メルキオールとわたし Rocio 谷間の百合

 


 ロシオは蛍色の肌をしていた。『大人は判ってくれない』がお気に入り、波のようにうねる無造作な金髪と五月の太陽のブレスレットが目印だった。メルキオールが百合の花束を添えて贈った『谷間の百合』をはやく読破したいからと、象牙の素足を器用にまるめてソファに収まり、もう長いこと日課としてページをめくりながらレモンビール(クラーラ)を飲むような女の子だった。ダリが描いた『不思議の国のアリス』の、頭はバラで顔が葉にくるまれた縄跳びに興じるアリスにそっくりだし、とくに地中海の濃い青を映したような目は『アンダルシアの犬』の冒頭に突如として出現する、あの美しい眼球そのままだった。

 賢くて面白くてとてもきれいなメルキオールの相棒、ふたり並んでシャイメやわたしをよくからかう。饒舌でメルキオール以上の皮肉屋だから、喧嘩を売るようなことを言うけれど、気持ちが脳を経由する前に口から出る彼女のことは心得ている。言いすぎたと気づくやいなや、彼女は走ってきて両手で抱きしめてくれる。誰かを本気で悲しませるなんて、そんなことを考えるだけで気持ち悪くなってしまうのだから。


 灰の水曜日と太った木曜日もおわった二月の四旬節、わたしたちはカム・ノウまでバルセロナの試合を観に行く予定だった。シャイメがリーグ戦のチケットを安く買ってくれたのだけど、入手経路は誰も知らない。スタジアムは一駅先にあるから歩いて行ける。

 その日、メルキオールは二回目の日本語検定を終えてシャワーを浴びていた。風邪気味だったし、本人曰く出来が悪かったらしく「漢字きらい」とくり返していた。
 ロシオは水煙草にサルビアをスプーン三杯分入れている。冬の夜がはじまる午後四時にやって来て、肺の中の空気をいっぺんに吐き出したあと「聞いてくれ」とわたしに言い、パイプに火を灯しながらとっくり吸いこんでいった。
「太陽の沈まない国まで長旅してさ、あたしの両親は何を夢見てたんだか––時々そう考えるんだよ。祖母は多分、今でも最果てのウシュアイアにある最果ての郵便局で、〝世界の終わりまでよくぞおいでなすった〟記念スタンプを観光客に押してやるだけの隠居仕事だろ。母さんはスペインに入国してから心臓を悪くして、病院になんか行けやしねえから死んじまって、父さんは今じゃもうアル中の体たらくで。あたしも物心がつくと、さすがにくそったれた生活が身にしみて、一度は何事か呻いてる父さんを足蹴にして家を出たんだ。
 マドリードの端っこで破格の月三三〇〇〇ペセタのピソというか、むしろ実際はただの長屋なんだけどさ、ユーロが発行されて二年も経ってんのにペセタ表記のままだったから。キャバレーでくだらねえ踊り子をしつつ、暇がありゃ日がな一日読み書きの練習を兼ねて拾った本を読み回していくだけなもんで、栄養失調からか脂肪と筋肉だけがそぎ落ちていっちまう」
 それでも年月は簡単に過ぎていくんだよ。
 ロシオは早口に喋った。白熱灯のもと、パチパチとかすかに爆ぜるサルビアの音と、廊下の先のメルキオールがシャワーを浴びる音とがこだましている。はるか遠く思える地上から、警察車両のサイレンが聞こえる。ロシオは死の床にあるモルソフ夫人のように準備よく、他人事のように諦観している。
「おいおい、そろそろこのまま死ぬんじゃねって本気で焦りだしたのが五年前の十八のとき、やっとのことでマドリードの空気があたしには合わないってことに気づいてさ。
 金もなくて何の才能もないあたしが、当時まだ景気のましなバルセロナに来りゃなんとかなるだろって、ちょいとばかり連れから永遠の借金をしたはいいが、なんともならねえことに驚いた、間抜けな話だろ。一年経ってなお職なし宿なし文なしときてやがる。
 待て待て、そりゃねえよって憤ってみるも、何だかんだといってラバル地区(バリオチノ)の連中とつるんでたから、酒を煽っちゃボロ切れをまとい、潮風にまみれ、ランブラス通りの角っこで施しを受ける道ならあった」
 ロシオの住む地区は、ほそい路地が重なっているから真昼でも薄暗く、ごく最近まで治安がよくないと言われていた。ジブラルタル海峡を渡ってきたアフリカ移民、ベルリンの壁崩壊後の中東欧系移民、低所得高齢者、わたしのような貧乏学生、加えて今では〝変わり者〟に見られたい文化人や芸術家も住みついている。確かに、かつてピカソやミロが通ったという洒落たロンドンバルなんかもあるけれど、地元の人間には市内で唯一アブサンが飲めたり、追加料金なしでドラッグクイーンの舞台を見られるバルのほうが断然人気だ。
「しかしだな、当時のあたしはガリガリのちびで、腕っぷしに自信はあっても客引きに色気を出すなんざ考えられねえし、頭を地面にこすりつけるのも日ならず禿げそうだしで、平たく言うと、もっと楽に金がほしかった。楽に大金を稼ぐとなると行き着くところ、強盗あたりが望ましい」
 わたしは蜂蜜入りのカモミールティー(マンサニージャ)を淹れたところで、それを危うくこぼしそうになった。ロシオは構わず、煙の輪っかを悪戯に増やしている。
「四年前の冬、ある話に乗った。バルセロネタからほど近い画廊なんか、店主がたんまり金を貯めこんだ顔してるし、防犯設備もないから狙い目だぞ、おまえなら絵の目利きもできるだろって、頭が弱いくせに根も葉もない薀蓄を語る連中に誘われて、信用性は当然なきに等しいが、別段やることも金もないあたしには一周してやらない理由もなかった。
 消えかけの漢字で書かれた看板の、海沿いに位置するのに陰気で小さな、本当に陳腐な店だった。画廊じゃなくて骨董屋だったし。こんなところに金があるとは到底思えなかったが、酔いどれモレラの言うことに間違いはない、とか何とか連中は気の違った言葉をぶつぶつくり返してた。
 とりあえず、『タクシー・ドライバー』のデニーロが使ってたような本物のマグナム44を手渡されて、本物の重さや手触りを確認することもなく店に押し入り、仰天して即座に両手を挙げた店主へ向けて、試しに一発撃った。うしろの壁を狙ったつもりが、素人の弾はあらぬ方向へ飛び出して、ちゃちな精算機を間抜けな音つきで破壊したほか、なんとも不幸なことに店主の脚まで貫いた。およそ人間らしからぬ絶叫をあげる店主を見て、何を勝手に撃ってやがる、弾がもったいねえだろ、とかうざったいくらい意気込んでたはずの連中が、焦って怒鳴るもんだから、そんな半端な覚悟で何がやれるんだよって、弱腰のやつらに急に腹が立って。だから言い返したんだ、臆病者はだまってろよ、見ろ、レジも開いて一石二鳥じゃねえかって。ああ、札束は辛うじて入ってたよ。
 共産党の店主は涙してたが、あたしには何故だかちっとも痛そうに見えねえ。考えてみりゃ、かなり哀れな老人だよな、わたしはとても痛がっていますよって表情を実際してたし、泣いて血まみれにもなってたし。それでも、あたしにはどうしても痛そうに思えなかったんだ。まるで茶番だと思った。
 あんた、本当は痛くねえんだろ。
 そう訊いたら、店主はさらに泣いた。何故、何故わたしなんだって、情けなく嗚咽を漏らしながら、こぶしで壁をがんがん叩いてた、文字どおり必死で。これまでずっと神に尽くしてきたのに、何故こんな目に合わなければいけないんだって、血が噴き出してる脚を押さえて嘆きはじめる始末だ」
 どうしたもこうしたも、とロシオは鼻で笑う。
「そりゃ運が悪いからだ。神は不運を助けちゃくれない」
 平然と答えられるロシオは、常にどこか諦念があるというか、同年代より精神的に老けこんでいる面がある。何か目的を達成するために狡いことはしないけれど、メルキオールのように気分転換と称して脇道にそれる遠回りはもっとしない。根拠のないことは信じない。この国から法的に滞在を認めてもらえない居場所のなさからくる強迫観念のようなものが、ロシオにそうさせているのかもしれない。とはいっても、これが本当の話だとにわかには信じられるはずもない。わたしはマンサニージャのマグを両手で包んだまま、半分おとぎ話のようにロシオの物語りを聞いていた。
「脅しとったはした金と、選んだ数枚の絵画を強奪してとんずらしたあと、あたしは少なからず罪悪感に苛まれたもんで、連中と別れた足のままバルセロナ大聖堂へ向かった。その裏手にある王の広場の階段にもたれて堂々と煙草をふかしてる男が、大学に入ったばかりのメルキオールだった。
 アラゴン連合王国の征服王のごとき佇まいを見たとたん、あたしの良心は枯葉みたいに軽々と煙に巻かれて、まーまー悔い改めるのは次回でいいかと、眼鏡の優等生然としたあいつに声をかけたんだ、煙草を一本くれよって。
 最後の一本だけど。
 怪訝な顔して答えたメルキオールに、火を点けてもらってさ。あたしのブルゾンには、札束とマグナム44が入ったままで……日本の銘柄だろ、あのときのキャスター・フロンティア、くそ甘いチョコレート。あいつが日本に留学してすっぱり煙草をやめたのはさ、多分、おまえに合わせるためだよ」
 自分の長いのどを指差して、ロシオは言った。メルキオールがシャワーを出て、自分の部屋の扉を開けた音がする。
「本当なの」
 わたしは廊下のほうを気にしながら訊いた。
「どう思う」
 ロシオは青い目を細めた。
「わたしならいいと踏んで話してくれたんでしょ」
 告白された内容はどうあれ、ロシオがこうして自分のことを語る機会は珍しい。
「これが実際に起きたことで、それでもロシオがこのままにしておきたいなら誰にも言わない。でもさ、わたしはロシオがそれでいいって生きていけるような人だとは思えない」
 ロシオの薄い眉がほんの数秒だけゆがむ。それは注視していないとわからない程度のわずかな動きだったけれど、悲しい顔をさせてごめんと思わせるには十分だった。
「良いとか悪いとかよりも、自分がしたことを罪だと感じてるなら」
 わたしはロシオの左手首を、なるたけ不憫のない目で見ようとした。白い手首にある自傷の痕が、何時もロシオに母親のブレスレットを身につけさせている。ロシオの傷がいつからあるのかわからない。たとえ誰かの隠し事が見えたとしても、それを見ないでと本人が願っている限り、他人には見えないのと同じことだ。
「メルキオールと出会ってから二年後だな」とロシオは何十年も前のことのように言った。
「きれいなレストランで働かせてもらえるようになったのも。ピソも用意できたから、マドリードにいた父さんを呼んで世話ができてる。でも時々、給仕のほうから両手で屈めって言われる。その場に屈むと、今度はイグナシに、警察や、走れって急かされる。調理場を中腰で横切り、三メートル四方くらいの冷蔵庫の中に飛びこんだら、年若のユンロンが外から冷蔵室の扉を閉めてくれるって寸法だ。最初のうちは汗で濡れた体がひんやりして気持ちいいが、どんどん寒くなってくる、当たり前だよな。冷蔵庫の中で野菜やら卵やら生ハムに囲まれて震えながらさ、生ハムのかたまりと自分とのあいだに一体どれだけの違いが見出せるかって考える。職があるだけ天国だし、上司が中国系の紡績工場なんかケタ違いにひどい。もう少し待ちゃ、居住許可の申請(アライゴ)ができるかもしれねえが。
 若いときの苦労は買ってでもしろ、なんて言ったやつは誰だよ、馬鹿じゃねえの。食う金にも困るのに、苦労が売れるもんなら真っ先に売っ払うさ。自分より恵まれた人間を妬んで、他人の不幸を心のどこかでいつも望むようになってる。薄汚れたジプシー(ヒターノ)の物乞いがもらう小銭にすら、本気でちんけな嫉妬心がわく。脳も心もどんどん卑小になっていく。
 英語とカタルーニャ語の読み書きがさ、できるようになったんだよ。金と気力さえありゃ学ぶ権利もあるらしい。毎日を太陽のもとで過ごし、そのうえ多くの人間と何かを共有してる。でもどうなんだ、こんな日々が続くってありえるのかな」
 サルビアの水煙草を吹かしながら、現実をもろとも煙に巻いて消すようにロシオが言う。
「イベリコ豚とあたしの違いなんて、人間から外的苦痛を与えられたかどうかくらいだと思うんだよな」
 こんなことを平然とのたまうロシオに少しかちんときて、「イベリコ豚はイベリコ豚だよ、ロシオのような考え方をしない」と言い返す。ロシオは小さく笑った。
「イグナシが魚も鳥も四本足の動物も屠殺できること、知ってるか」
「本人の口から聞いたことあるわ」
 食べることが大好きだから、自分の手で殺せるものしか食べない、とイグナシは話していた。
「イグナシが鶏を屠殺したとき、首の骨が折れる音や最後の一声まで聞こえたな。イグナシは鳥の肺から食道まで、全部を料理しちまった。絞めたての鳥って別格なんだよ、生命力のあふれた味っていうかな、精一杯ちゃんと生きてきた命だから」
 イグナシはそういうやつだから、と話すロシオの表情はケチのつけようがない正当さと矛盾のない彼の生き方を、根っから拒絶しているようだった。事実、「それだけじゃねえが、実はあたしはあいつがちょっとばかり苦手でさ」とロシオは言う。
「〝何も知らない〟メルキオールを心から愛してる」
 盗らないで、とロシオの目が言うように見えるのは、わたしの負い目のせいだろうか。安心してほしい、わたしはメルキオールの装飾品みたいなものだから。わたしは自分を、彼の美に添えられた多くの中の消費すらされない一輪だと感じる。大事にされていても、決して手折られることのない礼儀を尽くされる。新しいレベルにはいけない。
 いやだな、取るに足らないちっぽけな悩みのはずなのに、どうして貧乏と失恋ってあんなにもつらいんだろう。
「もう少し我慢してりゃ、居場所だって見つけられたのに、漠々とした底辺すれすれの生活にうんざりしてさ、もう戻れやしねえところまで落ちてるんだよ。半端なままくだらねえ見栄張って、自棄になって、救いようもない屑に成りさがって最後にゃ人を殺したぜ」
 煙の出なくなったパイプが口から離れる。そろそろ行かねえと、と急くようなロシオを呼び止めてから、どうしようと硬直する。人を殺した、というロシオの言葉に混乱していた。ゴヤの『黒い絵』の巨人ふたりが激突したときの音を聞いたように、頭のなかで凶暴な音が響いている。床にマグごとマンサニージャをこぼしていることに気づく。本当なのかしら、いいや、こんなの嘘に決まっている。たとえ本当だとしても、わたしの内側以外に変化する事象があるとは思えない。イグナシなら、ロシオの人生と倫理を正確な天秤にかけられるのかもしれないけれど、わたしの決める価値は常に変動している。
「ロシオ、どうしたの」
 ようやく口をひらけるかというところで、バルセロナのユニフォーム姿に着替えたメルキオールが自室から出てきた。ロシオの肩に腕をからめ、蛍色の首すじに髪をうずめて隈の奥にくぼんだ目を閉じる。そうしているときのメルキオールは、目に見えない幸福が形を与えられたものに他ならない。
「どうもしねえよ、時間に遅れる」
 巻きついた腕をさすりながらも微笑まないロシオに、彼女がそういう気分ではないと判断したらしいメルキオールは、わたしが転がるマグを拾い上げるのを見下ろしてくる。わたしは慌てて目をそらし、濡れた床を拭きはじめる。視線を感じる。無性に恥ずかしい。
 わたしたちはロシオが好きだし、彼女を尊敬している。それは彼女が常に自分を律し、黙々と努力している姿を見ているからだ。どういう結果になろうとも彼女に拍手を送るだろうし、わたしはロシオを評価したい。


 三人で外に出ると、あちこちでホーンを鳴らす自動車や遠くで花火の音が聞こえていた。カム・ノウへ向かう大勢の人々は全員で歌をうたったり跳ねたりしながら赤と青のまとまりになり、嬉々としてスタジアムへ行進していく。

 バルセロナとエスパニョールの試合中、わたしたちは寒さも忘れていた。メルキオールもシャイメも集中して黙りこくる質だから、一七分一四秒のカタルーニャ独立チャントとキーパーへ野次を飛ばして舌打ちする以外、腕組みをしてスヌードに顔半分をうずめたまま微動だにしない。ロシオとわたしは何事もなかったように––実際に何事もなかったと言えるし、メッシの得点に拍手をして笑い、エスパニョール側の反則に怒り、四階席の高所から冗談を言いあいながらヒマワリの種を摘んでいた。
 帰り道にシャイメが、仕事中のイグナシのところへ寄って冷やかそうと提案した。週末で賑わう『ライエ』に意気揚々と乗りこんでいくシャイメを見送り、書架に囲まれたガラス張りの店内を覗きつつ、三人とも外で待っていた。案の定、多忙なイグナシは酔っ払いのシャイメなんかを相手にするどころではなくて邪険にされている。
 しばらくすると、シャイメではなく州警察らしき二人組が店内から出てきた。彼らは暗がりにいるわたしたちを見るなり、「居留証を見せて」と求めてきた。メルキオールがロシオを庇うように一歩前に出て自分の身分証(DNI)を提示し、わたしは滞在許可証(タルヘタ)を見せる。差し出す手がふるえる。
「ここの店で働いているね。きみの父親はすでに拘置されているぞ。過去に犯罪歴があるようだ」
 警官に労働許可証(タルヘタ)を要求され、メルキオールのうしろにいるロシオは口を噤んだ。わたしもざっと血の気が引いた。内蔵が全部ひっくり返って不安定に転がる。今さら『ライエ』内に通告者がいるわけもない。別の方面から情報を仕入れてきたのだろうか。どうしよう。これが不法就労じゃすまない件だったら、どうしよう!
 許可証を携帯していないなら連行するという警官に、メルキオールが臆面もなく答える。
「二人分の罰金(ムルタ)を払うよ。ぼくはカタルーニャ人で、卒業したら彼女と結婚するつもりだ」
 そりゃあいいね、と無感動の警官がうなずき、ロシオの青い目に涙がにじんだ。
 ねえ、こんなにも空しい愛の告白があるだろうか!
 愛によって書かれたものは滑稽にならざるを得ない、とペソアは詩にしたけれど、まるで『谷間の百合』の主人公が現在の恋人に宛てた、読むのに一週間かかる女々しい書簡のようだと思った。キャスター・フロンティアみたいに甘く、奇麗事と同じで、現実の生活上において無力に等しいどころか、もはや煙草のように心身に害を及ぼす。
「しかし、花嫁はドレスに見合うよう潔白でないと」
 警官の忠告に、メルキオールが不可解な面持ちでロシオを振り返る。俯いたロシオは、垂れた金髪の影で表情が見えない。
「何もなければ、三年間ここの労働市場に実質参入しているだけでも滞在を合法化できてしまう仕組みだよ、この国は」
 警官は比較的やさしく言う。わたしは手のふるえが止まらない。
「なんのこと」
 メルキオールが鋭い声を出す。
「もういいよ、わかってる」
 ようやくロシオが口を開いた。ひと回り大きな体を退けて、ロシオは警官の前に出る。ファイサルにガローテのことを訊いたら灰色の顔になったという、それは今のロシオと同じ顔なのかもしれない。
「なあ、ここはあんたらの土地なのか」
 ロシオが警官に向かって言う。二人組の警官は顔を見合わせる。
「ここはスペインだ」
 彼らはそう答えた。ここはカタルーニャだ、とメルキオールが小声で訂正する。
 要するにここは一体どこだろう。わたしたちは今どこにいるのだろう。〝ピレネーを越えるとアフリカ〟と言ったのはナポレオンだけど、古くからあるこの大雑把な認識がヨーロッパにおけるスペインの立ち位置を端的に物語っていると思う。事実、ピレネーを越えるとそこにもうフランスに見る絹のような田園風景はなく、峻険な山々の連なりと赤銅色をした大地という一転した風景が目の前に現れる。ロシオにもメルキオールにも、その野生と荒々しさが影のようについてまわる。
「あたしが言ってるのは、ここは誰の土地なのかってことだよ。スペイン人の土地か、それともカタルーニャ人の土地か。結局ここは誰の土地でもねえ、奪ったもん勝ちだ。それはあんたらが証明してきたんだろ」
 ふたりの警官はロシオを黙ってにらみつけている。メルキオールは険しい表情をしている。
「あたしたちは確かに紙なしだが、父さんはパキスタン人に混じってブタノ売りをして、プロパンガスをがんがん叩きながら、ピソの階段を重いボンベ肩に担いで毎日毎日のぼってた。ブタノ売りの前はここいらの石畳を直す仕事をしてた、剥がれた部分を修理するのに、一〇センチ角程度の石をひとつひとつ木槌ではめこむんだ。そういう仕事だったから、父さんは合法滞在のブルジョアなんかよりずっと、スペインの街の至るところまで知ってるぜ。父さんは本当に駄目な男だけど、スペインを一度は自分のもんにして、再度あんたらに侵略された、それだけのことなんだ。
 ローマ人はイベリア半島にきて原住民に何をした、植民都市の建設だよな。そんで、あんたらがイスラムに侵入されたときどうした、国土回復のためにピレネーからレコンキスタを実行したろ。新大陸発見前夜にカスティージャと一体化されたときどうした、収穫人戦争でカタルーニャ国家のもと戦ったろ。偉大なるスペイン帝国の王位継承に巻きこまれてハプスブルグ家を支持して、たとえ最後は無条件降伏でも、百人議会のカサノヴァは英雄になった。
 隣人の革命に付き合わされて自由主義の洗礼を受けようが、ナポレオンから王を送られようが立派に退けたし、レナシェンサは心底美しい。そこまでされても踏ん張って、都市改造して––セルダの拡張計画は素晴らしいよ。花の都なんて行ったことねえけど、きっと、そこよりずっとバルセロナは良い街なんだ。スペインとフランスの狭間で王政と中央政府に対抗しつづけて、スペイン市民戦争でファシズムに襲われたときも、どうしたんだよ、どこか帰る場所があったか、めそめそ出て行ったか、違うよな、踏ん張ったんだろ。圧政下で一番みじかな相手を疑って密告するような愚なんか、真っ平ごめんだ。オーウェルやヘミングウェイまで出てきてさ、欧州の連中に不干渉協定を結ばれても、身内の左右が衝突しあっても、フランコ政権下で長いこと言語や文化を封印された、そういう重苦しくて暗い時代があっても、ダリたちが描く地中海の突き抜けるような青さはいつも変わらない」
 メルキオールに背を向けたまま、ロシオは唖然とする警官の腰にある拳銃を素早く奪いとった。もう一人の警官がすぐに自分の銃を構える。
「光と影の対比がこの国だ、カタルーニャの正気と狂気もおんなじだ、あたしはカンデルの『もうひとりのカタルニア人』だ。生きて、最果ての土を踏むつもりはない」
 メルキオールとわたしは棒立ちになり、ロシオがしようとすることを止めもできずに見つめていた。ボケリア市場で照らし出されたラモン・カバウの刹那の表情をくり返し、彼女のすべては間違いなくメルキオールに向いていた。わたしはとなりのメルキオールを見上げた。両目が大きな手のひらに覆われた。メルキオールが叫んだ名前に重なる銃声を、直後に聞いた。


 メルキオールとわたしは「会いたいけれど会えない人がいるなら、ランブラス通りに行けばいい」と言い習わされてきた通りに立ち尽くしていた。足元を見ると、蟻の行列が日陰を避けては小さな塀の上にある日向の道を伝って餌を運んでいる。日向にいるか日陰にいるか、いったい誰がどのように選択するのだろう。白にも黒にもなるけれど、灰色のままじゃ光にも影にも入れない。そこの鳥屋で飼われている梟には、今のわたしたちの姿すら見えていない。振動しない眼が映せるのは、動いているものだけだ。日陰で立ち尽くすだけのわたしたちは、彼らにとって存在すらしないことになる。自分という存在、他者という存在もすべて感覚器官によって脳内に創造された幻影なのだとしたら、無意味が悪いだなんて誰が言える。

 ああ、ロシオの痕が雨に流されて、手もつなげない場所へ行ってしまう。