メルキオールとわたし TIBIDABO あなたにすべてを捧げます

 


 アーモンドの花も散り、ロシオが言ったとおり、それでも月日は簡単に過ぎていく。しかも驚くほど無意味に。

 四月のサン・ジョルディの日、バルセロナのランブラス通りには本屋と花屋の露店商が軒を連ねている。イグナシがピソを訪ねてきて、わたしが扉を開けると同時に跪いた格好で飴細工の紅バラを差し出してきた。こういうところイグナシは本当に面白いから、こちらも負けじと庭改造番組で見違えた自分の庭を見た人みたいに、「まあ! お花が……」と口元に感動の手を当ててみる。本物の花束じゃなくて菓子を作るあたり彼らしい。
 見紛うことなき春だ、と甘い香りがする半透明のバラをながめて思う。
「セビージャの春祭りに来いひん? メルキオールも連れて」
 嫌いな冬が去って誰より春を楽しんでいるように見えるイグナシが、やぶれたソファに腰掛けながら言う。「おもろいで」と髭面の口をにんまりさせるイグナシを見てから、二ヶ月間ずっと自室にこもりきりのアラジンのことを考えると、余計に気が重い。
「あんな、おれなりにメルキオールのことは心配しとる、これでもな。おれやってロシオとは長い付き合いなわけやし、高いムルタ払うた支配人もこれで懲りたとは思うねん。タルヘタなしで働いてるん知りながら、ほんまに悪いことした言うて反省しとる。いくら恋人や言うても、あいつだけ人生あかんようになる理由はあらへんで、せやろ」
 わたしが空返事をするより先に、イグナシは呆れて物も言えないとばかりに肩をすくめた。ロシオの一件があり、イグナシも『ライエ』を辞職している。十のころから母親に倣って一七年もの料理経験を積んできたイグナシなら、次の働き先も見つかるだろう。落ちこんだ素振りは毛ほどもない。
「ロシオは生きとる、なんぼ怪我したいうても死にゃあせん。レアンドロとアルゼンチンに帰国して、数年間はスペインに入国禁止ってだけやろ。仰山いっぺんに失ったか知らんけど、数年経っても互いに好いとうなら、アルゼンチンでもカタルーニャでも日本でも、どこでもええわ、ふたりで達者に暮らしゃあええやん」
 イグナシは大体いつも正しい。時々正論がすぎてまわりから顰蹙を買う、彼のように強く生きられない人間のほうが世の中には多いから。イグナシは間違いなく間違いないのだけど、それがわからない人間を相手にしない。
「メルキオールと自分を一緒くたにしたらあかん」とイグナシは言う。「自分をいちばん大事にすべきちゃうんか。せやかて、自分のためになるかどうか判断するんは自分自身やろ。自分の人生に責任がとれるんも、自分しかおらんのやから」
 強引とも言えるドアノブの開け方でメルキオールの部屋に入り、半時間ほど散々カタルーニャ語で口論したあと、イグナシは「ほなまた来るわ」と剣呑さの欠片も残さず爽やかに出て行った。カタルーニャ語を使っていたのはわざとだ。そんな無用の配慮にすら腹が立つ。イグナシ自身、メルキオールの愚かさに納得できるはずもなくて、それでも本人が考え抜いた末にああも腑抜けているのなら止める権利は誰にもない、というのが愚行権から導き出される論理的必然らしいから、あそこまでしか無理強いできない。
 ロシオが本当に人を殺したのか、本当に強盗なんかに関与したのか、わたしは事実関係を正確に把握していない。全部が事実かもしれないし、ところどころ嘘や誇張が混じっているかもしれない。そもそも、まるきりロシオの法螺話という可能性だってある。結局、警察はレアンドロと同じく単なる不法滞在者としてロシオを捜していたのだ。本当に何もしていないなら、強制送還はされない。国外追放令が出ても、最悪それすら無視してしまえる。
 あのときロシオは何かを確信し、自分の頭を撃ち抜こうとしたのだろう。その後、目の前の警官に拳銃ごと取り押さえられてしまい、紙一重で自ら絶とうとした命をとりとめた。警官が突進した拍子に軌道の逸れた弾は、ロシオの血の通った右耳を粉砕していった。メルキオールとわたしは気を失ったロシオに駆けより、名前を呼び、彼女の体をまるで神への捧げものか何かのように持てあまし、到着した救急車に担架の上のロシオを追って乗りこんだ。何も考えられずに、無声映画のスクリーンを見つめているように、店内から飛び出してきたシャイメとイグナシの青白い顔が遠のいていくのを車上から見送った。
 メルキオールと手をつなぎ、病院の長椅子に夜中じゅう座っていた。ロシオの顔を見るより先に、彼女を止めてくれた二人組の警官に事情を聞かれたけれど、マントルピースの写真から出てきたような〝良い子〟を演じるメルキオールが、真実よりも辻褄の合う出任せを口にして事実のようにしてしまうと、案外すんなりと用なしになった。メルキオールは〝良い子〟のあと完全な能面になり、握られた手の熱を感じなければとなりにいるのかどうかも怪しいくらい透明な存在だった。
 唯一の慰めは、負傷したロシオがちゃんとした施設に入院して治療を受けられたことだろう。この二ヶ月間、わたしもロシオを見舞いに行ったり、イグナシと市庁舎の無料弁護士を訪問したり、レアンドロたちの荷物を整理したりをくり返して忙しくしていたけれど、全部が片づいてしまったら、自分は大事な友人の不在に塞ぎこむのだろうかと思いきや、ものすごい虚脱感だけが日に日に襲ってくる。
 ロシオの両親は、ブエノスアイレスの南端にあるスラム地区で労働司祭をしていたらしい。レアンドロが突然コカイン密輸の罪をなすりつけられたこと、母親が精神を病んでしまったことから祖国を離れることにした、と一度だけ面会できたレアンドロから聞いた。ロシオに申し訳ないと泣いていた。出来る限りのことはしたと思う。彼らの暮らし向きが良くなることを祈るしかない。
 今や不自由なロシオの小さい右耳は、紙をくしゃくしゃに丸めたようになっている。ぐっと上半身をよせながら左耳に集中し、わたしの声をちゃんと聞きとろうとするロシオを見ていると、真偽を確かめるのも何だか躊躇われた。あの日どうして、わたしにあんな話をしたの。どう尋ねてみても非難がましく聞こえやしないだろうか。ロシオもロシオでこちらから質問しないと何も言おうとしない。片耳が聞こえないせいもあるのだろう。それでも、はちきれんばかりだった生気が土砂降りの雨のせいで洗い流されてしまったように音も立てず、ベッドの上にひっそりと座り、じっと静かにしている儚い彼女はまるで別人だった。
 メルキオールはもともとある隈が年寄りのように深くなり、このままいくと目玉が落ちこんでしまうんじゃないかと心配にすらなる。中央アジア出身のムラートと昨日の夜遅くまで酒を飲んだ、と起きしなに欠伸をしている。
「安物のウォッカを一瓶ずつ割らずに飲んだあと、ランブラス通りの四つ星ホテルに忍びこんでさ、三階の長い廊下の隅っこにある物置部屋に、ふたりで立ち小便して帰ってきた」
 最低だな、と自分で吐き捨てた。
 そうね、最低だと思う、小便がというわけじゃなくて。
 ロシオの術後、右耳を覆うように頭から包帯を巻かれて眠る彼女を病室で見たとき、生きていてくれたことを心から感謝した。ロシオの正常な寝息と血色を確認するなり、それまでの緊張がほどけて泣いてしまったのだけど、となりにいたメルキオールの反応を見て涙は一気にひっこんだ。
「どして泣くの」と思いきり眉をひそめられたのだ。失聴した恋人を目の前にしながら完全に白けていた上、「どこか悪いの」とわたしのほうを心配してくるものだから、この人は本当に理解していないんだ、とわかってぎょっとした。
「メルキオールのほうこそ、どうかしたの」
「なんで」
 小鳥のように首をかしげられて、わたしは二の句がつげなかった。ロシオが生きていて良かったね、ともしも言っていたら、あのときのメルキオールは一体どう答えたのだろうか。
 イグナシとわたしがロシオたちのピソの整理をしたり、弁護士と話したりしていたころ、メルキオールは実に役立たずだった。ロシオがへし折りたくなると零していたウィーザーのアルバムのほうが、音楽として聴ける分ずっと役に立つ。ふたりが帰国する日まで、やつなりの準備のためか移民法や何やら調べていたけれど、わたしは司法や行政とロシオのことは完全に別問題だと思う。
「法律書ってつまらない」
 読み終えた本を放り投げ、メルキオールは舌打ちしていた。あまり食べないし、誰とも寝ない。ロシオのところへも初日の一度しか行っていないという。もとから帰属意識が薄くて、生活感がほとんどなかったのに、もはや自分の体すら大事にしていない。インターン先へ行くのも退屈そうだし、自分にとって気持ちいいことを何ひとつしようとしないのだ。二ヶ月間ずっとこんな感じ、心がどこかへ先走りすぎて、現世にある体のことなんて忘れてしまっている。
 こんなのメルキオールじゃない。こんなのロシオじゃない。声高に叫び、思いきり地団駄を踏みたくなっても、そんなら一体どんなのが本当の彼らだと自分に定義できるのか、ちっともわからない。個人主義の考えから一般道徳や倫理は導き出せない、とはイグナシお得意の弁で、そんなものは結局のところ誰かの都合で生み出されたものでしかないからだ、と嫌いなニーチェあたりも書いていたように記憶している。


 唯一つつがなくある大学の授業を終えて、今日は仕事もないしと早めに帰宅したところ、玄関の前でシャイメと鉢合わせた。日暮れ前から酒臭いシャイメは見知らぬ二人連れで、部屋に入るなり扉の鍵をきっちり閉めたことを確認し––どうせ部屋の窓は全開なのだろうけど、わたしに訊く。

「ハシシあるよ」
「要らない」
 わたしは苛々していた。彼らは煙草と混ぜて紙で巻いたお粗末なハシシを吸いつつ、室内なのだからそんな必要もないのに、わざわざ小声で話している。馬鹿みたい。シャイメが大事そうに小さく包んだ白い粉を出し、もう一人が広げた一〇センチ四方ほどの銀紙の上にその粉をすこしずつ乗せていた。そこへメルキオールがやって来て、当然のように輪の中に入る。
「その白いの何なの」
「ヘロイン、きみも吸う?」
 わたしの刺々しい声を聞いても、メルキオールは横目で一瞥するだけだった。マキネッタみたいに沸騰した頭に、コーヒーより熱い血がのぼり、こいつ殴ってやろうかと腕を振りあげるも、こんなくだらないものにしか気持ちいいことを見出せない哀れさを思うと、心底から同情して平手もとまる。
「メルキオールのばか(Etúpido)ばか(Idiota)ばか(Tontito)ばか(Imbécil)ばか(Capullo)ばか(Gilipollas)!」
 覚えている限りの罵り言葉をやつに浴びせてから、わたしはドラッグや煙草のせいで煙った空気の悪い居間を出た。日本語だとあまり思いつかないけれど、スペイン語には悪たれ口が山ほどある。灰色の目をまんまるにして、貴重なヘロインを床にこぼしているメルキオールの顔を見下ろし、いい気味よと思った。のどがひりひり痛い。
 夜中にシャイメの二人連れは、ロシオが二ヶ月も前にミルクカートンに入れたままのカスタードを食べてしまい、立て付けの悪い中庭の窓から首を突き出して腐ったカスタードを吐き出したあと、どなり散らしながら帰っていった。吊るした洗濯物を夕べのうちに取りこんでいなければ、悲惨なことになっていただろう。
 時々、ロシオとレアンドロの不法滞在を通告したのは、シャイメなんじゃないかと疑ってしまう。それくらいシャイメは裏にも表にも顔がきくし、最近やたらと羽振りがいい。本人の体だって心配だ、大麻だけならまだいいけれど。
 メルキオールは一晩中トイレで吐きつづけながら、冷たいタイルの上にくずおれ、あれこれと泣き言を言っていた。
「百合色のきれいな髪が台無しだった。冷たい顔の右半分に血がべったりして、もう、ぼくの手のひらに収まりきらないんだ。ぼくは自分が泣けていないのに気づいてた––はたから見ると笑えないのに、ぼくは恐らく笑うことすらできたと思う––駄目なんだ、ちくしょう、もうわかんないよ。彼女を抱えるとき、青いエナメル革のメリージェーンが片方だけ落っこちてさ、ぼくは彼女に話しかけてるんだ、間抜けなんだけど、落としてごめんよって。もう一方の自分は、だったら今さら何なんだよってうんざりしてる。足首からひっ掴んでも、裸足にして連れてっても変わんないじゃないか、あんな––」
「やめてよ、ロシオは死んだわけじゃない」
 たまらず責めるように言うと、メルキオールはひきつるように奇妙な笑いを便器に落とした。
「ね、ぼくがやったいちばん残酷なこと、何だか知ってる?」
「知らない」
 それきりメルキオールは黙りこむ、小刻みに吐いてはいるけれど。
 シャイメが夜更けにどこかへ出掛けていった。扉の音でわかる。居間のテーブルにはハシシのたぐいと本物のチョコレートとが一緒くたに散乱したまま、使い古されたラップトップからアラブ音楽が垂れ流しになっている。音楽もヘロインの効果も朝もやの中へ消えてしまうころ、メルキオールは歯をがちがち鳴らしながら、自室の毛布にくるまって震えはじめた。
「ベランダから通りが見えるでしょ」
 開いた扉から部屋をのぞくと、じっとりとした赤い目をして手招きしてくる。わたしはメルキオールのほうへ行かず、古いベネチアンブラインドと掃き出し窓を開けてベランダに出た。午前五時、まだまだ暗い。
「夜のあいだ、そこにひと組の恋人がいてさ、往来で言い争ってる姿がテレノベラの役でも演じてるみたいだったよ。有名になんてなれっこないから、せめて『エル・コル・デ・ラ・シウタ』に出てる感じで口喧嘩するしか脳がない。あいつらの人生そのものが、あまりに惨めで虚しくて空っぽで、くそみたいに最低だから。テレノベラの薄っぺらな登場人物に似てるって言われるほうが、まだ嬉しいよね」
「なるほど、自分のこと話してるの」
 わたしが少しでも皮肉ると毛布の殻に逃げる、ものすごく質が悪い。こんな自分たちよりも、一〇年間毎日欠かさずドラマを盛り上げていた登場人物たちのほうが、断然いいに決まっている。サフォンの小説に出てきそうな霧が立ちこめていて、表の景色はよく見えない。肌寒さに肩のブランケットをはおり直す。
「ロシオは売春婦(プータ)だ」
 メルキオールが言った。サッカーの試合中の言い争いで口に出したら、一発退場になるくらい強い侮辱の言葉だ。わたしはベランダから部屋に戻り、メルキオール入りの毛布のまるまりを、ボールをそうするくらいの力で蹴りあげた。うぐう、という呻き声のあと、今度はメルキオールのほうから容赦ない足払いがきて、あえなく転倒する。メルキオールのベッドは床に直にマットレスを敷いた日本式だから、ベッドの上でもシーツ越しに背中を打ちつけて痛かった。目を開けると、鼻先に土気色の顔がある。
「何故って、彼女は人を殺したろ」
 本当に言われたのかどうか、目の前にある唇が少しも動いていないように見えたから、はじめはわからなかった。灰色の目だけを使って言ったのかとも思えた。自分の言葉も眠気も消え失せて、心臓が容赦なく掴み出されたように、冷たい外気に曝されているのを感じる。
 なんで知ってるの、どこで聞いたの。
 もう言葉にしなくても聞こえているに違いない。
「カム・ノウにいく前、ふたりで話してたでしょ。全部は聞いてないよ、最後のほうだけ。その時点じゃ冗談だろって笑えたけどね、警察のひと言を聞いて、銃を構えた彼女の顔––ぼくのもとを去ろうとする、あのときの彼女の表情ったらもう、刹那に、膨大な量の……」
 メルキオールは言いつぐむ。わたしたちは向かい合わせに寝転がったまま、「わたしは嘘だと思う」と「ぼくは本当だと思う」を無言でやりとりした。もう正直どちらでも同じことだろうと思った。法律とか道徳とか、社会で生きる限り本来外れてはいけないものを、わたしたちは問題にしていない。
「きっと彼女は、あの行為で何かしらの罪を許されようとしたんだろうし、それを〝最後に〟ぼくに見せたかったんじゃないかと思う。そしたら自由の身だろって身の潔白を主張したかったのかも……ぼくにもその気持ちは理解できるし、頭のなかで整理もできている。それでもさ、あのとき結果的には目論見が失敗しているとしても、ぼくと永遠に離れることが彼女にとって〝最後の〟選択だったわけ。事件の真相なんか、それに比べたらどうでもいい。ともかく、あの日の光景がぼくには信じられなかったし、今でも信じたくはない。信じることと理解することはさ、別次元の問題でしょ」
 両手のピースサインを折り曲げて〝最後〟の部分にかぶせてくる、メルキオールの辛辣な皮肉にくらくらする。自分自身の罪悪感から目をそらし、穢れは災い、鎮魂すべきものと、事が起こるたびに神社を建立してきた日本人の直視できないような弱さを、窮屈な島を出てからはじめて目にしたかもしれない。
「案外やっていけるわ」
 わたしは言う。どうしてこうも普通に暮らしていけるのかと自分でも白けてしまうけれど、人は都合よく物事を処理して現実に対応していく。それは別段、誰それが悪いとかひどいとかそういうことではなく、わたしたちの摂理なのだろう。悲しみを背負ったまま人は生きていけない。
「じゃ、教えてよ」
 わたしの上に乗っかりながら、メルキオールが鼻で笑う。口づけられて、いやな笑い方だ。
「ほら、靴を玄関に片方ずつ落として、タイツを脱いで、青いドレスも一枚一枚丁寧に剥がしていくと、その子は五月の太陽のブレスレットだけになるんだ。ベッドに運んでキスするあいだ、その子の箒のような髪の束から、いつも蜂蜜とカモミールの香りがしてた」
 そんなふうにさせてくれるの、だって! さすがに失望して見限ってもいい程度の頃合いだろうけども、さして本気でないことが見え透いているから、こちらとしてもやる気が起きない。そんな観念した顔をして言うようなことじゃない。見ているほうが居たたまれなくなる。
「思い出のロシオのかわりはいないわ」
「思い出なんて単なる情報でしょ」
 ひねた返事に、薬は完全に抜けたのだろうと思う。ロシオはさ、とメルキオールは息を吐く。
「ぼくを確かに愛してくれてたよ。同時に長い夢のようなバカンスと同じで、ぼくと一緒に生きようと本心から思っちゃいなかった。わかってる、ぼくの決断が遅すぎたせいだって」
 メルキオールの重さがようやく退く。わたしの真横に倒れたメルキオールは、両手のひらの付け根をこめかみに押しあてると、きつく目を閉じた。
「ぼくは自分の頭がばらばらにならないよう、どうにか抑えつけてる。自分の肌と、殻を。アルモドバルの映画みたいに、身近な人間にも盗られないよう。そうすると、自分の内側にどんどん墜落していく感じで、それは外からじゃ見えないんだろうけど」
 それから服をめくり、自分の胸と中腹のあたりを指して、わたしの背後にくっつくように抱きついてきた。汗と反吐のにおいがする。そんなことをされても何も見えやしない。メルキオールの中身なら、以前に目玉の血管を覗いたときのほうがよく見えた。わたしたちの距離は今のところゼロで、つまり時差も完璧にゼロという時間のなか、果たして何を共有しているかといえば、騒音と汚れと色彩と轟音のバルセロナの数学的な対極のごとく、こうして怠けてくさっている。
 権利や自由があるのに馬鹿げたことをするな、とケーキを分けてくれたロシオのことが思い出される。もっと体のために建設的なことをしようと我に返り、「山まで走ろう」が即座に出たひと言だった。ぼんやり頷くメルキオールの重い体をしゃんとさせて、散らかり放題のピソを出る。


 朝日を浴びてしまうと、これまでの体たらくが白昼夢のように足取りは軽くなった。久しぶりの自転車に乗ってティビダボ山まで走りに行く。春の陽気を感じながら、メルキオールとわたしは並んで一気に坂をくだる。まわりには一九世紀末の産業ブルジョアジーの豪邸が建ち並び、百有余年の時を経てバルセロナがモデルニスモ建築で華やいだ当時をしのばせる。当時から運行されている路面電車と対面し、アールヌーボーの建物を横目に流していく。

 メルキオールはぐっと両手に力をこめると、のぼり坂を立って漕ぎ出した。てっぺんの向こう側は、坂道の途中からだと見えない。そこにあるものを目指し、夢中で坂をのぼっていく。
 バルセロナから抜けるトンネルを出ると、フニクラというティビダボ山行きの登山電車の駅があり、長い坂道を登った先にサグラット・コール教会が見える。ティビダボ山には、万里の長城のローラーコースターに匹敵する、奇妙な空中遊園地が併設されている。異様に遅さで回転する飛行機やメリーゴーラウンドは、百年の歴史と何かしらの最果てを物語っているようだ。
 メルキオールとわたしは、折衷様式の教会の頂部にある黄金に塗られたキリスト像を見上げた。聖堂を通りぬけて外壁伝いの長い長いカタツムリ階段を上っていけば、風が立ち、無重力の音を出して踊りはじめる。気持ちいい。
「ティビダボの由来、教えたっけ」
 うしろから不意に、メルキオールが向かい風に逆らって訊いてきた。わたしは振り向かずに首を横にふる。
「ラテン語で〝すべてを捧げる〟という意味だ」
 もうほとんど叫ぶくらい、メルキオールは声を張りあげてきた。眼下に広がるバルセロナをおまえにやると、キリストを誘惑した悪魔の逸話から来ているという。尖塔のてっぺんまで上りきってから振り返ると、もうすぐ追いつきそうなメルキオールがいる。太陽が低く照って明るい。目の隈は昨夜ほど深くない。メルキオールにあいた『シュールの天使』の穴のようなものも、今なら見える気がした。
 ひとりずつしか往き来できないドーナツ型の展望台から、メルキオールとわたしはバルセロナの街を見下ろした。青空につづく地中海と、街の終わりまで同時に見渡せるティビダボ山を、わたしはとても気に入っている。古くから地中海貿易の要衝として発展してきた街は、背後にピレネー山脈をいだき、独自の文化を雄大な山海のあいだに凝縮するように築いてきた。それが全部ここから見える。
「昔の人々は、免罪符なんて得体の知れないものを求めて、こういう教会に大金を献上していたんだけど」
 無神論者のメルキオールが、水平線を見つめたまま口を開く。
「ぼくには、その気持ちがわからなくもない。というのもさ、金や書面っていうのは大体において最終的に何も残らないし、そんな紙切れくらいで〝罪〟とやらが許されるんなら、いくらでもくれてやる。それが単なる欺瞞とか自己満足だったとしても、どうせ生きている内が華だ。たとえ思いこみだろうと、棺桶までは何も持っていけない––それが罪の意識なら、ことさらに」
 ロシオが入管に移されたとき、長椅子に座る彼女は完全に打ちのめされてしまい、こなごなに壊れていた。羽音のような音がロシオの内側から聞こえてきて、それは多分、メルキオールと同じ穴から漏れ出していたのだろう。
「ぼくは言ったんだ、病室の彼女に向かって」
 メルキオールが胸元の手摺りを握りしめる。わたしは台の上に乗っていて、握りしめられた大きな拳の、薄皮一枚下で動く白い骨と青い血管を見つめる。
「清潔なガーゼをあてた右耳のほうは、見ないようにしてた。しかもこれは、彼女は、ぼくの四年来の恋人で。ぼくは、そう、彼女が大好きで。なのに、ぼくは彼女に向かって言ったんだ」
 無言になる。わたしは返事のかわりに手を握る。
 未来にある原因が過去にある結果をつくりだす。メルキオールは以前そう話していたけれど、今の言動が、過去の事象のイメージを結果として変えてしまうこともあるんだろうか。メルキオールがした〝いちばん残酷なこと〟がロシオとのことを何か不仕合わせなものにしてしまっても、そんなの単に脳内の認識の変化にすぎないのだけど、それをもとに戻すとなったら多分とんでもなく難しい。
「ごめん」
 メルキオールが日本語で謝る。
「何が」
「学校」
 忘れてたでしょ、と呆れたようなメルキオールの顔に向けて「いいよ」と舌を出す。これで二回目だ。
「ごめん、きみにしたひどいこと全部」
 春先の一日中低い太陽は、もう山のそばへ近づきはじめていて、うすい雲の裾を桜貝みたいな色に染めていく。水平線との境界はとても繊細で、まるで地球の球体をとりまくフィルムのようだ。太陽が沈んだ直後の一時だけ、光と影の国もその境目を失う。