親愛なる君へ 6


Timeline: EP2, after meeting Albedo in Local Matter Shift




 真っ暗で、奇妙に静か。何もない。原始の海の表面に、背筋も凍る暗闇が凪いでいる。虚無の波に素数の砂が砕かれる音を聞いた。ここは地獄の門なのか。〝この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ〟と、限りない絶望の準備をする立て札の幻が見えるほどの闇にいる。ダンテの描いた地獄があるとすれば、自己の意識こそが大穴だと今は断言できる。最も重い罪とされる悪行は裏切りで、俺は最下層にあるコキュートスにて氷漬けとなり、延々と後悔しながら孤独を連れて生きつづける。涙も凍る寒さなら歓迎だ。喜びに咽び泣いてこの身を捧げる。二十一世紀のとある作家も死ぬ間際、登場人物のキリシタンに語らせていたじゃないか。地獄はここにある。頭のなか、脳のなかにあるのだ、と。その通りさ、地獄はここにある。頭の中に鬱陶しい虫がいて、罪を犯すたび増殖してゆくその虫たちは、とうの昔に腐りきった頭蓋の内側を這い回る。脳みそを這い回られる気色悪さ。内側を擦られ、抉られ、食われ、じわじわと血がにじみだすように、はらはらと雪が降りつもるように、俺の精神は死んでゆく。脳よ、俺に罰をくれ。最高にぶっ飛べるドラッグよりも完全にいかれちまえるほど重い罰を。地獄は愉快だ。正気でいる必要もない。この世じゃ適度に気狂いでなけりゃうまく生きられない。ああ、ネピリムの歌声で全員仲良く汚染されときゃ、どんなに幸せだったろうよ。倒錯した思考は罪だろう? ドラッグなしでも俺は最低以下まで堕ちられるのに、いくら堕ちても発狂を自覚した正気じゃ意味ねえよ。先々月にガイナンたちといたビーチでの出来事なんぞ、地獄の表層にある生ぬるい血の湖のような記憶の産物で、この局所事象変移内においては知らない世界の他人の生活だ。こちら側とひとつながりにはあり得ない、ずるりと引きこめるほど近場にはない。どれほどリアルでも小説のように虚構でしかない、俺の脳が捏造した真っ赤な嘘だとしか思えない。絶望的に遠い。それこそ地獄よりも遠い―彼らも、そして君も。君が死んでから十五年になろうという頃、今度はアルベドが死んだ。俺が殺した。手持ちの弾層はすべて使いきった。全弾、見事に撃ちきった。自死用の一発を残しておくべきだった、と今は後悔している。臭い硝煙を嗅げば自嘲しか零れない。べっとりと両手に貼りついた血糊は一体どちらのものだろう。何もわからないことがやけにおかしく、一人でげらげら笑っていた。呼吸する酸素が底を尽き、激しく咳きこむと、薄汚れた手中からPMが転げおちた。黒光りする銃身が血だまりで回転しながら、天地の区別もつかない暗闇に真っ赤な鮮血を飛散させる。その赤さは目に毒なのだが、俺にとっては格好の目隠しとなる。向こうの白を遮るからだ。血だまりの向こうにある真っ白な塊。鉛と波動の銃弾をたっぷりとつめた白い肉は眠る獣のように横たわり、赤とも青ともつかない紫のガラス玉が二つ、虚ろに宙を見つめている。中心から投げだされた逞しい手足は血液などとりいれたことがないかのように白く、無造作に散らばる髪は雪のように白い。傷口などとうに癒えた男の体は、自力で奇跡を起こして動くこともない。首をもぎとっても生えてはこない。雪の女王が住まう氷の城に似合いの白を臆面もなく晒し、浅ましく心臓を酷使することで絶えず血の通う俺を容赦なく拒絶する。どくどくと体内を流動する血液など暑苦しい。シュヴァンクマイエルの兎のように生物がおがくずをつめて動けば、腹を裂こうが笑っていられたのに。体中すべての血を抜いたならば、俺もおまえのように真っ白になれるだろうか。頭から腹から煙を吐きだし、最後には黒い影ぼうしだけが残ったとしても、そうすれば、おまえに少しでも近づけるのだろうか。今はなき右胸の鼓動を再び感じられるだろうか。そうすりゃ、おまえをもっとわかってやれたのか? どうしてこんなにも歪んでしまったのだろう、と思う。肉体も、立場も、記憶も、関係性も、愛憎も、意志も、何もかも。PMを拾いあげた手は血で血を洗って赤いまま、白にはどうしても届かない。泥と肉で汚れた血のように混濁する意識の中、脳裏を掠めてゆくものは十二年間の思い出ばかりで、互いに何も知らなかった頃、俺の背中に隠れて泣いていたおまえが、誰より幼すぎた純粋なおまえが、その無垢を集めた笑顔が、強烈な残像として頭骸の内側や眼球の裏に焼きついたまま消えやしない。十四年間、海亀スープをつくる最中の鍋のような頭で、俺の中のおまえがどろどろに煮こまれていた。何がどこまで真実で何をどうすれば事実にできたのか、今でもまったくわからない。密かに育てつづけた罪悪によって完成した血みどろのスープを、何とか飲みほそうとしたが、その耐えがたい濃厚な苦味に俺はたまらず嘔吐した。それが局所事象変移での事の一端だ。かくして、おまえは俺の体外に散らばり、もう二度と会うことの叶わぬ存在となった。おまえの最後の一片が完全に乾いてしまうより早く暗闇の底に這いつくばり、犬のような舌使いで散らばったそれを惨めにがっつくこともできるのかもしれないが、幾度できるものならと切願しても結局のところ、そのできれば良いものができないゆえに、結果として今の最悪があるのだ。アルベド―俺のように、過去をとり戻そうとはしないおまえ。おまえは俺より崇高な存在で、自分の目的のため目の前の一瞬にすべてを捧げた。その純粋さは俺の知るおまえと唯一合致する共有の事実で、俺はそれを昔のように羨ましく思う。なあ、アルベド。おまえを拒絶し裏切りつづけた俺だが、ここに来るまでは、どこかでおまえともう一度やり直したいと考えていた。ともに生きたいと願った。おまえの孤独と苦痛を受けいれたかった。冗談だと、口先だけの薄っぺらな嘘だと思うだろう。俺の選択は間違っていたのだろうか。何度も逡巡する。事実、俺はおまえを殺した。それでも、選びとった結末以外に未来はない。おまえは最後の最後で、俺に十四年前の償いをさせることに成功した。勝負はおまえの勝ちだろう。おまえは念願の自由を手に入れ、俺はこれからのくそ長い人生で、弟をこの手にかけた原罪を引きずりながら、頭の中の地獄とともに単調すぎる道をひたすら歩みつづけるのだから。人生は何度でもやり直せる、と誰かが言っていたが、そんなもの、今が二度と来なけりゃどうでもいい。俺たちはもう戻れない。すでに今は過去となり、おまえも俺から離れてゆく。おまえがどこかで生きていたことが、おまえに憎まれていたことが、十四年間の俺の支えだった。一方的な負のつながりが見えない傷を抉りつづけ、蜘蛛の糸で辛うじて持ち堪える俺の精神をどうにか真面目に保持していたが、PMの弾を撃ちきった瞬間に膿んだ傷口は傷痕となり、糸はぷつりと切れた。生々しく鮮明なものはもう何も残っていない。すべてが灰のように形をもたず、ぼろぼろと崩壊してゆく。おまえは俺とともにある絶対的ではない永遠よりも、死という孤独からの解放を望み、世界から消えゆく自由を選択した。その選択こそが自由であるかのように。俺はおまえの半身なのに、おまえの体に空いた孤独を埋められず、それどころか冷たい銃弾の穴をいつも開けた。俺は死という絶対的な安楽に負けたのだ。この後に及んで俺はまだ、おまえを切り捨てられない。本当は昔からわかっていた―臆病から依存していたのは俺のほうだと。独り善がりで孤独に怯えていたのも俺のほうだと。潜在的な狂気の質は、俺のほうがはるかに上だと。あのとき、俺が手を離さなければ、すべては違っていたのかもしれない。あのとき、俺がおまえを拒絶しなければ、こんなことにはならなかった。だが、あのときの俺には、あの選択以外なかったのだ。現場に指導者のいない兵器の集団におけるリーダーとして、俺は初めて自分自身で決断し、仲間に指示を出した。連結を解除せよ、と。間違ってはいなかった。手を離すことを躊躇してはいられなかった。完成したリンクのままウ・ドゥと衝突すれば、俺たちは確実に全滅していたのだから。アルベド。暗闇を這いずり、白い塊に近寄る。抱きしめようとする自分の腕は思った以上に短く、分厚い胸板にしがみつく形にしかならないことが悔やまれた。おまえはとても重い。アメジストは白濁し、うまく俺を映さない。もう言うことはないのか。こみあげる自嘲を堪えながら訊く。当然だが返事はない。骨張った手を握ろうと、硬直した五指が握り返してくるわけもない。ただ白い掌が赤で薄汚れるだけの変化に虚しさが募る。完全に穴の塞がった胸元に耳を押しあてようとも、俺の右背にあった心臓が再び動きだすことはない。おまえの体だった肉塊から心臓を抉りだし、俺の中に押しこんでしまいたい。そうしたら、もう誰にも渡しやしない。俺だけのものだ。狂気の色もない、真っ白な顔。温かくも冷たくもない体。触れた手と手、細胞の繁殖と滅亡、テロメア―ここが生死の境界線。アルベド。おまえ、死んだのか。自分で呟いておきながら、事実に愕然とした。咥内に銃を突っこんで脳幹を撃ちぬきたい。鉛の弾がないと、自分の波動だけでは死ねない。その点、ナイフは優れものだと痛感した。世の中何でもシンプルなものが強い。これが、おまえの結末。これが、俺たちの結末。ざまあねえな。この先もう絶望しかない。アルベド。返事はない。おまえはもう俺の名を知らない。おまえの意識はこの領域から消滅し、個としての境界を失った宇宙の意志となり、俺の存在なんぞきれいさっぱり忘却する。この地獄に俺を残し、初めからなかったことにされる。ああ、君たちは、俺がいくらかでも理解できる理由すら残さず、この世界から忽然と消えた。なぜ、俺は気づかなかった? これは俺が悪いのか? 他ならぬ俺が死の理由なのか? 君たちは答えない。おまえが生きつづけることで苦しんでいるから、死ねないことが苦痛だから、と想像はできても、おまえの本心はわからない。それらしい理由も俺の憶測でしかない。兵器としてシミュレーション内で敵の人間を撃ち殺したとき、汚染体をこの手で処分したとき、ゾハルエミュレーターを確保するため邪魔なU-TIC機関兵を始末したとき、デュランダルで敵艦隊を一掃したとき、財団にとって有害な人物や俺たちの過去を知る都合の悪い人物を暗殺したとき、おまえに銃を向けたとき、俺は自分自身に〝俺は兵器だ〟と言いきかせ、銃になった。そうすることで殺人を自分の決定ではない命令によるものとし、責任の重圧から逃れていた。おまえに銃を向けたとき、俺は自分自身の殺人として背負わなければならない恐怖に気づいた。おまえを殺すことは唯一、俺が自分の意志で決定する殺人なのだ、と。そこで再び気づいた。今まで殺してきた者たちと何が違う? シミュレーションの敵も汚染体もU-TIC機関兵も艦隊の数百名の命も暗殺した連中も、俺が自分で決断し、自分で殺害した。俺はそれについての思考を停止し、自分が一体何のために殺しているのか、向きあったことなど一度もなかった。おまえを殺したことが俺の決断ならば、今までの殺人も俺の決断であり、おまえの死だけに罪を背負うことなどできやしない。そこには今まで殺してきた人々の死も連結され、到底償えることなどない罪の重圧が存在している。おまえひとりを思えない。ここには倫理も崇高さもなく人殺しの歴史があるだけで、おまえを理由に悲劇的な境遇に浸ることは傲慢だろう。殺人が罪であるのは、被害者の未来を剥奪することと同じく、それにより被告が償える機会を剥奪するからだという。死者は誰も赦さず、彼らに償うことは一生不可能。そこに無理にでも意味を求め、神を信じていないくせ赦しを請い、罰せられるわけでもないのに救われたいと願う脳のアーキテクチャにこそ、地獄がある。ゆえに罪もある。自分で決めなければならない残酷な局面にて明るみとなる自我の疎ましさ、怖ろしさ。二択から一つを選択したとき、俺は本当に疲弊していたのだと思う。でなければ、十四年間そうであったように出口のない逡巡はいまだ続いていただろう。おまえのためを考えて引き金を引いたつもりだった―銃の内部でコッキングと撃鉄降下が行われる機械音に自分の波動を練りこむまでは。おまえは死ねないことに孤独と苦痛を感じている。おまえを楽にしてやれるのは俺だけだ。おまえを呪縛から解き放ち、自由をもたらしてやれるのは俺しかいない、と。あれは真におまえのためを考えた上での決断だったのだろうか。今になっていくら脳内を掘り返しても、そのように確実な安らぎの根拠は残されていない。神を信じられない俺の罪を赦せる人間は、もう世界のどこにも存在しないというのに、俺は見事に冤罪を見失った。世界から君が消えて、おまえが消えて、終いには誰もいなくなるんだろ。みんな死んじまって、向こうで楽になるんだろ。だったら、遺された俺はどうなる。自分で殺しておいてよくもこう居直れるものだと、要は被害妄想も甚だしい身勝手な男の偏僻でしかないことは承知している。わかっていながら、俺はどうしようもない不満と心細さを感じていた。教えてくれ、俺は何者だ? 君たちにとって俺は一体何だ? どこまでの領域を占める存在だ? 魅惑的な死の安息に比べ、さしたる価値もない存在だったのか。その程度か。俺たちの関係性に居場所を見出した少しの愛は、生への糧になるまで昇華されることはない一時的な代物だったのか。生きたいと思える唯一の意味は別のところにあったのか。理由の底意とは関係のない、どうしたって他人でしかないのか。次は誰だ? そいつも、どうせ殺してくれと俺にほざくんだろうが。ふざけんな、狡いんだよ。おまえらも結局のところ、自分の見たいものしか見ない俺と変わりねえ。遺された側にある地獄なんて見たいとは思わないんだろ、どうでもいいんだろ。こんなのってねえよ。何だよ、ちくしょう。どうでもいいよ、何もかも。俺だって楽になりたい。誰でもいいから殺してくれ。おかしいだろ、何で俺だけ生きなきゃならねえ? もとより死者からの赦しはない。俺という認識も、君という区別も、今ここで意味のあるものなど何もない。どうにか意味があるとして、そんなものは言葉と同じく何の役にも立たない。君たちは俺を支配する。呪縛から逃れるため、歪曲した頭で俺は思う。死んで良かったじゃねえか。もしも君の病気とやらが完治し、自殺に追いこまれることもなく生きていたら、両親を始めとした多くの人々から惜しみない愛情を注がれ、さぞや美しく成長するだろう。器量良しで心優しい君のことを、外界でうぞうぞと生息している男どもが放っておくわけもない。君と昵懇の間柄であった事実において、俺は彼らより有利ではある。凡常な場所で凡常な時間を過ごす彼らよりも、特別な場所で特別な時間を過ごした俺のほうが、君にとって特別な存在として印象づけられているはずだ。それでも、心変わりは誰にでもある。君とて例外ではないだろう。自分が兵器だというコンプレックスをとり払ったとしても、俺には君を自分のもとにつなぎとめておく自信がない。愛してもらえる自信がない。とてつもなく不安だ。そうして俺が苦悩している間に、君は俺ではない男のもとへ去ってしまうかもしれない。見知らぬ男の逞しい腕に抱かれ、この上ない幸福を感じるかもしれない。もしかすると、俺のことなど簡単に忘れてしまうかもしれない。記憶は上書きされるものだ。日々の生活から排除した対象とは自然と疎遠になる。そんなことは耐えられない。君の隣で笑う男が自分ではない場合、二人のために幸せを祈ったり、成り行きを見守ったり、そうした穏健で寛容な精神を俺は持ちあわせていない。じゃあ、どうするかって? その男を殺すに決まってるだろ。ぶっ殺してやる。君を愛したことも、君に愛されたことも、死ぬほど後悔するくらい嬲り倒してから殺してやる。君を悲しませたくはないが仕方ない。どうしても許せない。俺が最初に君を見つけたのに、俺だけが君の波長に合う相手なのに―君にとって唯一だった、この俺が! そんなことになっては困るから、やっぱり君は死んで良かったのだと思うことにした。君の人生の最後に俺がいたのであれば、病室から落下している瞬間にも俺を好きでいてくれたとしたら、君の心は俺のものだ。君たちは俺のものだ。俺がいっとう大事にしていた。それを自分以外の誰かに奪われるなんて耐えられない。だから、死んで良かったんだ。そうさ、これでいい。君たちは永遠に俺のもので、完成された芸術品だ。どうせ、世の中糞なわけだし、生きていても醜く老いて争うだけだし、死んで良かったよ。無意味な人生で、わざわざ天寿をまっとうする必要もねえだろ。どうでもいい。

 くだらねえ、くだらねえ、ああくだらねえ。

 俺だって、もお、死にたいよ。