機械は踊る 2


Timeline: A.D. 20XX




>二〇XX年から縮小点までのファイルを開きます。


 僕たちは宇宙にいる。君は過去の未来における最終点を見ている。
――あそこに浮かんでいる星は、ロスト・エルサレムか?
 そう、ここは二〇XX年時の君が搭乗していた航空機の真上、ロストエルサレムの静止軌道上にある衛星型研究所アステロイドベルトだ。ラウンジの外部に見える巨大なリングは相転移実験装置で、超大統一レベルの相転移によってビッグバンを発生させるだけじゃなく、 創世後の世界における法則や成り立ちを決定することも可能となる。
 原子間力顕微鏡の中心にある球体を囲んで、白衣を着た男女が向かい合っているだろう? 彼らが中心となって相転移実験装置の大元の理論を構築し、開発した技術で装置の建築を実現させてきた。ふたりのあいだにある机上の太陽系モデルは『アルヴィース』という端末内で構成され、このときも粛々と起動している実験的な仮想世界だ。すべてのデータは『アルヴィース』のソフトウェア内部で発生しているから、構成物質の変化パターンは推測できる。ただし、OSとも換言される『アルヴィース』自身がそこへ介入することはできない。ふたりはいま、完璧に複製された太陽系の進化を観察している。 
 ほら、見ておいで。人工太陽系における原始の頃、そこに何かを予測する要素なんてありはしなかった少しばかりの微粒子が漂っている以外は。
「ねえ、クラウス」巨大な顕微鏡を覗いていた彼女が、当時の僕を調整中の彼に話しかける。「今日、原子ができると思うわ」
「はっ、原子だって!」男は鼻で笑い、「もっぱら電子や陽子が飛び出したり浮き沈んだりしているだけなのに? どうせこれも失敗なのさ、僕はノーと賭ける」と反論する。彼らが賭けられる品は少ない。
「じゃあ、自販機のスターバックスを一杯分ね。カプチーノのトールサイズ、エクストラショット入りで」
「僕は二杯分だ」彼が言い終わらないうちに、どの陽子のまわりにもひとつずつ電子がくっついたかと思うと、勢いよく飛び回りはじめていた。ふたりは電子顕微鏡を覗きこみ、自分たちの世界に生まれた確実な進化に歓喜した。
――ほお、巨大な水素ガスの星雲が空間に凝縮してたってとこか?
 正しい分析だ、Jr.。
――なんにしろ、美人の勝ちだな。
 彼らは太陽系の複製に成功し、将来この太陽系モデルで起こることについて賭けていく選択は事実上、無制限だと言えるね。スケールを縮小してある分、モデル内の時間進行は現実よりも速い。原星雲のなかで原初星が固まってくると、次は男のほうが温度の上昇によって結果どのようなことが起こるかを悟った。
「見ていろ、いまに燃え出す」
 ふたりが自販機にあるサブウェイのB.L.T.を賭けるより前に、惑星のまわりは球状に拡散する数多の白熱光で照らされていた。星の誕生さ。
 ふたりの勝敗の蓋然性は五分五分で、彼女は出来事が起こる可能性に賭けることが多く、彼は現実について静的な感覚を持ち、いつも彼女の反対に賭けた。初めこそいくらか手探りで賭けはしていたけれど、やがて彼女のほうは完璧に複製された世界が自分たちの世界と同じ法則性を持つことも理解し、完全に歴史をなぞるしかない世界の進化にもはや愉しみを感じなくなっていた。
「あの太陽が見えるだろう? 惑星群が出来上がらないうちに、軌道の各距離がどれだけあるか言ってごらん」と青い目を輝かせていた彼との日々の、どれほど懐かしいことか。
 彼は賭けに夢中だった。予言がだんだんと実現してゆくままにということは、歴史を繰り返しているに他ならないけれど、この時期のクラウスは一方で非常に興味深いことを述べていたよ。
 物質はエネルギーであり、エネルギーは物理学ではゼロから無限大の周波数の和として数式上表現できる。しかしながら相対性論の制限から、光の速度を超える周波数に相当する分は我々の世界に存在しない。この矛盾に対し、彼はこの〝相対論で存在できない周波数のエネルギーは、負の物質として我々の世界に現れている〟と証明しようとした。
「見ろ、惑星が固まりはじめたぞ」彼は言う。「さあ、どの惑星の上に大気層ができるか、水星か、金星か、火星か、地球か? もちろん、我らの惑星にこそ相応しい!」
 人類が誕生する頃になると、彼女はサイバネティックスの論理を彼に説明しようとする。
「クラウス」
「わかっている、次の賭けだろう。英国統治下のインド半島における人口増加指数まずはこれを計算してくれないか」
「計算してどうなるの」普段おだやかな彼女の強い口調に、彼は面食らった。「わたしたちが原子を発見したあの過程が進行しはじめた瞬間から、残された可能性なんて連鎖的遡及作用の論理に従うことだけなのよ」
「何をそんなに考えこんでいるんだい、君」
 心底ふしぎに思う彼は聞く耳を持とうとしない。
「いいかい、バルザックは『幻滅』の終わりでリュシアン・ド・リュバンプレを自殺させはしなかったのさ。僕の言った通りだろう?」「ウォール街の今日の引値は二パーセント安で、六パーセント安じゃなかったぞ」「カッシア街道の不法建築家屋は十二階建てで、九階建てじゃない!」「ロンシャンではネアルコ四世が二馬身で優勝したよ、どうだい?」
 ええ、ええ、あなたの勝ちよ、あなたの勝ちよ、と彼女は答える。
「フィレンツェで流行したペストは、僕が誘導したとおりの経路で人口を半減させたぞ!」
 歴史というものは一体なにかと考えたとき、もっとも根源的なところにあるのが、世界における全面的な怪異性の記憶そのものであるとは、君と以前に対話したときのテーマじゃなかったかな、Jr.。ゆえに歴史は非常にトラウマ的なものであるとする、と。
――とある場所にたまたま居合わせた人々が、強制的に目にすることになった世界の異様な姿を延々と刻んでいく歴史の総体みたいなもんがある、とひとつは考えるんだ。実態としては、太陽のように直で見ると目が潰れちまうような種類のもんでさ。ふたつには歴史というのは、この直視すりゃ目が潰れるような代物を、直面した人間が物語化する事によって、合理的に受け入れられるものにしていくっつう一種の運動じゃねえかってこと。
 だとすれば、ここにはひとつ目の歴史があるんだよね。
――つまり?
 君のいう、太陽を見つづけた人間が最終的に目指すところは二通りあるらしい。彼らが複製した地球においても、やはりニューヨークの国際貿易センタービルに旅客機が衝突したとき、とうとう彼女は目の前で予定調和を実現させる縮小宇宙の機能停止を試みた。そうした機能があるならば、もっとも安全で無難な選択と言えるだろう。太陽からは目を逸らせばいい。
 ただし、彼の選択は違っていた。男はイカロスになろうとした。ほら、彼女の現場を発見した彼の顔、ごらん。焦り、怒り、惑い、鬼気迫った表情だ。彼は彼女のほそ腕を強すぎる力でつかみ、「我々はラプラスの悪魔と契約したんだ」と言った。
「どれほど道徳的な非難だろうと、僕をこのシステムから引きはがすことなどできやしない。僕の血管を流れるのは必ずしも赤い血ではなく、このシステムの内部を循環する見えない権力なんだ。僕は最後までこのシステムに忠実であるだろう。いつか誰かがこのシステムを、象徴的にではなく崩壊させる場面を目の当りにするまで、忠実でありつづけるだろう」
 彼女は自身を拘束する力に怯えていた。彼の手を振り払おうとする抵抗によって、彼の片方の手からホログラフィック端末が転げ落ちる。端末は衝撃でウェブ新聞のページを宙に映し、無数の大星雲が形成される最中の宇宙空間さながらに、白黒まだらの面がふたりの周囲に展開される。記事は無限の虚空だった宇宙空間と同じく、それ自体としてはなんのあても意味もない、空白に取り囲まれた小物体がばらばらにひしめていているだけだ。次の実験が成功すれば、彼らは未来の事象を外から干渉できるようになる。
 ふたりは思い出しているあの虚空を通じて直線や曲線を描き、正確な点、空間と時間の交点を見抜いては、ひらめいた出来事で賭けをしていたことを。『アルヴィース』を開発したふたりの脳内ではもう、未来の出来事などセメントを流しこむように、あとからあとから列をなし、重なり合って、ひっきりなしに降り注いでくる。白黒の見出しに切れ切れにされ、多数の面から読みとることはできても本質的には判読不能でしかない、形も方向もない事件のコンクリートが、ふたりの理想を二分した。
 彼女は考える――『もしも、人間にもアルヴィースのように誰しも病とは無縁の体躯と膨大な知識があれば、無意味な争いなど起こさず平和に生きてゆけるのかしら。神よ、唯一のもとに人々が集えば、悲しみも憎しみも愛によって、いやされるのでしょうか。あやまちを繰り返すこともなくなるのでしょうか』
 彼は考える――『もしも、神が唯一のものとなれば人間は平等に価値がなくなるだろう。
 たとえばドラッグも独り寝の寂しさを紛らわせてくれるものではなく、嫌な上司を消してくれるものでもない。いまの自分のあり方を変えてくれるものでさえない。しかし、人がそれらに手を出すのは、なにか起こるはずだと信じる心による。これを使えば自分はこうなれるだろう、という信念からな。純粋になにかの心的事象に先立つ出来事というものは、我々が専門とする科学ではとらえることができない。
 本当の意味で渇望に先立つ脳内事象は、まだその感情が生じていない段階で起こっていなければならない。カオスからある信念体系が選ばれてゆくとき、脳の内部でなにが起こっているのかを我々はまだ見ていないのだ。いまここにないもの、あるいは、いまここにいる自分の姿とは違う姿を思い描くことがなければ、人が己を人たらしめることは発揮できなかったはず。
 その力が神を生み、悪魔を生み、雷の正体を明らかにし、薔薇の品種を改良し、芳醇なワインを熟成させてきた。僕にとって信じる力は危険物である。おそらくそれは、慈愛によって育ち、溺愛によって滅ぶだろう。
 信じることは信じることを契機に強化される。信じることなしに信じることは生まれない。本当に生命に価値がないと信じているならば、誰かの死に痛みなど感じないのだ』


 そして君たちの搭乗する航空機がケニア上空を通過しようという頃、彼らの太陽系モデルはついに現実の時間を追い越し、彼は『アルヴィース』にアクセスした――研究員を一同に集め、「さあ、実験を始めよう」という具合にね。
――おいおい、クラウスってやつは本気で神にでもなるつもりか?
 まさしくそうさ、Jr.。少なくとも彼は本気だった。僕はコンピュータとして相転移の命令を受けつけ、予定調和の世界を構築した。これによって地球と宇宙そのものが閉じた空間となり、唯一アクセス権限を持っていた彼と彼女だけが神の役目を担い、永年の時をすごすことになる。
――こんなもんを俺に見せてどうする。航空機内のSF小説家を演じさせたように、信じろと?
 とりあえず見届けてくれさえすればいい。この世界が未来人によって再展開されたとき、僕は世界の因果の外にある存在となるだろう。彼らの選択によってプログラムは劇的な進化を促され、運命の枠を超えた世界が創成されるこの未来視(ヴィジョン)が君には見えるだろうか、Jr.。
――運命の枠を超える……?
 よし、次へ行こうか。クラウスの他にも神の力を求めた人間は大勢いるからね。
――いかれた連中の思想なんぞに興味はねえよ。〝負の物質〟ってこれか? どっちかといえば、迷惑な遺産だろ。
 うん、相変わらず君のほうは至極まともで安心している。まあ、いまはそう言わずに、ほら聞いてごらん。
『こんなことが私たちの目指していた理想の世界だったのか?』
 これもまた『神』を求める者の声さ。
『私たちのしてきたことは、一体なんだったんだ?』『ソフィアの目指していた理想救済の結果がこれか?』『ソフィアは信仰さえ持てば己が望むべく道が開けると言った。だが現実はどうだ? 神は応えなかった……私たちに信仰心がなかったからなのか?』『たとえ私たちに信仰がなかったとしても、ソフィアにはあったんだ。その彼女がなぜ犠牲にならねばならない?』
――うう、頭がいてえ……アルヴィース、この声を消してくれ!
『神は死んだのか? いないのか? そんなものは最初から存在しなかったというのか?』
 神への信仰とは外に求めるものではなく、内に芽生えさせるものだ。少なくとも、僕はそうインプットされている。ユルスナールが『黒の過程』の冒頭で引いているだろう――〝人間は望むところの物になれる〟と。人が因果のなかで主体的な選択をすることが可能なら、
『世界に神が存在しないのならば、私がこの手で創り出してやる!』
 この声もそこへ向かって奔走するのさ。