メルキオールとわたし T'estimo 愛してる

 

 もう夜も遅いから、食事が終わるとジセラたちは二階の寝室へ休みに上がった。わたしはロシオと同じ部屋をあてがってもらい、ロシオも先にシャワーを浴びにいく。わたしは暖炉の正面に向けられた椅子に座ったまま、胸のつかえがとれずにぼんやりしていたものだから、メルキオールたちが居間を出ることに気づくのが遅れてしまう。慌てて自分も離れようとしたところ、そのままいていいとメルキオールに言われる。

 特にいたいとも思っていないのに、行き場をなくして座り直し、頼りなく揺れる炎を見つめるしかない。こうして暖炉がひとつあれば、火を消したあとも熾火が残っているから家中の暖かさが長続きするらしい。
 階上から楽しげなメルキオールとロシオの話し声が聞こえてくる。
 火には浄化作用があるから魔を追い払えるんだ、とメルキオールが言っていたのを思い出す。
 何もないのよ、とにかく悪いことなんて。何もない、悪いことも良いことも。
 昔、わたしたちのアパートに福祉局の職員が育児放棄を疑って訪問したけれど、彼らが何を期待していたのかはともかく、家庭内で起こるいがみ合いや確執は、家族は温かいものだという幻想をいつまでも維持しようとして、くり返されているんじゃないだろうか。わたしたちは特に何もない関係だけど、共依存よりずっといい。家族のなかで孤独を知るからこそ、他人を求める自己になる過程が生まれるのだろうし、家庭をよりどころにする人生だとしたら、そのすべてを失った場合に一体どうやって生きていけばいいというのか。一六年前の震災のときにそうなった人々を目の当たりにしているから、自分もそうはなりたくないと思う。街のあちこちから火の手が上がり、ダリの『燃える女』のように焼ける人を目にした。当たり前のことを当たり前だと信じていた自分は、石を投げつけてやりたいほど、目障りで、弱々しい、無様な子どもだった。
 わたしにとって家族というものは、ゆくりなく血縁のある他人でしかない。それこそ、あの震災のような自然災害と思うくらいで丁度よかった。どうやったところでこれっぽっちも意思の疎通ができない相手に対してなら、仕方ないものとして受け入れられる。雨が降るたび、悪天候に果てしない憎悪をぶつける羽目になったら困るもの。もしくは、わたしたちのような親子は同質性が高すぎて、効率よく高速に意思の疎通ができるから、対話も何も発生しなかったのかもしれない。
 堪えていた涙がみじめに堰を切ってあふれ出し、もう無理だ、帰りたいと思ったけれど、そもそもわたしに帰る場所なんてどこにもない。
 沸いたような頭を垂れてみっともなく泣いていると、揺らめく炎とは反対に、のどの奥に焼けつくものも冷めてきた。中々いい感じに元どおりだわ。時計を見ると午前一時を回っている。よし明日からも元気にいこう、と常どおり不熱心に立ち上がったところで、階段を下りてきたメルキオールと目が合った。
「起きてたの」
 努めて無関心に訊いたら、メルキオールは面倒臭そうに、あー、と言い淀んだ。
「何、嫌なことあった?」
「いいことばかりだよ」
「じゃ、つまんない?」
「まさか、一緒に過ごせて嬉しい」
「もしかして、風邪?」
「最高に元気」
「ね、どして泣いてる」
 もう、訊かないで。
 質問に答えるほど、メルキオールに嘘を吐いているような気がしてくる。本当のはずなのに。暗い冬の夕方あたりの日陰よりもっと冷たくなり、光を底に凍らせてしまった陶器のような自分がいる。笑顔の温度も低くなる。


 メルキオールが日本にきた当初、どうしてアジア文化に興味があるのか、日本語を学ぶ理由を訊いたことがある。「よくわかんない」とメルキオールは素直に頭を傾げていた。「ぼくらと違う、本当に、逆しま、何もかも違うから。アジアの中で日本は、いちばん面白い方法してると思う」というのが主な理由らしい。今はね、とメルキオールはそこに付け足している。

「わからないからって、ずっとわからないままと限らない。日本では理解できないこと多いけど、言語と同じ、彼らのやり方を知りながら学んだら、どう使うか理由がつく。しょうがない? その言葉、人をゆるすときじゃなくて自分のために使っちゃうでしょ。今はまだわからないだけで、いつかわかるようになると、ぼくは思う」
 わかると思う、と当時のメルキオールはくり返していた。そんなこと言わないでよ、と当時のわたしは思っていた。何故って、原理的に人は理解しあえないのだ。人にとって真の共感や共苦はありえない。バベルの塔の物語で提示されるとおり、地球上で言語と環境をばらばらにされ、わかりあえないことを全体とした人と人とのコミュニケーションを形成している状態が〝世界〟であり、それぞれの場所で育まれた多様な言語や文化によって〝世界〟は成り立っている。生きてきた環境や文化的背景や折々の体験が、別々の自己を構築していくのだから、誰しもが自分の本当のことを誰にも伝えられないまま生きて死んでいくしかない。


「どうしてこんなによくしてくれるの?」

 最も不思議に感じていたことが口をついて出た。言いながら、わたしはこれ以上メルキオールに近づけないと感じていた。わたしたちのあいだには、大陸斜面のように傾斜の急な溝がある。スペイン人だとか日本人だとか、人種の違いなどとは別の、生まれながらの階級とすら思える決定的な海の壁がある。もっと言うと、人間は単純にふたつに分類される––わたしのような人間と、そうでない人間とに。
 こういう馬鹿げた線引きをしてしまう自分自身を、最低だと思う。『ライエ』でイグナシが言ったことは当たっていて、要するに、わたしは恋人でも親友でも両親でも、自分すら信じることができない人間なのだ。
「こんなによくしてもらっても、わたしは何も返せない」
 わたしが言うと、メルキオールは織り火に照らされて半分ほど影になった顔を、不機嫌というよりは考えに沈ませ、なで肩をすくめた。
「きみのそういう考え方、本当にわからない。ぼくの理解の範疇を超えてるよね」
 スペイン語に切り換えられる。やや迷惑そうな向こうの態度に、そんならどうして降りてきたのと、わたしもやや迷惑に思う。
「きみは時々、一方的なやさしさが過ぎて自己中心的だと思う。何でもかんでも自分の責任だと思って背負わないで。自分の生き方を人任せにしないで。
 世界中の戦争はきみのせい? バルセロナにあふれる物乞いを助けられないのも? カタルーニャが独立できないのも? サグラダ・ファミリアが未完成のままなのも? シャイメの大麻中毒もそうなわけ? まさか、自分の存在まで悪いとか思ってるの?
 違うよね、きみとは関係のないことでしょ。何もできないし、必要のないことまで心配しても仕方ない。きみひとりじゃどうにもできないことを、悪く思わないで」
「悪いとまでは……ただ単に、何も期待すべきじゃないとは思ってる」
 たとえば、人はよく知らない相手とも恋に落ちるのに、相手の心が正しく読めるようになったら大混乱するだろう。わかりあえない前提で、わかりあえないと認めあい、〝思いやる〟という自分の態度を示すのが関の山だ。相手の気持ちになってみろという言葉をよく聞くけれど、馬鹿だよ、なれるわけがない。そんなの当事者にならない限りわからないし、万一それが叶ったとしても同じ気持ちになるわけじゃない。親しさの純度が増したからといって、最後には以心伝心のごとくすべてを理解しあえることもない。
「バランスのこと考えなくていい」とメルキオールは日本語に切りかえる。
「ぼくが何かするときは、きみのせいじゃない、いつもきみのため。だって、ぼくのときも同じことしてくれるでしょう?」
 赤べこのように何度も頷くと、肩の荷をおろして笑う。こういうとき、メルキオールはいつも信頼を置いた笑顔にくるんだ声で、ゆっくりと、わたしの胸に確信を植えるようにして話す。
「何もしなくていい。きみはいていい人だ。ぼくらのため、ここにいてほしい」
 メルキオールの話す日本語が好きだ。矢のごとくまっすぐで、余計なものが何もない。一語一語が根をおろし、一面が青々とした水田のようになる。わたしの背中をなでる大きな手のぬくもりと同じものが、自分にもあればいいのにと思う。両手でも回りきらないメルキオールの背中にしがみつくと、いつも着ている寝巻きからオリーブの石鹸のにおいがする。


 メルキオールと日本にいたとき、ハウスの共同スペースで夕飯を食べながら、わたしの家族のこともつまびらかに尋ねられた。ほとほと困ったのを覚えている。というのも、そもそも当時の記憶をたどるのにかなり苦労したし、わたしのような同質性がものすごく低い相手との対話となると、メルキオールだって手間も労力も多分に必要になってくるだろうに。奇特な人だと戸惑いながら質問に答えた。どうしてそうなったの、きみはどう思ったの、と小さな空白の部分を拾いあげては遠慮なく投げてよこしてくるのだから、言われてみるとこんなこともあったなと、自分自身でも初めて思い出すことが多々あったし、何もかも言ってしまったことで、鏡の中の鏡を見るように奥へ奥へと引っぱられている重苦しさが減った気がした。

「家族のかたちって色々あるから」と最後にメルキオールは言ってくれた。「きみまで不幸になる必要ないと思うよ。彼らは自分で幸せになるだろうし、そうなるべきだ。第一、不幸も幸福も彼らが自分たちで決めることだから、きみが彼らの幸不幸をいちいち気に病む必要ないでしょ」
 そのときは一緒に料理をしていた時間も含め、半日かけて食事をしていた。たった一回の栄養補給のためにこれだけの時間をかけて、それをちっとも無駄だと思うどころか心身ともにたっぷりと満たされていることが、わたしの人生ではことさら鮮烈な出来事だった。料理は魔法だ。その日の献立は今でもよく覚えている––皮から作った水餃子のアヒージョ、お好み焼きのようなトルティージャ、焼き野菜(エスカリバーダ)の天ぷら、積み上げたアーモンド入りパンケーキ。


「いい言い方を教えてあげる」

 メルキオールが日本語で言う。
「タスティーム(T’estimo)」
 次にカタルーニャ語で言った。直訳すれば、他のロマンス語や英語と同じく〝あなたを評価する、尊重する〟の意味だという。それがカタランの〝愛してる〟だと教えてもらったとき、わたしは圧倒された。はじめて見たサグラダ・ファミリアの、光の洪水に眩暈がしたのと同じくらい驚嘆した。
 他のロマンス諸語の中で、カタルーニャ語は何世紀もかけて直訳できない〝愛する〟の語義をシフトしてきたから、カタランの人々だけが〝愛する〟の意味でestimarを使うようになったという。それでもう、わたしはカタルーニャ語を尊敬(estimar)してしまう。
 これってものすごいことだ!
 体の奥のほうが太陽を飲みこんだみたいに熱く、わたしの全身を炎のように燃え立たせる。曖昧模糊とした霞のなかに埋もれていたよくわからない実体が、黄金の太陽に照らされて影をともなう関係となり、ピーター・パンの影のように縫いつけられて、ようやく自分のものになった思いがした。
「ね、面白いでしょ」
 メルキオールが頭上で得意げにささやく。日常的には、人はわからないからこそ人と付き合うことができている。誰かを理解することは、わかりあえないという前提からはじまり、付き合いの過程で生じたり薄れたりをくり返すもので、それが不完全だからこそ、共生も共存もうみ出されるのかもしれない。それぐらい、自分と異なるものを受け入れるのは大変なのだ。メルキオールは、異質なものをできるだけ変えずに受け入れられる。
「好事家め」とわたしが言えば、メルキオールは舌を出してにやりとした。
「わかりあえなくても、このやり方なら良くない?」