メルキオールとわたし Girona 日はまた昇る

 


 ロシオに何度かメッセージを送ってから何も反応はなく、そろそろ諦めかけていた六月の矢先に「また会おう(アスタ・シエンプレ)」とみじかい返事が届いた。直訳すると〝いつまでも〟。この言葉が嬉しくて、わたしは何度も呪文のように口内で唱えた。「さよなら」の感じは強くても、いつまでも一緒だと思ってくれているなら、二度とあんな真似はしないだろう。聞きたいことは山ほどあるけれど、もう焦る必要はないと思える。ピソに来たイグナシにも教えたら、太陽みたいに破顔して喜んだ。

「ほれ見てみい、ロシオはいけるやろ」


 そのあとイグナシと買い出しのために外を出歩いたとき、珍しくもない日本人観光客を見かけた。イグナシはATMで現金を引き出しに離れている。わたしは姿見に映りたくないみすぼらしい格好をして、買いもの袋をぶら下げていて、その中身はイグナシと数十センティモの単位まで一品一品値札をにらんで選別したものばかり。それでも、洗練されていてすぐに判る日本人と比べて、なんだか急に恥ずかしくなってしまう。帰国したら今までの生活に戻るだけなのに、元どおり上手くやっていけるのかとてつもなく不安だし、日本のほうが良い友人は多くいるのに、メルキオールたちと離れたくない。

 スペインに住む人々の大半は、祖父母や親戚とも驚くほど近所に住んでいて、事があるごとに集まって誕生日を祝い、季節の行事を祝い、贔屓のサッカーチームの試合を観戦してやたら盛りあがる。週末の昼食にお客を呼んで、政治談義を主としたお喋りを何時間もしたりする。学校では、昼休みが二時間から三時間あるのが一般的だ。一時になるとわざわざ家族が子どもたちを迎えにきて、家で一緒に昼食をとり、また三時になると学校へ連れていく。勤め先が近い人も一旦家に戻ってくるから、家族そろって食事をしていることになる。メルキオールのところもそうだと聞いた。人間の等身大の感覚に沿うような構造で出来ている、この時間すら恋しくなるのは間違いない。
 イグナシが小走りで戻ってくる。「堪忍な、持つわ」とわたしから買いもの袋をとり上げる。この人と一緒になる人は幸せだろうなと、しまりのない髭面を見上げて思う。
 日本人の団体がバスに乗りこんでいき、次はサグラダ・ファミリアを見学しますと搭乗員が案内している。五月にはイグナシたちとセビージャを観光した。この一年間で、メルキオールや大学の友人らと車を出し、マドリードやアストゥリアス、バスク地方へも遠出したけれど、最後にカタルーニャをもう少し回りたいと思った。
「じゃ、フランスの国境まで行こう」
 ピソに帰ってから最後にどこか行きたいと話したところ、メルキオールは存外たやすく頷き、六日後にはインターン先の旅行会社から三日間の休日をもらってきた。「お金のこと心配しないで」と言われて余計に気になる。


 メルキオールとふたり、マルグラット・デ・マルまで電車に乗り、ジセラとファイサルに再会した。ふたりとも元気そうで良かった。ロシオのことも話してくれて、特にジセラは「ロシオもレアンドロも家族の一員よ、何年先でも歓迎するわ」と彼女の不在を悲しんでいた。

 二階の廊下の壁には、四姉弟の描いた絵の数々が変わらず飾られている。そのメルキオールの落書きのとなりに、新しい一枚が加わっていた。
 まぶたを閉じた青年の顔だ。首が辛うじて入るくらい額縁いっぱいに、オリーブ色の顔だけが描かれている。厚い唇は混じり気のない撫子色に艶めき、まっすぐ通った鼻筋をたどると際立って長い睫毛に辿りつく。目のまわりの深い隈とくぼみが大胆な黒によって表現されている。まぶたが今にもひらきそう、その瞳で見つめられることが怖い。今だけ見えている、とめどない甘さが消えてしまうかもしれない。本当の恐怖は痛くないし、わたしを傷つけもしないだろうに、彼の瞳がひらいたとたん、あらゆる痛みを感じるだろうと予感する。アクリルガッシュの質感から黒い下地が見え隠れしていて、すべての黒がとんでもない色をしている。黒だけど黒ではない、濃密な空気のように見えるのだ。メルキオールたちの絵が明るい光に満ちているのに対し、黒に閉ざされたその絵を見ていると、五感が研ぎすまされていく思いがする。闇の中から浮かびあがる、色彩と粗目のようにかすれた線描は、舌にのせた砂糖菓子が淡く消えていく儚さとも通じる。右下にロシオの字で小さく題名が書かれていた––『メルキオールとわたし』。
 わたしは気づくと泣いていた。


 翌朝、わたしたちはジセラの車を借りて北へ北へと向かった。太陽を覆い隠していた低い雲は一時間ほど走るとうすくなり、やがて青い空が見えはじめる。地中海の東に見えるはずのヨーロッパ大陸が海のかなた、灰色の雲にかすんで見えない。まばらに草の生えた赤茶色の大地は、西へ走るにつれて少しずつ緑が濃くなるけれど、時々はオリーブや葡萄畑も見られた。メルキオールは運転中しゃべらない。『アメリ』とか『五〇〇日のサマー』とか、そういう映画音楽をかけている。ふと気に入った曲が流れると、ハンドルを握る長い指がとんとんリズムを刻んで面白い、こんなに無表情なのに。

 午前中はベサルに立ち寄った。中世の建築が多く見られる小さな村で、昔はカタルーニャの要塞都市としても機能していたらしい。入口にあるカタロニア・ロマネスク様式の橋は巨岩を足場にして建てられているから、まっすぐに伸びていない。それが川面に反射し、ひっくり返った村全体とともに目の前に広がる。あざやかな陶器や手作りの籠を置いた土産物屋が並ぶ橋の近くで、草履の形をした甘いピザのようなコカを食べる。
 シナゴーグやミクべが残る旧ユダヤ人街の階段をあがった先で、メルキオールが軽快に振り返り、大胆に干されたシーツのように靡くエステラダを背にして笑う。その画をなんとなく写真に収めてから、やっぱりこれも情報でしかないのかなと思う。
 ジセラは夏の時期だけ民芸品を用意し、観光客に売っているとメルキオールが教えてくれた。その民芸品をメルキオールは「きれいなものを作って売る」と日本語で説明したあと、土産物屋に並んだ品々から似たようなものを見つけて指差した。丁寧に縫いこまれたレースとか繊細に描きこまれたタイルとか、人の手を感じさせるものならわかるけれど、真新しい木で出来た弓を〝きれい〟と呼ぶにはどうにも違和感があり、スペイン語に直してもらうと〝生きる力を目覚めさせる刺激〟と言いたかったらしい。全然違う。
「矢のない弓だわ」
「うん、でもきれいでしょう」
 正直、百円均一に売っているような安手の品にしか見えないものを、きれいでしょう、とメルキオールは言う。わたしには逆立ちしたってそういうふうに見えない。役に立たないものとしか思えない。ボードレールが『悪の華』で醜悪さや罪深さを受け入れる美しさを書いたように、本当にきれいなものとは人の急所であり、無感覚という麻痺を解毒するものだと、わたしは思う。目を凝らして弓の良さを探そうとしてみるけれど、見れば見るほど一本の木から大量生産されたちゃちな玩具にしか思えなくなり、メルキオールが見ている世界を見られない自分が無性に悲しくなる。
 同時に、ジセラが息子を矢のようだと呆れていたことを思い出す。矢を放った後の弓と矢を放つ前の弓、どちらが完全な状態と言えるのだろう。もちろんひと揃いで弓矢だけど、そもそも弓は射るためにあるのだから、獲物に矢が刺さった瞬間こそ本来の目的として完成するのかもしれない。誰かに読まれる前の書物、演奏される前の楽譜、見られる前の絵画が潜在的にしか作品ではないように、そこに存在するのは簡単でも、意味を成すには他者が必要だ––生きるだけなら、きっと独りでも生きられるけれど。


 中世の要塞ベサルを出たらさらに北へ、ダリゆかりのカダケスまで足を伸ばす。ごつごつした海岸という名前のとおり、途中のコスタ・ブラバは起伏が激しく、ほとんどが岩で覆われている。海水浴に向く砂浜は数か所しかないものの、そこは驚くほど青く、わたしはその青に接したとき、あまりの青さに不意打ちをくらって思わず笑ってしまいそうになった。紺碧とかアジュールとか、そういう言葉を使っても衝撃を表すには足りない。ガウディが設計したカサ・バトリョはこの海を写したのだろうか。ふかい海の底に、バミューダ海域に沈んでしまった1715スペイン船団のエメラルドやサファイアのような宝石が眠っていて、その反射が独特の色彩ときらめきを放っている気がした。

 スペインの最東北端ゆえにまわりから隔絶されているカダケスは、昔ながらの漁村の風景が手つかずのまま、湾に面した家々が、まばゆいばかりの白い壁と青い窓枠で統一されている。黒い猫と白い鴎が屯するカダケスの細い路地を歩くと、至福ともいえるほど心地いい。わたしたちはカダケスの海沿いを散歩し、防波堤の岩の上で海をながめた。特に澄んだ浅瀬のところに、小さなウニや蟹やイソギンチャクがいるのが見える。冷たい潮水に両足の膝までひたして、クリームみたいに濃厚な波の感触を楽しむ。そのまま地面に寝ころがり、カダケス一帯で見られる独特のどんより曇った空模様を見上げた。雲越しでも灼ける太陽がものすごく近い。
 鉛色よりはいくぶん明るい色合いのグレーをした地中海の空とは異なる空を、ダリはもちろん知っていたのだろうけど、彼の描いたポート・リガトの空は絵葉書の空のように一様に青い。
「グレーだと物の距離感や奥行きがなくなるでしょ」
 空と同じ色の目をしたメルキオールが説明してくれる。
「遠くにあるものも近くにあるものも並列になって、まるで書き割りみたいに見える。ダリはじっとよく観ても難解なのに、見ていて気持ち悪くならないのは、きちんと遠近法で描かれてるからだと思う」
 空を見て、目を見て、やっぱりと確信してから「メルキオールはダリみたい」と言ったら笑われた。
「バレ、じゃ説明して。どうしてそう思うの、詳しく」
 メルキオールはこの手の質問をよくする。わたしの家族についても、日本人の感覚についても、何がきみをそうさせるの、そのときどういう気持ちになったの、と自分が構いたいときだけ遠慮なく訊いてくる。そんなふうだから、わたしもひと息ついて考えをまとめようと一応は努める。
 ダリの作品を見る楽しみは、謎解きにあるんじゃないかと思う。奇抜な振る舞いや独特の物言いと同じ衝撃的な作品のなかに、ダリの記憶の断片や、そこから生まれた超現実的なイメージ––現実の理解よりも精神の領域のほうに見返りがあって、そっち側のほうが〝現実〟だというもの、隠されたそれらを見つけていく体験そのものが楽しい。屋根の上に乗せてあるたまごとか、ティファニーに作らせた特注のカタツムリとかシルクハットをかぶった蝶々とか、グロテスクなものから思わずにやけてしまうものまで、まったく飽きることがないどころか、しまいには海や周囲の岩までもがダリの絵画とだぶって見えてくる。わたしにとってダリやガウディ、バルセロナの魅力はそういう理解を超えたところにある。
「じゃ、ぼくも理解不能かな」
 メルキオールが促してくる。最初のころはそうだったかも、と思考したあと、今でもそうかも、と思い直す。
「目の前の世界は人の数だけ多様な見方ができるんだって、ダリを見るとわくわくする。メルキオールも、わたしにそれを教えてくれるの。そうしたらね、ダリの本当の考えとは違う絵の見方も当然出てくるでしょ。それがいいって、あなたは思ってる。見る側一人ひとりがダリの作品を借りて、自分のなかで想像力に遊ぶことを、今度はダリ自身が見て楽しんでるみたいに」
 ダリのやわらかな構造体は、メルキオールの豊かな肉体に似ている。
「そうそう、これがたまらない」
 メルキオールは満足したのか、ひひひと下品に笑い、海岸の端から端まで歩いたことに気づいて「何食べたい?」ともとの調子で訊いてきた。
 レストランの窓際の席に座ると、波音が聞こえる。清潔な赤いナプキンの上で、ムール貝の白ワイン蒸しとパスタのパエージャ(フィデウア)を食べた。どちらもふわふわしていて美味しい。これまでの代金はすべてメルキオールが支払っていて、お金のことは気にしないで、の意味を早々に解したけれど客人のようで畏まってしまう。メルキオールだって何のために貯金をしているのか。前のように何でも半分ずつがいい、と言うのも甲斐甲斐しく案内してくれるメルキオールを見ていたら切り出しづらい。
「ごめん」
 レストランを出るなり、メルキオールは自分の腕時計を確認して難しい顔をする。謝るときは必ず日本語だ。
「時間ないから、ダリ見るのとトッサ行くの両方はできない」
 そんなことか、と言おうとして口を閉じる。この人がわたしのためにしてくれることを、その気持ちを台無しにするのはよくないと思った。メルキオールは以前にもダリの家を見学したことがあるようだから、少し南に戻るトッサ行きのほうを選ぶ。結局、わたしはメルキオールと一緒ならどこでもいいのだけど。

 トッサに向かう途中では、何度も車が突風に煽られた。

「トラモンターナ」
 メルキオールが言う。
「ガルシア=マルケスの短編に出てくる風?」
 わたしは読書の記憶をたぐり寄せる。そうそう、とメルキオールは道路の向こうを注視したまま言う。
「カダケスの春秋に吹く猛風、トラモンターナ。数日吹き荒れて人の精神を時々おかしくしてしまう。狂気を呼び起こすとも言われてるんだ。少なくとも血圧は上がるし、頭痛程度はどうやっても免れないって」
 人間には二面性があるというけれど、カタルーニャ人、特にダリの正気と狂気、頭でっかちな部分と遊びごころ旺盛な部分の二面性は、トラモンターナの影響を受けたからだと言う人もいる。
 トッサ・デ・マルの気候は、カダケスよりもずいぶん落ち着いていた。カタルーニャ地方の地中海岸にひとつだけ残された市壁付きの中世の村で、地中海に沿うオレンジ色の海岸からすぐ南の岬の上に向かって旧市街がまとまっている。市壁の内側には高い塔とゴシック様式の教会、それから八〇軒あまりの家があり、この一四世紀に改装された市壁が海賊の侵入から幾度となく村を守ってきたという。
 旧市街をゆっくりと歩く。多くの松の木は地中海の植物だろう。石畳の路地の両側は、組積みされた石垣になっている。近くを通ると、煉瓦の蜂蜜色とライムストーンの青灰色が入り混じったモザイク画のように見えるのに、遠目からの色合いは少し赤味がかっている。石垣の上には何故か三毛猫がたくさんいて、彼らは傾いてもなお目映い太陽の光に瞳孔を最大まで細くしていた。
「丘のてっぺんの灯台まで散歩できるように坂道がつづいて、そこまで行くと南方にある入り江まで見わたせるんだ」とメルキオールが言った。
 丘を登る途中、女優エヴァ・ガードナーのブロンズ像に出会う。
「彼女の出演作の中じゃ『日はまた昇る』とか『キリマンジャロの雪』とか好きだな」
 闘牛はきらいだけど、とメルキオールがエヴァを見上げつつ言った。
「ヘミングウェイが拳銃自殺してから、去年がちょうど五〇年だった」
「そんなこと覚えてるの」
 呆れていたら不意に肩を押され、目の前からのびたメルキオールの指先のほうへ視線を向ける。
「ほら、見えるでしょ」
 いつの間にか、岬の上から地中海とコスタ・ブラバの海岸、浜辺にあるトッサ新市街のすべてが眼下に広がる高台まで来ていた。メルキオールとわたしは灯台の根元にあるベンチに座り、音もなく色を変えていく夕日をぼんやり見守る。カタルーニャ地方特有の壁に、夕焼けが映ってピンク色に染まる。地平線の上には明るいオレンジ色の帯があり、空はとてもなめらかに美しい。海も空も反対側の山もしずかにピンク色に包まれていったあと、次第にやわらかな薄青色から青色へ、濃い青、菫色に、そして最後には完全なる黒へと移り変わっていく。東の空から順番に夜がやって来る前のふとした瞬間に、わたしたちは背景と同化してしまう。
 丘の頂のすぐ横に見える絵描きの風景画の中に足を踏み入れると、そこは料理店になっていて、こんがりと焼かれた夕焼けのようなトルティージャが美味しかった。わたしたちは舌で転がる夕焼けのコンポジションを喜び、食後にホットチョコレートとチュロスを食べた。のどが焼けつくほど濃いチョコラテは、小麦粉が混ぜてある分、粘り気がけっこう強い。チュロスには軽く塩を振りかけ、その揚げたての熱い先端をひとくち分ずつチョコラテにつける。どろどろのチョコレートが絡んだところを頬張ると、なんとも言えない幸福感に満たされる。
 メルキオールはチュロスでチョコレートをかき回しながら、「ヘミングウェイのことね」と珍しく真剣に話しはじめた。
「禁酒法のあるアメリカじゃ暮らせるわけもなくてパリに移ってみたけど、そもそも彼の人生は少年期に〝終わって〟たと思う、埋めあわせの効かない喪失でさ。あとの人生は全部惰性、もしくはどうしたって治らないものを治そうとする不毛な努力でしかない。何故って、彼が陽がまた昇ることを信じて書いていたものすら、どれも死に直結してるんだから。
 長らく見ることも叶わなかった太陽を、ようやく拝んだ場所が〝そんな高いところまで、何を求めてきたのか誰にもわからない〟干からびて凍りついた豹が横たわる、キリマンジャロの山頂だったんじゃないかって」
 ヘミングウェイの物語では登場人物たちが色々やってはいるけれど、結局のところ何も残っていない。『日はまた昇る』のエピグラフに掲げられた章句が示唆するように、物事が廻りまわって同じところへと帰結する。そんなら、あいだに挟まれている物語は空っぽのようなものじゃないか。それが第一次世界大戦を目の当たりにした青年の率直かつ誠実な人生観で、今ここにいるメルキオールもそうだとしたら、争いの歴史だって無為で空っぽの物語でしかない。
 長い指は一向に口へ向かおうとしない。わたしも濃厚すぎるチョコレートを食べきることができなかった、大好きなのに。
 再び海岸に戻ったころには、もうすっかり日が暮れていて、メルキオールとわたしは砂浜から海へ向かってのびた防波堤の先まで歩き、ゆらゆらと長い長い尻尾を水面に垂らした、生まれたての真っ赤な満月を見上げる。うしろの海岸線には新市街の灯りが一列につづいていて、遠くから教会の鐘の音が聞こえてくる。
「ロシオと別れてから結局のところ、ぼくは彼女を殺せる理由がほしかったんだ」
 唐突なことばに驚いた心臓が波打つ。そのほうが楽だから、とメルキオールは自分自身への嫌悪感をあらわにする。内臓から燃えあがる怒りが収まりきらず、全身からぱちぱちと静電気を発しているように見える。思案して、多分メルキオールが殺したいのは記憶に棲むロシオのほうなのだろうと思った。記憶の彼女に対して、ひとこと好きだって言えばすむのに。そのひとことが言えないんだ、この人は。
 何も言えずにいると、メルキオールが今度は急に笑い出した。
「どうしたの」
 頭でも打ったのと思いきや、ノキアをわたしの目の前に突き出してにやりとしている。
「電波がフランスのままだ」
 確かに、画面の右上は〝フランシア〟、電波が〝圏外〟となっている。奇妙な表示はすぐにスペイン国内に戻ったけれど、カダケス周辺はフランス南西部の国境を越えてすぐにあるから、あり得ないことじゃないとメルキオールは言う。
「このままフランスまで行ったらどうなるんだろう」
 ふたりで楽しく暮らせないかな、と子どもの我が儘より馬鹿なことを言おうとしてやめる。
「行ってもいい」メルキオールが飄々と言った。「ぼくをモデルに絵を描く? いつでも脱ぐよ」
「わたしのミューズはメルキオールかもしれないけど」
 そうじゃない、と言い切る前にメルキオールが顔を背けて吹き出した。
「ミューズって男に言わないよね」と腹を抱えて笑われるものだから「そんなこと知ってる」といくぶん声を荒げて言い返す。自分の顔が赤いとわかる。
 ミューズと言ったのは、そのくらいメルキオールがわたしの根本から発想に影響を与えてくれる存在だと思うからだけど、言葉にして伝えると思考の十分の一も伝えられない。しかも母国語じゃないなら、きっと実際は十分の一の半分すら伝わらない。こんな状態でわかりあえるはずもないことは、最初から十分すぎるほどわかっていた。
「変かな」
「変じゃない、いつもびっくりするだけ」
 いつもの「スペインじゃなくてカタルーニャ」の調子でメルキオールは訂正してきた。笑いがとまらないまま言われても信じがたい。
「ぼくのところへ来て、きみは本当に遠慮なく来て、じっと見つめるでしょ。
 要するに、どういう人間でも関係ない、諸々の難しい問題なんてどうでもいいから、ごはんを一緒に食べよう、楽しいことしよう、ほら、今すぐって、そういうこと。どんなに遠くにいたって、お構いなしなんだ! だから、ぼくがたとえキリマンジャロの山頂にいたとしても、きみは電波のいらないテレパシーか何かを使って、まるでつい昨日も会ったみたいに連絡してくるんじゃないの。おはようメルキオール、この日本語ってカタルーニャ語でどう言うの、何々キリマンジャロにいるの、楽しそうだわ、ところでこのスペイン語なんだけど––ね、歩きたての子どもみたい。こっちは夜中で、しかも凍えそうなほど寒いってのに!
 きみはエントロピーが最大の状態で、ちっとも論理的にまとまりがない。だから常にぼくの理解の及ばない考え方をしてて––まるでダリ美術館のパティオにあるキャデラック。コインを入れると車内にざあっと雨が降る。笑えるくらい意味がわかんなくて、最高に楽しくって、それって価値の大逆転でしょ」
 メルキオールは愉快げに歯ぐきを見せた。わたしは目を白黒させるしかなかった。
 この人はわたしを〝評価している〟と、こうもすんなりと受け入れられている自分に驚く。わたしはこの人が評価してくれる自分を信じられる、と自信があふれてくる。恐怖は痛くないし、わたしを傷つけもしない。習慣でも概念でも、とにかく何かに支配されている自分を自分自身の手にとり戻そうとするなら、無害な恐怖に立ちすくまないことが必要なんだと、ずしんと腹にくる内に芽生えたものを実感する。
「そういうふうに、事物の習慣的な見方を一旦もう壊しちゃって、その上に別の姿を与えてくれる。もはや発見というより、発明なんだ。どこにいるかもしれない神さまや自由をうばう約束なんかより、きみが発明してる現実のほうが本当に信じられるでしょ」
 笑みこぼれて話すメルキオールの声は、チェロのようにきれいだと思った。カザルスの弾く『鳥の歌』が聴いていると果てしない悲しみに包みこまれるのに対し、そういう深くしずむ響きを真逆にしたように、全身の喜びを感じた。
 メルキオールと手をつなぐ。低いところを螺旋状に渦を描きながら飛んでゆく鳥の影を目で追った。あれがペルディスなのかもしれない、低空飛行がきれいだから。
 朱色のしずくが海面に滴り落ちそうなくらい大きくて赤い月は、少しずつ東の空に浮上していくにつれて、黄味がかった銀色の満月に変わっていく。ここより先に日本の夜明けを照らし、スペインの夜空を回ってからアルゼンチンの夕暮れまで辿りつくのだろう。満月の反射は長くまっすぐにメルキオールとわたしの足元まで届き、光の橋へと誘うように揺れていた。虹と同じ原理で遠目にしか存在しない橋も、夜が明けるまでなら、降り立ってどこまでも歩いて行けそうに思えた。