親愛なる君へ 3


Timeline: Before EP1, at Private Beach




 約六週間の航海を終えて帰還すると、ガイナンの宣言通りプライベート・ビーチは完成していた。場所は新設された三十二市街区画に区分される海岸だ。財団コロニーには、デュランダルが入港するセントラル湖を中心にドーナツ型の市街地が形成されており、中心部から離れた円環付近では、人工的な繁殖の助長を極力排除した自然環境の再現が推進されている。第二ミルチアの海水と砂をもとに建造した海岸は全長一八マイル以上のロングビーチで、ロスト・エルサレム時代の西オーストラリアに例えられることが多い。プライベート・ビーチの緑に囲まれた入り江に市街地の喧騒は一切届かず、林立するリゾートホテル群やサーフィンスポットからも距離がある。まるで第二ミルチアのウェルテクス諸島にいるようだ。深さにより濃淡の青が織りなす浅瀬と干潮時に浮かびあがる砂州が、青と白のマーブル模様を描いている。
 ゆるやかに弧を描く波打ちぎわでは、ビーチボールを抱えたメリィが退屈そうに屈みこんでいた。
「せっかく海におるのに、泳がれへんやなんて」
 白い爪先を撫ぜる透明な波、緩く巻いた金髪をなびかせる潮風。クロッシェ編みしたラフィアの帽子を被ったメリィの美しい姿は、カリフォルニアのような陽気によく似合う。
「仕方ねえだろ。一応これも視察なんだ―にしても、くそ暑いな」
 照りつける人工太陽を掌で遮り、呻く。俺の足まで撫でようとする遠慮のない波を、ブーツの踵で砂ごと蹴りあげた。やたらとべたつく潮風だけでも鬱陶しいのに、これ以上しつこく触れられたくない。膝上のビーチボールに顎を乗せたメリィは横目で俺を見やり、「暑いんも当然ですわ。ちび様の格好ときたら、真っ黒コートに厚底ブーツやで」と苦笑した。
 開発局が到着するまでのわずかな休息だが、こうして実際に開放的な海を前にして、何をどうして楽しめば良いのやら。コテージから出てくる気配すらないガイナンとシェリィは、ウェット・バーで映画スターさながら優雅にくつろいでいた。どうにかすると夫婦のように見えなくもない。ガイナンは棚に並ぶ年代物のワインを手にとり、嬉しそうに吟味していた(この弟は、俺とは別の事物において懐古趣味の気がある。ともすればデカダンでしかない俺の趣味より、割と実用的だろう)。さすがに仕事前の試飲とはいかないが、奴がビーチの景観に興味がないのは明白だった。
「シェリィはお肌が焼けへんのよ。それでなくても、紫の髪と眼は弱いねんから」
 足元の波を両手で弄りながら、メリィがぽつりと呟いた。もともと製薬会社の被検体として、様々な薬物を投与されていた彼女たちは、体内のあらゆる組織が一般人より脆弱している。長期治療によって大半は回復したとはいえ、遺伝子異常からくる色素の変化や、姉妹の体内にインプラントされた制御デバイス(二人の脳にはネットワークと生脳をダイレクトに接続し、電子データを自在に操作するためのデバイスが埋めこまれており、それは脳内部から両のこめかみへとつながっている)による副作用―気圧変化で起こる脳周辺の血流異常や、体組織とのバランスが崩れたときに感じる頭痛は、現代のナノ治療でもどうにもならない。制御デバイスの副作用については特殊な髪留めを装着することで緩和されてはいるが。
「もう戻るか?」
 帽子の上からメリィの頭を撫でる。シェリィのように毛髪や角膜まで虚弱ではないが、メリィとて体組織にいくつか異常がある。海で泳げない理由は、仕事というよりも彼女たちの体調を考慮しての割合が大きい。幼少時の妹たちは厄介なウィルスに感染しやすく、頻繁に高熱を発していたので、ガイナンも俺も多少こうした気候には敏感になっていた。過保護すぎる、と誰に文句を言われようが心配なものは心配で、塩水の遊泳もしないに越したことはない。
 メリィは小さくかぶりを振り「青と白できれいやね」と、幅広いつばの影で微笑んだ。浅瀬に描かれた青い濃淡と砂州の模様を眺めている。
「例の浄化槽を深場に設置したんだとさ。そこから生成される逆火山のように渦巻く海流の速度が、ここの入り江の狭いパスで増すことによって形成する模様だろうぜ」言いながら、俺は彼女の肩に自分の上着を羽織らせた。「暑いだろうが、辛抱してくれ」
 陳謝すると、メリィはどこぞの地方言語で「おおきに」という礼を口にしてから、困ったような顔で俺を覗きこんだ。「ちび様って素直ちゃいますね」
 どうにもね、と俺は嘆息する。純白と紺碧に塗りあげられた世界は確かに美しいし(無機質な浄化槽は地底に隠し、清潔な風光を存分に湛える海を美しいと呼べるかどうかは別として)、俺とメリィの眼は同じ青だが、二人の目に映る青が必ずしも同一とは限らない。メリィが彼女の感性で捉えた美しさを、俺が皮肉ることしかできないのは、自分の生き方のせいだろう。
 ひとしきり波と戯れたあと、日傘を差したシェリィとメリィは、連れだって海上の桟橋まで歩いて行った。俺は波打ち際で、真っ直ぐな水平線、常に移ろう海面、寄せ返す波、濡れた砂浜―そうしたものを見つめていた。波音や砂粒が擦れあう音も聞いた。浜辺はからりと暑く、分厚い靴底越しにもじりじりと熱が浸透してくる。デュランダルから眺める暗い宇宙の星空とは異なり、浜辺から見上げた空は薄青く、垂直方向に湧きたつ積雲が人工太陽の光で白く輝いていた。
 俺の知る十四年前の冬の海より、静かで穏やかで暖かく明るく危険のない海だと感じた。剣呑なものは何もない。こんなにも安らかな夏の海を、子供の頃の俺たちにも見せてやれたらいいのに。ガラスの破片が反射するような海面を見つめ、目を細める。まるで破片がつき刺さるように目が眩む。


『どんなにきれいでも、人工の海なんてエンセフェロンと同じさ。本物に似せてみせたミニチュアでしかない。そうだろ?』
 相手を馬鹿にしたような甲高い声。驚いて振りむいた先の砂浜には、裸足の少年がいた。砂浜を燃やしたかのように赤い髪、空を映したかのように青い眼。嫌になるほど見飽きた姿がそこにあった。細めた目をいよいよ潰し、鏡ではないことを確認する。隣にいるはずが、すっかり消失したガイナンの気配に気づき、少年の正体を理解する。夜中の悪夢どころか、白昼夢まで見るほどに堕ちたか。ドラッグには手をつけたこともあるが、正常をいくらか残しておくためにも、そろそろ薬の処方が必要なのかもしれない。
「俺も焼きが回ったな」
 少年は不機嫌な顔で俺を見据え、輝くばかりの海を背に両手を広げた。
『こんな子供だましの玩具なんかいらない。仮想空間や深層意識にあるものだって意味ねえし。本物が欲しいんだよ。感じられる以上の証明を!』
 少年は言った。人口太陽からの照射で影を落とした顔の中、両眼の青が水面のようにきらめいている。あまりにまっすぐな光ほど滑稽なものはない。一直線で障害のないものほど、一度でも真っ二つに折れてしまえば二度と元に戻れず、壁にぶち当たるたび屈折してゆく生き方をする。
『いつか、サクラと一緒に本物の海を見に行くんだ。アルベドとニグレドとシトリンも連れて。きっと楽しい旅行になるぞ』
 少年は笑った。いとも簡単な決意だろう。浅はかな希望に満ち溢れた絶望の欠片も知らない顔で、薄っぺらな言葉を並べて満足する、その愚かさ。自分に言いきかせて奮起する意味があったとしても、軽々と口にして良い内容ではない。その言葉が周囲にどれだけ影響を及ぼすのか、その言葉の裏にひそむ誰の苦痛も知らず、責任もとれない奴が言うべきじゃあない。
 人生ってのは、誰もが演じなけりゃならん道化芝居だと知っているか? 人類が最後にかかる最も重大な病が希望だということも? おい、もう読んだろうが。へらへら笑ってんじゃねえよ! 
 真空よりも冷えた感情が脳天から落下してくる。先刻までの穏やかな気分が一気にふっ飛ぶ。凍てついた海底がせりあがる。おまえはいつもそうだよな、ルベド。現実を見ろ。希望なんて馬鹿げたもの、一体どこに転がっている? 浜辺の砂をひと粒ずつかき分けても、水平線の彼方まで泳いでも、そんなものはありゃしねえ。第一、盲目のおまえじゃ探せもしねえ。そんな小さな掌で、何か掴めるとでも思ってるのかよ、笑い種だな。〝いつか〟だとか〝きっと〟だとか、おまえがそれを口にしている限り、そんな不確かで曖昧なものが形を成すことなんてあり得ない。それでも存在するためには、自己の周囲に永続する現実が必要なんだよ。
『サクラの病気を治して、ウ・ドゥ消滅の任務を完遂したら、使命を終える日が来たら―』
「そんな日、絶対に来ねえよ」
 例え来たとしても、それは同時に死を意味する。何にしろ、先はない。
 必要以上の低音が少年の陽気な声を遮り、笑顔のままの口元を強張らせた。張りついた笑みはすぐに消えず、辛うじて発せられた無意味な母音の群れはどれも掠れていた。揺らぐ眼差しに、真新しい困惑と密かな怯えが渦巻いている。
「それくらい、わかってるだろ」
 さらに被せれば、少年の戸惑いが宙を泳ぐ。きつく結んだ唇の口内で奥歯を噛みしめている。少年は俺を渾身の目で睨みつけた。『それでも、海に連れて行く』と咬みついてくる。
 最初から無理なんだ。諦めるも何も、夢を見ることからして不相応だ。リーダーとしての重責にも、兄としての重圧にも、到底、耐えられる器ではなかった。標準体の見解どおり、俺は力を持て余すだけの化け物だ。ネピリムの歌声に証明されたろう。それなのに、
 ルベドは素敵な男の子だよ。兵器なんかじゃない。
 そう言ってくれた君に嫌われるのが怖くて、横たわる現実を回避したかった。どうしても認めたくなかった。ガキの俺たちが施設の外に出られるとすれば、それは戦争が起こるときだと知っていたのに―U.R.T.V.部隊が戦場に投下されても回収してくれる見込みはないと、働きに応じて最終的な処分を再検討してくれるような連中でもないと、どのみち外界で俺たちを待つものは死という結末以外にないのだと、それは最初から確定された未来であり、決して変わることはないだろう、と。
 少年は口を噤んだ。足元の砂が鳴った。無念を隠しきれない双眸で俺という現実を憎々しげに睨む。それを他人事のように冷笑する。少年は右頬に手をあてた。三つの赤い数字が並ぶ掌で、体温に縋るように右頬を撫でた。
『俺、サクラと約束したんだ』
 頬にあてた手を握りしめ、少年は悲痛に歪んだ顔を重力に任せた。音もなく、糸のような滴をいくつか零してから顔をあげたときには、青い太陽の下にある海のように溢れた涙は、目の中に表面張力で溜まっていた。
 あのね、ルベド。ひとつお願いがあるんだけど―。
 君の声を思いおこすと、懐かしい一軒家が波打ち際の草原に浮かんでいた。揺らめく波はライ麦のざわめきとなり、夏模様の青空がにじむように変色する。白亜の壁は夕映えの西空を反照していた。玄関ポーチへと緩やかな稜線を描く腰折れ屋根、北米ニューネザーランド様式のポーチとつながったテラスに二人がけの白いブランコがある。浜辺にいたはずの少年は、オペラの場面変換でも観るかのように、瞬きをした次の景色でブランコに座っていた。夕暮れの眩耀から隠れるように目を背け、かい膝に睫毛を埋めている。少年の隣には亜麻色の髪をした少女の姿があった。白いワンピースの裾を左の薬指で弄る、その癖を知っているは俺だけなのだろうか、と時々思うことがある。
 もうすぐ妹が生まれるの。
 と、少女は言った。君と初めて家族の話をしたときの思い出、海面に浮かぶ過去の残像―行きすぎた追懐は、錆びたナイフの惨さで胸を抉る。俺は亡霊のように浜辺に立ちつくし、一切の熱を失った砂上から二人を眺めている。陽射しも一条すら届かない。代わりに斜陽の眩さと頬の火照りを感じている。
 ママから産まれるんじゃなくて、ちょっと違う感じの妹なんだけど。
 少女の言葉に少年の睫毛が震え、影でくすんだ蒼い双眸が続く言葉に警戒しながら持ちあげられた。〝ちょっと違う感じの妹〟という表現に思いあわせることがあった。〝妹〟という表現を用いる直前、君はこう言ったな―『パパも、治療の研究をしてくれているみたい。とても人間に近いレアリエンをつくって、私の感覚を常にインターリンクできるようにするんだって。それが成功すれば、もうママを悲しませずに済むんだ』と。
 〝とても人間に近いレアリエン〟を製造する目的が、インターリンクした君の感覚を現実世界に表出させることならば、そのレアリエンはつまり君に似せたレアリエンだ。そして〝ママから生まれるんじゃなくて、ちょっと違う感じの妹〟―母親の胎を通して誕生しない生命体は今では多種多様に存在するが、君の前言から妹とやらが〝とても人間に近いレアリエン〟であることは容易に推測できた。その妹は、母親から生まれてくる人間ではなく父親の手によってつくられる、君と瓜二つのレアリエンなのだろう。父親の手で遺伝子操作され、〝傷ひとつない染色体を持つ健康な卵子〟としてしか母親を知らないU.R.T.V.と、同じような。
 それを君は家族として認めてくれるのか。妹、だと言ってくれるのか。いや、もしかすると君だって最初は〝とても人間に近いレアリエン〟を、その言葉どおりに解釈していたのかもしれない。それを落ちこんだルベドのために思い直し、言い換えてくれたのだとすれば、君の死が〝妹〟という言葉に感化された結果の重みに気づいた未来への選択だとしたら、
 その妹とママを、私の代わりに守ってほしいの。
 あの約束は君の決意だったのだろうか、と今でも思う。あまりの悲喜に気が狂う。惚けたように、いいよ、と答えた、当時のルベドの気持ちを君が知ることはないのだろう。
 おまえの妹なら、俺の妹だと思って面倒見るよ。
 単純に言えば嬉しかった。これほど純粋で清浄で潔白な、心底から泉のように湧きだしては大地を潤してゆく感情は初めてだった。これ以上の喜びがあるだろうか。汚濁した泥沼にある一点の至純だ。あまりに慣れない感情で、他の機能が一時的に停止した上、細胞一つ一つが生死を繰り返すように痛み、苦しさに心臓がおかしな動きをしていた。
 ルベドは君の家族に憧れていてね。君のために心身を削るほど愛情に狂ったパパとママが羨ましかった。最愛の二人がいながら、君はいまだ見ぬレアリエンにも家族と同列の愛情を示した。彼女においては人間ではなくとも同等のそれを得ることが可能である、という望みが開かれた。君はルベドを救ってくれた。
 その君が、妹とママを守ってほしいと言う。他の誰でもない、ルベドに守ってほしいと託してくれている。箱庭よりも狭量なルベドの世界を、まさに根本から覆すほどの価値観だった。人として扱われたい、人として振る舞いたいと渇望していた兵器に、君は生きる意味を与えてくれた。任務を遂行し、使命をまっとうして人生を終えるU.R.T.V.ではなく、ルベド個人を必要としてくれた。人としての役割を求める存在価値を認めてくれた。
 もちろん、二人の弟もルベドを個人として認識してくれていたし、ルベド自身も弟たちに対してそうあったが、俺たちは言ってしまえば同種、同類だ。アルベドのように過度の執着や狂気めいた暴力に訴えなければ、ほとんどの接触は救済ではなく単なる慰めにしかならない。
 今にして思えば、出会った瞬間から君は特別だった。研究施設に大勢の人間がいても、俺たちを人間扱いしてくれる者は君とユリさんが初めてだったし、ルベドの固有波長が、君の欠損部分を埋めあわせられることに誇りと充足を感じた。U.R.T.V.の波動ではなく、ルベド固有の波長が初めて君を見つけられたこと―それがU.R.T.V.の能力とは比べものにならないほど特別な力のように思えた。恥ずかしい話、運命とやらも信じてみたくなったよ。足元の沼地を見ていた低世界が、君のおかげで宇宙になった。阻害されていたことも忘れてしまえる壁の崩壊は、どこまでも行けるのだとルベドの心を解放し、まるで永遠さえ叶えられそうな気にさえした。
 少女が微笑む。ちかちかと光を放つ睫毛の奥、極上の眼と唇で、約束だよ、と。
 生まれ落ちた重圧など、翼でも生えて飛んでいったのではないか。少年の体は二人で座っていたブランコから今にも浮きあがりそうなほど軽くなる。肉も骨も血液も細胞も綿毛のようになる。心臓が、破裂しそう。
 任せとけ、と笑ってみせた。すうっと触れて離れた君の体温、頬に残る意味―兵器だろうと子供だろうと、キスくらいは知っている。知ってはいたが、自分が体験する側になるなど想像できるはずもない。キスなんてものは童話の中だけの魔法だと、愛とやらを分かちあえる人間同士の特権だろうと、そう思っていた。
 心臓が早鐘を打つどころか、居場所を見失ったかのように全身を駆け巡り、代わりに体中の血液が頬に集中してしまい、火傷のような熱と眩暈を感じた。あんな気持ちは、ただ一度きり、最初で最後だと思う。あのときが夕暮れで良かったよ。強烈な朱の西日は、暗く哀しい表情を見せることも許してはくれなかったが、真っ赤に火照る情けない顔色も、まばゆいオレンジで隠してくれたのだから。
 頬の温もりは確かな約束の証だ。二人だけの秘密だった。少女は立ちあがり、ころころと鳴る靴音をポーチに響かせ、その細腕で少々重いドアを開ける。ドアにとりつけられたベルが鳴りおわる前に、笑顔で振りむく。
 おやすみ、ルベド。
 また明日ね、と手を振りながら次をつないでくれる姿に、少年は呆けた顔で何とか自分も手を振り返した。閉じた扉を見つめたまま、何も考えられないほど幸福で、眠りについた太陽の反対側から、闇を背負う月が迫っていることにも気づかなかった。
『約束したから、守らなきゃ』
 ブランコが軋む。頼りなげに揺れるブランコから飛びおりた少年は、じりじりと夏日の照る砂浜に足を着いた。満月はどこへ消えたのか、空には人工太陽が光を増し照っている。ブランコもない。少女の家は光の波間に消え、寄せ返す波が少年の足元の砂を掬いとっては、それらを同じ場所に積み重ねていた。
『俺がちゃんと約束を守れば、サクラは笑ってくれる。病気を治して、本物の海にだって行ける日がくる』
「よく考えろよ」
 逃げ場のない明るい浜辺で、俺は少年を睨めつけた「その約束の意味を考えろ」
 陽射しが俺たちを苛む。砂をかくように踏みだせば、少年は同じ歩幅だけ後ずさった。ネピリムの歌声で、犯した過ちとウ・ドゥの脅威に怯えていた自分を見ているようで気分が悪い。浜辺の乾いた部分に唾を吐き、砂を食べたような感覚を捨てる。
 ルベドは未来への恐怖を知らない。今、おまえが見ている男は未来の自分だ。そして、俺が見ているガキは過去の自分だ。どうしても、俺はどうしても、おまえを赦せない。こうして乖離させてしまうほど、過去の自分を嫌悪している。
 子供の俺は、君を支える立場でありながら、人間性を求める自分のことで精一杯だった。君の優しさに包まれるばかりで、約束に含まれた違和感に気づくことができなかった。それを聞き逃さずに問い質していれば、あの日の君を傷つけたとしても、何か変わっていたかもしれない。最悪の事態を回避するための数ある岐路の一つであったかもしれない。
 砂上に尻餅をついた少年が、まるでウ・ドゥでも見るような目で俺を見ていた。砂場についた両肘は、小刻みに震えている。蜘蛛の足のように突きささる五指の間を、滑らかな波がすり抜けてゆく。
「なあ、ルベド」忌々しい名を呼び、覇気のない眼をしている自分の姿を見下ろした。ひどい顔だな。鏡に映る俺は、親父のような面持ちをして口を開く。
「その未来の約束の中に、どうしてサクラが入っていない?」
 表面上は中枢神経系の器質障害、君の病名は『U.M.N.の共時性に対する感受性過敏』―真実は違うよな。君は自分の病気の正体を、誰よりもよく理解していた。特殊な子供をカウンセリング・モジュール代わりにしたころで治るようなものではないと知っていた。考えてみれば、当然の事実だろう。かのヨアキム・ミズラヒ博士でさえ、レアリエンという媒体を介してのコミュニケーション方法しか見出せなかった難病だ。よく考えればわかること、それを誰も考えなかった。閉鎖された空間で黙々と研究を継続するだけの連中と、連中に思考停止を叩きこまれた俺たち兵器、揃いも揃って人間以下の木偶だった。
 そもそも、君の症状は病気と定義できるものなのか、その時点で不可解なものだ。どこまでも謎めいていて、不気味で、底知れない孤独のように怖ろしい。そうした意味では、君の病気とウ・ドゥの存在は似ているのかもしれない。君の世界へ行くたび、俺は何者かに観察されているような、もしくは見守られているような、視線とは異なる妙な感覚を覚えていた。病気などという機能障害の状態ではない。そこには明らかな意思があった。
 ルベドは愚かにも、自分が君の役に立っていると思いこんでいたよ。君のため、ユリさんのため、親父のため、世界のため、俺たちは必要とされていると、そう信じていたかった部分もある。治療にかこつけて不謹慎だと思いつつ、君との接点を失いたくなかった。ルベドが浅はかな思いを抱いている間、U.M.N.の共時性―つまり、時間の矛盾を敏感に感じとる君は、未来でのサクラ・ミズラヒの不在をどこかで予知していたのかもしれない。
「おまえが病気を治せるのなら、サクラはママに会えるはずだろ」
 ルベドに頼まずとも、君自身がユリさんの傍にいられたはずだろう。問題があるとすれば、君が自分の体で障害なく生活を送れた場合、生まれてくる〝妹〟は妹として機能しなくなることだ。レアリエンとインターリンクを行うことは、生身の体に機械を埋めこみデータを送受信するか、もしくは君が仮想世界へダイブ経由でレアリエンにアクセスし、そこにある体を操作する必要性があるということだ。どちらにしろ、インターリンクされるレアリエン側の意思は無視される。妹ではなく単なるアバターとして機能する。
 なあ、サクラ。生まれてくるレアリエンを妹と呼べる、そんな君のことだから、妹の体を奪ってまで自分が生きることを君は望んでいなかったのか。あの頃から、君はずっと自分の物語を終わらせる方法を練っていたんじゃないか。行こうと思えばどこにでも行ける君は、最初から誰の助けも待ち望んでいなかったのかな。
 今となっては、もう真実を知ることなどできない。だが、あの約束にこめられた君の思いは、当時のルベドが考えていたものよりはるかに重いものだということはわかる。少なくとも、君の言葉は単なる慰めなどではなかった。あのキスも、あの瞬間の淡い好意だけではなかったと思いたい。
「妹が生まれたときには自分がいないことを、サクラは知っていた。その選択を約束にして受けいれた」
 ろうそくの炎のように灯された決意を、俺は見逃した。想像を絶する君の孤独に、俺は寄りそうことができなかった。君はきたるべき未来に向けて着実に準備していた。賢明な君だからこそ、
「もういない自分の代わりに、大事な家族を守ってほしかったんだ」
 自分が死んだあとも、ルベドに生きろという約束を残して、死を選んだ。
 喉で震える声は、波音に落ちて消えた。沈黙が海の音を食べ、俺と少年の間に横たわる。動悸が激しくなり、冷たい汗が背中を流れた。焼けるような砂浜の熱を感じないが、照り返す白は目に痛い。痛い。心臓に刺さったものが、いつまでも抜けやしない。
『自分のことは守らなくてもいいって? 約束を果たすまで俺に死ぬなって?』
 ほとんど涙声で、少年が呟いた。『残酷だな、その言葉でじゅうぶん、死ねるじゃねえか』
 突っ張った両腕が骨を失くしたように脱力し、支えのなくなった上半身が湿った砂浜に沈んだ。白く細かな砂は毛布のように柔らかで、仰向けに四肢を投げだした少年を包みこでいる。眠っているようにも見えたが、目の縁は再び溢れんばかりの涙を生み、群青が二つの小さな海に浮かんでいた。わなわなと震える唇の震動で小さな海も波立つ。胸中はとうに限界を超えていた。
『サクラの中に、俺と一緒に生きたいと思う気持ちは、ちっともなかったのかな? 俺の存在は、俺の気持ちは、サクラの生きる意味になれなかった?』
 少年が喘ぐと、ついに瞳が涙を手離した。ぼろぼろとはがれる涙は水というより氷のようで、濡れた砂浜に吸いこまれていった。声もなく静かに頬を転がる少年の涙を、俺はじっとりとした気分で見つめた。
 君の孤独を掘りおこせば、この海より深く続いたことだろう。俺が何か一つでも事に気づいていたら、今ここに君がいたかもしれない。君が抱える孤独や恐怖を少しでもとり除けたかもしれない。異なる未来があったかもしれないと、そう思うのは俺の傲慢だろうが、なりふり構わず君との未来を願っていた俺は、自分を客観的に捉えた可能性を模索する術など持ちあわせていない。
 第二派によって魚のように打ちあげられた第一波が、少年の体を頭からのみこんだ。のた打ち回る波は俺の足元まで寄せてくる。それが幾許かの砂をひき連れて海まで戻ると、波に埋もれていた少年が露になった。全身ずぶ濡れになっていたが、息ひとつ乱していない。てらてらと光沢を放つ赤毛が額にべったり張りついている。波にのまれる前と変わらず、砂浜に半分ほど埋もれ、涙なのか鼻水なのか海水なのかわからなくなったものを顔面の窪みに溜めていた。死んだ魚のような眼が俺を見つめている。
『Jr.』少年が俺の名を呼んだ。再び寄せた波に少年の頭部が沈む。すべてを奪いさってゆくように波は蠢き、一番高い鼻先から俺に向けられた足の爪先まで、少年の体を白い泡沫で覆い隠した。やがて泡は少年の凹凸を押し潰し、何の変哲もない平らな波間になる。
『俺はどうすればよかったんだ』
 泡立つ波底から、妙な具合に歪んだ声が響いて割れた。困惑ではない、絶望に沈む声音だった。恨みがましい泣き顔が、白んだ泡の隙間に見えた気がした。
 白波が後ずさると、緩やかに這い進んだ波の跡に少年の姿はなかった。そこには濡れた砂浜があるだけで、ガラスに似た破片が地面から半分だけ顔を覗かせていた。新しい波が地面を撫ぜてゆくと、最初から何もなかったかのように一点の傷もない砂地になる。
 少年の問いに、俺は何も答えられなかった。


 白昼夢が消えた海を、細めた目で見つめる。心臓はやけに落ちつき、全身を流れる血が氷点下のように冷たい。まるで波音のほうが自分の心臓のように思える。そうした一体感は心地良くもあったが、薄っすらと自失する感覚に寒気もした。
「寒いな」と身震いしたのは、内部の寒気のせいではない。
「見てやあ、夏でも冬でも一発転換や!」
 俺のコートを羽織ったままのメリィが、桟橋の上でリモコンのようなものを振り回している。肌に触れる空気がひんやりと冷たい。夏の青空から一転、灰色の分厚い雲が頭上に寄り集まっていた。渦巻く雲から綿毛のような白い粒が、ほろりと舞いおちてくる。
「雪、か」
 隣で同じように空を仰いでいたガイナンが、掌に乗ったひとひらを眺めて呟いた。口から零れた吐息はかすかに曇り、それは俺の眼前を横切りながら霧散した。海面は人工太陽を反射して輝いているが、ビーチ一帯のみに集中して雪が降っている。道路を挟んだ市街地は晴天の陽気に守られているため、一種の蜃気楼のようにも見えた。肌寒い背中から生ぬるい風が吹きこんでくる奇妙な心地だ。薄着でも大して問題ないだろう。
 メリィが持つリモコンと降雪とを照らしあわせ、合点がいく。「珍しいな、俺の意見を反映させるなんて」
「局所的な天候操作は、ビーチ以外でも活用する機会がありそうだからな」
 完成度は上々なのだろう、満足気な表情でガイナンが答えた。コロニーの気象システムにアクセスしているのだろうから慎重さも必要だが、いずれ観光地区の企業や自然研施設に導入できるかもしれない。
 灰色の雲に太陽が遮られると、光を反射しない海面はタールのような油状にたゆたい、どこまでも切れ目のない薄闇のごとき不気味な様相を呈していた。優しく抱きこんだまま、緩やかに呼吸を奪う不可視の怪物のようにも思える。
「気にいらないか?」
 雪とともに舞いおちてきたガイナンの声に不意をつかれ、間の抜けた悲鳴が口から零れそうになる。それを寸前で堪え、「ああ、いや、別に」と極めて不得要領な返事をしてから気恥ずかしさに頭をかく。「寒いだけさ」そうつけ足したものの、質問の主語は図りかねた。ビーチの出来を指しているのか、天候を操作する装置について許可を得たかったのか。この男に気を遣うなというのが土台無理な話ではあるが、単なる機嫌とりなら気に食わない。何より、粉雪が舞う今の冬景色について訊いたとすれば、悪いが肯定できない。
 冬の海は嫌いだ。十四年前、君の内で見た冬の世界も灰色の空だった。