親愛なる君へ 2


Timeline: Before EP1, at their office



「プライベート・ビーチ?」
 無意識に、苛立ちの声が零れた。読みかけの『タラス・ブーリバ』を閉じ、濡れたように重量のある頭をあげる。
 通いなれた夕暮れの執務室は、普段と同様あまり生活感がない。アンティークの中でも特に古びた蓄音機が眠りにつき、夜間用の室内灯が灯りはじめた部屋に沈黙が溜まると、それを餌にしている闇が天井から染みだしてくる。夜の帳は俺の視界を覆い隠し、素晴らしく麗らかで嫌気を起こす現実から遠ざけてくれる安息の時間だ。
「気にいらないか?」
 俺の反応を予想していたのだろう。コロニー市街を展望する窓辺で振りむいたガイナンは、困ったように目を細めて微笑んだ。そこらの女が喜ぶような笑顔とは違う、この弟が昔から俺に対して向ける微笑みは、君とよく似て危うい儚さを漂わせながらも俺のすべてを享受するようで、それは俺の猜疑をひどく過敏にして意味もなく苛立たせる。必要ねえだろ、と機嫌の悪さを露呈して睨んでも、ガイナンはどこ吹く風とばかりに微笑みを深くする。
「誰もいない海岸で何するんだよ。焼きたいのか、泳ぎたいのか。それとも―」俺を沈めたいのか。喉奥で密かに問う。いっそのこと、そうしてくれりゃあ楽なものを。
 真っ黒なスーツを脱ぐ気など毛頭ないくせ、クーカイ専用のビーチを建造するという。生真面目な弟の突飛な行動は、大抵が遠回しに兄である俺のため―断っておくが、自意識過剰ってわけじゃない。つくづく面倒なことに弟は昔からそういう男でね。
「おまえのコレクションよりは有益だと思うが」裏ではともかく表面では白を押し通し、何食わぬ顔でガイナンが言う。「俺は貴重な文化遺産の収集保存に貢献してんの」こちらも素知らぬ顔で、とりあえずの理屈をこねる。
 訪れた沈黙に浮かぶ耳障りな音に視線を落とせば、プールテーブルの縁を不機嫌に弾く自分の指先があった。こうした無意識も、爪を噛むことも、悪夢の最中にしているらしい歯軋りも、良くない癖だとは思っている。まあ、それでも治らないのが悪癖ってもんだろ? 自虐的な今の思考と同じく。
 彫刻のように均等についた逞しい筋肉を、洗練されたスーツで覆い、すらりと豹のように伸びた手足で優雅に闊歩する姿は、どの角度から眺めようと欠点のない立派なガイナン・クーカイ代表理事だろう。外面良くまとめて完璧を演じる弟は、俺に対しても仮面越しの笑顔で接してくる。それは子供の頃に俺が貼りつけた〝しっかり者のニグレド〟の仮面で、もともとの顔を見せようとしない。少しでも勘繰るような態度を仄めかせば、大丈夫だ、心配ない、気にするな、と妙に艶めいた麻薬の声であしらわれる。些細な疑念は破片と砕けて記憶の底へと沈められ、俺は幼子のように無知を装うが、不自然な記憶の途切れは新たな疑念の種を芽吹かせる。疑点を線で結んだ先には、いつも眼前の男がいた。俺が何かしら真実を望もうと、サザビーズで競りおとした銃のように小奇麗にまとめられた虚実を手渡される。
 ガイナンの精神状態の良し悪しに関わらず、俺は当然のように蚊帳の外さ。一応の信頼はあれども、まったく信用されていない。この十四年間、俺たち兄弟は誰より近い距離にいながら、互いの本心を素直に晒すことはなかった。他人よりも奥深くで依存していながら、うず高く積みあげた精神防壁より先の深淵へ踏みこまれることを怖れている。壁の内側に生々しく膿んだ根底を隠し、外側には風化した砂の記憶だけを並べて。傷つけあえるほど素肌を晒せたなら、何か変わるものもあったかな―弟とも、君とも。
 手元のコネクションギアはビーチの完成予想図を表示しており、意味なく掲げれば、濁りない発色のグリーンを透かした向こう側にガイナンの微笑が見えた。人工太陽の夕陽が混じると、古く黄昏という時分の通り表情の見分けがつきにくい。微笑とは言ったが、単に印象でしかないのかもしれない。
「報告ありがとよ」モニターの下部に流れる開発進行状況を一読し、おまえの好きにしろ、と返答の代わりに嘆息する。
 ビーチ内施設に目を引くような真新しい製品はないが、人工海岸全体に新たな浄化槽を導入するらしい。財団コロニーでは弓状に広がる巨大な人工海岸を区画しているため、区によってビーチの特色が異なる。俺たちも何度か視察に立ちよる機会があったが、数あるアクティビティもうまい具合に分散されているし、ポケットマネーとはいえガイナンが財団の利益とは無関係なところで財布の紐を緩めるのは珍しい。最近では仕事が趣味のような男なのに。
「まあ、提案があるとすれば―浄化槽ってのは海中の天候だろ、海岸の天候も変えられりゃ愉快だろうな。日照りつづきのビーチが吹雪いてみろよ、笑えるぜ。落雷なら、まさに青天の霹靂ってね」
 用済みのコネクションギアを窓際のガイナンに放り投げ、意味のない軽口を叩く。自分の手に余るギアも、骨張った男の手にはまるで玩具のようだ。絨毯の上を這う影は、長く長く成長してゆく。振り子時計の刻む時が、沈黙の中で規則的に揺れる。夕刻はデュランダルが最も赤く反照する時間だが、残念なことにコロニー中心部の執務室から、真っ赤な晩景は拝めない。南向きの窓外には、星空を提供しはじめたコロニーを覆う円蓋がある。
 考慮する、と冗談を真顔で返したガイナンの眼差しは、それきり窓外の落陽に向けられた。最後の赤が黒い背中をのみこみ、群青へと変化させてゆく。人工太陽は沈むことなく、コロニーを覆う天蓋との連動で配色を変化させ、夜間は星空に浮かぶ月となる。太陽が月に姿を変える、移ろいの時間は好ましい。蓮の葉を模したエネルギーパネルの夕映えは、新緑の瞳にも鮮やかなことだろう。
『Jr.
 肉声か念話か判断できない声で、背を向けた男に名を呼ばれた。夏の夕風のようなテノールは耳に心地良い。こんな場所にいるはずもないが、昆虫たちの合唱でも聞こえてきそうな空気に震える。
「海へ行こうと、いつか話したな」
 夕風の穏やかな言葉に反応した心臓が、水面のように波打った。うまくどくりと鳴らない打ち損じた左胸の鼓動に呼応し、右胸のそれも下手くそに打ち鳴らされた気がする。
 海!
 割れた水槽から零れだす水のように、十四年前の自分の歓声が脳裏をじわりと浸してゆく。
 君の深層意識へU.M.N.経由ダイブを行い、神経伝達を阻害している原因を把握して除去することを目的としたミッションの日、君の意識障壁下の主観的イメージを知り、疑問を感じた。誰一人侵入したことのない白い砂浜のある海で、君は一体何を守ろうというのか、と。
 海なんて見たことない。
 君に関連する演習において否定的だったアルベドも、降下目標を海と聞いて珍しく気乗りしていた。ダイブポット内で浮きたつ俺たちに、落ちついたニグレドが微笑みかける。
 そうだね、いつか行こう。
 俺たち兄弟は目と目を見交わせ、密かに笑い零れた。無知な子供。満ち足りていた頃も、ああ、確かにあったよ。確かにあったが、そんなもの今さらじゃねえか。もう、あの頃とは何もかも違うってのに。どこまでも堅気で篤実な弟だと呆れ返る。大事に扱われているのだろうが、その丹念かつ手厚いねんごろは受け手側が羞恥を覚えるほどで、俺の口では「とっくに時効だろ」と捻くれた言葉にしかならない。
「もとより口約束に効力はないさ。制約をリスクとした安心と満足に乗るか否かというだけのこと。おまえの場合、それ以上の意味も含むのかもしれんが」
 どうも一言多いのだ、と振りむいたガイナンを少々恨みがましく睨みつける。その背から煌々と漏れる市街地のネオンに目眩がした。
「ねえよ、意味なんて何も」だって無意味だろ。「完成した暁には存分に独楽してやる」
「ああ、それで構わない。次回航海から帰還する頃には完成しているだろう」
 単なる嫌味を歳相応の微笑で返されると、横意地も削がれる。喉に小骨がつかえたように塞ぐものを抑えこむと、執務室のドアへ向かった。あれが開いた先では、次の航海が待っている。あの暗い宇宙へ出航するときも、ようやくコロニーに帰還したときも、どんなに多忙な時期であろうとガイナンはこの執務室にいた。そんな弟を当然とする己の傲慢さは昔から変わらず、見捨てられない安堵から身勝手な孤独を慰めるくせ、自分の根底は知られたくないと防壁を張る自分は最低な兄だと思う。
 成長しない肉体、成長しない精神―幼稚なままの醜い独占欲。甘えを覚えた依存の姿だ。俺にとって時間の経過ほど無意味なものはない。大昔の約束より不毛なものだ。
 扉が開く。一歩、執務室の外へ出る。
「行ってくる」
 俺が言えば、
「ああ、待っている」
 ガイナンも決まり文句を言う。だらだらと流れる時間は蜂蜜のように甘くたれ落ち、舐めあいで腐り、惨めな依存として瓶底にこびりつく。気色悪くてたまらない。今ここに君がいたとする―そうすりゃ、これもおいしく食べさせてくれたろうな。
 扉が閉まる。背後の気配に、俺は安堵した。