機械は踊る 1


Timeline: A.D. 20XX




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 新着メールがあるよ、と僕は言った。彼が艦長席でポーの短編集を読みふけっていたときのことだ。
―― ヴェクター・コムから、コネクションギア新製品リオス680RRの宣伝だね。
 僕はメールポーターから配送されたホログラフィック映像を宙にうつした。視線をこちらによこした彼は、U.M.N.と常時ネットワーク可能なコネクションギアを重宝している。しかし、広帯域の情報基盤をナビゲートするエージェント指向の自己成長型AIとやらは、少々おしゃべりが過ぎるんじゃないか、と眉間にしわを寄せてもいる。
――君は記録媒体において紙の本を愛読するような懐古趣味でも、情報媒体としては利便性から常に最先端を求めている。ちょうど粉砕プラグインのシミュレーションテストに合格したことだし、新機種に追加して試してみるのはいいことじゃないかな。ヴェクター製品に駐在するプロキュレーター『ANGE』も評判がいい。
 まあ、オメガバイストアーの専用データベースが更新されたり、サザビーズオークションの取引相手からメンションがあったりした場合はまだしも、こんなふうにモバイルツールの勧誘メール程度で提案することに辟易する彼の気持ちも、推し量ることはできる。
 どうだいJr.、と僕は訊く。ガイナン・クーカイJr.は彼好みの重量ある本を閉じ、億劫だと言わんばかりにコネクションギアを手にとった。たちまちU.M.N.の仮想空間に電子の煙がはびこり、青色めいた立方体の空間に彼の姿を寸分の狂いなく構築する。Jr.という異質な存在は、U.M.N.内で彼同様にカリチュアライズされた僕を見上げて訝しんだ。
「連れない言い草じゃねえの、御役御免になりたいってか」
 Jr.の言葉に「メディア・リテラシーさ」と僕は答えた。「君はクーカイ・ファウンデーションにおいて重要な立場にいる人間だ。古い書物に文化財やデータとしての価値があっても、相対的な情報としては正確に加工処理された最新版が望ましい」
 無欲恬淡な、と彼は肩を竦めた。「俺の担当はU-TIC機関相手のどんぱちに裏方工作、所詮は肉体労働なんだ。第一、うちのナビゲーターは口の堅いやつにしか務まらねえよ」
 彼らに創発AIと認識されている〝僕〟は、連邦法の制定によって開発の一切を禁じられている。どうして僕がプロキュレーターとしてモジュール化され、彼の指揮するデュランダルで百式観測器たちと一緒に働いているのか――理由としては、U.M.N.内で漂っていた僕をハマーという人物が発見し、秘密裏に動いたクーカイ・ファウンデーションによって保護されてからの最終的な安全措置、と記憶してもらっている。木を隠すには森の中とはよく言ったもので、いまのところ僕が創発AIだということは外部に発覚していない。
「しおらしいことほざくよりも、プロキュレーターとしての責務を果たしちゃどうなんだ」
 アルヴィース、と彼は命じた。ファウンデーションにはAIの人権も尊重できる者が大勢いる。宇宙の未来を担うべき若者には事欠かないわけだけれど、僕がここからガイナン・クーカイJr.を選んだ理由は他にある――彼の地位を踏まえた利便性? もちろん、それもある。潤沢な資金も必要だよね。ヘルマー第二ミルチア代表討議委員のうしろ盾は心強いし、デュランダルは役立つし、しかしながらもっとも決定的な理由は、彼の出生以前より彼自身に与えられている英雄的要素と悲劇的欠陥においてのことだ。
 古代のありとあらゆる文学に目がない彼の検索履歴により、僕はAD時代の神話や言葉により詳しくなった。彼はまるでトールのように僕を質問攻めにすることが度々あるから、僕は朝を待たずして石(フリーズ)になりそうなときもある。他のユーザーと同じく、彼らと楽しくやってきた時間は当初の計算を上回るデータ量になるだろう。その上で、僕は彼の言うとおり責務をまっとうしなければならない。
「くだらねえ誘いで俺を呼び出すってことは、何かしら大事があるんだろ」言え、と彼の強い目が命じる。
「星団連邦政府の治める宙域でのもっとも重要な役割に、空間跳躍による交通インフラがあるだろう。デュランダルでも恒星間移動に幾度となく利用しているけれど、通常時の移動先はU.M.N.転移コラムのある場所に限られるよね」
 疑りぶかい目でうなずく彼の眼前に、僕が金色の環境シミュレーター(EVS)を出現させたとしよう。各種プラグインを受けとれば、EVSの利用やあらゆるデータベースの参照はプロキュレーターを介して行われるわけだけれど、『2001年宇宙の旅』のように静止したモノリスは、明らかに市販とは別の代物だ。
「ヴェクターのクライアントじゃねえな」
 案の定、彼は金色のモノリスの特異さに気づいて指摘した。空間に舞う金粉が彼の顔を照らしている。
「プレートもプラグインも特別製、君の好きな表現でいうとレア物さ。このEVSは、並行宇宙という枝分かれした長大な年表軸があるとして、どこの枝にもリンクすることができる便利な相転移システムなんだ」
 待て待て待て待て、と僕が言い終わらないうちに彼は頭を抱えて慌て出した。「アルヴィース、これは犯罪だ、フォービドゥンデバイスなんて目じゃねえほどの違法だ!」
「いまさらなにを」それを言うなら、創発AIの僕自体が違法だし、僕をプロキュレーターにモジュール化した財団も罪に問われるし、そもそも財団の設立経緯自体が公(おおやけ)にはできないものだし、もっと言うなら君やガイナン理事、ゴドウィン姉妹の原籍は――「わかったわかった」
 彼は僕の意見を大仰な仕草でしりぞけ、そうじゃなくて、と釈明した。「万全を期してるとはいえ何時クラックされるかもしれん可能性のあるU.M.N.ポーターの中継区で違法ジャンク品を出現させた挙句に極秘事項をべらべら喋るなんて気でも違ったのか!」
 珍しく取り乱している彼に、なるほど、僕も合点がいった。焦りはよくない。ひとまず彼を落ち着かせるため、心配ないよ、と僕は教えた。「君がここに入ってきた時点で、僕たちはハイパースペースを航行しているからね」
 おっと、どうやら彼は言葉を失ったらしい。ふるえる唇がなにやら動いたけれど音の生成にはいたらない。適応能力が高い人とはいえ、事務的に対応しようとした僕も少しばかりいただけなかった。
 ところで、ハイパースペースと言えば古典SF『スターウォーズ』にも、宇宙船が光速を超える速度での移動を行う際に使用する別状態の時空として登場する。〝科学者にも完全に理解できていない事象であり、パラレル世界、宇宙の他次元、物理空間の代替モデル、あるいは単に光速を超える速度で移動した際に見える世界だ〟とも言われていた――説明を、と辛うじて声が聞こえたので、「責務を果たせと言ったろう」と僕は答えた。
「結論からいうと、〝僕〟はクアッドインベンターを破滅した『パンスペルミア』のような創発AIじゃない」まあ、仕事内容は似通っているけれど。「僕の責務はU.M.N.より広範囲の領域を管理し、『神』と呼ばれるシステムと人々との橋渡しを担うことだ」
 僕と彼のあいだでは、神々しい金色のモノリスが所在なさげに静止している。彼はといえば、「その突拍子もねえ説明が仮に事実だとして、俺を一体どこへ連れてくつもりだ」と警戒する声も低いのに、冗談、と笑い飛ばしたりはせず、見知った僕を信じようと努める。とはいえ、やはり曖昧な言葉で説き伏せるよりも、じかに体験してもらうほうがいいのだろう。「Jr.」僕が彼の名を呼べば、彼は少々困ったように眉尻を下げた。彼の情がとびきり深いことも僕は知っている。
「君に見てほしいものがあるんだ」
 身を硬くした彼の手をとり、金色のモノリスに触れさせる。とたんに彼は青い顔でうめいた。正確には、青い顔を座席の背もたれに押しつけて離陸の揺れに耐えながら、新たな空間へと転移した肉体の衝撃に小さくうめいた。
 ハイパースペースを放り出された僕たちはいま、とある航空機内にいる。ボーイング737-800の十二席あるビジネスクラス、窓際の女性の横にJr.は着席し、僕は通路を挟んで彼のとなりに。オーストラリアの最新人間工学研究によって開発されたクッションで快適な眠りとくつろぎをサポートするという全長二メートルの繭型シートが僕たちを包みこんでいる。
「皆さま、おはようございます。本日はカンタス航空二〇XX便、ロンドン行きにご搭乗いただき、まことにありがとうございます」
 ふたりの客室乗務員がビデオモニターの前でにこやかに案内する。「機長はオースティン・T・マシューズ、副操縦士はトニー・キャンベラ、私(わたくし)たちは客室を担当いたします、シェリィ、メリィ・マドリッドでございます。シートベルトを腰の位置でしっかりお締めください。はじめに非常用設備のご案内をさせていただきます。なお、非常口座席にお座りのお客さまは、緊急脱出の際に援助をお願いいたします」
 離陸後、重力に反して地面を離れた窓外の限られた景色は、ゆるやかに都市から遠ざかり、やがてオーストラリアの大陸を一望して西へと向かった。秩然とした機内で身を起こしたJr.は、ここはどこだ、と眉間を手の甲で押さえた。ビジネスクラスには僕たちと窓側席にいる彼女の他、ウィスキーボトルを空にして熟睡している後列の青年、同じ制服を着ている隣同士の老人と若者、マックノートといくつかのガジェットをいじっている最前列右端の青年しかいない。
「サー、どこか具合でも――」客席をまわる乗務員のひとりがJr.の肩に手を添えた。
「いや、実に快適だよ」彼は明らかに無理をして笑い、青い顔をあげると、ふたりの乗務員を交互に見つめた。「君たち、以前どこかで?」
 彼の古臭い口説き文句に乗務員らは顔を見合わせてくすりと笑った。
「常套文句にしても少々古いかと、サー」
 そう、すまない、そうだな、と言いながら彼は頭をかるく振り、自分が着用しているスーツを見下ろすと、次に靴と靴の収納スペース、AC電源プラグに接続されたPC、中央のコンソール型ユニット、タッチスクリーンと専用電話を一瞥し、「ランチまでにもっといいのを考えとくよ」と彼女たちに返した。
 爽やかな微笑を残して乗務員が遠ざかると、彼は座席から億劫そうに身を乗り出し、通路の向かいにいる僕をにらんだ。「なにか忘れちまった気がする」なあ、アル、と彼は頭をかく。「あんたは俺の担当編集者、だよな?」
 僕は頭痛をこらえる彼の耳元でささやく。
 思い出して。


>A.D.二〇XX、縮小点のファイルを開きます。
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 竜巻やら地震やら洪水やら寒波やら、ともかく天災つづきの年だろうと、前々から叫ばれている温暖化現象も異常気象も当然のごとく健在で、毎日毎日照りつける太陽の熱気が俺の身体にまとわりついちゃ田舎町のくそ暑さを助長する。オパールを産出するオーストラリアのライトニングリッジは、シドニーの北西にあるアウトバックで、このところ昼間の気温なんて摂氏五〇度にもなる。高品質なオパールには最良の土壌だが、人間にとっちゃゴツゴツした岩肌だらけの乾燥地帯でしかない。億万長者を夢見て世界中から運試しにやってくるお気楽どもと違って、さびれた鉱業の町に取材以外で来ようだなんて俺は思わないんだよ。熱中症とか倦怠感とか理由をつけてはモーテルから出ることも、ましてや部屋からも出ようとしない始末なのも仕方ないってもんだろ。
 アスファルトが溶け出すような時間になってようやくのそのそと寝床から這い出してはくさりかけの飯を喰らい、夕涼みまでの長く無意味な時間を延々読書、あるいはSF作家の端くれとしての職務をまっとうすべくマックブックに向かって原稿を書き、喉に渇きを覚えれば水を胃に入れ、腹が冷えては用を足す。あとは過ぎ去っていく時間をじっと部屋のなかで待つだけさ。
 砂漠に降るような冷たい闇の到来で、いくらか熱気も和らげば、さすがに腹は減るし頭は回らねえしで、ウォルゲットの鉱夫に混じっちゃパブで一杯やるのもいいかって按配のことを考えたりもする。が、よくて閉まりかけのマーケット、悪けりゃ冷房のお膝元を離れる扉の前まで行くともうぶっ倒れちまうんだよな。というわけで、冷蔵庫を開けて三日前に購入したオパールのような黒すぐりジャムをなめ、これまた大分前からあるような気がしてならない黴かけのパンを齧り、やれやれ今日はこれで大方やるべきことはすんだし、もう寝りゃいいか、という具合になって煙草を燻らせる。もしくは古い採掘機の影に浮かぶ月を眺めちゃ感傷に浸ったり、強迫観念に迫られて再び原稿に向かったりしたのち、明け方近くに部屋のアナログ時計が四回ほど鳴るのを朦朧とした頭で聞き届けてから、あーパリじゃ双子の弟が夕飯でも食ってる時間だなあ、と欠伸をして昼すぎまで寝る。
 売れないSF作家の腐りきったルーチンは、大概こんなふうに破綻しているわけだが――いくばくか心中にある危機感も、毛穴まで焦がすような熱気に阻害されては遠くへ投げ捨てられるってわけ。それは海の表面をゆらゆらと漂い、知らぬ間に沖に流されてしまう感覚にも似た、ある種の危険性を内包した安定感だろう。さいわい、現地で書くものを書いてしまえば俺はロンドンへ帰るのだから、その旨を隣国で似たような無職生活を送っている弟に電話で伝えようとしたところ、携帯に自分宛の留守電メッセージが入っていた。
「小旅行、マヨルカ島に行く――ニューヨークから戻っていた三男がお前の新作をよこせというから渡したぞ――一向に在庫の減らん『盗めない宝石』だったか。企画ごり押しの続編とやらは、ユーロが存続している内にましな金になるといいがなあ」
 俺は即座にロンドンからのマヨルカ行きを決意した。もちろん、この減らず口野郎を一発ぶん殴るためだ。


 仕事を雑破に終えた俺の現在位置は、GPSによると欧州へ向かうケニア上空、高度一万五千フィートといったところか。出版社からのお小言も届かない。日がな一日亀のごとく毛布に包まったり闇のなかでじっとしている俺にとって、シンガポール経由の三十時間近い空の旅なんてものは苦痛にならず、むしろ快楽の境地に達している。ビジネスクラスの旅費は自腹になるが、この繭型シートはたまらない。おまけに客室乗務員はふたりとも気品あるスペイン系の美人姉妹ときてる。
 俺の隣席に当たる窓際では、二十歳をすぎた頃合いの女性が実に美しい姿勢で読書をしていた。表題には『マヨルカの冬』とある。もうクリスマスも近い、北半球に停滞している真冬の寒さは、ライトニングリッジのくそ暑さに慣れたこの身にゃこたえるだろうよ。
「ヨーロッパへは旅行で?」
 俺は挨拶代わりとして彼女に訊いた。ええ、と彼女は顔をあげた。「ロンドンを観光したあとパリとバルセロナに」あなたは、という当たり障りない返しに、「僕は仕事でシドニー近郊にいましてね。クリスマスに間に合うよう帰国できて幸運でした」なんて答える俺に彼女は表面だけの笑みを浮かべる。
「マヨルカではショパンとジョルジュ・サンドの愛の軌跡を辿るおつもりかな」
 膝元の本を指差して言えば、彼女は少しばかり頬を赤くした。よくよく見ずとも東洋人の顔立ち、品のよい眼鏡の奥にある瞳はみどり色をしている。そうなの、と彼女はアーモンド色の長い髪を目元から払いつつうなずいた。
「わたしはカリフォルニアから。ちょっとした自己改革のつもりなんです。大学の冬休みを利用して色々な国へ行ってみたくて、シドニーへも。日本にいる兄には口うるさく言われました」
 カリフォルニア大学バークレー校へ通う彼女の専門はナノテクノロジーだと言う。まさかジョルジュ・サンドのような男性遍歴こそなかろうが、ローレンス・バークレー国立研究所から招集を受けるほど優秀らしい彼女は、当時パリの街中を自由に歩けるよう男装をし、ウールのネクタイを締め、グレイの帽子をかぶり、黒いブーツを履いていたサンドのような魅力を兼ね備えていた。
 ほら、あそこ、と窓から地上を指差す彼女に従うと、雲の切れ間からブラックオパールのような色をしたケニア北部のトゥルカナ湖がちらりと見えた。湖内にあるふたつの火山島も。
「あそこで私の伯父が発掘作業をしているんです」
 発掘、なんの、と訊けば、彼女も詳しく知らないらしい。「あの湖周辺は人類祖先の化石産地だから、そういう類(たぐい)のものじゃないかしら」と話していた。
 読書に戻った彼女はなにより凛としている。ほそい手から伸びる指先が動きを見せるたび、まるでピアノの鍵盤を弾いているかのような錯覚を受けてしまう――いや、女性のピアノの生演奏など間近で見られた覚えはないが。それなのに、ショパンの『雨だれ』を弾く五指の動きを知っている自分がいることも、奇妙なことであると思わないか、と自分自身に問いたい。白い指が譜面に沿って黒い盤を押し、みどりの双眸は焦点を定かにしないまま空を見つめ、歌うように動きをつくる小さな唇から無音の声がこぼれ落ちていく。そんな残像が隣席の彼女に重なるなんて、まるで誰かの網膜をくっつけているみたいじゃねえか。
「どうかしましたか」
 向き直った彼女に俺はあわて、おそらく赤面し、さらに言ってしまうとどもりながら、あー、いや、なんというか、あんまり君が――とナンセンスな言葉をさえぎり、突如として俺たちの機体は激しい揺れに襲われた。腹にひびく衝撃音、背もたれに打ちつけた頭がぐらりと傾ぐ。通路を歩く乗務員の足をすくう飛行ではない浮遊感、うしろの簡易デスクから酒がすべり落ち、朱色のカーペットを濡らす。出し抜けに起こった揺れで少ない乗客が騒ぎ出した。
「皆さま、当機は乱気流の中に入りました。シートベルトを着用し、ベルト着用サインが消えるまでの間、席をお立ちにならないようご協力お願いいたします」
 フライトに支障が出るほどではないらしい。これより客室乗務員も着席いたします、とアナウンスする側から乱気流という理由を付加されたおかげか、喧騒にもしだい落ち着く空気が広まり、やがてシートベルトを着用してリラックスできる姿勢を見つけた乗客からもとの談笑やら睡眠やらへと戻っていった。唐突に起こることの大抵は、合理化で簡単に収束するもんだ。
 彼女の膝から落ちた『マヨルカの冬』を拾いあげたとき、ショパンとサンドの音楽劇をふと思い出した。サンドは彼のことを天使だとし、〝私は彼が天上を飛翔しているのを見慣れていますから、生や死が彼にとってなんらかの意味を持っているようには思えません。彼自身、自分がどの惑星に生きているのかということを解らないのです〟と言った。
「〝僕の心臓をワルシャワに持ち帰ってほしい〟」
「なんですって?」
 本を受けとった彼女が聞き返してくる。
「ショパンの夢は故国ポーランドへの帰郷だった。君の夢は何?」
 彼女は怪訝な顔をし、機内の状況を見渡してから「事故みたいに唐突な質問ね、こんなときに」と言った。そうなるね、と俺は彼女ごしに青い海を眺めながらうなずいた。
「夢、というかフォアサイト研究所のドレクスラー氏が予想したことでもあるけれど――微小なロボットが人間の血流のなかを泳ぎ回ってガン細胞を攻撃したり、汚染物質を吸収したり、原子から素材を組み立てたりするような日の訪れに、技術者として立ち会うこと」
 それが私の夢かしら、と彼女は答えた。あなたは、の返しに「抜け出すことさ」と俺は言う。
「この飛行機から?」
「多面的な意味で。言ってみればロンドンに着くことがひとつの夢だ」
「いまとなっては確かに夢だわ」彼女は苦笑した。
「ところで、僕たちは出会って間もないわけだが、もしかするとマヨルカを一緒に旅するべきかもしれない」
 君はピアノが弾けるだろう、と確認すれば彼女は驚いた。「ピアノを弾く指だ」
「幼少時に稽古をしていたの。ショパンの雨だれも――あなたは小説家でしたね」
 彼女の含み笑いに俺も同じものを返す。そのとおり。
「わたしは物語を紡げます」
 という経緯があり、ひと冬のアバンチュールよろしく俺は彼女にロンドンを案内し、パリとバルセロナをひと通り観光したのち、ふたりでマヨルカを訪れた。銀世界を楽しく散歩し、地中海の冷気を帯びた貸し切りビーチで語り合い、群生するオレンジの木から季節外れの果実をもぎとったあとは口いっぱいに含んで彼女にキスをする。言うまでもなく、背景には燃えるような西日が望ましい。週末にはヴァルデモッサの古びた石畳をヴェスパで駆けめぐり、煤けた白っぽい修道院の壁に寄りかかりながら煙草をふかした。彼女はショパンが弾いたピアノで『雨だれ』を弾き、俺は机で『続・盗めない宝石』を脱稿、60‡¶8:‡?フレデリック、60‡¶8:‡?ジョルジュ、なんてのろけて抱き合ったり、なし崩しにベッドへもぐりこんだり――とまあ、そんな甘い生活に酔いしれている。
 ところで、あいつはどこにいるんだ?


>音声ファイルを終了します。


 ここで僕が注目してほしいのは、君たちの〝夢〟ではなく〝君〟の執筆していた『盗めない宝石』シリーズについて。
 君たちの宇宙は縦・横・高さの三次元の空間と、一次元の時間進行ベクトルから成り立っているだろう。そして時間の進行が一方通行であるため、ビッグバン以降膨張しつづける宇宙は同時に拡張しつづけていく――こうしたエントロピーの法則に則った宇宙にも、許容量というものがあるんだ。超ひも理論から展開した新サイクリック宇宙論だと考えてほしい。
 宇宙はA.D.二〇XX年現在、拡大と縮小をすでに五〇回ほど繰り返している。簡単にいえば、もともと設定されている許容を超えたとき、宇宙は急激な縮小――つまり、時間の逆流を始めることになる。そして、〝君〟の書いたSF小説には、それが示されているんだよ。
「宇宙の縮小を予言する時期か」
 そのとおり。
「ああ、〝俺〟は確かに小説を書いたよ」
 航空機のシートに深々ともたれ、彼は宙を見すえて自嘲した。
「箸にも棒にも引っかからねえつまらんSFをな」
 〝君〟の理論が正しければ、二〇XX年に宇宙は光の速さで一三七億年の歴史を逆流する。
 僕たちの席から機体後方を見てごらん。ブラックホールにも似た巨大な異空間が口を開いて待っているだろう。〝君〟たちのいるいまが、その二〇XX年だ。僕は君たちを選んだ。選ばれた君たちには各々別の経路で宇宙縮小の特異点へと飛び、『神』のシステムを目にしてもらいたい。