親愛なる君へ 5


Timeline: EP2, YURIEV Institute




 自分の乱れた呼吸を整える音で目覚める。U.M.N.連結シミュレーション・ルームのダイブポット内にいることを把握する。アルベドとニグレドもポッドの内部で目覚めていた。管制室を見上げると、無表情の親父と軍帽を目深に被り直すヘルマー准将がいた。コントロール・ルームの研究員たちは誰もが無言のまま微動だにしない。普段どおりの殺風景なユーリエフ・インスティテュート内部にいることが確認できた。
 同時刻にダイブしていた標準体たちは、ダイブポッド内で無残にも息絶えていた。口元から大量の泡を吹き、白目を剥いた顔にはすでに死斑が生じている。俺たち変異体とは降下ポイントがずれていたのだと思う。君の世界で彼らの姿は確認できなかった。もしかしたら、と一抹の懸念が浮かんだが、今の俺には同情の気持ちも湧かない。ウ・ドゥの欠片のことを思いだしたのだ。深層意識の薄膜が解けると、見る間に記憶は鮮明になり、襲いくる悪寒を慌てて振り払った。
 内側から手動でポッドを開き、管制室の面子を確認する。ダイブミッション開始前には確かにいたユリさんの姿が見当たらない。やはり、あれは夢かもしれない。俺はすでに潰えた可能性に、それでもしつこく縋っていた。
 No.666、戻れ。
 感情の読めない冷徹な親父の声は、不安を一層かき立てる。氷という表現が誰より似合うアイスブルーの双眸と、ダイブポットから出た隣のアルベドとニグレドとを見比べてみる。放心状態の弟二人は呆然と立ちつくし、俺と目が合うとひどく困惑した表情を見せた。二人は俺が認めようとしない事実にではなく、その事実を認めたあとの俺に対して怯えていた。誰も何も言わない。俺は悪夢のような出来事を否定してくれる言葉を欲していた。
 コントロール・ルームの通信音声の端末電源が入ったことを合図に、研究員たちは慌しく各々の仕事を再開しはじめた。騒がしい声がスピーカーを通してノイズのように、ダイブ・ルーム内でも蔓延した。アナウンス担当の女性は、珍しく第一声をつまらせてから案内しはじめた。
 被検体、サクラ・ミズラヒの死亡に伴い、U.M.N.ダイブミッション・フェーズ7を終了します。以後、新たに構築された仮想空間にてプログラム通り、ウ・ドゥ殲滅を目的とした―。
 今、何て言った? サクラがどうしたって?
 淡々としたアナウンスの〝D〟から始まった単語に耳を疑う。耳など削ぎおとしていれば良かった。アナウンサーは俺のほうに目もくれず、単語の羅列を繰り返した。どういうことだ、親父! 管制室を睨みあげ、俺は叫んだ。眼鏡の奥にある冷ややかな碧眼は、やはり何も答えてくれない。親父の眼を溶かした生ぬるいものが、背中を伝いおちた。
 乾いた笑いが零れる。他人の体に入っているようで、エンセフェロンにいたときよりも現実味がない。俺はネジが外れたように笑った。それから急激な寒気を感じ、勝手に震えだす拳でダイブポッドをあらん限りの力で殴りつけた。ポッドはいとも簡単にひしゃげた。二人の弟は、ますます俺に怯えた。
 俺は信じない。この痛みも、無言の肯定も、自分の記憶に残っているものも信じない、絶対に。
 俺は呼びとめる二人の弟の手を振りきり、ロックされたドアを許可なくぶち壊し、その先にある認証システムも叩きわり、わらわらと伸びてくる研究員たちの手をくぐり抜け、夢中で走った。後方から追ってくる怒号と靴音を自分の脚でぐいぐい突き放しながら、ここにいないユリさんの行方を捜した。心当たりはある。実験棟と隣接する病棟―君の病室だ。そこでユリさんは、普段から君のために本を朗読したり、君の髪を梳いたりしている。今日もそうしているに違いない。そうしているはずさ、と自分に言いきかせた。
 嘘だ、嘘だ、嘘だ!
 呪文のように叫びながら、影すらない真っ白な廊下をひた走った。エレベーターはもどかしく無駄に長い階段を駆けあがり、実験棟の区画を出て空中回廊を一気に渡って病棟を目指した。普段は清掃ドロイドくらいしか使用しない階段が、予想外に長く足元がもたついた。焦る。あがっているのにおりているような感覚で、天井も地面も遠い。全速力で走っているのに冷や汗ばかりが鳥肌から噴きだした。
 君の病室は病棟の最上階にあり、中庭に出られる一階ホールには立派なグランドピアノがある。俺はいつも中庭から、ピアノを弾く君の姿を見つめていた。今、ピアノの音は聞こえない。それなら、君は病室のベッドにいるはずだ。目を閉じていても、それは単に眠っているだけだろう。そうだと思いたい。ユリさんに『いらっしゃい、ルベド』と昨日のように何事もなく笑顔で迎えられたい。階段をあがりきっても、今度は病室まで続く廊下が永遠のように感じられた。
 廊下の突きあたり、普段は閉じた最上階のドアが、今日は大っぴらに開いていた。連続した窓、突出したもののないまっすぐな白い廊下に、数人の研究員が集合している。彼らは窓外に頭を突きだし、そこから真下を覗いていた。真下には中庭があり、そこにいるらしい誰かと何やら呼びかけあっている。普段と違う奇妙な光景だ。
 人だかりの中心には、ユリさんがいた。ひどく憔悴しているようだった。俺は怖々と彼女の名を呼んだ。ユリさんの美しい顔は両手で覆われ、黒いスカートが床に紊乱している。栗色の髪が震えていた。俺が近寄ってもユリさんは顔をあげない。俺に目をとめた研究員たちは一驚し、ほとんどが顔面蒼白で静まり返った。それでも、彼らの目がしきりに窓外を気にしているので、俺は窓の一つから中庭を覗こうとしたが、
 だめよ、ルベド。
 伸ばした首に、ユリさんの優しい呼び声としなやかな両腕が回された。壊れもののように抱きしめられる。体が緊張で硬直してしまう。ユリさんから伝わる温もりが、今はとてつもなく怖かった。俺は先程の弟たちのように、彼女の奥にある真実に怯えていたのだ。
 お願い、どうか見ないで……あなたの中にいるサクラを大事にしてあげてちょうだい。この下に、もう、あの子はいない―。
 ユリさんが今どんな表情をしているのか、彼女の頭は俺の肩に乗せられていて見えない。その代わり、俺の首筋には、ぽたり、ぽたり、と冷たい雫があたっていた。膝を折ったユリさんの体は思った以上に細く、俺の体内からも連動するように彼女と同じものがぶわりと溢れでた。乾いた唇がどうしても震え、君の名を紡ぐことができない。俺はユリさんに何も訊けなかった。言葉の代わりに涙をぼろぼろ零し、みっともなく鼻水を垂らして泣いた。拭う気にもなれなかった。
 ユリさんの吐息がうなじにかかる。
 今までサクラのために、ありがとう、ルベド。
 彼女は透明な涙声で言った。けれども俺は、こんな形で〝ありがとう〟なんて言葉を受けとりたくはなかった。その特別な言葉は、君を孤独な世界から救いだしたときにこそ聞きたかったものだ。礼など言われる資格はない。俺は最後の最後で君を助けられず、ユリさんの願いを叶えられず、つまり約束も果たせなかった。
 本当は、首を伸ばした一瞬、中庭の花壇に転がった君の腕を見ていた。青いスミレの花に埋もれた、あの腕輪は君のものだ。それは事実だ。その腕の先を辿った君の顔と眼を見ることは、ひどく怖ろしい。ユリさんに懇願されずとも、負け犬の俺は、君の最期を直視すること、君の結果を正面から認めることなどできなかったと思う。だって、俺はどうすればいい? 君は俺の、人として生きる意味なんだよ。
 うぅああぁあっ……ごめん、なさ……い、ごめ……うああ……おれっ、おれが、サクラ、たすけられなくて……おれの、せいで―!
 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい! それしか言葉にできず、俺はひたすら謝りつづけた。ユリさんに抱きしめられていると、崩壊してゆく仮想世界で消えてしまった君の体温が甦ったようで、もう苦しい。優しい腕が痛い。
 君に笑われるかもしれないが、謝罪の間、俺の精神は君の世界を一周していた。季節は初夏、夕暮れが近い頃だよ。真っ青な凪の海に寝そべっていた。それから浜辺を裸足で歩き、風車の丘で潮騒を聞き、爽やかな風を浴び、東の荒野に咲くヒースと西の森の鮮やかな緑に挟まれたライ麦畑の小道を行く。揺れる穂は若く、それを抜けると君の家が見える。季節の異なる花が一同に咲き誇る不思議な庭、お気にいりのブランコ。裏庭には秘密の青いバラがある。ベルを鳴らして家に入ると、いつも紅茶の香りがした。リビングの冷蔵庫には、食べかけのスコーンがあったよな。数種類のジャムも揃えてある。階段にかける絵画はその日により変化していて、最後に見た作品はフェルメールの『音楽の稽古』だ。寝室の本棚には、小説よりも童話が多い。屋根裏のバラが芽をだしたばかりで、俺は何色の花が咲くのか楽しみにしていた―何気ない毎日が、そりゃあもう楽しみで。
 ……俺のせいだ、俺のせいだ! 俺のせいで、サクラは―!
 自分を責めないで、ルベド―あなたのせいじゃないのよ、そんなはずないでしょう。とても感謝しているの。あなたは私たち親子にとても良くしてくれたわ。ありがとう。ね、もういいのよ。
 ユリさんは全身で俺をしっかりと抱いてくれる。それはもう温かくて熱くて、これがもう君にないものだと思うと余計に悲しい。こんなにも優しいユリさんが、辛くても笑顔を絶やさないユリさんが、涙を流している。ユリさんの不幸は俺のせいだ。ユリさんの大切な娘は、俺が奪ったも同然だ。俺のせいだ、俺のせいだ、俺のせいだ! 俺は何もできなかった! 全部、全部、俺のせい! ごめんなさい、ユリさん―ごめん、サクラ―ごめんな、ごめんなあ―!
 あなたたちと出会わなければ、サクラはずっと一人ぼっちだったわ。
 ユリさんは俺から体を離し、俺の両肩に手を置くと、美しく微笑んだ。指先で拭った赤い目元が、血の流れる生傷より痛々しく見えた。
 君に頼まれた言葉を伝えるたび、ユリさんは母親の眼差しで俺を見つめてくれた。ユリさんから預かった言葉を今度は君に届ける。すると、君は喜びに手を叩き、満面の笑みを向けてくれた。二人に互いの笑顔を見せたいと思いつつ、それを独り占めしている自分に罪悪感があった。母子の絆には敵わない。そんな日々を、何年も昔のことのように感じた。
 ルベド、と静かな呼び声に顔をあげる。君とよく似たユリさんの微笑みが、涙の水面に浮かんでいた。きれいだと、君に重ねて思う自分が恥ずかしい。
 あなたが伝えてくれた娘の言葉を、私は決して忘れません。
 ユリさんは、もう泣いていなかった。
 本当に、ありがとう。愛してるわ、ルベド。
 〝愛してる〟―そんな至上の言葉など、俺には言われる資格がない。そうとも、愛してる、だなんて。そんな資格はないのに、君に対する愛情を奪ったようなものなのに、それでも俺は愛される喜びを隠すことができない。幸福と悲痛が胸中でない交ぜになり、頭はすっかり空っぽで、俺は人間の子供のようにわんわん泣いた。初めてユリさんを抱きしめ返し、君と同じ匂いに脳が蕩けた。もうだめだった。
 愛してる。
 俺も愛してる、母さん。
 俺は泣いた。声が嗄れてなお咽び泣いた。馬鹿みたいに号泣した。その場にいた研究員は、誰一人として俺を実験棟に連れ戻そうとはせず、君の病室から黙々と荷物を運びだしていた。慟哭は直線の廊下に反響した。
 愛してる。
 ユリさんに抱かれ、ようやく俺は唯一の事実を理解することができた。
 ああ、そうか。
 どこにもいないのだ、とついに認める。実に呆気ない幕切れ。
 瞼の奥で冷たい雪が降りはじめる。あの世界にもう春はこない。夏もない、秋もない、凍てついた冬のまま、もう二度と戻らない。未来はない。
 ああ、そうか。愛する君よ。
 二度と君とは会えない。