親愛なる君へ 4


Timeline: PS/DS EP2, in Sakura's subconscious domain




 その日、君のもとへダイブした俺たちの目に映ったものは、白以外の色を失った世界だった。雪は音もなく降りつもり、静寂の空間を埋めてゆく。遠く青いヒースが群生していた荒野を越えた丘では、並列する巨大な風車が寒々しく回転していた。普段は鬱蒼とした森も、今は雪化粧で不気味さを和らげられ、脱穀を終えたライ麦畑にいたっては、すっかり純白の下敷きになっている。畑と道の境界も判別できない。柔らかな羽毛の上を歩いているような感覚に戸惑いながら、俺たちは怖々と歩みを進めた。
 これが雪なの? 真っ白でつまんないな。
 踊るように輪を描いていたアルベドが、拍子抜けした声で言った。踏み潰された雪の足跡は黒い土で汚れ、ところどころライ麦の種子が混じっている。蹂躙された純白を眺めおろし、自然の美も呆気ないものだと思った。
 ニグレドは白い吐息で両手を温めながら、ぼんやりと灰色の空を見上げていた。夏の頃は天高く飛翔していた鳥を、今は一羽も見かけない。季節は寂寞として、あらゆる運動を拒絶しているかのようだった。
 アルベドは雪が非常に脆くデリケートなものであることを認識したらしく、自分の前髪に付着した雪のひとひらを砕かぬよう慎重に掬いとり、掌の上で丹念に観察していた。
 よく見るとつくりものみたい。本物の花よりずっときれいだね。
 新たな発見に少々興奮しながら、アルベドは精巧な結晶が溶けきる前に掌のそれを開き、ほら見て、と感嘆の声を漏らした。
 一つも欠点がないよ。溶けさえしなけりゃ、どこもかしこも正確なんだ。
 雪の結晶は、六角形を基本とした六花状の結晶構造をしている。結晶の中心から伸びた六本の枝の葉が均等に成長したシンメトリーは確かに美しく極めて完璧に近いかもしれない。それでも、当時の俺は初めて目にする雪も、その結晶の精巧さも、正直いってどうでも良かった。アルベドには悪いが、君のことしか頭になかったよ。どのような言葉をかけようか、どうしたら笑ってくれるかな。弟たちに冷やかされず、ごくごく自然に君の手を握るため、俺はどうすれば良い? ああ、もっと詩集を読んでおくべきだった。もっとも、俺がヴェルレーヌやランボー、マラルメ辺りの象徴派を口にしてもさまにはならないだろうが。
 であるからして、俺は雪景色の鑑賞もそこそこに君の家を目指した。ポーチの階段を駆けあがったとたん、屋根に積もった雪が滑りおちて弟たちを下敷きにしても、二人の非難の声に気づかないほど心は弾んでいた。至極単純に、君と会える、それだけで。
 はやる心を落ちつかせ、玄関ドアの前で笑顔の準備をする。二度のノックを合図に開いたドアから顔を覗かせた君は、外の冷気に頬を赤く染め、白い息を吐きながら、いつものように俺の名を呼んでくれた。君の微笑みに、いよいよ気分は高揚する。今日という日を何度シミュレートしたことか。ようやくこの日が来た! 俺は早くも歓喜に震えていた。今日のミッションを無事に成功させたとき、ついに君は自分でママと話ができるようになると、親父から聞かされていたのだ。俺の働き次第で君の未来が拓けるのならば、文字通り身を粉にしたって構わない。ここ数日と昨夜は興奮で眠れず、黙々と波動のイメージトレーニングに励んでいた。
 失敗なんてあり得ない。成功のための演習で消費される日々を過ごしたのだから。成功以外の結果は許されないし、あり得てはならない。君が目覚めた現実世界、その未来だけが存在すべきだ。だって、俺の宿命が兵器としての使命のまっとうだとすれば、君の内にひそむ悪意のような敵を退治するのは、定められた成功ってもんだろ?
 ミッションを達成したあとの想像まで膨らませ、意気揚々とする俺を見つめる君は、対照的に浮かない顔をしていた。雨に濡れた蕾のように咲くことを躊躇うような、暗渠を這う迷子のもぐらの戸惑いのような、地底に落ちこんだ深緑の双眸で君は俺を見つめていた。先日、ほろ苦いタンポポ茶を淹れるときに注がれ、果物たっぷりのトライフルと一緒に差しだされた微笑みが、今日は一向に見受けられない。どうかしたのか、具合でも悪いのか、と尋ねても君は首を横に振るだけで、俺は理由がわからず狼狽した。そして、改めて君の白いワンピース姿を上から下まで眺めおろし、ああそうか、と胸中で納得した。
 雪だもの、寒いよな。
 外気に晒された君の細い手足は、青白く寒々しい。それが少々性的な色に見え、俺はいけないものを見ている気分になり慌てて目を逸らした。
 待ってろ、いつもの青い上着をとってくるよ。ああ、もう郵便ポストは覗いたか? ユリさんお手製のミトンがあったろ。そうだ、山葡萄の蔓で編んだバスケットは? あれにキャンベルズのスープ缶でも入れてさ―。
 ルベド、待って!
 普段のように部屋に入ろうとした俺の右手をひしと捕らえ、いいの、と君は三度も繰り返した。なぜか引きとめられたこと、きつく手を握られたことに俺はひどく驚いた。雪から這いだしたアルベドとニグレドも、君の様子に目を丸くしていた。ありがとう、大丈夫だから。寒さのせいか、震えた声で君は言った。
 ちっとも寒くない。ごめんね、何でもないの……。
 何でもない、と痛々しく微笑む君を不思議に思いつつ、俺は君の手を引いた。結局、青い花柄ボタンの上着も、手編みのミトンも、山葡萄の蔓で編んだバスケットも、キッチンの戸棚にあるスープ缶や紅茶の葉も、何も持たずに出発した。白い薄手のワンピースにお気にいりの赤い木靴を履いた君は、襟首のうしろで結んだリボンを揺らしながら、からりと鳴る腕輪をはめた手で、俺の手を握り返してくれている。よくよく考えれば、気楽なピクニックではないのだし、仮想空間の海まで直行するだけの行程なのだから、必要なものなど使いなれた銃と換えの弾くらいで構わない。
 容赦もなくなってきた降雪の中、俺たちは南の丘を越えたところにある海へ向かった。どこもかしこも真っ白なので、西の森と東の荒地、丘にそびえる小枝のような風車を目印に道なき道を進む。制服の一部でもある膝下まで覆われた靴は今回に限りありがたかった。君の赤い靴が踏みだすたび雪に埋もれてしまうので、俺は自分の足跡をなぞるよう提案した。
 白い地面を踏みしめると、雪は鳥のように鳴く。慣れない歩行は普段より体力を消費した。精神の高揚でいくらか緩和されてはいたが、この冷えこみも芯に堪える。全員の頭が粉砂糖をまぶしたヴィーニュのように白くなり、自然と口数も減少していった。
 そうしたせいもあったのだと、言いわけがましく述べてみようか。何にしろ、事実として俺は君と歩く速度も合わせず、凍えてかじかむ君の背中に気づくこともできなかった。俺はろくでなしだ、木偶だ、大馬鹿だ―映像データの編集時に都合の良い場面まで巻き戻すように、タイムマシーンなんつう古典的な船で移動するように、くだらない奇跡を期待できた頃の自分に反吐がでる。ぶん殴って殺しても、まだ足りねえ。記憶の中の俺は、何も知らずにへらへら笑うんだ―この日を境に、もう二度と君と会えなくなることも知らずにさ。
 生物の気配すらない時間を凍結した銀世界で、四人の足跡は雪の下に消えていった。小さな歯車のようであった風車も、今や俺たちの身長をとうに上回り、ごうん、ごうん、と回転の威圧を唸らせている。荒野に群生するヒースの低木が、辛うじて天井の雪を持ちあげていた。完全な静粛だ。空気すら呼吸をしていない。
 やがて、潮の匂いがした。丘をくだれば海がある証拠だ、と俺たちは先を急いだ。ところが、丘の中央にある風車の真下で、君は後ずさるように立ちどまった。強く握った手を後方に引っ張られ、どうしたことかと即座に振り返る。君は両手で俺の右手を掴み、か細い声で呪文のように、いや、と否定を唱えた。亜麻色の髪から覗く顔色は蒼白で、小刻みの震えが掌から伝わった。
 ごめんなさい……私、行けない……ルベド、わたしは行けないの。
 晩夏の頃、前段階のミッション時もこの丘までは到着できたが、ここで正体不明の波動に襲われた標準体が、ウ・ドゥ・シミュレーター内でもないのに汚染されてしまい、結果的に三人の仲間を失った(正確にいえば、汚染された彼らを、俺たち変異体が〝処分〟の名分を借り射殺した)。言うまでもなくミッションは失敗だった。原因の除去どころか状況さえまともに把握できず、こちらが損害を被っての強制終了。汚染された三人の遺体は解剖に回されたらしいが、俺たちU.R.T.V.に結果は公開されなかった。
 その日のミッションでも波動の強襲を警戒していたが、今のところ気配はない。でたらめなブリーフィングを受けた程度で肝心の正体は不明のまま、親父が俺たちに一体何を期待し、どのような結果を待ちわびて派兵したのか、血はつながっていても本意を推し量ることは難しい。だが約一年間、君の世界を訪問していた俺の見解からすると、君が〝主〟である世界の内部において、君に悪意をもち、なおかつ危害を加えようとする存在がいるとは思えない。その点から、君を連れた今回に限り、少なくとも前回のような事態は起こらないのではないか、と推測していた。
 サクラ、今日は何もいない。見ろよ、海は目の前だ。
 怯える君を安心させるべく、可能な限り陽気に笑って丘の向こうを指し示した。つないだ君の手は氷のように冷たく、緊張で汗ばんだ俺の手の熱まで奪っていた。さあ、行こう。努めて朗らかに誘い、ことさら優しく君の手を引く。それでも君は、かぶりを振った。癖のない髪が首に合わせて揺れ、覗いた緑の双眸が謎の不安で満ちていた。
 何でだよ? ほんの少し苛立ちを感じながら、俺は言った。笑顔を貼りつけたまま困惑していた。そこに恐怖など微塵もなく、むしろ君を助けるという根拠のない自信に満ち溢れた状態であるため、予想通りに喜んでくれない君の反応がもどかしかった。俺を見て微笑まないことに落胆し、ひどく焦れた。
 病気を治して、俺と本物の海へ行こう。
 力強く説得した。それは自分の切なる願望でもあった。灰色の空から、まるで君の心を映すかのような白い雪が降りつづけている。雨よりも静謐に冷徹に降りつもり、もはや遠のいた短い夏の青さを消しさってゆく。丘にそびえ立つ風車だけが、真夏と変わることなく時を刻むように回転していた。
 そこは君の内的世界で、見えるものは心象風景。銀色に美しく輝いていても触れた瞬間に溶けてしまう、儚い雪は君の心そのものだ。薄暗い曇天も、冷えこむ気温も、植物を幽閉する氷も、どれもが君の拒絶を反映していた。それなのに、俺はどの現象にも構おうとしなかった。三つの季節を君の世界で浸る内、現実と空想の境界を次第に忘却してゆき、時々ここが現実の宇宙のどこかに存在するのではないか、と混乱するほど、君の世界の移り変わりに慣れてしまっていた。丘の向こうから聞こえる潮騒も、舞いおちる砂糖のような粉雪も、巨大な風車の数々も、ライ麦畑と裏庭の青いバラも―現実世界と同様、因縁によって生じるも常に生滅し、永続しない事物として捉えていた。君の精神とともに流転する現象を、君の背景として映していた。あれだけ近くにいて誰よりも君のことを見つめていたはずなのに、世界という君の心に目を向けてもいなかった。
 ねえ、ルベド―いつかの約束、覚えてる?
 俺の右手を掴んだまま、君は観念したように呟いた。俺を見つめた瑞々しい深緑が、鮮やかな夏の日々を思いおこさせる。ああ、もちろん。誇らしさに胸を張り、俺は堂々と答えた。忘れるわけないだろ、と。そんなことを今なぜ再確認する必要があったのか、そう疑問に思える冷静さを持ちあわせていなかった自分が恨めしい。実際の俺は、それよりも君を安心させる良い方法を思いつき、嬉しそうに話していたろう。
 それにさ―俺、もう一つ約束するよ。
 君の手を強く握り返し、笑ってみせる。料理も裁縫も庭の手入れも器用にこなせる両手が、俺の中にある。君の体温をじゅうぶんに感じられた瞬間は、これが最後となった。
 この海にひそむもの、サクラを苦しめてるものを、俺たちが必ず排除してみせる。だから心配するな。海へ行こう。そうすれば、サクラも―。
 ううん、そんなことはどうでもいいの。
 ママのいる世界で俺たちと一緒に生きられる、そう続ける前に、君の必死な声が重なった。焦燥に駆られた妙に早口な声音は、何者かの気配に怯えていた。そんなことより、私はルベドが……と俺の名を口にしたところで、君は林檎を喉につまらせたように口を噤んだ。アルベドとニグレドも困惑し、雪原の中、この状況に突っ立っている。
 どうでもいい、と君は首を振る。どういうことだ、と俺は首を捻る。君が拒絶する理由に見当がつかない。前回のミッションは、君の治療というよりもU.R.T.V.部隊の対ウ・ドゥ訓練としての意味合いが強かったが、今回は違う。前回の派遣が斥候だとすれば、今回は将軍のいる本隊だ。創造主たる君の眼を借り、俺たちの力で閉塞した世界を拓く。このミッションが成功した場合、君の精神と現実世界を隔てる障害は消滅する。脳の回路網が再び結合することで神経伝達が正常に機能すれば、乖離していた肉体と精神はひとつになれる。俺は人並みの愛情を欲するあまり親父の思想を妄信していた節があり、病気なんてどうでもいい、とでもいうような君の言動に動揺を隠せなかった。
 その君が意を決したように俺の手を振り払い、緑色の目を見開いて後ずさった。怯えた視線は、眼前の俺でなく後方にある存在を見つめていた。純度の高い原色のような恐怖が瞳にありありと浮かび、それ以外の表情は皮膚を透かしたような紫に近い。このまま雪とともに溶けてしまってもおかしくないほど血色の悪い様相をしていた。
 どうした、サクラ。君の恐怖が伝染しかのか、俺も唐突に怖ろしくなり、不安で君の名を呼んだ。なあ、どうしたんだ?
 嫌よ……いや、やめて……だめ、嫌なの!
 まるで誰かに懇願するかのような調子で、君はかぶりを振りながら何度も、できない、と言った。赤い木靴が雪を蹴り、両手が顔を覆い隠した。俺より少しだけ高い君の背が丸まり、凝縮された拒絶は不安という感情を一面に伝達した。俺を含めた兄弟三人の体が硬直した。俺たちの背後から吹きつける生ぬるい風。ぞわりと鳥肌が立つ。風車の動力ではない。瞬間的に全身が逆毛立ち、噴きだした冷や汗が頬を伝った。
 背後にいる。振りむくと、脳天を電流が貫いた。
 これが、サクラの抱く恐怖か!
 喉が鳴る。瞬きも構えも忘れ、凝視した。心臓が金切り声でわなないた。寒さは消えさり、暑いくらいの緊張が体内を走った。眼の奥で散る火花。距離にして七フィート先―海を背にした丘の断崖で、俺たちは君の恐怖と対峙した。
 ルベド、危ない!
 ニグレドの声が飛んだと同時、自分の体が横っ飛びする。君の恐怖は明確な意思を持ち、俺に攻撃という接触を試みたらしい。俺を庇ってくれたニグレドの肩を掠め、再び俺たちを狙う様子が窺えた。目玉でもついているのか、その毒々しい濃厚なピンクの高密度ガスは、内部で絶えず蠢いていた。帯電体のように周囲の空気を萎縮させ、禍々しく着々と肥大してゆく。
 俺の盾になるようにして前にでたニグレドが、異様な対象物から視線を外さぬまま、気をつけて、と警戒を促した。素早く銃を構えたものの、あの異形に対して気休めに配給された銃火器なんぞが通用しないことを、ニグレドは重々理解していた。それを承知していた俺も、体内を走りぬけた戦慄を、舌打ちとして吐きだした。
 ウ・ドゥの欠片だ!
 俺は呻いた。まずい状況だ、という顔でニグレドも頷いた。ウ・ドゥだ、間違いない。シミュレーター内で何度も体感した周波数とは若干の誤差が生じているが、反存在であるU.R.T.V.の直感がウ・ドゥの現出を告げていた。おそらく本体とリンクした端末のようなものだろう。そこへ舞いおちる雪は、発せられるエネルギーに触れることなく消滅していった。靄のようなウ・ドゥの表皮に季節はない。燃えつづける太陽のような恒星でもなく、底なしのブラックホールを体現している。
 どうして、ウ・ドゥが―。
 事態に困惑しているアルベドは、揺らぐ双眸で次にとるべき行動の指示を仰いだが、俺とニグレドはウ・ドゥの第一波を回避したことで、君とアルベドから分断されていた。現時点で俺と君との間には、ウ・ドゥという厄介な脅威が立ち塞がっている。君はウ・ドゥと見つめあうようにして、懸命に何かを祈っていた。
 夏の丘で俺たちを攻撃した波動もこの欠片と酷似していたが、ウ・ドゥだと明確に感じる意思はなかった。波動の威力もシミュレーションと比較すれば微弱なもので、単調で反射的な攻撃を仕掛けてきた。U.R.T.V.に反応したわけではなく、俺たちを君の世界に混入された排除すべき異物として認識していたように思う。それが君の内部にある防衛本能なのか、外部から感染したウィルスなのか、別世界から干渉しているグノーシスの類なのか、この時分の俺には断定できなかった。俺に理解できたことは、ここが君の精神世界であり、そこへ侵入したウ・ドゥの欠片が君の〝恐怖〟を具現化したものだとすれば、反存在の俺たちがウ・ドゥを消滅させることで君の病気は治る、という聞き覚えの知識―それだけだ。だから俺は、こう判断した。
 体内で暴れる自らの波動で、ウ・ドゥなんて跡形もなく消し去ってしまえ。そうすれば、君を連れて本物の海へ行ける!
 脳内が警戒音を鳴らし、全身が宿敵との戦いに血を躍らせた。沸騰する鍋のように腹の底から噴きあがる兵器としての戦闘本能。熱くなる肉体につられ、どうしようもなく精神が高揚する。煮えたぎる力を抑制できない。両目はひりひりと渇き、喉奥から汚いスラングがせりあがる。積年の恨みを晴らすように、必要以上に痛めつけてから残忍な方法でぶっ殺してやりたくなる。正常な呼吸を忘れ、鼻息が荒くなる。認識した敵を破壊したい衝動が全身を駆け巡ると、それでも足りずに体外へと奔出した。
 なぜ、ウ・ドゥという不気味で巨大なものが、閉ざされた君の世界にひそんでいたのか。これが本当に君の恐怖の正体なのか。仮にそうであるとして、ウ・ドゥの目的は何だ? 君の神経伝達を阻害する理由は? そもそもウ・ドゥの意思はどこへ向かう? 君との関係性も不明だ、君は奴の存在を知っていた―そうした一連の疑問を熟考する余裕など、この時点の俺にありはしなかった。生まれる前から刷りこまれてきた自分たちの使命を果たせるのだ。ようやく役立つ日が到来したのだから、それを実行することだけが頭にあった。脳内すべてが破壊的衝動で渦巻き、視界を赤く染めた。自分をコントロールできない。おもしれえ。口元が知らず薄ら笑いに歪む。
 待ってろ、サクラ。こんなもの、俺が即ぶっ倒してやる!
 眼の奥も耳の奥も、心臓まで真っ赤になる。
 ルベド、やめて。その子に触れちゃだめ。私たち、合わせ鏡なのよ。恐怖も、悪意も、反映されるの!
 悲鳴に近い君の叫びは、俺に届くことなく灰色の空へ霧散した。再び攻撃態勢に入ったウ・ドゥの欠片が放った波動を、自分の波動と相殺させることに神経を集中させていたのだ。ニグレドの手を借り、二人で緊急的な連結を完成させる。すでに寒さで手足の感覚がない。ウ・ドゥの欠片を挟んだ向こう側では、顔面蒼白になったアルベドが君にしがみついて震えていた。純白の雪に埋もれてしまいそうなほど、二人とも極端に色が薄い。俺たちの身を案じつつも、ウ・ドゥの欠片を庇うような眼差しで見つめている君の様子に、俺は嫉妬と焦燥に駆られた。
 アルベド、頼む!
 サクラを連れて、目標の海へ行ってくれ! 行く手を阻むウ・ドゥの欠片で身動きがとれない俺は、君の隣にいるアルベドに目で訴えた。幸いなことに二人がいる道は海まで一直線のくだり坂で、俺とニグレドでウ・ドゥの欠片を消滅させる間に避難できる位置だった。アルベド、早く! アルベドを先導させることに賛同したニグレドも叫んだ。アルベド自身の怯えも心配だが、この状況では弱気な弟だろうと託すしかない。
 アルベドは尻ごみしていた。もごもごと動く唇は何を言っているのか読みとれないが、潤んだ紫の双眸は俺と君とを交互に見つめ、嫌だよ、ルベドたちを置いて行けない、と困惑と否定に傾いた返答を物語っていた。君のほうも乗り気ではないことが窺えたが、そうこうしている間にもウ・ドゥの攻撃は継続しているわけで、ちんたら問答している暇などもちろんない。俺の意識も完全に戦闘へと移行していた。
 ここは任せろ、行ってくれ!
 僕たちも、すぐに行くから。
 二人で攻撃をかわしながら、必死に怒鳴る。
 アルベド、おまえしかいないんだ。大丈夫、おまえならできる。とにかく安全な海まで行くんだ―頼むから!
 ほとんど怒号で鞭打つと、怖気を震ってぐずぐずしていたアルベドもようやく奮起して首肯した。行こう、サクラ。アルベドは戸惑う君の手をとり、必ずだよ、と俺たちに言い残して雪原を駆けだした。風車を横切り、緩やかな丘をおりた先には海がある。小さい頃にママが連れて行ってくれたの、と君が話してくれた海という場所は、一体どのようなところなのだろう。ことごとく相殺される波動の衝突に同威力のそれを連投しながら、俺は見たことのない海を思った。
 今でも幾度となく考える。もしも、俺が一度でも別の選択をしていれば、君は本物の海に行けたのだろうか。今でも俺の傍で微笑んでくれていたのだろうか、と。


 結局どのようにウ・ドゥの欠片を消滅させたのか、はっきりと覚えていない。黙々と正しい兵器のように波動を撃ちまくっていたところをニグレドに制止され、そこで初めて奴が消失している事実に気づいた。俺の攻撃は虚しく空を切り、そこら中の風車を倒壊させていた。
 息を切らして浜辺に向かう途中、全身がぞわぞわと粟立っていた。胸騒ぎがする。手足の感覚はないはずなのに、森閑とした雪原が真夏のように暑い。不安に照りつけられながら、雪の結晶がくるくると舞うように眩暈がした。丘を走った。雪が砂になった。冷たい空気に温さが混じった。波音が耳に流れこんだ。鼻をついた潮の匂い。
 初めて目にした海は白かった。どこまでも白くすべてを覆いつくし、まるで初めから何も存在しないかのように世界を変貌させている、白。王たる白の奔流。岩も砂も波も、おそろしいほど白い。あまりの白さに影もない、無のように。希望や愛など肯定的価値を帯びた一切のものが生息する可能性を奪われ、極小にまで切り縮められている。狭く息苦しい。俺は驚愕した。大抵の書物で、海は〝青〟と表現されていたからだ。これでは真っ白な箱の中に無色の水を入れた実験室のようではないか。期待とかけ離れた光景に愕然とした。
 それほど広くない白い入り江で、君とアルベドは寄りそうようにして項垂れていた。他の人影はない。物影もない。真っ白い波が陸まで揚がるたび、無造作に開いたワンピースの裾を撫ぜてゆく。
 るべど、るべど、ああ、るべどぉ。
 振りむいたアルベドが、俺の姿を見るなり号泣した。歯の根が合わず舌も回っていない。滑りおちる大量の涙に削られ、赤く腫れた目尻、アメジストの双眸はどこか焦点がずれている。へたりこんだアルベドは、震える腕で君を抱いていた。狂気に色めくこともあった眼が絶望一色に彩られ、あまつさえ俺を怯えの対象として映している事態に、不安の波が押しよせた。ベルンハルトの『消去』にあるモンティーニュの言葉が浮かぶ。俺はてっきり、自分が死神の鉤爪に掴まれていると思いこんでいたが、それは重大な間違いだったよ。
 最高に嫌な予感がした。
 君の名を呼ぶ声が掠れる。砂浜に広がる白い裳、織物を解いたように散らばった髪。アルベドの膝にくたりと置かれた横顔、貝のように閉じた瞼、投げだされたなよやかな手足―それらすべてが凍りついたように動かない。ニグレドが憐憫をこめた声で、兄の名を呼んだ。アルベドの肩がびくりと竦む。鬱陶しい粉が睫毛にまとわりついた。雪がやむ気配はない。
 ウ、ウ・ドゥが……ウ・ドゥのせいなんだ……僕じゃない……うあああああああああ!
 悲愴に泣き崩れるアルベドの腕の中、君はまるで童話にある眠り姫のようだった。触れるだけのキスで目を覚ましてくれるなら、どんなに良かったことか。ファンタジーってのはつくづく閉塞的で差別と欺瞞と偏見に満ち、魔法ってのはつくづく都合の良い妄想と傲慢の産物で、小説ってのは結局のところ哲学上の真を語らない。君を助ける術を俺に教えてくれたものはない。
 膝を折り、君を抱いた。小さな頭は両腕に重く、俺は君ごと砂底に沈下した。氷上に座したように、ずぶずぶと底なしの闇へ沈んだ。
 葉脈を透かした日だまりのような、あの緑の瞳が見えない。唇の紅が抜けている。骨と大差ない真っ白な頬に触れてみる。石ほども硬い皮膚は、氷のように冷たい。料理と裁縫が得意な手を包みこんでも、握り返してくれない。馬鹿みたいに強く握りしめてみても、君の手を温めることはできない。あまりにもきれいなまま、君は動かない。どうして動かない? これじゃあ、現実世界の君より重症だろう。
 サクラ、とうずくまるようにして君の名を呼ぶ。返事はない。俺は何度も君に話しかけたよ、聞こえたかい。
 なあ、サクラ。
 どうしたんだよ。
 ほら、海が見えるぞ。
 おい、サクラ。
 こんな冗談、やめてくれ。
 悪戯なら、怒るぞ。
 海だぞ、起きろよ。
 サクラ、サクラ。
 お願いだから、笑って。
 君の笑顔、俺に見せてよ。
 どれも返事はなかった。濁声になって獣のように泣き叫んでも無駄だった。君の体を無理やり揺さぶった。冷たい体は重力に逆らえず、枝のように首から折れた。最大の恐怖が俺を襲った。
 怖い。
 怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、これが現実であるはずがない。今起きていることは全部が夢で、目を覚ませば不変の日常があるはずだろ。君が隣にいた事実、あの当たり前が失われるはずがない。そうだろ? 俺の髪のように真っ赤な血など、君の体から一滴も流れていない。こんなにも完璧な形を残して、もう二度と俺に微笑みかけてくれることがないなんて、信じられるわけがない。もしもの話、もしも、の話だ。仮に、これが事実だとして、その場合どうなる。どうなるんだろう? 二人で海に行けなくなる。君が淹れたバラの花弁が浮かぶ紅茶も飲めない。君がいつも焼きすぎてしまうブリヌイも食べられない。庭のアネモネに水をやることも、ブランコを揺らして語らうことも、君とホメーロスの神話を読むことも、春の森での野苺摘みも、夏の生い茂ったライ麦畑で走り回ることも、秋に紅葉したヒースの荒地で眠ることも、屋根裏でのチェスだって、もう一緒にできない。君が弾くショパンも聞けない。鍵盤を弾く君の五指の動きを眺める時間が、俺は好きで、とても好きで、君を好きで……それを二度と眺められないなんてことは、もしもの話だからあり得ない。君がいない世界なんて、俺には耐えられない。いいや、君がいない世界なんてものは、もはや世界じゃない。そんなものは虚構だ、そうだろ。俺、ウ・ドゥに頭をやられたのかも。事実がよくわからない、本当は嘘だよな。だってさ、ここはもう海じゃねえか。目標ポイントに到着してるってわけだろ。ここで俺たちの未来が拓けるはずなんだよ。君を孤独から救いだして、君のママやパパがいる世界に連れて行くんだ。君を助ける、それが俺の役目だから。俺は君のために存在する。それなのに、おかしくねえか、ああ、おかしいよ。なあ、聞いてくれ、ウ・ドゥの欠片は倒したんだよ! この俺がぶっ殺してやったぞ! 雪より細かく砕いて消しさってやったのさ! ははっ、ざまあみろ! ざまあみろだ、くそったれの化物め! なあ、これで病気の原因は排除できたろ? 俺たちは、この手でやりきったぜ! つまりミッションは成功だ、そうだよな? 俺は間違ってない。その任務の報酬について親父が提示したものは、君の〝自由〟だった。それなのに、おかしいじゃねえか。自由を手にした君は笑わない。親父の話は嘘だったのか? いや、これが嘘なんだろ。全部うそだろ。嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だうそだ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だろうそだうそだうそだうそだうそだ嘘だ嘘だうそだ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だろ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だうそだうそだうそだうそだうそだうそだ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だうそうそうそうそうそうそうそうそうそうそうそうそうそうそうそ嘘だ! なあ、何回言ったらもとに戻る? 百回か、教えてくれ。嘘じゃなきゃ、きっと夢だよな。ああ、そうだ、夢だ、夢だ。夢なら覚めろよ! 覚めろ、覚めろ、覚めろ、覚めてくれ、覚めてくれ。なあ、嫌なんだ、嫌だ、嫌だ、いやだ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ、嫌なんだよお、いやだ、信じたくない! いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだよなんでだよ嘘だろやめろよこんな冗談とてもじゃないけど笑えねえ誰かふざけてんのかだってこんなのおかしいじゃねえか何があったんだよサクラはついさっきまで俺の手を握って笑ってたのに昨日は一緒にトライフルをつくって食べたのにバラの水やりはどうすんだよ庭の手入れなんて俺わかんねえよユリさんが待ってるんだ行こうサクラ早く起きろって眠ったふりなんてやめろやめてくれ本当に精神が参るから悪戯にしちゃ趣味悪いぜいい加減にしねえと怒るぞなあってどうしたんだよああそうか疲れたのかそうなんだなごめんな俺が無理に連れだしたから寒かったよな雪やまないもんな今日は特に寒いんだろうやっぱり上着は必要だったスープ缶も手編みのミトンもごめんな俺ちっとも気づいてやれなくてよしそうだもう一度やり直そう今日の初めから迎えに行くよだから家に帰ろう一旦もとに戻ろう紅茶でも飲んでひと息ついて読書でもして裏庭の青いバラの様子をみてから仕切り直しだいいよないいだろ決まりだから目を覚ましてくれよやけに冷てえなあ氷でも食べたのかアルベドより白いぞああそうだ俺また新しい本を読んだよ延々と呪詛みてえな独白が続く書でさあ憂鬱になるよまったく次は冒険活劇にしようかと思うんだ西部劇でもいい映画ならヴィクトリアンにスチームパンクで美女と悪漢が登場して最後は高所でちゃんばらなんておもしろいだろうな一緒に観たいな帰ろうサクラなあサクラ何で返事してくれねえんだよ怒ってるなら謝るよ俺何かしたのかな君のためなら何でもする何か言ってくれウ・ドゥの欠片を倒したよ君のために頑張ったつもりだ君を苦しめる輩は俺が全部ぶっ殺してやるよ必ず守る大切にするさあここは寒いから家に帰ろうなあ重いよサクラ前は羽根のように軽かったのに今どうしてこんなに重いんだ冗談だろそろそろ芝居は終わりにしてくれ不安になるだろアルベドとニグレドも心配してる本当に頼むからふざけてないで起きてくれサクラおいやめろよちくしょう怖いよこんなの嘘だろ怖いよ夢でも嫌だよどうしてだよ何でだよ何があってこうなった今の今までいた君はどこへ行ったどうしたらもとに戻るんだ教えてくれ何か言ってくれ笑ってくれどうしたら目覚めてくれるどうすればいい何を間違ったどこを直せばどこを正せばいいどうしよう何も思い浮かばないどうしようどうしようああでもこれは夢かもしれないだっておかしいだろ冗談だろふざけんなあり得ねえよこんなのってねえよだって俺何も言ってない君に何も返せてない伝えてないことたくさんあってだからこんなことは信じないどうして動かないんだわかんねえよわかんねえどうして何がどうなってる教えてくれ君の言葉で何か言ってじゃなきゃキスしてもいいのかめちゃくちゃにしちまっていいのか俺だって男だぞいつまでも無防備に眠ってたら好きなようにするそれが嫌だってんなら早く起きろよ眠ったふりはもうやめてくれよいつもの悪戯だって笑ってよなあ頼む頼む頼むよちくしょうお願いだちくしょう頭だってさげるから謝るよ俺が何か悪いことしたなら謝るから何度でも謝るから悪いところは直すから助けて助けてくれちくしょう冗談やめろよちくしょうこんなの最低だろうがどう考えても最悪だろうがこれより下なんてないあり得ないなあサクラ嫌いだって言われてもいい軽蔑されてもいい憎まれてもいい百年でも待つ俺のこと忘れてたっていいから笑ってくれ怒ってくれ泣いてくれ動いてくれサクラなあサクラさくらサクラ無視しないでサクラ俺を見てサクラさくらサクラ俺を見てよサクラ好きなんだサクラ誓って君以上はいないサクラ好きだサクラ好きサクラ今から何度そう言えば君に届く? 俺まだ君に好きだって言ってない、ごめんなもありがとうも何ひとつ伝えてねえよ、サクラ、サクラ、君が好きだ、サクラ、サクラ、サクラ、サクラ、ユリさんが悲しむぞ、ユリさんが、俺だって、これからどうすれば、どうしろっていうんだ、信じられない、俺は信じない。サクラ、なあ、返事しろよ!
 頼むよ、誰か、嘘だと言ってくれ!
 世界が歪む。崩れる。雪のひとひらより大きな雫が、君の頬にぼろぼろと雪崩れおちてゆく。じわりとにじんだものが、視界なのか君なのかわからない。両の眼が抉られたように痛む。肺に近い喉奥が炎で焼かれたように熱い。君の顔が見えない。見えないよ。心臓に氷をつめこまれ、圧縮されてゆく。どんどん密度が高くなり、やがて苦しさに鼓動をとめる。自分が全部、空っぽになる。失った空洞から崩壊する。砂の城のように呆気なく波にのまれる。咆哮した。泣き喚きながら、これが自分の声だとは思えなかった。ニグレドに名を呼ばれても、その宥める手を振り払い、俺は吼えた。アルベドは嗚咽を漏らし、砂浜にうずくまって啜り泣いていた。
 サクラ、どうしてだよ……まだ、本物の海、見に行ってないだろ。大好きなママに、愛してるって言うんだろ?
 なあ、どこも傷ついてない、眠ってるんだよな?
 俺は信じねえぞ、絶対に。
 こんな結果は雪がすべて消してくれる。全部まるごと、大地の底に消しさって元通りにしてくれる。
 そうだ! もう一度、真っ白に塗り直そう。
 今日のすべてをなかったことにすればいい。そうしてくれよ。
 君を迎えに行くところから、もう一度やり直すからさ。今度こそ、俺の力で君を助けてみせる。そうして二人で海へ行くんだ。
 頼むよ、神様―今だけ祈る。
 この願いを聞いてくれるなら、あんたの靴だろうと喜んで舐めるぜ、俺。
 今日をもう一度、やり直したいんだ。今、俺の腕の中にいる彼女を助けたい。彼女と一緒に、同じ世界で生きたいんだ。
 ああ、次はもっとうまくやる。
 もう二度と、失敗なんてしない。
 絶対、こんな結果にしない。約束する。
 何を犠牲にしても構わない。
 叶えてくれ。助けてくれ。
 代わりに俺を殺してくれたっていいから!
 絶叫に世界が反響する。君の体が光の膜に包まれ、抱えた君の重さが薄れてゆく。最後の一片であるような君の形を手離したくなくて、何者にも奪われぬよう君を抱きしめる。握っていた君の手が透けはじめ、中心から三つの赤い数字が見えた。君の姿は徐々に薄れてゆき、白い影を失い、ぼろぼろと雪のように舞いちる。蝶のように細かく拡散してゆく。青い蝶だ、真っ青な。白い世界で鮮やかな印象を残す、青。体から分離した光の蝶が数を増すほど、君はどんどん軽くなる。多くの蛍火が俺の視界をくるくる回った。君はもう羽根ほどの重さもない。白いワンピースの裾が分解され、手足の先から蝶になり、首までも砂のように崩れて頭だけが残っている。結ばれた唇がかすかに笑む気がしたが、それを確かめるより早く頬骨まで拡散した。最後の最後に残った両眼も、深緑の二つの光源となる。数億匹の青い蝶に変身した君は、泣き叫んで喘ぐ呼吸に合わせ、俺の体内に飛びこんできた。青い光源は暗闇に灯る優しさで残像となり、彗星のような尾を引いた。目が眩む。幾億の蝶たちを吸収した俺の体も青く光り、心臓の中心で群青の輝きが増した。眩暈より強い頭痛にうずくまる。口内は砂の味がした。大量の砂を吐く。熱い。
 大変だ、サクラの世界が崩壊してる!
 ルベド、ルベドォ!
 遠くからアルベドとニグレドの叫びが聞こえた。スロー再生のように遅鈍で散漫した声が、耳介から脳髄へと到達する。崩壊だって? こんなにも静謐な世界で、弟たちは何を喚いているのだろう、と俺は思った。何しろ、世界は俺の体温でも融かせず完全に凍てつき、解氷のような揺らぎ一つ起こらないのだ。まるでカリエのモザイク画『聖母の氷眠』を思わせるほどに。
 弟たちの手が、俺の体に触れてくる。体内で青い電流が迸った。白い海の背景がどろりと溶けて歪み、君の世界が崩壊しはじめる。頭上から降る雪が、白、赤、青、灰、とちかちか変色してゆく。風車が目で追えないほど高速回転している。遠近感覚を失った景色の中で灰色の海は底の線を抜かれ、水平線へ収縮されてゆく。天地が逆転すると、浜辺から砂が雪のように舞いおちてくる。俺の体は青い蝶となり、分厚い雲を突きぬけ、何もない真っ暗な空に落下した。内臓が宙に浮き、裏返って着地する。目玉が内側に向いたのか、自分の内部が見える。
 そこではアルビノの鼠が、丘の風車に似た歯車のような心臓を懸命に回していた。心臓の中心から垂れ流される血液に青い蝶たちが群がり、うまそうに赤い蜜を吸っていた。それを吸うたび、羽根が青から赤に侵食されてゆく。頭痛がした。脳のほうでも好き勝手に何かが動いているのかもしれない。
 体の自由も利かない。君の感触が消えてしまいそうで怖い。ここにいたい、永遠に。他の何を捨ててもいい―俺の未来も、良ければ命も。目玉の裏側から遠ざかる君の世界に、どうにかして縋りつこうとした。その手は思惑と反対に内側へ伸びてきて、歯車の心臓を荒々しく掴むと、鼠も蝶も一緒くたにして握り潰した。