時を食べた怪物 IV.

 


 「世界の他のすべてはおおかた陽気なのに、何故、人間と犬だけは陰気なのか」と残したドゥルーズの言葉の真意を測りかねるわけではないが、人々にはそれなりに陰気になるべき要因が道ばたの小石並みには転がっているわけで、そうした憂鬱が「国」にもあるということを、ぼくはロンドン郊外の美しい庭で知ることになる。

 ケンブリッジの除幕式から三日後、イギリスさんの邸宅に招待された。一介の公務員に「国」の誘いを断る術などなく、末端社員の人生はジョン・ル・カレの小説よりもさらに地味ときている。外務大臣直々に招待状を送りつけられたものだから、先日の一件もあり、これは確実に存在を消されると覚悟した――しかし、どうやら祖国に王手を下す気はないらしい。
 祖国の住まいなら女王陛下と宮殿にご一緒しているか、もしくはハムステッドやチェルシーあたりの高級住宅街と思いこんでいたが、意外にもロンドンから列車で西に一時間ほど移動した保養地、テムズ河沿いのリトル・マーロウ村のはずれに邸宅を構えているらしい。
 ウェスト・ドレートン駅を発車したあたりからナーサリーライムそっくりの牧草地が車窓外に広がりはじめ、テムズは上流へ向かうにつれて小川と呼ぶべきくらい細くなる。ロンドン市内の汚濁を岩肌で磨いたように青くなりつつある水面は、朝日を受けて九月には滅多にお目にかかれない晴れ間の多い秋空を、そのゆらめきに映した。畑の向こう、黒い梁に囲まれた白壁の旅籠屋も見える。
 約束の時間は午後一時とあるが、久しく国土を散歩していないし、マーロウ村の駅には散策を兼ねて午前中に到着する便を選んだ。列車を降りると、風はやんでいるが少し肌寒い。駅のすぐそばにある宿屋で天気の話をしたところ、村にはテムズに架かる白い吊り橋があり、橋を渡ったところの通りが商店街だという。表通りに面して並ぶ木製ラジオのような田舎屋に、八百屋、駄菓子屋、荒物屋と、どれも村人の生活に直結した商いの店があるだけで、観光客の懐目当てのさもしい表情の店は一軒もない。なるほど、宿屋の話どおり半マイルも進んだら村はずれに到達した。遠目に場違いな子供用のメリーゴーラウンドが回っている。
 道が二手に別れていたので、再び列車を乗り継いでウィンザー方面に南下するのも良しと思案しはじめたとき、水の環をつくりながら泳いでゆく三羽の白鳥を見かけた。尻を振り振り進む水鳥たちの先には、クルーザーで河口から上ってきては川辺のボーテルに宿泊するやんごとなき身分の方々もいる中、釣り愛好家のバイブル『釣魚大全』を書いたアイザック・ウォルトン卿の釣り姿を現代に蘇らせたかのような小舟と釣り人がいた。テムズが大きく蛇行ているため、ここいらの流れは静止したように映るが、彼の垂らした釣り糸は水面を突き抜けて垂直を保っている。目深にかぶった麦わら帽子に紫色の副花冠が細く糸巻いた時計草を挿し、クリーム色のフランネルのシャツに紺のコーデュロイの外套を肩掛け、H型のブレイシーズ付き吊りズボンを履いた釣り人は、白鳥が釣り糸をくわえても動く素振りを見せない。
「イギリスさん」
 ぼくは岸から釣り人を呼んだ。麦わら帽子のつばを押し上げる眉毛に見覚えがあったのだ。首だけ回した彼は間違いなく祖国そのひとで、陽の光をとおす網目の影から大地と同じ緑の目が見えた。イギリスさんは胸ポケットの懐中時計を確認したのち、「昼食に招いたはずだが」と困惑の表情を見せた。
「散歩をしていたところです。あまり国内を回ることがないもので」
 ぼくがにこやかに答えると、「朝の散歩はいいものだ、晴れた時間は特に」と彼は大きく頷いた。
「ボーテルの昼食を考えていたんだが、遅めの朝食をどうかな」
 そろそろ出来上がるだろう、と釣り具を船底に戻したイギリスさんが、小舟を漕いで岸辺へ寄ってくる。彼の小舟は男二人が乗ると少々窮屈で、船底には釣り道具の他にも園芸用の鏝や苗、おそらく温かい紅茶の入った魔法瓶、それから四つで一ポンドのまとめ売りとは段違いにまっ赤なプラムがごろごろしていた。
「何か釣れましたか」
「パーチでも釣れりゃ御の字と思ったが」
 勘が鈍ったな、と彼は餌をはだかの釣り針を顎でしゃくった。
 オーク材で組んである小舟からテムズに架かる橋をいくつか見上げ、少しばかり上流まで漕いでいくと、リトル・マーロウのはずれ、静かな河のほとりにイギリスさんの家が見えてくる。美しい河畔に迫り出すようにして建つ邸宅は大屋根で重心が低く、フリントストーンと赤い煉瓦を使い、窓まわりはグレーとクリームの縞模様になっている。壁を這う蔦と花々は家が埋もれてしまうほどの量で、バランスが良いとは決していえないが、その個性はウィリアム・モリスも讃えることだろう。
 イギリスさんは馬の手綱を引くような手つきで櫂を操り、自宅の庭に設えた船付場に小舟を接岸すると、こなれた動作でもやいをつないだ。対岸のポプラ並木は日差しをうけて緑に萌え、先ほどの白鳥たちが岸辺に上がってきたかと思えば、彼の中庭を一列になって闊歩しはじめた。これをもってナーサリーライムの結びの一句が聞こえてくるようだ――涙して見るにはあまりにもささやかな眺めです、と。
「良いところですね」本当に、とぼくは言った。
「T・S・エリオットもこの地に暮らし、メアリ・シェリーはここから『フランケンシュタイン』を書いていたんだ」イギリスさんはエリオットが書いた猫たちのような表情をして庭を案内してくれた。
「家はウィンザー大公園のスノウ・ヒルに建つジョージ三世像からも見える距離にある」
 岸辺に面した中庭は草木の緑が目に爽やかで、画家や貴族が愛した時代の田園風景的な緑というよりも、繁茂した森のごとき様相を呈している。色の美しい植物をたっぷり植えこみ、陽射しの足りない箇所には日陰を好む下草を植え、クヌギやアラカシが屋根や芝生にどんぐりを落とす。実のなる樹木がある庭は野鳥たちの食事場にもなるのだろう。樹冠から聞こえる小鳥のさえずりも、水やりを終えて湿った土の匂いも、橙色に輝くトマトの鮮やかさも、煉瓦の隙間から生えた苔の手触りも美しい。濃いグリーンの木製扉の前には初秋の花があふれていた。
「バラの生け垣と、日陰には新芽の赤いアセビ、風にうなずくコンフリー、可憐なガウラとアリッサム、薬草のヨモギ菊と吾木香、大輪の向日葵ロシア、野趣に富むヤナギ蒲公英、あわい風鈴草、香り高いタイム。八重の秋明菊は日本から輸入して――」
 正直、イギリスさんが指し示す花の名前は右から左に軟風のごとく流れていくが、とにかく様々な種類の花があちこちで絡まり合い、色彩の調和がとれているばかりか花に色気すら感じるほどで、シェイクスピアの戯曲の花々を女性に見立てたウォルター・クレインの絵は、あながち空想ではないと思えるくらいなのである。さながらオベロンやタイタニアの野のよう、いや、ホメロスが描いたニンフの住処とでも吹けるのではないか。
「素晴らしい庭ですね、マーロウにはどれくらい定住を?」
「終戦後しばらくして」イギリスさんは真鍮のライオン型ドアノッカーを叩いた。「代々の陛下から与えられたマナーハウスは別として、住まいは五〇年かそこらの頃合いをみて引っ越すんだ。貴族の幽霊ともなりゃ箔もつくが、おれはちょっと違うからな」
「不老の男爵となると上手くやって吸血鬼でしょうか」
「ああ、杭を打たれちゃたまらない」イギリスさんがくつくつ笑う。「こうして家と庭を手入れし直して売りに出すと、中々いい値で買い手がつく。国庫の足しにはならずとも慈善事業に寄付できるくらいの金にはなるんでな」
 なるほど、合理的なシステムである。イギリスさんの話では、ライダル・マウントをワーズワースに売ったこともあるらしい。
 グリーンの扉が開く。赤煉瓦の煙突から立ちのぼる白煙とパンの焼ける匂いに喉が鳴った。扉の先には四フィートくらいの背丈しかない老執事が立っていた。クロテッドクリームのように豊かな髭で口元の覆われた、小柄な割に恰幅の良い老人である。
 いらっしゃいまし、と執事はお辞儀をし、イギリスさんに向かって「お帰り、イングランド」と微笑みかけた。「釣れたかね」
 一向に釣れん、とイギリスさんは頭を振った。「云日ぶりの良天気だからな、魚も針を食うより日光浴に忙しいのだろう」
 老人がまるまるとした腹をふくらませて笑う。ブラウニー、と紹介された小人のような老人の案内で、ぼくは愛らしい花模様の壁に囲まれた明るい食堂に通された。中庭に面した丸窓から、なみなみと陽子が入ってくる。黒光りする木目が美しいマホガニーの食卓には、焼きたてのクロワッサン、デニッシュ、スコーンが山積みにされ、茹で卵と半熟卵料理にじゃが芋、トマト、マッシュルームが盛りだくさんに付け合わせてある。もちろん、歯応えのよさそうなベーコンと冷製肉に、数種類のチーズも。水滴を弾く野菜はたっぷり土の薫りがする。
「料理人を雇っているんですか?」
「なんだよ、その目は」
 ぼくの質問に彼は立派な眉をひそめた。三つ揃いのスーツに着替えをすませたイギリスさんは、麦わら帽子の時計草をテーブル中央にある花瓶にいける。彼の黒い短靴はバルモラル、おそらくダン&コーで仕立てたオリーブ色のツイード生地は乗馬服の名残スランテッド・ポケットに革くるみの二つ鈕、ウェストコートはフェアアイル、保養施設を抜け出した退役軍人が赤い制服の代わりに着ていてもおかしくない。
「いえ、パン生地から自家製のようですし凝っていらっしゃる」というのは建前で、祖父から彼の調理の腕はテロよりひどいと聞いている。
 ぼくの心を読みとったのか、安心しろ、とイギリスさんは不本意を露に言った。「作ったのは髭の――失敬、フランスだ。いつもふたりじゃ食べきれない量をつくるから、遠慮せずに食事を楽しんでくれ」
 着席を促されて彼の向かいに腰を下ろしたとき、おそらく調理場だろう湯気立つ別室から「坊ちゃん」と歌うような男の呼び声が聞こえた。フランス語だ。「昼食用の魚ちゃんと釣ってきたの?」
 問題ない、と英語で答えるイギリスさんの声に「ムニエルにしようか、燻製もいいよね。パーチなら下味をつけてオーブン焼きも美味いよなあ」と男のご機嫌なフランス語がかぶさる。ホイル蒸し、スペイン風ソテー、あっさりフライに、いやいや生クリームでテリーヌも、など調理場で魚料理のレシピを堂々巡りしている男をよそに、イギリスさんは黙々と食事をはじめる。
 ぼくもブラウニーが淹れてくれたアッサムにミルクを入れた。使いこまれて若干の色あせはあるが、手にしてみると茶器を含めた食器類はすべてロイヤルウースター製、しかもジョージ三世が称号を与える前のブルーリリーであることに気づく。白地に青い百合の模様と金彩、カップを持つ手が震える――陶磁器だけではない、この家にあるもの一切合切が年代物の骨董品だ。ゆえに現代では高価なものしかない。それらは一級品の威光にかしこまるというより、この生活空間で主人とともに歳月を重ねた記憶そのものを見ている気にさせる。
 ぼくの席からちょうど開け放された部屋が垣間見え、いちばん奥の書斎だろうか、角に暖炉のある部屋は雑然とし、机上に乱雑に積つまれた無数の書類が何時間もの仕事を物語っていた。床に広げられたり壁にピンで留められたりした何枚とない地図のいたるところに、インクや赤鉛筆での注釈と書きこみがされている。書架に収まりきらない大量の本の脇で、歩行靴が休んでいる。重厚なくるみ製時計の振り子が午前一〇時を告げていた。
「お味はどうよ」
 ひと仕事終えた兵士の足取りで、調理場からモード誌を抜け出たかのような体格のパリジャンが出てきた。プラトンの『饗宴』で分たれた二人を一体に戻したと説明されても頷くしかない美男だが、フランス人特有のいけ好かなさも色気と同じくらいまとっている。子牛革の白いチャッカ―ブーツを履き、襟なしの黒いジャケットをプロバンス柄ベストの上から羽織った装いには、騙し絵を思わせる効果でもありそうだ。
「暴力お坊ちゃんは国使いも荒いのかね、これじゃ立場が逆だろうさ。使用人上がりはそっち」じゃない?(ah?)と言いかけたパリ訛りの男のフランス語は、その美々しい面に投げつけられた白パンの一片によって途絶えた。
「おまえの唯一まともな特技は農業と醸造と料理だけだ、ワイン野郎」残りのパンもちぎりながらマーマイトを塗りたくっているイギリスさんが不敵に笑う。「飯の準備ができたんなら、その綿菓子頭の辞書から不可能以外の語彙すべてを消去して黙っとけ」
 先刻までイートン校ばりの完璧な容認発音で鷹揚と話していたイギリスさんの口調は、やたら早口のコックニーに変貌していた。放送禁止用語もさらりと吐いた気がする。ワイン野郎のフランスさんは、顔に当たって落下寸前だったパンを器用にすくい上げると、自分の口にひょいと放りこんで咀嚼した。
「さすがに食の冒涜国家は違うね、食い物がもはや武器にしか見えないらしい」
 気怠げに頭を振る端正な顔が、ぼくのほうへぐいと近寄ってきたかと思えば、「こんな元ヤン捨てちまってさ、おれんとこに来ない?」美しいものは歓迎するよ、と耳元にバリトンの声で囁かれる。この行為により、イギリスさんの機嫌はさらに低下したらしい。
「おれの家でマカロニ兄弟みてえに誰彼かまわず口説くのはやめろ」庭の肥やしにされたいのか、というドスの利いた声ほど花柄の壁紙と似つかわしくないものはない。
 フランスさんはイギリスさんの脅しを一笑に付すくらいには慣れており、椅子を引いて「そこは妖精の席だ」おまえの席はない、と暗にイギリスさんに断られたにも関わらず、臆することなく席に着いた――「マドモワゼルはおれの膝上にどうぞ」と微笑んで。
 過去の歴史を鑑みれば当然だが、ふたりの仲の悪さは上層部でも有名だ。顔を付き合わせるたび大人気なくL字に伸ばした指を額に当て、どんな国よりも品なく唾の応酬をくり返しているような両者である。割れ鍋に綴じ蓋の逆をゆく彼らが、どうしてイギリスさんの自宅で爽やかな朝食の席をともにしているのか。フランスさんの大仰な話をまとめると、昨日ブリュッセルにて開催された欧州連合理事会の閉会後、帰港予定のフランス国内の空港職員らが、去年のボーナス未払いを秋風に吹かれて思い出したらしく、共和制の名のもとにストライキを決行中なのだという。フランス人は年に二週間しか働かない。
「あれだけスペインたちと酔い潰れてりゃ、予定どおりに飛んでも国ではらわたをかっ捌かれたろうぜ。生物というよりはムール貝とトラピストビールを詰めた皮袋にしか見えん状態だったからな」
 おまえもだろ、とフランスさんはウィスキー・ソーダを飲みつつイギリスさんを横目で見やった。
「最終の船や鉄道でも追い返せるところを滞在許可してやったんだ、せいぜい感謝しろ。この地を踏んだからには、一週間のうち七日はおれに従え」
「こういう場合、主人(ホスト)は客をもてなすものだよね」
 フランスさんが席から片目を瞑ってぼくに同意を求めると、イギリスさんは邪悪に近い笑みを浮かべて「客と魚は三日たつと悪臭を放つ、おまえは一日ともたねえ」いいか、びた一ペンス払わんぞ、とナプキンで口元を拭きながらふんぞり返った。
「というかさ、往生際が悪いのも大概にしてユーロ通貨を導入しろよ。こっちへ来るたび面倒なのよ」
「陛下も上司もならぬと仰っている」
「ああそう、友だちもいないイギリスくんの島は内輪もめで大忙しだもんね。目の上の瘤(アイルランド)にもそれくらい尊大な態度で言ってくれない、早くリスボン条約の手続きしてちょうだいって」
 「国」とは奇妙なものである。ぼくなら千年以上もおとなりと殴り合いをしてこんな会話で退屈はしのげないし、「王族をギロチンにかける国はイカれている」と実際に首を飛ばしたり聖女を焼いておきながら、元敵国相手に笑える祖国のことも、「おまえんとこの絞首台はいまだに貧乏人のものだからね」と優雅に返してみせる隣国のことも理解できやしない。とはいえ、人間も愚行に関しては飽くことなく反復している。他人事のように思うのは無責任なことか、ぼくらの日々くり返す営みがあってこそ彼らは存在するのだから。それゆえ芥子だろうと、マンドラゴラだろうと、世界中の睡眠薬を飲んでも、彼らに安らかな眠りは訪れない。
 それともバニヤンの『天路歴程』にあるように、彼らは不老不死というより、猫と同じぐらい多くの命があるのかもしれない。レーテ川の砂丘へ行かずとも、国家の頭取が交替すれば昔の悪事は忘却してしまえるようだ。つまり、代替わりするハワード(ぼく)と同じシステムなのではないか。
「オリンピックの開催国がロンドンに決まって僻んでいるのか。北京のメダル数もうちの勝ちだしな」
 イギリスさんは腹がくちくて態度も膨れたらしく、釣り場での静粛が嘘のように饒舌になっている。話題も文学にまで達すると、昨年完結した魔法学校シリーズの世界圧巻を自慢しはじめた。
「くそひげ野郎、おまえにアーサー王伝説やシェイクスピアや指輪物語以上のロングセラーがあるか? こうした事実がどういうことを意味しているか、おまえには解らんだろう」
 へーへー、とフランスさんがソーダのグラス越しに呆れ顔を向けた。
「みんな本当は魔法や妖精を信じているんだ」
 イギリスさんが大真面目に宣言した説を受け、フランスさんはトランペットを鳴らす盛大さで吹き出した。「馬鹿じゃないの、馬鹿じゃないの」我が国を指差したあと、最後にもう一度「可哀相な馬鹿だよ、本当に、おまえって小僧は!」と冷笑する。
 イギリスさんは特徴的な眉毛を困惑にへこませていた。何をどうして馬鹿にされるのか理解できないという様子で、まがりなりにもイギリス国民のぼくは、面目なさと惨めさに肩身が狭くなり、顔から火が出そうな思いだった。イギリスさんがこんなふうにある面で純粋にすぎるのは、ぼくらの国民性によるものだろう。信じて疑わないことは、思考の停止を表す。
「物語(フィクション)なんて、信じていないから読むんだろうが」
 フランスさんはつり上げた口元に嘲笑を、菫色の目元に憐憫を浮かべて言った。ぼくも内心では彼と同じ顔をしていたと思う。待ち構えていたかのように、ブラウニーがフランスさんお手製のファーブルトンを運んできてくれなければ、イギリスさんの顔をまともに見られはしなかった。
 朝食は文句なしに美味い。何もかもの焼き加減が絶妙としか言いようなし、舌触りは抜群である。イギリスさんも最初は満足の唸りを発していた――フランスさんの陽気なシャンソンに対する抗議という可能性もあるが。会話の主導権はフランスへと移り、ふたりはそれまでと同じように罵り合いながら、緋色のプラム果汁で彩った焼き菓子を食していた。
 語らいを除いて洗練された朝食のあと、暖炉を中心に肘掛け椅子を置いた居間で、イギリスさんと懇談した。居間は中庭に面して大きな硝子窓を取りつけた白黒タイルのサンルームと、一段上がったハープシコードの置いてある舞台と、三つの空間に分けられている。フランスさんは腹ごなしにハープシコードを弾きはじめた。教会のオルガンを鳴らす調子で古楽器と向き合い、機織りの交差する糸を思わせる繊細な音色をからめながら、宮廷音楽を紡ぐ。
 音楽に満ちた部屋の家具は、食堂の壁紙も含めてアーツ&クラフツのモリス商会のものだろう。
「先ほど花をいけられたのもバーナード・リーチの花瓶でしたね」
 家具と花器を褒めると、イギリスさんは一気に顔をほころばせた。
「七月の洞爺湖サミットに行ったとき、日本が贈り物としてくれたんだ」
 居間に飾られたラファエル前派の画家ジョン・グリムショーの手による二枚の抒情的な風景画は、現在ではマーケットが建ち並ぶロンドンの当時の風景を描いたもので、イギリスさんがグリムショー本人からもらったらしい。来客用の玄関には、晩年のリチャード・ダッドがベスレムの精神病棟で描いたとされる妖精画が掛けられていた。
 リーチの花器には庭で摘んだ花が似合う、とイギリスさんは言う。「ひとつの歴史的家具、絵画、花瓶にしても、人間の何倍もの歴史を生きつづけ、人から人へと受け継がれ、川の流れの集約地のごとくここへ辿りついたものばかり」
 ニュートンか誰かの考えるように時間がテムズ河の流れのようなものなら、彼が丹誠こめて手入れをしているこの場所は、まるで時間の岸辺のようだ。時の波にさらわれることなく、流れの瀞(とろ)にとどまり、時の外にいる死者と同じく過去に忘れ去られ、未来と断ち切られた場所に思える。
「あながち間違ってもいない、おれはシーリー・コートが住める場所しか選ばないから」
 ぼくの見解にイギリスさんは気を悪くした様子もなく頷いた。シーリーとは「祝福された、聖なる」という意味であり、人間に対して好意的な妖精の群れ、それも比較的高潔な妖精を表しているのだとか。彼には本当に見えるのか?
「ここを時間の岸辺というなら、おれには流れの渦中にいる者が必要だ」イギリスさんが真剣な面持ちで言った。「ミスター・ハワード、ここに招いた理由は他でもない。おれの秘書にならないか」
 ハープシコードを弾くフランスさんの口笛が聞こえた。
「秘書ですか」
 裏を読めずに鸚鵡返しに答えると、イギリスさんは茶化すフランスさんにひと睨み利かせてから、厳密に言えば、と自分も考えこむようにして補足した。「秘書といっても年中事務をさせたいわけじゃない。機密は扱うことになるが、そこらへんはSISから地続きのものだろう」
 彼の説明によると、今月一五日にアメリカのリーマン・ブラザースが財政破綻したことが原因の一端だという。昨日の欧州連合理事会も、表面上はグルジア危機に対してEUが行う支援策の決定や、外交政策の立案・執行機関としてのEU版外務省の設置を議題にしたらしいが、各国の水面下はウォール街を中心とした金融機関の転落に顔面蒼白の事態だったらしい。
「グルジアに対して三年間五億ユーロの支援に留意したばかりでコレだから、お偉方の頭ん中はもう株式市場の底打ちでいっぱいさ」
 演奏の手をとめたフランスさんが口を挟む。予期していたことだろ、とイギリスさんの反応は冷淡である。「おれは三〇〇年前に南海の泡沫で経験済みだし、一九二九年の暗黒の木曜日がくる前のように今回も兆しはあった。口だけは達者な思い上がりも甚だしい餓鬼が、考えなしに投機するからこうなる。八〇年前から何も学んじゃいねえ。そのくせ、おれが真っ先に金本位制を停止した当時、連中の反応はどうだ? ヤンキーどころか世界中から非難の嵐で笑えたぜ。あとから漁父の利を得る連中は楽だよな、ああ?」
 シーリー・コート云々と言っておきながら、悪魔に憑かれているとしか思えない非道の笑みを浮かべるイギリスさんは、他国に対して容赦がない。
「そういうところ! それだよ、おまえ。そんなふうだから嫌われるってこと、おまえも学ばないよね」と呆れる隣国に対しては一滴の斟酌もなく、マントルピースの上にあった燭台を「オールドステューピッドファッキングアホ」の称号付きでフランスさんめがけて投げつけた。
「とにかく、正しく統合された国際金融システムは複雑な金融商品への依存を引き起こす。結果的にドミノ倒しの感染水路をつくり出しているから、あいつにその気はなくても世界中に波及する」
 イギリスさんはノーザン・ロックを国有化したし、フランスさんのBNPバリバも投資ファンドを三つ中止していた。
「おれもシティは世界金融市場のハブの位置を占めているから、国際金融危機に発展すりゃ痛撃さ」
 イギリスさんの言う通り、ロンドン金融市場を襲った激震はイギリス経済の実体面をも大きく揺るがせるだろう。
「おれは五年後には回復すると思うね、アメリカは体力もあるし」とはフランスさんの見解だが、もはやEUは一蓮托生になっているのだから得意の様子見には徹せまい。
「ハワード」イギリスさんが絨毯に転がる燭台を拾い上げて言う。「灯台もと暗し(You must go into the country to hear what news at London.)――おれは「国」から離れられない。時代の趨向や民意の強さに当てられて自身のことが見えなくなることもある。大戦当時の東西ドイツを見ていりゃ嫌でも解ったんだ。エリザベスとウォルシンガムの三者で情報を共有していたころのように、国政を介さず、都市から都市へと自由に行き来できる灯りを必要としている」
 イギリスさんのことは、祖父から聞いた昔話と一八世紀のハワードの手記に書かれた内容でしか知らない。祖父が夢みた革命は現実と違う。あの頃の独裁で、どの国も汗と泥まみれになった。やはり彼ら「国」は、ぼくらと違う人種だと思う。それでも、本名を捨て去り「ハワード」の名を与えられたときから、自分に流れる時間の渦は彼の岸辺へ流れ着く運命だったのかもしれないと、窓越しに見えるテムズの川面に沈思する。