輝く子午線・中

 

 キエフは巨大で坂と金ぴかの教会が多く、トラムやトローリーバスが道路をしきりに走り、地下鉄がシェルター並みの地底にある重厚な街だ。ファンゾーンの設置場所、独立広場に建つウクライナ独立記念碑の夜景は中々きれいで、短針がぼくの身長ほどもある欧州選手権のために刈りこまれた花時計も気に入っていた。
「おい、ここもロシア正教の教会なのか?」ディディエがアパートの天井に描かれた天使の絵を見上げてうなった。「風呂場も見てねえの、シティ。螺鈿細工の魚の群れとカエルの置物がいたるところにあるんだぞ、大家は趣味が悪い」
 イスクラも壁の絵を見渡して言った。「ベニスの風景みたい」
 借りるだけなのに文句を言うなよ。ぼくは彼らにアパートの部屋の説明をした。鍵は共用リビングの額縁の裏に——「その絵がママーイよ、シティ」これが? モンティ・パイソンにいそうな奴だ——荷物はそこに、見つからないよう、と部屋で大雑把に密約をしてからの十二日と十三日の二日間、イスクラは片道二時間かけてクレシュチェチュクの実家へ通い、ぼくとディディエは昼すぎまで寝ては午後からのそのそと起き出し、ファンゾーンでグループAとグループBの試合を観たあと店にいるのか外に追い出されているのかも把握しないまま飲み明かした。
 昼食だけが三人揃っての食事だった。サーロという豚の脂身の塩漬けが美味い。羊のミルク、魚の干物、茸も。オランダがまさかの二試合連続負けを喫した日など、同じテーブルでオレンジジュースを飲みはじめたオランダのサポーター相手にディディエがひと籠二十グブリナで買った苺を分けてやっていたが、あの苺も甘くて美味かった——いや、オランダ人は気の毒だが。
「イスクラってマトリョーシカ人形みてえに可愛いだろ」帰る道々、ディディエはイスクラについて話した。「けどさ、ちょいと抜けてるんだよな。あいつがロンドンに着いた日、おれは劇場じゃなくて路上で踊ってたんだ、大道芸の連中と一緒に。クリスマス前だったし儲かるかなって。イスクラは最初、単なる通りがかりの客だった。彼女、最後のひとりになってもおれの踊りに拍手をくれてさぁ。手持ちもないのに銭入れに金を投げこんで、頬も耳も真冬の寒さで真っ赤にしながら、片言の英語で、もう一度おねがい踊ってよ、って笑顔で言うんだ」
 いいね、とぼくは言った。ディディエはぼくの肩を抱き、「あんたになら無料で踊るよ、シティ」と言った。

 十四日の昼前、部屋の片隅でディディエとイスクラが話しこんでいた。ふたりの重々しい雰囲気に何事か訊ねてみると、「マリーチカがオーストラリア行きに納得してくれたんだわ」とイスクラは言った。吉報じゃないか。
「今度はイスクラが渋ってるんだ、この期におよんで」浮かない顔のイスクラの肩を抱くディディエは困惑し、彼女のことを持て余しているようだった。「パリ症候群ならぬオーストラリア症候群っつうか——まだ行ってもねえんだけど、イスクラも未来のことを考えすぎて不安になってるのさ。ほら、オーストラリアって地球の裏側じゃん」とディディエは肩を竦めた。当のイスクラはもじもじと不満そうにしながら黙している。
「まあまあ、おれに任せてシティは先に出掛けてろ」とディディエに半ば追い出されるかたちで、ぼくはアパートを出た。
 ファンゾーンには各国のコーナーがあり、午後になると石畳の道はもうコーナーごとに代表シャツの色であふれ返る。人混みのなか下手に歩き回ることもできず、ビールを飲んだくれるしかないほどの団子状態に。ブリテン島の街の名前が入ったイングランド旗だらけの建物の下、ぼくは両頬に新しく旗をペイントしてもらってからオリンピスキ・スタジアム周辺をぶらついた。
 地下鉄の駅近くまでくると、翌日に対戦するイングランドとスウェーデンのサポーターが地下へ降りる通路を挟んだ街道で、真っ昼間から酒を片手にチャント合戦をしていた。どこかの国とどこかの国の集団が鉢合わせると、わりかし歌合戦になる。殴り合いに発展こそしないが、キエフの警察もわらわらと監視しにくるほど盛り上がっている一角で、ぼくも遠巻きから成り行きを見物していた。
 『女王陛下万歳』の曲のあと、となり合わせていた髭面の警官が胸元のトランシーバーからなんらかの報告を受けたらしく、あたりを執拗に見渡しはじめた。向かいの街道からはギターの音が鳴りだしていて——おそらくスウェーデン側のテントにいる弾き語りの男は、いがみ合いの多い場の雰囲気を和らげたかったのだろう、オアシスの『ワンダーウォール』のイントロを弾いた。ぼくがいつもメインロードでシティのためにうたう曲を。この日もシティのサポーターは多かったし、そもそも『ワンダーウォール』の浸透力といえば、酔っぱらいが鼻歌にも乗せるくらいだ。ひとりの歌声が聞こえたあと、スウェーデンにもイングランドにも歌声の伝達で曲が届き、足並みの揃った声でギターの音もひびくようになると大合唱だった。誰彼かまわず肩を組み、ぬるいビールで乾杯し、本人もいないのにロックの一体感といったら夏の屋外フェスにも負けないだろう。オアシスは偉大だ。
 ぼくも便乗してふんふん口ずさんでいたところ、イングランドの人混みを分け入りながら突っこんできた青いシャツの男とぶつかった。雑草のように押しやられ、当然ちょっとは頭にきたので、被害に遭った他の男と一緒に文句を垂れつつ相手を睥睨し、この目を疑った。
「シティ!」青シャツはディディエだった。フランス代表シャツを汗でぺっとり張りつけ、イングランド人に胸倉を掴まれているディディエがいた。何やってる。どこから走ってきたのやら、息切れしているディディエを泥酔のイングランド人からひっぺがしてやると、礼の代わりに「脱げ」と迫られた。嫌だ。きっぱり断ったのに、「いいから早く脱げ」とよくない理由でぼくから無理やり脱がせたシャツを、ディディエは青いシャツの上から着ようとした。焦って腕を通せていないうちに、後方から迫ってきた警官がぼくのとなりにいた髭面の警官に合図を送ると、面倒なことに髭面はディディエを捕まえようとした。どうやら面倒事が起きているらしい。ぼくは上半身裸のまま、ようやく袖から出てきたディディエの腕を引っぱり、とりあえず髭面の反対方向へと逃げた。
「追われてるんだ、助けてくれ!」
 イングランド代表シャツを着たディディエが周囲に叫ぶと、『ワンダーウォール』を熱唱中の集団はこころよく道を空けたばかりか、追ってくる警官を体当たりで足止めしてくれた。
「ありがとよ!」ディディエは唇に二本指を当ててイングランド人に口づけを送った。「オアシスって最高だよな、ロックンロール!」
 ぼくは訳もわからぬまま、ディディエのあとを追って地下鉄の駅へとつづく坂道を全力でくだった。地下の通路へ入っても『ワンダーウォール』の合唱は四方に反響し、地下をひた走るぼくらの荒い呼吸と混じって満ちた。ぼくは自分がこのとき、舞台裏のパフォーマーが感じる高揚のようなものを感じたことを覚えている。

 アパートの扉を閉め、説明しろ、が開口一番になるのは仕方のないことだろう。フランスは気に食わないが、フランス代表シャツを着ているだけで警官に追われるなんてことがあるなら、さすがに理不尽だと思なくもないし。部屋ではイスクラも待っており、ディディエの失態を悟るとこともあろうに彼の頬をやさしく撫で、ぼくの動揺も知らずに消沈していた。くだらない言い訳で取り合おうとしないディディエの口を割らせるには時間を要したが、イスクラのほうが先に折れた。
「シティ、あたしのせいなんだわ。キエフの空港で目立つ広報を見たでしょ」彼女が何を言いたいのか、ぼくは皆目見当がつかなかった。「〝故国に帰るとき、人種・民族・信条・宗教上等の理由により迫害を受けることが危ぶまれる者は、我が国において難民としての扱いを受けられる可能性がある。以下の連絡先に出向くことを検討されたし〟って。あたしはマリーチカと一緒に、主に環境と宗教の理由から国家政策と反対のことをしようとしてるわけ」イスクラは眼鏡の奥からぐっとぼくを見つめてきた。
「イギリスじゃ申請は降りなくて、査証なしのまま働いてたんだわ」
 そんな馬鹿な、何年も前から難民としてロンドンに滞在しているんだろ、どういうことだ?
「当時の事故関連で難民認定された国はねえし、ましてやイスクラの事情じゃ無理だよ」ディディエがぼそりと吐き捨てた。
 ロンドンで路頭に迷うイスクラと偶然出会ったディディエは、彼女を保護して就職先も支援したのだという。一体どうやって? ボーイレスクの劇場で知り合った柄の悪い客を相手に、表現でもない体一貫を使っての金稼ぎと情報収集によって——つまり自分たちの身体を売っていた、信じられない。「臓器が欠けてないだけ儲けもん」だと? 欠けるかも、なんて状況に置かれている自体が異常だろう。
「マリーチカは軽犯罪歴があるから旅券が発行できないのね、小さいあたしを養うために自分の手を汚したばかりに」ベッドの縁に腰掛けたイスクラは言った。「事故後すぐに両親が死んで、あたしたち、ふたり一緒に国境を越えようとしたけど、あたしを逃がしてマリーは捕まった。戻るって約束して、あたしはEUに入ったわ」
 声は抑揚もなく、淡々と事実のみを述べた。イスクラは何をしゃべるにしても、他人の人生を朗読するような調子で、素晴らしいことも悲惨なことも一緒くたにされて本来の値打ちがなくなる。
 ディディエはイングランド代表のシャツをぼくに返して頭をかきむしった。「スヴェンと電話してるとこを私服警官に見られたみたいでさ、そのときに偽造旅券の話も出しちゃったんだよ」
 イギリスで売買されている最高品質の偽造旅券は、七千ポンド、身分証明書として通用する程度のものなら六百ポンドという破格値で買えるのだ、とディディエは言った。ぼくは目眩がした。本人曰くブローカーではなく頼まれたときに仲介をするだけのことらしいが、イスクラに関しては足りない金まで工面してやったというのだから、もはや理解に苦しむ。金もない人間を相手に仲介料すらとらずに世話を焼く、自分に金が入るわけでもない。ディディエの行為は、犯罪であることを除けば完全にボランティアなのだ。
 どうしてそこまでする?
「どうしてって、そりゃ、どうしたもこうしたも——」ディディエは面食らった様子で、ぼくに対して奇妙な壷でもながめるような視線を向けた。「自分の目の前で人が倒れてたら、手くらい貸すだろ?」
 手どころの話じゃないぞ、下手をすれば首が飛ぶ。ぼくは教えたが、いいか、シティ、とディディエも負けじとこちらを諭してきた。
「パリからロンドンへの夜行バスでの出来事だ。おれのうしろには黒人の家族が座ってた、仲のいい家族でな。入国管理局を通るとき、各自荷物を持ってバスから降りるだろ、手続きに向かったとこまではいい——けどさ、全員の手続きがすんでも家族はもう戻ってこなかったよ。あの家族だって何かを求めてロンドンまで行こうとしてたんだろ……一度や二度じゃねえぞ。要するに、そういうことは日常茶飯事だってこと」
 通報するの、とイスクラが訊いた。しねえよ、とディディエが笑った。「イスクラ、おまえだってそう思ったからシティを選んだろ」
 ぼくはイスクラを見つめた。彼女は無表情のまま「その通りだわ、ごめんなさいね」とぼくに言った。
「あんた、何に対しても関心ないんだもん。ちょっとくらい同情や共感してもよさそうなものをさ」
 ディディエの言葉にはピンとこない。はっきりしていることは、ふたりの頭がおかしいということだ。
「いやいや、シティのほうがおかしいぜ。イスクラの皮肉を聞いてたか? 無口なのねって。常に独り言しゃべってる不気味な男相手に無口って言ったのに」ぼくはそれを自分で真に受けて納得している、とディディエが言った。「〝通報するな〟じゃなくて〝通報しない〟って言っときゃ、あんたはしねえよ。どのみち自分まで捕まっちゃ困るだろ」
 何を考えていいかよく判らなくなり、ぼくは両腕の時計を確かめた。窓のそとは暗い、左は十九時、右は二十一時を指していた。イタリア対クロアチアが終り、そろそろスペイン対アイルランドの試合が開始した頃合いで、屋外はいまだに騒がしかった。
「悪かったよ」
 顔を上げるとディディエが焦って謝罪してきた。イスクラも目を丸くしていた。「あー、まさか泣くとは思わなくってさ」
 ぼくは泣いていない。イスクラが小豆色のショールをかけてくれたが、そんな気遣いは無用なんだ、不要なんだ。ディディエは出会ってすぐのイスクラのためなら自分の身体まで投げ打つのに、ぼくのことは最初から騙すつもりで酒に誘ったんだ。
「シティ、おれらは捕まる気なんて毛頭ねえんだ、わかるか? あんたを選んだのは、単に同室で、条件が合って、騙しやすそうないいカモだっていうのも……あーうん、そりゃそうなんだけど、あんたを深夜まで待ってた理由はさぁ」
 わかってたまるか、誰でもよかったんだろ。ふたりの顔を見られず窓際から中庭を見下ろしていると、背後からディディエのため息が聞こえた。
「あたしたちね、マフィア優先でホテルの予約を取り消されてから、食堂車で乗客をずっと観察してたのよ。気に入ったやつはいるかって、ディディエが言うの、年の近い、友だちになれそうなやつがいいなって」——ずいぶん勝手な話で笑える、騙す相手にだろ。
「ディディエはスウェーデン、あたしはオーストラリア、新しい土地で新しい人生をやり直したいんだわ。ようやく用意が整った、ユーロに合わせて帰ってきたウクライナは、いまの自分として最後の時間になる。気の合う人とすごしたいねってディディエと話したの」
「自分の汚い部分は隠しといてさ、ユーロ開催中めいっぱい楽しんで、きれいにさよならするつもりでいたんだ。もう二度と会うこともない、お互いの思い出だけに残ってりゃいいって」
 やっぱり彼らのほうがおかしいね。エゴ丸出しの自己満足に付き合わされて、こっちはとんだ迷惑さ、そうだろ。ぼくはもう騙されないぞ。追い出してやる、追い出してやる……ぼくにも共感する能力くらいあるんだよ。

 ぼくの生まれはマンチェスターだが、シングルマザーの実母は赤ん坊のぼくをグリニッジの夫婦へ養子に出した。生活保護を受けていた実母は、ぼくにいちばんいいものを持たせて送り出したという——ウィンドミルズの腕時計だ。十代のぼくは養父母との会話でここまで聞き出すと、シティの試合日にマンチェスターの街中をうろついたが、人間はどれも同じ顔に見えたし、この大群からひとりを捜し出すなんて至難の技だと早々にあきらめた。直感なんて当てにならないものだ。どうして産みの親に会おうと思ったのか、思い返してみるとさっぱり解らないし。
 マンチェスター・ピカデリー駅へ向かう地下通路を歩いていたとき、ぼくの視界にとつぜん野花が咲いた。よくよく見ると、そのへんの野原に咲いているような花をアルミホイルで束ねた、ずいぶんとお粗末な飾り花だった。
「一パウンドでいいんです」飾り花のうしろに、みすぼらしい初老いの女性がいた。物乞いが法律で禁じられていることは知っている、カウンシルじゃホームレスを保護する取り組みが行われているし、配給だってある。ぼくが彼女に一ポンドをやるべき理由など万に一つもない。微塵もないはず、なのに自分の脳裏に無意味な仮説がよぎった。その万が一の可能性で、もしも彼女がぼくの母だとしたら? 冷静に考えても、あり得ない。
「ありがとう、ありがとう、神のご加護を」
 あり得ないのに、ぼくはアルミホイル巻きの飾り花を受けとり、シティの年間パスを買えるほどの有り金すべてを女性に手渡していた。
 かえってきますよ、と背中の曲がった彼女は言った。如何用にもとれる言葉だった。「あなたがわたしにくだすった時間は、あなたのもとへ返ってきますから」と彼女はぼくの腕時計をとんとんと突いてくり返した。それから瘤だらけの顔に満面の笑みを浮かべ、ぼくの背中を押して送り出した。金が手に入ったからにはもはや用なしということか——当時のぼくは辟易したが、あとになって思えば多少違う意味合いだったのかもしれない。
 グリニッジの自宅へ帰ると、養父母がぼくに贈り物を用意してくれていた——おまえを愛しているからね、の言葉とともにアーノルド&サンの腕時計を。ぼくはふたつの腕時計を並べて二本の短針が六十周するくらいには悩み、結果としてこうなった。

「よくあることさ、気に病むな」とディディエが言い、「あたしんとこの姉さん、孤児なのよ。ティーカップみたいにひと揃いの家庭って少ないんだわ」とイスクラは言った。よくあることだとわかっていても割り切れない人間はいる、よくあることでも悲しいことはごまんとある、理不尽なことは〝日常茶飯事〟だ、そうだろう? 最後の晩餐ごっこなんて馬鹿げている、いくら逃げたとしても過去はつきまとうし、新天地も理想郷もこの世のどこにもありはしないと、彼らは解っているはずなのに。
 長々と彼らに話したあとも、ぼくはしずかに怒っていた。薄皮一枚で煮えたぎったミルクのように怒り心頭だった。血管は熱く、怒髪天を突いていた。
「おい、やめろよ」ディディエが遠慮がちに言った。
 何を。
「こんな雰囲気でワンダーウォールの鼻唄なんて」——そんなの歌ってない。
「歌ってるだろぉ」
 ふたりと口も聞きたくなかった。ディディエは椅子を揺らし、ばつの悪い顔をしながらも先ほどからウォッカをたらふく飲んでいたし、イスクラはベッドの上に道具を広げてぼくらから脱がせた靴を黙々と磨いていた。部屋の沈黙は鉛より重く、表通りの賑わいが耳鳴りのように聞こえていた。ぼくはとうとう耐えられなくなり、窓を全開にすると外に飛び出した。部屋が一階にあることは功を奏した、とはいえ裸足に石畳はつらい。ふたりが同時に「シティ!」なんて一応の心配をして叫んではいたが、大体にしてぼくの名前は〝シティ〟じゃない。
 午前零時をすぎて日付も変わり、十四日の両試合がポーランドで行われていたこともあってキエフの喧噪は休息していたが、ファンゾーンやメディアセンターで観戦していたファンの熱気は明け方まで収まることがなかった。ぼくは自分の靴をイスクラの膝上に置いてきたことを激しく後悔しつつ、表通りを浮浪者のように彷徨った。なんだかもう荒みきっていて、頬に当たる夜風の涼しさに頭を冷やしながら、街灯も届かないベンチの物陰によりかかると、機嫌良く連れ立って宿に戻っていく人々を順繰りにながめていた。
 朝陽よりも先にどこかの鶏のけたたましい鳴き声で目覚めたあとは、キエフで夜のイングランド対スウェーデンをひたすら待つしかないと、試合さえ始まれば嫌なことなんてすぐに忘れられると、さいわい財布は携帯していたから、適当な店に入り浸って特に好きでもないビールを散々飲んでたときのことだ。警備が強化されるそうだ、という背後のウクライナ人たちの会話を聞いた。彼らは言った、十三日にワルシャワでロシアとポーランドのサポーター抗争があったせいだ、と。百人ほどが拘束された事件により、他会場でもサポーター同士の衝突が警戒されているらしい。
 話を聞いてアパートへ戻る自分のことを、心底むなしく思った。グリニッジから御守りのように握りしめてきたチケットなのに、それより優先すべきことがあるか? いいや、ぼくは靴を取りに戻るのだ、やっぱり靴は必要だから。
 アパートの部屋はもぬけの殻だった。ぼくの荷物とルイスレザーの青いスニーカーがベッドの横に置いてあり、磨かれたスニーカーの中にはベット365のフットボールくじが入っていた。五試合以上の予想による勝敗オッズを上げたコンボくじで、すでに終了した四試合の賭けが的中していた。四試合とはグループリーグすべての初戦だ。すると、イングランド対フランスが引き分けた当日のディディエの機嫌を思うに、彼のくじではないだろう。ぼくらはオランダがデンマークに負けるなんてことも考えていなかった。じゃ、このくじはイスクラが買ったのだろうか?
 ぼくは彼らの行き先について俊巡していたが、くじの残りの一試合がドネツクで行われるフランス対スウェーデンであるにつけ、この一枚のくじがイスクラからの伝言なのではないか、という結論にいたった。裏返した面には青いインクで『幸運を祈ってる』と一言あり、五試合当てのうち最後の一試合に賭けられているのは、フランスの勝利だ。ドネツクには国際空港がある。ぼくは決して運命論者じゃないが、いやな予感というやつは総じて当たるものだろう? 右腕の時計を見ると、午前十時と少し。ぼくは踵のすり減りまで修理された気に入りの靴を履き、列車に乗った。