時を食べた怪物 I.



 一七三七年、ハワードの手記

 六月二九日
 神聖ローマ皇帝カール六世の容態が芳しくない。アイルランドの植民地化ならびにニューイングランドの開拓地では、卑怯きわまりないフランス軍による邪魔立てが日々厳しさを増し、別して新大陸への早急な措置が望まれる。
 エジンバラよりロンドンへ帰国後、国事勅書の定めるところを良しとしていないプロイセン、フランス、スペイン、バイエルンについての速やかなる報告のため、ロスチャイルド家を訪れる――。

 六月三〇日
 ウィンザー城にて我が国「グレートブリテン王国」そのひとと面会を果たす。ダニエル・デフォーが亡くなる前、孤児のわたしに目をかけてくれたことから諜報活動員として国に仕えはじめたが、祖国との面会は三度目になる。
 ウィンザーを出るなり、成人したわたしとさほど変わらない外見年齢の祖国は、のちほど視察する人物と、ある発明品について話をしてくれた。
「ガリレオ・ガリレイ二度目の裁判から一〇〇年、回る地球のふたつの極をまっすぐ通る線のうち、経度〇度の子午線は一体どこに引くべきだろうか。精密な地図や羅針盤があったとしても正しい経度を知る方法がないとなると、フランシス・ドレークほどの優秀な船長であろうと居場所を見失う。正午の太陽の位置、あるいは夜空に北極星を探すことで緯度を知ることはできるが、アイザック・ニュートン卿が言うには、経度が三六〇度あること、一時間は一五度に相当することを計算できるのだから、船の現在地が経度何度にあたるかを知るために時刻を知ることが何よりも重要となるらしい。太陽と星で導き出せる船の現地時刻と、もう一方で母港の現地時刻を知る必要がある、と。
 ここへきて我々の前に難問が立ち塞がってくる。国内に流通している高価な携帯時計(ウォッチ)は置き時計(クロック)より精度が低く、ウォッチよりも正確なクロックは振り子式で揺れに弱い。さらに二種類の時計はともに気候や気温の変化にも影響を受けてしまうということだ。
 アイザックには世話になった――おれがペストで弱っている間も有意義な思索の着想を話してくれたりな、グリニッジ天文台監察委員長に就任するまでの業績は万人の知るところだろう。あいつは天体の運行のどこかに答えがあると考え、一〇年前に亡くなるまで文字どおり命を賭し、毎夜休まず月や星の動きを調べたよ――フランスとプロイセンもおれの真似をして天文台を設置したらしいが、無駄なことを――一七一四年にアン女王陛下承認のもと議会で経度条例が制定されたころには、経度測定の解決策は天文学にあるのではないかと国の世論も傾いていた。
 ああ、経度条例か? ――経度を測定する方法を見つけた者、とりわけ誤差が二分の一度以内の精度で測定できた者には、二万ポンドを与えてやることにしたんだ。何、おれの国庫にしたら二万なんかはした金さ。ところが、どいつもこいつもろくな発明を持ってこねえ。経度評議員会は何年も一向に招集される気配がなく、アイザックの遺志を継いだエドモンド・ハレー博士がようやく見込みのあるやつを田舎から引っぱり出してきたのが、二三年目のことだった」
 ジョン・ハリソンの本職は大工だが、置き時計もつくる。ハレー博士の触れこみによると機械設計の天才らしい。但し祖国は「個人的見解を述べさせてもらうなら、時計なんぞ信用ならねえけどな。馬鹿らしい。どこからどこまで嘘としか思えん」と不満を漏らしている。
 レザー小路に住むハリソン家の工房に、海洋時計装置の第一号がある。製作に五年の歳月を要し、昨年五月に性能を確認するため、ポルトガルのリスボンへ向かうセンチュリオン号に積まれて実験航海に出ていた。驚くなかれ、航海長が計算した実際の初認陸地と、ハリソンが彼の時計から予測した距離は、正確に一致していた。賞金をもらうには西インド諸島までおよそ六〇日の船旅をしても時計が狂わなかったという証明が必要になるものの、第一号を評価すべく招集された経度評議員会には十分に印象づけられたらしく、第二号の開発のために五〇〇ポンドを提供されている。
「あんれは一七一二年のことです、本を買う余裕などない貧しいわしに、貴重な教科書を貸してくだすったのが祖国さまでしたがや、覚えておられるでしょうか、ケンブリッジ大学の数学者ニコラス・ソーンダーソンの、あー偉大なる、自然哲学の、講義録の写本でございまして――」
 父は話をまとめるのが苦手なんです、と年若い息子ウィリアムが四〇半ばになろうかという親を遮って説明するも、祖国は彼らの働きに満足げである。
「あの子どもが経度測定に名乗りを上げるとは」しかし、と祖国は仕事着の親子を頭の上から爪先までながめたのち、「一言いいかな、ミスター・ハリソン」田舎者を諭すように優雅な発声でこう述べた。
「おれには解らん、機械仕掛けのぜんまいに期待していいものか――精霊をランプに閉じこめることはできても、時間をまるごと瓶詰めにするなんて土台無理な話じゃないか。木製歯車が回るのを見ているそばから、我々の時間は逃げ出していくぞ、暗闇が日時計から影を奪おうとも、時間そのものは進んでいくぞ。時計にできることは時間の進行を示すことだけだ。心臓の鼓動や潮の干満のように時間の歩みは気まぐれさ。時計には時間を保つことなどできやしねえだろ。時間に遅れないようついていくのが関の山だ」
 ウィリアムはしょんぼり肩を落としたが、ジョンは気難しげな表情を変えぬまま「そうかもしれんですの、祖国さま」と答えた。「人間は時間が過ぎなければいい、過ぎなければよかった、と年を重ねるほど願うもんですが、時間を遡って時のはじまる前までいけらたらどんなにか、仕合わせだろうか、皆かつてあったとおりならば、そりゃどんなに良かろうかと、先人から語られることは真実などではなく、事件はいまも起こっておらん、我々がそれを考えた瞬間にはじめて起こるのであってほしいもんでして」
 そのように思うならば、どうしておまえは時計をつくるのだ、と祖国は疑問を呈した。
「正しい論理に従ってものをつくれば、機械は必ず命を持つ」
 それを証明したいのです、とジョン・ハリソンは答えた。なるほど、彼の眼前には成功例(えいこく)もいることだし、中身は違えど機械とて事実それを宿すことが可能なのかもしれない。
 工房に足を踏み入れてしばらく、祖国とわたしは海洋時計のあまりの美しさに魅入られる。ハリソンが製作した時計の骨組みは真鍮で出来ており、時計というより一隻の船を思わせた。正面にある四枚の文字盤は八人の天使の彫刻と四つの王冠に彩られ、両脇から櫂のような八本の振りざおを下ろして時の海への出航を待っている。彼女に気分屋の風は必要なかろう。後方の二本の支柱にマストの帆は張られていないが、天頂に月と太陽のように輝く球を掲げたまま、支柱同士をつなぐコイル状の細いバネを伸縮させて動力を生み出せる。剥き出しの内部機構のうち、歯車だけはオークやユソウボクの木が組みこまれているため、螺子巻きの他は油を差す必要もないのである。これほど精妙な機械装置はどの国でも見たことがない。
 祖国は時計を納めたキャビネットを一周したり、前後に揺らしたりしながら、ウィリアムと時計の仕組みについて質疑応答をくり返し、製作中の第二号も事細かに観察する。ジョン・ハリソンの頭の中には第三号の構想もあるらしく、特にアンクルには何かもっと硬質なものを使わねばならず材質を決めかねている、と話す。祖国は頬に朱色を差すほど興奮しており、黒羅紗に金モールのヤポンスロックに似た丈の長い上着から、絹の巾着袋を取り出してヘーゼルナッツほどの石をいくつか掌に乗せると、これはどうだ、と親子に差し出した。
「インドのパテール鉱山から発見された宝石のひとつで、ほら、ダイヤモンド(アダマス)はあらゆる物質の中でも最高の硬度を誇るというし、ユダの罪を印した高貴な石だろ」なにより見目麗しい、と祖国は恍惚とした眼差しで宝石を見つめる。研磨されていない原石の輝きは鈍いが、親子は声にならない悲鳴を上げると、高価な品物をおそるおそる視界に入れた。
「本当はアンに捧げたいと思っていたが、彼女の死期に間に合わなくてな――黒太子のルビーのように鎧の下に縫いつえようにもハノーヴァー家はフランス語しか喋れんから、ダウニング街一〇番地にいるウォルポールのほうが話しやすいし――陛下の孫のフレデリックが即位したらやってもいいな、あいつはイギリス人だから」
 祖国は王族と違わず、戦闘の第一線へ赴くことも少なくない。近年は新大陸へ度々航海しては何か得体の知れないものをつくる作業に夢中だとの噂もある。着込んだ衣装も宝石も、東インド会社を率いてベンガルかそこらへ行き、原住民やフランス軍と一戦交えて強奪したものには違いないだろう。剣で首を刎ねても鉄砲で心の臓を撃ち抜いても死ぬことはないと伝説に謳われているほどだから、彼が戦地に舞い降りたならブリタニアの女神光臨のごとく、兵士たちの士気は急激に高まるのだ。もっとも前線に立ち、不死身を披露しているばかりいても戦には勝てないので、こうして国土の技術産業の発展に貢献したりもする。貴族階級にして政治家どころか王族よりも多忙である。
 ええ、ええ、王太子さまに献上されるのがよろしいでしょう、と親子は頭を垂れた。祖国は無意識にも威圧的な表情を曇らせる。「遠慮はいい。こんなに美しいものをつくれるなら、そこに大英帝国の徴を飾るのも悪くないだろ? ロンドン塔に隠しておくのは忍びない」
 十ほどやろう、と祖国はジョン・ハリソンにダイヤモンドと他にもルビーを掴ませた。パンジャブを占領すればムガル帝国の宝もおれのものになる、と彼は豪気に語る。「マドラス総督がオルレアン公に売りさえしなけりゃ、今頃あの宝石(リージェント)もルイ一五世の王冠より相応しい場にあるはずなのに」
 祖国は昔たいそう貧しい島だったので、その反動かなんでも欲しがる。次に欲しいものは七つの大海というわけで、自国の商船や戦艦の沈没の原因が天災だろうと敵国だろうと構いはしない。船を沈められると倍にして沈め返し、新たに造り直し、こうして経度問題の解決にも熱心に取り組んで海を支配しようと躍起になっているのである。
「完璧な海洋時計装置を頼むぞ。可能なら、おれも次回の実験航海には同行しよう」
「はい、祖国さま」
 誠実に尽きるウィリアムは、宝石でアンクルの解決を試みることを祖国に誓いながらも、躊躇いがちに「本当に、時計をつくることはお赦しくださるのですね」と念を押した。どういう意味だ、と祖国が問えば、ウィリアムは憚りながら言う。
「いえ、時間は建築物と同じくきわめて人工的なものですから。仮定された一太陽日は正確な尺度ではなく、その割り振りこそが人の所業なんです。人々が知覚する時間の経過とは、何かしらの事物の変化を通してのもの。すなわち時間とは、事物と事物の比較を通じて到達したひとつの抽象とも言えましょう」
「それがどうした」
「きわめて正確な時計は特定の尺度を永遠に示しますが、それは要するに、祖国さまの言葉をお借りすれば、精霊がランプから出てくるように時間がひとつの事物に化けて出たような現象なのです」
 ウィリアムの言葉を聞き、祖国は胸に当てた羽根つき帽子を揺らして高笑いした。結構なことじゃねえか、と親子の肩を抱く。
「おまえたちがランプに閉じこめる精霊は、『千夜一夜物語』に出てくる魔神よりも崇高で強大な力を秘めているんだぞ。怪物リヴァイアサンとて敵うまい。そいつを使役してグレートブリテン王国に悠久の繁栄をもたらそうじゃねえか! 海洋も土地もすべて支配下に置けたら、どの国も仲間にしてやろう。この世に賢い君主が一人きりなら戦争など必要ないし、そうすりゃ愛する国民が飢えることもない」
 しあわせに暮らせるよ、何よりだ、と祖国は相好を崩した。ちょうど『ガリヴァー旅行記』に登場するラピュタの学者たちのように、現実世界の常識を忘れて理想の世界に舞い上がっている。海洋時計装置の思わぬ出来にすっかり機嫌を良くした祖国は、わたしを連れて意気揚々とハリソン家を出た。
 わたしはハリソンが最後に祖国の背中へ向けて放った「わしはあなたのお身体がどうにかなってしまわんか、そのことがどうも心配ですがの」という言葉が気にかかる。

 七月一日
 ロンドン大火から復興させた石造りの街並もようやっと美しくなった、と祖国はデットフォード造船所に行く道々、わたしに語ってくれた。ロンドン市内は煤けた煙と糞尿と汚水の臭いが充満しており、街を横断するテムズ河畔には挨拶代わりに死体が揚がり、裏道には貧民たちが鮨詰めにされたスラム街とタイバーンの絞首台行きを免れている犯罪者が数多く潜んでいるのだが――まあ、表通りを歩くだけなら体面は整っているかもしれない。あの惨状をどうにか間接的に改善することが、知識人や政治家の仕事でもある。
「ハワード、『ロビンソン・クルーソー』を読んだか。あの手の書物はこの先もっと流行るぞ」
 伝記ではない、空想の世界を語り手に旅させる読み物に、祖国は多大な興味があるらしい。しばらく滔々と小説の魅力を語るも、どこから逸れたのか港の話題へと移り、エディストーンの危険さを論じている。「プリマスの南にある岩礁でな、イギリス海峡からプリマス港に入るときに座礁しやすいのなんの。灯台を建て替えさせたが、あそこには人魚もいるから避けたい船乗りは多い」
 祖国は両手を後ろ手に組み、海をながめている。隅々まで水平線のすべてを視界に収めようと背筋を伸ばし、胸を張っている。折り目のない襟は彼の尖った顎を隠すように一インチほどの高さがあり、鈕で前を留める前開き形式の長衣を羽織っていた。身ごろを広くとってあり、両の袖がゆったりと手首まで伸び、裾は地面に届きそうなほど長い。黒羅紗の布地をよく見ると、黒と同色の糸で三日月とチューリップの花が布一面に連続文様で刺繍されている。立派な誂えの頭部では、つばの広い帽子に付いた孔雀の羽根が頭上で揺れ、光の反射によって羽根は玉虫のような何とも言い難い色にひかる。オスマン帝国のウラマーが身につけていた長衣でビニッシュというらしい。
「一五六二年にエリザベスが贅沢禁止令を出していたとき、男爵以下の身分の者も一ヤード以上の長さの布やサテンやベルベットあたりの布は使用を禁じられていたんだ」
 海軍制服の上に長衣を着てみたかった、と祖国は言う。「ジョージら国王は質素で悪くないんだが、アンまでの時代が恋しくもある。あの子は贅沢暮らしでお転婆だったが、統治者としての素質ならベスに負けちゃいなかった」
 恋しいのは時代なのか、とわたしは訊いた。「ふふん、未婚のおまえには解らんだろうな――人々はこの栄光の花をグロリアンと呼ぶ、汝、グロリアンよ、栄光と偉大な力の女王万歳」とスペンサーから『妖精の女王』を讃美する彼の返事に、祖国も既婚者であることを失念していた自分に気づく。
 あなたも日に日に成長しておられる、我が「グレートブリテン王国」よ、とわたしは言った。
「ああ、ちびで惨めなイングランドとはおさらばさ。とはいえ、忘れたいことばかりでもない。それなのに国の統治者が替わるたび、自分の頭も取り替えられたような気になるんだ」
 祖国は肩をそびやかして歩く。人類で初めて神だけが住む大海へ乗り出そうとする我々は、果たしてランプの精の使役によって世界を支配すべきなのだろうか。

 一七五七年、ハワードの手記
 六月二三日
 ジョン・ハリソンがダイヤモンドとルビーを用いたアンクルと、製作に一七年の歳月を費やした海洋時計装置の第三号が完成する。オーストリアの継承問題においてスペインと交戦中のため、第二号は未航海のままに終ったわけだが、残念ながら第三号も同じ末路を辿ることになるだろう。何しろ三つの大陸に跨がる大規模な戦争を繰り広げている物騒なとき、貴重な装置を易々と海に出してやるわけにはいかない。
 イギリス帝国はインドおよびアメリカ大陸における植民地の覇権を争っている最中であり、ヨーロッパ大陸ではプロイセンへの財政援助を惜しまず継続している。フードリヒ大王の指揮のもと、プロイセンがシュレジェンの確保に成功したのも、我々の援助があってこその賜物であろう――などと言うと、石を投げつけられそうではあるが。
 アメリカ大陸へ出兵した祖国は、植民地の身に刺さった棘であるケベックの中心城塞都市モントリオールをついに占領し、インドでも一月のカルカッタ奪回に加え、三月にはシャンデルナゴルを占領、ロバート・クライヴの指揮のもと、ベンガルの首都ムルシダーバード近郊のプラッシーでフランス東インド会社の支援を受けたナワーブ軍の将校に内応を約させて敵軍の退却に成功した。
 祖国の寛大なる勝利宣言とともに、フランス潜入中の諜報員が極秘に入手した伝書鳩での遣り取りの記録を以下に記しておく。
「グレートブリテンより――ザマアミロ、ワインヤロウ」
「フランスより――カナダノ イチョウノ ブジヲ イノル」
「グレートブリテンより――デザートハ オマエノクビ ダ」
「フランスより――オコトワリ」

 七月四日
 ウィリアム・ヘンリー砦に駐屯してるモンロ指揮官は地位を剥奪すべきではないか。エドワード砦から民兵を補強してようやく重い腰を上げたらしいが、それまでに一切の機密情報も傍受していない。
 プリマス植民地にいる祖国へ状況を報告したにも関らず、返事は長たらしい書簡、さらに悪いことに内容が理解不能である。由々しき事態を打開せねばなるまい。
「七月は良い季節なので調子がいい、新大陸では雲ひとつない青空が数日も続くのだから尚のこと気が晴れるというもの。
 ところで、おれの領土は大陸の沖合に浮かぶ島国だ。ヨーロッパ大陸の大国の膨張に直面し、恒常的に安全保障上の脅威を受けていた。国内にまで勢力を伸ばされては内戦の勃発も避けられない。一五世紀の半分も生きたころにはもう、おまえの先祖も土壌も疲弊しきっていた。チューダー王朝の成立は、生き残りを賭けた治世だったのだ。そもそも宗教改革や議会制の確立こそ、まさしく国運を賭けた情報活動の賜物で、エリザベス女王陛下の統治において初めてまともな国家的情報機関を立ち上げることができた。その指導者が我が国でも有名なフランシス・ウォルシンガムという男だ。
 我々は大陸にいるイングランド外交官から、あるいは商人や教会関係者から、希望的観測や宗教感情はなしにして情報を集めた――一元化された情報は女王とウォルシンガム、おれの三人の内でしか共有しないことを鉄則に。ピューリタン革命の混乱でヨーロッパ全土を敵に回したが、クロムウェルの独裁にしばらく任せた結果として、インテリジェンスはモノになったと思う。
 ウォルシンガムとは気が合った。ふたりしてベスに、いや、エリザベスに『女王はあまりにも運命を当てになされる。もっと全能なる神を頼られると良い』と進言したりもした。あいつは冷静沈着にエリザベスの政敵を次々と倒し、常に聖職者のように黒衣をまとい、時に得意の二枚舌や恫喝的な言辞を操っていた。そのため暗い謎に満ち、危険と策略に長けた闇の人間、と同時代の人に見なされていたようだ。ウォルシンガムとおれは、よく似ていた。
 さて、ミスター・ハワード――おれは貴君のことをウォルシンガムと同じく情報機関のために生まれてきた人間と見込んでいる。この意味は解るな?
 おれは未開の地で非常に忙しい。昨夜は実に惨憺をきわめた。陛下直々の命でおれに課せられた弟たちの教育という、本来の責務とは無関係のところで細々とした労力を費やした。具体的に言うと軍の不始末である。一七一〇年に起きたポートロワイヤルの戦いから延々と続いた、我が国に絶対的忠誠を誓おうとしないアカディア人の追放の後始末である。
 労力の結果として、この地で落とした信用はなんとか形を取り戻したと言えよう。が、如何せん満足のいくものではない。体裁は保っているが、はっきり言って蓋を開けばゴミに等しい。ゴミを生み出した代償として、おれは肉体と精神を大いにすり減らした。頭上で燦々と照る太陽が、雨国へ帰れと自分を嘲笑っているかのように感じる。いや、実際にそうなのかもしれない。奴隷の流れ、開拓地の喧騒、破壊して消費する音、自分を取り巻くもの、人間! いまや世界のすべてが自分を刺激する敵であり、苦痛の根源である。皮肉のひとつでも投げてやりたいが、それすら口をついて出てこない。言葉をかけることすら疎ましく思える。侮蔑を孕んだ目で見つめても、負け犬連中はうな垂れたまま。図々しく愛嬌のある人種も扱いに難儀するものだが、このように捨て犬まがいの表情を浮かべ、全身でその無様さを晒す人種の扱いにも難儀している。
 おれには大事な使命がある、愛する弟たちを我が国と並んでも恥ずかしくない大国へと立派に育て上げねばならん。国の繁栄は亡きエリザベスとの誓いでもある。そういうわけで、おれはプリマスから離れられない。ニューヨークへは時期に行くが、ウィリアム・ヘンリー砦の件は本国の上司を当たってくれ」

 八月三日
 モンロ指揮官の部隊は、インディアン兵と同盟を組んだフランス軍にサバスデイポイントで奇襲を受け、一六〇名にものぼる死者を出した。身の毛もよだつ話によると、彼らは虐殺した捕虜の肉を食べたという。にわかには信じがたく調査の必要を感じるが、それもこれもフランスの卑怯な性質と植民地への思想教育が悪い。
 祖国はというと、相も変わらず雨の降らない新天地でアメリカとカナダの教育に心血を注いでいるらしい。あちこち出回っている我が国の軍には人的被害も多いから、本人の体調にも何かしら不具合が発生していると思われるが、書簡を読む分には聖母のような慈愛に満ち満ちている。わたしは国民と彼との総意に乖離を感じる――。

 一七六〇年、ハワードの手記
 一〇月二五日
 ジョージ二世国王陛下、崩ずる。
 祖国がダイヤモンドを捧げたいと話していた、孫のジョージ・ウィリアム・フレデリック王太子が王位を継承する。
 わたしは奇しくも四三歳になった――いやいや、違う――この生誕日も「ハワード」になった日ではないか。困ったことに、もはや本名すら憶えていない。家族の顔も、そもそも自分に家族はいたのだろうか、孤児の身の上だからこそ国を渡り歩く諜報員として育てられたのでは? もともと存在しない人間だからこそ、祖国とわたしはそれなりの関係が築けているのでは? 本来の自分をすっかり忘れてしまっても問題はないが、頭をすげ替えられると言った祖国の気分は理解できるような気がする――。

 一七六二年、ハワードの手記
 八月二二日
 ジョン・ハリソンから、海洋時計装置の第四号を見にきてくれとの知らせを受ける。久しく会わないうちにハリソンはずいぶん老けこみ、持ち前の頑固さにも磨きをかけていた。少年だったウィリアムも早三一になり、誠実さをそのままに精悍な顔立ちの青年へと成長している。
 「マリン・クロノメーター」と名付けられた第四号の大西洋横断試験は、ジャマイカに到着した時点で五秒の遅れ――これは経度で一.二五分、およそ一海里のずれに相当する。その誤差は往復でも二分。規定の倍の航海日数をこなし、たった二分の誤差しか出さなかったのである。
 第一号から第三号までの時計はどっしりした真鍮製だったが、クロノメーターは直径およそ五.二インチ、重量わずか三ポンドの小型な携帯時計(ウォッチ)だった。対になる銀のケースには白地に黒線の模様が描かれ、文字盤状でローマ数字とアラビア数字を囲み、青い鋼の針が付いている美しい機械である。
「不遜を承知で言わせてもらうなら、わたしの時計、すなわちこの経度測定用時計よりも美しく、また興味深い仕組みをもった機械的、数学的装置は世界のどこを探しても見当たらないだろう」
 職人ハリソンも、この画期的発明の見事な出来には満足がいくらしかった。内部機構を保護するプレートの下方で回る歯車のあいだでは、祖国が提案したダイヤモンドとルビーのアンクルが摩擦と懸命に戦っている。ふざけたことに、今月の評議員会の報告では、第四号は正式な西インド諸島への航海に出、より厳密な形で訓練を受けなければならないという。いつになっても賞金全額を払ってもらえず、親子は年月の長さもあり落胆していた。現時点で一五〇〇ポンド、二度目の航海から帰還した暁には一〇〇〇ポンド、二万ポンドには到底及ぶべくもない――。

 一七六三年、ハワードの手記
 二月一〇日
 もはや縺れてほどく術もない糸屑のようになっていた、我がグレートブリテン王国とフランス・スペインの三国間の戦争も、講和条約によってどうにかこうにか終結の目処が立つ。割譲した領土のうち返還した場所も多いが、ケベックを筆頭にカナダの領土とミシシッピ川以東アパラチア山脈までのルイジアナ、フロリダ、インドを領有できるのは大きい。
 とうとう帝国の時代が幕を開けた、沈まぬ太陽は我々のもとに昇るだろう。
 我が国の覇権が確立されアメリカ大陸の植民地には平和が訪れる予定だが、フランスの脅威が消えた分、反乱の危険は増すことになる。しかしながら当面の問題として、我々には金がない。貴族連中は生活水準を維持しているくせ、国庫は深刻に底をついている。戦費を回収するためには、植民地にもさらなる課税を強いらねばならない。すると今度は反乱の危険が増すことになる。どうすれば? 祖国に弟君を説得しつづけていただくしかあるまいよ。
 調印式を終えた祖国は、臨時託児所のような状態だったカナダを正式な領土として迎え入れたので、多少頬を痩けさせながらもフランスとスペインの「国」相手に時を得顔に振る舞っている。体調が万全ではないどころか疲弊している点においては他二国も同様らしい。とはいえ、フランスの麗しさは健在、愛の神エロスを虜にしたプシュケそのものが地に降り立ったような姿をしている。祖国は彼の「顔」だけなら好ましいと話していた。無敵艦隊を誇っていたスペインは、砂漠の太陽を思わせた恫喝さが鳴りをひそめ、やわらかな布地だけにくるまれた身形(みなり)も含め、黒髪に緑の目が魅力的な好青年にしか見えない。チョーサーの『カンタベリー物語』で聖トマスの参詣道中にいたら、間違いなくもっとも面白い話を陽気に語ってみせるだろう。
 会場入口で祖国を待つわたしの眼前を、フランスとスペインが通りすぎていく。
「ふざけんなや、眉毛ぇ」
 式典中はきれいなカスティーリャ語を話していたスペインが、アンダルシア地方の方言で罵詈雑言を連発している。ハプスブルグ家が断絶してから外交に苦労しつつ、国内産業はそれなりに発展中と噂に聞くが、精神的負担も蓄積しているようである。
「ユトレヒト条約から堪忍ならんねん、何がグレートブリテン王国じゃ、イングラテラの惚け赤茄子。おれが集めた財宝かてせこい真似してぶん盗りよってからに、素知らぬ面してジブラルタル持っていくねん――あんなん海賊行為やで! ほんま好かんわ、あいつ」
「可哀相なカナダ」フランスもさめざめと本気で嘆き悲しんでいる。「パンと消し炭の区別もつかなきゃ、アメリカとカナダの見分けもつかない高慢ちきに攫われるなんて。イングランドのやつ、そのうち〝晴れの日〟にも税をかけるぜ! お兄さんは諦めないからね、カナダ」
「もう嫌や、わいも帰ったらロマーノに美味い飯つくってもらお」
 スペインはフランスを慰めながら、恨めしげに天を仰ぐ。フランスは幼気(いたいけ)な子どもらが食事ではなく石炭を食わされて育つだろう、灰色の未来を想像しては憂う。
 祖国の浮かれようは第二の国歌的合唱曲『治めよ、ブリタニア』作曲家のアーンによる手解きを受け、弟のための子守唄を作曲するほどで、「初めて恋を知った少女のようだ」と隣国にまで揶揄されている。

 一七六四年、ハワードの手記
 三月三日
 戦争中は海軍でも使用されたジョン・ハリソンの海洋時計装置第四号(マリン・クロノメーター)が、二度目の航海に出る。経度測定の目的地はカリブ海のバルバドスとされ、ターター号には時計を管理するウィリアムの他、彼が測定結果の証人として兼ねてより希望していた祖国と、ウィリアムの友人のわたしも乗船する運びとなった。わたしの任務は諜報というより祖国の護衛が主である。
 多くの交易航海はニューファンドランドに行き、次いでスペインまたは地中海に向かい、そしてイングランドに帰るといった三角交易に従って行われ、アメリカや西インド諸島向けの運航者は、概ね一巡航を一年で行う方式を採用している。大西洋横断航路は平均三ヶ月を要するが、近年テムズ河沿い以外でもウィットビーやスカーバラの造船業が発達し、ニューカッスルからハルに至る北東海岸は我が国最大の造船地帯となっている。加えて北西海岸のリバプールやグラスゴーといった石炭港の拡大も目覚ましい。経度測定を誤り余計な寄り道もしくは遭難しなければ、航路日数は日進月歩に短縮しているといえよう。
 祖国はハリソンの最高傑作にしばし見惚れはしたが、第一号のときほど感動を覚えなかったようである。石頭の評議員会の連中と正確さ唯一点を求め、とりわけアメリカ大陸との往来をより安全かつ快速な旅路にしたいと話す。
「機械は必ず壊れる。故障する。狂いが出るものを航海途上で使うということは、それに船長以下全員の命と、積み荷の損益が懸かっているということだ。それは絶対に完璧なものでなければならない――人間がつくったという事実を超えるほどに。絶対に狂わない星の運行と同じくらいの精度がなければ」
 危険があるなら採用できない、と祖国は真剣に考えており、決して意地悪をしているわけではないとウィリアムを諭す。彼の言い分は尤もらしい。しかし、彼や経度評議員会の真剣さは人間が空を飛ぶかもしれない未来ならいざ知らず、現今の工学基準にしたら度外れて厳しすぎるのもまた事実なのである。ウィリアムはひどく肩を落としていた。

 五月一五日
 昔から他国の商船で航海する機会も何度かあったが、イギリス船の食料の質は毎回どうにもならない。ビールは気が抜けて酸っぱくなり、モスリンで包んだチーズもビスケットも鉄並みに固い。バターは腐って臭いを振りまくし、パンは伝統的に堅パンである。防腐剤も塩しかない。それでも食いつなげるだけの量がある分、他国よりはましだろう。海軍の船はもっとひどい。イギリス船員の飲酒癖は悪名高き海軍仕込みであり、海難の原因のひとつにまで取り上げられる始末なのだから。外交官仲間のジェームズ・クックが新鮮な野菜に代わるものを模索しているらしいので、一刻も早い代用食品を祈るばかりである。
 我々を悩ませる腹具合の悪夢も、ターター号がバルバドスに到着したことにより良好の兆しをみせる。何をとち狂ったのか、現国立天文台長のマスケリンが先回りしてウィリアムに嫌味をくれるという想定外の事態も起こりはしたものの、真面目なウィリアムが肌身離さず厳重に管理していたクロノメーターの誤差は、距離にしてわずか一〇マイル――経度法の要求する条件より三倍も正しい値を叩き出したのだ。ハリソンの海洋時計の内部構造を突き止めようと、かねてからフランス政府も時計学者の一団をロンドンに寄越しており、これはもう他国に機先を制される前に実用化へ踏み切るべきだと、祖国に進言した。
 陛下に復命しておこう、と書状をしたためてくれたまではいいが、祖国は書状をターター号船長の郵便鞄に預けてしまうと、やにわに港に停泊する船を値踏みして船主に声をかけ、自分を乗船させろと交渉しはじめた。つまり彼は本国へ帰還する気などさらさらなく、バルバドスでアメリカ行きの船を調達するつもりでいたらしい。
 この祖国の身勝手さにはウィリアムもわたしも呆れたものだが、我々も任務を果たすためには各々の進路へ向かうしかない。彼らの無事と本国でクロノメーターが認められることを祈る。

 六月九日
 カリブ海に浮かぶバルバドスは、客人として訪れるだけならミルトンが描いたエデンの園のような保養地であることに間違いはない。そこからニューイングランド連邦のニューヨークへ行くなら日数も食わないのに、祖国の目的地はさらに北側マサチューセッチュのプリマス港であった。船には農法改良によって増産した穀物とイギリス人植民の生活に必要な鍋、釘、家具、書籍などの日用品もたんまり乗せてあり、バージニアやメリーランド産のタバコと鉄などを仕入れて夏のうちに帰帆する予定になっている。わたしはアメリカ大陸の日射しと、広漠にすぎる自然と、野蛮な人々と、祖国の上機嫌と、その他諸々にもはや嫌気がさしていたから、すぐにでも帰国したい。ああ、不潔で腐敗したロンドンが恋しい。
 アメリカの空は本日も霧ひとつなく青い。あまりに青いと明らかな夜空と勘違いしかける。一六二〇年にイングランドのサウサンプトンをメイフラワー号で出航し、はるばる六六日かけて航海した清教徒たちの終着点、ニュープリマスの海岸には突出した岩石があり、神聖視している者もいるらしい。なんの変哲もないその岩を海岸ごと望むコールスヒルという丘に、農耕民族の象徴ともいえる高い塀で囲われた小屋が見える。課税対象の窓があり、これまた課税対象に検討されているペンキを塗ってあるだけの素朴な木造家屋だ。ジェームズタウンから離れており、祖国が世話してやれない期間は、白い布で頭を覆った上品な乳母が何人か出入りするだけの静かな場所である。天蓋付きのベッドがひとつある寝室に、幼いアメリカとカナダを一緒に寝かせ、祖国は暖炉の脇に組み立てた簡易ベッドで横になる。わたしは客室に入れられた。本国から持ちこまれた目利きの陶器や家具の中、統一性の欠片もない極彩色の玩具や絵本、人形の兵隊がひしめき合っている様を見るに、祖国が子どもたちに何を与えれば良いものか迷走しているのは自明である。なまじ片付けられた部屋だけに、とりとめのなさが奇妙この上ない。

 七月四日
 帰国前夜、机に向かって書簡をまとめていると、客室の扉からふたりの子ども――もう年少とは言い難い年だろう――がわたしを覗く気配に気づく。振り向けば、瓜二つの双子は好奇の眼差しでわたしを見上げる。
「おじさんは何か本を持っている?」青い目をしたほうは物怖じしない子で、自然哲学に興味を持ち、正義感あふれる男児である。「『リヴァイアサン』も『プリンピキア』も読み飽たし、シェイクスピアとアーサー王はつまらないけれど天文学は楽しい。もっと昔のことも知りたいのに、イギリスは聖書物語や『悪行要論』とか『君主論』みたいな本ばかり持ってくるんだ。チェスより面白い戦争ゲームを教えてくれもいいぞ」
 わたしは自分の持ち物からニュートンの『光学』を彼に与えた。
「おじさん、ぼくも」とフランス語訛りの片言英語を話す菫色の目をしたほうは、祖国お手製の白熊のぬいぐるみを肌身離さず抱いている穏やかな気性の男児で、地理学に興味を持っている。「フランスさんや他国の物語も読んでみたい。イギリスさんの言葉の勉強も怠りませんから」
 わたしはフランソワ・ルガの『インド洋への航海と冒険』を彼に与えた。大天使ミカエルとルシフェルは双子という説もあるが、どちらにも我々を裏切ってほしくはないものである。
 祖国は身内に笑ってしまうほどやさしく、ゆえに極端に排他的と言えよう。課税の説得をつづけている交易とて、祖国に悪気はなくとも、自分の持ち物が欧州でどれほどの価値になるのか知らない子どもを良いことに、堂々と鞘取りして儲けているわけだから、自我の目覚めた子どもは成長とともに疑問を抱くようになり、すぐに小手先の二枚舌など通用しなくなる。そんなことは祖国も存知しているはず――これが極東アジアの仙人や小僧なら、彼も見栄を貫き通して秋霜烈日に、それこそ西インド諸島への対応と同じく元来の情け容赦もない苛烈さでもって制圧しているかもしれないが、何を夢みているのやら、まるでエリザベス女王陛下が受胎告知を受けて身ごもった天使でも育てているような溺愛ぶりなのである。
 わたし個人としては、他国に骨抜きになるくらいなら、切り捨てたほうが国の繁栄のためには健全であるように思う。祖国と自分に言い聞かせたい――悪徳も不義も世界中に轟いているし、いくらだだっ広い大陸だろうと、外の世界を知らずに子を育てることなど到底叶うものではないのですよ、と。
 子どもらを寝室に戻したあと、祖国が客室の扉を叩いた。わたしが彼らに与えた書物についてお小言を食らうのではと懸念したが、どうも杞憂に終わったようである。あの子たちに何をやれば喜ぶのか解らないので助かる、と反対に感謝された。
「ここはブリテン島から遠い。きょうもジェームズタウンに視線を向けると、母親が子どもを抱きしめ、小さな額に二つ、三つ、その子を不仕合わせから守るため身の内にあふれる愛情を徴づけるようなキスをしていた。世界は悪意のかたまりだ。少なくとも、おれは居心地の悪さに責められる。
 それでもコールスヒルに佇むと、おれも彼らの声、匂い、彼らのすべてを覚えていることに喜びを感じられる。どこに居ようともわかると思う、理屈じゃない、家族の一員だと思える。アメリカとカナダのまわりだけは魚も棲めない水のように空気が澄んでいて、霧が晴れる。この腕に抱きしめると、小石を投げ入れた水面のごとく気持ちが波打つ。腕から離すことがおそろしい、整理のつかない思いにしばしば駆られる」
 アメリカはよく泣くんだ、と祖国はつづけた。「普段は国民とも距離を置いてしっかりとしたものだが、泣くときだけは人の子どもと変わらず火がついたように泣く、いささか苦しげにしゃくりあげながら。硝子を伝う雨のような涙に拭う手は追いつかない。まさしく涙の海に溺れるという中にいる子を、どうしてやったら救い出せるのか。どこか痛むのかと訊くと首を横に振る。こわいのかと訊くと、頷きはしないが横にも振らない。心細いのかと訊こうとして、訊けずに言葉をのむ。とにかく会いにいけば常は笑顔で――しかし待ちわびている間に育てた孤独と不安は完全に消えておらず、カナダもいない前回の迎えの顔には参った。撫ぜてやっても抱きしめてやっても、まったく落ち着く気配がないことに愕然としたよ。これまでおれが宥めて泣きやまないことなどなかったのに。おれがいるだけでは駄目なんだと思い知らされ、脳裏にわらう三人の兄と、遠く古代ブリタニアと崇められた母の姿が霞んでいった。決しておれを育てはしてくれなかった彼らが、アメリカに仕合わせを与えてやれるはずもない。仕合わせにしてやれるのは、あの子を守ってやれるのは、あの子が兄に選んでくれた、おれだけなんだ。だから泣かないでくれ、泣かないでくれ、アメリカ――貧相な島国(おれ)じゃあ、この星を覆う大海まで支配しても駄目なのか? 泣きじゃくる弟を震えのとまらない腕の中に抱いていると、眼前に迫りくる底の知れない、果てしない青空に焦燥を煽られる。アメリカの眼が見せる空に、おれのほうが溺れそうになる。目蓋を赤く腫らし、消え入りそうな寝息を聞かせてくれるようになった頃、あの子の冴やかな髪を撫ぜてやると、絹よりすべらかな五指がおれの小指を握りしめる。
 なあ、アメリカ。おれさえいれば何もさびしくなんかないだろ? おまえが理想とする世界の中心に、おれも存在しているはずだよな? おまえが望む未来の中に、おれは居るよな?
 そうであってほしい。指一本を束縛することに精一杯の小さな手しか今は持たない弟が、この言葉の意味を理解できるのだろうか? ふかい眠りに捕われている耳に何を吹きこんでも答えはしない、笑いもしない。おれにはアメリカが側にいてくれるだけでもう救いになるからといって、あの子もそうであるというわけじゃない。いずれアメリカはおれの庇護さえ必要としなくなるだろう。たかが予感だけで気が触れそうなほど苦しくなる、こわくなる。おそれを紛らわせようにも、安らかな眠りにある子どもの頬に、どうか行かないでくれと懇願をこめた唇で触れるしかできないとういうのに、どうしてあの子たちを籠に閉じこめておけるのだろう?」