機械は踊る 5


Timeline: Passage of time



『シェリィお姉ちゃん、わたしたちどうなるの?』
 照明の切れた薄暗い部屋で、少女たちは会話をしていた。その声は言葉ではなく、静かな室内に聞こえるものでもない。お互いの頭からつなががったコードを伝い、ふたりの脳内にだけ響いている記憶の波形だ。
『わからないわ、メリィ。ここにはもうわたしたちしかいないもの』
 実験室のようなその室内には、子供一人が納まる程度のポッドが数十台、雑然と並べられていた。ナンバーの入ったそれぞれのポッドの中には人影が見えるものの、室内自体に人の気配はない。少女は開けることのできないポッド内から、暗く狭い天井を見上げることしかできない。横向きになると、両のこめかみから見える制御デバイスが圧迫されているのがわかる。コードに流れるU.M.N.回線で意思の疎通を行うことだけが、いまの彼女たちを支える糧となっている。
『お腹すいたよ、お姉ちゃん』
 メリィが弱々しく呟いた。シェリィは制御デバイスの調子が悪く、妹からの信号がくるたびに苦しくなる。完全な機械と違い、生身の脳を改造してデバイスを埋めこんでいる彼女たちは、周囲の気圧や自分の体調の変化によってデバイスの副作用を受けてしまう。心配をかけまいと痛みを隠しながら、姉代わりの彼女は元気のない妹にやさしく声をかけた。
『チューブの栄養は、ちゃんと塞いで少しずつ流してる?』
『もう残ってないの』
『じゃあ、少しでも眠りなさい』
 涙を流したぶんだけ水分も体力も消費するため、眠ってやりすごす日々が延々とつづいている。どれだけの月日が経っているのか。助けてくれる者など誰もいない。この工場へと運ばれてきた時点で、自分たちの未来などありはしないのだと、ふたりは理解していた。
 メリィは無理やり瞼を閉じ、あるかどうかもわからない姉妹の明日を夢見て眠る。
『おやすみ、お姉ちゃん』
『おやすみなさい、メリィ』
 外の世界も知らない、実験の日々で言葉も忘れた――記憶の片隅にある名前しかわからない自分たちにあるものはなんだろうか。研究者に埋めこまれた、この記憶連結(インターリンク)というゆがんだ絆くらいだろうか。
『わたしたちきっと、このまま死ぬのね』
 遠くで地響きのような爆発音が轟いたあと、しばらくして何発もの銃声が鳴りはじめた。こうした地震のような揺れと空気が破裂するような銃声を、姉妹は以前にも聞いたことがある――ミルチア紛争時だ。紛争終結後に企業は第二ミルチアからほど近いこの実験プラントへ移動してきたが、まもなく少女たちをポッドに入れたまま、部屋のありとあらゆる機材を叩き壊してどこかへと逃げてしまった。工場の機能は半壊した上、外に逃げ出せた被検体もそのままいなくなり、今はただ音のない月日だけがすぎている。
『落ち着いて、あまり動いてはだめ』
 シェリィは心臓の早鐘を抑え、混乱する妹を制した。ふたりのポッドに影が落ちる。ポッド上部にある窓を、今まで目にしたことのない半透明の巨大な物体が通りすぎていく。やたらと長い尾を持つ虫のようなそれは生物なのか、浮遊しているように見えた。まるで深海のような光景に姉妹は驚愕する。
 〝B〟のモノグラムが入ったポッドに半透明の生物が侵入しようとしていた。ゆるゆると尾を振り、ポッドの外層をすり抜け、水に浸かるように完全に内部へと入りこんでしまう。少女らしきくぐもった叫びが聞こえたかと思うと、それは次第に小さくなり、ついには途絶えて何もわからなくなった。
 シェリィは身を震わせた。未知のものへの大きな恐怖と、逃げられないこの状況への絶望で頭が真っ白になる。銃撃の音も確実にこちらへ近づいている。いまここで死ぬかもしれない。ほそい糸を切られるように、自分たちの命は終わるかもしれない。
『お姉ちゃん、また!』
 メリィの怯えた声でシェリィが我に返る。少しずつ姿のちがう半透明の化け物が数匹、すぐ目の前を通りすぎようとしていた。
『こわい、こわいよ』と泣き叫びはじめた妹につられ、シェリィの目にも枯れたはずの涙が浮かぶ。
 閉じていた実験室の扉を鈍器で叩く音がした。直後、扉ががらんと倒れる重い音が響き、ふたつの足音が室内へ侵入してきた。
 銃声が鳴りはじめる。足音の主はライフルを乱射しているようで、炎をまとった小さな銃弾が姉妹の視界を飛ぶ。それらが半透明の化け物を突き刺し、徐々に後退させているようだった。
「ニグレド! こいつら、炎にひるむぞ!」
 甲高い少年の叫び声が、銃撃音にまぎれて聞こえた。
「無理に倒そうとしないで、ルベド! これがグノーシスだとしたら、僕たちには分が悪い」
 ここへの侵入者は、どうやら化け物とこのふたりだけらしい。グノーシス、という聞き慣れない単語に姉妹は怯える。おそらく少年であろうふたりの声の主も、敵か味方か判断できない。
「だって倒さなきゃ、どんどんポッドに寄ってんじゃねえか!」
 高い声の少年が言うように、グノーシスと呼ばれた化け物たちはポッドを目指してくるようだった。姉妹のポッドにも寄ってきたそれを、銃弾の雨が押し返し撤退させる。ふたりの少年と数匹のグノーシスとの攻防はしばらくつづき、姉妹は事態が落ち着くことを祈りながら待つしかなかった。
「よし、弾は切れたけどなんとか追い返した。また湧いてくる前に急ごうぜ」
「そうだね」
 少年たちは並べられたポッドへと近づいてきた。姉妹にはポッドの外層をがんがん叩き、ひらき口を無理やり開けようとする音が聞こえる。
「ちくしょう、ロックなんかかけやがって……人の命をなんだと思ってる!」
 持っていたライフルを床に投げ捨て、高い声の少年が怒鳴った。解除キーを、と低めの声の少年は靴音を響かせて移動する。
 ロック解除のコードキーを叩く音が何度かすると、すべてのポッドが一斉に開いた。姉妹は突然の出来事に混乱し、開いたポッドで身を固くした。長期間運動をしていなかった身体は、筋肉のこわばりに骨の音を鳴らす。
「生きている子たちを運びだそう」
 ふたりの少年は声をかけ合いながら、急いで端と端からポッドのなかを覗いていく。
「くそっ、もう死んでる――ニグレド!」
「こっちも白化した欠片が散らばっているだけだ」
 彼らは悔しそうに首を振る。
「塩だ、どうしてグノーシスが入ったポッドに?」
 白い粉をなめて眉をひそめた少年は、鮮やかな赤毛に、青い目をしている。シェリィより少し高い程度の身長だろう、年もそう変わらないように見える。
「正体解明の参考になるかもしれない。採取してヘルマー代表へ報告しよう」
 メリィが反対側を向くと、もう片方の少年がいた。黒髪にみどりの瞳で、赤毛の少年よりもわずかに背が高い。無駄のない動作で白い粉をケースへ収める彼の顔は、赤毛の少年と異様なほどに酷似していた。ふたりを観察していたメリィは頭を引っこめると、記憶連結(インターリンク)でつながったままの姉に、いましがた見た彼らの姿を送った。
『お姉ちゃん、どうしたらいいの?』
『リンクを一度切るわ。あなたは待っていて』
 頭のコードを引き抜くと、シェリィはゆっくり起きあがった。力の入らない腕で身体を持ちあげ、ふらつく裸足の両足を床へとつける。ざらりと冷たい感触が足の裏をなでた。
「この子、生きてる!」
 黒髪の少年は反対側にいる赤毛の少年に向かい、歓喜の声を上げた。「ルベド!」
 彼らのほうへ向かう赤毛の少年は、彼女のひとつ手前のポッドで足をとめた。息を弾ませながら、ポッド内へ乗りかかるように顔を近づける。
「おい、おまえも! 生きてるのか?」
 ポッドはメリィのものだった。目の前に飛びこんできた少年の顔に、メリィは心臓が飛び出すほど驚いた。ふるふるとおびえ、青い瞳にじわりと涙がたまる。メリィの涙にぎょっとした少年が思わず後退すると、シェリィは彼に背後からつかみかかった。
『妹に手を出さないで!』
「なんだ、どうした?」
 彼女の声が聞こえていない少年は、いきなり羽交い絞めにされて戸惑う。振り落とすわけにもいかず、彼は困惑の表情で黒髪の少年に助けを求めた。
「怖がらないで、僕らは君たちを攻撃したりしない。ミルチア自治州代表の命で、助けにきたんだ」
 赤毛の少年のように慌てず騒がず、黒髪の少年は静かにシェリィを見つめた。まだ足元が覚束ずによろめいた彼女を支えてくれさえした。
「ここは危ない。僕たちと一緒に脱出しよう」
 彼はそう言ってほほ笑むと、シェリィの痩せほそった手を遠慮がちにとった。怪我を負ったらしく少量の血が出ている彼の手から、熱が伝わってくる。その温もりにシェリィの肩の力が抜けた。
 少女の気持ちを理解した赤毛の少年は、ポッドでしゃくりあげているメリィに心底申し訳なさそうな顔を向けた。「驚かせてごめんな」
 ポッドから少し離れた位置をとってから謝ると、少年は自分を見上げるメリィに右手を差し出す。少女は泣きやみ、涙でぐしゃぐしゃの顔をあげた。
「もう大丈夫だ」快活な笑顔を浮かべた少年は、よくよく見れば頭から血を流していた。少年は慌てて左手の甲で血をぬぐい、「俺が守ってやるからな」とにっこり笑い直す。いつか見た太陽のような眩しさに目を細めながら、メリィは少年へ小さな手を伸ばした。安堵と憔悴で急激に意識が薄れてゆく。それでも少女は、伸ばした手がとても力強い熱につつまれた感触を確かに感じていた。


「メリィ!」
――Jr.
「シェリィ!」
――Jr.、これはゴドウィン姉妹が共有する記憶だよ。
 Jr.が途方に暮れた顔で天を仰いだ。
――君はスクリーンを一枚すり抜けるごとに、別の記憶域にいるユーザーのメモリーを追体験するだろう。
 ウ・ドゥと彼のあいだを、いまはゴドウィン姉妹のデータが隔てている。まるで夢のように美しいけれど、下手をすれば自己が消滅してしまう。他人の領域とは本来そういうものだ。圧倒的な空間支配力でもって殺される。宇宙が膨張しているような認識できない不気味さ伝えてくる。確かに存在しているし、いま起こっているけれど、自分の理解の範疇や手にあまる漠然とした不安を感じさせるものだ。
「待ってくれるか」
 彼は二枚目のスクリーンに触れて言った。
――強制終了のカウントダウンは開始されている。僕には待機することしかできない。
「ゼロになるまで時間はあるってことだな」
 彼は駆け出した。走って、Jr.。急がないと、歌声も終わってしまう。


 はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ。


 次のメモリーでは推理小説によくある追走劇さながら、何者かに追われて街中の人混みをかき分け走るふたりの若者がいた。
「おまえがヘマすっからだろ、ハマー!」
 浅黒く端正な顔立ちの男が、並走する若者に向かって怒鳴っている。「何が天才ハッカーだ! あんな巨大組織に手ぇ出すとか、おまえって本当にバカじゃねえの、バカじゃねえの! AD時代にしてみりゃ、FBIやインターポールのサイトをハックするくらいのバカだ!」
「あーもう三回もバカって言う!」髪を逆立てた眼鏡の男は、細腕にコネクションギアを初めとしたガジェットの数々を抱え、ひいひい言いながら走っている。「そもそもトニーが自分の船なんて欲しがるからっすよ!」
 道行く人々の肩に何度もぶつかり、盛大に息を切らし、ふたりは街中を闇雲に走った。
「どう関係あるんだよ!」
 怒れる男はますます憤慨し、逃走劇の終着地点という気がしないでもないスペースポートへ駆けこんだ。弱気な男もあとにつづき、「トニーもうすぐ誕生日っしょ!」と息切れしながら相方の背中に叫ぶ。そこで一度、肩まで怒らせていた男は立ち止まり、ぜいぜいと肩で息をしている男のほうを振り返った。
「なんだよ、船でも買おうとしたってのか?」
「あそこで一千万Gほど稼いじゃえば、いけるかと思って」
 多少悪びれた顔でへらへらと笑う巷の〝天才ハッカー〟に、呆れた幼なじみは最大級の照れ隠しで「バッカじゃねえの!」とひときわ強く怒鳴っておいた。彼の怒声に某巨大組織の追っ手が気づき、またもやふたりに迫ってくる。とにかくいまは逃げるぞ、と怒りをしずめた男は言い、手近なポートに停泊している個人の宇宙船へ堂々と乗りこもうとした。
「さすがにまずいっすよ」
「いまさら不味いも美味いもあるかってんだ」
 強引な上どこか楽しんでいるふうな彼に解錠しろと命じられ、立つ瀬もないハッカーは泣く泣く船のロックをこじあけた。白と青を基調とした流線型の船体には『エルザ』のロゴが入っている。
「ミス・エルザか、よろしくな」
 優男は遠慮もなく船室に入るとブリッジの操縦席に陣取り、「よっしゃ」と腕まくりで気合いを入れた。
「まあ、見てろって」彼は自信満々で言う。「今度は俺の腕の見せどころだろうが」
「正真のバカには敵わないっす」
 操舵手の相方はナビゲーター席に座ってようやくのひと息をつき――直連結(リンク)もせずにキーボード打ちで、貨物船の中央電脳をまたもや易々とハックするのだった。
「ちょっくら宇宙の果てまで行ってみるか、ハマー!」
「狭いコロニーにも飽きたところっすよ、トニー!」
 絶妙のコンビネーションで初めての貨物宇宙船を急発進させ、見事に追っ手を巻くことに成功した彼ら。キャビンで船の持ち主マシューズが居眠りをしていたことに気づくのは、宇宙で盛大に祝杯をあげたあとのことだ。


 はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ。


「第一条、ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
 第二条、ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
 第三条、ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。
 これがロボット三原則ですね、ブラック博士にホワイト博士」
 白衣を着た精悍な男がふたり、記者の取材を受けていた。研究室の一角には巨大なロボット、の骨組み――ドロイドよりも大分、精密さを欠いた構造のロボットが展示されており、ブラックと呼ばれた博士の肩ではココナッツのような頭をした猿が毛づくろいをしている。
「我々はサービスロボットシステムにおいて安心技術に関する調査研究を行っていますが、私(わたくし)個人といたしましては、この三原則を遵守しながらも日常目線の『ブレードランナー』をロボットとの関係に導入したいと考えているところです」
「ホワイト博士、ブレードランナーとは?」
 首をかしげる記者に対し、「嘆かわしい!」と妙齢の博士は喝を入れた。「名画のタイトルすらご存知ないとは――もしや、『メトロポリス』や『二〇〇一年宇宙の旅』すら?」
 はあ、すみません、と記者は陳謝し、隣のブラック博士に訊ねた。「しかし博士はロボットが進化すると仰りますが、三原則との絡みも含めて、結局のところどうなるとお考えで?」
 ブラック博士は咳払いのあと、まず前提として、と猿を撫でながら説明しはじめた。
「人間社会におけるロボットのポジショニングが重要となりますが、私に断言できるのは〝ロボットに嘘をつくなという原則はない〟ということです。
 先ほど挙げた映画に登場するHALというコンピューターを分析してみると、ふたつの重要なポイントがあります。ひとつはHALが『自分は間違うことはない、ミスを犯すことはない』と宣言している点。もうひとつはチップを抜かれるとき『こわい』と悲鳴を上げるように、感情を持っている点です。しかし、このふたつは果たして両立し得るでしょうか」
「博士、といいますと?」記者は苛立ちをこめて訊ねた。帰ったら映画を観なさい、とホワイト博士が前置きしてつづける。
「HALはモノリスに近づきたくないがゆえ、人間に対して嘘をつきはじめます。要するに、コンピューターがガン細胞化し、反社会集団的行動をとるようになった原因はガンとしてのモノリスにあるのです。劇中では〝モノリスが現れるたびに時間軸が当然のように狂います〟」
「このように未来人による人工物モノリスとは、〝神〟がガンになったもの――老いたる宇宙、病める宇宙であると言えるでしょう」とブラック博士が結論づける。ホワイト博士は夢見るように言った。
「そして、四千年前からそこに存在している我々にとって、心身ともに健康な進化を遂げたロボットもしくはアンドロイドとの共存が、死にゆく宇宙を救う希望となるのではないでしょうか」
 彼のようにね、とふたりの博士が指差した先では、すっかり毛並みを整えた猿が、うろこで固めたような鈍色の尾を揺らめかせていた。


 はっ、はっ、はっ、はっ。


「僕には四つ上の兄がいる。アラン・リッジリー、ボロメオ大学を主席で卒業し、星団連邦の議員職に就いた立派な兄だ。僕たちは決して仲のよい兄弟ではなかったものの、両親から出来損ないとされていた僕は心から兄を慕っていた。
 僕が十にも満たない頃、兄は休日になるとコロニーの川辺まで釣りをしに行くことが多かった。ある日、僕は兄に無理を言って釣り場まで同行した。上流に設置された浄化槽を水源とする清流はコロニーの照射できらめき、人工淡水魚がゆったりと泳ぐ姿も見えるほど澄んでいたのを覚えている。
 魚に見とれていると、水音がしたとほぼ同時に顔にしぶきが飛んできた――振り返ると釣り竿と兄が消えている。兄は水中にもぐっていた。そして、魚に負けないくらい優雅な姿勢でしずかに川を渡っていった。
『アレン』向こう岸に降りた兄は、僕を呼んでこう言った。『ここに釣り竿があるだろう』
 兄の日焼けた手には、確かに釣り竿がにぎられていた。『泳いでこい』兄はそう言った。
『ここまで渡りきれば、おまえが望んでいるものをいくらでも与えてやろう』
 僕は当時、泳ぎを苦手としていた。どのようにして手足を回せばいいのか考えると、どうしても身体に妙な力が入ってしまい、あせればあせるほど水底へどんどん沈んでしまうのだ。当然、僕は岸辺に立ち尽くしたまま躊躇した。
『俺の弟なら、俺と同じことが出来るはずだ』
 泳いでこい、と兄は再び僕に命じた。やっと手に入るんだ、行け、と僕は自分を奮い立たせた。飛びこんだ川は見下ろしていたときより、ずっと暗く冷たいものだった。
 兄さんはどんなふうに泳いだろう? 僕は兄さんの弟だから、きっと兄さんと同じように泳げるはずで……そう信じて僕は川底に沈んでいった。最後の記憶は、視界を横切っていった人工淡水魚の尾ひれだ。
 目を覚ますと向こう岸にいた。僕の手元には釣り竿だけがあった。確かに兄はそこにいたはずで、渡りきればほしいものが手に入っていたはずなのに――僕はたった一度のチャンスを逃したのだ。


 このように僕が尊敬してやまない兄も、しょせんは秀才どまりの人間にすぎなかったことを、ヴェクター・インダストリー入社日、第一開発局一型OS設計部に配属されて僕は知った。先輩となるシオン・ウヅキさんは、僕ら兄弟と同大学を十八で卒業したという。ケビン・ウィニコット主任にいたっては、これも同大学をなんと十五という異例の若さで……正真正銘の天才とは彼らのような人をいうのだ。僕の故郷では兄のように二十一で卒業する者すら、滅多にない名誉なことだというのに。
 ヴェクター入社日より、僕の〝兄〟はウィニコット主任へと移行された。彼の理論、情熱、すべてが僕の目標であり、彼の人望、成果、ウヅキ先輩との関係、すべてが僕の劣等感をあおり、自分を価値のないものとして貶めていった――彼が亡くなるまでの一年間をかけて。
 開発中だったアンドロイドKOS-MOSの暴走事故により、ウィニコット主任と身よりのないスタッフは社の墓地に埋葬された。ウヅキ先輩が泣くところを見たのは、その日が初めてだった。彼女は墓石にすがりつき、脇目も振らずに哀哭していた。なぐさめる言葉も見つからず、ハンカチを差し出すこともできず、僕は彼女のふるえる背中を見つめていた。ポケットのなかでぐしゃぐしゃになっている、指輪の箱をにぎりしめながら。
 僕がなにより悲しかったのは、僕がどれほど彼女に焦がれて行動したとしても、きっと、この人は自分と一緒に生きようとは言ってくれないだろう、ということだった。
 こんな僕にできることなど、彼女を傘で雨から守ってやることくらいのものだ。明るくて、優しくて、おっとりしていて――あんなに気丈な彼女がこぼす涙を見てしまっては、ジェシーに散々〝お坊ちゃん〟と呆れられていた僕でさえ、悟らざるを得ないだろう――僕は再びチャンスを逃した、多くの人々の生命とともに、川を隔てた向こう岸もまた永遠に失われたのだと。
 僕の決意も暗く、冷たく、深く、静かな土のなかに埋葬してしまおう。あの日、たとえ川を渡りきったとしても兄がいた保障なんてどこにもなかったように、彼女の心身すべては、もとより墓標に刻まれた彼のものなのだから」


 はっ、は――。


 草のすれる音がする。孤高に走る風の音も。レンヌ=ル=シャトーの巫女は青草を分けながら、広大な草原をずんずんと進む。
「どこにいても迎えに行くんだから」
 小高い丘の尾根沿い、白い円筒状の建物に黒い三角屋根の風車がいくつか並び、巫女が見据える先には小さな村があった。
「もう、今日は収穫祭だというのに」
 葡萄畑を横切っていくと、ゆれる麦畑の穂をふたつに割り、水路のような長いあぜ道がつづく。巫女は法衣の裾をあげて素足をさらしたまま一本道を進み、村の中央にそびえ建つ青い屋根が美しい修道院へと歩いていく。
「イエオーシュア様も首を長くしてお待ちよ」
 石造りの院内は初秋でも冷えた。巫女は木もれ日から少し離れたうす暗い階段をのぼり、突きあたりの扉を開く。第一の聖堂がおどろくほど近くにたたずみ、村の家々が海岸まで連なっている。祭りの準備に忙しい人々と山羊たちの声がにぎやかに院まで届く。巫女は窓から身を乗り出し、聖堂の裏井戸で水汲みをする女性を見下ろした。
「おはよう、マリア!」
 長い黒髪をまとめている下の女性は、褐色の肌に流れる汗をぬぐって美しい顔をあげると、巫女の頭上の太陽に目を細めた。
「おはようございます、シオン」
 尖塔の影に隠れた石畳で仕事をする友人に、「仕事なんて放り出して」と巫女は言った。「いまは何をすべきだと思う?」
 そうですね、と真面目に寸考する彼女を見下ろし、窓から両手を広げた巫女は笑顔にほころんだ。
「わたしと一緒に踊りましょ」


 ――はっ!