機械は踊る 6


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 最後のスクリーンを抜ける瞬間、彼は視界のはしに小さな給油所を見た。作動するかどうかも怪しい旧式の給油機が一台だけ設置されているさびれた給油所。そんな風景を映し出している一枚のスクリーンを横目に、背後から津波のように押しよせてくるウ・ドゥを避けると正面の通路へ転がりこむ。ネピリムの歌声とラビュリントスをつなぐ通路には、身をよせ合う兄弟たちと少年ディミトリがいた。彼らの先は突きあたり、赤い壁しかない。振り返るとウ・ドゥはその全貌の一部を、牧歌的な風景を映した最後のスクリーンから突き出してくる。波動存在にはシャットダウンのカウントダウンを待つ理由もないだろう。
 と思いきや、意外にもウ・ドゥは静止した――正確にいうと動きを緩慢にした、に留まるけれど。一体なぜ? どこか遠くから流れてくるピアノの音色に気をとられたのさ。人間以上に、人間によって創作された芸術作品ほど観察しがいのある対象はないというところかな。もしもそうであれば、僕もウ・ドゥと同意見だね。誰かの脳内よりもオペラを鑑賞していたほうが断然おもしろいもの。
「ああ、『雨だれ』だ」
 少年ディミトリが言った。同じ顔をした全員がピアノの音に耳をかたむける。同じ顔が集合するなか、Jr.だけは音色の特定に確信をもっているらしい。
「サクラ」
 どうしてもうしろめたく憚られ、色濃い不安をうわ乗せした特有の名詞を、他でもない彼が口にする。ただそれだけ、たったそれだけのことが壁であったはずの物質をたちまち扉に変貌させ、あろうことかあっさりと開いて道を示すのだから、まったく彼女たちのような渡り鳥には驚かされる――そういえば、ピアノの鍵盤も〝キー〟と呼ぶんだよね、アリアドネ。
 さてと、これで行きどまりの壁はデコーダを得て消失した。扉が開いたことによって涼やかな風を吹きこみ、草いきれが鼻腔につんと香る。宵闇をともなった夕焼けの眩しさに目をほそめると、草いきれに潮の香りが混じり、海からほど近い黄昏を感じさせた。少々蒸し暑い。彼らの眼前には黄金色のライ麦畑が揺れていた。湿った風の音が流れてゆく。
 果てのない空、広がるライ麦畑、小道の向こうにある腰折れ屋根の家、まわりつづける風車、丘を越えると白い砂浜がある海、望むまで枯れない花々――彼らがよく知る世界だ。Jr.、君が〝おおよそ思いつく美しさのすべてがつめこまれた、壮麗な風景画。ゴッホが再現した青と黄色のコントラスト。そこへ筆でシャガールの赤を入れたような色合い〟と評した世界だよ。この世界の住人である彼女は、モネの描いた日傘を差すカミーユのようだと、逆光とヴェールに遮蔽された瞬間的な印象性が君の面影だけを残すのだと、君は言ったね。
「あの家まで走れ」
 Jr.の言葉を聞き、兄弟たちが彼を見上げた。
「あそこは俺たちしか知らない安全な場所で、なにがあろうと忘れない場所だから」
 少年ディミトリは素直にうなずいた。待機していた標準体の背中を押して麦畑へ進ませ、ぐずぐずと泣くアルベドの手を引くと裸足のまま歩いていく。子供たちの背丈は、ライ麦の穂に半分ほど埋まっていた。
 兄弟全員が麦畑に入ったあと、「君も行こう」とニグレドは動かないJr.を誘った。シトリンも兄と入れ違った男を信用すべきか迷いながらも、ニグレドの言葉に同意している。しかし、ニグレドに手を引かれた彼の指先が歌声の通路と扉の先との境界に触れたとき、彼の身体は不適合を示す感電音と火花によって通路側へはじき飛ばされた。よろめいた彼の心臓は激しく高鳴り、右肩から指にかけて完璧に痺れた状態になる。
「俺は一緒に行けないんだ」
 彼は心得ている。ごめんな、と言う彼の両目から、涙のような光がこぼれた。ニグレドの顔がみるまにゆがむ。
「君が一緒じゃなきゃ意味ないよ」
 彼のほうへ駆けよろうとしたニグレドを、冷静であろうとするシトリンは必死でとめた。
「お願いだから離して、シトリン!」
 ライ麦の穂がすれ合って鈴のように鳴る。遠くでは『雨だれ』の演奏がつづいているため、壮大なピアノ協奏曲のようにも聞こえる。ニグレドったら、とシトリンは暴れる弟を押さえこむ。「ばかな真似はやめて!」
 シトリンは夕焼けでさらに染めたオレンジの髪を振り乱し、ルベドのことしか見えていないニグレドを叱咤した。
「この人が行けと言うなら、きっと行くことが最善なの。あの子が最初に教えてくれたじゃない、彼は〝天使〟だって!」
 そうだと言って、とシトリンの潤んだ目は彼に訴えた。警告音がうるさく拡大している。


>システム シャットダウンが実行中です。



「僕、大きいルベドと一緒にいる!」
 弾道のような衝突により、Jr.の正面から光のしぶきが舞った。黄金色にかがやくライ麦畑の逆光から、ディミトリがじっとこちらを見つめている。引率するディミトリの手を振り払い、彼のもとまで駆け戻ってきたアルベドは、しっかと兄に抱きついていた。彼の放出する光熱エネルギーが、アルベドのやわい肌をちりちりと焦がす。
「アルベド」
 彼は急いで弟を自分の身体から離そうとした。しかし、アルベドの驚異的な身体は幸か不幸か、傷つく先から肌を再生させているし、くずれかけた彼の腰にしがみついて離れようとしない。しゃくりあげながら見上げてくる弟に困り果てた彼が、こわごわと小さな背に腕を回してやる。ふたりの触れ合う部分はさらに光量を増した。こぼれた光がぱちぱちと燃える音をあげている。アルベドが焼け焦げる様子に心を痛めながらも、Jr.はほとんど砂と化してくずれる頬を弟の首にうずめ、弟のにおいを嗅いだ。
「アルベド」名前を呼ぶたび、息苦しく胸がつまる。「アルベド」
 ふたりの距離は、まもなく境界が見えないほど近くなった。ひとたび自分の空洞に適合するものを獲得した彼らには、彼ら自身の孤独をどうすることもできない。とうとう決壊しようかというJr.のブラックホールへ、アルベドはネピリムの歌声ごと落ちていく――麦畑から伸ばされたニグレドとシトリンの手をかすめ、片割れの欠落にぴったりと当てはまるようにして。
 落下先は星のない宇宙だった。クラウスたちが構築した原子の宇宙によく似ている。ウ・ドゥも見えない、ニグレドとシトリンのいる扉の向こうも見えない、この僕にもなにも見えない。ところが、アルベドの周囲だけは水泡のように膜が張られているため、白い子供がよく見える。
 なにこれ、いやだよ、とアルベドは内側から膜らしきものを闇雲に叩いてみるけれど、渾身の力で体当たりをしても、爪でひっかいても膜はやぶれず、よって外には出られない。「ルベド!」
「どこにいるの、ルベド!」アルベドは暗闇から何度も叫んだ。「僕、こわいよ……ドン、ドン、ドンって大きな音だけ鳴ってる」
 それはJr.の心臓の音だ、アルベド。いまの彼は自己の空洞を埋め、一時的にかなり高濃度な状態にある。言うなれば、君は彼の内部にいるんだよ――とはいえ、アルベドに〝僕〟からの声は聞こえない。
「ああ、ルベド」
 こんなにもそばにいるというのに、やはり自分たちには隔たりがあるとアルベドは感じていた。断ち切りがたい縁で結ばれていながら、どこまでも異質であるもの同士だと、こうして合一を果たしても孤独を感じている。それは胸部を抉りとられるがごとく深く刻みこまれ、思い知らされてきた認識なのだろう。思想やら感性やらの相違をいまさら論じてみたところで始まらない。言葉にする以前に分かちがたいものを共有できる関係、なんていう自惚れもきれいさっぱり捨て去っている。
 こうして意思として存在する限り、自分たちはひたすらに自分以外の存在でしかないとアルベドは思う。Jr.の闇はそれを感知していることだろう。
『アルベド』
 ほら、彼も君を呼んでいるじゃないか。
 どうしようもなく孤独で、どこにも寄る辺ない。この先にして数百年以上にも及ぶかもしれない満たされなさ、空虚のほどは底知れない。手をにぎってくれるルベドの存在を持ってしても埋めることはできず、彼をすっぽり飲みこんでしまえるのではないかと、小さなアルベドはおそれていた――君はどうする、Jr.。
『憶えておいてくれ、アルベド』
 彼はすべての場所から語りかける。
『どんな世界だろうと、どこに存在しようと、どんな姿になろうと、俺は何度だっておまえたちのしあわせを願うんだ』
 60‡¶8:‡?
 彼が口にしたこの言葉は問題は一体なんだろう。暗号化されていて正しく表示されない。おそらく並列は大昔に設定したパスワード、入力時に暗号化されるのは僕というコンピュータを守るためだ。わざわざ量子暗号ではなく音声照合にしてあるのも、その言葉が『アルヴィース』にとってアタックとなり得るものだから。
 〝60‡¶8:‡?〟の暗号も、アルベドには伝わったらしい。こうした現象はフルールノワのいう潜在記憶(クリプトムネジア)の産物であり、それは記憶したという意識がまったくないものを思い出す精神能力のことでもある。体験したデータを知らず知らずのうちに蓄積し、まったく予期しないときに自発的に思い出すという。
 僕だって、とアルベドは泣いた。「僕だってそうだ! どんなに寂しくてもいい、君がいなきゃなんにもならない!」
 わあっと再び泣き出してしまったアルベドと、暗闇に出現した一枚のスクリーンが膜ごとアルベドをすり抜けていったのは、僕の計算でもほぼ同時だったと思う。


『え?』
 瞳をまたたかせるアルベドの前には、ブリッジの艦長席で眠る赤毛の少年がいた。背もたれには『デュランダル』のロゴ、フロントスクリーンに映し出されているのは、くらく広大な宇宙だ。ほかには誰もいない。
『ルベド』
 アルベドが少年の赤毛に触れると、みじかく青い電気がぱちんと走った。少年は目を覚まさない。
 しかし変化はあり、ざあっと激しい砂嵐のような音がした直後、ブリッジ前方にホログラフィック映像が展開された。そこではアルベドのよく知るルベドが客室のデスクに座り、ニグレドが何気なしにそばにいた。
「おまえが十六、おれが十八になったら公式発表するってわけか」
 ルベドがグリーンのモニター越しに立つ弟を見もせずに確認した。両手は手慣れた様子でデスクのキーを叩きつづけている。
 ヘルマー代表の私室からほど近いニ間つづきの客室は、ファウンデーションの拠点とするコロニーが完成するまでの間、兄弟の部屋として割り当てられているものだ。
「さすがに僕もまだ政治参加年齢を下回っているからね。十六歳になるまでは、特殊活動資金をプールするために架空の〝クーカイ〟トップを置いて、政府機関としてU–TIC機関の残党処理を前面に出していくんだって。まあ、あと二年もないことだし、ヘルマー代表の人脈を考えれば大丈夫だと思うよ」
 某製薬企業の被検体保護任務から約半年、ニグレドは財団の表の顔としてヘルマーに付き従って政治・外交を学び、ルベドは裏の顔としてヘルマー直属の軍人と共にU–TIC機関の残党を狩りつつ、ゾハルエミュレーターについての情報収集に勤しむ毎日が始まっていた。コロニーの建設は滞りなく進み、重武装艦は進宙式、艤装ともに完了している。二年の療養を経た兄弟の新たな生活が、いま着々と構築されつつあった。
「ルベドは例の贋作収集に入ってるんでしょ」
「ああ、けどまだ下調べばっかでさ。当分は集計データと睨めっこだよ」
 次の視察まで時間のあるニグレドは、ルベドのかたわらからモニターを覗きこんだ。何層ものウィンドウを重ねての多目的作業は、手先の器用な兄が得意とする情報収集方法だ。会話中もモニターから離れることのない目に、四角い光が幾重も映りこんでいる。
 ルベドは猫のように伸びをした。デスクのわずかな隙間に両脚を乗せて後頭部で腕を組む。ニグレドには到底真似のできない行儀の悪さだ。
「早くファウンデーションの仲間と、デュランダルに乗りてえな」
 椅子を左右に回転させながら、ルベドはうっとりとため息を吐いた。
「ヴェクターの出資と技術のおかげで、ほぼ完成してるんだってね」
「おまえも見た?」ニグレドが話に乗ったとたん、ルベドは彼に期待の眼差しを寄せる。ニグレドが話題の艦について素晴らしいと賞賛することを想定した顔だ。
 ルベド――いまのJr.には、昔から自分の意見や感情を他人にも同様に求める節があるよね。それが他人の気持ちを自分のことのように思える彼の長所でもあり、逆に自分の都合の悪いことを認めようとしない彼の短所でもある。
 対して、ニグレドは誰かと感情を共有しようと思ったことがない。だから彼はなにもせずとも周囲に人が集まってくる兄を少し羨ましく思うときがある。
「外回りは多かったけど、政府の客船から遠目にしか見ていないんだ」
「そうなのか」
 ルベドは拍子抜けした顔を向けるも、もうすぐ自分のものになる艦の素晴らしさをニグレドにアピールしはじめた。「そりゃもう格好いいんだぜ。SF古典に出てくるような艦をシャープにしたデザインでさ、連邦のダサい軍艦とは見た目も中身も大違い!」
「じゃあ、君の命名どおりになったわけだ。絶対に折れない、血のように輝く聖剣――だったよね」
「なんならこの仕事の合間に見に行くか」
 ルベドが窓外のミルチア市街を眺めながら提案したとき、となりの部屋のドアが開いた。ドアを隔てた先にも同じ構造の客室があり、そこは兄弟と同様に保護した姉妹の一時的な住まいとして提供されている。泣きじゃくる金髪の少女を抱きしめながら、むらさきの髪の少女が困った顔でルベドたちのもとへやってきた。
 どうしたの、とニグレドが屈みこんで訊ねてみると、むらさきの髪の少女が手にしている一冊の古書を、おずおずと彼に差し出した。痛んだ表紙には『フランケンシュタイン』とあり、人の顔を溶かして再び固めたような、おぞましい姿の怪物が描かれている。
「その本、失くしたと思ってたのに」
 こんなところにあったのか、と悪びれた様子もなくニグレドから古書を受けとるルベドを、金髪の少女はしゃくりあげながら恨めしそうに見上げている。その装画が怖かったのだろうに、とニグレドは呆れながらも、ふたりの姉妹を寝室へ連れて戻った。
 姉妹と一緒にベッドに腰かけたルベドは、原因の古書をぱらぱらとめくってから、「ま、ぱっと見ただけじゃこわーい怪物だよな」と陽気に笑いかけた。「低俗なホラームービーで誤解されがちだけどさ、フランケンシュタインのテーマは、思想や宗教に翻弄される家族愛なんだ」
 開かれたページの挿絵には、怪物が懸命に薪を割っている場面が描かれている。金髪の少女は充血した目で挿絵を見つめる。表紙ではおそろしく見えた怪物も、この場面だけを見ればどちらかというと物悲しく映った。大きな森のなか、怪物はただひとりで木を切っているのだ。
 むらさきの髪の少女はニグレドを見上げ、ルベドの話の真偽を訊ねた。
「実はね、フランケンシュタインの家族構成にも、人造人間が憧れる家族にも、異母兄弟の純粋な愛が描かれているんだ」
 兄の信用を失わないためにもニグレドが肯定してやり、三人の横に自分も腰をおろした。開け放した窓からミルチア市街の賑やかなざわめきが聞こえている。ルベドは古書を姉妹へ向け、彼にしては静かな声で彼女たちに語った。
「メアリー・シェリーの描いた人造人間は、父親から愛されなかった哀しい生命なんだ。自分を神と驕るヴィクター・フランケンシュタインによって死体をつなぎあわせて創造されてな、みにくい容姿を理由に名も与えられないまま見捨てられちまった。知識を得ても愛を知っても、いたるところで善意の報いに迫害を受ける。そんな孤独から逃れようとフランケンシュタインに伴侶を造ることを求めても、あっさり拒絶されてさ。人造人間は復讐に走ってしまうけど、最後にはまた孤独な自分だけが残ったことに気づくと、自ら命を絶つんだ……」
 ルベドの指がたどたどしく挿絵の怪物をなぞる。
「いまのようにヒトがヒトを創る時代がくることを、もしかすると著者は危惧していたのかもしれない。ライフリサイクル法案に始まってサイボーグにレアリエン――人が神になるなんて馬鹿げてるよ。不完全な人そのものが、神の失敗作じゃねえか」
 ささやくような声のなかに父親への非難を垣間見たニグレドは、ただ沈黙を返すしかなかった。むらさきの髪の少女もまた思うところがあるのか、シーツを握ってうつむく。
 金髪の少女は違うことに気をとられたようで、ぱくぱくと口を動かしはじめた。ルベドに向かって古書を手で叩きながら、「めありー、しぇりー」と彼が先ほど口にした言葉を、舌足らずな口で反復する。初めて言葉をしゃべってからというもの、プレゼントした髪留めをずっと着けてくれている彼女たちだけれど、実際に言葉らしい言葉を発したことはない。
「どうした、気に入ったのか?」
 驚いたルベドが訊ねると、少女は首を横に振って否定した。
「めりぃ」
 今度は違う単語を言う。
「メリー、がなんだ?」
 意味がわからず首をひねるルベドに、焦れた少女は頬をふくらませ、彼女にとって人生初の大声で「メリィ!」と叫んだ。
「わたし、しぇりぃ、です」
 それまで黙っていたむらさきの髪の少女が自分を指さし、ゆっくりと丁寧に単語を並べた。呂律が多少回っていないけれど、内容ならば充分に伝わるだろう。
「ああ、名前か!」指を鳴らし、ルベドは興奮気味に姉妹を見比べた。
「メリィとシェリィ。それが君たちの名前なんだね」
 ニグレドの確認に、満足げにうなずいた姉妹のとなりで、「やったぜ、またしゃべってもらえた!」とルベドは喜んでいる。そのまま勢いから姉妹を抱きしめてしまうと、それまで触れられることに怯えていた姉妹も、おとなしく彼の腕に収まることを選んだ。
「なまえ、あのこ、しらない」
 メリィの言葉にニグレドは意味を図りかねるも、ルベドはなにやらぴんときたらしく、ああ、そうだな、と笑いかけた。「もうひとりの彼女にも名前が必要だ」
 ルベドの返答を聞き、ニグレドもメリィの言葉の意味を理解する。製薬企業から保護した三人目の少女――正確には、少女だったもの。グノーシス変容体として、完成したデュランダルの隔離格納庫に収容が完了したと、ルベドから報告を受けている。彼女の名を誰も知らない。
「眠り姫は、そうだな――持ち物に『B』のモノグラムがあったからベティでどうかな」
 ルベドが提案すると、姉妹は安心したようにうなずいた。
「名前の他に、彼女たちが生活するには姓も取得したほうがいいよね」
 姉妹の反応を見ながら、ニグレドは以前より考えていたことをルベドに提言した。確かに、これからの生活を考慮するとファーストネームだけでは頼りない。姓名の取得は架空の企業家を捏造するくらいなのだから、ヘルマー代表に申請すれば可能だろう。いまだ一時入国扱いになっている彼女たちも、この機会にファウンデーションの住人として早々に登録してしまおうというわけだ。
「メリィとシェリィだから、姉妹にしてゴドウィンって姓はどうだ?」
「そんな安易に、猫じゃないんだから」
 ニグレドは呆れ入った。ルベドは真面目な弟に向かい、ベッドのスプリングを軋ませて笑う。
「いいじゃないか。ほら、メリィとシェリィもいいって」
 すっかりルベドに懐いた姉妹の笑顔に、ふたりがいいなら、とニグレドも折れる。
「よし! これで三人とも、立派なレディだ」
 手を叩いて胸を張ったルベドのレディという言葉に、姉妹はスカートの乱れを整え、かたむいた髪留めをきっちり直してみせた。しおらしいふたりに苦笑を隠しつつ、ニグレドは右手を差し出してほほ笑んだ。
「改めて、よろしくね」
 ニグレドがふたりと握手を交わしたところで、ルベドはベッドに身を埋もれるようにして弟を見上げた。窓からの陽光がルベドの赤毛を鮮やかに照らす。
「おまえこそ、例の返事はどうすんだよ」
 例の返事とは、半年程前にヘルマー代表から提示された改名の件だ。クーカイ・ファウンデーションの代表理事として十六歳で正式に顔見せすることになるニグレドは、いまはゴースト理事となっているその空席へ座すに相応しい名が必要となる。
 ニグレドは自分もベッドに倒れこむと、となりにあるルベドの目を見つめた。
「僕、〝ガイナン〟にしようと思うんだ。ガイナン・クーカイ」
「そんなに気に入ってたのか」ルベドは意外そうな顔をした。「ガイナンと言われたら、おまえのことが猫に見えてくる」とも言った。
「とても気に入っているよ」
 君と僕だけの秘密だったから、というつづきは心中に仕舞い、ニグレドはインスティテュートで自分が抱えていた疎外感を思い出した。ルベドとアルベドが双子であるということ、彼らとは違った役割を課せられていたことを要因として、ニグレドは当時から彼らと自分との違いを感じていた。
『アルベドには言うなよ。俺とおまえだけの秘密だからな』
 唇に人差し指を当てるルベドの腕に抱かれた一匹の猫は、ふたりだけの秘密を象徴する存在だった。ガイナンと名付けられたその生き物といるときだけは、U.R.T.V.のリーダーであり、アルベドの片割れであるルベドは自分だけのものだった。甘えることが苦手で、アルベドのようにルベドの気を引けないもどかしさも、ガイナンといる時間だけは何もせずともルベドが構ってくれるのだから。
「俺も好きだし、いいんじゃねえの」自分を見つめるニグレドから視線を逸らし、ルベドは天井を見上げてつぶやいた。「決まってるなら、おっさんに言ってやれよ。待ちくたびれてるだろうからさ」
「まだ、大丈夫じゃない? 世間に発表するのは先なんだから」
「そんなこと言ってたら、あの人ますますはげるぜ」
「もう、それ本人の前で言わないでよ」
 くすくすと笑うニグレドは、ガイナン・クーカイ、と突然ルベドに新しい名前を呼ばれて戸惑った。「あ、僕のこと?」
「おまえしかいないだろ」ルベドは真顔で言う。「なあ、俺はヘルマーのおっさんか有力者かの養子になるのがいいって言ったよな」
 ヘルマー代表がニグレドに改名の件を持ち出した際、ルベドも彼のとなりにいた。ルベドが成長していないことを承知していたヘルマー代表は、十八歳の成人までは公式発表しないことを前提に、ルベドに養子という選択案を持ちかけている。
「そうだね、あの人だったら君のこと――」言いながら、ニグレドは考えあぐねていた。
 しかし、当のルベドはシーツに頭をくっつけたまま、不敵に笑っているじゃないか。彼がこういう悪戯っ子のような笑い方をするのは、大抵よからぬことを思いついたときだ。ニグレドは嫌な予感に身構えてその答えを待った。
「俺、おまえの息子になるよ」
 ルベドは口許を吊りあげた。絶え間なく働かせているニグレドの思考回路が停止する。
「僕の、息子?」
 ニグレドはベッドから飛び起きた。その反動で四人ともが揺れる。
 いま、兄はなんと言ったろうか。
 ニグレドはルベドの言葉を脳内で反芻させ、眩暈のような衝撃に耐えた。唖然としている。
「公式発表はおまえが成人するまでお預けなんだろ。だったら、ぎりぎり親子に見えるんじゃね? ま、見えなくても世襲用の養子ならクローンにしときゃいい、ちょうど顔も同じだし」
 外見年齢は多少近くてもいいだろ、とルベドは気楽に笑った。なんともあっさり宣言しているけれど、ニグレドにとっては一大事だ。ヘルマー代表の養子であればいくらかマシだと思っていたのに、よりにもよって年上の兄が自分の息子になるのだから。
 考えてみると自然なのかもしれない。代表理事の養子であれば、同じ地位に立ったとしてもなんら疑問はない。クローニングと受けとられたとして、うしろ指を差されるようなことになっても、現在の政界や財界ではそう珍しい事例ではない。確たる証拠が押さえられなければ、法も手を出せないだろう。
 しかしながら、形式上とはいえ兄弟の関係が親子に変わることには、淡白なニグレドにもさすがに抵抗があった。
「ルベド」
 頭を抱えたい気持ちをおさえながら、ニグレドは考え直してくれと言わんばかりの表情をルベドに向ける。
「嘘も百万回つけば真実になるってどこかの独裁者が言ってたろ?」気の乗らない弟をルベドは強気で押した。「どうせなら、完璧に演じてやろうじゃねえか、こいつらと一緒にさ」
 兄が顎で指し示した先では、姉妹が不思議そうに自分たちを見比べている。彼女たちのことを出されては、もう何も言えない。ファウンデーションを彼女たちのためによくしていこうと言ったのは、他でもない自分なのだから。
「ヘルマー代表やカナンは驚くだろうね」
 ニグレドが言えたのはそれだけだった。冷静な彼らの驚愕した表情なら、それはそれで見てみたい気持ちもあるけれど、できれば違う形でお目にかかりたかった。仕事以上に疲労しているニグレドに、ルベドはわざと幼児のような甘い声で、ダディ、などと呼んでくる。
「せいぜい優しくしてくれよ」
 無理をして明るく振舞っているわけではないルベドの様子に、とりあえずニグレドは胸をなでおろした。結局、自分は昔からこの兄に甘えこそできなくとも、逆に甘やかしてしまうのだ。
「君こそ、成人までは行儀よくしていてくれないと困るんだからね。息子だからって贔屓はしないよ」
 普段の調子を取り戻したニグレドに、ルベドはにっと笑った。
「それで、僕の息子の名前は?」
「ガイナンJr.」
 確かめるべく口にした名のひびきを自分でも気に入り、もう一度、ルベドはその名を口にする。
「俺の名前はガイナン・クーカイJr.だ」
 自動再生されているホログラフィックの立体映像に、アルベドは愕然とした。
『どういうこと、知らない場所にルベドとニグレドがいる……ふたりは一体なんの話をしてるの、あの女の子たち、誰?』
 となりで突っ伏した少年は目覚めてくれない。アルベドが何より不安に感じる理由は自身の不在だった。胸の中がざわざわ、ぐらぐらと、とてもおぼつかない感じだ、不吉な予感がする。
『僕は、僕はどこにいるの?』
 これはどういうことだろう、ルベドと一緒にいるはずの自分がいない。突如として展開された光景にアルベドが困惑していると、またも砂嵐のノイズが入り、直後に場面が転換した。
 多忙な業務を終えたガイナンが私室に戻ってくる。窓際にあるカウチの背からだらりと伸びたままの腕が彼の目にとまった。室内灯は点いておらず、理事室はしずかな群青につつまれている。視界をひらくものといえば、大張りの硝子窓からコロニー市街のネオンが落とす光の影くらいのものだ。
 薄明かりに照らされた調度品を避けながら、ガイナンはカウチの正面へと移動する。彼は微かにひびく電子音から、あおのいた少年が単に眠っているわけではないことを確信していた。無防備に手足を投げ出し、胸を上下させているだけの小さな身体、少年の頬骨より上は半透明のゴーグルでおおわれ、耳朶に装着されたヘッドギアの赤いランプが点灯している。
 今日もまた、Jr.はこの身体だけを残し、意識のみで自身の築いた世界へと飛び去ってしまっているのだ。カウチ横にある木製テーブルには、ガイナン理事も初めてみる古書が数冊ほど積みあげられ、その影でディスクドライブが稼動している。Jr.はライブラリや古書から得た知識を用い、登録済みのエンセフェロン内にダイブ技師顔負けの世界を構築して悠々自適に読書を楽しむのが常だった。Jr.の腹上に乗せられた手にも一冊、『ハワーズ・エンド』と書かれた古書が握られていることから、Jr.がこの古書をエンセフェロンで読みふけっていることは明白なわけで、ガイナンは一連のネットワークインフラが装備されているデスクのドライブに、Jr.と同じディスクを挿入した。
 四六時中張っている気を和らげるようにタイを緩め、ヘッドギアを装着する。Jr.の創ったエンセフェロンに侵入を許されている者は、Jr.本人とガイナン、シェリィにメリィ、しかし姉妹はほとんどの連絡を外部通信ですませるため、実際にエンセフェロン内へダイブするのはJr.の他はガイナン理事のみであるらしい。
 ヘッドギアの主電源ランプが点灯し、ディスクが軽快な音で回転しはじめる。ゴーグルの下の暗鈍な視界はまぶしさを超える光で一面になった。明光の激流に身を任せていると、やがてゆるやかに流れは弱まり、彼の視界は鮮明な景色へとしだいに変化してゆく。
 無意識に閉じていた目蓋をひらくと、ガイナンは白銀の世界にひとり立っていた。なにやら紙切れがはらはらと舞い落ちてきたかと思えば、手のひらに乗せたそれは確かにひんやりと冷たく、肉厚の体温ですうっと溶けていった。歩くたびに白い地面が締まるように鳴り、黒い足跡が残っている。試しに深呼吸をしてみると白い吐息が舞いあがった。スーツ姿では寒さも感じるように思う。
「一九世紀初頭、冬のソルテアか」
 ガイナンが立っている小高い丘の下には、目立った大きな建物のない小奇麗な石造家屋が立ち並ぶ産業集落が見えた。さらに向こうでは運河や鉄道も走っている。一種の空間芸術でも見ているようだ、と彼は思う。実際には有限であるはずの空間は、どこまでもつづく無限の世界のようで、ゼロからの創りあげた虚構にしては大変よくできているのだ。いまはもういない少女の世界に、再び迷いこんだのではと錯覚するほどに。
 チルトシフト撮影のような景色をしばらく堪能したのち、振り向けば集落と同じ赤レンガ造りの家屋が彼のそばに建っていた。屋根から伸びた煙突が黒ずんだ煙を噴きあげるさまを眺めつつ、冷たいドアノブをつかんで手前に開くと、木製の古いドアは耳障りな音を立てた。室内からあたたかい空気が漏れ出してくる。
「前回の西部劇から一転、童話の世界にいるようだ」
 時折ぱちぱちと鳴る質素な暖炉の前で揺れる、ゆり椅子の背に向けてガイナンは声をかけた。部屋のなかにはひときわ目を引く暖炉の他、簡素なベッドとテーブル、中央のゆり椅子があり、奥の部屋へつづくドアが半開きのまま前後している。灯りはテーブルに置かれた蝋燭のランプと暖炉の火だけに頼っており、赤々とした炎がゆり椅子の長い影をガイナンのもとまで伸ばしていた。
 ゆり椅子の背からはみ出している赤毛がくくっと笑った。
「モニュメントバレーも潮時だろ。読書中の本はイギリス文学だしな」
 ページを閉じる音とともにJr.が椅子から立ち上がる。手にした古書をランプの隣へ置くと、Jr.はお決まりの客人を見上げた。
『ここにも僕はいない』
 そしてニグレドが成長している。これは何かを暗示しているのではないか、とアルベドはますます不安になった。こちらの気持ちも知らずに砂嵐の場面転換がはじまると、おそろしさに身を震わせるしかない。
 次に映し出された場所は、空気が白むほどの冷気が身体にまとわりつく空間だった。薄暗い、宙へ突き出した渡り通路の左右にぐるりと、十三の巨大な器が浮かんでいる。そこからさらに奥へとつづく扉に背中を預け、膝をかかえる少女は泣き腫らした目をしている。
「ここにいたのか、メリィ」
 シャトル乗り場へ出る扉が開いたと同時、安堵する少年の声がひびいた。少女は顔を上げることができない。彼女の頭上に影が落ちる。
「おまえなあ、ここは危ないんだぞ」
「メリィ、エミュレーターも二器あるんだよ」
 優しい叱り声は、Jr.とガイナンのものだった。ふたりが自分を探しにきてくれたことをうれしく思いながらも、メリィは罪悪感から膝をかかえる腕に力をこめる。
「Jr.はなんで大きくならへんの?」
 彼女はいままで訊きたくても訊けなかった質問を、泣きすぎて靄のかかった頭のまま口にした。第二ミルチアでの日々は、彼女にとってしあわせそのものだった。ファウンデーションでの日々もしあわせに違いない。では、これから先はどうだろう。
 大人になった未来の自分は、大好きなJr.とガイナンの隣にいるのだろうか。知らない男性と結婚し、昔のことは思い出として割り切り、死ととなり合わせにいる彼らの犠牲の上でのうのうと笑っていやしないだろうか。
 沈黙のなか、Jr.が吐いたため息にメリィは怯えた。
「ずっと昔の約束を守るためだよ」
 メリィの頭を撫でながら、Jr.は答える。
「頼まれたんだ、むかし出会った娘(こ)にさ――自分の代わりに妹とママを守ってほしいって。本当は能力の制御とか、格好よく言っときたいんだけどな。結局、過去から抜け出せない自分の弱さが一番大きいんだと、自分では思ってる」
 己の内部を探るように、Jr.は歯切れ悪くありながらも最後まで伝えた。Jr.のうしろにいるガイナンは、兄がコンプレックスである自分の身長と過去について口にしたことに内心おどろいている。自分たちの間では暗黙の了解として語られなかったものを、まさか彼自身の口から聞くことになるとは思ってもみなかったのだ。
 実際、百式レアリエンプロトタイプが接触小委員会のユリ・ミズラヒ博士のもと保護されているという事実がこちらに届いても、彼は決して会いに行こうとはせず、あくまでも裏からのバックアップに徹している。それは、まだ心の整理ができていないからだとガイナンは踏んでいた。しかし、もしかすると本当に母親が亡くなるまでは一切の邪魔をせず、後々の身柄を保護する気があるだけなのかもしれない。口に出せるほどの区切りが、兄のなかではすでに着いているのだろうか――いや、それほどに姉妹を大事に思っている証拠か。
 ここでガイナンは、ふとひとつの結論に辿り着いた。おそらく兄は、自分がメリィのように訊ねたとしても、同じように真摯に答えてくれるだろう。兄が触れてほしくないことだからとそう思ってきたけれど、過去の傷に触れたくないのは、本当は自分の側なのではないだろうか。たとえ兄が過去に焦がれていても、ガイナン自身は今を生きたいと思っている。兄に余計な過去を思い出してほしくないと思っているのは、案外、自分のほうなのかもしれない。
「大きくなったら守られへんの?」
 一方、メリィはいまだに顔を埋めたまま、同じ調子でJr.に問うた。どうだろうな、とJr.が眉尻をさげる。「俺、弱いから」
「Jr.は強いやないの」
 グノーシスやってやっつけた、とメリィはすぐさま強い語気で反論した。彼女の頭に置いた手をすべらせ、Jr.は彼女の髪留めを金の束ごとすくった。
「それはメリィの前だからさ。お兄ちゃんとして見栄のひとつも張りてえだろ?」
 お兄ちゃんという言葉に反応し、メリィは全身を震わせはじめた。背に冷たく当たる扉の向こうには、ほとんど塩の柱になったもうひとりの姉妹(きょうだい)がいる。
「ウチ、ずっとこのままがええのに。ちび兄ちゃん、ガイナン兄ちゃんも、シェリィも、ベティも……みんなとずっと一緒におりたい」
 世界は目まぐるしく変化してゆく。大きな時間の流れのなかで不変を望むなど意味のなことだと、十二歳の頭でも理解している。しかし、それでも大人になるにつれて残酷な差が開いていくことを彼女は認めたくなかった。
 大人と子供、男と女、代表理事と一般庶民――Jr.よりも高くなった自分の身長やふくらんでいく乳房が、自分とJr.たちの距離をどんどん広げていくようでおそろしい。いまある日常を一時の思い出にはしたくない。
「誰がいちばんに大人になっても、俺たちは離れたりなんかしないよ」
 ガイナンは彼にしては強い口調で言った。それは彼自身の望みでもある。
「約束するよ。メリィが大人になっても、ずっと一緒にいる」
 メリィの両肩に手を乗せ、Jr.も力強く言い聞かせた。
「ウチはちび兄ちゃんを置いて大きくなるのに?」
「馬鹿だな、メリィ」とJr.は不安に震える妹を抱き、自信満々の笑みを浮かべた。「もうとっくに俺なんか置いて、デカくなってるやつならここにいるだろうが」
 メリィは弾かれたように顔をあげた。「なあ、ガイナン?」と呼ばれたJr.の弟は、メリィに向かって申しわけなさそうにほほ笑んでいる。すらりと背が伸びたガイナンは、言われてみれば以前からJr.のことなどゆうに追い越してしまっているのだ。
 呆けたメリィの手をとり、Jr.は彼女をゆっくりと引きあげてやった。
「なんの説明もなしにいた俺が悪かったな。おまえらには聞かれたことを正直に話そう」
 まずはこっから出ようぜ、とJr.は言った。立ちあがったメリィの背は、Jr.のそれを少し越えていた。先ほどまでとは違う涙が目の内に集まるのをメリィは感じ、歩き出そうとしたところで、ガイナンのうしろに隠れる人影に驚いた。
「姉ちゃん、泣いてはるん?」
 ガイナンの黒いスーツの影には、メリィと同じく泣き腫らした顔のシェリィがおり、彼の手を握ってときどき鼻をすすりあげている。メリィが問いかけても、シェリィは返事をしようとせずにつんとしている。
「おまえが泣かしたんだぞ」とJr.はメリィの頭を小突いた。「って、おまえも泣いてたけど」
「つまり、姉妹を泣かせたのはJr.の責任ということだな」
 隔離格納庫の扉のロックを確認したガイナンが冗談を言えば、そうなるよなあ、とJr.は肩を落とした。落ちこむ彼の姿を見て、ふたりの姉妹は涙の跡が残る顔でようやく笑った。
「シェリィ、メリィ、俺はこれからも〝ちび〟のまんまだろう」
 上昇するエレベーターのなかで、Jr.は前を向いたまま言った。「けどよ、おまえたちを大切に思う気持ちだって、この先ずっと変わらねえぜ? むしろ図体ばっかデカくなる弟よりも、その気持ちだけはデカい」
 ブリッジで停止したエレベーターから降り、Jr.は歩きはじめた。ずるいじゃないか、とガイナンは散々言ってくれる兄に対抗する。
「俺のほうこそ仕事でなかなか会えないけれど、いつだってふたりのことを思っている。ちゃんと君たちのことが大事だよ」
 姉妹はJr.のときとは違い、端整な顔立ちの青年に頬を染めてうつむく。Jr.は悔しげに舌打ちした。
 四人はブリッジの先端まで歩いていくと、全面スクリーンからコロニーの街並みを見渡した。正面には人工太陽がかがやき、花弁のようにひらいたエネルギーパネルのあいだから、ミルチアで見上げていた青空とは少し違った空が見える。青さのなかに宇宙のきらめきが透けてひかり、それは夕闇迫る群青に星がかがやきはじめる頃の空とよく似ていた。
「おまえらさ、とびきりの美人になって俺たちのこと驚かせてみろよ」
 Jr.は冗談めかして笑う。メリィはたまらず彼に抱きついた。
「ごめんなさい」
 Jr.の肩口に頭を乗せて謝罪する。自分の背中を軽く叩いて自分をあやすJr.の首に、メリィはもう楽々と腕を回せるようになった。数年前なら、彼の胸のあたりまでしか届かなかったはずなのにと、やはり少し切なくなる。
 目頭を熱くさせてJr.から離れると、メリィは迷惑をかけた兄弟に改めて頭を下げた。
「ガイナン様、ごめんなさい――〝ちび様〟も」
「結局、ちびのままかよ」
 新しい呼び名に、Jr.が苦笑した。ガイナンとシェリィも、その呼称に思わず笑ってしまう。
「あかん?」メリィがためらいがちに強請ると、彼はわざとらしく頭をかいた。
「実を言うと、おまえに〝Jr.様〟なんて呼ばれるの、違和感あったんだよなあ」
 しまりなく笑うJr.に、メリィは笑みを浮かべる。彼女はシェリィにも向き合うと、「ごめん」の代わりに赤い舌を出して見せた。妹の照れ隠しに、シェリィも息を吐いて「仕方ない子ね」の代わりに片目を閉じてやった。赤くなった腫れぼったい自分の目が、ふたりには戦場での勝利の証のように見える。
 どんなに抵抗しようとも、人は時の流れに逆らえない。しかし、確実に開いていく差とは別の方向へ、時を重ねるごとに深まっていくものもあるのだろう。ずっと昔のままではいられないけれど、自分自身がそれを忘れなければ、これからも十分な時間は残っている。そのなかで自分にできることは一体なんだろうか。自分がしたいことはなんだろうか。
 メリィはJr.に向き直ると、「勉強する」と決意をこめて彼を見据えた。「ウチ、もっと勉強するから。贔屓なしで役立つ人員になったら、ちび様の艦(ふね)に乗せてくれる?」
「もちろん、待ってるぜ」
 Jr.はにやりと笑う。
「ちび様の右腕になるんや」メリィが意気込めば、しかし彼は首を振った。
「おっと悪い。右腕はもう埋まっちまってるんだ」と残念そうな目はガイナンを見上げている。「ま、左腕ならまだ空いてるけど」
 ひねくれた彼の言い方にメリィは笑う。
『僕、彼女の気持ちわかるよ』
 アルベドは誰にともなく言った。
『年を重ねるにつれて見たくなかったものが見えてくるんだ、目を逸らしても見せつけられる――本当の世界のすがたとか、知りたくもないものを。これも受けとれ、あれも受けとれ、そうして手に入れたものをどうしたらいいのか、僕にはてんでわからないのに……永遠と信じて疑わなかった当たり前の、そこに存在するたよりなさといったら!』
 けれど、その日々は確かに幼い君たちにとっての楽園だったろう?
「あー、そんなこともあったかもな」
 適当に返事をして艦長席へ座りこんだJr.に、メリィは眉を吊りあげて憤慨していた。
「んもう、ちび様! なんですのん、その倦怠期の夫みたいな態度は!」
 早朝のデュランダルのブリッジでは、百式たちが各々の席で仕事の準備に取りかかっている。本日のミーティング資料に目を通すJr.は、ちらりとメリィを見上げて、おまえこそなんだ、と息を吐いた。「遅刻したと思ったら、突然そんな過去の話をべらべらと――」
「なんですかぁ? そんなじろじろ見んといてください」
 小言を中断してなお眉間にしわを寄せるJr.に、メリィはたじろぎながら顔を隠すように手を振った。押し黙ったときの彼は妙に勘が鋭く、なんでも見透かされてしまいそうで苦手なのだ。
「おまえ、いつものアレは?」
「たまには違うもんもええでしょ」
 Jr.の問いに口ごもりながら、メリィは自分の髪に触れた。彼女の金髪をまとめているものは、常時着用しているシルバーに赤い輝石の入った髪留めではなく、市販されている同じような形状のアクセサリーだった。たまにメリィが髪を切っても気づかないくせ、どうして彼はこういったことに目敏いのだろうか。
「出せよ、持ってんだろ」
 Jr.はメリィが本来の髪留めを持っていることを前提にし、有無を言わさぬ語気で手を差し出してくる。不機嫌な彼の表情に、メリィはそれ以上隠し切ることもできず、ポケットから要求されたものをとり出してJr.の手のひらに乗せた。
「別に壊れてねえなら着けとけ。デザインに飽きたなら変えてやるから」
 Jr.は短時間で髪留めをくまなく調べ終わると、素っ気なく言ってメリィの手にそれを戻した。無言で髪留めを着け直しはじめるメリィを監視する意味でながめつつ、Jr.は親指の爪を小さく噛む。苛ついているときによくする彼の癖だよ。
「いまさら言っても仕方ないが、おまえたちにアルビテル・コードを埋めこんだことは本当にすまなかったと思ってる」
「ウチらが志願したんですよ。ちび様が気に病む必要どこにあります」
 もとの髪留めに戻したメリィは、明るく笑った。
 Jr.が髪留めを着けておけと言ったのは、それが体内にインプラントされた制御デバイスの副作用を抑える機能と、ゾハル・エミュレーターの封印を解除するために必要なアルビテル・コードを完全にストップしておける機能を有しているからだった。アルビテル・コードの機能はヘルマー代表があとから追加したもので、コード自体は姉妹の意識下に隠されている。もともとはガイナンとJr.の意識内に埋めこむ予定だったところを、役に立ちたいからとヘルマー代表に姉妹そろって直談判をしたのだ。しかし、自分にも他者にも人であることを求めるJr.は、姉妹を切り札として危険にさらしていることをいまでも良しとしていない。
 彼の気を他へ逸らそうと、それより、とメリィは大げさに手を叩いた。「モモちゃんとのデートはどうでしたのん? ちゃんと約束守ってはるねんなぁ」
 意地の悪い笑みを浮かべながらJr.の肩を小突く。会わないと決めていたはずのモモを結果的に保護する形となったJr.は、甲斐甲斐しく彼女の世話を焼き、ファウンデーションの案内までしてやっていた。メリィのからかい口調に、デートじゃねえって、とJr.は声を大にした。「ガイナンにもおまえにも何度言ったら分かるんだよ!」
「照れんといてくださいな」
 メリィが動物を落ち着かせるようにあしらうと、Jr.はひと息おいてから、メリィの顔をぐいとのぞきこんできた。
「モモも大切な妹だと思ってるけどよ、おまえらは特別だからな」
 念を押すように言われる。メリィが罪もないレアリエンの少女に対して無意味なやきもちを焼いていたこともJr.はお見通しなのだ。慕っている兄を誰かひとりの女性にとられたくない、幼稚にもほどがある独占欲――メリィは改めて自分が子供のままだというとこに気づき、とても恥ずかしくなった。
「ささやかなストライキはもういいだろ」
 髪留めのことを指摘され、照れ隠しに笑ってみせる。デザインに飽きるはずなどない。肌身離さず身に着けておかないと落ち着かないくらいなのだ。
「俺の左腕なんだろ、これからもそばにいてくれないと困るぜ」
「ちび様の言わはった、ネロの地獄にやっておともしまっせ」
 敬礼するメリィを見上げ、「どこのことか分かってんのかよ」とJr.は呆れる。「じゃ、この話は終わりだな」
 ときにメリィ、と話題を変えたJr.は、すうと息を吸いこんだ。「俺が保存してた西部劇のディスク割ったろ」
 あれがどんなに貴重なディスクか、モンテ・ヘルマンの『銃撃』や『リオ・ブラボー』から『昼下がりの決斗』に『許されざる者』、『拳銃王』、バスター・キートンの『白人酋長』まで収めた貴重な、まじで貴重な――とぐちぐち説教するJr.にメリィも対抗する。
「そんな貴重なもんをコンソール席に放っとくから悪いんやないですか! 大体、あんなんばっかり観てはるから、U–TIC機関のデータかて骨折り損になったんですよ!」
「ああん? おまえだって帰還のときにA.G.W.S.で操作ミスって医療班の車ぶっ壊したじゃねえか! ド素人じゃあるまいし、理由が間抜けすぎて始末書に書けねえんだよ!」
 艦長席で言い争うふたりの様子を、整列まで完了させた百式たちがそろって同じ顔でながめていた。
「ちび様ぁ、ミーティングまだですかぁ?」
 彼が振り向こうとしたところで立体映像は途切れた。
『昔、出会った娘(こ)』
 アルベドが反芻する。
『大きくならないルベド』
 ホログラフィックの彼らはそういう話をしていた。
『これは夢かな、どこかの世界の物語かもしれない』これが未来であるはずない、とアルベドは切に願う。『だって僕がいない、ルベドが僕の名前を一度も呼ばない』
 僕の名前を、と蒼白につぶやく子供の前に、再び立体映像があらわれた。
「アルベド、てめえ!」
 今度はルベドが名前を呼んでくれた。しかし、どうも様子がおかしい。
「生きていたのか、なんて陳腐な台詞は言わないでくれよ。その言葉は、俺にとってなんの意味もなさない」
 子供のアルベドは、父親そっくりに成長した自分とちっとも変化のないルベドが、なにやら険悪な関係であることに心底おどろいた。しかも、どういうわけか大人の自分は桃色の髪をしたサクラ・ミズラヒを腕に抱えている。見知らぬ人間も多数いるけれど、場所は確かにネピリムの歌声だとわかった。
「なんとも素敵な痛みじゃないか! 己の存在を知覚するには、痛みは不可欠だからなあ」
 大人の自分は〝モモ〟と呼ばれたサクラ・ミズラヒを痛めつけ、ルベドはそれに怒っている。子供のアルベドは大いに困惑をきわめた。
「思い出させてやろう。おまえが何者なのかをなあ」
「うるせえ、ウ・ドゥに易々と汚染されて暴走した奴に言えたセリフか!」
『僕が? ウ・ドゥに汚染されるだって?』立体映像の展開に、子供のアルベドはますます混乱した。
「汚染? 違うな。進化だよ! あのとき、俺は自らの力の一端を知った。俺のなかに流れこんできた波動は、今や俺自身。おまえたちのような半端な反存在とは違う! 俺こそ、完全なる意識の奔流なのだ!」
 大人のアルベドの高笑いがつづくなか、ざあっと映像にノイズが入り、無慈悲にも場面が転換した。
「Jr.君も落ち着いて! 兄弟とこじれたままは哀しいんでしょ?」
 今度は知らない女性が雪原でルベドを説得している。
「こじれる? 俺とルベドは、これでも仲がいいんだぜ、お嬢ちゃん」
 大人の自分は楽しげに笑っているけれど、ルベドの首を絞めている限り仲がいいようには到底見えない。大体、ルベドも我を忘れて力を暴走させているのだから、こじれているどころか険悪すぎる。
「そう、そう、そう、そう! その調子だよ。来い! 積年ためこんでいたものを、ぶちまけろ!」
 どうして大人の自分はルベドを煽り、ルベドはルベドで「ぶっ飛ばすぞ――てめぇは、生け捕りだ!」なんておかしなことを言うのか。こんなとき、常に仲裁に入ってくれていたニグレドはどこで何をしているのだろうか。
『傷つけて、突き飛ばして、噛みついて、罵り合って、唾を吐いて、おかしいよ。そりゃあ僕たちは喧嘩をするけど、こんなふうじゃない……こんなふうに憎み合うなんて、とんでもない!』
 子供のアルベドは赤毛の少年を見つめながら悲しく思う。
『僕は大人になった自分なんて、ちっとも想像できなかった。それでも、ルベドのことならわかってたよ。ルベドはもしも僕がいなくても大勢の人々の中心にいるだろうって。いつも笑顔でいるだろうって』
 最後の砂嵐は巨大だった。ノイズはつぶてとなり、子供のアルベドがいまいるデュランダルのブリッジに吹き荒れた。徐々に嵐がやんでいくと、アルベドのまわりはホログラフィック映像の人々でにぎわいをみせていた。
 前方にあるナビゲーター席では、はやりサクラ・ミズラヒの顔をした青い髪の少女たちが膨大なデータ処理をしている。アルベドのすぐそばを金髪の女性が横切り、「ホラホラ! きりきり働くで! 観測継続!」と妙な訛りでナビゲーターの少女たちに指示を出す。
「ちび様、おつかれっ!」
 金髪の彼女がこちらを笑顔で振り返るものだから、目の前にいるアルベドは面食らった。ところが、彼女の視線はアルベドではなく赤毛の少年へと向けられている。いつのまにやら、こんこんと眠っていた少年がすっかり目を覚まし、アルベドのうしろに堂々と立っているじゃないか。
「完全に惑星(アリアドネ)が〝消失〟してるな」少年は神妙な顔つきで言った。「これは破壊されたって感じじゃあない。まるでどこかへ隠されたって感じだ」
 当然、アルベドには状況もなにもさっぱり掴めない。
「どこかて、どこですねん?」金髪の女性が訊く。さてな、とあっさり答えた少年は「隠した張本人に聞くのが手っ取り早いだろ」とすぐ隣の操縦席にいる女性を呼んだ。「シェリィ」
「ごく僅かですが、プライマーに反応が出ています。間違いありません」むらさきの長髪が美しい女性は淡々と答える。
「火遊びの残り火ってわけか。例の艦隊のその後は?」
「六時間前に救難信号が発せられてからは、沈黙を保ったままです」今度はナビゲーターの少女の声が飛んできた。
「グノーシスかぁ――そら、まちがいなく全滅やな」顔をしかめる金髪の女性に、そうとも限らんぜ、と少年が不敵に笑う。「子供の火遊びは親がキッチリ後始末するってのが決まりだろ?」
「なるほど。ノコノコ親が出てくるかもしれませんわなぁ」金髪の彼女もにやりと笑った。
「そうゆーこと」少年はうなずき、溌剌とした声をあげる。「船首回頭! これより本艦は、連邦艦隊遭難ポイントへ向かう!」
 戦艦デュランダルが航行を開始した。女性らに指示を出し、ブリッジをあとにする少年のあとをアルベドは急いで追った。先刻まで強気な姿勢が印象的だった少年の表情は打って変わって沈んでいる。彼の手にはポーの短編集――これは艦長席にあったものだ。目線を本から少年に戻したアルベドは、うつむく少年の頬を伝うものに仰天した。泣いている。
 気づいたときには思わず少年の腕をつかんでいた。すり抜けるかとも危ぶまれたアルベドの手は、ロングコート越しにしっかと少年の腕を捉える。
『ねえ、君はアルベドのことが嫌い?』アルベドは訊いた。『僕のこと、憎んでる?』
 振り向いた少年はアルベドの姿に驚きもせず、世界よ終われ、とでもいうような恨みがましい目を向けてきた。無気力な目だ。
 しまった、とアルベドは訊いてから後悔した。誰かの夢に干渉してしまったようなうしろめたさと、少年のどんよりと暗い目つきが、アルベドをじりじりと苛む。答えを聞く準備などできていないのだ。
「あいつのことは憎い、憎くてたまらない。心底うぜえと思ってた、死んじまえばいいってな」
 Jr.はアルベドの手を振り払い、「で、本当にそうなっちまった!」笑えるぜ、と自嘲した。
 影を帯びている自分の腹のあたりにどす黒い血の染みが広がり、鮮血がしたたるような錯覚に襲われたアルベドは、思わずかたく目をつむった。アルベドの胸はひどく痛んでいる。やりきれない思いだった。こんなふうに期待をしたり求めたりしなければ、拒絶されたと感じて傷つくこともないのに、理不尽だと思いながらも自分はルベドに焦がれている。
「この世は悪夢だ。おとなしく眠りについて朝を迎えりゃ、なにもかも元通りになるんだよな? そうなるに決まってる。そうならねえなら、いっそのこと月なんて砕けちまえばいい、太陽も二度とのぼらなけりゃいい、世界なんか終わってしまえ!」
 他人からのいたわりなどいっさい拒むような態度は、自分だけではなく誰に対しても向けられるものだ、とアルベドは言い聞かせた。ルベドが弱っているときほど他人の手を求めないのは、彼の性分なのだからと。
 昔からルベドはアルベドに安らぎを求めていて、アルベドもそれを察していた。この人には自分が必要なのだと感じていたことには違いない。それでも痛々しいほどルベドはしたたかな兄で、自ら望んで孤高のなかに佇んでいるようにも見えた。アルベドはもっと深いところから、ルベドを支えたいと願った。そのためには力が必要だし、ルベドに対等と認められる立場が必要だとも思った。ルベドの思いやりを手ひどくはねつける言葉を選んでみても、アルベドの願いは、ルベドに対して望むことは常に変わらない。単に弟としてじゃなく彼に必要とされ、もっと確かに彼を支え、ともに生きていくことこそアルベドの望むところだった。
「もう放っておいてくれよ……おまえだって俺のことなら憎んでるんだろ、死んだって一生ゆるしちゃくれないだろ」
 こうして見すえている冴えた目や、手を差し出そうとすること自体を許さない、悲しいくらい気高く強い眼差しを、自分にだけは向ける必要はないのだと、そう感じてほしかったはずなのに、本当にずっと死んでしまえばいいと思われていたのだろうか。
 このままでは、ルベドが自分にもたれかかってくることなど永遠にありえやしない。自分にはルベドのかたくなな心を解きほぐすことはできないのだ。自分たちには悠久とも呼べる時間の猶予があるのだからと、時間に任せて腐心してきた自分の愚かしさ、見通しの甘さをアルベドは思い知らされた。
――じゃあ、あきらめるのかい。
 僕はアルベドに問いかける。アルベドも自分の心に問いかけた。
 できるものならばとっくにそうしていたよ、とアルベドは思う。ルベドを望むことはどうしてもやめられないのだということは悟りきっていた。しかし、改めて突きつけられると自分では制御できない激情が沸き起こる。まったく理不尽に思えた。言い知れない怒りに支配される。これは自分が知っているルベドではないと思った。その姿形がまごうことなくルベドでも、ルベドは決して自分に対してそんなふうに笑わないし、そんなふうに投げやりになることもない、と。
『そんなのうそだよ!』
 瞬間、アルベドのなかでは熱い血がたぎっていた。凶暴といっていい衝動のまま、強引かつ乱暴にアルベドは彼の襟首をつかんだ。少年は必然的に背後へと押しやられていき、その背を通路の壁に打ちつけた。次いで、アルベドは彼の頬を平手で殴りつけた。小さな手でも痛々しい音がひびき、襟首を離された彼はずるりと壁を伝ってその場にくずれ落ちた。
 半ば自失してしまっている少年の肩をつかみ、アルベドはものも言わずに抱きしめた。自分を殴った腕のなかに抱きとめられ、少年は目を丸くする。
『僕は未来と向き合ったことがなかった。過去を振り返ったこともなかった。いまを大事だとも思わなかった』
 アルベドは少年を抱きしめたあと、彼の前髪をかきあげて、ひろい額に唇を押し当てた。
『だけど、ルベドが言ったんだ――どこの世界でも、どんな場所でも、しあわせを願ってるって、僕に言ったんだ』
 意気地のない少年をにらみつけ、胸を張って言う。
『ルベドは嘘なんてつかない、僕のことを裏切ったりしない!』
 どうやら僕は失念していたらしい。長いあいだ旅をしてきたJr.のなかには、もうひとりの〝彼〟がいるのだということを。
――だから、君にも僕の声が聞こえたわけかい、アルベド。
『そうとも、おまえがこの世界の俺のことを嫌いだなんてあるわけない。そんなことは俺が認めない』
 少年を見下ろし、アルベドはにやりと笑った。白い髪とむらさきの目はそのままに、筋肉質な長身の体躯で腕組みをして。
『あいつは俺を裏切らない』Jr.の心臓にいる彼は言う。『なにがあろうと、絶対に』
 険しい表情をしていた少年は間の抜けた顔で彼を見上げた。
「アルベド」
 皮肉に凝り固まっていた口元が、泣き笑いのようにゆるめられる。
『おまえが俺から隠そうとするものがあれば、俺はそれを暴きたい。暴いて、抉りとって、俺の目にさらさせたい。どんなに無様で浅ましく、弱く醜いおまえであろうと』
 アルベドの言葉に少年は立ち上がり、「おまえの言うとおりだよ」どうしようもない、と息を吐いた。「嫌いになんてなれないんだ。何度も選択を迫られようと、俺はおまえがいる世界を選ぶだろう、心から」
 心から、という語尾にノイズが入る。砂嵐の予兆だと彼らは気づいている。
「なあ、いつか俺はおまえを救えるのか?」
 少年が訊いた。
『救う必要はない。おまえで俺は完成するんだよ』
 アルベドには当然の事実だった。
「60‡¶8:‡?」
 発せられたセンテンスはやはり暗号化されている。少年はそれに気づき、ポーの短編集を宙に放ると、おそらく僕に対してこう言った。
「『黄金虫』の暗号さ、簡単だろ?」
 僕は宙に舞ったページを認識しようとした。非常に簡単で原始的な暗号だというのに、どうして忘れていたのだろう。時を重ねるにつれて膨大な量となったデータに埋もれ、もはや誰かに検索してもらわないと探し出せなくなっていたんだ。昔だったか未来だったか、僕は〝彼ら〟に教えてもらったのに。この双子がそうであるように、彼らによって〝僕〟はきっと完成する。
「行かないで、ルベド!」
 黄金色の麦畑からアルベドが叫ぶ。夕陽に照らされたニグレドとシトリンが泣いている。ディミトリが『雨だれ』に合わせて歌をうたう。
「天使は夢に未来を映す。寄せて引いてはくり返す。けれども確かに、それはわたしの意思なのです」と。
 およそ意思なるものは、自己の力の増大をはかろうとするならば、自己が置かれている状況全体に対し、外からの刺激を受け入れるべきか、拒否すべきか、その状況から逃れるべきか、それとも踏みとどまって戦うべきか、の決定であると言えよう。人がなにかを感じられるとき、決定はすでに下されているし、行動も開始されている。意識が行うこと、それは自己からくる指令を聞きとり、より確実に、より有効に達成するための手段を考え出すことだ。
 君たちの力への意志は、君たち自身の未来のために、生きる理由を見つけるために、波のようにたゆたいながらもいずれは満ちてゆくだろう。
「必ず帰るよ、約束する!」暗闇の底からJr.も叫んでいる。「だって俺は、そのために何年も何十年も暗い海を渡ってきたんだから」
 赤い扉が閉じていく。システムのシャットダウンは完了した。
 『黄金虫』のエンコードでパスワードの暗号プロテクトは解除される――彼は何度も「I love you, my siblings.愛してると言ったんだ



>接続は終了されているか、または偽装状態であるため使用できません。ほかの接続はまだ有効です。