親愛なる君へ 13


Timeline: Interval between EP2 and EP3, after returning from Local Matter Shift



 真っ赤なメトロポリスの屹立を眺める。コロニーのどこにいても仰ぎ見られるほど巨大なデュランダルの突先が、セントラル湖の中央で太陽を突きさす刃先のように輝きを放っている。月影はもう見えない。真っ白い炎のような眩しさで、人工太陽はコロニー全体をくまなく照らしていた。おぼろげに白んでいた景色が輪郭をとり戻し、ベスを駐車した道路では多くの自動車が行き交っている。今日もまた、一日が始まる。
 空は青さを増していた。雲を一つも浮かべていない。コロニーの天蓋を青一色が覆っている。浅瀬の河を見上げているようだ。合成鳥が翼を広げ、その河を爽快に泳ぐ。エネルギーパネルから吹く潮風は、蒸れた熱を帯びていた。
『めでたし、めでたし、これで話はお終い、ってことだね』
 振りむいた先の砂浜に、赤毛の少年が堂々と寝転んでいた。少年の青い眼差しは、彼の手中にある紙の本に注がれており、痛みで茶色く黄ばんだ白い本を大切そうに読んでいる。ページに視線を落としたまま、少年はにやにやと笑っている。
「冗談、これからだろ」
 と、俺は答えた。あの亡霊を墓場まで蹴落としてやらなければ。俺の釣った獲物はやるが、それごと地獄の湖に沈めさせてもらおう。猶予なんぞ与えたことを、十字架の下で後悔するといいさ。
 少年は鼻先で笑った。指先で丁寧にページをめくり、アルファベットを目で追いつつ、小さくかぶりを振る。
『あんたのことじゃない、この本にある物語さ。それからどうなったかっていうね。〝中に入ると、何もかも昔とちっとも変わっていません。時計は相変わらずチクタク時を刻み、針も同じように動いています〟―入口を抜けたとき、さあさあ、二人は気づくんだ』
 濁りのない声で、抑揚をつけて朗読する。それは、百式たちに絵本を読み聞かせる俺の口調と同じ調子で、「〝いつの間にか、二人ともすっかり大人になっていたのです〟と続く―最後の結びは〝時は夏、暖かい、恵みの夏でした〟」少年のあとに、そう続けた。
『へえ、よく知ってるじゃねえか』
 少年は素直に感嘆の声を漏らした。砂浜に寝転ぶ彼の姿は蜃気楼のようで、ビーチが埃舞う一条の光を頼りにした静謐な書斎に見えてくるほど、しめやかで閉鎖的な空間を醸しだしている。一冊の本がまるで聖供のように見えた。
「アンデルセンは飽きるほど読んだからな」
 童話だけじゃない。哲学書から聖書まで、片っ端から漁り読んだ。一人で黙々と精読するのも悪くはないが、弟たちに読み聞かせてやるのは、いっとう楽しかった。例えば、ヴェルヌ、トウェイン辺りの冒険小説を読めば、実験棟の無機質な部屋にいても、三人でロスト・エルサレムを冒険したような気分になれた。U.M.N.も介せずセント・ピーターズバーグの街に飛びこみ、イカダをつくって雄大なミシシッピ川を渡ってしまえる、あの突きぬけるような爽快感。ダイビング・デバイスを利用した体感プログラムよりも刺激的だった。俺はしばしば、ロビンソン・クルーソーやトム・ジョーンズのように勇敢な船乗りになりきって遊んだ。ディケンズのロンドン、フォークナーのアメリカ南部、ソルジェニーツェンのソビエト、もしかすると、ボルヘスのバベルの図書館まで―どこへでも行けた。眠そうな弟たちの背を軽く叩きながら、ベッドに寝転んでページをめくる、あの秘密の共有と高揚感はたまらない。どんな景色を見せてくれるのだろう。どんなものでも、俺たちに敵うものはないと、そう思っていた。インスティテュートを出られたとしたら、与えられた任務を遂行すれば良い。与えられたこの力で、終わらせてしまえば良い。そのための訓練をしているではないか。失敗などあってはならない。部隊のリーダーとして、俺は必ずやり遂げなければいけない。それが終われば、俺たちは自由だ。この小説の主人公たちのように、どこまでだって行ってやる。
 襲いくる恐怖を抑えつけ、無理にでも楽観的に考えようとした。実際のところ、俺たちが任務を完璧に遂行したとしても、インスティテュートの研究データがつまった兵器を連中が解放することなどあり得なかったろう。そんなこと、本当はわかっていた。もうずいぶんと昔のことだ。
『ああ、アンデルセン、それにグリムやペローも。これ、親父の書斎で見つけたんだ。童話があるなんて知らなかったよ、意外だな』
 少年は愛おしそうに本の表紙を撫でながら、はにかんだ。
「童話を読んでりゃ、優しいパパとでも? あれほど残酷な物語はそうそうない」
 俺が指摘すると、さすがに彼は気を悪くしたようで、あからさまな不機嫌を顔に乗せ『そんなの、わかってるさ』と力なく反論した。『逐一イギリス人のようなこと言うなよ、おじさん。アイロニーよりユーモアが大事だろ―おっと、明日までに提出しなきゃいけない報告書が残ってたな。今晩は月一の測定調査もあるし、まったく面倒なことばかりで嫌になる』
 少年は分厚い紙の本を閉じ、苛立たしげに頭をかいた。日光を受ける赤毛は、一本一本を頭上からの陽に透かせ、さらに輝きを増す。鮮やかな赤を見つめていると、インスティテュートで見た血の色を思いだす。地面に散った血痕と、鼻をつく硝煙、再生する生首。
「調査は問題なく終了する。翌日はU.M.N.ダイブミッション・フェーズ7。睡眠状態の被験者―その意識領域へU.M.N.経由ダイブを行い、知覚障害を改善するものだ。標準体も同行するダイブになる。時間はそれほど長くない。予想外の損害を被って中断されるからな」
 ほとんど無意識に口を開いていた。頭蓋の奥から声が聞こえる。
 ナンバー623は重体だそうだ。
 何だ、そんなこと? 心配する必要ないよ。あんな怪我、すぐ再生すればいいんだ。
 にっこりと笑う白髪の―あの日の中庭の光景が蘇る。
「ミッションは午前で終了。昼の休憩時間にアルベドを中庭へ呼びだすことになる」
『……アルベドを?』
 少年は眉をひそめ、どういう意味だと訝しんだ。
 俺の脳内では、銃声が鳴る。潰れた白い頭、飛散した血痕、首のない胴体がよろめくさま。破損部分はアクセスしたU.M.N.の構造体から、瞬く間に再生される。ほらね、と微笑む、傷一つない真新しい頭部。寒気がした。二度とそんな真似するな、死んだら二度と生き返らないんだぞ! 当たり前の虚しい事実を叫喚する無力。拳に残る鈍い痛み。
 もしも、おまえが自分の能力を知らずにいたとすれば。もしも、もとよりおまえにそんな能力が備わっていなければ。もしも、そもそも俺たちが完全に一つの個体として生まれていたのなら。
 仮定の未来を想像することほど、不毛な所業はない。〝もしも〟という仮想の話ほど、くだらないものはない。例え百万回唱えたとしても、何一つ変わらない。それが事実でなければ、今ここにいることもなかった。〝もしも〟だなんて本当にくだらない。くだらない塵屑ばかり後生大事に抱えて、薄汚れた手で触れたものに泥をつけて、そんなものを一体どうするというんだ。
『何だい、しっかりしろよ! 心配は猫を殺すって言うけど、君には心配を殺しちゃうくらいの勇気があるだろう?』
 濡れた髪と砂にまみれた額に、硬い突端があたる。顔をあげると、本を掲げた少年の呆れ顔があった。「今度はシェイクスピアか」と、俺は苦笑した。
『ハムレットを読んでからね。はまってる』
 少年は悪戯っぽい笑みを浮かべた。俺の額を小突いた本の角で、彼は自分の肩を軽く叩いてみせた。同じ高さの目線にある青い双眸は、太陽にも劣らない強烈な光を湛えていた。その目のまま大仰なため息を吐き、少年がわざとらしく肩を竦めた。
『あんたは俺以上に無謀だね。くだらないガラクタでさえ捨てられないのに、何て欲張りなんだ。それでなくても、問題は親父の書斎にある本より山積みなんだろ』
 おまけにぼろぼろじゃないか、と少年は俺の姿を一瞥して言った。かぶりを振りつつ、あんた馬鹿だよ、利口じゃない、信じられねえ、とまで。
「手持ち無沙汰のまま、生きたいとは思わねえよ」
 少年の言う通り、問題は山積している。ガイナンのことは別件としても、オリジナルゾハルをのみこんで消えたノアの方舟のようなグノーシスに、活動を表面化したザルヴァートル、正体不明のテスタメント、移民船団を統べるオルムス、プロジェクト・ゾハルの真実――今から多忙さに目が回るが、まあ、それらの問題を自分一人で片づける必要はない。少年の奥にぎらつく自尊心と自惚れを覗き、諭すように赤い頭を撫ぜる。
「ありがいことに、俺には信頼できる仲間がいる。なんでもかんでも一人で背負いこんでおいて後悔するような真似はもうしない。経験を考慮し、情報を駆使し、能力を利用する。考えうる最善の方法で、俺の全力を尽くす。過去よりつながる先へ向かうなら、可能性はゼロじゃない」
 誰にも弱みを見せようとせず、助けを請うことなど頭になかった。自分一人で事を抱えこみ、これは俺の問題だ、と仲間まで威嚇し、自己の弱く脆い部分を決して露呈させまいとしていた。この臆病を、自分自身が直視できないほどに疎んじていた。自分の眼にも見えぬよう、強固な箱に弱さを隠した。君たちを失い、ようやく箱を開いたとき、俺は再び後悔することになったよ―指紋すらない、まっさらで敏感な弱さを目の当たりにして。
 どこかで自分の力を過信していた。兵器である自分を忌み嫌いながら、どこかしら兵器としての自負もあった。自らが嫌悪するものに知らず頼り、傲慢にも自惚れていた。今では、失いたくない大事なものがあるならば、どんな無様な格好でも生きようとあがいてみせろと、自分を叱咤する声がある。後先も考えずに闇雲に突っこむ無謀さではなく、多大なリスクは背負うだろうが、その先を受けいれる覚悟が今はある。そうとも、方法はあるはずだ。一パーセントに満たない可能性であったとしても、それが細い蜘蛛の糸であったとしても、それを掴み、離さず、手繰りよせなくてはならない。俺が赦されないものは罪でなく、絶望の二文字だ。
 眼を閉じ、記憶をまさぐる。端末のようにはいかないが、より多くの情報を記録し蓄え、整理し応用する。その能力の開発と研磨を訓練の一環として受けてきた。U.R.T.V.として蓄積した知識や経験こそ、存分に生かそうじゃないか。あの亡霊が自分のために育てた能力を、今度は俺が自分のために使わせてもらう。
 無駄にするな、とおまえは言ったな。
 焦らず待て、冷静に動け。死を前提としての行動ではなく、生きるために動き、思考し、闘うべきだ。
 そうとなれば、まずは惑星ザバロフへ行く。旧ミルチア太陽系に近い太陽系に属する惑星だ。旧ミルチア自体は破壊されたものの、あの宙域がアビスから浮上した現在、エルザでも航行は可能であるはず。そこで廃棄されたユーリエフ・インスティテュートに潜入し、情報を得る。もちろん、すでに痕跡を抹消されている可能性のほうがはるかに高い。ザルヴァートル派の勢力が根強い惑星でもあるし、連中の用意周到さは嫌というほど存知している。
『激流の中で藁に縋るのかよ』
 少年は頭を撫でる俺の手を払い、そんなの無理だろ、と嘲笑した。
「まあ、藁には変わりねえが、死ねない種子の穂が残ったままの、乾いてもいない小麦の藁さ。おまえが思う以上にしぶといだろうぜ」
 ガイナンに能力を使われ、俺は他の人間と同様に精神を支配された。忘却の恐怖が全身をよぎったが、それ以上に、支配の声を打ち破った声が十四年間うなされつづけた君たちのものであったことに驚愕した。あれらの記憶は、思いだすたび胸を痛め、自分を卑下していたものだ。忘れてしまえたならば、どんなに楽だろうかと、呪ったことさえあるものだ。それなのに、罪の重石として、束縛の枷として、毎夜の悪夢として、自分を延々と苦しめていたものに、俺の精神は確かに救われた。
 君の声は優しく、涼やかな風のように昂ぶる感情を苛め、穏やかな海のように心を落ちつかせた。しなやかな揺りかごのように俺を守ってくれる。
 おまえの手は大きく、忘却の彼方へ連れさられる俺の意識を導いた。最後まで離すことなく引き戻してくれた。その手は熱く滾り、痛みさえ感じるほどに力強い。
 勝手に意気込む俺の様子に、少年は実に怪訝な顔を見せた。手中の本に正しい答えを探しているようで、ひとしきり沈黙してから、
『それが、ガイナンJr.か』
 と彼は呟いた。挑むような青の双眸に、わずかばかりの羨望が混じっていた。
「ガイナンJr.は俺の血肉、骨格はおまえだよ。どちらを否定しても俺じゃない」
 ルベドも、ガイナンJr.も、俺のものだ。過去も現在も、その先にある未来も、俺のもの。他の誰とも交代はできない。全部ひっくるめて墓場までもって行くさ。抱える荷物は多くとも、俺の責任だ。
「もう二度と、おまえを捨てたりしない。ごめんな、ルベド」
 少年は俯き、黙していた。紙の本をかき抱き、俺に背を向けると、その小さな背を震わせた。彼の脚が砂を蹴る。湿った砂を散らし、波の向こうへ駆けだした。重たい砂に足をとられながら、まっすぐに波をかき分けてゆく。ざくざくと水音を鳴らし、太陽を反射する飛沫をまとい、少年は海を割って進んだ。海中に沈むと思われた脚が、次の一歩で海面に着地する。靴音が海上を軽やかに跳ねる。まるで薄い水たまりの上を走っているようだ。その足跡に水の輪が広がる。雨の滴が落ちるようにして、大小の輪が点々と続いてゆく。
 やがて少年は掌ほどの大きさになり、海面にすっくと立ったまま、俺のほうを振り返った。海面の反射が眩しい。
『あんたに会う日が来るまで、俺も俺なりに生きるから』
 よく通る声が浜辺に響いた。泣きだしそうな声に反し、少年の顔は笑っていた。彼の眼だけが海面に爛々とある。炎のように強烈な眼差しは、弱い影だと一瞬で消してしまうことだろう。太陽を一身に浴びる体は小さく、ビーチの中においてすら少年はちっぽけな存在だが、その存在は青の中に最も際立って見えた。
『俺、大丈夫だから。あんたも今は大丈夫そうだね』
 波音のような声。眩しい光、鮮やかな色、冷めない熱―それらを惜しみなく放つ少年と真夏の海に湧いた追懐の情を、求めることはもうないだろう。
「じゃあな」
 背を向け、歩きだす。力尽きるまで、この足で立ち、這いあがる。
『ああ、またな!』
 晴れやかな声に、思わず苦笑する。それじゃあ、まるで明日また会うかのような物言いだろうが。
 少年が駆けてゆく先には、昔の君たちが待っていてくれるのだろう。あれは子供の領分だ。大人は二度と踏みこめない、あの頃だけの世界だった。俺の歪みを吸いとっていた過去の存在は、現在の俺に会う日が来るまで、あの頃を生きる。その日までお別れだ、ありがとな。
 道路へ目を向けると、アストンマーチン・DB5の前に男が佇んでいる。その向こう、遠くの山は青々とした緑に輝き、広告塔の役割も果たすデュランダルが、屹立する赤い液晶外板上に天気予報や交通速報などのテロップを流していた。普段どおりの日常だが、意識が変わるとこうも新鮮に見えるものなのだろうか。語感が冴え、痛いほど日常を感じる。
 常にきっちり着込んだスーツを汚して着崩れたまま、ガイナンは俺を待っていた。まあ、俺のほうも人のことは言えないほど薄汚れている。そんなことを気にもとめていないガイナンの眼が、俺の頭から爪先まで珍しい生物でも観察するかのように眺め回した。
 あの事後だ、何か思いつめているのだろうか。気がせき、足早に砂浜を歩く。砂浜から道路に跨ぎこしたところで、ガイナンがおもむろに口を開いた。「Jr.」
「背、伸びたか?」
「は?」
 穏やかな口調と意外な質問に、俺は目を丸くした。これは謀りか、はたまた嫌みか。ガイナンの顔をまじまじと凝視する。柔和な微笑みや悠長な構えに亡霊の影など微塵も見えず、他意もなさそうだ。すっかり毒気の抜けた顔をしている。
 ああ、呆れた。普段の抜けたガイナンだ。あの男が自分の内にいるというのに、それらしき緊張感もないように見える。対応を迷っていた自分が馬鹿らしくなった。
 身長ね。そういうことには鋭いんだよな。
 ガイナンの勘の良さに内心、舌打ちする。俺のことには目聡いくせ、どうして自分にはこうも鈍いのか―いや、これもまた、俺も人のことは言えないが。
 ガイナンの問いを、まさか、とやんわり否定し、普段どおりを心がける。「当分はちびのまんまさ。呼び名に困るだろ」
「そうか……いや、悪い。そう見えたんだ」
 軽い調子で答えれば、あっさりと引く。悪いと言いながら、まったく悪びれた素振りもない。このふてぶてしい態度は確かにガイナンだ。まあ、俺たち二人で悶々と悩んでいても仕方ないことだろう。むしろ体を乗っとられるような状況だからこそ、より濃い自分を保持することが大事なのかもしれない。簡単なようでいて、〝わたし〟を定義するということは極めて難しい。そして本来は無意味な行為だ。本来ちっぽけな存在に対し、この広大な宇宙と時間の流れの中において、どのような意味を持たせるか。ガイナンは意義と希望を否定するが、それはつまり、そんなものがなくとも生きぬける地力と自信を兼ね備えているということじゃないか。
「ああ、そうだ」
 車に乗りこむ直前、運転席のガイナンが唐突に声をあげた。助手席のドアに手をかけ、車内を覗く。「今度は何だよ」
 車内のガイナンは笑んでいた。変わらない。身の内に得体の知れない恐怖を抱えておきながら、こうして穏やかに微笑むことができる、この深さ。亡霊の闇より深い。沈んでも、沈んでも、こいつは底を見せない。
「おかえり」
「……何だって?」
「無遠慮な死人に邪魔をされたのでな。仕切り直しだ」
 ガイナンはハンドルに顎を乗せ、微笑のまま俺を見つめた。俺は返す笑顔の代わりに、唖然として緑の双眸を見つめ返した。開いた口が塞がらない。
「おかえり、Jr.」
 滑らかで深みのある声が、俺の名を呼ぶ。水中を漂うように心地良く、胸の内がむず痒くなる。助手席のシートへ倒れこむように座る。諸々の不安を緩和されたのは良しとするが、それとは別の疲労が重なる。気が抜けてずり落ちながら、締まりなく緩みそうになる顔を両手で覆う。身が持たない。
「おまえ、何を……ああもう、くそ、ずりぃよ」
 君たちと同じさ。
 どうしたって敵いやしない。
「ただいま、ガイナン」
 溶けた景色が流れてゆく。車窓からの風に頬を撫ぜられ、誘われるように空を見上げた。目覚めたコロニーの天蓋は、薄っすらと宇宙を透かしている。奥行きある天井は、海のように深く青く果てしない。足元の世界で円を描いていた俺には、とりわけ広大に感じられた。
 ここが俺の世界だ。視界はクリア。心臓はひとつ。脈動している。俺は生きている。
「ああ、痛えなあ」
 痛みそのものが鼓動している。どくどくと疼き、呼吸する。この痛みとともに生きてゆく。宇宙から見ればとるに足らない世界だろうさ。物理的存在としての宇宙より、無限に、永遠に、途方もなく広大な世界で、何もかも終わったと思える日まで、俺は生きよう。そうして俺の命も尽き、君たちのもとへと還る日が来たならば、すべてが溶けあうまどろみの中で、俺はこの日々を思いだすことになるだろう。
 君たちは、俺の記憶。君たちは、俺の過去。データ、メモリー、記号の配列、細胞のざわめき、ほろ苦い味、甘やかな匂い、涼やいだ音、鮮やかな彩色、焼きこげる熱、走りだす残像。俺が生きる世界は、君たちと在る。こうした俺の連なりが、君たちのこれまでの証だと、これから先で伝えよう。