輝く子午線・後

 


 午後五時を回ったころに到着したドネツクの天候ときたら、大荒れもいいところだった。ウクライナでは連日摂氏三〇度の暑さを記録していたが、この時期だとしょっちゅう嵐に見舞われるんだな。人々が見上げる雲間では、稲妻の青い鞭が好き勝手に暴れていた。それでも初戦をものにした開催国ウクライナはおおいに盛り上がっており、二戦目のフランス戦を控えたドンバス・アリーナの内外は雨をも弾く勢いの歓声に包まれていた。
 ぼくはとりあえず駅から近いファンゾーンをしらみ潰しに歩きながら、警官が集まり、人だかりのある騒がしい区画を巡回することにした。大半がサポーター同士の小競り合いや酔っぱらいの奇行で、現時点のみにおいて彼らが存分に暴挙を働いてくれていることが、ぼくとしては非常に助かった。
 しかしディディエたちを見つけられないまま、とうとうスタジアムからフランス国歌の斉唱が流れはじめた。こうなるとチケットを持っている人間が外をうろうろしていやしないだろう。まあ、入場口でとめられていないなら安心じゃないか、と思うことで自分を慰めてみるも、はやる足が落ち着かない。
 どす黒い空を見上げたとき、凄まじい雷鳴がとどろいた。先刻以上に土砂降りの雨が降りだし、スクリーンでは開始から十分ほど経ったところで試合の一時中断が決定したようだ。青や黄色のレインコートを着た人々が画面を見上げて不安を感じる中、ぼくは地べたで一組の靴音を聞いた。こつこつと、いかにも艶ハイヒールを想像させるヒールの音だが、実際はエナメルじゃなく硝子という光沢ある黒革の底上げ靴だとイスクラから教えられていた。ピンヒールの音が好きという彼のためにイスクラが削り出した靴音だ。それは雨音や喧騒よりもはっきりと聞こえる。ぼくはファンゾーンの人混みを分けて靴音を追った。
 スタジアムの入場口近くに人の輪があった。ぼくは誰かの肩と肩のあいだから、騒ぎの中心を覗いた。知り合って五日とはいえ、どんな格好をしていても堂々としている風情の彼が、肩を狭め、すごすごと歩幅を速くして歩くところなんて初めて目にする——ディディエは大柄の男ふたりに連行されていた。ウクライナの警官ではなく、そういう犯罪専門の特捜部だろう。ぼくはディディエの腕にかけられた手錠を人影から凝視した。ひそやかに飛び交う言語はもっぱらウクライナ語とフランス語で、居場所のサイズが自分に合わないような気分になった。自分の指先より先にある空間をひどく遠くに感じるのだ。夕焼けの日だまりに独り立っているとき、誰かの優しさに触れるほど不安になるような、そういうむず痒さを他人にどうして説明できるだろう。間違った出会いに荒っぽい方法でも、ぼくは彼らと一緒にすごせて本当に楽しかった。なんのためにキエフのイングランド対スウェーデン戦をふいにしてまでドネツクへ来た、なんのために雨ざらしでここにいる?
 試合中断で手持ち無沙汰な男どもは、ドジを踏んだ犯罪者を大声で囃し立てた。ぼくは連中を押しのけて円の前へ出た。ディディエはぼくを見た。一瞬だけ驚き、まばたくと表情が失せた。どしゃ降りの中で大層みすぼらしく見えた。連行する男に背中を押されると、他人行儀に顔を背けた。あっそう、無関係でいさせてくれるってわけか。
 ディディエ!
 彼の名前を叫ぼうとしたら、何を思ったかディディエのやつ、石畳で大仰につんのめった。両手が使えず、頭からぼくのほうに落ちてきたのでまわりも支えようとしてはくれたが、ぼくらは結局もろとも倒れた。大勢の足がぼくらを囲い、頭上はビール腹に挟まれた上、ぼくは倒れたままのディディエから腹に膝蹴りを食らった。あんまりな仕打ちと痛みに声も出ない、金具つきの頑丈なブーツだから当然だ。呻いていると、ディディエは特捜部のふたりが駆け寄ってくる隙をみるなり、さらにぼくを足蹴にした。ちょっとひどすぎやしないか。このフランス野郎は何がしたいんだ? 靴底、と彼は小声でぼくに訴えた。
「両の靴底!」
 腹を立てる間もなくディディエの靴を見ると、奇妙なことに外底全体が両足ともに剥がれかけていた。剥がれるというより開くといったほうが近いかもしれない。要するに、彼の分厚いソールは開閉式なのだ。誰が改造したのかなんて一目瞭然の仕掛けだが——ソールを開くと、左から旅券が二枚、右から輪ゴムで丸めたユーロ紙幣の札束が出てきた。ぼくは靴の蓋を閉じ、旅券と札束を速やかに自分の腹へ隠した。「旅券はイスクラに、金はスヴェンに」ディディエは青い顔で言った。野次馬に邪魔されていた特捜部が傘も飛ばされ、心底うんざりした表情のままディディエの腕を引っぱり、「すまないね、イングランド君」とぼくに詫びた。ディディエも声には出さずくり返していた——すまない、と誰かに対して。

 落雷の音がした。豪雨で試合が中断されてから一時間近くになる。ぼくは雨宿りできる地下鉄の便所の個室に入ると、便器の上でディディエから預った旅券と札束をあらためて確認した。濡れないようバッグの奥に仕舞っていたが、やはり両方とも少しばかり湿っていた。イスクラとマリーの旅券はかなり精巧な代物で、素人目には正規の旅券と見分けがつかない。写真のイスクラの目も水色と黄色を溶かした不思議な色をしていた。ユーロ札の束は五百ユーロと二百ユーロ紙幣がほとんどで、よれよれの五ユーロ紙幣も混じっているあたり、デビットカードで引き落としていた預金口座を除くディディエの全財産だと思われる。数えてみると約三万ユーロあった。
 物を預ったはいいが、スヴェンというディディエの恋人については完全にお手上げ状態だった。ウクライナ国内にいる保証すらない。ともかくイスクラを先に捜すことに決め、ぼくは便所から出て地下鉄に乗った。
 まずはドネツク国際空港に行くつもりだった。車内で聞こえるラジオが、フランスとウクライナの試合を再開したと伝えおり、そのあと行われるイングランド対スウェーデンの開始時間は十五分遅れの二十二時に変更されていた。最寄り駅で降りて地上へ出ると、雨は小降りになったとはいえ人々が傘を閉じるほどではないらしく、雷鳴も地を這って揺らすほどには近い。ぼくはバッグを抱えて空港入口まで走った。
 往路の真ん中で、視界が青いひかりに覆われたところまでは覚えている。何やら身体が自然とひれ伏し、まったく動かなくなった。目蓋も閉じたのだろうか、周囲は真っ暗になってしまった。バッグが見つからない。
 おおい、何が起こった? ぼくは一体どうなった?
『スワンプマンの思考実験があるだろう』頭上から誰かの声がした。
『仮にこのおれが沼で雷に打たれ、同時にその雷によって汚泥が不思議な化学反応を起こし、おれと原子レベルまで同一の人物が出来上がったとする。加えて雷に打たれたおれが一命をとりとめたなら、一見同じ人物がふたりいるように見える。この場合、ふたりの内どちらが〝本物のおれ〟であるかは、恣意的な問題だとすることはできないよな? 人格・自己と人物の関係は論理的に一対一対応でなけりゃならないんだし』
 ぼくは目蓋を開いた。ぼくはやはり目蓋を閉じていたのだ。視界は一面の青いひかりに包まれており、ぽつんと佇む男がいた。まあ、男がひとりいる分には別に構わない。問題は男がイブラヒモビッチにそっくりだということだ——ああ、ズラタンだよ、あのテコンドーが得意なズラタン・イブラヒモビッチ! とにかく男は彼と瓜二つだった、両足の膝下だけ薄っすら消えて見えないことを除けば。
『このままだと、きみは死ぬぞ』と偽ズラタンは言った。
 現れたな、幽霊め。
『本物さ、なぜ幽霊だと思う』だと、白々しい。足がない、とぼくは指摘した。本当は指差してやりたかったが、どこか灼けた石の上に倒れているようで頬が熱く、どうやっても動かない。
『なるほど、これではボールを蹴ることもできませんからね』偽ズラタンは口調を変えて抜かした。
 こいつの言葉から察するに、ぼくは雷に打たれたらしい。まさか自分が落雷で死ぬことになるなんて夢にも思わなかった……それにしても、だ。おまえたちのおかげで、ぼくはどこへ行ってもぶつぶつ独り言をいう変人だ。どいつもこいつも実害はなさそうだから放っておいたが、ぼくに死を宣言しに湧いて出てくるなんて、どういう了見だ?
 提案です、と偽ズラタンは特徴的な三角の鼻を少し持ち上げた。『それなりの金があれば、あなたの肉体を助け、魂を地上に残しましょう』
 あの世でも金か、とぼくはうんざりした。
『あそこでもここでも世は金ですよ。まあ、天使より上の権力があるなら別ですが』
 偽ズラタンは言い、こちらが動けないのをいいことにぼくのバッグや服のポケットを漁りはじめた。特捜部が逮捕すべきはディディエやイスクラではなく、セコい天使のほうだろう。『いくらかお持ちですね』
 偽ズラタンの手にはディディエの札束が握られていた。ぼくは目の前の足なしを殴ろうとしたが、やっぱり身動きがとれずに悔しかった。それは使えない、とだけ答えた。
『騙されたのに?』これまでに現れる幽霊と同じく、偽ズラタンは勝手にぼくのことを知り得ているらしい。但し、ぼくは金を騙しとられたわけじゃない。
『でしたら、その手に握られているくじでも構いませんよ。五試合目はフランスが勝ちますから』
 当たりくじなら余計に駄目だね、とぼくは唾を吐くつもりで答えた。
 偽ズラタンは声を上げて笑った。いやに爽やかな笑い方で余計に腹が立った。冗談ですよ、と言われ、冗談じゃないと思った。
『あなたの場合、金は必要ありません。返ってくると教えられたでしょう』
 何を。
 偽ズラタンは、ぼくの左腕に巻いたウィンドミルズの時計を透明な爪でこつこつと叩いた。『時間ですよ、時間。あなたには手持ちの時間がある、珍しいパターンですね』
 ぼくは昔マンチェスターで会った老婆のことを思い浮かべた。あの婆さんも幽霊の仲間だったのか。
『いいえ、彼女は行き場を失くして我々のもとに身を寄せている、哀れな人々の内のひとりです』
 ぼくは沈黙を選んだ。こいつの言うことなど信じる価値もない。
『ひとつ、お教えいたしましょう。あなたが死んだあとの彼らがどうなるか、気になりませんか』
 ぼくは偽ズラタンを睨んでやったが、腹の立つことに相手は気楽そうなものだった。
『まず、ディディエさんは警察まで連行されたのち、ロンドンの留置所へ送還されることになります——イギリス国内で偽造旅券を手配しましたからね。後日まとめて裁判にかけられる予定でしたが、仲介役の彼が口を割ることを恐れたブローカー組織によって、非常に残念なことに、ディディエさんは移送中の国境付近で撃ち殺されてしまいます』
 ……何を言ってる、こいつは何を言ってるんだ?
『残りの人生を棒に振るくらいのリスクを犯してまで望みを叶えようとしたのです、当然でしょう。一方、空港に到着していたイスクラさんですが』
 やめろ、とぼくは叫んだ。嘘でも聞きたくなかった。
『——ニュースでディディエさんの死を知り、自殺を図ります。さいわい懇意の仲である彼女のお姉さんによって病院に運ばれ、イスクラさんは一命をとりとめるわけですが、病院で新たに大きな乳頭腫があると発覚します。まあ、治療さえ行えば生存率の高い病気ですよ。ところが不幸なことに、彼女たちには手術費用をまかなう術がありません。結果、彼女は癌の進行によって半年後に死亡します』
 おやおや泣いておられる、とぼくを覗きこんで偽ズラタンが言った。
 ぼくは泣いていない。だって映画のような悲劇じゃないか、こんなの嘘に決まっている、信じない。ぼくは夢を見ているのだ。
『たしかにたしかに、あまりに出来すぎていますよね、同じ寝台で出会った三人が別々の場所で一年以内に事故・事件・病気で死ぬとは……あなたの仰るとおり。すべては夢、あなたの空想にすぎないのかもしれません』偽ズラタンは額に手を当てて嘆いた。『ああ、わたしこそ自分の存在を疑いたくなってきましたよ。哀れなスワンプマン、そう思いませんか』
 ぼくは自分の頭上を水平に移動する足のない幽霊のことを、思いきり疑っていた。背景の一部であり暇をしている他の幽霊とは違い、偽ズラタンはぼくに対して嫌味でしつこい。
 正直、夢でもどうでもいい。ぼくにとって重要なことは、ふたりが無事だという保証によって自分自身を納得させることだから。ズレのない子午線が大事だ。経度の研究すら、歴史の空白を埋めて時間の意義について納得するためにしているようなものだし。スワンプマンが言うように、すべてはぼくのための空想だ。諸々の不条理な物事にうまく折り合いをつけるための、都合のよい逃げ場所なのだ。何事も見えない霊——ぼくには見えるが、とにかく幽霊のせい、バンシーの仕業、妖精の悪戯。うわべだけでも納得しなくては先へ進めないから。
『ひとつ名案があります。これが空想であるのなら、あなた自身で変えてしまえばよろしいのでは?』ふとしたように偽ズラタンは言った。『まあ、イマジネーションをまったく別の形にするにしても自己変革が必要でしょうね』
 ぼくが不覚にも逡巡すると、幽霊は笑み零れた。
『さあさ、彼らと関わる直前まで戻して差し上げましょう。その時点から適当に危険を回避してください』
 指示されたとたん、ぼくの身体は別の場所からの磁力か何かに引っ張られはじめた。耳の奥では救急車のサイレンが鳴っていた。
『二度目はありません、それだけの蓄えはさすがにないようですし』幽霊は矢継ぎ早に言った。『——それではごきげんよう』の別れと同時に、左腕の時計の短針が反対方向に高速回転をはじめた。六月十五日の二十二時から、二十一時、二十時、十二時、零時、時計の針はぐるぐると回る、十四日、十三日、十二日、十一日の——。

「おい、おいって」
 ぼくは毛布にくるまれて眠っていた。ゆりかごのような心地の中、誰かに呼びかけられていた。
「なあ、大丈夫か」
 フランス訛りの英語、男のテノールがぼくを揺さぶる。
「イングランドさんよ、ちょいと静かにしてくれると助かるんだけどぉ」
 ぼくは飛び起きた。
 天井に頭をぶつけたことで、自分が寝台列車の二段目の寝床にいると理解した。規則正しい列車の走行音の他は、静かな真夜中になっている。
「起こして悪いね、うなされてたようなんで」いい夢みろよ、とななめ下の寝台からディディエが声をかけてくれていた。
 ああ、平気だ……ぼくはちょっと混乱していて、外の空気を吸うために列車の連結部へと出ることにした。
 ついでにポケットから取り出した煙草を吸い、強風で後方の暗闇へ流されていく煙を見送ってから両腕の時計を確認する。日付がおかしい。左のウィンドミルズは十一日の午前二時、右のアーノルド&サンが十五日の二十二時を指したまま止まっていた。右の時計もしくは両方が壊れているのだろう。
 ぼくが寝台へ戻ると、ディディエは寝台から起き出してひとり酒盛りをしていた。
「ヤ・ヴィナヴァート」ディディエはロシア語で言ったあと、「イングランド、あんたも飲まねえか」と英語に切り替える——この状況に自分のことを思い出した。
 いまは何時だ、とぼくは彼に訊いた。ディディエは怪訝な顔をして「自分の時計があるだろ、しかも両腕に」と答えた。
 その通りだが、今日って何日だ、とぼくはさらに訊いた。
「なんだよ、心配しなくても試合は始まってもねえよ」
 今日は何月何日か、教えてくれ、とぼくは慎重に伝えた。そして自分のバッグから二枚の旅券とユーロの札束を取り出した。ディディエは口元からウォッカを垂らして動きをとめると、酒壜を落として割り、慌てて自分の靴を脱いで両方の靴底を調べた。彼の動きがとまったかと思うと、今度は悪魔のような形相をしてぼくに襲いかかってきた。「よおくわかったぜ、盗人野郎!」
 襟首を掴まれたぼくは、必死に弁解した。きみの意志だ、ぼくは未来のきみから預かったんだぞ、五日後の雨の日だ、と。ディディエは信じようとしない。そりゃあ、ぼくも自分で言っておきながら自分自身を怪しいとは思うが。
 首を絞められる苦しさに上を向くと、ディディエの側の二段目の寝台からイスクラがぼくを見下ろしていた。黒ぶち眼鏡の奥にある目を真剣に細め、ぼくらを見つめている。
「どうしたの、ディディエ」イスクラは掠れ声で言った。
「イスクラ、危ないから隠れてろ」というディディエは、ぼくを地面に叩きつけて馬乗りになった。「こいつ、人畜無害なリャマ顔しときながら手練の掏摸らしい」
 ぼくを憎々しげにいたぶるディディエに対し、イスクラは吞気な調子で「あたしよりも?」とほくそ笑んだ。ぼくが面食らう様子も、彼女は楽しんでいるようだった。
 いや、おまえほどじゃない、多分、などとディディエは口ごもり、それによってぼくの首にかかる彼の手はゆるめられた。ぼくは呼吸困難から解放されて咳きこんだ。旅券と札束はすでにディディエの手中にある。
 寝台から身を乗り出したイスクラが、ぼくの足元を見てくすくす笑った。「靴を見れば主人がどんな人だかわかるの。雨の中にいたのは本当だわね」
 そうとも、本当のことだ。
「不思議ねえ、その青い塗料ってあたしが持ってるのと同じ、踵の張り替え方も見覚えあるんだわ」
「本当かよ、イスクラ」ディディエが半信半疑で鼻を鳴らした。「不気味な野郎め。いいか、念のため訊くけど、あんたの名前は?」
 彼は垂れた眉をさらに垂らし、仰向けに倒れたままのぼくに右手を差し出した。

 二度目はどうなったかって? 上手く事を運ぶのは簡単さ、ぼくじゃなくても未来を知っていたら上手くやれる。ディディエは逮捕されずにスヴェンと落ち合えるだろうし、イスクラは姉貴とオーストラリアへ出国して乳頭癌の手術も受けられる。二周目のぼくの脳裏では救急車のサイレンが鳴りつづき、稲妻の青いひかりが残像として目蓋の裏に焼きついていた。ぼくは時間を正さなきゃいけない。ズレのない子午線へ戻るため。それに常に見えていた幽霊とか天使とか、そういう変な連中がさっぱり見えない世界は意外に味気ないところだってことにも気づいた。自分の一部がないようで落ち着かないのだ。従って落雷を回避することすら容易だとしても、ぼくは反対を、つまり本来の結末を選んだ。
 迷ったときには時計を見る。時は万事を暴露するだろう。左の時刻が右と並んだとき、ぼくのうしろの樫の木に青い雷が落ちた。

 ぼくは結構足が速い。
『一度くらいタイムを気にせず、全力で走ってみたらどうなんだ』と、養父に言われたことがある。学校行事の徒競走の際、放課後の体力を計算してえっちらおっちら走っていたから。全力で走って貰える一等の旗なんて必要ない、本気で走るときは自分で決める、と反抗しておきながら、ぼくは一度も本気で走ったことがない。そうこうする内に本気を出しても一等になれるか自信を失い、全力を出しても誰にも追いつけないんじゃないかと不安ばかりが募っていた。実際に走ってどうだったと思う? ディディエと警官から逃げるとき、ぼくは全力だった。イスクラに会うため雨に濡れて走ったとき、一等どころか雷に打たれて死にかけたが、とにかく無我夢中だった。目指したものは旗じゃない、少しでも長くふたりに必要とされたかった。
 テレビの音に目蓋を開けると、ぼやける視線の先に誰かの背中があった。うしろ向きで椅子に座る男は、壁の棚に置かれたテレビでフットボールの試合を観ているようで、画面には見覚えのあるスタジアム、ちょうど試合終了の笛が鳴り、どこかの代表が歓喜に湧いた——あの赤と黄色のシャツはスペイン代表だろう。ぼくは自分の腕を見た。時計の代わりに点滴の針が刺されており、白い天井に白い壁と小さな窓をぐるりと見渡すに、いまの自分は病室で横になった患者をやっているらしい。窓のそとには欠けた月が浮かび、夜空は青白いひかりに包まれている。
 自分の置かれた状況もさることながら試合も気になった。この世の終りのように泣き崩れている青いシャツはイタリア代表だと思う。バロテッリの黒い頬をしずかに伝う涙が美しい。
「アダム!」
 病室のドアを開けたディディエが、ぼくを見るなり駆け寄ってきた。うしろ向きの男がディディエの腕を掴み、「大声は傷に響く」と低い声で注意した。
「わかってるって、スヴェン」ディディエは素直に頷き、ぼくに笑顔で向き直った。
「平気か? 気分はどうだ? あんたの両親なら半月も目を覚まさない息子を心配して医者と相談中」それも今日で終りだけど、とディディエは冗談めかして教えてくれた。
 ぼくは六月十五日に被雷したあとドネツクの病院へ運ばれ、容態が安定して以降は昏睡状態に——ウクライナへ飛んできた養父母の意向で、こうしてグリニッジの病院まで移送されたらしい。ぼくは半月のあいだ死んだように眠っており、ディディエはウクライナ国内で落ち合った恋人とスウェーデン行きを先延ばしにして、ぼくを見舞ってくれていたという。
「紹介してなかったよな、おれのパートナーでスウェーデン人のスヴェンだ」
 テレビから目を離さずにいた男が、ディディエの紹介でぼくを振り返った。「きみがアダム・エアリーか。話は聞いてる、ディディエの恩人だろ」
 ぼくはスヴェンの顔を正面から見て驚いた。イブラヒモビッチに、いや、偽ズラタンにそっくりなのだ。すかさず彼の下半身を確認したとも——うん、足がある。
「それ皮肉か」とディディエが泣きそうな顔をした。スヴェンの手がぼくの目を誘導するようにベッドの下方に置かれたことで気づいたのだが、ぼくの両足があるはずの場所はシーツとマットレスがぴったりと張りついていた。
「きみの両足は、膝下から焼け爛れていたそうだ」スヴェンが気の毒そうに説明してくれた。
 そうか、とぼくは答えた。不思議と辛くはなく、感情が飽和しているわけでもない、車椅子や義足を使うリハビリ段階に入って苦しむとしても、ディディエとスヴェンを前にして、ぼくは波立つことのない水面のように平穏な気分でいた。もともと自分の身体のつくりはこうであるというくらい、いまのぼくは自然体をしている。
 おれが代われたら、とディディエが申し訳なさそうにしてぼくの手を握った。馬鹿を言うな、きみの足がなくなったら踊れないじゃないか。ぼくは力の入らない自分の手でその手を握り返した。
 気を取り直すためにも、ディディエにはイスクラの安否を訊いた。一回だけ短い電話があったよ、とディディエは答えた。
「オーストラリアに着いたってさ。技術卒業ビザも付けといたし、イスクラの腕とロンドン老舗の推薦がありゃ何とかなるだろ。アダムの事故のことは言えなかった……おれと再会する必要が今後ないことを祈るけど、あんたは最後に空港でイスクラと話したんだろ?」
 ディディエの言葉に、ぼくは寝起きの頭痛をわきに押しやって彼女のことを思い出そうとした。

「スウェーデンに行くことがあったら、ディディエの踊りを見るといいんだわ」イスクラは別れ際に話してくれた。「とても素敵よ、真冬の寒さのなかにいても夜の暗闇にいても彼って温かく輝いてるの。すその長いドレスを着て踊るディディエを見たときにね、姉さんのこと、マリーチカのこと、あたしが彼女に恋してることは何も悪いことじゃないんだって、あたしたちは愛し合ってもいいんだって思えたの、本当よ。あたしのこと、父さんと母さんはマリーチカを誘惑する魔女だって許してくれないまま死んじゃったけど——」
 イスクラは向こうで待つ姉を振り返ってから、ぼくに笑いかけた。「あたし、どうしたってあたしの気持ちを抑えられないんだわ」
 きみが魔女なもんか、とぼくは言った。
「あなたの気持ちを利用して本当にごめんなさい。ウクライナを出てから人に言えないことは沢山したんだわ。あたしったら手癖も悪くてね……」
 お互いさまさ、とぼくは言い、返しそびれていたフットボールくじをイスクラに手渡した。イスクラはさほど驚いていなかった。
「あたし、ボールを蹴るのは苦手なんだけど、ベットなら好きなの」
 稼げる才能じゃないか。
「いつも当たるわけじゃない。これは〝もしも〟のときのため。計画ってそうそう予定通りには行かないものでしょ、悪だくみならなおのこと」
 空港ロビーにあるモニターを見上げると、フランスが二対〇で勝ち点三を得た瞬間だった。五試合の当たりくじは、彼女の手中にある。すべてイスクラの金だ。〝もしも〟きみやきみの大事な人が病気になったときに使うといい。
 ぼくは言い、それから自分の左腕に巻いたウィンドミルズの時計も彼女に渡した。この時計がきみとぼくをつないでいると思っていいか、と大真面目に言って。
「ウクライナの唄にね、〝この扉を一度でも友人として通った者、もしも望むことあれば生涯つづく限り友人として迎えられよう〟ってあるの」覚えておいて、とイスクラは自分の左腕に時計を巻き、ぼくに見せて悪戯っぽく笑った。
「ありがとう、アダム。店を持ったら、あなたのために靴を贈るわ」

 イスクラの靴をもう履けないのは残念だ。
 ぼくの話を聞いたあと、ディディエは一枚の紙を指に挟んで差し出した。
「アダムの産みの親、マンチェスターにいるって話してたろ。あんまり目を覚まさないもんだからさ、待ってる間に捜してみたんだ」
 紙には住所と名前が書かれていた。
「お袋さんは生きてるよ、そこに書いてある場所で生活してる。但し、状態はお世辞にも良くはない、ヒュームのスクワットだし。アダムのことも覚えてるかどうか……会いに行くも、やぶり捨てるも、あんたの好きにしてくれ」
 たいした奴だ、あの少ない情報で捜し出したのか。
 ディディエはにやりと笑った。「おれは顔が広いんだ。他にも何か知りたいことがあれば、あんたの足になるよ」
 欧州選手権の結果を教えてくれ、とぼくはベッドから身体を起こして答えた。テレビでは表彰式が行われているし、イングランドがどこまで勝ち進めたか、他にも色々と知りたいことがある。
「イングランドもフランスも仲良くトーナメント初戦で敗退さ。決勝はスペインとイタリア」で、ごらんのとおりスペインの連覇だ、とスヴェンが答えた。
 つまらない。ぼくが言えば、ディディエとスヴェンはふたりして「まったくだよな」と同意した。
「いくらでも聞かせてやるよ。オランダは巻き返したのか、優勝候補のドイツはどうしたのか、イタリアの戦法は、シェフチェンコの引退は、イブラの怪物ゴールは、ピルロのPKは、トーレス復活は——」
 順に頼むよ、とぼくはディディエに言った。急ぐことはない、ぼくらは輝く子午線上にいる。ここには余りある時間があるのだ。
 アダムは快方に向かったか? それはあなたの目の前にいる人間を見て判断してほしいが、ぼくが誰であるのか、あなたにはもう判らないかもしれないね。ぼくは時計も手放したわけだし。大事なことは行方じゃない。あなたから託された時計が、いまもあるべきところで動いているということだ。