。
 何だよ、と答えようとしたとたん、脳髄が盛大に揺れた。ぐらぐらと回るところに、濁流のような衝撃が押しよせてくる。まるで洪水だ。その膨大な量とよろめくほどの重さに驚愕する。振幅する感情の渦にのまれ、溺れて水を飲むように喘ぎ、圧迫感に頭痛がした。どうにかしないと頭が破裂する。精神防壁を張る間もない。沈溺する。何だ、これは。この質量は何だ。
 これ以上もう、ここにいられない。誤魔化しきれない。装いつづけられない。欺けない。もう無理だ。辛い。苦しい。楽に生きたい。捨ててしまいたい。忘れたい。抗いたくない。何も考えたくない。自由になりたい。おまえといる限り、叶わない。おまえに構っている暇はない。失せろ、消えろ。見たくない。俺を信じるな。俺に弱みを晒すな。その愚直さに苛立つんだ。自覚しろ。省みろ。俺に構うな。やめろ。関わりを絶て。頼むから、
『忘れろ』
 頭蓋の内部で、何か弾けた。細い音が鳴る。鋼の糸をぴんと張ったような超音波。たるみのない糸が頭を裂こうとする。右脳から左脳へ真っ赤に焼けた槍を突きさしたように鋭い痛みが走った。両腕で頭を抱えるも、きんきんと痛む。男を睨みつける。呂律が回らない。「がい、なん、て、めえ、いま……」
 使った。間違いない。こいつ、俺に〝あれ〟を、使いやがった!
 体の末端が熱くなる。脈打つ血の蠢きを抑えられない。焦点がくらりとずれ、視界が二重にぼやける。緑色に光る四つの瞳が、舐めるような視線で俺を見ている。内臓がせりあがる。気持ち悪い。耳を、口を、塞ぎたいのに手が動かない。どうしても下肢に力が入らず、足元から崩れる。視界の端に見える海から波音が消えた。
 このまま、
 おれは、また、
 おまえを、わすれるのか?
 思考が麻痺する。
 視界が真っ白に、流れてゆく瞬間、
 おやすみ、ルベド。
 と、名を呼ばれた。誰だろう、懐かしい声だ。誰の声だろうか。
 また明日ね。
 ―赤い。そう、黄昏だ。夕暮れの空だ。青と赤が混じりあって紺紫を織りなし、金色に縁どられた雲の流れる空のもと。彩色が蘇る。ざわめいた。風の声、バラの香り、果てのない閉じた空間。感覚が疼いた。覚えている。目には見えない細部の震えまで思いだせる。
 ああ、君の世界にいるのか。俺、今そこにいる? 俺、どこへ行けば? 方向がわからない。どこに帰ればいいのかな。
 君の名を呼ぶ。俺の描いた絵画の世界が遠ざかる。何も見えない。白でもなく黒でもない。何もない。何もないが、伸ばした手には何かを掴んでいる。これを離してはならない。決して離してはならない。そう直感する。右手を握りしめる。
 いやだよ、ルベド―離さないで!
 脳をつんざく、おまえの悲鳴。額を撃ちぬかれる衝撃。霧に巻かれた目が覚める。強烈な力で離れる意識を、それ以上の力で引き戻される。激しく息切れしていた。咳きこむ。掴んだ肉の弾力が、固く握った拳に生々しく残っている。右掌を見つめると、そこには三つのつながりがあった。
『忘れてしまえ』
 掌の表面から声がする。数字がくるくると回転しはじめる。何の数字かわからなくなる。6が三つ、6がいくつだ?
『忘れてしまえ』
 忘れる? 何をだよ、ガイナン。おまえが吐いた言葉をか。局所事象変移内の出来事をか。十四年の年月をか。インスティテュートの日々をか。アルベドとサクラのことをか。俺たちの関係そのものをか。それとも、おまえのことを?
 それすべてを忘れてしまいたいのは、おまえのほうだろ。ふざけんな、馬鹿野郎!
 回転しつづける数字を握り潰し、重たい頭を振りあげる。スーツ姿の男が歩みよってくる。巨大な影が迫る。怖がるな。自分を支配しろ。
「そんなもの、が、俺に、何度も効く、と、思うなよ!」
 叫んでいた。いつの間にか、鼻先に男の腹がある。男は笑っていた。嘲りを隠そうともしない、背筋の凍る冷笑だ。子供の頃、よく目にしていた。ガラス越しの管制室、奇異の視線、観察、調査、せせら笑い。最奥に立つ冷酷な男。氷のようだと何度も思った。あの体内に流れるものは、温かな血ではなく冷たい水で、その体を真っ二つに裂いて引きずりだせるものがあるとすれば、氷塊だけだと思っていた。あの肉体が死体になれば、そのあとは溶けて何もなくなる。一切を残さない。そう思っていたのに、ガイナンの中に今いるものは何だ? あの男が有するもので、俺が最も信じがたかった部分じゃないか。
「そんな顔をするな。ああ、かわいそうに」
 男の右手が、するりと俺の頬を撫でた。まだ完全に体の自由は利かないのに、撫ぜられる頬の感触だけ生々しい。そこから滑りおちた手が肩に乗せられる。男の顔には不快な笑みが浮かんでいた。ねっとりと体にまとわりつき、高みより相手を見下せる場で、自らは手を汚すことなく相手をいたぶる、狡猾で悪辣な男。全身に鳥肌が立ち、俺の体は男を露骨に嫌悪した。
「さっさと出てけ……ガイナンから、出てけよ!」
 下腹部に力が入らず、蚊の鳴くような怒声しかでない。噴きだす汗が鬱陶しい。肩に食いこむ男の指がおぞましい。振り解けない。気色悪い。
「おまえは本当に哀れな子だ」
 憐憫と揶揄を存分に含んだ口調で、男は囁いた。強い力で俺の肩を引きよせ、そのまま抱き竦められる。スーツの合せ目が鼻に触れた。視界が黒で覆われてしまう。体が硬直して動けない。耳朶に男の熱を感じる。生温かい息に鳥肌が立つ。やめろ、やめろ、離せ、この野郎!
『忘れなさい、ルベド』
 嫌な声。艶を増した。耳から腐敗する。汚染される。先程とは比べ物にならない強烈な眩暈が襲う。支えがなくなり、ふわふわとした空っぽの心地で、ぼんやりと疑問が浮かぶ。
 俺、何の話をしてたっけ。
 わすれなさい、るべど。脳で何度も反芻される。吐き気が治まらない。全身の毛穴からべたついた汗が噴きだしてとまらない。意識が急激に遠のいてゆくのを感じる。待ってくれ、と掴みたいのに、宇宙の成長以上の速度で離れてゆく。届かない。ちくしょう。
 誰と何をしていたのだろう?
 抵抗さえも忘れてしまう。自分の最も鋭敏な部分を、ざらついた舌で優しく舐められる。抗えない。思考を停止される。細々とした疑念が逆行し、信頼の位置で再生される。
 やるべきことが―それって、何だよ?
 倒れこみそうになるのを、気力で踏みとどまる。もう忘れるのは嫌だって? それなら、声を振り払え。楽なほうへ流れるな。遡れ、逆流しろ。繰り返したくないなら、死ぬ気で掴め。何があっても決して離すな。その足でつなげ。思いだせ、そして省みろ。
 ああ、そうだ。さよならを言ったな。行けるところまで行く、明けない夜はないのだろう、と。
 次第に霧が晴れてゆく。覚醒は十分ではなく、手も足も他人のように重い。色がない。音もない。痛みすら鈍い。まだまだ足りない。忘れたくない。忘れて、たまるか!
 コートの裏に右手を伸ばす。滑らかな皮の感触があり、腰のホルスターに指先が触れた。握りなれたグリップの冷気を感じる。今は銃じゃない、その隣だ。揺れる視界では距離感が掴めない。焦燥が汗となり、全身を伝う。目が眩む。視界か体が傾いている。
 わすれなさい、るべど。
 うるせえ、うるせえ。俺に命令するな!
 五指を彷徨わせる。拳銃とは異なる細身のグリップに触れる―これだ。躊躇なく全力で握りこみ、ホルスターから引っこぬく。局所事象変移をあとにしてから、最初に新調した武器。回転する視界の中央で、新品のナイフが鈍色にきらめいていた。痙攣する左手を突きだし、刃を手の甲に突きたてる。衝撃と呼吸の停止。そのまま前後に動かすと、確かな鈍痛が走った。目に沁みるほど赤い血が溢れだす。鮮やかな真紅。錆びた鉄の臭い。砂浜に落ちたナイフの鈍い音。唾液と混じる血の味。手の甲で脈打つ痛み。そう、そうだ、戻ってこい。俺のものだ。この手も、この足も、この薄汚れも、この痛みも、俺のものだ。誰にも渡さない。支配されない。従属しない。俺は、誰の言いなりにもならない。
「ガイナン」男の名を呼ぶ。どうにか両脚でバランスをとり、腹部に重心を置く。左手がぶらりと垂れさがり、赤い滴りが砂浜に点々と落ちた。赤く染まった砂粒とナイフの刃が、白い朝陽を反射している。
「痛みで己を定義するか」
 わざとらしく感嘆の声をあげた男を睨む。奴のスーツの右袖は破れ、肌が覗いていた。俺の体を解放して距離をとっている。いっそ刺し殺してやりたいが、あれはガイナンの肉体だ。ガイナンのものだ。理不尽に奪う権利など誰にもない。
「うるせえよ。てめえに話してるんじゃねえ、黙ってろ」
 感情が揺れ、気息が乱れると、再び意識が遠のく。光沢のある波のたゆたいに、唇から血を垂らした自分の顔が映っていた。目が虚ろだ。こんな状況でなければ、間抜けな表情に哄笑していたことだろう。それくらい笑える面だった。
 両手で顔面を押さえ、男があとずさる。冷笑が消えさり、碧の瞳が星のまたたきのように揺れている。よほど意識が混迷しているのか、五指の間から覗く眼はまっすぐに俺を見ようとしない。水中の魚のように捕らえられない。またも離れてゆく距離に、このまま星より遠ざかるのでは、と焦る。頭はひっきりなしに痛むばかりだ。自分の無力さも相俟って、余計に苛立つ。
「おい、ガイナン。俺はおまえと話してるんだ。逃げんなよ、出てきやがれ」
 呻くような低音を発する。威嚇と憤怒を隠せないが、荒々しい感情を何とか飼いならして仕舞いこむ。射竦められたように男は動かない。双眸に極度の怯えと混乱が見てとれた。
「なんの、ことだ」
「ふ、ざけんな……この、ふざけんな、ガイナン! 俺が気づいてねえとでも思ったのか? おまえ、俺に対して負い目があるんだろ。それを生むのが任務とやらか、ああ? 白ぁ切るのもいい加減にしろ!」
 弱々しい返答に、力の限り駑馬する。眼球の裏が熱い。心臓も熱い。わなわなと拳が震える。左手の甲からは、ぼたぼたとおもしろいくらいに血が垂れる。血管の切れる音がしても不思議じゃない。
 ふざけんな! ふざけんな! 馬鹿にするのもいい加減にしろ。俺を一体何だと思ってる。気づかないわけねえだろ、気にしないわけねえだろ、おまえがどうにかなって、心配しないわけねえだろ!
 声が枯れるほどに怒鳴っていた。激昂しては元も子もない。冷静に対話を、そう思うのにとまらない。言葉とは、人間の一番けだものじみた部分を呼びおこすものだと承知していたはずなのに。乱れのないスーツに掴みかかり、両手で躍起になって揺さぶった。男の姿勢はびくともしない。ぶち切れた口内が、左手の甲が、鈍く痛むばかり。足元で湿った砂が鳴り、虚しさを助長させる。「やめろ、Jr.」惑いに震える声で制止を促されても、俺は幼子のように嫌々をした。自分の血が付着したスーツに頭を埋める。
「おまえ、そんなに……そんなに、俺が、おまえのこと、何も見てないと思ってんのかよ? 俺だって、そこまで鈍感じゃねえ……」
 悔しい。ガイナンが一人で抱えてきた苦痛を、恐怖を、孤独を、誰より傍にいながら一つも背負えない。それを生む原因が自分自身の存在であり、俺がガイナンを追いつめている。ガイナンが俺を信頼に値する者と認めていないことも悔しい。ガイナンは何も言わない。自分を知られることにより、俺のほうが何かしら変質すると思っている。ガイナンに対する態度、行動、認識―そうしたものが変質し、それまでの関係とは異質なものになると考えている。心配という小綺麗な感情の内で、俺をまったく信用していない。
 確かに、話しても仕方のないことかもしれない。俺には欠片も理解できない部分は大いにあるだろう。それを思い知ることで、また失望させてしまうかもしれない。結果が現実に及ぼされることを期待されても、俺は答えられないかもしれない。互いを火炙りにするまで気が済まない、という事態に発展する可能性だってある。どうなるかはわからない。それを、ガイナンは実行する前に結果として見ている。感情はあくまで一方的なものであり、俺のほうがガイナンを抵抗なく受けいれるはずがないという固定観念がある。俺に自分を受け損ねられることを怖れ、優しく穏やかな笑顔の仮面を張りつけておき、最初から俺を拒絶しているのと変わりない。だが、それは俺も同じなのだ。俺たちは自分に様々な保険をかけ、相手ではなく自分にとって危険な領域に、積極的に踏みこもうとはしなかった。
 腹が立つ。全身が焼けるように熱い。憤然が身を焦がす。腹立たしく、とにかく悔しい。ガイナンに対してじゃない。ガイナンにそう思わせている、頼りない自分に腹が立つ。自分自身のことが何より腹立たしい。新品のようなスーツを千切れるほど握りしめる。左手の感覚はすでに麻痺していた。
「十四年だぞ……十四年間、隣にいたんだ。中身までガキのまんまじゃねえよ!」
 いいや、これじゃあ、まるで子供の癇癪だ。ガイナンを詰っても仕方がない。日に日に伸びてゆく弟の背が浮かぶ。身長差に比例して遠ざかる距離がもどかしく、手を伸ばしては緩やかに払われた。あまりに緩やかなものだから、払われていることさえわからない。ガイナンは、俺を労わろうとする微笑みで実際には強く強く突き放し、それで俺を守ろうとする。同情と紙一重のそれを、ガイナンだから受けいれていた。十四年だ。インスティテュートで過ごした年月よりも長い。申し分ないステータスの男へと成長してゆく背中を見守りながら、俺は肉体を置いて歳をとった。すべては知らないが、まったく知らないこともない。ガイナン・クーカイという男を、この眼で俺なりに見つめてきたつもりだ。
「Jr.、やめてくれ」
 男はおののいていた。死神でも見ているような蒼白の顔をして、苦しげに呻いている。もういい、俺に構うな。俺の底にあるものを見とり、暴こうとするな。おまえは俺が守る平穏の中で、おまえらしくあればいい。俺が一人で片をつける。目を背けてくれ。口を閉じてくれ。そうでもしなければ、俺はおまえを壊してしまう。知らないふりをしてくれ。昔と同じように俺を見るな!
 感情の激流が頭を襲う。まるで悲鳴だ。土石流のように濁り、雑多に混じり、破壊しようと押し迫ってくる。怖くはない。俺が望んだものだ。再び襲う圧迫感と嘔吐感を、今度は慎重にのみくだす。完全に嚥下し、脳内で吟味する。声にならない叫びを聞き逃したくない。
 知らないふりだと? そりゃあ土台、無理な話だ。
「俺に俺らしくあれと言うのか、ガイナン。じゃあ、おまえも簡単に自分を見限るなよ。その場所、他人に明け渡してみろ。おまえ、生きつづけるよりも後悔するぜ」
「やめろ」男が頭を抱えた。ここぞとばかりに煽ってやる。「〝目に見える危険など、心に描く怖ろしさに比べれば、たかが知れている〟―生憎と、俺はおまえにぶっ壊されるほどやわじゃねえ。寝首かこうとして返り討ちに遭うのは、てめえのほうだ!」
 男の目玉が激しく動き、丸太のような右腕が掲げられた。それが振りおろされる直前、砂浜の上で両足を踏んばる。
『やめろ!』獣に似た唸り声と同時に、左頬に衝撃がくる。眼球の奥で花火が散った。視界が暗転、口内が生温かいもので満たされ、たまらず吐いた。黒い血の塊が、砂浜にどろりと零れる。舌先にぐらつく奥歯があたり、舌打ちする。頬が腫れて熱をもっている。足がうまく動かずにもつれ、よろめいた。濁った視界で、男の突きだした拳が赤く見えた。
 唐突に息がつまる。男の掌が首に巻きつき、親指で喉を潰されている。ぐわりと体が宙に浮いた。不安定な足が空気をかく。自重で首から千切れそうになる。湿った肉厚の掌が皮膚に吸いつき、無意識に瞼を閉じていたらしく、開いた眼に男の顔が映った。苦悶の表情であることは明らかだが、その影で光る双眸には確かな殺意が宿っていた。十本の指の感触が首に伝わってくる。じりじりと力が付加され、気道が塞がれる。呼吸ができない。
 こわい。
 呼吸をとめられた体の苦痛には慣れても、ガイナンの怯えがダイレクトに伝わってくることに恐怖した。こちらへ来なさい、と誘う声が深淵より聞こえてくる。磁石のように闇のほうへ引っ張られる。ガイナンは、何を怖れているのか皆目見当もつかぬまま怯えている。生々しい恐怖。その眼に見えないもの、その手に触れないものが怖い。すぐ傍にいるのに遠い。男の生活圏にいる者は、誰も彼も遠い。その疎外感を他者にひた隠したまま、柔軟に生きる術を獲得するため男は生きている。その恐怖に突きさされる。恐怖が新たな恐怖を生み、がんじがらめで身動きがとれない。炙られる苦痛、突きあげる衝動、不穏に粟立つ感情が、ガイナンの奥底から流れこんでくる。
 嫌だ、嫌だ、嫌だ。おまえを失ってしまえば、俺は正気ではいられない。狂ってしまう。嫌だ、嫌だ、嫌だ。例え狂っても、俺はおまえを忘れられない。どうすればいい? ねえ、ルベド、助けてよ!
『ニグレド!』
 喉を這いあがる咆哮。直後、体が空を切った。地面に叩きつけられる。後頭部から尻まで激痛が走った。おそらく脳震盪を起こしている後頭部が冷たい。海水で固まった平らな砂浜を布越しに感じる。耳元に波音がある。
 投げ捨てられた波打ち際で、男の膝が俺の胸を、男の右手が俺の喉を押さえつけている。全体重はかけられていない。仰向けの顔を真上から覗きこまれる。乾燥して血走った眼は、怯むほど険しい。殺意は払拭されていた。眩しすぎて二つの眼以外は見えない。男の頭上では、黒い三日月をのみこみ完全な球体になろうとする太陽が、その双眸と同様にぎらついている。
 夜が明けた。闇は影を潜め、星は見えない。白んでいた空が青の濃さを増している。昼間の深い群青より透明な、そのまま宇宙へ突きぬけてしまえるような青だ。その青さが暗闇にいた俺たちには青すぎる。
 首に絡まる腕に触れると、五指の力が緩まり、気道が確保された。軽く咳むなり赤い唾が飛びちったが、それほど苦しくはない。最低限の手加減があったことは承知している。全力で殴られようものなら、子供の体などとっくに海中までふっ飛んでいた。
「抵抗しないのか」
 戸惑いに揺れる声は、絶望に近い諦念を帯びていた。波が穏やかに寄せるような声音は、耳元で流れる砂音に似合う。
「タッパが違うだろうが。単純な力で向かって、おまえに勝てるかよ」
 片頬だけで笑ってみせると、奥歯が口内でごろごろ転がる。いっそ完全に抜いてしまいたい。耳朶に冷たい海水が入ると、ごぼごぼと水の膜に包まれた。頭皮にも冷水が凍みる。えら骨の辺りに、湿った砂まで張りついている。
「能力を使えばいい。せっかくのボーナスも、ただの飾りか?」
 男の手が俺の腰まで伸び、ホルスターのPMを握った。この銃を受けとった日も、ずいぶんと昔のように思える。血にまみれた口内で自嘲し、くそ重い右腕を持ちあげたが、その状態を維持する力は残っておらず、ほどなく腕は重力に従った。頬に飛沫が跳ねる。
「おまえは俺の敵じゃないだろ。やり返してほしいなら、せいぜいこの程度だな」
 右掌にたまった少量の海水を、男の顔に引っかける。男は無表情のまま、怒りも笑いもしない。睫毛と漆黒の毛先から海水が滴り、わずかに眉を潜める程度の反応だった。喉にかかる五指の重さも変わらない。
「おまえを殺すかもしれない」
 肯定してくれ、とでも言いたげな口調で男は言った。ホルスターから抜かれた冷たい銃口が、熱い額にあてられる。鉄と火薬の臭い。弾薬はチャンバーに装填されている。安全装置が外された。トリガーにかけた男の指は動かない。
 ガイナンがこの引き金を引くことはない。過信ではなく断定できる。ガイナンの影に隠れた亡霊ならば、躊躇なく引いてしまえるだろう。ガイナンは引かない、というより引けない。何度も俺を殺す幻影の妄執にとり憑かれたこの男は、自ら生みだした恐怖に震えている。意志と本能の間で苦悩している。理性がある。楽になることができない。まっすぐ銃を構えたまま、最後の引き金を引けず徐々に疲弊してゆく。
「殺されたとしても、おまえの側だ」と俺は答えた。
「綺麗事でしかない」男は自嘲するような薄笑いを浮かべた。
「俺の意志だ。おまえが思うほどきれいなもんじゃない」
 おまえはすべてを諦めるのか。何かを選び、何かを捨てるのか。それなら俺は、おまえが捨てたものを拾いあげ、再び目の前に突きだしてやる。耳を塞ぎ、口を結び、目を閉じたままの生き方をするな。俺のようになるな。そんな生き方、笑えるくらい惨めだぜ。何でもできる力があると豪語することは、愚者の傲慢だが、何もできないと結論づけて逃げることもまた、ある種の傲慢と呼べやしないか。あらゆる可能性を自ら潰しているのだから。
 突きつけられた銃口が、震える。
「その無意味な意志とやらで、おまえは地べたに這いつくばっているのか。絶対的な力を前に、おまえに何ができる? そうして無様な姿を晒して嘲笑されるだけだろう。意志で力は変えられない。人間のシステムで最も不毛な思考だ」
「まあ、かっこ悪ぃよな。卑怯で、臆病で、そのくせ周囲を巻きこんで―それも今に始まったことじゃねえし。おまえらの前で無様にあがいて、そうすることで、俺はどうにかして報われたかったのかもしれない」
 この独善、この傲慢、この虚偽、この軽薄、この醜悪な本性。見られたものではない。それでも変えたいとあがく。意志で力が変えられないなら、意志そのものを変えるしかない。圧倒的な力をとりこむほど、貪欲に身勝手に求めるしかない。
「それも、もういいんだ。嫌ってくれていい。憎んでくれていい。おまえになら殺されたって構わない。頼むから、おまえは自分を殺してくれるなよ、ガイナン」
 水滴は男の顎を伝い、首筋を流れ、濡れて肌に張りつく襟元でとまった。男の瞼が閉じられる。皮膚に隠れた瞳は、それでも薄皮を通し、やはり緑に萌えているように見えた。死んではいない。その緑から草いきれのような雄臭い匂いが、かすかに鼻腔に届いた。若葉が萌えるような生き生きとした生命の営みを、ガイナンは持っている。
「おまえが隣で死んでいくというのなら、そんなの俺は望まない」
「まるで未来でも見て来たような口振りだな」
 男が皮肉る。
「さあ、どうだろうな……自分の過去なら、うんざりするほど見たけどよ」
 男は俺の額から銃口をさげ、ホルスターに収め直した。胸倉を押さえつけていた膝も離れ、俺の体を跨ぐ形になる。喉に力なく絡まる指の群れは、まだ離れない。唾をのみこむたび男の骨の硬さを感じ、喉奥がざわりと震えた。
「ガイナン、おまえはどうしたい」
 何を考えている。何を望んでいる。おまえ、俺にどうしてほしい。俺が死ねば、おまえは楽になれるのか。いや、違うよな。過去の経験から想定される、その可能性が怖いんだろ。俺を殺すかもしれないという動機に囚われて、殺さないという選択肢には見向きもしない。
「俺は、どうしたい―」
 男が目を細める。初めて言葉を口にするように、ゆっくりと反芻する。思考と言葉の乖離は凄まじく、身の内に生まれてくる感情そのものを伝えることは、とりわけ困難な伝達だ。言いたいことも、言うべきことも、茫漠としたまま網目の隙間ですり潰される。飾ることも隠すこともせず、不要なすべてを剥ぎとり、皮膚も肉も骨も介さずに対話したい。念話よりも深く、俺たちにつながる術はあるだろうか。俺にも力はあるだろうか。
 聞いてるか、ガイナン。俺は言いたいことを言うからな。もちろん、おまえの言うことも聞く。はぐらかすな。黙りこむな。耳も口も手も体も、俺のすべてを神経にして、おまえを捉えてやるからな。
 今さら知りたいと望むことが、愚の骨頂であることは承知している。遅すぎる。それでも、おまえは一度ここへ帰ってきてくれた。俺たちは今、こんな近くにいるじゃないか。逃げるなよ。頼むから、逃げるな。
「Jr.、俺は……」ガイナンは言葉を切り、息をのみこんだ。俺を見つめる緑の双眸が盛りあがり、溢れたものが頬を伝った。涙なのか潮水なのか判断できない。それは尖った顎の先で雫となり、重力で千切れ、俺の頬を濡らした。
 紫とは異なる暗さの緑の瞳が、俺は誰だ、と問うている。あの亡霊が、ガイナンを仲間に引きこもうとしている。とりこまれた先に光などない。奈落の底まで堕ちるだけだ。
 首筋に潮風が当たる。男の指が離れていた。のろのろと上体を起こしてゆく。海水を吸った髪が重い。
「おまえはガイナンだろう」
 離れた男の右手を、俺は引き戻すように握る。「おまえはクーカイ・ファウンデーションの代表理事の一人で、もう一人のガイナンJr.―つまり俺だな―が、裏で暴れて何かしら探し集めている間、おまえは表で石頭の爺どもを頷かせる役」耳の端で波音を聞きながら、つらつらと語りかける。男は黙って聞いていた。握った手が熱を帯びる。「近頃ようやくフォーブズからも注目を浴びるようになった。今、一番の過渡期だよな。地位も名誉も富も三拍子揃って、その上ちょっと天然な性格で、おまえは年上の女にもてる。自分と同じ顔を褒める気にはならねえが……まあ、いい男の部類に入るんじゃねえか。背も高いしな。守銭奴のところはマイナスだが、苦労性は俺のせいもあるか。遊びってもんを覚えやしねえの。覚えてるか? おまえが二十歳になった折のメディア取材で、趣味は何ですか、とかいう白けた質問におまえは散々考えた挙句、強いていえば、株とワイン、それに子育て、なんて答えたんだぜ。さすがに呆れたね。どうも抜けてるというか」
「Jr.……おい、Jr.」
 途中からどうでもいい愚痴を口走っていた俺に、男が狼狽えた様子で声をかけた。ついつい普段の調子に戻っていた自分に気づき、ああそうか、と納得する。何気ない会話も、くだらない言い争いも、俺は実に楽しんでいたらしい。何とも心地良い安らぎの時間が、そこを満たしていた。内容など他愛もないことだ。ほとんど無意味。そうした意味のない対話の端々で、ふとした瞬間に、ガイナンという人物像を垣間見ていた。
 あどけなさを残す顔のまま、真っ黒なスーツに身を包み、腹の探りあいで均衡を保つ世界に迎えられたニグレド。どこか抜けているようで―いや、確実に抜けてはいるのだが―反面、妙に鋭い感覚の持ち主だ。起業家としても政治家としても周囲の人間を軽々と凌駕する才があり、名を変えてから立派に仕事をこなしている。自制心が高く、度量も広く、なまじ要領も良いというのに自分に対してはほとほと鈍い。頑固なくせ諦めも異常に早くて困る―それから、ああ、そうだな、
「おまえは昔から優しい奴だった。優しくあろうとする奴だった。そんなレッテルを、他でもない兄貴の俺が貼ったせいで、甘えることも弱音を吐くことも逃げだすこともできず、おまえはしっかりと優等生を演じるしかなかった。延々と自分を押し殺して、それでも笑ってた。優しい男だ、本当に。俺には到底できねえよ」
 頼っていた。甘えていた。望まぬ微笑みを浮かべ、手を差しのべてくれる弟に、俺は依存していた。残酷な決定で、おまえを幾度となく殺していた。
 ニグレドなら、何とかしてくれる。ガイナンなら、何とかしてくれる―独り善がりの身勝手な甘えを捨てられないまま、手に余る厄介な仕事はすべて押しつけていた。
 あいつに任せておけば大丈夫だ。俺はおまえを信じている―笑いながら事もなげに、残酷で無責任な言葉を吐いた。
 お前のことをわかってやりたい―思いあがりも甚だしい。吐き気がするほど、傲慢な考えだった。
 信頼と依存の区別はついていたのに、過去を理由にもたれかかり、際限なく甘えていたのだ。手を引いて歩く立場にいながら、それをしなかった、愚昧な己を恥じるしかない。間にあうならば、一人で立ちあがって歩きたい。立ちどまっている暇もない。君たちも俺に構う暇など、もうないだろう。
 男の両肩を掴む。男の髪から滴りおちる潮水が、腕を濡らして伝う。服が重い。抑制を超えて必死な自分に驚く。
「ガイナン・クーカイは、もう演技じゃない。ヘルマーと積みあげた大仰な嘘も、おまえが実現させたろ。いいか、嘘じゃねえんだ。俺たちが築きあげてきたものを、そんな陳腐な言葉で片づけられてたまるかよ。おまえのあらゆる理由は、おまえ自身のためにあるべきだ。俺もそうであるように、俺たちは生きなきゃならない」
 両肩を押すと、ガイナンは尻餅をついた。Jr.、と青い唇だけが動く。縋るような眼差しを向けてくる。年齢も立場も関係なく、ただ心許なく憂える少年のような眼をしている。そこから顎にかけて残る、乾いた潮の跡。
 頼むから、一人で黙って行かないでくれ。易々とその身を明け渡すというならば、俺は手足を折ってでも、おまえをとめる。他人になんか、やれるかよ。
「過去も未来も、今を生きるおまえのものだ、ガイナン。それなのに、要らねえのかよ? おまえ、本当に要らねえのかよ!」
 なあ、ガイナン。聞いてくれ。
「もっと貪欲に嫌らしく、利己的に、傲慢に、自分のことだけを考えつくせよ。おまえが時間をかけて自分の力で慣らした場所だぞ。惜しくねえのか。もっと欲しくならねえか。本当は捨てたくないんじゃねえのか?」刺繍が施された襟に、潮と汗とでぐちゃぐちゃの額を押しつける。
「本気になれよ。本音を言えよ」
 欲しいって言えよ!
 沈黙が流れる。自分の荒い息遣いと波音が混じりあい、海面に消えた。感情が昂り、眩暈がする。
「―決まってるだろ」
 深い声が脳をつく。それから温かい吐息が耳朶に触れた。自分のものではない熱が、体を包んでいる。冷たい水の感触も、硬い砂浜の感触も今はない。長い腕が俺を締めつけていた。肺が苦しいほどに強い力だった。顔をあげると、スーツの向こう側に朝焼けの空が見えた。夕陽よりも白く燃えあがり、一面が黄金色に染まる、力強く美しい時間帯だ。
 かすかに波音が響く他、呼吸が聞こえる。ガイナンが耳元で呼吸を繰り返している。手に触れる胸板が熱く上下している。今の俺は、それだけで涙がでそうになる。生きた心地がどれほど貴重なものなのか思い知ったばかりなせいで。
「この手でおまえを殺しつづけて、俺だけが生き残りつづける。犯してもいない罪に苛まれて―そんな責め苦は、もう沢山だ。我慢できない。逃れられない運命とやらがあるとして、それに身を任せてしまえば、おまえに対する拘りからも自由になれると思った。川のように流れていれば、いつかは海に辿りつくと」
 深きに潜る声音だ。哀しい嘆きにも関わらず、そこには諦念や自嘲すら含まれていない。ひたすら穏やかに波及する。
「この先も、おまえといるなんて考えられない。わかっていても、俺が望む居場所には、おまえがいてくれないと困るんだ」
 己の肉を削るような声に、切りさかれる。露にされた胸が痛い。容赦なく痛む。張りさける。血のように溢れる。その熱さに息がつまる。体内から焼かれる。首を絞められるよりも、よほど苦しい。この痛みは、苦しみは、一体どちらのものだろう。
 痛えよ、ガイナン。
 乾いた唇が震え、言葉が紡げない。今この口を開けば、きっと嗚咽になる。咽び泣いてしまう。馬鹿か、泣くな。泣きたいのは、俺じゃねえだろ。
 抱きこまれ、衣擦れの音がする。声はない。ガイナンの顔は見えない。打ち震える肩だけが見える。温もりの中で死体になった君たちの、凍てつく冷たさが蘇ってくる。あの冷たさを忘れることはないだろう。こうして今触れている生命の熱さも、決して忘れまいと思う。忘れるな。戒めと幸せを噛みしめろ。死を思い、今を生きろ、と熱が伝える。
 身近な者が死んだとき、人は自分の内で何かが大きく変質するさまを感じる。誰も死ぬところなど見たくはない。その苦痛は耐えがたい。殺される者ではなく、生き残り、骸の前に立たねばならない己の苦痛に圧迫される。他者とつながるとはそういうことだ。一人では生きられなくなる。
 ガイナン、おまえはここを選んでくれるか。ここにいたいと思ってくれるか。生きることを、幸福を、まだ望んでくれるか。
 ガイナンは俺を解放し、おもむろに立ちあがった。スーツの裾を叩いている姿を眺めて思う。ああ、また背中だ、と。俺は、いつもガイナンの背中を追っている。
「ガイナン」立ち眩みによろけながら、その背に呼びかける。「おまえに殺されるなんて、俺はグノーシスの欠片ほども怖くねえが、もしも、おまえがそれを怖れてるとすりゃ、俺はそうそう簡単に殺されはしねえし、今度は全力で抵抗してやるよ。おまえにおぶさった背中で、ぬくぬくと眠りこけるのは御免だからな。その内、代表理事の座を降りたとしても、俺はおまえと対等でありたい」
 俺たちの間に、依存ではなく信頼を置きたい。もたれかかるのではなく、背中を預けあうのではなく、同じ方向を目指していたい。例えば、いつしか歩む道が別れていたとしても、それで構わない。「おまえが何を選びとろうと、誰もおまえを責めたりなんかしねえよ。ガイナン、おまえは自分のために生きてくれ」
 おまえが生きたいと望むのであれば、その体はおまえのものだ。幸せになれ、とは言えない。おまえからそれを奪っているのは、他でもない自分だ。この先も苦痛を与えるだろう。酷だろうが、それでも生きてくれ。
「すまない、Jr.」
「俺に謝るな。礼も言うな。そんなもん、欲しくねえ」
 ガイナンの背中に怒鳴る。今生の別れになりそうな言葉など聞きたくない。この男は自分自身のことを何もわかっていない。もしかすると、この俺以上にわかっていない。抜けている、とはそういう意味だ。俺もガイナンも、自分に鈍感なんだ。ガイナンという男はな、おまえが思っているよりも、もっとしぶとい人間なんだよ。悔しさを通りこし、熱い憤りを感じる。ガイナンにも、その裏に隠れた卑怯な亡霊にも、この苛立ちを思いきりぶつけてやりたい。舌打ちしてから、ガイナンを睨みあげる。
「おまえも自分のことをわかってねえんだ。おまえの影に隠れた奴のことなんか知らねえがな、そんなものにのまれちまうほど、おまえは繊細な奴じゃないし、ましてや俺に潰されるような奴でもない」息が切れる。頬の筋肉が震えた。「それを、おまえにわからせてやる。いいか、次におまえらと相対したときには、ぶん殴ってでも、ぶち抜いてでも、わからせてやるからな」
 俺が啖呵を切ると、男はずいぶんと無防備な顔を晒した。眉間のしわが消え失せ、素早く瞬きを繰り返した。口が馬鹿みたいに半開きだ。その表情がおかしくて、次の宣戦布告を吹きだしそうになる。
「それまで死ぬな。覚えとけ」
 覚えとけ。忘れるな。絶対、忘れるなよ。
 子供の頃から模範少年だったニグレドは、もともと淡白な質で、どんなものにもそう執着はしなかった。優しさ、気遣い、礼儀、思いやり―人としての美質とでも言うべきものを備えすぎていた。人間らしくありたい俺にとって、理想の人間像が常に隣にいたようなものだ。名を変え企業のトップに立ち、驕ることなく腐ることなく皆とやってこれたのは、罪の重石とは別に、自分よりもはるかに優れた男が隣にいたからでもあった。憧憬は理解から最も遠い感情だとも知らず、畏怖や尊敬の念さえ抱いていた。人生の大半をともに過ごしている。ガイナンがどれほどの男であるか、誰より一番この俺がわかっている。その自負だけは事実だと信じたい。
 待ってろ、ガイナン。必ず、おまえをとり戻す。
「覚えておこう」
 男が笑う。憂いが嘘のように自信に満ちた表情をしている。白い歯が覗くほど、顔全体で笑った。頬には潮の跡、スーツは破れ、砂で汚れている。自分も似たようなものだが、常に折り目正しいガイナンからは想像もできない姿だった。このところ暗がりにいた瞳は、緑に萌えている。生き生きと艶やかに芽吹き、太陽に向かって伸びる若葉のような色。瑞々しい生命力。この瞳も、夜の闇のような黒い髪も、俺の赤にはない自然の美しさを思わせる。
 男はタイを整え、砂浜を優雅に歩きだした。踵を返す直前、
『猶予をやろう。思うまま、存分にあがいてみるがいい』
 不敵に笑ったように見えた。男の中からぞわりと粟立ち、興奮に体が震える。ああ、そうかよ。遠ざかる背を睨みながら、自然と口角があがる。
「上等じゃねえか」
 舐められているほうが好都合。猶予なんぞ与えたことを、あの世で後悔させてやる。汚ねえ化けの皮も根こそぎ剥いで、『オフィーリア』の隣にでも飾っとくぜ、ハムレットの亡霊が。
 朝陽に照らされた波が、さらりと足元を撫でる。冷たい空気が体に沁みこむ。直後、両肩にどっと疲れがきた。全身から汗が噴きだし、コロニーの重力設定を変更したかのように体が重くなる。それほど緊張していたことに気づかなかった。そういえば、出血した手の甲も鈍く痛む。結構な深さで肉を抉り、血も完全にはとまっていない。赤く染まり海水ににじんだ砂浜から、落ちたナイフを拾いあげる。何と美しい赤だろう。自分が生きていることを、確かな痛みで実感できる色だ。これが鮮やかにうねりながら、体内を巡っているのか。これを生成するために、俺たちは他の命を屠るのか。この命でさえ、自分一人のものではない。
 おまえの血も、まだ赤いだろ―ガイナン。
 焼け跡の空にナイフを掲げる。血糊で汚れた刃に、男の黒い背が映っていた。