親愛なる君へ 1


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 Dearest,

 君の裏庭は一面の花畑で、夕暮れの群青よりも真っ青なバラが海のように咲いている。
 さあ、こっちよ、ルベド。
 白く柔らかな裳がふわりと舞い、亜麻色の髪がしゃんしゃんと揺れる。細い指先が俺のそれに触れると、二人の体温がほんの少し混じりあう。心臓の高鳴りだけが、鼓膜を震わせる。
 サクラ、荊があって進めない。
 ちりちりと体に刺さる棘はバラが隠した悪意のようで、掠めた人差し指に痛みを与える。じわりと赤い玉が膨みだす指先を、君は優しく包みこむ。
 怖がらないで。目に見えるものだけが本当じゃないわ。
 そして君は傷口に向かい、ふ、と息を吹きかける。赤い玉は雫となって指先から転がりおち、青い花畑の中に埋もれて消える。指先には小さな傷痕すら残らない。
 ここのバラはね、痛みを吸って咲くの。
 夜明け前のように薄暗く微笑んだ君は、どんな花よりも鮮明な彩を放ち、あまりの青さに眩暈がする。バラのものなのか君のものなのか、不思議な甘い香りが頭の芯を酔わせる。
 ルベドも手伝ってね。
 裏庭にあった二つの木箱の内、一つを手渡される。小さな木箱の中には花の苗が一株ずつ。緑の新芽がぴんと伸びている。君は手慣れた様子で木箱に黒い土をつめてゆく。掌からさらりと零れおちる滑らかな土は、この地に咲くバラたちの上等なベッドであるらしい。君に習い、瑞々しい苗に土を着せる。二人して手を真っ黒にして、夢中で苗を木箱に植える。
 どんな花が咲くんだ?
 木箱の中の慣らされた土を見つめる君に尋ねる。君の気まぐれはいつだって唐突で、それでいて素敵なことばかり。
 君は暖炉の火のように目を瞬かせる。それから土で汚れた人差し指を唇の前に寄せ、内緒、と囁いて笑み崩れた。大きな緑の瞳が心臓を睫毛でくすぐる、むず痒い感覚。君といると幸せが目に見える。
 木箱を抱えた君は、靴を鳴らして家の中を駆ける。子供一人が乗れる小さな梯子を登った先に、木の匂いが漂う屋根裏がある。切妻の天井下には小さな窓が一つ。そこから射しこむ西日が、ぽつりと置かれた二つの木椅子を照らしている。君は窓の内樋に木箱を置き、裏庭に広がる青い花畑を眺めながら歌いはじめた。
〝バラの花 かおる谷間に おわします おさな子イエス〟
 細い指先がピアノの鍵盤を弾くように宙をなぞり、夕陽が睫毛と瞳を輝かせる。せせらぎのような君の歌声は、乾いた部屋に潤いを与えながら響き渡る。
 知ってる?
 うん、賛美歌だ。『雪の女王』にあったな。
 二つの木箱を窓辺に並べると、椅子に向かいあう形で座った。古い椅子は少し動くだけで軋み、そのたびに二人で笑う。ふと君が、窓の外を見て笑顔を曇らせた。青い花畑の向こうでは、赤い夕焼けが空を染め、しい太陽が君と俺の影を伸ばしている。月が昇ったら、帰らなきゃいけない。
 お水をやりに来てね。
 もちろん。
 いつの間にか季節は夏の終わりを迎え、やがて君と過ごす初めての冬がくる。春に君と出会い、ともに夏を謳歌した。秋は君を深く知ろう。寒い冬は君を温めよう。君と一緒に、君の世界で、俺はいくつも季節を巡るのだと信じていた。あの晩夏、二人は確かに同じ世界に存在していた。
 また来るよ、サクラ。
 何度も、何度も、失くした未来を繰り返す。そうして君は、三つの季節の面影へと吸いこまれてゆく。消えない君の残像だけが、この眼と心臓を焼く。例え死んでも二度と、そこへ戻れやしないのに、君に会えやしないのに―二度と、二度と、二度と。